10.夕日のきれいな街

晋介の住む街は、都会から私鉄の急行に乗って一時間三十分の所にあります。座席指定の電車はエアコンがきいて快適でしたが、あいにくの梅雨空から細い雨脚が、絶え間なく車窓を濡らしています。

「残念だね。夕日を見てもらえそうにないよ」
二つ並んだ座席の通路側に座った晋介が、外を眺めながら溜息をつきました。
夕暮れ間近な時刻にも関わらず、窓の外は薄闇に覆われています。真っ青に晴れ上がっていた海炭市の空が嘘のようです。僕は、流れ去る灰色の景色に目をやったまま小さくうなずきました。陰鬱な空模様がやり切れません。なにかしら重苦しい気持ちが胸中に去来し、外の風景に溶け込んでいきます。

電車が鉄橋に差し掛かりました。長い長い鉄橋です。何本も続く橋脚を見下ろしていると、ようやくあらわれた岸辺の杭にゴイサギがとまっていました。雄大な河岸が目の前に広がっていきます。
「渡良瀬川かな」
思わずつぶやいていました。びっくりするほどナーバスな声です。
「いや、これは利根川。渡良瀬川は三キロほど上流で合流してしまっている。後二十分で駅に着くよ」
静かに答えた晋介が右手を伸ばしました。
膝の上に置いた僕の左手にさり気なく手を重ねます。温かな感触が素肌を刺激しました。
僕は右手で頬杖を着いた姿勢のまま、僅かに首を回して晋介を見ました。晋介の目が微笑んでいます。僕の様子を心配しているのでしょう。密着した手のあいまいさが不快になります。
意識して首を左右に振り、手を握りました。晋介の笑顔が消えます。唇を引き締め、大きく見開いた目で僕の目の底を見つめました。不作法と呼べるほど無防備な仕草です。僕は晋介の視線をしっかりと受け止めました。晋介が強い力で手を握り返してきます。二つの手の間でじっとりとした汗が解け合います。

「進太さん、好きだよ」
辺り構わぬ声で晋介が呼び掛けました。僕も大きくうなずきます。友情を越えた感情が、窓の外の薄闇に流れ出ていきます。解き放たれたエネルギーが隠れ家を求めているのでしょう。微かに性のにおいがしました。
僕も晋介が好きです。情感を交えて手から伝わってくる肉体の息吹は、新鮮であるばかりか生理的な喜びさえ秘めています。二人の身体が同時に震えました。その瞬間、互いの手を放しました。晋介の頬が赤く染まっています。多分、僕の頬も赤くなっているはずです。停車駅を告げる車内アナウンスの声が響きました。
長いプラットホームに横付けになった六両編成の急行電車から、思ったより大勢の乗客が降りていきます。僕と晋介も高架になった下り線のホームに降り立ちました。

「進太さん、発車するまで待ってくれよ」
歩き出したとたんに声を掛けて、晋介が立ち止まりました。目の前で電車の扉が閉まります。発車を告げるチャイムがホームに響きました。静かに走り出した電車が加速します。見る間に赤く塗られた車体が帯になって流れ去りました。急に開けた視界の先に穏やかな山並みが広がっています。
薄明かりの中で紺青のシャドウになってたたずむ山々は、墨絵のような美しさです。僕は思わず息を呑み込んで風景に見とれました。眼下に見える駅前広場の背後に、小高い堤防が広がっています。渡良瀬川の白い流れがほんの少し見えます。半円のアーチを三つ連ねた橋の先に、市街地の甍が連なっていました。
「俺の街だよ」
晋介が誇らしそうに言いました。美しい眺めでした。

僕たちは足を早めて改札口を通り、タクシー乗り場に急ぎました。暮れきってしまう前に、少しでも多く街を見せたいという晋介の高揚した気持ちが伝わってきます。
「伊東病院、本院まで。渡良瀬橋経由でお願いします」
タクシーに乗り込むやいなや、晋介が行き先を告げました。黙ってうなずく中年の運転手の顔に、奇妙な笑みが浮かびます。晋介が不快そうに眉を寄せました。僕は二人の様子をさり気なく観察します。この街特有の暗黙の了解が漂っている様子でした。
「伊東病院は精神病院の老舗なんだ。この街の人は、みんな知ってる」
僕の気持ちを見透かしたように、晋介が言葉を吐き出しました。老舗という言葉が笑えます。地方都市には必ずといってよいほど、古くからの精神病院があります。住民は皆、差別と優越心を剥き出しにして、他者を蔑む場合にその病院名を使うのです。この街でも「伊東病院」は人間失格の代名詞なのです。その病院の子供として生まれ育った晋介の屈折した感情はよく理解できます。僕はすかさずフォローに回りました。

「へー、晋介の家は名門なんだね」
感嘆の声を聞いて、運転手の表情が急転しました。畏敬と羨望の眼差しで前方を見つめています。伊東病院の財力と、社会的地位を思い出したのです。人の気持ちは目まぐるしく変わります。晋介の表情に自信の色が甦りました。
「ほら、これが渡良瀬橋。でも、こんなに暗くなってしまっては何も見えない。残念だね」
晋介の声で前方を見つめました。闇の中から浮かび上がった鉄橋が見えます。橋脚からライトアップした渡良瀬橋は幻想的に見えました。しかし、バックの風景が見えないのですから、景観も片手落ちです。瞬く間にタクシーは渡りきってしまいました。車で渡る渡良瀬橋は、ただの鉄橋でしかありません。思わず溜息がでました。期待が大きすぎたのです。

タクシーは電線を地中化したメインストリートを快調に走っていきます。
「この先に、日本最古の大学があるんだ。俺の家はその向かいにある」
気を取り直すように晋介が声を高めました。雨に煙る車窓に、古びた木造の門が見えました。重要文化財だという大学の門も、雨の中では煤けて見えます。晋介の指示で右折した先の、コンクリートの門の方がよっぽど立派に見えました。
タクシーは門内に進入し、二階建ての小さな病舎を回り込んでいきます。
「本院といっても、みしめた診療はしていないんだ。糞親父が保険診療外の特別な患者を診ているだけさ。金稼ぎの自由診療だよ。でも、郊外にある別院はいい。院長の壇原先生は尊敬できる。理事長の親父とは大違いだ」
憎々しい声で晋介が解説しました。その糞親父が住んでいるという重厚な母屋の隣りに、二階建ての古い洋風建築が見えました。玄関前の狭い車寄せにタクシーが停車します。

「さあ、着いたよ。この離れが俺の城だ。親父も入れない」
厳しい声で言って晋介が料金を払い、タクシーを降ります。雨の中で両肩を怒らせ、身構えるように立っています。僕もつられて、身体を硬くして降り立ちました。
「お坊っちゃん、お帰りなさい。食事の支度がしてありますよ」
去っていくタクシーの影から黒い傘を差した老婆があらわれ、かん高い声で呼び掛けてきました。老婆をみとめた晋介が、とたんに笑顔に代わります。
「タケさん、ありがとう。車内電話で急だったから迷惑を掛けたね。後はみんな俺がするから、母屋に下がってくれていいよ。こちらは進太さん。俺の先輩だ。しばらく泊まるから、よろしく頼む」
優しさの溢れた声で答え、晋介が僕を紹介しました。僕は慌てて挨拶をして、頭を下げます。タケさんは丁重に頭を下げて、歓迎の言葉を長々と口にしました。晋介が照れたように右手を振ってタケさんを追い払います。やっと年相応の晋介が戻ったように見えます。タケさんは何回も僕に頭を下げてから、名残惜しそうに母屋の方に戻っていきました。晋介はじっと見送っています。後ろ姿が母屋に消えると同時に口を開きました。

「タケさんは、俺が生まれる前から母屋に住み込んでいるんだ。親父が見知らぬ女を連れ込んでからは、もっぱら俺の世話をしてくれている。この家で気の許せる、たった一人の婆さんさ」
問わず語りにタケさんのことを紹介しました。複雑な家庭の事情がかいま見えます。名門の生まれも楽ではないようです。精一杯背伸びして生きているような、晋介がかわいそうになってしまいました。
「さあ、進太さん。中に入ってくれよ。タケさんのつくった飯はうまい。さっそく乾杯しようよ」
明るい声で僕を促しました。玄関に入る前に、僕は晋介の顔を正面から見つめます。
「晋介の両親に挨拶しなくていいのかい。僕は、礼儀知らずだと思われたくない」
率直に尋ねました。一応の筋は通したいと思ったのです。晋介と両親の間の問題は直接僕に関係ないはずです。
「必要ないよ。進太さんは俺の客だ。タケさんも認めてくれた。それで十分だ。ついでに言うと、俺に両親はいない。親父と暮らしているのは見知らぬ女だ」
にべもなく答え、晋介が僕を玄関の中に押し込みます。もう僕に言うことはありません。高価な建材を選んで建てた離れの奥に進んでいきました。

僕たちはタケさんの心尽くしの手料理に舌鼓を打ってから、明日の予定を話し合いました。やはり、朝一番に市役所に行き、祐子が告げたMの本籍地を確認することにします。晋介も一緒に行くと言ってくれました。けれど、晋介は中学生です。ほとんど学校へ行かなかった僕ですが、自分のことを棚に上げて心配になりました。
「明日は月曜日だ。晋介には学校があるんだろう」
おずおずと、学校のことを切り出してみました。
「ああ、そうだよ。学校はある。でも、登校するか、しないかは、俺が決める。進太さんも、自分で決めてたんじゃないの」
平然とした答えが返ってきました。それに、図星を指されてしまったのです。これ以上、異論はありません。街をよく知っている晋介の同行は、大歓迎です。大きくうなずいて、右手を差し出しました。満面に笑みを浮かべた晋介が、力強く手を握り返してきました。


市役所の戸籍係で担当職員に事情を話すと、Mの除籍謄本をあっさり交付してくれました。微かに震える手で料金七百五十円を払い、高ぶる気持ちを抑えてロビーのソファーに腰を下ろしました。白い封筒を開き、謄本を取り出します。横からのぞき込んでいる晋介の息が紙片を広げる手にかかりました。
「全員消されている」
晋介がつぶやきました。除籍謄本ですから当然です。見開きになった紙面に記載された三人の名前が斜線で消されていました。両親はMが五歳の時に揃って亡くなっています。死亡地はアメリカでした。事故に遭ったのかも知れません。天涯孤独と言っていたMの言葉が耳元に甦りました。つい目頭が熱くなります。ぐっと堪えて住所欄の文字を読みます。けれど、見知らぬ地番が書き連ねてあるだけで、何もイメージできません。

「この地番だと、きっと役所の近くだよ。住宅地図を借りてくる」
晋介が言い残して、総合案内所のカウンターに跳んでいきます。土地の住人は頼りになります。心の中で感謝しました。
分厚い地図帳を持って戻ってきた晋介が、慣れた手つきでページを繰ります。
「ほらここだよ。ここは化け物屋敷があった場所だ」
晋介が興奮した声を出しました。Mの本籍地の現況が分かったのです。それも、晋介が知っている場所で、しかも、化け物屋敷だと言うのです。僕は驚きで声も出ません。晋介が指し示す地図上の地点を、食い入るように見つめました。
「近いよ。ここから歩いて二十分。いや、十五分でいける。でも、化け物屋敷は火事で焼けた。ほら、この地図は出たばかりの最新版だから、ただの空き地になっている。去年までは、荒れ果てた屋敷があったんだ」
晋介の言葉が右の耳から左の耳へと通り抜けていきます。僕はまだ判断力が戻りません。晋介が言うほど荒れ果てた屋敷なら、年代的にはMの生家に違いないはずです。急に膝頭が震えてきました。
「行こうよ、進太さん。焼け跡に行ってみよう」
頭上から晋介の声が降ってきました。僕は黙って立ち上がります。目の前に興奮した晋介の顔があります。僕は、どんな顔をしているのでしょう。きっと間抜けな顔をしているに違いありません。Mが見たら嘆くと思った瞬間、ようやく全身がしゃんとしました。

改めて、晋介が知っている事実を問い直しました。しかし、確認できたことは、市役所から歩いて十五分ほどの所にMの本籍地があるということ。晋介が幼いころから、その場にお化け屋敷と呼ばれる古い空き家があったということ。その空き家が去年の火災で消失したということの三点でした。さすがの晋介も、それ以上の事実は知りません。
晋介が提案したとおり、現地に行って確認するのが最善の道です。近所の人が事情を知っているかも知れません。幼かったころのMや、両親と死に別れた後のMの身の振り方など、当時の情報に詳しい古老がいる可能性もあります。しかし、女々しいようですが、Mの墓を暴いてしまうような恐れも感じています。たとえMの来歴を知ったからと言って、これまでのMがどうなるものでもありません。けれど、僕が抱いているMのイメージが変わってしまうような気がして、妙な気後れが後ろ髪を引くのです。それほどMが、僕にとって偉大だったということの証です。同時にまた、まだ見ぬ幽霊を怖れて逡巡しているような、恥ずかしさも感じています。しょせん僕が決断するしかないのです。いまさら山地に逃げ帰るわけにはいきません。

思い切って市役所を後にして、Mの本籍地に向かうことにしました。
僕たちは小高い山に沿った用水路沿いの歩道を、西に向けて歩いていきました。左手は二車線の市道で、車が連なって走り抜けていきます。かろうじて雨は上がっていますが、どんよりと曇った空が頭上を覆っています。並んで歩く晋介は天気にお構いなく、高ぶった気持ちを全身であらわしています。僕をリードする歩みがますます速くなっていきます。
十五分近く歩き続けると、全身から汗が滲み出てきました。湿気の密集した蒸し暑い空気が僕たちを包み込んでいます。
「ほら、もう見えたよ。あのお寺の手前なんだ」
晋介が大きな声で言いました。確かに寺院の真っ黒な甍が曇り空の中に沈んでいます。背後の山の斜面全体を墓地にした壮大な寺院でした。白い塀を巡らせた敷地の隣りが百坪ほどの空き地になっています。

「焼け跡が残っている。ここだよ」
晋介が叫んで、空き地を封鎖した針金を乗り越えて侵入していきます。僕も後に続きました。屋敷があったと思われる敷地の北側には、草一本生えていません。黒々とした土に、いまだに焼け落ちた材木や焦げた瓦のかけらが混じっています。褐色に変色した白塀が、火勢の凄まじさを現在に止めています。近所と呼べる家も、お寺以外にありませんでした。
僕たちは靴の先で土をつつきました。この土地にまつわる伝承を掘り起こしているような気分になります。しかし、焼け焦げた土地は何一つ語ろうとしません。僕と晋介は虚しく顔を見合わせました。

「遅いじゃないの。道草はやめてよ」
突然、背後から大声が飛んできました。女性の声です。僕たちはぎょっとして振り向きました。振り向いたとたんに、僕は再びぎょっとしてしまいました。
「私の顔に何かついているの。不作法に見つめないでよ」
叱声が僕に飛びました。白地に牡丹を飛ばした友禅の振り袖を着た女性は、百七十センチメートルほどの長身です。歩道にすっくと立った誇らかな姿を見て、僕はMの出現を幻視してしまったのです。あたかも、若き日のMが出現したようなショックが僕の全身を駆けめぐりました。けれど、女性は当然Mではありません。二十代後半の美しさを振りまく女性は、甘える声で僕に呼び掛けました。

「さあ、遅れるわ。早く行きましょう。コンサートに誘ったのはあなたの方よ」
思わず周囲を見回してみましたが、僕たちの他に人影はありません。横にいる晋介は苦笑を浮かべて素知らぬ顔をしています。やはり、僕が呼び掛けられたようです。答えないわけにもいきません。
「いいえ、僕とあなたは初対面です。僕たちはこの土地を見せてもらっているだけです。人違いではないですか」
しどろもどろの僕の答えを、振り袖の女性は、首を傾けて聞いていました。疑わしさを露骨に表情に出しています。
「今度は観光客の振りをしようというのね。いいわ。付き合ってあげる。一体何を見せて欲しいというの。うちのお寺の本尊でも見せてあげましょうか」
「えっ、あなたは、あのお寺の方なんですか。それなら、ぜひ聴かせて欲しいことがあります。僕は進太、連れは晋介。怪しいものではありません」
うちの寺と聞いて、縋る思いで叫んでいました。晋介の吹き出す声が聞こえましたが、女性から目を反らすことができません。
即座に答えが返ってきました。

「お寺の道子に決まっているでしょう。また、悪い遊びを始めたのね。今度は寺の縁起でも聞き出したいのかしら。そっちの子は、なぜ笑ったの。失礼だわ。謝りなさい」
お寺の道子さんが、初めて晋介を睨んで叱責しました。僕も晋介に小声で問い掛けました。
「道子さんを知っているのかい。この寺の人だと言ってる」
「知らないよ。けれど、その道子さんは病気だ。伊東病院育ちの俺には分かる。進太さん、大概にした方がいいよ」
返ってきた答えは衝撃的でした。でも、僕と道子さんのちぐはぐな会話を説明するには十分な答えです。

「さあ、何が聞きたいのよ。早く言いなさい」
道子さんが追い打ちを掛けてきました。僕は進退窮まってしまいました。仕方なく質問を口にします。
「この焼け跡のいわれを知りたいんです。焼ける前に、だれが住んでいたのか教えてください」
道子さんが大声で笑いました。無造作に針金を潜って焼け跡に入ってきます。晋介がさり気なく身構えました。
「まあ、そんなことが知りたいの。教えてあげるわ。この焼け跡には去年の冬まで、お化け屋敷と呼ばれた空き家があったの。住んでいたのは寺の分家の大学教授一家よ。でも、それは半世紀近い昔の話。夫婦揃って飛行機事故でアメリカで死んでしまった。弟の突然の死に動転した兄の坊主が空き家にしておいたのよ。五年前に死んだ私の祖父。知ってるでしょう。進太にも会わせたわよね」
除籍謄本に記載されていた事実が次々に語られました。僕は名を呼ばれたことも気付きませんでした。慌ててMのことを尋ねます。
「その教授には娘がいたはずです。娘はどうなったのですか」
「Mのことね」
道子さんが素っ気ないくらい簡単に、Mの名を口にしました。僕は一歩前に踏み出して先を促しました。
「Mは幼いころに行方不明になってしまったというわ。祖父もずいぶん捜したけれど、無駄だったらしい。でも、生きているのよ。私は知っている。恐ろしいわ」
僕の背筋を再び衝撃が走りました。すべてが現実に符合しているのです。

「何が恐ろしいのです。生きているMに会ったのですか」
「会ったわ」
不安定な声が落ちました。
「えっ、いつ、どこで、Mは何をしたのです」
道子さんの間近に迫り、大声で畳み掛けていました。道子さんは黙って僕の目を見つめました。吸い込まれてしまいそうなほど澄みきった目をしています。真空の色を見た思いがしました。背筋に寒気を感じると同時に、妙に低い声が耳を打ちました。
「去年の年末。ここで、Mは狂っていた。自分の家に火を点けて焼き尽くしたわ」
「ウソダッ」
反射的に叫んでいました。
「ハハッッハハハハハ、嘘だと思うなら伊東病院に行け。Mが入院している。会って確かめたらいい。コンサートに行くのはその帰りでもいいわ」
狂気を秘めた笑いが僕を打ちのめしました。道子さんは高らかに笑いながら身を翻し、振り袖の裾を乱して寺の方に駆け去っていきます。真っ白なふくらはぎが目の底に焼き付きました。若いMの姿がダブって見えます。
「進太さん、俺の言ったとおりだろう。あの人は病気だ。みんな嘘っぱちさ」
晋介が僕の肩を叩いて、慰めるように言いました。しかし、道子さんの話は僕の知っている事実と符合しすぎています。何よりも、Mは道子さんの言った時期に僕たちから身を隠したのです。確かめないわけにはいきません。
「伊東病院に案内してくれよ。Mが入院していなければそれでいいんだ」
晋介を振り返って力無く頼みました。不安そうな顔で晋介がうなずきます。
「よし。まず、壇原先生に電話してみる。無駄足になるのもしゃくだろう。ちょっと待っていてよ」
再び元気な声で答えた晋介が、百メートル先にある公衆電話に走っていきます。僕は焼け跡に立ち尽くしたまま、後ろ姿を見送りました。
電話ボックスに入った晋介がしばらくして出てきました。肩が落ちた力無い様子が事実を告げています。

「いたよ。入院していた。Mという名の中年の女性は、壇原先生の患者だ。しかも、身寄りがない。家族がいるなら、すぐに会うと先生は言った。進太さん、どうする。行ってみるかい」
晋介の声が、いつになく陰鬱に聞こえました。Mは伊東病院に入院しているのです。事実を聞いたとたんに、膝ががくっと折れてしまいました。全身の力を振り絞って立ち上がります。
「行くしかないよ。Mに会うんだ」
喉を振り絞って答えた声が、やけに悲壮に響きました。晋介が眉をひそめて僕を見ます。僕は無理に笑顔を作り、晋介と自分自身に答えました。
「だいじょうぶ。心配は要らないよ。火事が絡んでいたって、海炭市の時みたいに殺し合いが始まるわけじゃない」
陳腐なことを言って笑ってみましたが、笑い声がでません。人型に燃え上がった校長さんの死の姿と、紅蓮の炎を上げて焼け落ちるお化け屋敷のイメージが目の前に広がります。
一瞬、晋介の顔が、苦悩でゆがんだように見えました。しかし、晋介はすぐ横を向いてしまい、市道を走るタクシーに両手を振って乗車の合図を送りました。

僕はMと、再会します。


次項へ
BACK TOP



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.