10.面談

Mと陶芸屋は午後になってから睦月のアパートに向かった。
七月最後の日曜日の昼下がりも相変わらず暑い。かろうじて日陰になった一階の駐車場で、二人はオープンにしたままのMG・Fに乗り込む。照りつける日射しを遮る術はないが、熱のこもった締め切った車よりはましだった。睦月のアパートまでは車で三分とかからない。カー・エアコンが効き始める前に着いてしまう。だが、右片麻痺の陶芸屋と歩けば、ゆうに二十分はかかるに違いなかった。

「この時刻にならないと、睦月は起きないのよ。暑いけれど我慢して」
助手席に座った陶芸屋に弁解するように言ってから、Mはアクセルを踏み込む。水道山から吹き下ろしてくる微かな風を切って、真っ赤なMG・Fが発進した。家並みの連なる山手通りが暑熱の中で揺らめいて流れ去る。

コンクリート平屋造りのアパートの前にしゃがみ込んだ、進太の小さな姿が見えた。ドアの上から張り出した庇が路上に小さな影を落としている。今年の夏の進太お気に入りの場所だった。進太の姿を認めたMの顔に微笑みが浮かぶが、決して涼しくはない路上の日陰で、昼になってから起き出してくる母を待つ進太の気持ちを考えると悲しい。睦月にMの部屋への出入りを差し止められた進太が、虐待のやんだ今でも約束を守っているのが哀れでならなかった。
小さくクラクションを鳴らすと、はじかれたように進太が立ち上がる。いつものように手を振って喜ぶかと思うと身を固くし、近付いていくMG・Fをじっと見つめてから背中を見せてしまった。そのまま慌てたように玄関のドアを開け、中に入ってしまう。

「俺は嫌われたようだ」
車を止めた瞬間、助手席から陶芸屋の落胆した声が響いた。無頓着な陶芸屋にしては鋭すぎるほどの反応だった。血の繋がりはやはり凄いとMは思い、舌を巻く。しかし、なに食わぬ風を装って横を向き、陶芸屋の顔を見た。肉親に対する強固な信頼と不安が交差した不思議な表情をしている。Mの知らない顔だった。

「気を落とすことはないわ。照れたのかも知れない」
Mが声を掛けると、即座に陶芸屋の顔付きが明るくなる。何の理由もいらない。ただ、血を巡る信頼が不安に勝っただけに見えた。陶芸屋の頭の中で勝手な思惑が一人歩きを始めようとしている。理不尽な家族がまた、新しく生まれる予感がした。Mの胸の底に悲しみが込み上げてくる。それにしても暑い。
Mは車を降りて玄関のドアに向かう。助手席から降りようとして苦闘する陶芸屋の気配がMの背中を打つ。構わず手を伸ばしてドアのノブを回した。ノブはカチッと音がしたきり回ろうとしない。何度ノブを回しても同じだった。進太が錠を下ろしたのだ。ようやくMの背後に立った陶芸屋が、事情を察して身を固くしたのが分かる。

「進太、Mよ。ドアを開けなさい」
一枚の鉄のドアを挟んで、すぐ前に進太の居る気配がする。だが答えようともしない。仕方なくMは、この家を訪れて一度も使ったことがないインターホンを押した。三回押すと、インターホンを通して睦月の声で返事があった。まるで広大な邸宅を訪ねていったような気分になる。
「こんにちわ睦月、Mよ。修太のお父さんをお連れしたわ」
Mが応えると同時にインターホンが切られ、短い廊下を走ってくる足音がドア越しに聞こえた。

「進太、何で鍵なんかかけるのよ」
睦月の怒声と玄関から立ち去る小さな足音が聞こえた後、ドアが開かれた。煉瓦色のジーンズにピンクのTシャツを着た睦月の小柄な身体が、二人を押し戻すようにドアの外まで出て来た。
「まあ、お義父さま。暑い中を、遠い所からよく来てくださいました。今まで進太もここで待っていたのですよ。あの子は照れ性だから、お義父さまにお会いするのが急に恥ずかしくなったんですわ。閉め出したりして本当に済みませんでした」

睦月はMの横に並んだ陶芸屋に深々と頭を下げ、使い慣れぬ言葉を機関銃のように連射した。歯の浮くような台詞にMが辟易とすると、急に矛先がMに向かってくる。
「Mは気が利かないわね。こんなちっぽけな車では進太を乗せられないじゃない。もう荷物も用意してあるんだから、祐子から大きな車を借りてきてよ。進太はすぐにでも鉱山の町に発てるわ」

「とにかく俺を進太に会わせて欲しい。まだ会わせてもらったことがないんだから、早く顔が見たい。睦月さん頼みますよ」
睦月の勝手すぎる態度にたまりかねた陶芸屋が、満身の思いを込めて頼んだ。
「あら、お義父さまは進太と会うのは初めてでしたか。でも、これからはずっと会っていられるのだから急ぐこともないわ。M、早く車を借りてきてよ」
「睦月こそ急ぐことはない。私も陶芸屋と一緒に進太と会うわ。とにかく中に入れてちょうだい」
Mと陶芸屋に言い寄られた睦月が、珍しく折れた。黙ってドアを開け、二人を先に中に通す。進太を引き取ってもらう手前を考えたのかも知れない。目の前にメルボルンがぶら下がっているのだ。明日は稽古最後の一般公演の日だった。Mは陶芸屋に肩を貸して、狭く短い廊下をリビングに向かう。蒸し暑さで滲み出た汗が寄り添った二人の肌をぬめぬめと濡らした。

進太はリビングの食卓でうつむいて座っていた。入ってきたMに縋るような視線を浴びせ、またうなじを下げた。陶芸屋には一瞥もくれない。Mはリビングの奥の二人掛けの椅子に陶芸屋を座らせ、その横に立った。
「さあ進太。お祖父ちゃんが迎えに来てくれたわ。早くご挨拶しなさい。きっとかわいがってくれるわ」
睦月が言って、座っている進太の頭を小突いて立ち上がらせた。両手で背中を突き、陶芸屋の前に押し出す。ふてくされた態度で従った進太の代わりに、睦月が食卓に座った。
「進太、照れていないで、お願いしますって、ちゃんと言うのよ」
実の息子の気持ちも推し量れなくなった睦月が、妙に機嫌のいい声を出す。声に促され、進太が初めて大きな目で陶芸屋を見つめた。憎しみのこもった冷たい視線だった。

「ねえ、お義父さま。大きな目から口元にかけては、死んだ修太と生き写しでしょう。私はいつも、見ていてたまらなくなったわ。男らしい気持ちもそっくりなのよ」
睦月がしんみりした声で陶芸屋に話し掛けた。睦月はいつも、心の赴くままに言葉を紡ぎ出す。じっと、まばたきもせず進太を見つめていた陶芸屋の耳を、睦月の言葉が打った。2メートル前に立つ少年は確かに、幼い修太が甦ったと見まがうほど生き写しだ。陶芸屋の喉元に熱いものが込み上げてくる。次々に喉に込み上げてくる感情の波が目に涙を溢れさせる。陶芸屋の口を声にならぬ叫びが突いた。不自由な身体が嘘のように、椅子から腰が上がり、立ち上がった。

「修太。進太」
息子と孫の名前を同時に口にして、陶芸屋は自由になる左手を大きく横に開いた。
「進太、俺と鉱山の町に行こう。お父さんの暮らした土地で一緒に暮らそう」
喘ぐように陶芸屋は言って、硬直した右足を引きずり、修太の思い出と合体した進太の前に歩み寄る。
Mの目の前で進太の震える足が一歩後退した。足の震えは全身に伝わり、身体全体が泣き出したように震えた。進太のすぐ前に、左手を突き出し、足を引きずった陶芸屋が迫る。

「死ね、鉱山の町なんかに誰が行く。お前なんか死んでしまえ」
憎悪に満ちた叫びを上げ、進太が頭から陶芸屋にぶつかっていった。渾身の頭突きを受けた陶芸屋の痩せた身体が後ろ向きに吹っ飛ぶ。今まで座っていた椅子に後頭部が当たり、鈍い音が響いた。
進太は無様に床に倒れた陶芸屋を、肩で息をしながら見下ろす。意外なくらい心は平静だった。床を汚した赤い血が鮮明に目に映った。慌てて陶芸屋に駆け寄ったMが何事か叫び、硬直した身体を抱き起こしている。視線を巡らして食卓の母を見る。睦月はぼう然とMと陶芸屋を見ている。大きく見開いた目に、たちまち失望の色が広がっていくのが分かった。部屋の中央に立ちつくす自分だけが、まるで別世界にいるような気がした。
「誰も僕のことは構ってくれない」
ふてくされた少年の声が進太の頭の中で響いた。これまで聞いたことのない低い声だが、自分の声に相違なかった。

「睦月、陶芸屋は頭を打ったわ。意識はあるけど、念のため、救急車を呼んで」
進太の耳に初めて他人の声が聞こえた。冷静なMの声だ。睦月の応える声がして救急車を要請する声が続いた。電話をかけ終えた睦月が進太の横に立った。進太は母の顔を見上げた。目と目が合う。睦月の目に特に感情はない。きっと僕の目もママと同じだと進太は思った。思った瞬間、口元に笑いが浮かんだ。睦月の右手が挙がり、力任せに進太の頬を打った。皮膚を打つ高い音が部屋を満たす。
「進太は馬鹿よ。黙って鉱山の町に行けばいいんだ」
低く押し殺した声が頬の痛みを耐える進太の耳を打った。
「ウルセイ、みんな、みんな、死んでしまえ」
大声で叫びながら進太が外に駆け出していく。妙に乾燥したボーイ・ソプラノの余韻がMの耳に残った。遠くから救急車のサイレンが近付いてくる。途端に蒸し暑さが甦り、全身から汗が噴き出してくる。
明日は祭りの初日だった。


進太は山根川の川原づたいに、山地に向けて歩いていた。遮る物の何もない川原を渡る風は心地よかったが、日光の直射が散々に痛め付けた。無帽の頭がじりじりと灼け、全身が汗にまみれた。出つくした汗が塩に変わると無性に喉が渇いた。全身が乾ききり、素肌が焦げ始めるような気がした。このまま炎熱の中に倒れ、死んでしまってもいいとさえ思う。どうせ僕は邪魔者なのだとふてくされると、沸き上がる焦燥が日射しにも増して進太の心を熱く灼いた。一時的に高まった破滅への衝動は、猛暑の中では長続きしない。工学部の先の橋下の日陰まで出たところで、ついに我慢ができず、進太は裸になって川に飛び込んでしまった。

山地の沢水を集めた山根川の清流は、進太の裸身を優しく包み込んだ。冷たい水が火照りきった肌を一瞬に冷やす。素肌全体が歓喜の声を上げた。喜びが全身に伝わる。このまま死んでもいいと思えるほどの心地よさで、進太は流水と一体になり親和した。脳裏に渦巻いていた焦燥も、またたくまに吹き飛んでいった。だが、平安はつかの間に過ぎない。進太の冷ややかな意識の中で、熱い怒りが膨らんでいった。激情を育むには、人は快適な環境を必要とするらしい。快適な水浴びで自足した進太の心に芽吹いたのは、パステルカラーの殺意だった。

どれほど関心をねだっても、これまでとは手の裏を返すように進太を無視する母。それでも進太は母の側に居たかった。つい一か月前までは、痣ができるほど折檻されても、食事を与えられなくても、進太は母の存在を全身で感じ取ることができた。素っ裸にして鞭打つ母も、進太と同じ地平にいたのだ。進太に絶食を命じたときは母も食事をしなかった。母子二人だけの黙契が、毎日の虐待を用意していたのだ。それは母か進太の自立で終わるはずだった。どちらかの自立が家庭の自立につながる。しかし、睦月は母を捨て、女であることを選んだ。明後日のメルボルン行きを前にして、進太を鉱山の町に売ろうとしたのだ。その母を誘い、進太を捨てさせた男が演出家の沢田正二だ。沢田は性を武器に、母を一人の女に変え、進太から奪った。そして嫌がる進太を鉱山の町に引き取りに来た祖父。あの粘り着くように進太に迫る理不尽な態度は決して許すことはできない。母から進太を引き離そうとする第一級の敵だ。その敵に会心の一撃をくれたとき、Mは真っ先に敵を救いに駆け寄ったのだ。そして母は、母は足手まといになった進太を振り払うように打った。あの時進太は完全な孤独を実感した。孤立無援の中で何をしたらよいか分からず、一散に逃げ出してきたのだ。やはり死のうと進太は思う。世界中に僕のいられる場所はないと思い定めた。死ねば母と一緒の世界に戻れそうな、甘い予感が進太を彼岸に誘う。

進太は冷ややかな流れの中を、一番の深みを目指して泳いだ。橋の中央の濃い緑色に見える淵まで泳ぎ、目を固くつぶって身体を硬直させた。見る間に頭が下がり、裸身が流れに引き込まれた。目の前が真っ暗になり、息苦しさが募る。水中で身体が不安定に浮遊する。吐く息がなくなり、じっと息を詰めたが空しく、苦しさに負けて小さく呼吸した。途端に鼻と口から水が侵入し、苦しさに咽せた。目の前が真っ赤になり、まぶしい光が急に輝きだした。橋から五メートル下流に進太の頭がぽっかりと浮かび上がった。進太は上流に泳ぎ戻り、二度、三度と自殺を試みたがすべて失敗した。最後は、さすがに全身が冷え切り、唇が震えているのが分かった。突然、このままでは溺れてしまいそうな恐怖に駆られた。自殺はしたいが溺れるのはいやだった。泡のような殺意は急速に萎んでいった。

疲れ切った進太はコンクリートで固めた護岸に上がり、うつ伏せに寝ころぶ。熱く灼けたコンクリートが冷え切った肌に気持ちよい。背から尻を炙る斜めになった日射しも心地よかった。仰向けになって空を見上げると、山地の方角に巨大な入道雲が立ち上がっていた。進太も立ち上がり、皮を被ったペニスを川面に向けてのびのびと放尿した。飛び散る尿を浴びたコンクリートの裂け目の水たまりで、赤黒い物が動いた。屈み込んでのぞくと大きな鋏を上げたザリガニが進太を威嚇している。無造作に手を伸ばし、進太はザリガニを掴もうとした。湯のように暖まった溜まり水の中で、ザリガニは素早く進太の指先を挟んだ。鋭い痛みが指から脳に走る。今度は慎重にザリガニの背を摘んだ。手に持ったザリガニを目の前にかざして見ると、相変わらず大きな鋏を振り立てて進太を威嚇している。細長い足で必死にもがき、荒々しく尾ヒレを振り立てている。なんとも醜悪な姿だった。この醜いちっぽけな生き物が鋭い痛みを与えたのだと思うと、怒りが込み上げてきた。ザラザラとした固い殻を摘んだ親指と人差し指に力を込める。ピシッと小さな音が響き、指先の抵抗が消えた。潰れたザリガニの胴から、ぬるっとした粘液が足元に滴り落ちた。驚愕と快感がない交ぜになり、真っ赤な感情となって膨れ上がる。進太は右手を高々と振り上げた。そのまま力いっぱい、ザリガニをコンクリートの地面に叩き付ける。生物が砕け散る何とも言えない物音が響き、裸の足や股間にザリガニの体液や内蔵の破片が跳ね返ってきた。ねっとりとした感触を素肌に受け、進太の背筋が一瞬に凍り付く。続いてえもいわれぬ残酷な快感が吹き出し、尻の穴の周りがむず痒くなった。外向きの殺意は肛門を中心に生まれた。ペニスの先にへばりついた赤黒い液体を指に取り、鼻先に持っていくと腐った魚のにおいがした。足元のコンクリートの地面にザリガニの残骸がごみのように転がっていた。大きな鋏で指先を挟まれた事実が、まるで嘘のようだ。ザリガニの死骸を無表情に見て進太は立ち上がった。死骸になってもやはり、醜悪な姿は一向に変わらない。ただ、死を契機にして一切の関係が絶たれたことだけが唯一の変化だった。

進太は火照ってしまった裸身を再び川面に浮かべた。流れに逆らってゆっくり泳ぎ、脱いだ服を置いた橋下に向かう。冷えていく意識の底にザリガニになった沢田と祖父が見える。進太の口元が歪み、心地よさそうな笑いに変わる。Mに聞いたことがある山地のピアニストの家に行こうと思った。ピアニストの家は歯医者だ。歯医者には毒薬がある。毒薬があれば簡単に大人を殺すことができる。とにかく武器を手に入れることだと進太は思った。そうすればもう、何でも進太の思いのままになるような気がした。冷たい流れの中で、進太はまた楽しそうに笑う。幼すぎる殺意は甘い味がした。ようやく夕暮れがやってきた川面を涼しい風が渡っていく。不意に全身の寒さを感じ、進太は身体を震わせて身近な岸に上がった。

「こらっ、泳いでいるのは誰だ。山根川は遊泳禁止だ。どこの学校の生徒だ。先生に連絡するぞ」
はるか頭の上から怒声を浴びせられ、進太はぎょっとして空を見上げた。
頭上四メートルの橋の上で、自転車に乗った制服警官が欄干から身を乗り出し、進太を睨み付けている。夕焼けで赤くなった空をバックに、警官の姿は恐ろしいほど大きく見えた。進太は毒薬のことを見透かされた思いがした。恐怖が全身を走り抜ける。脱ぎ捨てた服を捜すのも忘れ、進太は素っ裸のまま芦原の中に逃げ込んでいった。


ヘッドライトの光を浴びて雨上がりの路上が輝いている。オープンにしたMG・Fの車内に、山根川を吹き下ろす涼しい風が巻き込んできた。雨のにおいがチハルの鼻をくすぐる。森林の香りと一体になった、雨の山地特有のにおいだ。久方ぶりに感じた懐かしさが、アクセルを踏むチハルの右足に力を与える。鋭い加速が小気味よい。車は成田空港で借りたレンタカーだ。チハルは二年振りの帰省にフェラーリを選びたかったがレンタルなどない。仕方なく空港の前のローバーの店で強引にMG・Fを借りた。借りてしまってから不意にMのことを思い出し、暗然とした気持ちになってしまった。おまけに車体の色も真紅だ。だが天候には恵まれ続けた。雷雨の多いこの地方に入ってからも、不思議と雨上がりの道ばかり走った。まるで遠ざかる雷雲を追い掛けてきたみたいだ。Mの悪運の強さに思いを馳せ、思わずたわいない笑みが浮かぶ。別に会いたくはないが、Mにはもう6年会っていない。チハルがコスモス・アメリカに赴任した年に会ったのが最後だ。その後の話も、時折祐子から国際電話で聞かされたが特に関心はなかった。アメリカの仕事は忙しい。今のチハルはコスモス・アメリカの副支配人だった。お陰で、これまで欠かしたことがない夏の帰省も、二年振りになってしまっていた。

MG・Fは山地にただ一つあるコンビニエンス・ストアの前に差し掛かった。大きな水溜まりのできた広い駐車場に、車は一台もない。徐行して店内をのぞき込んだが、客もいない。これで商売になるのかとチハルは思い、益々過疎になっていくらしい山地の将来を危ぶんだ。時刻はまだ午後八時を過ぎたばかりだ。
「私には関係ない」
大きな声でつぶやくと、両側から迫った山塊の上に稲妻が光った。続けて間延びした雷鳴が轟く。チハルは正面の闇の先に目を戻し、再びアクセルを踏み込もうとした。突然、左手の黒い林の中から白い影が飛び出す。チハルは慌ててブレーキを踏み込んだ。四本のタイヤがけたたましい音を響かせ、MG・Fは道路の中央で急停止した。ヘッドライトの光を浴びて、小さな裸身が路上に突っ立っている。雨上がりの涼しい山間で震える裸身は、あきれるほど幼く見えた。緊張しきったチハルは拍子抜けし、続けて笑いが込み上げてきた。

「坊や、山地に露天風呂でもできたのかい」
運転席から身を乗り出し、チハルがぶっきらぼうな声で言った。
「何だ、Mじゃないのか。面白くもない」
素っ裸の子供がふてくされた声で言って首をすくめた。チハルの表情がまた緊張する。
「えっ、もう一度言ってみな。Mってのは、これと同じ、赤いMG・Fに乗っている女かい」
黙ってうなずく裸身をチハルが手招きした。
「面白いね、素っ裸なのがいいよ。さすがにMの友達の坊やだ。参ったね。さあ、車に乗りな。乗せていくよ。どこへ行くんだい」
親しげに話し掛けたチハルに誘われ、震える裸身が近寄ってくる。
「俺は進太。歯医者へ行きたい」
ひときわ高いボーイ・ソプラノで答え、進太は素早く助手席に座った。雨で濡れた髪から肩にかけて水が滴っている。全身に鳥肌が立ち、寒さに歯を鳴らしていた。チハルはヒーターを入れ、着ていた麻の白いジャケットを脱いで進太に手渡す。
「いいよ。汚れてしまうよ。僕は裸でいい」
ジャケットを押し返す進太の口調が、やっと年相応の話し振りに感じられた。チハルの口元にまた笑みが浮かぶ。

「黙って着なさい。素っ裸では私に失礼だろう。いくら小さくても、女の前でチンチン丸出しでは先が思いやられる。まあ、進太の友達のMも、素っ裸で股間丸出しのスタイルが好きだったが、真似しない方がいいよ。私はチハル。祐子の友達だよ。祐子を知っているだろう」
チハルの言葉で進太の頬がポッと赤く染まった。押し返したジャケットを手元に引き寄せ、股間から胸を覆った。下を向いたまま照れ隠しのように早口で答える。
「祐子は良く知ってるよ。チハルさんが祐子の友達なら、Mとも友達だね」
「さんは要らない。チハルでいいよ。それから、Mは友達ではない。さあ家に送ろう」
チハルの厳しい声に進太が黙る。チハルは無造作に後ろを振り向き、MG・Fをバックさせてコンビニエンス・ストアの駐車場に入った。
「だめだよ。僕は家に帰れない。山地の歯医者に行くんだ。お願い、連れていってよ。お願いだよ」

進太の泣き声が深閑とした駐車場に響いた。あまりの激情に驚き、チハルは進太の横顔をのぞき込んだ。
「山地の歯医者って、ピアニストの実家の蔵屋敷のことかい」
「そうだよ。死んだピアニストのお父さんさ。僕のお父さんも死んだけど、ピアニストと一緒に住んでいたんだ。だから、きっと歯医者は僕を泊めてくれる」
進太の言葉は遠い昔の記憶をチハルの胸に甦らせた。思い出したくはない記憶だが、整理できないまま捨て置いていた記憶が、堰を切ってチハルの胸中に溢れる。
「私は、進太の両親もきっと知っている。誰なんだい」
「修太に睦月」
進太がぽつりと答えた。チハルの脳裏に一人で立ちつくす、修太の青ざめた姿が浮かび上がる。思えばいつも、修太は深刻で苦しそうな表情をして、チハルの前に現れた。目の前にいる進太の目から口元にかけては、まるで修太と瓜二つだ。チハルは大きくうなずき、山地に向けて車を発進させた。急に進太の表情が輝き出す。

チハルはいわくありそうな進太をドーム館に泊めることに決めた。蔵屋敷に行っても歯科医はいない。祐子から聞いた話では、歯科医の妻が昨年交通事故で死に、歯科医は市に移り住んでしまったはずだった。

様々な人たちの思いが籠もる山地の谷に、新世代の進太と泊まるのも一興だとチハルは思った。


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