7.父の妄執

「漁港と方角が違うよ」

朝市の準備に追われる商人たちの間を縫って、空港の方角に歩く祐子の背に晋介が呼び掛けました。
「漁港は公設で、部外者は立入禁止なの。霜月は仕事が終わった後、浜辺の桟橋に来てくれるのよ。それに、あなたに一緒に来てくれとは頼んでないわ。好きにしてくれていいのよ」
僕たちを振り返った祐子が、にべもなく答えました。ようやく明るくなってきた空が、祐子の厳しい表情を青白く染めています。
風向きが変わり、きつい潮の香りが鼻先を掠めました。横にいる晋介が肩をすくめます。くちごたえを呑み込むように息を吸い込み、足を早めて祐子を追い抜いていきました。首から吊ったライカが左右に揺れています。

「晋介が邪魔なら、そう言えばいいじゃないか。陰険な態度はみっともないよ」
祐子に並んで非難がましく注意しました。
「それは、進太がすることでしょう。昨日会ったばかりの子を、どこにでも連れてくるのは非常識よ」
明解な答えが返ってきました。祐子の言うとおりです。応えることができませんでした。黙ったまま歩き続け、祐子の言い分を反芻してみました。
確かに、僕が晋介を連れてきたのです。暗黙のうちに同行を期待し、熱望したような気さえします。これから会おうとしている霜月は、祐子の懐かしい同級生というだけではありません。死にたいと呼び掛けた祐子に青酸カリを売った、弥生の父の身近に暮らしているのです。今朝の訪問が僕たちに、どんな不測の事態を招き寄せるか分かりません。異常な展開が待ち受けていると思うのが普通でしょう。そして、祐子と同じ地平で暮らしてきた僕には、異常事態の発生に冷静に対処できる自信がなかったのです。
危険な予感が現実になったときに、頼れる保険が欲しいと願っていました。そこに、エネルギッシュでパワフルな、ニュートラルな存在として晋介があらわれたのです。頼りたくなるのは必然でした。そして、祐子も、僕と同じような予感を抱いているはずです。しかも、その実現を望んでいる。でも僕は、そんなことはまっぴらです。


海沿いの堰堤をしばらく歩いてから、運河を渡りました。
四車線の埃っぽい道路を横切ると、右手に大きな砂丘が広がっています。祐子が先頭に立って、ハマナスが植栽された砂丘を上っていきます。要所要所に写真を散りばめた霜月の案内図を、インターネットのメールで受け取っている祐子の足は、初めての土地でも自信たっぷりです。

小高い頂から見下ろした正面に、穏やかな海が広がっていました。狭い入り江は、海水浴場のように砂浜になっています。左手の山から顔を出した朝日が波頭で反射して、海面の至る所で輝いています。美しい景色でした。人影一つない、孤独な海です。
「霜月の船だわ」
歌うような声で、祐子がつぶやきました。入り江の右端から伸びた長い桟橋の先に、小さな漁船がもやっています。ヨットほどの大きさもない船は、広い海で頼りなく揺れています。舷側に並んでぶら下がった集魚用のランタンが大げさで、滑稽に見えます。
「ちっぽけな船だね」
晋介が、僕の気持ちを言葉にしました。
「イカ釣り船はあんなものよ。さあ、いきましょう」
根拠もなく断定した祐子が、走るようにして砂浜に下っていきます。僕と晋介は足下に注意して後に続きました。きれいに見えた砂浜は、至る所にゴミや産業廃棄物が投棄されていたのです。古タイヤや錆びた自転車、古雑誌、マットレスの他に小型の冷蔵庫までありました。汀には、朽ちてしまった古い桟橋の杭が放置されています。二本並んだ杭の列が沖に続いている様は、無惨な眺めでした。

「祐子、来たのか」
波の音に混じって、野太い声が浜辺に響き渡りました。初めて聞く霜月の声です。桟橋の先のイカ釣り船に、大きな人影が立っていました。
意外に身軽く桟橋に飛び移った男が、しきりに手を振っています。祐子も手を振って桟橋に駆け上がりました。僕たちもつられて足を早めます。板を連ねた桟橋は、かろうじて二人が並んで渡れる広さでした。三十メートル先で、祐子と霜月がうれしそうに抱き合っています。抱き上げられた祐子の足先で、白いサンダルが揺れています。

霜月は、レスラーのような体躯のおじさんでした。同い年の祐子がおばさんに見えないのですから、三十歳を過ぎた大人の対比は微妙なものです。重ねてきた年輪の大きさが残酷に映りました。晋介が素早くライカを構え、連続してシャッターを切りました。今日のレンズはエルマー90ミリです。

「海をバックに、いいコントラストだ。もらったね」
耳元で、晋介の興奮した声が響きました。思わず問い返します。
「美女と野獣ってことかい」
「違うよ。進太さんは古すぎる。性のコンポジションだよ。二人とも、いい味をだしていた」
もどかしい素振りで否定されてしまいました。ものを見るセンスを軽んじられたような気がしました。そっと目をつむって、二人の抱擁の瞬間を思い浮かべてみます。どこにも性的なものは感じられません。逆に、微笑ましいほどの幼さが目立っていました。牧歌的な構図です。
「どこが性的なんだい」
とぼけた質問をしたみたいです。晋介の足が止まってしまいました。
「崩壊を待つ喜びの予兆。性そのものじゃないか」
怒ったように晋介が答えました。突然聞く難解な言葉が、頭の芯に突き刺さりました。他人の考えていることは、本当に分からないものです。僕はあきれて、正面から晋介の顔を見つめてしまいました。

「進太さんも、写真家志望なんだろう。独自の目で被写体を見られなければ、到底プロにはなれないよ」
真剣な表情で断定しました。僕は真剣にうなずくだけです。どれほど身近に感じられる人でも、見くびることは許されません。改めて学びなおしました。
「進太、何してるのよ。早くいらっしゃい」
祐子の声が響き渡りました。横に立つ霜月の大きな顔が笑っています。灰色の作業着を着て、黒いゴム長靴を履いています。魚の生臭いにおいが漂ってくるような格好でした。
「やあ、お前が進太か。親父の修太より背が高くて、立派に見える。いい男だから女にもてるだろう。連れの子供も美形だ。祐子が美少年を二人も連れてやってくるとは思わなかったよ。お互いに、年を食ったもんだ」
僕が自己紹介をする前に、霜月が大声を出しました。父の修太を知っている人たちは、僕と会ったときに判で押したような応対をします。姿形と女性にもてる話です。父がよっぽどだめな男だったのか、Mの養子に対する性的なサービスなのか、判断に迷うところです。恐らく後者なのでしょう。けれど、Mから性的な影響を受けなかった僕は戸惑ってしまいます。


ひとしきり挨拶を交わしあってから、僕たちは桟橋の上に並んで腰を下ろしました。霜月を真ん中にして僕と祐子が左右に別れ、晋介は僕の隣りに座りました。垂らした足の下で穏やかな波が揺れています。空は真っ青に澄み渡り、照りつける陽射しが暑いほどです。

「あれ、船が動かなくなってしまうよ」
突然、晋介が大声を上げました。全員がイカ釣り船を見つめます。確かに目に見えて喫水が下がり、灰色の貝がこびり着いた汚い船腹が露呈しています。
「ああ、引き潮だからな。こんなちっぽけな桟橋では干潮の時は使いものにならないんだ。でも、今日の漁は終わったからいい。夕方になれば潮が満ちる。今日は大潮だからすごいぞ。あそこに並んだ杭の列の半数が水没する。浜が見えなくなるほど、潮が押し寄せてくるんだ」
得意そうに霜月が説明しました。晋介がライカを構え、杭の間を引いていく潮の流れを一枚だけ写真に撮りました。霜月の説明へのサービスのようです。カメラで語りかける手口は見事なものでした。気分をよくした霜月が先を続けます。

「この入り江は私有地なのさ。浜全体を校長が所有している。校長は、弥生の親父さんの土地固有の呼び名だ。先代までは、この入り江を使って昆布漁の網元をしていたそうだ。半世紀以上昔の話さ。今は海が汚れてしまって、この辺では昆布は採れない。潮に乗って、流れ昆布が打ち寄せる程度だ」
尋ねる前に話は核心に入ってきました。弥生のお父さんの登場です。しかし、弥生の父が校長をしていたとは知りませんでした。

「弥生のお父さんが校長先生だったなんて、初耳だわ」
祐子が僕の疑問を口にしました。
「そのとおり。弥生が市で話していたように、実際は高校の化学の教諭だった。弥生が死んでから校長と名のるようになった。だから、土地固有の呼び名なんだ。親父さんは、まだ一人娘の死を受け入れられないでいる。弥生に工学部を卒業させて、海炭市にできたばかりの私立の工業大学の研究室に入れるつもりだった。四年間手放した弥生をずっと側に置いて、ゆくゆくは教授になってもらうのが夢だったと言う。けれど、弥生は死んだ。夢も雲散霧消してしまった。生きる希望に見放された心のバランスを取るには、自分が偉くなるしかなかったのだろう。俺が刑期を済ませてここを訪ねてきたときには、もう自他共に校長と呼んでいた。後で案内するけど、ぜひ校長と呼んでやってくれ」

無骨な外見に似合わない、しんみりとした口調で霜月がいわれを告げると、祐子の肩が微かに震えました。全身で共感をあらわしている風情です。
「悲しい話ね。生きる意味を失った者の気持ちがよく分かるから、きっと私に青酸カリを送ってくださったのね。失礼だけれど、こんな寂しい海岸に閉じこもってしまった霜月には、生きる希望があるの」
大胆なことを尋ねました。話の行きがかりなのですが、余裕を失いかけた祐子の態度が、僕をはらはらさせます。沈黙が落ちました。間近に聞こえていた波の音が遠く去っていくような気がします。引き潮の響きなのでしょう。

ようやく、霜月の声がこぼれ落ちました。
「祐子は昔、心を閉じてしまった時期があったと俺に言った。俺は自閉症ではないが、同じように心を閉じてしまったんだ。五年の刑期が終わった後、ここに来ないでMや祐子、極月たちのいる市を訪ねる道もあった。だが、刑務所にいた五年間、俺が思い描いていたのは弥生の姿だった。幸運にも俺は、弥生の死に立ち会わないで済んだから、死を信じないこともできる。市に戻れば、嫌でも弥生の死を目の前に突き付けられただろう。だから、俺は海炭市に来た。校長の好意で漁師の真似事を始めてから十年経つが、校長と毎日交わす弥生の話題はまだ事欠かない。俺には弥生と一緒に生きる希望がある」
断定の声が響きました。隣りに座った晋介が身を乗り出します。

「ずいぶんレトロだね。夕べ見た路面電車みたいだ」
今度は晋介が大胆なことを口にしました。即座に身体を硬くした霜月の動きが伝わってきます。
「ガキに何が分かる。将来をなくした三十七歳の男には、それなりの生き方があるんだ」
吐き出すように霜月がつぶやきました。声と同時に、身体から抜けていく力が悲しみの深さをあらわしているようです。息が詰まります。
「たった五年を、懲役に行っただけじゃないか。貴重な体験だぜ」
やけに明るい声で晋介が応じました。センチメンタルな感情を心底嫌っている響きです。
「やめてよ、もう黙って。事情も知らないあなたに、かき混ぜられたくないわ。それより、霜月が弥生のことをそれほど思っていたなんて、私には新鮮だった。ここまで来た甲斐があったわ。校長さんにも早く会いたい」
センチメンタル派の筆頭のような祐子が晋介を叱責して、感嘆の言葉を口にしました。僕は晋介の気持ちも、大人二人の気持ちもそれぞれに理解できます。コウモリのような、中途半端な態度がやり切れなくなります。性を話題にして、霜月の真意を探ってみることにしました。

「Mに聞いた話では、弥生はピアニストとのセックスを契機にして、生きる希望を育んでいったそうです。その死も、ピアニストに殉じたものでした。あなたが知らないわけがないでしょう。レトロと言うより、創作した希望に寄り掛かっているとしか思えません。そして祐子は、現実の希望を捨て、創作した死を求めている。二人とも不自然ですよ」

思いがけず強い言葉がでました。横にいる晋介を意識したのかも知れません。二人の大人を誹謗した言葉が波間を漂って、沖に流されていきます。長い沈黙が続きました。

「せっかく海炭市まで来てくれたんだ。俺が、とっておきのイカ料理をごちそうするよ。みんなに食べさせたくて、生け簀のイカを確保しておいたんだ。朝飯を済ませてから校長の家に行こう」
疲れた声で言って、霜月が立ち上がりました。僕たちはホテルの朝食を食べていません。改めて空腹感が襲ってきました。上手に答えをはぐらかされてしまったようです。

イカ釣り船に戻っていく霜月の後を祐子が追いました。几帳面な祐子が調理をサポートするのですから、衛生の心配がなくて済みそうです。晋介が、うんざりした顔で僕を睨みました。
「退屈なら、コンテストの会場に行ってくれていいよ」
弱々しく声をかけました。とたんに晋介が吹き出します。大きな声で笑いました。
「進太さんが気にすることはないよ。時代遅れの万年青年をいたぶるのは、結構おもしろい。写真展は午後八時までやっているんだ。一日は長い」
大人びた声で答えて、また笑いました。

Mが話してくれた、友愛という言葉が脳裏に浮かびました。Mが弥生に友愛を抱いたように、僕は晋介に友情を感じています。Mが最もはつらつとしていた時代の空気が、ちょっぴり分かったような気がしました。何よりも躍動してくる感覚に手応えがあります。祐子の話も、霜月の話も、これから聞かされるはずの弥生の父の話も、みんな嘘だと直感しました。
おためごかしの希望が真実であるはずがありません。いささか破壊的ですが、晋介の言葉を実践しようと思いました。


霜月が作ってくれたイカ料理は最高の味でした。昨夜食べたイカ・ソーメンとは雲泥の違いです。
「うまい、このイカは白くないよ。生臭くない」
一口食べた後の、晋介の率直な感想でした。
「ハハハッハハ、生きているイカは透明なんだ。海の中には白いイカなんて泳いでいない。それは死んだイカだ」
得意満面な表情で言って、霜月が大笑いしました。確かに生け簀に入れてあった、とりたてのイカは新鮮です。生まれて初めて味わう美味に舌鼓を打ってしまいました。

「それに、だし汁が違う。校長の家に保存してあった、最高級の昆布を使ったんだ。さすがに網元だっただけのことはある。ストレートに味にでるんだ」
いささか自慢が鼻に付きますが、霜月には調理人の才能があるようです。発散されたエネルギーも一直線に伝わってきました。今の霜月は透明なイカになっています。これが本当の希望だと思わずにはいられません。祐子も珍しく目を細めて霜月を見ています。楽しい食事の時間が続きました。霜月は、ウイスキーの大瓶を持ち出して陽気に飲んでいます。
僕は、このままの気分で帰りたくなります。

「おい、進太、さっきの問いに答えてやるよ。セックスの話だ」
酔いの回ってきた霜月が、絡みつく声で言い寄ってきました。とたんに気分が落ち込んでしまいます。またもや創作の世界が繰り広げられるのです。おまけに酔っていては、もううんざりです。
「もういいですよ。忘れてください」
両手を振って答えましたが、霜月は取り合いません。オートマチックに話しを続けます。
「まあ、聞けよ。俺は十五、十六の小僧と違って、セックスなんかに興味はないんだ。大人は心だよ。父も心だ。俺と校長は、毎日弥生の話をする。その度に弥生は美しくなり、偉大になる。弥生は、肉体を失ったおかげで女神になった。女神といっても君臨し、あがめ奉られるんじゃない。俺と校長を優しく包み込んでくれる、身近な女性なんだ。一過性のセックスなんかに代えられるもんじゃない。俺は、永遠の恍惚を弥生と共有している。ピアニストとセックスしたから、なんだというんだ。もう弥生はそんな世界にいない。ピアニストだって死んだ。弥生は、俺たちの世界にいるんだ」

口から唾を飛ばして、霜月が息巻きました。再び白いイカに変わってしまったようです。創作を通り越した、盲信の世界が開かれてしまいました。僕も感想を直截に言うしかありません。
「十分納得できる話ですね。しかし、僕の見方は違う。弥生もピアニストも死んで彼岸にいます。正常な想像力で考えれば、二人はその彼岸で結ばれてセックスを続けているはずですよ。けして、あなたや、校長さんの世界に帰ることはない」

「やめてよ。進太、やめなさい。あなたに霜月を貶める権利はないわ」
怒りで顔を真っ赤にした霜月が僕を殴りつける前に、祐子が割って入りました。いささかホッとしましたが、大きな不満が込み上げてきます。いつも祐子は最終の局面で逃げるのです。僕の勇気を見ようとはしません。
「霜月も、飲み過ぎだわ。さあ、校長さんの家に案内してちょうだい」
取りなしの言葉を言って、祐子が立ち上がります。足下をふらつかせながら、霜月も立ち上がりました。二人で、浜に向かって歩き出します。僕と晋介は座ったままです。
「一緒に来ないと、置いて行くわよ」
振り返った祐子が、子供に呼び掛ける口調で叫びました。もどかしい怒りが喉元まで込み上げてきました。

「進太さん、次のラウンドがあるよ」
晋介が声をかけて立ち上がりました。僕も歯を食いしばって後に続きます。確かに、機会は何度でもあるはずです。その機会を見送り続けてきた大人たちと違い、僕は今度こそ機会の首根っこを捕まえてやるつもりです。
全身に勇気がみなぎってきました。


砂丘と山に挟まれた高台に、校長さんの屋敷はありました。弥生の生家です。桟橋から歩いて、十分の距離しかありません。浜から見通せる位置にありますが、海に向かって植えられた樹木が平屋の屋敷を山に紛れさせていたのです。
縁側からは、樹幹越しに入り江が望めました。雪に覆われた冬の海炭市を知らない僕には快適な住居に思えます。案内してきた霜月は、夕方の出航まで一眠りすると言い残して裏の離れへ去って行ってしまいました。足がふらつくほどの酔いでは文句も言えません。
広い座敷に、僕たち三人が取り残されました。しっかりした建材を使った豪奢な造りの部屋ですが、山地の屋敷に比べると天井が低く、窓も狭いような気がします。きっと、冬の寒冷が、その様な造りを強いているのでしょう。過酷な風土がしのばれます。

部屋の中央に、どっしりした樫材の座卓が置いてありました。卓の上には大きなクリスタルの灰皿と卓上ライターが載っています。晋介が煙草を吸い出しそうで心配です。
床の間の席を開けて、三人で座りました。古い屋敷は人に緊張を強います。三人とも背筋を正して、じっと襖が開くのを待っていました。しかし、弥生のお父さんは、意に反して海の方からやってきました。
縁側の前に立った校長さんは背が高く、知性的な物腰の人です。七十歳近いとは、とても思えません。端正で柔和な表情をしていました。祐子に青酸カリを売った人物のイメージからは、遠く外れています。

「皆さん、遠くからよくおいでになった。弥生の父です。娘が喜ぶので、校長と呼んでください。さあ、堅苦しい挨拶は抜きにして、さっそく弥生の生地をご案内しますよ。十分しのんでやってください」
縁先に立ったまま、校長さんが呼び掛けました。長年教師を務めてきただけあって、人を逸らさない、よく通るバリトンです。しかし、初対面です。座敷に座った僕たちの方が面食らってしまいました。

膝をただして、丁寧に頭を下げて名乗りを上げる祐子をまねて、僕と晋介もぎこちなく挨拶しました。校長さんは笑顔でうなずいて庭に誘います。さすがにネクタイはしていませんが、薄茶の背広を着た長身は貫禄があります。右手に持った、赤い灯油缶が不似合いでした。
「お言葉に甘えさせていただきます」
校長さんのペースに巻き込まれたように祐子が答え、立ち上がって庭に下りました。どことなく慌ただしい雰囲気が気に掛かりましたが、僕たちも後に続きました。

「重そうですから、お持ちしましょう」
僕は、十八リットルの灯油缶に手を伸ばして、声をかけました。夏に向かって、まだ灯油が必要なのかと思いましたが、老人に重い荷物を持たしておくわけにいきません。
「いや、これは必要になったら使うものだよ。持ち歩くことはないんだ」
笑顔で答えた校長さんが、灯油缶を縁側に置きました。
「さあ、出掛けましょう。狭い地域だから、すぐ回れますよ」
校長さんの号令と共に、三人で後に従います。まるで小学校の遠足のような雰囲気です。でもこれは、弥生の生地を訪ねる巡礼の旅なのです。足が重くなってきます。

弥生が生まれ育った集落は、完璧に荒廃していました。昆布漁の網元をしていた分限者の生家だけが、かろうじて残ったと言っても過言ではありません。細道の辻々に廃屋が取り残されていました。山地や鉱山の町で見慣れた光景と同じでした。失われてしまった暮らしのにおいだけが、通り過ぎる者の心を圧迫するのです。そんな僕たちの気持ちにお構いなく、校長さんはユーモアたっぷりに、弥生の幼少時のエピソードを解説します。

春を待って裸足で遊び回ったという海浜、名もない草花を愛でて摘んだという草原、そして吹雪かれたあげくにたどり着いたという社。集落から続く通学路を僕たちは歩きました。長い長い道のりです。岬に連なる低い山並みの頂上に出てしまいました。
「ほら、あれが弥生の通う学校だよ」
校長さんの声が響きました。
目の下に広大なキャンパスが広がっています。十一階建ての鉄筋コンクリートの校舎が目を圧しました。もう、説明など要りません。霜月の言っていた、私立の工業大学に相違ありません。木造の小学校を予想していた僕たちの期待は、見事に裏切られました。幼い弥生が唐突に消え失せ、あり得たかも知れない校長さんの夢が立ちあらわれたのです。全身に疲労が立ちこめます。

「弥生が生きていたら、教授になっていたかも知れないのね」
しんみりした声で、祐子がつぶやきました。
「そう、夕方にならないと帰らない。屋敷に戻りましょう」
校長さんが自慢そうな声で答えて、僕たちを促しました。
正午を回った日の光がまぶしいくらいですが、まるで白日夢を見ているようです。背筋がぞっとしました。夕日に染まって大学から帰ってくる、血のように真っ赤な弥生の姿が目に浮かびました。


屋敷に戻ってからも、校長さんの思い出話は続きました。
霜月が、十年間続けても尽きない話題だと言っていたのは、本当のようです。穏やかな表情で語る話は、聴く者を惹きつけます。さすがに長年の教諭生活で磨いた話術でした。けれど、僕たちが一番聞きたい青酸カリの話が始まるまでには、百年も待たなくてはならないような感じです。しきりに苛立ちが募ってきました。いつの間にか、日も傾きかけています。
堪えきれなくなった祐子が、切羽詰まった声で口を挟みました。

「校長さん、あなたに送っていただいた薬を、五錠飲みました。でも、運悪く、死ぬことができません」
いきなり核心に迫ったのです。しかし、校長さんはたじろぎません。なに食わぬ顔で僕たち三人の顔を見回しました。大きくうなずいてから、さり気なく口を開きました。
「皆さん、遠くからよくおいでになった。あいにく弥生が留守で申し訳ない。駅まで見送りに行くこともできません」
あっさりと、僕たちに辞去を促したのです。これでは子供の使いにもなりません。僕は慌てて身を乗り出しました。
「校長さんの思いは、もう十分分かりました。次は、祐子に青酸カリを売ったときの気持ちを聞かせてください。僕たちは、現実の話をお聞きしたいのです」
思わず声が高くなっていました。校長さんが大きく目を見開きました。穏やかだった表情が消え失せ、剣呑な色が浮かんでいます。

「これまで話したことが現実だよ。皆さんは、なぜ納得して帰ろうとしないのだろう。弥生の美しい思い出だけを抱いて帰ることもできるのに、押し殺していた憎しみに、わざわざ油を注ごうとする。因果な人たちだ。それなら、敢えて答えてやろう。薬を売ったのは、死に急ぎたいという馬鹿者を殺したかったからだ。当然、代価はいただく。あいにく弱虫すぎて死に損なったらしいから、もう一錠売ってやってもいい」
苦い物を吐き出すように、校長さんが答えました。見開いた目に憎しみが溢れています。隣りに座っている祐子の肩が、ぶるぶると震えだします。

「でも、でも、私の悲しみを理解してくださったから、だから、薬を譲ってくれたのでしょう」
校長さんの変身を認めたくないように、祐子が未練たっぷりの声で言いつのりました。上擦った声です。
「何を言う。お前ごときに、一人娘に先立たれた親の悲しみが分かるか。死にたいのは私で、けして、お前ではない。死ぬに死ねずに、悲しみの極まりに沈んだ私に、勝手な世迷いごとを送り付けて死を願うとは、何様のつもりだ。有り余る憎しみを抑圧し、やっと弥生と生きられるようになった私の平穏を乱すことなど、だれにも許さぬ」
祐子を睨み付けて答えた声は、冷え冷えとしていました。校長さんの心の中で保たれていた平穏と憎しみのバランスが、一挙に崩壊していく予感がしました。ひょっとすると、この日が来るのをひそかに待ち望んでいたのかも知れません。凍てついた声の底に、暗い喜びの響きが混じっています。

僕の喉元に、祐子に警告しようとする、声にならない叫びが込み上げてきました。しかし祐子は、なおも声を振り絞って、校長さんに理解を求めました。
「分かるわ。分かります。私も、大切なものを失い続けてきたのです。愛をなくし、友情をなくし、自分の分身として夢を繋いだMさえ、私を置いてどこかへ行ってしまいました。もう、生きる希望がない。だから、だから青酸カリを送ってくださったお父さんに会いに来たのです。どうぞ、死の希望を与えてください」
縋り付かんばかりに訴えた祐子を、校長さんは蔑んだ目で見据えました。腹の底に溜まっていた言葉を吐き出すように、背筋を伸ばして口を開きます。

「どうやら、十五年間耐えてきた憎しみを解き放つ日が来たらしい。だが、こんな愚か者が私を救いに来るとは皮肉なものだ。私はお前が話していたMも、ピアニストのこともよく知っている。死の直前に弥生が送ってきた手紙に、すべてが書かれていた。弥生はMの友情と、ピアニストの愛に包まれて幸福だと告げていた。その幸せに殉じたいと、希望を書き連ねていたんだ。残酷なことだ。父を捨て、よこしまな希望に殉じるというのだ。何が幸せだ。そんなものはこの世にない。ひたすら生きる、人の営みの異称が幸せという言葉だ。この海炭市で、私と二人で生きる限りは無縁なものだ。死の知らせを聞いた私の全身を、憎しみが覆った。そう、悲しみや悲哀でなく憎悪だった。憎い、本当に憎い。幸せという絵空事が、弥生の生を奪い去った。私も死にたかった。しかし、溢れんばかりの憎しみを抱いては、とても人は死ねるものではない。私は弥生の元へ行くこともできず、憎しみを圧殺して追憶と共に生きる道を選んだ。いや、それしか道がなかったのだ。十五年を経て、平穏を装いきったと思ったとき、愚かしい便りが届いた。安っぽい死への感傷を訴える、お前の言葉が引き金を引いた。封印してきた憎悪の琴線を切断したんだ。死にたい奴は殺してやる。だから、金を取って青酸カリを送ってやった。ひと思いに死ねばいいのだ。それが、死に損なったあげくに、今度は私に会いに来るという。とんだ大馬鹿者だ。それでも、平穏に帰ってもらおうと努めていたのに、お前たちは、積もり積もった私の憎悪を足蹴にした。絶対に許さん」

全身から放射された憎悪が、僕たちを凍り付かせました。祐子の顔面が蒼白になり、唇がわなないています。
「どうして、私が憎まれるの。死にたいくらい空虚な気持ちを理解してくれるのは、弥生のお父さんしかいないと思っただけだわ。薬をいただいて、本当にうれしかった。ぜひお会いして、勇気を持って死にたいと言いたかった。お願いです。お父さんに憎まれたくない。お父さんが死を望むのなら、ぜひ、ご一緒させてください」
祐子の叫びが部屋に満ちました。校長さんとは対照的に、熱に取り付かれたように震えています。けれど、全体がピントのはずれた写真のようで、リアルな迫力がありません。過剰な感情だけが空回りしているみたいです。晋介が、大きくあくびをしました。

「お願い、私も、死なせて」
再び、祐子の声が響き渡りました。夕暮れが迫った座敷に狂気が溢れ出ます。
「望むところだ。一緒に来なさい」
低い声で唸って、校長さんが庭に飛び降りました。祐子も立ち上がります。
校長さんが、縁側に置いてあった石油缶を持ち上げ、頭から液体を降り注ぎます。後に続いた祐子にも、液体を振りまきました。ガソリンのにおいが鼻を突きます。

「さあ、望み通りにしてやる」
庭先で仁王立ちになった校長さんが大声で叫び、右手で握った卓上ライターを高々と振りかぶりました。カチッという音と共に、ターボ・ライターの先に青い炎が灯ります。
「何をするんだ」
一声叫んだ晋介の声が、妙に間が抜けて響きました。
「みんな、みんな、死んでしまえ」
憎々しい声で叫んだ校長さんが、縁側にライターを投げ付けました。足下で炎が上がり、祐子のカーディガンが燃え立ちます。
「ヒッー」
祐子の悲鳴が轟きました。

僕は素早く、祐子を地面に突き飛ばしました。後を追って庭に飛び降り、カーディガンを引きむしって砂をかけます。ウールの焦げる嫌なにおいが立ちこめました。祐子の長い髪も焼けたようです。パープルのワンピースが裂けて、白い素肌が露出しました。しかし、危ういところで火を消し止めました。

「弱虫め、また生き残ったか。恥を知れ」
校長さんが毒々しい声で罵りました。再び石油缶を大きく振って、残ったガソリンを僕と祐子に浴びせかけます。揮発性の甘いにおいが庭中に満ちます。
縁側に落ちているライターに、校長さんが手を伸ばしました。
「クソジジイ、死にたけりゃ、一人で死ね」
晋介が叫ぶと同時に、右手に持ったジッポーから赤い火が上がりました。無造作に校長さんに向かってジッポーを投げ付けます。

「ウワッー」
絶叫と共に、校長さんの身体が火だるまになります。
赤黒い煙が宙に舞い上がりました。人型に燃え上がった炎の中からひときわ高く声が響きました。ヤヨイ、と叫んだように聞こえましたが、ゴウゴウと鳴る炎の音に掻き消されてしまいました。オレンジ色の火の中で、一瞬伸び上がった校長さんが無惨に地面に倒れ伏します。
黒こげになった死体を目にした祐子が、再び悲鳴を上げました。半裸のまま立ち上がって泣き叫びます。両手で耳を覆って叫び続け、突然、すごい速さで浜に向かって駆け出しました。僕と晋介も慌てて後を追います。

「レトロジジイが死んだ。スカッとしたね」
並んで走る耳元で、晋介が叫びました。僕も同感です。ライターを投げ付けた晋介の行為を責める気にもなりません。
かなり前方で、祐子が海に走り込んでいきました。満ち潮が唸る荒々しい海です。今日は大潮だと言っていた、霜月の言葉を思い出しました。僕たちの足が止まりました。死への希望を押し止める術は、僕も晋介も持っていません。


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