2.富士見荘

鉄道高架に沿って安酒場が並ぶ歓楽街の外れの一画をMGFが走っていく。一帯は市の区画整理事業の対象になっていたが、まだ手も着けられていない。古い家屋を取り壊した跡の狭い空き地が所々に目立つ。高架をくぐり抜けた所で右手の路地に入った。路地は煤ぼけた家並みに挟まれ、かろうじて車が乗り入れられるだけの道幅しかない。地図を片手に進路を指示した祐子の肩が緊張している。これまで足を踏み入れたこともない地区の荒涼とした雰囲気が不安を与えている様子だ。路地の奥の行き止まりになった小さな広場に白い軽自動車が止まっていた。その自動車を上から圧するように、二層の反り返った瓦屋根が覆い被さっている。屋根の高さは隣りに背を向けて建つ四階建てのコンクリートビルに負けない。木造三階建ての巨大な建築物は正午の日を浴びて微睡んでいるように見えた。

「天田さんが来てくれているわ」
軒先の暗がりにたたずむ天田を認めて緊張の取れた祐子の声が車内に響いた。
「お帰りM。祐子ちゃん、お疲れさま」
MG・Fに近寄ってきた天田が気安く声を掛けた。Mと祐子は黙って車を降りる。木造三階建ての異様な建築物にじっと目をやったままだ。
「この建物が富士見荘。Mの新居だ。とにかく安い。月五千円というわけにはいかないが六千五百円で手を打ってもらった。掘り出し物さ」
胸を張って天田が言った。相変わらず抜け目のない身ごなしだが、腰の回りとウエストのたるみが目立つ。
「ありがとう。気に入ったわ。私にぴったりの新居よ」
幾分の自嘲を込めてMが答えた。
「気に入ってくれてよかった。今の俺はMの義弟みたいなもんだから、喜んでくれてほっとしたよ。実は、富士見荘のことはチーフに話してないんだ。家賃のことだけ言ってある。見てのとおり、ここは元の遊郭だ。遊郭の跡にMが住むとは、さすがに俺も言い出せなかった。非常識だと怒鳴りつけられてしまう。でも、Mは相変わらず色っぽいよ。この遊郭が一番盛んだったときに入居してもナンバー・ワンのお女郎さんになれたと思うよ」

不見識なほめ言葉を聞いた祐子の顔が蒼白になった。どっしりとした建築を見上げていた目が急に気色ばむ。
「天田さん、部屋は断ってください。まさか遊郭の跡だとは思わなかった。Mがいいと言っても女性が住む所ではないわ。天田さんは非常識よ。月五千円の部屋なんてないと言ってくれればいいのに、よりによって遊郭を紹介するなんて最低よ。Mを売春婦と比較するなんて決して許さない」
怒りに満ちた声が静まり返った路地を駆け抜けた。小さな広場の隅に備え付けられた屋外水道の蛇口から、ぽたぽたと漏る水音が響く。水道の横には古めかしい井戸ポンプが取り残されていた。
「条件どおりの部屋を見付けて怒られたんじゃ、たまらないよ。朝っぱらから電話で起こされ、仕事の合間にやっと家主の了解を取ったんだ。それに、富士見荘の住人のほとんどは女だ。男は一人しかいない。女性向きのアパートだぜ」
言い訳がましく天田が弁解した。救いを求めるようにMの横顔をうかがう。

「祐子が何と言っても私はここに住むわ。条件どおりのすてきな所よ。早く自分の部屋が見たい」
「Mッ」
はっきり言いきったMに抗議をしようとした祐子が言葉を呑み込んだ。重々しく戸の軋る音が響き渡る。富士見荘の広い間口のガラス戸が大きく開けられ、四人の老婆が一団となって広場に出てきた。

「天田さんおはよう。何か用事かい」
先頭にいた老婆が天田に呼び掛けた。小さな身体に虫食いだらけのセーターを何枚も重ね着している。いくら寒いと言っても早春の日射しにはふさわしくない服装だった。
「いや、お菊さんに用はないんだ。もう付き合いは終わったからね。せいぜい内職で頑張ってくれ。仕事がなくなったら、また面倒を見させてもらうよ」
砕けた口調で天田が答えると、お菊と呼ばれた老女は口元に抜け目ない笑みを浮かべた。Mと祐子に鋭い視線を投げ掛けてから、三人の老女と連れだって路地の出口に向かう。祐子が説明を求めるように天田の顔を見た。

「あの人はお菊さんと言って去年まで福祉で生活を保護していた婆さんだよ。年金を積んでいなかったから保護するしかない。他の三人の婆さんは一人暮らしができる程度の年金がある。今は四人で協力して高収入の内職をしているから、お菊さんも福祉と縁が切れた。あの四人が富士見荘の住人だよ。みんな女性だ。もう一人は男だけど金持ちの爺さんだ。心配は要らない」
「まるで姥捨て山じゃないの。どうひいき目に見ても天田さんは常識がない」
天田を睨み付けた祐子がふくれっ面になった。
「それは差別発言だよ。老人だろうが貧乏人だろうが市民には違いない。福祉の仕事をしているときの俺は無差別平等なんだ」
祐子の失言をうまく捉えた天田が胸を張ってきれい事を言った。

「無差別平等かどうかは別にして、天田さんの言うとおりだわ。早く部屋に案内して欲しいな」
右手に下げた小さなボストンバックを振ってMが催促した。天田が大きくうなずき、両手で巨大なガラス戸を開ける。老婆たちの力でよく開いたと思えるほどの重さだった。正午の日射しを浴びていた三人の目には、映画館に入ったように屋内は暗い。入ってすぐの所が広い土間になっていた。高さが膝まである式台の正面に二階に続く階段が見える。幅三メートルの黒々とした木の階段だ。両脇には見事に彫刻された欄干が続いている。二階正面の壁に設けられた明かり取りの小窓から入る斜めの光が、広々とした階段に深い陰影を与えている。

「二階に八室、三階に十室、合計十八の部屋があるが、現在は二階しか使われていない。三階は婆さんたちの内職の作業所になっているんだ。トイレは二階と三階にもあるが、風呂と台所は一階にある。共同で使うんだ。洗面所は外の広場の水道か井戸を使う。ちょうど江戸時代のような、古き良き日本の習俗が満ちあふれていると思えばいいさ。慣れれば住みやすいと思うよ。セールスマンも来ない。Mのように、当面の煩わしさを避けたいという世捨て人にはぴったりの所だ」
天田が不動産業者も顔負けの歯の浮くような解説をして靴を脱いだ。確かに世捨て人に違いないとMは思い、口元に笑みを浮かべて式台に上がった。案内する天田と並んでどっしりした階段を上る。階段は三人が横に並んで上れるほど広い。一段上る度に分厚い木材から冷え冷えとした冷気が足先に伝わってくる。身体を被う空気も寒い。かつて苦海に身を沈めた無数の女たちの嘆きの声が聞こえてくるような気がした。一切の虚飾を打ち捨てた暗く重々しい雰囲気が身体を締め付けてくる。二階の踊り場まで出ると異様な臭気が鼻を突いた。強い芳香剤とアンモニアの匂いだ。祐子の足が止まる。
「ここのトイレは水洗じゃない。昔ながらの汲み取りだよ。何事につけてもナチュラルなんだ」
気配を察して天田が言い訳した。幅一メートルの中廊下を挟んで踊り場の左右に四つずつ八つのドアが並んでいる。いずれのドアも、直接向き合わないように部屋によって左右に分かれていた。

「Mの部屋は西の端だ。東隣は空き室で、すぐ前はお菊婆さんの部屋だ。お菊さんは富士見荘のボスだから仲良くするといい。三階に上る階段の横がトイレだ。少々匂いが気になるが、いい部屋だよ」
中廊下の突き当たりの角にあるドアを天田が開けた。四畳半の方形の部屋がMの目の前にある。視線を動かさなくても部屋の一切が見て取れる狭さだ。開けたドアの先がすぐ畳になっている。ただ一つある小さな腰高の窓には曇りガラスが入っている。押入はおろか戸棚一つない。刑務所の独房の方が余程機能的に造られていると思った。だが、この部屋はMの自由意志で手に入れるのだ。誰に強制されるわけでもない。殺風景な空間が一時、光り輝いて見えた。
「これがMの部屋ですって。あんまりだわ。せっかく市に帰ってくれたMに、こんな仕打ちはできない。ねえ、M。ドーム館か鋸屋根工場のアトリエで一緒に暮らしましょうよ」
ドアの前で立ちすくんでいる祐子が涙を浮かべながら訴えた。
「いいえ、この部屋は気に入ったわ。なんにもないところが最高。素っ気ない優しさを感じる。小さいけれど、ちゃんと窓もある。何が見えるのかしら」
途方に暮れた顔をしている祐子に言って、Mは腰高窓に近寄っていった。三年間閉じ込められた獄舎には眺めを楽しむための窓などなかった。新鮮な気持ちで曇りガラスの入った窓を開けた。

グォーッ

開ききった窓の中に列車の轟音が飛び込んできた。ちょうど目の高さに当たる鉄道の高架をオレンジ色に塗った電車が走り抜けていく。窓から五メートルと離れていない。木造三階建ての建築が電車の響きに合わせて細かく振動した。
「窓からの眺めは悪い。でも下を見れば緑道が見える。高架に沿って整備した散歩道だよ。もうしばらくすれば春の花がいっぱいに咲く」
天田がMの後ろで苦笑して言った。人気のない物件を何としても強引に押し付けようとする不動産業者にしか見えない。

「いいわ、天田さん。この部屋を借ります。家主さんの所に行きましょう」
天田を振り返ってMが大きな声で答えた。祐子の肩が落ちる。
「家主は大屋さんと言うんだが、昼間は仕事でいないよ。雑貨の卸をやっているんだ。この地区の福祉委員をしていたので面識もある。いつ入居してもいいと言っていたから挨拶は後でいいよ。気の向いたときに行ってくれればいい」
素っ気ない天田の言葉に祐子の顔がまたこわばる。だが、気分を変えるように明るい声を出した。
「M、こんなに殺風景な部屋では落ち着かないわ。寝具や家具を買いに行きましょうよ」
「チーフに頼まれて一応の用意はしてある。寝具といっても、毛布があればいいんだよな。急に布団を買っても眠れないと困る。その気になったら徐々に揃えればいいよ」
祐子の言葉を待っていたように天田が答えた。あっけにとられた祐子が天田の視線の先を追うと、五枚の毛布がドアの真横に重ねられてあった。毛布の上には男物らしいパジャマとタオルも置いてある。どれもがありきたりの安物だった。目にした祐子の顔が蒼白になる。

「天田さん、本当にチーフがこれを用意したの」
「違うよ。当座のものも用意しろって頼まれたから、俺が勝手に買ってきたんだ。なあ、M。これだけあればいいんだよな」
当惑した天田がMにまた助けを求めた。
「何がいいのよ。まだ寒いのに、毛布だけでMを寝かせるつもりなの」
怒りで顔を真っ赤に染めた祐子が天田にくってかかった。
「祐子、天田さんを非難しては失礼だわ。私はこれだけ揃えてもらえば十分。天田さんは福祉のケースワーカーだから刑務所のことにも詳しいのよ。刑務所には布団はないの。どんなに寒くても毛布だけで平気よ」
「せっかく市に帰ってもらったのに、刑務所の記憶を思い出させるようなことはさせられないわ」
祐子が頬を赤くして言い募った。
「私は刑務所の暮らしを忘れたくないの。祐子、これは私が決めたことよ。私は大丈夫。今日は疲れたから、もう一人にして欲しいの」
断固とした声でMが宣言した。祐子が泣きべそをかく。だが、構ってはいられないとMは思う。せっかく自由になれたのだ。考えねばならないことが山ほどあった。
「天田さん。全部チーフに報告するわよ」
捨てぜりふのように言った祐子が明日の再会を約して、渋々帰っていった。Mは二人を見送りもしない。無性に一人になりたかった。


祐子と天田が帰ってから十五分経った。寒々とした四畳半の部屋は静まり返り、富士見荘全体が喧噪から取り残された静寂の中に沈み込んでいる。Mは窓辺にいって、外の散歩道を見下ろしてから窓を閉めた。幅二メートルの緑道には青銅のベンチが置かれているだけで枯れ草しか見えなかった。まだ春は遠いのだ。部屋の中央に戻って天井から吊り下げられた蛍光灯の紐を引いた。三十ワットの光が方形の部屋を照らし出した。煤けた天井板には涙の跡のような無数の染みが浮いている。ソックスを穿いた足裏で古畳が擦れた。紺色のスーツを脱ぎ、白いセーターを脱いだ。素っ裸になって畳に座り、脱いだ服をきちんと畳む。自由に裸になれるうれしさが胸に込み上げてきた。小さな希望が見えてきたような気がする。干渉する者は誰もいない。冷気が素肌を包んで鳥肌が立ったが、気持ちは高揚してくる。ドアに向かって正座した。背筋を正すと、そろえたかかとに尻の感触が伝わってくる。きゅっとくびれたウエストが小気味よい。やっと自分の身体が戻ってきたと実感できた。思わず涙がこぼれ、乳房を濡らして太股に落ちた。股間で漆黒の陰毛が燃え上がっている。この冷え切った股間を誰が撫でてくれるのだろうとふと思った。悲しかった。悲しみは次から次に湧き出してくる。この市で死んだ弥生の顔が脳裏を掠めた。光男が、修太が、数多い死者たちが裸身をなで回す。止めどなく涙が流れ落ちて股間を濡らした。温かい涙が冷え切った心に染みる。口を突いて嗚咽が漏れた。

Mはしゃくり上げながら小さな布地のボストンバッグを抱え上げた。震える指でファスナーを開き、洗い晒しの灰色のジャージを取り出す。バッグを逆さにして振ると、三十万円の現金を入れた白い封筒と三十通の茶封筒が畳の上に落ちた。茶色の封筒の幾つかは太股や膝の上に落ちた。白い裸身が小さく震える。封筒を拾い集めて乳房の前で強く握り締めた。紙に込められた寒さが両手から伝わってくる。高揚した気持ちが急速に冷えていくのが分かる。三十通の封書は獄中のMに宛ててピアニストが出したものだ。涙に霞む目で刑務所の住所が記された宛名書きに見入る。神経質そうな、細く小さな文字でMの名が泣いている。封筒を裏返すと力強い筆跡でピアニストの名が書かれていた。自信のない文字で印されたMの名が悲しい。すべての手紙に目を通したくなる衝動に必死で耐えた。何回となく読み返して内容はすべて記憶している。文字に託したピアニストの心情だけが哀れでならなかった。最初の手紙は下獄してから半年後に届いた。積もり積もった鬱憤と怨嗟をぶつけてきたのだ。


獄舎のMへ

僕はMを恨み、大人の女を恨む。三十歳になった僕が子供じみた女々しいことを言うとは、Mにだけは言わせはしない。なぜMは僕の求めを四回も拒絶したのか。それほどの憎しみを僕に抱いていたのか。そして、その方がどれほど僕にとって気楽だったか、Mは思ってみたことがあるのか。僕を憎むどころか、Mは僕を子供扱いし、無視しただけだった。まるで姉が出来損ないの弟にする仕打ちのように、なんの説明もなく僕の希望を摘み取っていった。僕の思いの丈を知らなかったとは言わせない。最低二度、僕は口に出してMの愛を求め、全身で乞うた。だが、返ってきた答えは冷たい拒絶だけだった。それならば、金輪際、お互いに近付かない道をとるべきなのだ。だがMは、何回となく僕の前に現れては僕の幼さを嘲笑っていった。僕一人が受けた冷たい仕打ちだ。何よりも官能を追い求めたMに、決してふさわしくない仕打ちと言える。僕はMにとって露ほども性的な魅力がなかったのか。僕の性もペニスも弱々しくて、Mを喜ばすことが到底できぬと見限ったのか。M、僕はMを憎む。大人の女を憎み通す。
M、僕が穏やかな性を求めていたとの、Mの断定を否定する気はない。しかし、僕がその性を、他ならぬMに求めたことだけは忘れて欲しくない。穏やかで平安な性のイメージが先にあったのではない。Mがいたから、Mを知ったから、僕は過激な性の中に二人の平安を夢見たのだ。ただ一心にMが欲しい。それだけだった。
もうじき僕の性は絶たれる。生と共に断ち切られてしまう。報告が遅くなったが僕は死刑の判決を受けた。今は死刑囚として日本海に面した獄舎に繋がれ、来るべき死を待っているだけだ。すべてを失い、すべてを得た。得たものはただ、Mを求め続ける性の希望だ。失ったものは、それに比べれば微々たるものだった。平穏で安らかな性と家庭、理想的な社会に向けての改造と革命。すべてが空しく朽ち果て、失われていった。もう僕には港は要らない。終着駅も要らない。僕の旅路に帰り着く場所はない。ただ日夜、襲い来る死を待ちながら痛切に願う。何よりも激しく過激にMを求め続ける。Mを素っ裸に剥き、厳しく後ろ手に縛り上げてやりたい。股間を縛った縦縄がぐっしょりと濡れ、二条の縄の間から固く突き立った性器がのぞいている。僕は苦痛を耐えて眉間に皺を寄せたMを抱き寄せる。股縄を外し、濡れそぼった陰門に、はち切れんばかりのペニスを突き立てる。二人の官能は鋭く舞い上がり、宙を漂う。その一時を抱き締めて生にピリオドが打たれることを、僕は痛切に願う。
M、僕はMを恨む。大人の女を恨む。そして今、死にいく僕には希望がある。Mが欲しい。


死刑囚のピアニストは手紙の数を制限されている。毎月一回、もどかしいように、Mへの思いがエスカレートしていく手紙が届いた。内容にこれといった変化はない。Mは返事を出さなかった。だが、ピアニストからの手紙は毎月のように襲い掛かってきた。その度にMを裸に剥き、縛り上げ、鞭で打った。一方的に文字で陵辱する手紙は切ない。Mは獄中で泣き、夜毎股間を濡らした。最後の手紙は今月の初めに届いた。飽くことなく陵辱の文字をつづり、繰り返し希望を語っていた。ただ、文末がこれまでと違っていた。Mの刑期が終わるのを見越して、刑務所へ面会に来てくれるように熱烈な文字で要望していた。だが、ピアニストの言う希望という意味は現在も分からない。分からないまま、すべての手紙をボストンバッグに詰め込んで出所してきた。

Mは抱いていた手紙の束を下ろして膝の前に置いた。もう涙は止まり、冷え冷えとした心が戻っていた。正座した膝をそっと開いて股間を見る。黒々とした陰毛の間から赤い性器がのぞいている。割開いた陰部を寒い風が渡る。右手の指先で性器をつまんだ。親指と中指に力を込める。軟らかな肉の棘が指先で潰れて鋭い痛みが深奥に伝わっていく。枯れていた涙が一滴、目尻からこぼれ落ちた。両膝を大きく開いて股間を晒した。背中に両手を回して後ろ手に緊縛されたポーズを取る。見えぬ縄で緊縛された裸身が苦悩と官能に悶える。悲しみが股間から込み上げてくる。涙になった愛液が陰門を濡らした。ピアニストの鬱憤も怨嗟も不当なものではない。確かにMはピアニストの求めを拒絶してきた。求められれば応ずるのがMの生き方だ。それを四度の巡り会いのすべてで拒絶したのだ。なぜだろうと、ずっと自問してきた。恐らく、なにがしかの希望をピアニストに託したせいだと思った。それは、Mが歩めなかったもう一つの道なのかも知れない。だが、その道も絶たれることが決まってしまった。Mはもう四十二歳だ。すでに人生の半ばまで来た。Mにとってピアニストはずっと同伴してきた苦い棘のようなものだ。なす術のない現実が切ないまでにMをいらだたせる。この巨大なハードルを跳び越さねば行く道さえ途絶える予感がした。豊かな胸を張って膝立ちになった。尻を突き出して全身で悶えた。背中で組んだ両手を解いて股間に伸ばす。涙となった愛液を指先で掬って性器になすりつけた。そっと指を陰門に挿入すると他人になった肉襞が指の根元を締め付けてきた。荒々しく指を使うと官能の炎が燃え上がる。冷え切った素肌から汗が浮き出た。極みに駆け上がる寸前に指を抜き去る。ぬめぬめとした指を改めて肛門に突き入れた。痛みが、快楽が、疾風となって全身を駆け抜けていった。ハードルは跳び越えるためにあると肉体が宣言した。狭い方形の部屋で白い裸身が慟哭する。脳裏にまた、さわやかな弥生の笑顔が浮かんだ。死者たちが肉体の宴に集まり、Mの官能を内部から祝福するのだ。股間の毛を剃ろう。唐突に決心した。祐子の言っていたように、陰毛を剃り上げれば勇気が湧いてくるような予感がした。


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