1.Mに問う声

真夏日と熱帯夜が、耐え難いまでに連続したころ。

その日、初めて会社をさぼった。
午前九時に目覚めた私は会社へ電話を入れた。私の勤める会社は小さな広告代理店なので、むろん交換手などはいない。思っていた通り学生アルバイトの木村が、眠そうな声で受話器を取った。
「どうしたの。徹夜」
「当然でしょう。あんたは怒って帰っちゃうんだから。俺が徹夜しなければ、あのポスターは印刷に回りませんよ」

昨日私は、くだらないことで課長と対立した。れっきとしたデザイナーの私が事務屋の課長に、制作現場での決定にとやかく言われる筋合いはないと思ったからだ。
「締め切りに間に合わないと思って電話を入れたんですか。確かに、あんたの気持ちは分からなくはないけど、きっと今日は休むんでしょう」
「ずいぶん分かりが早いじゃない」
「当たり前ですよ。でも、課長も最低ですよね。いくら居酒屋のポスターだからといって”暖まります”というあんたのコピーを”やはり冷たい方がいい”なんてコピーに直せだなんて。利ざやの多い冷酒の方を売りたいだろうからなんて言たって、ふざけた話ですよ。だいいち季節感がない。秋冬用のポスターって事が分かっちゃいないんですよ」
「まあとにかく、私のデザインで印刷に回せるようにしてくれたのね。ありがと。あなたの見込み通り私は今日休みにするから、後はよろしくやっといてよ」
「そんなこと言ったって俺は、あんたがいなけりゃ課長の言いなりになっちゃいますからね」と言う木村の言葉を最後までは聞かず、コードレスの電話をベットに横たわったままサイドテーブルに戻した。

私はベットの上で、ばかばかしい記憶を振り払うように大きく一つ深呼吸をした。
とにかく今日、私はオフなのだと自分に納得させるようにうなずき、大きく伸びをしてからゆっくり起き上がった。

ベットから元気よく立って行ってカーテンを開ける。薄暗かった部屋に一瞬のうちに光が満ち、私は目をしょぼしょぼさせた。
眩しさに霞む目で、窓越しに外の景色を見下ろす。
私の住む十三階建ての公営住宅の、最上階からは小さく見える街路にも児童公園にも人の姿はない。通勤時間を過ぎたこの時刻は、男たちを、子供たちを、勤めを持つ女たちを、そして散歩に出掛ける老人たちを、すべて送り出してしまった後の静けさと倦怠が、安らぎという女性名詞となって支配しているようだ。そんな感慨を持つのも、初めて仕事をさぼったキャリアウーマンの感傷かと思うと、何となく情けない気分になる。
静けさの中で建物に満ちた気配を探っていた耳に、エアコンのノイズだけが規則正しく聞こえて来る。

そのとき、ノイズに混じって微かにヴァイオリンの調べが聴こえた。驚いて耳を澄ますと、私の大好きなバッハの旋律が窓ガラスの向こうから流れて来る。反射的に窓を開けると、むっとする湿った熱気が顔を包んだ。
熱い外気の中でいくらか鮮明になったヴァイオリンの音色は、窓越しに聴いたときより、はるか下の方から響いて来る。窓から身を乗り出すようにして見下ろしてみたが、目に映る歩道にも児童公園にも人影はない。公園の中央に聳えるケヤキの張り出した梢越しに数脚のベンチが見えるが、人の姿までは確認できなかった。
ヴァイオリンの澄んだ音色は風の向きにでもよるのか、幾分聴き取りやすくなったかと思うとまた微かな音量に戻る。曲は私の好きな「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」の第一番。

私は居ても立ってもいられなくなり、階下へ飛び出そうとパジャマを脱いだ。それほどヴァイオリンの調べはすばらしく、私の好奇心を刺激していた。
私は裸のままジーンズに足を突っ込み、素肌の上にTシャツを着て、玄関の隅に転がっていたスニーカーを突っ掛けて部屋を飛び出した。ちょうど待機していたエレベーターに飛び込み一階のボタンを押す。このエレベーターは全く遅い。いらいらしながら足踏みを続け、一階のドアが開くと同時に児童公園へと走る。日ごろの運動不足がたたり、ケヤキの下に着いたときはもう息切れがしていた。両膝に手を置き、身体を折って息を整えながら注意深く辺りを見回す。全身から噴き出た汗が、私の身体をどこかに押し流してしまいそうだ。

既にヴァイオリンの音色は絶えてしまい、虚ろな目で周囲を見回す私の目には誰一人見えない。

「バッハがお好きなのですか」

背後から唐突に声が聞こえた。熱い大気が静けさと溶け込んだ中で、凛としてよく通るバリトンだった。びっくりして居住まいを正しながら振り返ると、逆光になったケヤキの幹を回って黒いシルエットになった人影が、私の視界に入って来た。
居住まいを正すといっても、ほとんど裸の上に布きれをまとっただけの私に何もすることはなかったが、ただ心構えだけを整えシルエットの男を迎えた。
「すばらしい音色でしょう。心が洗われるようだ。今日はパルティータが聴きたくて来てみたのですが、ソナタだけでしたね。ちょっと残念でした。それに、気が乗らないと、さっきみたいに途中でやめてしまうのですから。全く困ったもんです」
「あなたは、ヴァイオリンを弾いていた方をご存じなんですか」
「ええ、知っていますよ。素敵な少女が弾いていたんです。可哀想に彼女は精神を病んでいるのですよ。彼女の音楽は向こうの世界から鳴り響いて来る音色なのです。まるで、こちらの世界に住むものを、あちらへと誘っているように聴こえる。誘惑の罠のようなものです。きっとあなたも、そんな悪戯に魅了されて、息を切らせて駆け付けたのではありませんか」

肩で息を切らせながら私は、ゆったりとしたバリトンに図星を指された感情を、そのまま認める気にはなれなかった。
私は身構えて、黒いシルエットの男にできるだけ低い声で言った。

「貴重な情報を聞かせていただいて大変ありがたいのですが、見ず知らずの私に演奏者のプライベートのことまでお話になるのは、いかがなことかと思います。正直言って、あまり愉快なことではありません」
黒い影になった顔の中で白い歯が覗き、男が声もなく笑ったように見えた。気まずい沈黙があり、私はじっと男に見つめられているように感じられたが、黒い影となった男の目を確かめることができない。
微かに両肩をすくめ、一呼吸おいてから私に背中を向けた男は、ゆっくりと歩み去って行った。

私は、男の視線が張り付いていたように感じられた胸元に視線を落とした。汗に濡れたTシャツから両の乳首がはっきりと透けて見える。私は、むせ返るほどの暑さの中で全身がかっと熱くなり、とたんに反転し、冷たい汗が流れ出るのを感じた。
慌てて木陰を飛び出し、男が去った方向を見たが既に人影もなく、児童公園の外へと延びたアスファルトの街路には、ゆらゆらとした陽炎が立っているだけだった。

あの男は私に、何を伝えたかったのだろうか。
偶然聴き取ったバッハと鋭く反応した私。演奏者とその状態を知り私に告げた男。そして多分、男が見つめていた私の胸。
奇妙なことの続いたこの日の朝、熱い日差しに炙られながら私は、会社をさぼった罰を、熱く冷たい汗に濡れそぼって十分味わっていた。


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