9.事務所

「なんだって、ガキを誘拐したって。早まったことをしてくれたな。これから県知事に裏工作をしても、まだ間に合うんだ。代議士だって使える。大学から学者を呼ぶこともできるんだ。誘拐だと警察が入る。とんでも無いことになるぞ」
「そんな悠長な時間は、あたしには残っていないよ。どんなことをしたって、あたしたちの目的をかなえるんだ。負け犬なんかになってたまるか。もう、負け続けることには懲り懲りなんだ」
古ぼけたコンクリート造りの部屋に、産廃屋の低い掠れ声とカンナの興奮した高い声が響いた。

小さな窓を通して、くたびれきったクーラーの室外機のノイズが聞こえてくる。鉱山と町を繋ぐ道路を握するように建った、三階建ての事務所の二階だった。あと三か月で町が解体する予定のビルに、鉱山会社の親企業の許可を理由に産廃屋が事務所を開いて一年になる。

「とにかく考えが甘いんだよ。俺たちの仕事は遊びでやってるんじゃない。産廃処分場建設の認可を取ることが先決なんだ。その後はゼネコンのおえらさんたちが何とかする。俺たちはいわば、現地対策本部なんだから押すだけではだめだ。反対派なんて、認可を取ってから一人ずつ締め付ければいい。お前のやり方は後先が逆になってるんだ。百歩譲って誘拐するにしても、何で三人まとめてしない。やり方も中途半端だ」
「反対の要望書に署名したのは誘拐した二人の親よ。子供をネタに要望書を取り下げさせるのよ。もっと締め上げれば、子供を帰すことを条件に谷から追い出すこともできるかもしれない」
「とにかく甘いんだよ。それに、Mにやられて帰ってきたんじゃ目も当てられない」
聞いていたカンナの肩が怒りで震えだした。

「あの女も署名しているんだ。ちゃんと手錠をかけて閉じこめてきたんだから、たっぷり痛い目に遭わせて賛成の署名に変えさせればいいんだ」
ソファーに座って大きな足を前のテーブルに投げ出したまま、産廃屋がぼそっと言った。
「俺は気に入らないな」

テーブルの前の肘掛け椅子に座っていたカンナが、椅子を鳴らして立ち上がった。タンクトップに隠された薄い胸が激しく上下する。眉があったらへの字になって逆立ったに違いない。相変わらず左脇に黒いショルダーホルスターに入れたベレッタM92Fを吊っている。

「気に入るも、入らないもあるもんか。あたしはもうガキを二人誘拐して、Mと一緒に手錠をかけて通洞坑に閉じ込めてあるんだ。あんたがビビッてるんなら、独りで戻ってけじめてくるよ。もう、あたしには時間がないんだ」
顔全体を真っ赤にして叫ぶと両手を頭に上げ、茶色に染めたショートカットの髪を引きむしった。
乱暴な手の動きに応じて、頭髪全体がすっぽりと引き抜かれた。
無毛の頭皮が窓から射す夏の日差しに輝く。歪んだ口元からのぞいた白い歯茎に赤く、血が滲んでいた。

慌てて立ち上がった産廃屋が、身体を折って嘔吐をこらえているカンナに駆け寄る。
「また具合が悪いのか」
いつになく優しく尋ねると、カンナが顔を上げる。痛みに耐えているのか、両目に涙が滲んでいた。
「長かった夏休みが終わってしまうんだ。きっと、全身の血が反乱を起こしたんだろう。強い抗ガン剤と放射線を使っても、いつまで持つか分からないと医者が言ったろう。休暇みたいなもんだって。一年続いた夏休みなんだから、文句は言えないよ。とにかくもう、時間がないんだ。このまま負けるわけにはいかない。今更ベッドの上で、仏様面している柄じゃないんだ。独りでもけじめてやる」

「分かった。俺も行こう。かつらを被れよ、秘書役らしくないぞ」
疲れ果てた声で産廃屋が応えた。
「もう、こんなものは要らない。秘書役はやめたよ、兄さん。また妹に戻してもらうからね」
汚らわしいものを見るように、手にした茶髪のかつらに目をやったカンナは、部屋の隅の屑籠に、そのままかつらを投げ入れてしまった。
壁に並んだロッカーを開け、赤い野球帽を目深に被る。

「これで十分よ。用意ができたわ。兄さんはいいの」
産廃屋の目尻に涙が浮かんだ。カンナに見られないようにロッカーを開け、大型のランタンとマグライトを出した。しゃがみ込んで新しい電池に入れ替える。
最下段の奥に手を伸ばし、平たい木箱を取り出す。
「持っていくの」
カンナが背中に声をかけた。無言でうなずき、木箱を開ける。
ずっしりとしたトカレフがガンブルーに輝いている。銃把を飾る赤い星が不気味だ。中国製の八連発自動拳銃、口径7・62ミリだった。
マガジンを抜いて弾丸が装填されていることを確かめる。黒いマガジンからのぞいた金色に光る薬挟の上に涙がこぼれた。

「用意はいいぞ」
力無く声を出した。
「妙に湿っぽい声を出すね。これから戦に行く風には見えないよ」
「大丈夫か。痛みはないのか」
産廃屋はつい聞いてしまう。
「つまらないことを聞かないでよ。体中が痛むんだから、冗談を聞いたって笑ってられないんだよ」
言った後、きつく唇を噛みしめる。
産廃屋の目頭がまた熱くなった。

「行くぞ」
無理に元気な声を出してカンナの前に立った。
照明機材と、さり気なくトカレフを入れたバックを肩にしてドアを開ける。

「何が白血病だ」
後ろからカンナの舌打ちが聞こえた。


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