3.マスターベーション

僕の部屋は、母屋の南側の一階の奥まった角にある。
なんとも整理できないもやもやとした気分を抱いて、部屋に入るなりドアをばたんと閉め、壁際のアップライトのピアノに向かった。
煮えたぎるような、向けようのない怒りを吐き出すように、スケルツォの二番をもの凄い速さで乱暴に弾ききる。「ヴラヴィッシモ」と言う彼女の賞賛の声が今にも還って来るような気がして三回弾いてみたが、虚しく、なぜか悔し涙が情けなく頬を流れた。
恐らく蔵屋敷か診療所に、父と二人でいる彼女の耳に届けとばかり、全音フォルテッシモで弾ききってみたが、完全に防音された部屋に鳴り響いたぼろぼろのショパンは、いたずらに耳をいたぶるばかりだった。

流れた涙に更に感情を煽られ、疲れた腕と指、全身の筋肉を憎悪したとき、痺れきった耳と霞む視界に、暗くなった外の風景が侵入して来た。
僕はピアノの蓋をばたんと音を立てて閉め、ヒーターのスイッチを消した。セーターを脱ぎ捨て、シャツを脱ぎ、ジーンズまでも部屋の隅に投げ捨てた。コバルトブルーのセミビキニのパンツだけの姿になり、窓際に立つ。黒いガラスに映る汗の浮いた身体を見て、熱くなった裸身を更に熱く感じたとき、僕はパンツを脱ぎ捨てていた。

窮屈な布の下でテントを張っていたペニスが、解放された嬉しさに、ぐっと天を向いて反り返っている。肉の柱を流れる、どくどくと漲った熱すぎる血液の鼓動が聞こえ、張り切った静脈が怒張した褐色の皮膚の上で脈打つ。
僕は外の暗がりをバックに、美しい鏡となった二面の窓ガラスを交互に見ながら、誇らしいほどに怒張したペニスに両のてのひらを当て、力の限りしごき上げた。思っていたほどの快感はなく、騙されたような日常だけがひたすら、勃起したペニスの表層を流れていった。二面の窓ガラスに映る、ペニスをしごき上げる両手が醜く卑猥だった。せっかく逞しくそそり立ち、怒りの自己主張をするペニスを、自分の目で見て納得したかった。僕は両手を後ろで組み、ペニスを窓に向かって突き出した。狂おしく尻を前後に振り、交互に太股を高く上げ、自分自身の腿でペニスを撫でさすった。
急激に高まる快感を何度かやり過ごし、ついに視界が真っ黒に暗転したとき、全身の震えとともに僕は射精した。きれい好きの僕はいじましくも、射精の瞬間に両手をペニスに伸ばし、白濁した精液をてのひらに取っていた。
あれほど見たかった勇姿は見ることもできず、今、目の前の窓ガラスに、痴呆のように放心した、無様な僕が映っている。

そのとき、窓ガラスを叩くコンコンという音がした。
瞬間、全身がカッと熱くなり、限界にまで見開いた目で窓を凝視すると、意地悪っ子みたいに、あかんべーをしている彼女の大きな顔が、網膜に鮮明に焼き付いた。
大慌てで電気を消し、捨ててあったパンツを穿く。無理矢理両足をパンツに突っ込んで足がもつれ、頭から床に倒れてしまった。痛みに耐えきれず僕は、大きなうめき声を立ててしまう。素っ裸のまま、全身でパニックに陥っている耳に、彼女の朗らかな笑い声が幻聴のように響いた。
頭の中が全て空白になり、しばらく横たわっていた僕の耳に、今度は明瞭にロードスターの低く太い排気音が聞こえ、遠ざかって行った。

彼女に一部始終を見られたと思い、恥ずかしさに全身を赤くして暗い部屋の中央に座り込んだ。きつく目をつむって激しく頭を振ってみたが、あかんべーをした顔と朗らかな笑い声が、脳裏を占めたままで決して消え去ろうとしない。
なぜ彼女は、母屋の隅にある僕の部屋の前まで来たのか、なぜ僕の部屋を知っていたのか。彼女は父に歯の治療をしてもらい、そのまま帰るのではなかったのか。案内して来た僕に挨拶するなら、父を通してすればいいのだ。と思った瞬間、父の顔が頭に浮かんだ。

「チチの仕業だ」と、僕はうめき声を出した。父が僕の部屋を教え、訪ねてみるように言ったに違いなかった。しかし、部屋の外から唐突に回り込んで来るなんて非常識もいいところだ。それにもう暗くなっていたのだから、若い女のすることではない。いかにも常識的で優等生的に非難してみて、はたと思い当たった。所詮彼女は僕の常識など通用する相手ではなかった。そう思ってみて僕は、やっといくらか気分が楽になった。

二人に対する怒りは静まってきたが、恥ずかしさだけは消えることもなく、何度も繰り返し、波のように大きくなったり小さくなったりして襲って来た。その度に萎んでいたペニスまでがムクムクと、大きくなったり小さくなったりしたのだから恥ずかしさに拍車が掛かった。
確かに僕のペニスは、彼女につかまれたことがあったし、不用意に勃起したことも喜んでくれたのだ。しかし、狂ったナルシスのようにマスターベーションに耽る姿まで好ましく思ってくれたと、うぬぼれることはできなかった。

「まあ、二度と会うこともないんだから」と慰めてみたが、却って悔しさがつのる。せっかく知り合えた素敵な大人の女を、手放したくはないというスケベ心が見え見えで、やけに情けなくなる。
「えいっ、ままよ」と開き直ってパンツを脱ぎ捨て、電気をつけた。
眩しさに目をしょぼしょぼさせながらピアノの前に座る。素っ裸のままペニスを直立させ、スケルツォを弾き出す。音色もリズムも知ったことではない。ペダルも使わず、両足を高く上げ、打鍵しながら両腿でペニスを愛撫する。僕のスケルツォが僕の官能を隠微に盛り上げるのだ。

最後のDesをメロメロになって置いたとき、ヒリヒリする亀頭の先からシュッとまた射精した。「ざまーみろ」と僕は思い、鍵盤の上まで飛んだ精液を身体を屈めて舌で舐めた。塩辛い味が舌を刺し、生臭い臭いが鼻を打った。僕は別にピアノを神聖なものとも思っていないし、音楽をしていくことに、家族の誰もが賛成していないのだから別に構わない。僕の性で彩ったピアノとショパンをぜひ、見ることもない観衆に見てもらいたくて、僕は性にまみれた裸身を傲然と反り返らせ、黒いガラス窓に映った自分自身の目を睨み付けた。


急にドアがノックされ「ご飯ですよ」と言う母の声が聞こえた。もはや何をするにも遅すぎる時間が瞬間に流れ去り、ドアが大きく開け広げられた。
「まあ」と言ったまま絶句した母はドアを閉めればいいものを、ぽかんと口を開けたまま顔全体で驚愕している。
まったく困ったもんだと思いながらも、妙に落ち着いた低い声を作り、萎んだペニスを見られないように身体を斜めに構えて「ドアを閉めてよ」と言うと、びっくりしたことに母は、一歩部屋の中に入るや後ろ手にドアを閉めたのだった。
もう、落ち着いた表情を作っている場合じゃあない。

「何か用なの。早く出ていってもらいたいんだけど。ご覧の通り取り込み中なんだから」
「そんなこと見れば分かりますよ。別にあなたはもう大人なんだから、自分の部屋で裸になって何をしていようと、ハハは干渉する気はないわ。でも、わざわざあの女を連れて来た後で、そんな格好をしてほしくないのよ」
「何のことを言ってるの。あの女ってMのことかな」
「あなたからは確か、学校の先生のようにしか聞かせてもらっていなかったはずよ」
「それはハハが勝手に誤解したことで、僕には責任ないと思うけどな」
「責任も義務もないわよ。あれほど山地を騒がせた犯罪者と仲良くして、のぼせ上がられたんじゃあ心配で眠れなくなってしまいますよ。それにこの始末なんだから呆れ返ってものも言えないわよ」
十分にものは言っていると思った。しかしそのとき、回転の遅い頭の中で、一年ほど前に山地をにぎわせたニュースと、先刻Mが言った懲役三年という言葉が渦を巻いた。僕はまた全身が熱くなるのを感じ、母の目の前でまた勃起しそうになって慌てた。

「とにかく服を着たいんだけどな」と、かすれた声を出すと、母はこれ見よがしに大きく溜息をついて部屋を出て行ってしまった。
僕も隅のベットに全裸のまま身を投げ出し、大きく溜息をついた。やっぱり親子は似ているなどと詰まらぬ事を考えながら、一時期セックススキャンダルとして有名になった、築三百年の屋敷で起こった事件のことを思い起こした。
あの事件は学校でも地域でも、大きな声で言えない猥褻な裏話とともに、格好の暇つぶしをしばらくの間提供したのだった。ことに、母の華道の先生が屋敷の主の妻と親しかった関係で、母の情報は群を抜いていたはずだった。

「そうだったのか、彼女があの有名な悪女だったのか」とつぶやいて、また大きく溜息をついた。
当時彼女の名は、一種名指しがたいセクシーなイメージとともに悪女の代名詞として、僕たち少年の話題にも上っていた。それはもう地元のスターというより、音楽好きの僕にとっては、オペラのプリマのように遠くきらびやかな怪しい存在として、性的に身近に感じられていた。確か、性の饗宴のさなかに少女を殺し、その罪に狂った屋敷の主が自殺したはずだった。その惨劇から一人生還したプリマは、少女の死体を捨てようとした罪で裁判に掛けられ、有罪になったと語られていた。しかし、噂はそこまでだった。プリマが服役したのか、執行猶予になったのか、誰も関心がなかった。ただ、セックスの権化として、悪女のイメージだけが人々の記憶に残った。
僕は、その悪女の実物を見てしまったのだ。見るぐらいならともかく、あのセックスの達人にペニスまでつかまれてしまっている。ひょっとして、母の心配もあながち、的外れではないのかも知れなかった。

ベットに横たわったまま、ぬらぬらと精液に粘るペニスに、つい手を添えながら、僕はMのことを思った。ここでまた射精してしまうともう、今日は四回目の射精だった。しかし過去と現在を駆けめぐって、悪女の記憶が僕を異様に高ぶらせる。性懲りもなく僕は、ペニスに当てた手に力を加えた。
身も心も疲れ果てながらも、抗うことが出来ない官能に焼かれるように、ヒリヒリとするペニスを痛めつけると、父のことが頭をかすめた。

ざっと考えて二時間以上を、父と彼女はどのように過ごしたのか。Mの訴えた歯の痛みから考えて、それほどの治療時間が必要とは思えなかった。
そして、母から僕と彼女のことを、事件の記憶とともに聞いたであろう父は今、彼女のことをどう思っているのだろうか。
親密そうにMと目を見交わしていた父の顔が甦り、僕はその映像を振り払うようにペニスを苛め続け、いつになく苦しい四回目の射精を力無く両のてのひらで受けた。


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