8.試練

五月四日の休日をMは昼近くまで寝て過ごした。この一週間の疲れがピアニストからの手紙で吹き払われて、久しぶりに安らかな気持ちで眠れたのだ。頭は幾分重かったが身体は見違えるように軽い。次の日曜日までには金の工面も何とかなるような気がした。決められたスケジュールどおりに起きて、洗面し、朝食を取った。昨日までの焦燥に駆られた暮らしが嘘のように思えてしまう。連休中は婆さんたちは食事を作らない。年に三回、正月と五月の連休とお盆が婆さんたち休暇だった。もちろん内職も休みだ。金策に駆け回っているお菊さんを除いた三人は、連日市の老人福祉センターに出掛けている。大きな風呂に入り、カラオケを歌い、ダンスをし、それぞれが持ち寄った御馳走を分け合って食べるのだという。何も持っていかなくても、褒めてやりさえすれば食べきれないほど、ご相伴に預かれるのだそうだ。三人の婆さんは温泉旅行のようだと言って喜んでいるが、Mは老人福祉センターに行くわけにはいかない。三日間の食事を自分で賄わねばならなかった。嫌でも出費がかさんだ。

Mは腰高の窓を大きく開き、たまに高架を通り過ぎる電車を見て漠然と時間をつぶした。無為の時間のありがたさが素肌の上をゆっくり流れていく。五百円の予算でコンビニエンス・ストアで買ってきた幕の内弁当とウーロン茶で一日分の食事をとる。婆さんたちの作る質素で量の少ない食事に慣れたため、たとえ一食きりの幕の内弁当でもヴォリュームがあった。ことさらゆっくり食べ、唯一の情報機器の携帯ラジオのスイッチを入れた。Mのような屋外労働者にとって、ラジオは天気予報と時報を聞くための必需品だった。地元のFM局が流すピアノの音色がちっぽけなスピーカーから聞こえてきた。ドビュッシーの流麗な調べが部屋を満たす。ピアニストの才能を惜しんだ歯科医の言葉が耳に甦った。確かに今からでは遅すぎるのだ。何もかもが遅いと思った。Mの涙腺がまた緩み始める。たまらなくショパンが聞きたくなった。ハッとしてラジオを消した。ピアニストの弾くショパンが勝手に耳の底を駆け巡る。悲しいまでに透き通った音色だった。夕日の射し込む部屋で、身体の中で鳴り響くピアノは明確な声をMに伝えた。

静けさの戻った部屋で、Mは文箱を開けてピアニストの手紙を開いた。獄中で綴られた文字を急いで読み返す。だが、ぜひ読んで欲しいという詩は難解だった。何度読み直してもよく分からない。Mは繰り返し、繰り返し詩を読んだ。やがて声に出してつぶやく詩文の向こうから音楽が聞こえてきた。ピアノの音色だった。その清明なピアノの調べは、まがうことなくショパンの「別れの曲」だ。詩文の中の告別の文字だけが大きく目の前に拡がる。手から手紙が落ちた。耳の底で「別れの曲」がむせび泣いている。すっかり日の落ちた暗い部屋で、目に焼き付いた告別の文字と、耳に張り付いたピアノの音色が疾走する。全身が寒い。
開け放した窓から入る冷たい夜風を受けて、Mは敷きっぱなしの布団の上で正座している。不吉な予感が裸身を包み込んでいるが、金縛りにあったように身体が動かない。冷たくなった肌の感触が他人事のように寒さを訴えてくる。不思議だった。よろよろと立ち上がって窓を閉めようとした。目の前の高架を轟音を上げて電車が通り過ぎる。架線がスパークして、白い火花が黒い夜空に飛び散った。瞬く間に光の帯となった電車が目の前を走り抜けた。日本海沿いの刑務所のある駅まで鉄路は続いているのだ。行かなくては、とMはつぶやく。行かなくては、とMが叫ぶ。五月五日と日付の打たれた告別の言葉と「別れの曲」の調べに、Mはピアニストに会って応えなければならない。素肌に鳥肌が立って全神経が緊張した。たとえ不吉な予感が杞憂に過ぎなくても、連休中に行かなくてはならないと決心した。だが、金がなかった。今日までクリアできなかった問題がまた頭をもたげた。大屋もお菊さんも貸した金を返すはずがなかった。

「私も借りればいい」
大きな声で言って壁に掛けた鏡を見た。鏡に映った黒い顔はいつになく生気に溢れている。結果を考える功利を捨て去ったいつものMの顔だ。まなじりを決した目には涙の予兆もなかった。

「ようし」
もう一度大きな声を出してうなずいてから勢いよくドアを開けた。暗い廊下を素っ裸のまま大股で歩く。空き室を過ぎ、大階段の踊り場を過ぎて金貸しの先生のドアの前に立った。夜風に吹かれて冷たく冷え切った肌が、身体の芯から込み上げる熱で燃え上がってくる。もはや世界にはMとピアニストしかいなかった。厚い木のドアに備え付けられたインターホンのボタンを、Mは確かな指先で押した。

「誰だね」
小さなスピーカーから、かん高い声が返ってきた。
「Mです。お金を借りに来ました」
躊躇なく答えたが、頬が赤くなるのが分かった。
「Mさんに貸す金はないよ。身体だけが資本の者には金は貸せない。いつ壊れるかも知れないからね。金貸しの常識だよ」
にべもない答えが返ってきた。Mは愕然とし、絶句した。
「Mさん、金は貸せないが、身体は買うと言ってあったろう。金が必要なら僕に身体を売りなさい」
感情のこもらない機械的な声がスピーカーから流れた。Mの裸身が小刻みに震える。
「私に、春をひさげと言うのね」
「ハハハハ、やけに古い言葉を使うね。女を買うと言っても僕は九十歳だよ。前にも言ってあったと思うが、自由恋愛と言ってやに下がりたくないから買うと言うのだ。後は売る方の自由意志だよ」
先生が事務的な声で、借金の代わりに売春を迫った。声とは裏腹な楽しそうな表情が目に浮かぶ。金の欲しいMを翻弄して喜んでいるに違いなかった。唇を噛みしめたが、もう道は残されていない。

「お願いです。私の身体を買ってください」
震える声で答えると同時に、ドアの錠が外れる音が大きく響いた。Mは思わず辺りを見回してしまう。だが、暗がりに人の気配はない。老人福祉センターで遊びまくってきた婆さんたちは、とうに寝入ってしまったようだ。冷たくなった手でドアのノブを回し、そっと手元に引いた。開いたドアから室内の明かりが走り出る。裸身が白々と照らし出された。胸を張って前に進もうと決心したが、妙に背中が屈んでしまう。
「ほう、いい覚悟だ。初めから身体を売るつもりだったのかね」
Mを見た先生が感動の声で言った。急いで黒檀の机に広げた書類を引き出しにしまい、うなだれた裸身を鋭く見上げる。射るような視線が全身に突き刺さってきた。Mは後ろ手にドアを閉めながら慌てて言葉を捜した。
「いいえ、すぐにでもお金が貸してもらいたくなって、闇雲に飛んできてしまっただけです」
とんちんかんな答えを口にすると、妙な自信が湧いてきた。たかが電車賃を借りるのに、よそ行きは要らないと思った。すでに素っ裸でいるのだ。よく事情を話せば電車賃ぐらいは貸してもらえそうな気がしてきた。Mは背筋を正し、うなじを伸ばして先生の目を見つめた。一通りの事情を話し終えると文机の向こうで先生が大きくうなずいた。丁寧に着こなした桐生お召しの単衣が豪奢で鷹揚な雰囲気を伝える。Mの口元に思わず微笑みが浮かんだ。

「新妻になったばかりのMさんが金の要る事情はよく分かった。つまり、結婚指輪の八万円と刑務所までの旅費の二万円、締めて十万円が当座に必要な金だ。そしてMさん自身が、大屋に十万円、お菊婆さんに六万千円を貸しているというのだな。つまり債権がある」
債権という言葉を聞いてMの希望が大きく膨らむ。
「そうなんです。債権を抵当に取ってくれていいわ。私は身体だけが資本でなく、債権を持っている。今は電車賃だけでいいんです。十六万千円の債権を担保に二万円を貸してください。先生に損な話ではないわ」
「ハッハハハハ、話ではそうなるというだけだよ。債権は債権でも、超不良債権では紙代にもならない。金は人を見て貸さねばだめだ。現在のMさんに金を借りる資格はない。やはり身体を売るしかないね」
先生の言うとおりだった。Mの裸身がまた小さくなる。

「この前Mさんが訪ねてきたとき、僕の買ったSM用品を身に着けてくれればいつでも二万円出すと言ったはずだ。今回はそのほかに八万円支払う。SM用具を使って一晩身体を責めることが条件だ。悪い条件ではない。僕としては結婚のお祝いも入れてあるつもりだ。たったの一晩、老人の前で恥ずかしい姿に耐えるだけだ。何と言っても人妻の身体を買うほど楽しいことはない」
人妻の身体を買うと言った言葉が胸に突き刺さった。だが、ピアニストの告別の不安が大きくMにのし掛かる。是が非でも明日は面会に行きたかった。もう退くことはできない。
「お願いします」
小さな声で言って頭を下げ、きつく唇を噛んだ。
「よし決まった。異例だが先に十万円を渡そう。Mさんも領収書を書いてください。そうすれば間違いがない」

領収書
金壱拾万円也、五月四日に将に領収しました。
但し、拘束具等SM用品のモデル及びSM器具の使用モニターの役務料として。M

Mは言われるままに、一晩身体を買われる証文を書いて署名した。書き終わると同時に見えない縄で全身を拘束された感じがした。何のことはない、性の奴隷としての一夜が始まるのだった。

「さあM、寝室においで。金庫もそっちにある」
Mの書いた領収書を大事そうに文箱にしまってから、先生が立ち上がって促した。隣の室に通じる両開きの引き戸が開けられると、暗い方形の室の中央に置かれたダブルのロー・ベッドが真っ先に目に映った。先生は壁のインバーター・スイッチを調整して、新聞の見出しが読めるほどの光量に間接照明を調整した。南側の腰高窓の上でエアコンの微かな音が響いている。窓は隣の事務室と同様、ステンドグラスがはめ込みになっていたが、図柄は豊満な西欧の裸婦だ。事務室の聖母マリアとは対照的だった。先生がベッドの上にビニールシートを拡げた。Mは命じられるままベッドに上がり、シートの上に正座した。マホガニーの頑丈な枠に載せられたマットレスは極めて固い弾力だった。高価なスプリングの動きが素肌に伝わってくる。

「高い買い物だったが、やっと使うことができる。楽しい夜になりそうだよ」
生き生きとした表情で剥げ頭を輝かせた先生が、部屋の隅の棚からSM用品の入った袋を取ってMの前に置いた。
「さあ、一晩お世話になる品を膝の前に並べるんだ」
命じられたMが袋から婆さんたちの自信作を取り出す。柔らかな黒革を縫製した乳房強調拘束具、口枷、手枷、足枷、膝枷。最後に肛門調教具とT字帯が膝の前に並んだ。婆さんたちの内職現場で見たときとは違い、いずれも凶々しい光を放っている。自分の身体を拘束する器具を並べる情けなさに、つい眉をひそめてしまった。目ざとく表情を読んだ先生が口元に笑みを浮かべた。

「おお、そうだ。領収書だけ書かせて金をやらぬのでは詐欺になるね。すぐ十万円を支払おう」
うれしそうな声で言って、先生は部屋の北隅に置いた金庫の前にしゃがみ込んだ。金庫は小さな冷蔵庫ほどの大きさがある。何回もダイヤルを回したあげく、小さな金属音と共に錠が外れた。金庫の中を見せ付けるように扉を大きく開けた。厚さ十センチメートルほどの札束が三つ並んでいる。先生は三千万円もの大金を部屋に置いているらしい。一つの札束の上から十枚の札を数え、そのまま手に持って戻って来た。金庫の扉は閉めようとしない。金の力をMに見せ付ける気のようだ。

「十万円だ。この札が身体を買うんだ。ちゃんと渡すぞ」
先生が厳しい声で言って十万円を手渡す。素っ裸のMにしまうところはない。身体を売った屈辱だけが札から伝わってきた。仕方なくベッドの横のテーブルの上に置いた。落ちて無くならないようにインターホンの受話器を札の上に乗せた仕草を、我ながら見苦しいと思ってしまった。
「さあ、M。これで身体は僕のものだ。早速、拘束具を身に着けてもらおう。手の届くところはすべて自分で装着するのだ。順序を間違って着けられない装具があれば、初めからやり直しをさせる。最初だけ指定するが、まず口枷にする。生意気なことを言えないように口を大きく開けているのだ。言葉が話せなくなる前に言いたいことを言ってから口枷を装着しなさい」
ベッドの正面に置いたスツールに座った先生が冷酷な口調で命じた。
「言いたいことなど何もないわ。どうせ一晩買われた身体よ。存分に辱めるがいい。私は心までは売らない」
「ハッハハハ、やはり生意気なことを言う。女郎に売られた娘がほざくのと同じ台詞だ。今も昔も女は変わりはしない。そんな娘もつらい折檻を味わった後は嘘のように転ぶ。ここは遊郭の跡だ。Mにも折檻に泣く女郎の気持ちを味あわせてやる。さあ、口枷をするんだ」

先生の言葉が待ち受けている現実をMに思い知らせた。屈辱と恐怖が身体の中で交錯する。固く唇を噛みしめてから膝の前の口枷を手に取った。大きく口を開けて金属の輪を口にはめ、両手を後頭部に回して黒革のベルトで止めた。もっと強く、もっときつくと先生の注文が飛ぶ。Mの顔は縦横に走る革ベルトで無惨に歪んでしまった。次から先生の指示はない。装着する拘束具を自分で選ばねばならなかった。いずれにせよ手枷が最後に残ることに間違いはない。できれば一番恥ずかしい肛門調教具は後回しにしたかった。しかし、身体と足を拘束した後で、器具をうまく肛門に挿入できなければ初めからやり直しだった。やはり肛門調教具を選ぶしかなかった。Mはヒョウタンのように二つの瘤がついたゴムの筒を手に取った。手に取った瞬間、尻の穴がキュッとすぼまる。婆さんたちに強引に挿入されたときの激痛が甦った。確か、婆さんたちはLサイズだと言っていた。それを今度は自分で挿入するのだ。大きく股を開いて片手を尻に回した。目をつむって指先で肛門をゆっくりもみ上げる。先生の目が股間に吸い寄せられているのが目をつむったままでも痛いほど分かる。恥辱を振り捨てて一心にピアニストのことを思った。小さな官能の炎が下腹部に灯る。肛門が快楽に咽び、陰門に愛液が溢れ始めた。愛液を指先ですくって肛門になすりつける。黒いゴムの筒先を肛門にあてがい、陶然とした気持ちでゆっくり挿入していった。ピアニストの逞しいペニスを初めて尻に迎えるのだと思い定めた。陰門が歓喜に震え、大きなゴムの瘤を肛門が一気に飲み込む。Mは大きく溜息を付いた。だが、休んではいられない。皮のT字帯でゴムの筒を厳重に股間で止めた。異物を体内に呑み込んだ尻が屈辱に震えた。次に乳房強調拘束具を取り上げ、複雑に交差する皮帯に苦労しながら全身を拘束した。惨めな自縛を続けるMを、尻に垂れ下がった二本のゴムパイプとゴム鞠が滑稽に揺れて嘲笑う。最後に膝枷と足枷を着けて立ち上がった。引き締まった肉体に柔らかな皮帯が食い込み、裸身を縦横に拘束している。

「よし、面白い見せ物だった。手枷は僕がはめよう。後ろを向きなさい」
先生に命じられてMが後ろを向く。九十歳の老人とは思えない力が背中で組んだ両手を手枷で拘束し、皮帯で首筋近くまで引き上げた。
「さあ、いよいよ女郎の折檻が始まるぞ。生意気に、少しも泣きを見せない罰だ。存分に苦痛を味わうんだな」
楽しそうに先生が言って、棚の上からゴムのベルトを手に取る。長さ二メートル、幅二センチメートルの丈夫なベルトだ。そのベルトをMのウエストの少し上に二重にして厳しく巻き付ける。ちょうど胃の下に当たる位置だ。ベルトが素肌に深く食い込むまできつく締め付けて縛り上げた。
「座り込めるように膝枷は外してやろう」
独り言をいった先生が膝枷を外した。尻尾のように尻から垂れているゴム鞠の一つを右手に持つ。ゴム鞠のバルブを閉めてから無造作に鞠を握った。途端に肛門の内と外にあったゴムの瘤が動きだした。先生が鞠を押す度に二つの瘤が膨れて肛門の内と外から括約筋を圧迫する。
「これくらいでよかろう。もう外れる恐れはない。次は空気浣腸をしてやる」
下品な笑いを浮かべた先生が握ったゴム鞠を代え、同じように無造作に鞠を握り締める。今度は肛門に挿入されたゴムの筒先から腸内に空気が入り込んできた。侵入してくる空気の異様な感触にMは面食らってしまう。排泄を目的とした肛門から逆流して上がってくる空気の存在は恐ろしい。正常な感性が麻痺してしまいそうな違和感と屈辱感が全身を襲った。そんなMの気持ちにはお構いなく、先生はゆっくりと規則的にゴム鞠を握り続ける。
Mの下腹が目に見えて膨れてきた。体内の空気を何とか排出しようと脂汗を浮かべて息むが、肛門を内と外から挟み込んだ風船はビクともしない。やがて下腹が臨月を迎えた妊婦のように膨れ上がった。苦しさにうなだれると、膨れた腹が目に入るだけで股間はおろか足の先も見えない。口から流れ出た涎が空しく突き出た腹に当たる。立っていることができなくなり、足枷に拘束された不自由な身体でビニールシートの上にしゃがみ込んでしまった。その姿はまるで、飛び上がろうと身構えたカエルのようだ。全身から脂汗が滴り、苦しさで目が回りそうになる。ゴムベルトで胃の下をきつく縛られているため、口から空気を逃がすわけにもいかない。今にも下腹がパンクしてしまいそうな恐怖で全身が小刻みに震えた。先生がひたいの汗を拭ってから、やっとゴム鞠を手放した。体内に送り込まれる空気は止まったが苦痛はゆっくり全身に広がっていく。

「どうかね、M。これが女郎の折檻だよ。大枚を叩いて買った身体を傷付ける心配がない。その格好で三日も晒されることを想像してごらん。たまったもんじゃないよ。許してもらえるなら、身も心も売り渡したくなること請け合いだ」
Mは先生の言うとおりだろうと思って小刻みに尻を振り続けた。妊婦よりも膨れた下腹部が膀胱を圧迫し、今にも尿が洩れそうでならない。過酷すぎる責め苦だった。揺れ動く尻を見た先生がにっこりと笑った。
「M、我慢せずに失禁してもいいよ。この折檻を受けた者は皆失禁する。尿にまみれた無様な姿を、許されるまで晒し続けるしかないんだ。残酷な仕打ちだよ。だが、ほんの少し前までこの遊郭でも行われていた仕置きなんだ。女郎の血の涙を一晩味わうがいい。Mはたったの一晩だよ。夜は短い。そろそろ私も楽しませてもらう」
急に若やいだ声になった先生が総絞りの帯を解き、桐生お召しの単衣を脱いで井桁に掛けた。痩せて皮膚のたるんだ股間で醜悪なペニスが揺れている。口枷で大きく開かされた口に萎びきったペニスが挿入された。Mは抵抗もせずにペニスに舌を絡ませる。買われた身体と思うと涙が湧いてくる。だが、先生の言葉の通り、確かにこの屋根の下で多くの女が屈辱の涙を流したはずだった。今、Mはその何分の一でも味わいたいと真剣に思った。女郎同様に金で買われ、恥辱にまみれて折檻を受けているが、決してへこたれまいと決心する。どれほどの苦悩や屈辱にまみれても生き延びるのが女だと確信した。たっぷり時間を掛けて舌を使うとペニスがゆっくりと鎌首をもたげてきた。九十歳にもなって単純な性だけを追う未熟な男だ。先生の口から低い喘ぎ声が出ると同時にMは失禁した。

ルッルルー

突然インターホンの電子音が鳴り渡った。先生がMの口からゆっくりペニスを引き抜いてから受話器を取った。
「誰だね」
機嫌の悪い声で訊ねると、聞き慣れた声が受話器から漏れてきた。
「先生、大屋です。でも借金の話じゃない。切らないでください。富士見荘の権利書を引き取りに来たんですよ。先生は狡いですよ。木造三階建てのこの家は、今では文化財級というじゃないですか。富士見荘が担保なら金融会社が五十万円貸すそうです。先生に借りた二十万円を返済しますから、権利書を返して下さい」
「利息をいれて二十五万円だぞ」
「分かってますよ。ちゃんと持ってきました」
先生は素っ裸のまま、受話器を片手に首を傾げて考えていた。だが、借金を返済するという大屋を断る口実は見当たらないようだった。

「もう休んでいたところだから、ちょっと待っていなさい」
無愛想に言って受話器を置いた先生は、井桁から着物をとって素肌に着た。禿げた頭に手をやったが乱れた髪があるはずもない、ただのご愛敬だった。
「文化財かどうか知れないが、確かに富士見荘は近代化遺産だ。あながち嘘でないかも知れない」
独り言のようにいってから、先生はMが身動きできないように黒革の首輪を延ばしてベッドの柵に縛り付けた。室の照明を消してから事務室に出て、引き戸を閉めた。真っ暗になった寝室のベッドにしゃがみ込んだMの前に、五センチメートルほどの光の帯が見える。先生が戸をぴったりと閉めなかったのだ。戸の隙間からは、ちょうど文机を前にして座った先生の横顔が見えた。先生がMを見て好色そうに笑った。故意にしたとしか思えなかった。あまりの仕打ちに背筋が寒くなる。先生が手元のセキュリティーセットを操作してドアの錠を開けた。

「こんばんわ」
「おばんです」
荒々しくドアを開けて、大屋とお菊さんが事務室の中に上がり込んできた。
「何だ、お菊さんが一緒なのか。やはり借金話の蒸し返しか」
うんざりした声で言って、先生が二人を睨み付けた。
「いや、ちゃんと二十五万円を持ってきましたよ」
大屋が立ったまま憎々しい声で言って紙袋を突き出す。反射的に先生が首を伸ばして袋の中をのぞき込もうとした。Mの目に腰を浮かして前屈みになった先生の上半身が映った。
「何をするんだ」
大きな叫びを発した先生の首に、大屋が袋から出した電気のコードを巻き付ける。素早く先生の横に回ったお菊さんが、大屋から渡されたコードの端をつかんだ。二人一緒に綱引きのようにコードの両端を握って先生の首を絞め上げる。狭い戸の隙間からは先生の苦悶の表情だけが見えた。鼻から血を吹き、獣の唸りを上げて先生は暴力に耐える。しかし、それも一瞬のことだった。お菊さんの背に隠された顔がもう一度現れたときは、もう絶命寸前だった。黒く充血した顔に真っ赤に血走った目が恐ろしかった。首を絞められて中腰になった先生の身体がブルッと最後に震えた。それでも大屋とお菊さんは力を緩めず、悪鬼の形相で掌に食い込むコードを引っ張り続けた。とうとう先生の首の骨が折れる陰惨な音が部屋に響いた。あまりの修羅場にMは我を忘れて目をしっかり閉じてしまった。

「やっと終わった」
疲れ切った大屋の声がのんきそうに部屋中に響いた。
「長居は無用だ」
答えたお菊さんが寝室の戸を開け放った。事務室からの明かりを一身に浴びたMの姿を見て殺人者が度肝を抜かれた。二人が息を呑み、絶句する声がMに聞こえた。不気味な沈黙の後で大屋が掠れた声を出した。

「臨月の妊婦が縛られているのかと思ったら、Mだ。どうして金貸しの部屋で妊娠してるんだ」
大屋のとぼけた言葉にもMは笑うことすらできない。口枷をはめられた口を大きく開き、まん丸く見開いた目で二人をぼう然と見つめた。
「妊娠ではない。すけべ爺に折檻されただけだ」
お菊さんが陰惨な声で言った。二人の身体から殺気が伝わってくる。
「かわいそうだが見られてしまった。お菊さん、Mを殺そう。Mも責め苦から逃れられる。さあ早く、一緒に首を絞めよう」
獣のように暗く光る大屋の目がMを射すくめた。だが、お菊さんの答えはない。待ちきれなくなった大屋が片足をベッドにかけたとき、お菊さんが厳しい声で制止した。
「だめだ、Mを殺すことは許さん。殺さなくともMは何もしゃべりはしない。のうM、Mは責め苛まれて失神していたんだ。何も見てはいまい」
鬼気迫るお菊さんの形相に、Mはただうなずくだけだった。命が助かった喜びもない。一切の感情を無くして過酷な責めだけを肉体で甘受していた。

「ちょうどいい、金庫が開いたままだぞ。大屋さん、早く金を借りておさらばしようぞ。ざっと三千万円あるぞ。大屋さんはいくら借りたいんだ」
金庫の前にしゃがみ込んだお菊さんが大屋に尋ねた。
「俺は百万でいい。それ以上借りては返せなくなる」
「大屋さんは正直なお人だ。それではわしも百万円を借りようぞ」
殺人者とも思えぬ対話の後、二人はそれぞれ苦労して百万円ずつ抜き取ってから金庫の扉を閉めた。
「M、さっきも言ったとおり。ぬしは失神していたのだぞ」
帰り際にお菊さんが因果を含めてから、寝室の戸を閉めた。真っ暗になる寸前に見た事務室の文机には、醜く首をねじ曲げられた先生の小さな死骸がうつ伏せになっていた。ゴミのように惨めな死骸だった。殺人者はいなくなった。暗闇の中でカエル腹になった下半身が苦しく疼き、二度目の失禁が股間を濡らした。科せられた過酷な責めだけが、科す者が死んだ後もMを責め苛み続けていた。


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