4.挑まれる性

今日のスタジオは暑い。きっとエアコンのスイッチを強にしたまま先生が出掛けてしまったに違いない。
ピアノの発表会を目前に控え、先生は慌ただしい。出張教授の回数が増えている。しかし僕にはおあつらえ向きだった。きっと最後の発表会のプログラムになるに違いない今回のショパンを、こころいくまでフルコンサートのグランドピアノで練習できるからだ。僕の部屋のピアノはヴェーゼンドルファーだが、アップライトではどうしても響きが不満だった。それに、スケルツォの二番は、何よりも音色を重視して弾きたかったのだ。

四月から、したくもない歯医者の勉強をすることになった僕は、ピアノを職業に選ぶことを断念していた。母に無様な裸を見られた僕に、歯大への推薦入学を断れるガッツはなかった。また、今の練習レベルでは、感性だけは誇れても、超絶技巧が求められる音大受験を乗り切ることは出来なかったのだ。

思うように行かないすべてのことを忘れたくて、思い切ってFの音を置こうとしたが、見事に外してしまった。部屋が暑いせいだと思い、立って行ってエアコンのスイッチを切る。
「ヴラヴィッシモ」と言う懐かしいアルトが、背中に聞こえた気がして振り返って見たが虚しく、いつか外した音にまつわる甘い記憶がペニスを勃起させるばかりだった。
今度は丁寧に、音を外さないようにテンポを下げてゆっくりと弾く。
弾いていてもつまらない、貧弱なショパンになってしまった。

「おくびょうなショパンなんて聞きたくない」
背後から本当に声が掛かった。
うれしさを隠し、幻聴ではないかと、何気なさを装うようにルーズに振り返ると、彼女がいた。
Mはこの前と同じように颯爽と立っていたが、魅力的な笑顔は見せていない。いくらか悲しそうな目をして僕の顔を見つめた。

「ピアニストは死んでしまったんだ。つまらないショパンは聞きたくないわね」僕はむかっとして「あなたに聞かせるためのショパンではありません」と強い口調で言った。
大きくうなずいた彼女は、微笑みながら「では、私に聞かせるショパンを弾いてくれる」と言ったのだ。
僕は天にも昇る気持ちで、彼女にまつらう恨み辛みや、淫らな感情までを込めて、もの凄い速度でスケルツォを弾ききってやった。しかし「ヴラヴィッシモ」の声はなく、振り返って見た彼女の顔には、頬に二筋の涙が流れていた。
「そんなに私が嫌い」
Mの言葉に激しく首を振って立ち上がった僕は、彼女に飛びつくやいなや、豊かな胸に顔を埋めて泣いた。

長い時間泣いている僕の身体を、Mが両手で撫でさすってくれる。股間で止まった手が優しくペニスをまさぐり、勃起した亀頭の先で踊る。ファスナーが下ろされ、屈み込んだ彼女がペニスを外に出して口に含む。その瞬間僕は射精し、彼女の舌先が激しくペニスの先を這った後、喉の鳴る音を聞いた。
もう僕には言うこともない。ファスナーから突きだした、勃起したままのペニスを振り立て彼女の顔中、なで回した。

「素敵なショパンだったけど、私のいる場所がなかったのよ。やっと私のいる場所を作ってくれてありがとう」
僕はただ、彼女の熱い言葉にペニスをすり寄せて応えるばかりだった。
「もう、私のことは知っているのでしょう」とMが言った。僕は小さく首を振って跪き、彼女の顔に頬をすり寄せてから、強く口を吸った。彼女の舌が僕の舌に絡み、強すぎる麻薬のように官能の嵐が再び下半身を貫いていった。

「泣かなくてもいいのよ。ピアニストのペニスはチチのペニスより、ずっと逞しくて大きいのだから」
予想外の言葉を聞いた僕は即座に身を固くし、Mの目を見つめながら「チチともこんな事をしたんですか」と問いただした。
「もちろんしたわよ。いけないことなのかしら。歯医者さんもあなたと同じように素敵な男よ。どうしてあなたが気にするのか分からないわ」
「でも、やはり僕のチチなのだから気になってしまう」
「ピアニストは歯医者さんにやきもちをやいているわけ、それとも自分のチチが魅力的でない方がいいと思っているわけなのかしら」
僕は答えに窮し、ただ両目から涙を流し続けたまま彼女の穏やかな目を見つめた。
「ピアニストもその父もどちらも魅力的な男よ。私は二人とも、とっても好きよ」Mは男という言葉を二回使った。その言葉は僕の自尊心を十分に満足させ、父と同じ地平に立てたことに喜びさえ感じ始めていた。

「さあ、もう泣かないで、もう一度私のためのショパンを聞かせてくれる。ピアニストとしては最後のショパンになってしまうのでしょう」
「どうして知っているんですか」と尋ねると「歯医者さんに聞いたわ」と平然と答える。
軽いショックを感じたが、もうあれこれ考えても仕方がないと思って立ち上がった僕の、ズボンのファスナーをさり気なく上げてくれた。

ピアノの前に座り、今の気分のまま弾けるだろうかと思い、隣にたたずむ彼女の顔を見上げて問い掛けてみた。
「ひとつき前、歯の治療で家に来たとき。暗くなってから、僕の部屋の外にいたでしょう」
「いたわよ」
「何か見ませんでしたか」
「何を馬鹿なこと言ってるの。あなたは素晴らしい裸を見せて真剣にマスターベーションをしていたじゃない。余りに、ひたむきなので声が掛けられず、歯医者さんも困っていたから、私が窓を叩いてあかんべーをしてやったじゃない」

僕は呆然として大きく口を開いてしまった。あの夜、窓の外には彼女だけではなく父もいたのだ。二人してマスターベーションの一部始終を見ていたなんて、あんまりのことだった。急に全身が熱くなり、頬が真っ赤に染まるのが分かった。
「何を気にすることがあるの。私たちは覗きに行ったわけではないわ。余りにもあなたが真剣だったので声を掛けそびれただけじゃない。そんなに赤くなる必要はないわ」

「必要があって赤くなっているんじゃあないですよ。恥ずかしくて仕方がないんです」
「何だ、恥ずかしがっていたのか。私は、あかんべーをしただけで帰ちゃったから怒っているのかと思った。気持ちは良く分かるけど、恥ずかしがる事なんてないのよ。マスターベーションなんて誰でもするんだから。私もする。でも、あなたのように真剣にすることは素敵な事よ。真剣に生きているって事なんだから。さあ、ショパンを聞かせて」
僕の経験不足の頭脳では何がなんだか分からなくなってしまい、そのもやもやとした一切の暗黒を指先に込め、力の限り鍵盤を叩いた。
スケルツォを弾ききって弾む肩を、彼女の腕が優しく抱いてくれた。次に続くドラマに、熱い期待を抱いた瞬間。

「これ、先生が帰って来たら渡してね」と目の前に突き出した紙は、ピアノの発表会の宣伝の校正刷りだった。
Mはこんな時もビジネスを忘れない。唖然として顔を見ると、いたずらっぽく片目をつぶった彼女がにこやかに「じゃあ、またね」と言った。

背中を見せてドアへ向かう彼女に「あの噂は本当なんですか」と、意地悪く声を掛けた。
ドアのノブを片手で握った見返り美人は、ジッと僕の目の中を覗き込むようにして「どんな噂にしろ、私のことについては全部本当の事よ。あなたも、もう理解できると思うのだけれど、真剣に生きる男と女の間には何だって有りなのよね」と、凄みのあるアルトで言ったのだ。

ドアを開け、半身を外に出したまま、しばらく間を置いてから彼女が言葉を続けた。
「確かピアニストは、もう学校へ行ってもしょうがなかったのよね。良かったら来週の水曜日に早引きして、蔵屋敷に来てみない」
開け放されたドアから寒い風が吹き込み、足元を冷たくなぶった。
Mがドアを閉め、帰っていった後も、すっかり入れ替わってしまった空気は冷たく汗ばんだ全身を包み込んだ。
水曜日に父の土蔵で何があるのだろうか。男女の間には何でも有りだと言い放った彼女の言葉が、全身が再び熱くなるような隠微な予感を運んで来る。
水曜日は終日、母が市の展示会で花を生ける日に当たっていた。
僕の身体は震えだし、全身に鳥肌が立ち、ペニスが急激に勃起していった。


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