2.歯科医

渓谷沿いの道をしばらく上り、最初の集落が始まってすぐ、左折するよう大きな声で伝えた。

「割と近いんだね。いいところね」
辺りを見回しながら彼女が答え、鋭い角度でハンドルを切った。
渓谷に注ぐ小さな疎水沿いに五軒並んだ家の、真ん中にあるのが僕の家だ。山地の例に漏れず塀など掛かっていない。疎水に沿って二十本の梅を植え、その中央を広く取って、橋を渡してある。二メートルの橋の先はもう庭になっていて、雑多に植えた樹木の間に、現在の住居と昔の母屋、土蔵や離れが点在している。昔の母屋は現在、診療所に使っていた。

「どの建物も、古いものは優雅な作りね。ここで商売もしていたの」
「材木商は市内でしていたらしいですよ。ここはいわゆる自宅ですよ」
庭の奥まで車を乗り入れ、母屋の前で停車した。
「ベンツと比べると、この車はみすぼらしいね。でも、この可愛らしさがたまらないんだよね」
父のベンツの隣に止めたロードスターの低い座席で、豊かな胸を突き出して彼女が言った。
もちろん僕も同感だった。やくざではあるまいし、シルバーのベンツなんて、父も趣味が悪すぎた。

「ひょっとして歯医者さんは、金ぴかのロレックスをしているんじゃあない」
「本当に怒りますよ。でも、父の腕時計は十八金のオメガだったから似たようなものです」
「ぴー」と品悪く口をならした彼女は、意地悪そうな目をして僕に顔を寄せた。「このまま帰っちゃおうか。君のおやじさんは、私の虫歯にきっとダイヤモンドを詰めるよ」
「またっ」と言って、シートベルトを取ってドアを開けた僕の目に、アップになったゲランの揺らぐような赤が残り、冬枯れの景色が、一瞬ピンクに染まった。

「診療所はこっちですよ」と、先に立って案内しようと車の長いノーズを足早に回り込む。
いつの間に車を降りたのか、梅の木の前で長い足を見事に大きく開いた彼女が、足の間から逆さまになった顔を見せてウィンクしている。
悪いことに、パーカー越しに見える形の良いヒップの上に、こちらへ歩いて来る母の姿が見えた。
逆さまのまま、にやっと笑ってから、勢いよく直立した彼女と母は正面から向かい合った。
「僕の母です」と大きな声で、彼女の背にフォローを入れた。

「おはようございます。見事な梅がよい香りですね」
「いらっしゃいませ。失礼ですが、子供の先生でしたでしょうか」
日暮れ近くなって「おはようございます」もないもんだし、咲いてもいない梅を褒める者など、いるはずもない。
母も困ってしまって、高校の教師にしてしまいたいらしかった。若い女性が男子学生の前で大きく脚を開き、後ろ向きになって股から顔を出すようなことは、学校のレクリエーションの時間以外には有りそうもなかった。僕は、話の分かる先生を連れて来たような表情を作り、即座に母と彼女の間に割って入った。

「急に歯が痛くなってしまったので、チチに診てもらおうと思ってお連れしたんだ。ところで、ハハはどこかに出掛けるの」
「まあ、こんな山奥まで治療に来てもらったの。ご迷惑掛けちゃだめじゃない。ハハはこれからお花の稽古」
母は彼女に軽く会釈して、ベンツの方に向かった。

多分、彼女が教師でないことはお見通しだ。フロントガラス越しに僕たちを強い視線で見て、ベンツで去って行く母を、立ち止まったまま無遠慮に見送っていた彼女が、素早く隣に並んだ。
「ピアニストは両親を面白い言い方で呼ぶんだね。へー、チチにハハか。分かりやすくていいね。誰の方針だったの」
「多分、チチの方針ですよ」
「へー、ベンツ・ロレックスも案外趣味がいいのね。帰らなくて良かったみたい。早く会わせてくれる」
「すぐ会わせますよ。でも、さっきのハハの場合もあるし、あなたをなんと紹介すればいいのだろう」
「あんたも馬鹿ね、営業のMでいいじゃない」
まことに話は簡単だった。既に歯痛もなくなってしまったらしい、妙に浮き浮きした彼女を連れて、診療所の前に立った。

「本日臨時休診、急患の方は土蔵にどうぞ―か。歯医者さんは質屋を始めたみたいだね。ますます帰れなくなってしまった。ぜひ、診てもらわなければ、本当に虫歯になってしまいそうだ」
まったく、と僕は思った。彼女も彼女なら、つまらない張り紙をしている父も父だった。
「患者さんが途切れると、土蔵で和紙を漉いているんですよ。チチの唯一の趣味なんです。家族の間では土蔵ではなく、蔵屋敷と言っています」
「へー、蔵屋敷ね。でも、ピアニストの言うことは怪しいからね。さっきは歯医者が趣味だって聞いた覚えがある」
「みしめて営業活動をしないと言う意味だったんです。腕はいいんですから」
「むきにならなくてもいいのよ。決してチチを軽んじているわけではないの。むしろ、素敵な生き方だなって思っているわよ。早く、蔵屋敷に連れてって」

なぜか僕は、彼女を父に会わせたくない気がしてきていた。
別に予感というほどのことではなかったが、せっかく僕の音楽を機会に知り合えた大人の女を、大人の父に取られてしまいそうな気がしたのだ。まるで、隠しておいた子猫を取り上げられてしまうような、幼いころの不安な気持ちが甦り、どことなく居心地が悪い気分になったのだった。そんな僕の気持ちにお構いなく、彼女はさっさと蔵屋敷の方に向かって行く。

「驚いたね。土蔵のドアが自動ドアになっているんだ。だから蔵屋敷って呼ぶのかな」
振り返りながら彼女は、ドアのセンサーに大きく身体を晒した。さっと開くガラスドアへと、後ろにいる僕を見ながら一歩を踏み出した彼女は、ちょうど出て来た父と鉢合わせしてしまった。
間の悪いことに父は、紙漉きに使う糊を入れたバケツをぶら下げていた。二人がぶつかった拍子に糊が飛び散り、彼女の身体と、父の身体に飛び散ってしまった。二人から少し後ろにいた僕は、辛うじてセーフだ。
「ずいぶんねばねばしたシャワーをありがとう」
彼女の自意識はもう、完璧に言うことはない。
「水も滴るほどいい女という言葉はあるが、糊に固められる美女はそれ以上に魅力的です」
父も負けてはいない。僕が危惧した大人の時間が始まってしまいそうだった。慌てて二人の間に入り「Mは歯が痛いんです」と、とんまなことを言ってみたが、父と彼女は、僕の目にも怪しく見えるほど親密に、お互いの目を見つめ合っていたんだ。

「どうぞ、中へお入りください」
父が少女漫画のヒーローみたいに腰を引いて右手を曲げると、彼女も大きく胸を張って、まるで王女様みたいに「はい、先生」と答えたのだった。
僕はまるで立場がなく、目の前で閉まった自動ドアの前で、これから何をなすべきかを、深刻に考えなければならなかった。
何となく中に入って行くのもためらわれ、なんと十分間ほどもドアの前でうろうろした末、僕は諦めて自分の部屋に帰った。


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