6.義父母

日曜日の朝、Mは市の福祉バスに乗って山地に向かった。六十五歳以上は無料のバスだがMは片道四百五十円の乗車料を払わされた。車内は老婆たちでほぼ満席だった。皆一様に山歩きの格好をしている。一人だけスーツを着たMは好奇の目に晒された。まるで若い者はバスに乗車をする資格がないとでもいった白々しい視線だ。だが、満員の乗客の中で運賃を払っているのはM一人にすぎない。全員が半額でも払えば民営の路線バスが廃止になることもなかったはずだ。福祉バスが悪いのではないが、どことなく居心地の悪さを感じる。ピアニストの実家の蔵屋敷に通じる停留場まで行っても誰も降りない。老婆たちは山の奥深くまで踏み込み、山菜を漁ってくるに違いなかった。M一人が降車口から路上に降りた。降りきってドアが閉まると同時にバスの窓から老婆たちの爆笑が聞こえた。気分の良かろうはずはないが、停留場にたたずんで見上げた空は美しく澄み渡っていた。しばらくぶりの春らしい陽気だ。風が立つ度に木々を彩った若葉が白い葉裏を見せる。新緑に酔って目が回りそうなほど周囲一帯が緑で燃え上がっていた。

Mは緑濃い山中に向かって疎水沿いの道を歩いていった。蔵屋敷まで歩くのは初めてだった。車で来たときは分からなかったが道は結構勾配がきつい。坂といっても良いくらいだ。五分ほど歩くとひたいにうっすらと汗がにじみ出てきた。さわやかに頬をなぶっていく風が心地よい。美しく気持ちを和ませる山間だった。ピアニストが生まれ育った土地だと、今更ながら思った。すべての風景を目に焼き付けようと願い、改めて周囲を見回す。緩いカーブを曲がりきるとピアニストの家の目印になった天を突くケヤキが見えた。競い合って空に伸びた梢の若葉越しに蔵屋敷の白い壁が光って見える。空の青と木々の緑、そして白い土蔵の壁。そのバランスの取れた配色が山地の谷筋をキャンパスの中に切り取る。すでにしてアートは出来上がっている。後は、人が込める感情の質量だけが問われていた。だがピアニストは二度とこの地に立つことはない。
疎水沿いに植えられた梅の並木が風に揺れている。十五年前に比べて、ひときわ太くなった幹が頼もしい。揺れる葉陰に小さな梅の実が見えた。青い宝石のような梅の実が葉の緑と空の青に溶け込んでいる。

「梅の実がなった」
Mのつぶやきが風に流れた。梅の実は年毎になるのだ。疎水を渡る橋の上でレモンイエローのスーツに隠した裸身が宙に伸び上がる。目尻からこぼれた涙の粒が周囲の青に染まった。視線を落とすと清明な流れの隅に黒々とした固まりが見えた。目を凝らしてのぞき込むと小さなオタマジャクシが蝟集している。頭に比して大きな尾で水を蹴り、緩やかな流れに乗っておずおずと泳いでいる。虫ピンのようなクチボソの稚魚がオタマジャクシの横を素早く泳ぎ去った。限りないほどの命を春の山地は育んでいるのだ。Mは小さく溜め息を付いて歯科医院に使っているはずの母屋へ向かった。春の強い日射しを浴びた屋敷の景観は明るい。想像していた暗さも荒涼とした雰囲気もない。十五年前に比べ、歳月の分だけ成長した木々だけが現在という時間を証している。庭木にも丁寧に手がいれられ、古びたはずの母屋さえ落ち着いたベージュ色に塗装し直されていた。

歯科医院のドアには真新しい札が下がっていた。きれいに磨かれたガラスに掛けられた札には「本日休診。急患の方は蔵屋敷にどうぞ」と書かれていた。診療が続けられていることが我がことのようにうれしい。日曜日の急患への配慮を見せる歯科医に早く会いたくなってしまう。急いで蔵屋敷へ向かった。
「やあ、M。おはよう。手伝ってくれよ」
蔵屋敷の手前で突然声を掛けられた。声の方を振り向くと、駐車場の隅で歯科医が微笑んでいる。白いオーバーオールを着た歯科医は等身大の黒い金属の棒と格闘していた。曲がってしまった棒を立て直そうとしている。両手で棒を支え、片足で土を寄せ集めていた。
「おはよう、歯医者さん。朝からお庭の手入れじゃ大変ね」
大きな声で挨拶しながら無蓋の駐車場に歩いていった。
「庭の手入れじゃないよ。彫刻の展示だ。女房が帰ったとき驚かせてやるんだ」
庭仕事と間違えられて気を悪くした歯科医がふてくされた声で答えた。歯科医の前に立って金属の棒をまじまじと見つめた。
「いい作品だろう。一見ジャコメッティのようだが要所要所のフォルムはまるで違う。まったく新しい彫刻だよ」
得意そうに歯科医が解説した。黒い棒に見えたものはブロンズ製の彫刻だった。九等身ほどの足の長い裸婦が後ろ手に縛られて直立している。全体はスリムな姿だったが、歯科医が自慢するように腰や胸、頭部はボリュームのあるフォルムでデフォルメされている。現代の不安と古代の豊かさが混ざり合った印象とでも言えば歯科医が喜ぶ評になると思われた。意外に人を引きつけるきらめきを持った作品だった。Mは彫刻の足元にしゃがみ込み、傾いた台座の下に小石と土を注意深く詰め込んだ。

「ようし、これでいい。立派に作品が直立した。ありがとう。それにしても、お互いに歳は取りたくないもんだ。こんなに朝早く起きるMは想像もできなかったよ。十五年前には、この時間はまだ白河夜舟だったはずだ」
「歯医者さんこそ少しは空を見たがいいわ。ほら、もうあんなに日が高い。もう十時になる。ずいぶん目が赤いけど、きっと徹夜したんでしょう」
いたずらを見咎められたように歯科医の頬が赤く染まった。白いオーバーオールの袖でひたいに浮いた汗を拭った。真っ白になった髪が歳月を告げるが、Mと歯科医の間には十五年の年月を越えて親密な時間が流れていく。


蔵屋敷の中はビニールシートを掛けた粘土や制作途中の塑像、イーゼル、油絵の具、おびただしい数のへらや絵筆が散乱していた。松ヤニの匂いが厳しく鼻を突いた。
「紙漉きはやめたのね。いつから彫刻屋さんになったの」
キャンパスを張った椅子に歯科医と向かい合って座ったMが尋ねた。
「三年前からだよ。紙漉きはとうにやめている。息子が帰ることもないので、またここをアトリエにしたんだ」
歯科医の答えはあっけにとられるほど明るかった。一人息子の不幸を帰ることがないと表現した。Mは次の言葉に迷ってしまった。困惑した様子を見かねた歯科医が笑みを浮かべて口を開く。

「昔話をするのはやけに歳を取ったようで嫌いだが、私も六十五歳になる。なぜMが訪ねてきたのか知らないが、これも巡り合わせだ。十五年前だって、私か息子のどちらかがMを奪う予感があった。私は才能はあったが歯科医で妻がいた。息子はいい奴だが私ほどの才能に恵まれなかった。世界中の美をつかみ取ることができないうちにピアノを捨てた。今でも息子に才能があったらと悔やむことがある。一切の音を、世界を、美のすべてを、そしてMを手中にできたかもしれない」
話し終わった歯科医はMの目を見つめてから遠く視線を巡らせた。真っ白になった頭髪が窓から入るさわやかな春風に揺れた。

「歯医者さんの言うことはよく分からないわ。ピアニストはあなたの跡を継いで歯科医になるために音楽を断念したんでしょう」
「いいや、息子は才能が足りなかったのだ。足りない部分を補う努力もしなかった。うかがい知ることのできぬ表現の闇に足を踏み入れるのが怖かっただけだ。もちろんでき過ぎた息子だったから私の気持ちを勝手に推し量ったのかも知れない。だが、息子は歯科医にならずに医師になった。父として息子の心中の悔しさは痛いほど分かる。性格が優しいまでに弱すぎたのだ。あの弱さでは一人きりで表現の道を押し渡ることはできない。M、ひょっとして息子は、あの時Mに救いを求めなかっただろうか。同行を頼みはしなかったろうか」
失った時を惜しむように紡ぎ出された言葉がMの胸に突き刺さった。身体が小刻みに震え、涙が頬を伝った。唇に触れた涙に後悔の味が混ざる。居たたまれなくなったMが携えてきた思いを言葉にした。

「ピアニストは、またピアノの練習を始めているわ。先日、刑務所に面会に行きました。研ぎ澄まされた音色が今も私の身体の中で鳴り渡っている」
「そうか、息子に会ったのか。だが、独房にピアノのある道理がない。空しく脳裏に組み立てた音を誰が聴くというのだ」
「私が聴くわ。ピアニストは私のためだけにショパンを弾く。私とピアニストは二人で音の世界を共有して、生きられるだけの時間を生きるの」
「またショパンかね。せめてドビュッシーであったら音に生きることも出来たろうに」
歯科医がつぶやくように言ってMの目を見つめた。促すような視線を受け、Mは用意してきた婚姻届をテーブルの上に出した。

「獄中のピアニストにプロポーズされました。結婚を承諾してください」
唐突なMの言葉にも歯科医は驚く様子がない。しばらく黙ったままテーブルの上に広げられた紙片に見入っていたが、静かに椅子から立ち上がった。Mの頭上から低い声が落ちてくる。
「死刑囚の息子と結婚したいのか。考え直した方がいいと言ってもMのことだ。決心を変えることはないのだろう。だが、立派な息子を選んでくれたことには父として感謝するしかない。Mも息子に劣らない立派な女性だ。私が結婚に反対する理由はない。祝福したいとさえ思う。M、至らなかった表現の道に帰るという息子を、時が隔てるまでの間、どうか見捨てずにいてやって欲しい。お願いします」
足元から頭の先まで奔流のように駆け上っていく熱を感じながら、Mは頭上からこぼれる歯科医の声を聴いた。目の前が真っ白になり、黙ったまま何度もうなずく自分だけを意識した。耳の底でピアノの調べが鳴り響いている。ショパンの幻聴だった。耳の底でたゆたう調べを低いエンジン音が踏みにじった。棚からペンと印を取った歯科医が素早く婚姻届の証人欄に署名し、押印した。

「ポルシェのエンジン音だ。妻が帰ってきた。母である彼女は私とは違う見解だろう。会わずに済ませた方がいい。M、裏口から帰りなさい」
早口に言う歯科医の言葉にMは首を横に振った。
「立派な息子さんの母に会わない理由はないわ。ましてや逃げ帰るわけにはいきません」
Mの言葉に歯科医が辛そうにうなずき、ゆっくり椅子に座った。
「私も妻も息子に面会を拒否されている。もう三年間も会っていない。妻の気持ちも分かって欲しい」
歯科医が言い終わらないうちに、蔵屋敷の自動ドアが開く音が聞こえた。

「ただいま」
聞き覚えのある声と共に歯科医の妻がアトリエに姿を現す。若やいだ姿態にパープルのシルクスーツを品よく着こなしている。歯科医と違って老いは感じさせない。
「やあ、お帰り。妻は生け花の集いで昨日から市に泊まりがけだったんだ」
椅子に座ったまま、歯科医が妻とMを交互に見て言った。
「奥様、お久しぶりです」
椅子から立ち上がったMが深く頭を下げて挨拶した。
「お前はM、まさかMがいるとは思わなかった。私の留守中に何の用事で来たの。年寄りの夫をたぶらかすつもりではないでしょうね」
居丈高に背筋を伸ばした歯科医の妻がMを見据え、挨拶も返さず言い放った。予期していた反応を全身で受け止め、Mは冷静な声で答える。
「私はあなたの息子にプロポーズされたから訪ねて来たのです。今、歯医者さんに結婚を認めていただき、婚姻届の証人になってもらいました。ふつつか者ですがどうかよろしくお願いします。お義母さん」
「何ですって、言うに事欠いて、お義母さんですって。あなた、どういうことなの」
怒りで顔を真っ赤に染めた歯科医の妻が、肩を震わせながら歯科医を睨み付けて叱責した。

「Mの言ったとおりだよ。立派な息子が立派な娘を選び、結婚するだけのことだ。私は祝福して、息子をよろしく頼むと言った。息子は私たちに会おうともしないのだからMにすべてを託すしかない」
「そんな、そんないい加減なことがありますか。しかも祝福だなんて。こんな女に息子は渡せない。死刑囚だと思って馬鹿にしているに違いない。そうだ、そうに決まっている」
両目を吊り上げて叫ぶ剣幕にMも歯科医も声がでない。黙って下を向いている二人に歯科医の妻が新たな怒りをぶつけてきた。

「M、遺産ほしさの結婚でしょう。息子には一億円の財産がある。あの子が稼いだお金と私たちが将来の開業資金に積み立ててやったお金よ。この蔵屋敷も土地も生前贈与してある。その財産をみすみす取られてはたまらないわ。この女は盗人に違いない。ねえあなた、目を覚ましなさいよ」
肩で息をつきながらまくし立てた言葉を歯科医は落ち着いた顔で聞いて、低い声で答えた。
「たとえ財産目当てだとしても、それが何だというのだ。死刑が執行されても相続権者は私たちしかいない。息子のために積んだ金がまた手元に戻ってくるなんて、こんな悲しいことはない。息子の選んだMが相続しても私は一向に構わないね」
「何てことを言うの。あなたはこの女にたぶらかされてしまったのよ。何と言っても一億円は大変な財産よ。目が回るほどの金額だわ。その大事な財産をどぶに捨てるだなんて、とても正気とは思えない」
またしても金を巡る話が延々と続きそうだった。Mはもううんざりだった。椅子を鳴らして立ち上がり、大きな声で二人の間に割って入った。

「私はお金なんかに関心はない。死刑囚のピアニストには親族でないと面会できないから、妻になるために婚姻届を出すだけよ。財産なんてこれっぽっちも欲しくない。相続拒否の書類を、今、この場で書いてもいいわ」
Mの言葉を聞いた歯科医の妻の顔が一層険悪になる。
「言わせておけば勝手なことばかり言う。何が相続拒否よ。金に関心がないですって。私たちを馬鹿にするにもほどがあるわ。道端で拾ったお金じゃないのよ。大切な息子のために苦労して貯めた金に関心がないと言われて、はいそうですかと引き下がる親はいないわ。いくら相続を拒否すると言っても妻の地位は法律で篤く守られている。やはり財産が欲しいに決まっている。お金目当てでなくて、どこの女が死刑になる息子と結婚するというのよ」
「私がいるわ。私はピアニストとの愛を確かめるために婚姻届を出します」
即座に答えた自信に満ちた態度が歯科医の妻を逆上させた。きつく唇を噛んでMを睨み付けた後、急に皮肉な口調に変わった。

「また聞いた風なことを言う。息子と結婚するなら、Mの言うように私は義母だわ。財産目当てかそうでないか、私がお前の身体に訊く。黙って息子を取られてたまるもんですか。息子に代わって私が試す。M、素っ裸になりなさい」
冷酷な言葉を聞いてMは一瞬目がくらんだ。十五年前の光景が鮮やかに甦った。あの時とまるで同じ情景が繰り返されようとしている。だが、苦悩に惑うピアニストの姿だけが無い。歳月の残酷な匂いが鼻先を掠めた。Mは大きくうなずいて椅子から立ち上がった。胸を張ってレモンイエローのスーツを脱ぎ去る。ピアニストの母に理解されることは永遠にないと思ったが、息子を奪われる母の憎しみを甘受することに露ほどの異論はなかった。天涯孤独のMが配偶者を得るための儀式とも思われた。


歯科医夫妻の前にMの裸身が直立した。雑然としたアトリエがまばゆいばかりに明るくなる。歯科医の口から思わず溜息が洩れた。
「まあ、首から上と手だけが真っ黒だわ。白と黒の不気味な身体ね」
歯科医の妻が目ざとくあらを探した。剃り上げた股間の上で両手を重ねたMが軽く唇を噛んでから応える。
「私は毎日、工事現場で交通整理をして働いている。お金は自分で十分に稼げるわ」
労働を軽んじることは誰にも許せなかった。鼻で笑った歯科医の妻が背後に回る。太い麻縄を手にして憎々しい声でMに命じた。
「さあ、黒い手を背中に回しなさい。厳しく縛り上げて打ち据えてやるわ。財産目当ての結婚を汚い口からきっと白状させてやる」
後ろに組んだMの両手に縄が巻かれる。手を縛った縄は首に引き上げられて胸元に回された。後ろ手に引き上げられた腕が痛い。乳房の上下を走る縄がうつむいた目に映った。塑像の骨組みに巻く、粘土のこびり付いた汚れて黒ずんだ麻縄だった。
「わざわざ子供のようにツルツルに剃り上げた股間なんて見たこともない。いやらしい。こんな変態女に大事な息子を取られてはたまらないわ。臭い股も厳しく縛り上げてやる」
歯科医の妻がさげすみの声で言って、ウエストを縛った縄を臍の下で固く結んだ。結び目から延ばした二本の縄尻を真っ直ぐ股間に下ろし、剥き出しの性器を縄の間に挟んでから背後に回した。尻の割れ目に食い込んだ縄を引き上げて後ろ手を縛った縄と結び合わせる。股間を縄で割られて一層悩ましさが増した尻に甲高い鞭音が響いた。

「ヒッー」
不意に鞭打たれたMの口から悲鳴があがった。長い竹べらを振りかざした歯科医の妻が続けて尻を打ち据える。たまらず逃げ出す白い尻を竹べらが追い回した。二本の縄で無惨に股間を割られてしまったMの逃げ足は鈍い。たちまち壁際に追い詰められ、したたかに鞭打たれた。豊かな尻に縦横に赤いミミズ腫れが走った。どれほど打たれただろうか。緊縛された素肌全体に赤黒い鞭痕が浮き出したころ鞭がやんだ。苦痛に呻きながら床にうずくまって鞭を避けていたMを、歯科医の妻が鋭く問い詰める。
「これしきの責めで音を上げられたら息子が浮かばれない。さあ、M。白状しなさい。息子の財産が欲しくて結婚するんだろう。さあ言え。言えば許す。まだ折檻されたいのか」
Mは歯を食いしばり、力を振り絞って尻を高く掲げた。ひときわ強く、二回、尻が打たれた。
「ヒッ、ヒヒッー。お義母さんのおっしゃるとおりです。許してください。財産目当ての結婚です」
Mの悲鳴がアトリエに響いた。歯科医の妻が竹べらの鞭を捨てる。怒らせた肩がやっと落ちた。上気した頬を二筋の涙が伝う。

「とうとう白状した。やはり財産目当てだったのね。ねえあなた、この女は変態どころか盗人よ。庭の梅の木に吊さなければ気が済まない。結婚をやめさせられないのなら、盗人のMを梅の木に吊して罪を償わせるのよ。そうでないと余りにも息子がかわいそう」
小さくうなずいた歯科医がMが脱ぎ捨てた服と太い麻縄を手にする。腰に打った縄尻を歯科医の妻に曳かれてMが立ち上がった。Mの頬も涙に濡れている。鞭の痛みと母から息子を奪う痛みが全身に広がっていった。うなだれて歩みだしたMを、急に歯科医が引き留める。壁の隅の一角を被っていた濡れた布を一気に引き剥がした。スツールほどの大きさの粘土がよく練られて滑らかな地肌を見せている。
「M、お願いだ。そのまま粘土の上に座ってくれ、Mの型が欲しい」
「あなたっ、たいがいにしなさい」
妻の叱声を尻目に、歯科医は真剣な眼差しで鞭打ちの跡が浮き上がった裸身を見つめる。Mは請われるまま粘土の上に腰を下ろした。尻全体が冷たい弾力のある粘土に沈み込む。歯科医の合図で尻を上げると、見下ろした粘土の上に股間を割った縄の跡も生々しい尻の雌型が出来上がっていた。
「M、ありがとう」
さり気なく礼を言う歯科医の口元が少年のように無邪気に笑っていた。思うがままに美を追求した芸術家の満足感がありありと表情に浮かんでいる。確かに息子のピアニストより父の歯科医の方が才能があると認めるしかない気分になった。歯科医の妻がのんきな歯科医を睨み付ける。荒々しく腰縄を引いてMを曳き立てていく。素っ裸のMを真ん中にした異様な一行はそのまま玄関から戸外に向かった。


Mは突き刺さる春の日射しを全身に浴びた。木々の緑と空の青が目にまぶしすぎるほどだ。股間を割った縄目の痛さに狭い歩幅で尻を振って歩く。裸身の至る所に浮き上がる赤黒い鞭の痕が痛々しい。うなだれて歩く目に剃り上げた股間が見える。二本の縄目に挟まれて突き出た性器の先が強い日射しに透けてしまいそうだ。目を上げると庭の真ん中に並んだ太い梅の木が見えた。
「この枝に逆さに吊すわ。縄を引くのはあなたしかいないから、片足吊りにしましょう」
Mの足元にうずくまった歯科医の妻が右足首を太い麻縄で縛り上げた。服と靴を地上に置いた歯科医が、妻に命じられるまま足首を縛った縄を頭上の太い枝に回した。
「さあ、力いっぱい縄を引くのよ」
苔むして湿った柔らかな地面に仰向けに寝かされたMの耳に合図の声が聞こえた。歯科医がゆっくり縄を引き始める。右足が徐々に上がり、斜めに腰が浮かび上がる。なおも引き上げられる足の痛みに悲鳴を上げ、後ろ手に縛られた裸身を震わせて悶えた。十五年前と同じ責めだったが左足を吊り上げる役目のピアニストはいない。右足を襲う痺れるような痛みがピアニストの不在を改めて肉体に教える。止めどなく涙がこぼれ落ちた。

突然、疎水の向こうの道路でクラクションが鳴った。初めは遠慮がちに鳴ったクラクションがやがて大きな音で鳴り響いた。誰かが折檻を見咎めたようだった。
「ドーム館の娘の車だわ。生意気に、いいところを邪魔する。あんなにクラクションを鳴らしたら近所の人が出て来るわ。私たちは家に入りましょう。息子を奪ったMをこれだけ懲らしめれば我慢もできる」
憎々しく言った歯科医の妻が、行き掛けの駄賃とばかりに逆立ちになった尻を力任せに蹴った。悲鳴が上がり、不安定に吊り下げられた裸身が大きく揺れた。たわわに茂った梅の枝葉も一斉に震える。葉陰からこぼれた小さな毛虫が白い裸身を掠めて落ちた。開ききった股間に三匹のイラガの幼虫が入り込んだ。三匹の幼虫は苦痛に悶える太股を毒針で刺した。瞬時に股間から脳に電撃が襲う。電気虫と呼ばれる毛虫の針から出た毒液は痛烈な痛みをMに見舞った。悲痛な叫びが春の山地に響き渡った。
歯科医の妻が笑い声を残して引き上げていく。歯科医がMの股間を婚姻届の用紙で被い、妻の後に続いて蔵屋敷に戻っていった。あまりの痛みに全身で悶える耳に駆け寄ってくる足音が聞こえた。祐子が来ると思った途端に緊張が解け失禁してしまった。

「やはりMだったのね。待ってね、すぐ縄を解くわ」
息を切らせて走り寄った祐子が梅の幹に縛り付けた縄を素早く解く。音を立てて裸身が地上に落ちた。
「M、ごめんなさい。私の力では支えきれないの」
横たわるMの前にうずくまった祐子がそっと裸身をなでる。剥き出しの股間をのぞき込んで眉をしかめた。
「股間を電気虫に刺されているわ。針を抜くから大きく足を広げていてね。かわいそうに、性器を刺されている。でも、股縄がガードしていたから他は内股だけよ。不幸中の幸いだわ。ピアニストの両親は最低。MもMよ。結婚なんてしてやらなければいいんだ。ピアニストの家の前を通る度にのぞき込んでいてよかったわ。M、もうちょっとで殺される所よ」
「祐子、もういいのよ。歯医者さんに結婚を承諾してもらったわ。お願い、すぐドーム館に戻って封筒と切手を持ってきて。婚姻届をピアニストに速達で出したいの」
素っ裸で後ろ手に緊縛されて横たわり、大きく股間を広げたMが祐子の話を無視して懇願した。泣き笑いになってしきりに頼む顔をのぞき込んで、祐子は絶句してしまった。土と涙で汚れた顔に確かな官能のきらめきが浮かんでいた。


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