2.オートバイ

老女の死後の手続きをする天田を残し、Mと祐子は老人ホームを後にして街に向かった。

雨は上がっていた。
夕闇の迫った道を、オープンにしたMG・Fが市街地へとスピードを上げる。思ったより長い時間を老人ホームで過ごしたのだ。
二人とも口を利かず、黙ってエンジンの音に身を任せていた。

週末で渋滞した市街地に入り、メインストリートの織姫通りと合流する信号で、Mは右折レーンに車を入れた。祐子の住むマンションと反対の方角だった。
「お茶を飲んでいこうよ。疲れてしまった」
「長い時間付き合わせてしまって、ごめんなさい。仕事は大丈夫なの」
「うちの新聞は日曜日が休刊だから、急いで記事を書く必要はないのよ。美術館の企画展の紹介は来週でいいの。ゆっくりお茶を飲みましょう」
「でも、私は制服のままだし、あまり気が進まないわ」
「命門学院の生徒だって、保護者同伴なら構わないはずよ。ぜひ、付き合って欲しいの」
「いいわ」
Mが強引なのは今に始まったことではない。祐子は、無理に明るい声を出して同意した。

信号の変わり目を捉えて機敏に右折したMG・Fはすぐ、通りを左折し、一方通行の狭い歓楽街に入って行った。
点り始めたネオンや看板灯が、原色の光を道の両側から投げ掛けてくる。今にも降り出すかと思える、陰気な天気に祟られた人出のない道を、スピードを上げて走った。

看板灯が疎らになったところで徐行して、Mがぽつりとつぶやく。
「祐子が私服なら、この店がいいんだけどね」
赤と黒を斜めに染め分けた鮮やかな看板灯の黒地の部分に、カタカナで「サロン・ペイン」と記されてあった。
「あの赤と黒は、昔のスペインのアナキストたちの旗なの。今日みたいなブルーな気分にぴったりのお店なのよ。思いっきりドライにしたマティーニが美味しいの。祐子は私服なら十分大人に見えるから、一緒に呑んでみたくなるね。でも、今日は山根川の畔の喫茶店に行こう」
思い切りアクセルを踏み締めると、一瞬背中がシートに張り付き、タイヤを鳴らして加速した。
祐子は、老女の死を見つめたMの気持ちを思いやってしまう。


大きな窓の外に闇が広がっている。闇の底を流れる山根川の水音は店内までは聞こえてこない。
祐子は正面に座ったMの目を見つめてからコーヒーカップに口を付けた。苦い味がふくいくとした香りと共に口一杯に広がる。老人ホームで嗅いだ腐ったタマネギの匂いがフッと、脳裏に浮かんだ。

「砂糖もミルクも入れないのね。それも私の真似」
話し掛けるMを無視して、祐子は直截に疑問を投げ付けていた。
「第一ヴァイオリンのお婆さんが亡くなったのに、なぜ、誰も涙を流さなかったのかしら。会ってすぐ死んでしまったのに。ねえM、どうしてなのかしら」

「祐子はどうして泣かなかったの」
「私は悲しくなかったの。正直に言うと、死ぬ前のお婆さんは醜く見えたわ。死んで醜さから開放されたとさえ思ったの。そんな自分の気持ちの方が悲しかった。残酷なことよね。本当に悲しい」
「きっと、祐子の気持ちが自然なのよ。お婆さんは死が迎えに来るのを待っていたのよ。いわば自然死。誰しも死から免れないのだから、お婆さんの死は極めて自然な出来事なの。お婆さんはそれを受容していたし、そのことを私たちも認識していた。人が生まれ、年を取り、寿命が来て死ぬ。当たり前のことに涙を流すことはないわ」
「でも、私は今悲しい」
「それは、お婆さんの死が悲しいのではなく、あなたの記憶が悲しみを呼んでいるのよ。あの夏の日の記憶が、あの時の第一ヴァイオリンを甦らせて惜しんでいるの。決してお婆さんの死が悲しいわけではないわ。あなたがさっき言ったように、お婆さんは死によって一切から開放されたのだから」
「そうかしら」
「あなたがさっき、はっきりと言ったのよ」
「私は分からなくなったの。また一人の死を見てしまったわ。多くの死があって、私の死もあるのね」
「祐子。訳の分からない観念をもてあそばない方がいいわ。死は誰しも免れないって言ったでしょう。でも、人の生き方にはたくさんの選択があるわ。死のことなど考えずに、あなたは生きることを考えなさい」

下を向いたまま祐子は、考えに浸っている風情だった。何の得にもならないとMは思う。かえって危険な兆候にも思われた。三年前の祐子は自閉症だったのだ。もう自らを閉ざさないとは、誰にも断言できることでなかった。

「私がまた、自閉症になると思う」
Mの気持ちを見透かしたように、祐子が顔を上げて言った。
「思わないわ。もう帰りましょう。両親が留守だからといって、帰りが遅くなるのは良くないわ」
レシートを持って立ち上がったMは、祐子を振り返らずにレジに向かった。


オープンにしたMG・Fは歓楽街を迂回し、織姫通りを右折すると、真っ直ぐ北へ上って行った。繁華街を通り越して三つ目の信号を越えると、通りの左手に六階建てのマンションがあった。向かい側は明治期に立てられた巨大な煉瓦蔵だった。造り酒屋が酒蔵にしていた煉瓦造りの蔵が去年改修され、イベントホールとして活用されていた。

MG・Fがマンション一階の駐車場の前に止まった。
路上に降り立った祐子の方を向いて、Mが静かに声を掛ける。
「お休み、祐子。つまらないことを考えずに早く寝なさい」
「お休みなさい。M、また会ってね」
「もちろんよ」
大声で答えてMは車をスタートさせた。バックミラーに映った祐子に、車椅子に乗った男が近付いて来る。Mはアクセルから足を放し、バックミラーをじっと見つめた。
バックミラーの中で、見送る祐子の顔が見る間に当惑する。急に車のスピードが落ちたことを訝しく思ったに違いなかった。祐子を前にすると、決まって保護者振りたくなってしまう。
Mは苦笑して頭を左右に振り、思い切ってアクセルを踏んだ。瞬く間にバックミラーの中の祐子が小さくなって、消えた。


「遅かったね祐子」
Mを見送っていた祐子の背後から、掠れた声が呼び掛けた。
「今晩はバイク。ちょっと寄り道しちゃったのよ。待っていてくれたの」
振り向いた祐子が、マンションの駐車場の影から出て来た車椅子の青年に答えた。
「いや、待っていたわけじゃあない。煙草を買いに出たところさ。今日はもう、散歩は無理だね」
祐子は車椅子に近寄り、しゃがみ込んでバイクの顔を見上げた。立ち上がれば百八十センチメートルほどはありそうな立派な体躯が、窮屈そうに車椅子に収まっている。白い作業ズボンの上にグリーンのトレーナーを着ていた。トレーナーの上の顔が、いらだたしそうに小刻みに左右に震えている。

たまたま行き会わせたという、バイクの言葉は嘘だと直感した。きっと四時頃から、イライラしながら祐子を待っていたに違いなかった。土曜日の夕刻はいつも、バイクの車椅子を押して、一時間ほどの散歩に出掛けるのが習慣になっていた。
「このまま散歩に行ってもいいのよ」
「いいよ。疲れた顔をしているし、制服を着ている。早く高等部に行けよ。俺は私服の祐子が好きなんだ」
「着替えてくるわよ。でも、私の顔付きを気にしたり、高等部への進学を勧めたりするのはよして」
「俺は散歩はいいと言っている。今の祐子より、成長した祐子の素晴らしさを思い描くのは俺の勝手だ」
「私は、今の私を見てもらいたいの」
「いや、人は成長するんだよ。高等部に進学した祐子はもっと素敵になっているよ。成長しないのは俺だけでいいんだ」
「バイクは不当に自分を卑下しているわ。身体に障害があるからといって、心まで傷つけるのは良くないわ」
「聞いた風な説教をするのは十年早い。もっと勉強するんだな」
「私なんて勉強したって、たかが知れているわ。高等部で東大合格間違いなしと言われたバイクとは格が違うわ」

見る見るうちにバイクの口元が歪み、顔全体が震えた。
「誰に聞いた」
憎々しい声で喘ぐように言う。微かに酒の匂いがした。
「また呑んでいるのね。誰だって知っていることよ。でも、あなたを傷つける気で言ったのではないわ。もっとプライドを持ったバイクでいてもらいたいの」
「分かった、興奮するほどのことではないな。俺はプライドを失ったわけじゃない。人一倍プライドが高いから持て余しているだけさ。祐子を待ちくたびれて苛ついただけかもしれない」
やっと正直に言ったバイクの目を覗き込み、祐子は「ごめんなさい」と小さく言った。厳しく見開かれたバイクの目元が緩み、笑みがこぼれた。

ほっとして祐子が立ち上がろうとしたとき、肌寒い夜気を裂いて、けたたましいエンジン音が響いた。すぐ横の車道でタイヤの軋む音が轟く。
「バイク、また女狂いか。捜し回ったんだぞ」
カワサキの400CCに跨ったケースワーカーの天田が、真っ赤なフルフェイスのヘルメットの中で叫んだ。
「後輩、また会ったね」
立ち上がった祐子に天田が声を掛けた。
黙ったまま小さく頭を下げた祐子に、天田がヘルメットを脱ぎながら言葉を続けた。

「後輩とバイクは知り合いだったのか。俺はバイクとは高等部の同級生なんだ。でも、こいつは後輩の先輩じゃあないよ。高等部から命門に来たんだ。昔から美人には手が早いから用心した方がいい」
ほころんでいたバイクの顔が、天田の出現でまた厳しく引き締められた。

「天田。俺に用があるのなら早く済ませてくれ。俺はお前に用などない」
「五年振りに会ったというのに、たいそうなご挨拶だな。この後輩とは、さっき別れてきたばかりなんだ。俺だって美少女と口をきく権利はある。今度はまだ、お前に奪われてしまったわけじゃあないからな」
バイクの顔が真っ赤に染まるのが、夜目にもはっきり分かった。

「わざわざ五年前の恨みを言いに来たのか」
「そういうわけだ。懐かしいだろう。あの時と同じカワサキの400だぜ。バイク好きのお前には堪えられないよな」
誇らしくオートバイを揺すると、大きなタンクの中でガソリンの揺れる音が響いた。微かにオイルの匂いが流れる。
「後輩は、老人ホームの玄関で俺が姉さんに話した、美人の同級生のことを覚えているかい。後輩と瓜二つの、中等部のセーラーがよく似合う可愛い子のことさ。そのアイドルをこいつが殺したんだ」

天田の言葉が終わらないうちに、車椅子の車輪が軋むかん高い音が響き、行き交う車両の列にバイクが車椅子を乗り入れた。無謀に通りを横断しようとする。クラクションの音が交錯し、急ブレーキでタイヤの焼ける匂いが鼻孔を打った。
バイクは上半身を前傾させ、しゃにむに車椅子を進める。
「逃げるのか。誰だって知ってることじゃあないか。まだ話があるんだ」
オートバイから飛び降りた天田が、車道の端まで出て大声を出す。既に通りを渡り切ってしまったバイクは、車椅子の速度も緩めず煉瓦蔵の横の路地へと入って行く。
「逃がしやしないぞ」
バイクの背に叫んだ天田が、車の間を縫って通りを横断する。けたたましいクラクションの音がまた、通りに溢れた。


命門学院の二人の先輩に取り残されてしまった祐子は、マンションのエレベーターホールへと向かった。背中に背負った黒いリュックがやけに重い。
ちょうど待っていたエレベーターに乗り込み六階のボタンを押す。静かに上っていく方形の空間の中で、祐子は慌ただしかった午後を思い返した。
老女の死やMとの会話、オートバイに跨ったケースワーカー。
しかし、最後に聞いた、バイクが殺したという少女のことが一番気に掛かっていた。

エレベーターを降りて、明るい通路を突き当たりの部屋へと向かう。木組みのフローリングの上で、靴音が低く響いた。
リュックを下ろして鍵を出し、錠を外す。ドアはスチール製だが軽々と開く。ドアに連動した玄関灯が広いフロアを照らし出した。目の前の紫檀の衝立の向こうは二十畳のリビング兼用のキッチンになっていた。父の趣味だが、変わったレイアウトには違いない。

部屋の中央に、大きな白の革張りの応接三点セットと姿見があるだけの殺風景なリビングだった。高さ五十センチメートルほどのテーブルは、畳一畳以上の広さがあった。親子三人が座っても、それぞれ好きな作業ができることが父の眼目だった。それが彼の考える家庭の団らんのイメージらしかった。しかし、忙しい父は、ここに越して来てから、まだ一度もそのイメージの実現を見たことはなかった。北側の壁面はすべて、カウンターを持ったキッチンになっている。

織姫通りに面して大きく窓が取ってあり、ブラインドが下ろしてある。室の三方にドアがあった。南向きのドアが夫婦の寝室で、東向きのドアが祐子の私室だった。西向きのドアは洗面所とバスに通じている。
祐子はリビングを素通りして自室に向かった。
明かりをつけずにカーテンを開け、下の通りを見下ろす。歩道に寄せて駐車した天田のオートバイが小さく見えたが、人影は見えない。カーテンを閉めて明かりをつけた。
「疲れた」と独り言をつぶやき、ベッドの端に腰を掛けた。目の前の姿見の中で、大人びた他人の顔がしかめ面をしている。そのまま後ろに倒れ、パッチワークを施した、母の手製のベッドカバーの上に仰向けになった。

「本当に殺したのかしら」
さっきから気になっていた、バイクが殺したという少女のことを思った。自分に似ているという姿形を想像し、バイクが殺すところを思い描こうとした。しかし、車椅子から降り、自由に動き回るバイクのイメージが一向に浮かばない。

そこまで考えて、にやりと笑ってしまった。
バイクが実際に、同級生の少女を殺すはずがなかった。何かの比喩に違いないと思うと、あれこれ考えたことが馬鹿らしくなる。
急に暑苦しくなって、寝そべったままセーラーのスカーフを外し、スカートを脱いだ。ショーツ姿になると、Mに撫でられた陰部の感触がくすぐったく甦った。今日は色々なことがあったのだ。

立ち上がって勉強机の隣のステレオの所まで行き、スイッチを入れた。ボリュームを上げると、リフレーンにセットしてあるCDが鳴り始めた。
レント・エ・ラルゴのピアノとハープの調べが殷々と胸を打つ。グレツキ作曲の「悲歌のシンフォニー」第二楽章の導入部だった。聴く度に胸が詰まるがつい聴いてしまう。悲しみに満ちた調べだ。
祐子は明かりを消してからセーラー服を脱ぎ捨てた。ブラジャーを外しショーツを脱ぐ。最後に靴下を脱いでから、素っ裸のまま窓辺に立って行ってカーテンを開けた。街の明かりがぼんやりと、裸身を照らし出した。六階のマンションより高い建物は周囲になかった。見られる心配はない。

織姫通りを見下ろすと、また雨が降り始めていた。天田のオートバイが濡れ、行き交う車のライトを浴びて光っていた。煉瓦蔵の黒い瓦屋根の上を雨足が叩き、雨水が流れ下っていた。
裸になってみても、暑苦しさは変わらなかった。身体の深奥から熱が込み上げ、内側から徐々に焼き尽くされそうな気持ちになる。燃え上がる炎は身体の隙間を通って来る。体にも心にも大きな隙間があり、燃え盛る炎が舐め回している。誰か、私の隙間を埋めてください。
祐子の裸身がブルッと震えたとき、スピーカーからドーン・アップショウのソプラノが流れて来た。その悲しい歌声が、死に勝る悲しみを祐子に伝える。ライナーノーツの翻訳が脳裏に浮かんだ。

 お母さま、どうか泣かないでください。
 天のいと清らかな女王さま、
 どうかいつもわたしを助けてくださるよう。
 アヴェ・マリア。


(ナチス・ドイツ秘密警察の本部があったザコパネの「パレス」で、第三独房の第三壁に刻み込まれた祈り。その下に、ヘレナ・ヴァンダ・プワジュシャクヴナの署名があり、一八歳、一九四四年九月二五日より投獄される、と書かれている)

第一ヴァイオリンの老女の死に顔が目に浮かんだ。Mが言うように、自然のうちに迎える死だとしても、私はごめんだと祐子は思う。
たとえ死が燃え尽きることであっても、自然に燃え尽きることの方が不自然なことのように思えてしまう。

独房の壁に詩を刻んだ十八歳の少女は、どのような死を迎えたのだろうか。恐らく、辛く陰惨な死に違いなかった。しかし、その過酷な死の彼方から、こんなにも清冽な感動が運ばれてくるのだ。不思議でならなかった。
裸の股間が疼いた。右手で撫でると一週間剃らなかった陰毛がザラザラとした感触を伝える。もう一週間も経ったのだと祐子は思ってしまう。何ほどのことがなくても時だけが過ぎて行く。やはり、悲しかった。

自室のドアを開け、明るいリビングに裸のまま出た。十分成長した女の裸身が、殺風景なリビングによく似合った。祐子は高く上がった形の良い尻を振って、バスルームに通じるドアを開けた。洗面所とトイレのドアを通り越して、広いバスルームに入りバスタブに湯を満たす。
ほんのりと湯気の立った温めの湯に、頭まで沈み込んだ所でドアホーンが鳴った。無視したまま湯に浸かっていたが、音はやまない。やまないどころか連続してホーンを押し続けている。強引な意志の力が、ホーンの音にまで込められているようだ。
仕方なく祐子は湯から上がり、洗面所の壁に掛けた紺のバスローブを着てリビングに出た。
電話と兼用のセキュリティーセットの受話器を取る。何も言わないうちに掠れた大声が飛び込んできた。

「祐子、俺だ、入れてくれ」
バイクの興奮した声が耳に響いた。知り合って一年ほどになり、家も近かったが、バイクが訪ねて来たのはこれが初めてだった。
「待って、すぐ開けるわ」
答えてからバスローブ姿が気になったが、構わず玄関に行き錠を開け、ドアチェーンも外した。不思議に一人だけでいる身の不安は感じなかった。
ドアを大きく開けると車椅子が入って来た。室内で見る車椅子は思ったより大きい。広い玄関が手狭に見えた。
「中まで入って」と呼び掛け、紫檀の衝立をずらす。
「車椅子で汚れるからここでいい。押し掛けて来て悪いとは思うが、天田の言ったことを誤解されたくなかったんだ」
「話す前に中に入って、汚れても構わないから」
言葉を続けながらバイクの後ろに回り、車椅子を押してリビングのテーブルの前に着けた。

「あれ、風呂から出たところなのか。悪いタイミングで済まなかった」
祐子のバスローブ姿に、やっと気付いたバイクが、少しも済まなそうではない声で言った。
「風呂上がりではなく、入浴中に呼び出されたのよ」
「それは悪いことをしてしまった。俺は急がないからもう一度風呂に入ってこいよ。湯冷めするといけない」
祐子に会えたことで安心した様子のバイクが、さっきまでとは打って変わり、ゆったりとした口調で入浴を勧める。

「天田さんと話があったんじゃないの。ずっとオートバイが置いてあるわ」
「あいつは追い返した。でも、きっとまた来る。しかし、ここにいるとは考えもつかない」
「それは甘いわ。バイクがそう思うだけで、誰だって考えつく」
「天田には、そんな頭はない。早く風呂に入ってこいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて入ってくるわ。でも私、長湯よ」
祐子は楽しそうに笑って、バイクのためにキッチンに行き、コーラとグラスを持って来た。
「俺はコーラは飲まない」
真剣な顔で断言するバイクにまた笑い掛け、冷蔵庫から取ってきた缶ビールをコーラの隣に置いた。
「同じ呑むなら焼酎よりビールの方がいいのよ。今日はあまり呑んでいないようだから目を瞑るわ」
口を歪めて苦い顔をするバイクに、片目を瞑って見せてから、祐子はバスルームに戻った。ドアに錠を下ろす気にもならず、ローブを脱いで若々しい裸身を一気に湯に沈めた。
広いリビングに一人残ったバイクは、卓球台ほどもありそうなテーブルの隅に置かれたビールに手を伸ばした。

缶の栓を開け、グラスに注がず、直接缶に口を付けて一口飲んだ。
苦い水が喉元から食道を下っていく。味気ない酒だった。やはり喉を焼く刺激が酒のすべてだった。そして、すべてを忘れさせてくれる強烈な酔い。
二口目のビールを含み、じっとコーラの缶を見つめた。もう、気にならなくなったはずだったが、祐子に説明しようとしていた事実が、缶コーラに染みついた憎悪を思い出させた。この小さな缶が一切を奪っていったのだ。
バイクは苦い水を飲み下しながら五年前の夏に思いを馳せた。


命門学院高等部では、三年生の夏休みの最後の週末に独特の行事があった。マラソン補習とも耐久セミナーとも呼ばれる、二十四時間に渡る連続補習だった。
大学の受験勉強が追い込みに掛かる二学期を前に、絶対現役合格の強固な意志を、生徒たちに再確認させるための行事だった。

そのマラソン補習が開始されて以来、始めて四人の生徒がさぼった。
バイクと天田、そして歯科医院の長男で音大志望だったピアニスト。この三人の男子生徒に加えて、才媛を誇った映子までがさぼったのだ。もっとも四人にして見れば、さぼったのでなく、ボイコットしたつもりだった。

四人とも、別に落ちこぼれではない。歯科大を狙わず音大を目指すピアニストと、社会を斜めに見る傾向のあった天田には若干の問題はあったが、教師たちから東大合格間違いなしと言われていたバイクと、数学を除けばバイクを上回る成績の映子に何の問題もなかった。

補習ボイコットの話は、最初にバイクが映子に持ち掛けた。バイクは二人だけで別行動を取りたかったのだが、中等部からの同級生の天田と、ピアノ教室が一緒のピアニストを映子が誘ったのだった。
補習の日、四人は市街地の北、渓谷沿いの山地地区にあるピアニストの家に集合した。ピアニストの父が、趣味のアトリエに使っていた蔵屋敷で二十四時間、それぞれが勝手に勉強することにしたのだ。ちょうどピアニストの母は都会に出掛けていて、二日間留守だった。歯科医は子供の行動に一切干渉したことがない。子供たちだけで、蔵屋敷を自由に使えることになった。

歯科医が趣味の紙漉きに使うというアトリエで、各自が勝手に勉強を始めた。しかし、勉強を始めてすぐにピアニストが抜けた。自分の部屋でピアノを弾くことが一番大事な勉強だと言う。開け放した蔵屋敷の窓からピアニストの弾くショパンが終日聞こえることになった。
昼食に映子が中心になって作ったカレーライスを、四人で楽しく食べた頃までが、この奇妙な補習の最盛期だった。

食後の雑談の最中、みんなを笑わせていた天田が鞄から煙草を出して吸い始めたのだ。
「煙草を吸う人は嫌い」
にべもなく映子が言い、全員が凍り付いた。
「お前に好かれるためにここに来たんじゃないぜ。楽しそうだから付き合ってと、誘われたから来たんだ。少しは楽しませてくれないか。煙草を吸うくらいで目くじら立てるな。ストリップでもして見ろよ。お前の貧弱な裸じゃあ誰も喜びはしまいが、刺激がないよりはましさ」
中等部から一緒だったという天田に遠慮はない。映子の顔が真っ赤に染まった。「天田君なんか帰ればいいのよ」
「お前と一緒なら帰ってやってもいいぜ」
古くから織物で栄えた街の男特有の不遜な態度が、天田には染みついていたようだ。天田も映子も、家庭は古くから機業を営んでいた。

険悪な雰囲気に耐えれなくなった繊細なピアニストが、間合いを計って声を出した。
「僕はまたピアノを弾いてくるよ。ヴェーゼンドルファーの音、ここまで聞こえるかな。アップライトだから無理かな」
「良く聞こえるわ」
即座に映子が答えた。天田を意識して張った胸で、薄いブラウス越しに豊かな乳房が揺れた。
「そう、聞こえるの。聴衆がいると思うと張り合いが出るよ。今度はスケルツォの二番に挑戦する」
「素敵ね。私も聴きに行っていい。邪魔しないからいいでしょう」
いち早く立ち上がった映子が、黒い瞳を輝かせてピアニストを誘う。
二人が去った蔵屋敷の窓から、聴くに耐えないスケルツォが残された二人を嘲笑うように流れてきた。

窓辺が西日で赤くなるまで、バイクと天田は黙ったままそれぞれの勉強を続けた。
「ウー」と、わざとぞんざいな声を出して伸びをした天田が、そのまま床に寝ころんだ。顔だけバイクに向けて話し掛ける。
「チェ、映子の奴、お茶も入れに来ない。でも、これで良かったんだ。なあ、バイク。俺はお前に映子を取られるわけにはいかないんだ。お前は特待生で高等部に来ただけだから分からないだろうけれど、中等部からずっと一緒の俺たちは、お互いのことをみんな知ってるんだ。生意気な映子がジジイ教師にパンツを下ろされ、剥き出しの小さな白い尻を折檻されるところも見ている。一番前の席に座っていた俺は、教壇に手を付いて屈み込まされた、映子の裸の尻の割れ目も、足を大きく開かされてぴくぴくと動いていた肛門も、ミミズ腫れになった鞭の痕もよっく覚えているんだ。あいつが十二歳の時のことだ。だから今更、お前ごときに映子を取られるわけにはいかないんだよ」

「わざわざ俺に話すことじゃない。俺は勉強中なんだ」
広げたノートに目を落としたまま答えたが、耳から入った映子の姿がバイクの身体の奥で熱く燃え上がった。微分方程式を解いていたはずの脳が、剥き出しの尻を掲げたまま振り返った映子の顔を映像化する。じっと歯を食いしばって、不条理な鞭打ちに耐える映子の表情が美しかった。股間が熱くなり、むくむくとペニスが勃起してきた。

「最後の鞭が映子の尻の割れ目を狙ったんだ。あいつは強情だから、それまで泣き声も出さなかった。ジジイ教師も頭に来たんだろう。固くつぼめられた肛門に大きな音を立てて鞭が振り下ろされた。ヒーと尾を引いた映子の悲鳴を、俺は今も覚えている。鞭打たれた瞬間、つぼめられた肛門が開いた。ほんの少しだったけど便を漏らしたんだ。見ていた俺はどきっとして、パンツの中で射精してしまった。便は黄金色に美しく見えた。恥ずかしさに真っ赤になって震える小さな尻が素敵だった。なあ、バイク、羨ましいだろう。俺はますます映子が好きになった。お前とは付き合い方が違うんだよ。俺が見ていたことを、映子はもちろん覚えているはずだ」
「そんな話は聞きたくない。幼かったときのことだ。映子が可哀想だろう」
「幼くはないさ。中学一年の夏のことだ。まだ五年しか経っていない」
「五年も前のことだ。天田、お前は暇すぎるんだ。進歩がない。五年前の話なんか俺は興味がない。今の映子にしか関心はないね」

「そーか、」と言って天田は意地悪く言葉を呑んだ。バイクの股間で固く突き立った熱いペニスが、五年前の話しの続きをせがんでいる。

「なあ、バイク。お前は何でバイクって呼ばれてるんだ」
話題を上手に変えた天田に、バイクは乗せられてしまった。ノートを閉じて寝そべった天田へと向きを変えた。
「俺がオートバイ好きだから、みんなそう呼ぶんだ」
「それで、いつ免許を取るんだ。もう今年は取れるはずだよな」
東大受験のことばかり頭にあったバイクは、一瞬呆気にとられてしまった。
「免許は大学を卒業したら取るよ」
「そして、免許を取ったらオートバイを買って、後ろに映子を乗せるのか」
「そうだ、文句はないだろう」
天田の口元がうれしそうに歪んだ。
「文句はないさ。精々いい夢を見ていればいい。夢は夢だからな。誰も邪魔はしない」
「何を言いたいんだ」
「別に言うことはない。俺と棲む世界が違う奴で安心したのさ。言って置くが、俺は今晩映子をものにするぞ。邪魔はさせない。先手必勝だからな。お前は長い長い先の、見果てぬ夢を見ていればいい」

「なぜ俺に、そんな宣言をするんだ」
「ただの仁義さ。先手必勝だと言ったろう。日も落ちたことだし、まあ、今晩の前祝いに一杯やれよ」
起き上がった天田が鞄を開け、ウイスキーのミニボトルを取り出す。慣れた手付きで二つのグラスに注ぎ分けてバイクに手渡す。
現実離れした天田の話と、脳裏に浮かぶ映子の姿態に困惑したバイクが、グラスを取った。一息に飲み干す天田を横目にして、グラスに口を付けた。酒を飲むのは始めてではなかったが、ストレートのウイスキーは強烈に舌を刺し、喉に咽せた。テーブルに置いてあった温くなったコーラを注ぐ。天田が上手にウイスキーを注ぎ足した。

ソフトドリンクになった酒を、無造作に口に含み飲み下した。汗ばんだ肌が熱くなり、大粒の汗が噴き出してくる。
「話の続きをしてやろう」
「なんの話だ」
「五年前の映子の話しに決まっているだろう。まだ続きがあるんだ。まあ、聞け。
ジジイ教師は、脱糞してしまった映子を許さなかったんだ。その場で、セーラー服を脱いで、全裸になるように命じた。見せしめのため、晒し者にすると言うんだ。唇を噛んだ映子は、命じられるままに赤いスカーフを取り、セーラー服を脱いだ。真っ白なブラジャーを外すと、両手で乳房を隠した。すかさずスカートも脱ぐように叱責された。仕方なく胸を被った手を下ろし、スカートを脱いだ。素っ裸になって、股間と乳房を隠している映子を見て、クラス全員が溜息を洩らした。美しかった。射精してしまっていた俺のペニスが再び勃起してきた。ジジイ教師は憎々しげに、胸と陰部を隠した映子の細い両手を取って、無理やり背中にねじ上げると、縄跳びの縄で両手首を後ろ手に縛り上げたんだ。余った縄で乳房の上下もきつく縛った。そのままの姿で一時間、教壇の横に立たせたんだ。おまけに、十分ごとに九十度ずつ姿勢を変えるように命じた。素っ裸で後ろ手に縛られた映子は、唇を噛みしめたまま、俺たちに恥ずかしい姿を晒したんだ。裸身が向きを変える度に、股間でそよぐ黒い陰毛や、尻の割れ目に沿って走る無数の鞭打ちの痕が、陰惨に俺たちの目を打った。壮絶な美しさだった。なあ、バイク、想像して見ろよ。俺はその一切を見たんだ」

嘘に決まっていると、バイクは思った。天田は自分を挑発するために、映子をネタにした猥談を始めたのだ。しかし天田は、目の据わった真剣な表情でバイクの顔を見つめた。
「俺が嘘をついていると思っているだろう」
「そうだ。嘘に決まっている」
「そう思っていればいいさ。さっきお前に言ったとおり、今晩俺は五年後の映子を確認する。お前は遥か先に夢をつなげ。でもな、したいことはすぐしてしまわないと、無くなってしまうんだ。お前は情けない奴だ。でも、いい奴だよな、ハハハハハ」
天田の含み笑いがどんどん大きくなる。

バイクは耐えきれなくなって立ち上がった。ズボンに締め付けられた勃起したペニスが痛んだ。目ざとく股間の膨らみを見付けた天田が、もう一度高らかに笑った。
「ガムを買いに行く」
つまらない言い訳を言って出口に向かうバイクの背に「せっかく買いに行くなら、オートバイを買え」と、かん高い天田の声が飛んだ。

火照った身体でバイクは、自転車のペダルを踏み続けた。次から次に吹き出す汗を、渓流を下る夜風が心地よく払ってくれる。
街に向けて二十分ほど行ったところにコンビニエンス・ストアがあった。
冷房の効いた店内に入り、熱を持った身体を冷やす。買ったばかりのガムを噛みながら書棚から雑誌を取って目を通した。何気なく開いたページには、全裸で縛られた女のグラビアが拡がっている。黒々とした陰毛を割って、股間を走る縄が卑猥だった。頻りに耳を打つ、太いエンジン音に気付いて目を上げる。目の前の電話ボックスの横に止まった、光り輝くオートバイが目に飛び込んで来た。カワサキの400CCの新車だった。電話ボックスの中には、ライダースーツの男の背が見える。駐車場を出る車のライトを浴びて、オートバイのシートの上で、黒いヘルメットがキラリと光った。腹の底まで響くエンジン音がバイクを誘う。

したいことはすぐすると言った、天田の言葉が甦る。バイクは雑誌を手にしたままレジに向かう。釣り銭を見ようともせず、窓の外の電話ボックスを見つめ続けた。受話器越しの男の会話は、こじれているようだった。しゃがみ込んでメモを取っている後ろ姿が見える。
バイクは急いで店を出て、電話ボックスに近付く。エンジン音が心地よく耳に響く。近付く足音など、バイク自身にさえ聞き取れない。電話を掛けに行く振りをして、電話ボックスの前に立つ。番を急かすかのように、ボックスの中を覗き込んだ。中の男は気付きもしない。頻りに何事かを送話器に訴えている様子だ。女でも口説いているのかも知れない。

バイクの慎重な行動はそこまでだった。
素早くシートの上のヘルメットを取って、頭に被りながら、素早くオートバイに跨る。両手でしっかりハンドルを握って車体を立て、左足でサイドスタンドを蹴る。しっかりとクラッチを切ってギアをローに踏み込み、アクセルを開ける。二千回転を目途にクラッチを合わせると、車体は竿立ちになりそうになって急発進する。慌てて体重を前輪に掛け肩の力を抜く。軽く右に切ったハンドルにスムーズに従い、オートバイは市街地に向かうアスファルト道路を疾走していた。

暴走族の仲間に入った中学時代の同級生に、河原で乗せてもらった車体とは格段の差だった。運転に慣れるに従ってしっくりと体に合ってくる。
街に向けて五分ほど走ったところでバイクは、渓谷を越える橋を渡って対岸の間道に出た。うねうねと続くワインディング・ロードを、二速から五速までのギアを一杯に使って切り抜けて行く。生まれて始めての爽快感が全身を包み込んだ。やはり、したいことはすぐすべきだ。この一点で天田は正しかったと思った。事後の処理は事後に飽きるほど考えられる。バイクは急に、身も心も倍以上に成長したような気がした。

運転に慣れたところでまた渓谷を渡り、ピアニストの家に続く道に乗り入れる。わざとギアを落とし、回転を上げたエンジン音を轟かせながら蔵屋敷の前に乗り付ける。案の定、爆音を聞きつけた三人が外に出て出迎えていた。真っ先に上気した映子の顔が目に飛び込む。目を丸くしている天田の身体が、やけに小さく見えた。ピアニストだけが、遠くを見るような目で眺めている。
三人の目の前でゼロターンを決め、車体を道路の方に向けた。駆け付けた三人がバイクを取り囲む。

「素敵ね、バイク。やっぱりオートバイがよく似合うわ。運転も上手」
「街まで行って借りてきたんだ。勉強ばかりじゃつまらないからね。何といっても二十四時間、寝ないで過ごすんだから刺激も必要だ」
オートバイに跨ったまま胸を張ってバイクが言った。天田の得意な台詞のような気がして、気恥ずかしさもあったが、まず、したいことをすることが先決だった。上気した映子の顔が、十分すぎる満足感を与える。
「夕食前にちょっと、ライディングに連れてって。一度でいいから乗ってみたかったんだ」

「映子、よせよ。バイクは免許を持っていない。お前が被るヘルメットもない」
強い口調で天田が止めた。その口調に映子が反発する。
「こんな山の中で取り締まりなんてないわ。ちょっと出掛けるだけだからヘルメットなんか要らない」
「映子の次に、僕を乗せてくれないか」
ピアニストの一言で決まってしまった。

スカートのままシートの後ろに跨った映子がバイクの腹に両手を回し、耳元で「最高」と甘い声を出した。
思い切りアクセルを開いて急発進する。バイクの臍の上で握られた映子の両手に力が入り「キャー」という歓声が流れ去った。
渓谷沿いの夜道をヘッドライトを上げて疾走する。大小のカーブを小刻みにギアを入れ替えて、流れるようなスピードを維持したままクリアーして行く。背中にぴったりと張り付いた映子の胸の荒い鼓動がエンジン音にだぶり、いやが上にバイクの全身を熱く燃え立たせる。

二十分ほど走ると、スピードに慣れた映子は、オートバイの傾斜に身体を合わせられるようになった。二人が一体となり、カーブへの突っ込みもリズミカルに決まる。背中をくすぐる乳房の感触がたまらず、バイクのペニスはズボンの中で猛々しく勃起してくる。乗り始めた頃の緊張が解けた映子の両手が、何気なくバイクの股間に触った。勃起したペニスの感触に驚き、手の動きを止める。しかし、野蛮なまでに猛り立って疾走するオートバイの鼓動が、映子に大胆な行動をとらせた。

映子は左手でバイクの腹を抱えたまま、右手をバイクの股間に伸ばした。ズボンのジッパーを摘んで下に降ろす。パンツの中で勃起しているペニスを引き出し、右手で握って外に直立させた。熱く燃える亀頭を凄まじい風圧が心地よくなぶる。
車体の振動で、握られたペニスがしごかれ、暴発寸前まで官能が高まる。もう死んだっていいと思ったとき、ヘッドライトが急カーブの標識を照らしだした。

バイクは慌てずにギアをシフトダウンさせていく。
カーブの曲がり鼻で二速、五千回転まで落とした。車速は約五十キロ。アウトから鋭く、インに切り込もうとした瞬間、路上に転がっているコーラの赤い缶が大きく目に飛び込んだ。
しかし、もう進入コースを変えることはできない。鋭く切った前輪が缶を踏み潰した。この微かなショックに後輪が連動し、大きくアウトに流れた。急激に襲った遠心力で、ペニスを握った映子の右手が離れる。背中に押し付けられた両乳房の感触が無くなり、車体から振り落とされた肉体の重さだけが、軽々としたハンドルに伝わってきた。
慌てて両手に力を入れる。前輪がブレーキでロックし、切られたクラッチが後輪の駆動力を奪った。後は、糸の切れたタコと同じだった。車体ごとバイクはガードレールに激突した。激突の反動で車体から振り落とされたバイクは、反対車線のガードレールまで飛ばされ、背中から腰を激しくぶつけた。

耳を圧していた激突音が消え去り、静寂が戻った。

不思議なことに、バイクに痛みはなかった。山側の車線の端に立った電柱に付けられた外灯が、青い光を路上に落としている。その電柱に縋り付くようにして倒れている映子の姿が見えた。スカートがまくれ上がり、白いショーツで隠された尻が艶めかしく見える。
ああ良かったと思い「エイコッ」と呼び掛けたが、返事はない。不安がこみ上げ、立ち上がって映子の無事を確かめに行こうとしたが、立てない。
立てないどころか下半身に何の感覚もない。仕方なく両手を使って這って行った。
不安と焦りに身を焦がして、絶え間なく映子の名を呼びながら、バイクはアスファルトの路上を這った。勃起したままのペニスが路面で擦れ、瞬時に爛れていく亀頭の先から、白濁した精液がだらだらと流れていた。しかし、バイクには何の感触もない。

やっとの思いで映子の足下まで這い寄り、手を伸ばして剥き出しになった尻を触った。暖かな体温を感じたが、思ったほどの弾力がない。慌てて這い上がって、横を向いた顔を覗き込んだ。
大きく見開かれた映子の左目が、虚ろにバイクを見ている。しかし、右目は無かった。目ばかりでなく頭も無い。完熟したザクロのように割り開かれた頭の片割れは、黒々とした毛髪と共に、コンクリート製の電柱に赤黒い血と一緒に張り付いていた。

バイクの全身を吐き気が襲った。何度も何度も、感覚のない下半身を引きずり、喘ぎながら吐いたが。苦い胃液の他には、何も出てこなかった。最後に、込み上げる嘔吐に耐えて、掠れた声で映子の名を呼んだ。当然、返事はない。
この事故を機に、バイクは脊椎の損傷によって自らの下半身と、映子を失った。夢を含め、一切を無くしたのだった。
「ワーッ」と大きく、バイクは叫び声を上げた。


リビングからバイクの叫びが聞こえた気がしたが、祐子は構わず湯に浸かっていた。
バイクと知り合ってからもう一年になる。出会いの時から拗ねた態度をしていたが、自分を偽らない言葉に好感が持てた。

バイクとの出会いは去年の夏の初め、マンションの前の煉瓦蔵がイベント会場としてオープンした時だった。こけら落としの演奏会に、両親と出掛けた夜のことだ。
赤い煉瓦の壁面で囲まれた場内で、アマチュアバンドがビートルズナンバーを演奏していた。両親が懐かしがって身体を揺するほど、乗りがいい演奏だった。
会場全体が盛り上がり、観客の一人が暑気に耐えかねて蔵の出入り口を大きく開け放した。心地よい夜風が場内を包み、演奏はますます熱を帯びる。
「ルーシー・ザ・スカイ・イズ・ダイヤモンド」の強烈なビートが始まってすぐ、開け放された出入り口から酒瓶が投げ込まれた。舞台の端で砕け散った瓶で会場が騒然となり、全員が出入り口を見た。

一台の車椅子が、月の光を浴びて中庭に止まっている。静まり返った会場全体に車椅子に乗った青年の絶叫が響き渡った。
「ウルセイ、家に病人がいるんだ、もっと静かにしろ」
声の主がバイクだった。呆気にとられている観客も両親もお構いなく、祐子は出入り口を閉めて、車椅子の前に立った。青年の清冽な気迫に引きつけられたのだ。
「ごめんなさい」
詫びる祐子にバイクは「お前に謝られる筋はない」と言ったのだ。その通りだった。
「あなたはどなた」と、嫌味たっぷりに尋ねた祐子に「俺はバイクだ。お前は映子だろう」と、あっさり答えた。
酒の匂いがぷんぷんしていた。
「私は祐子よ」と答え、車椅子を押して織姫通りに出た。思えば最悪の出会いだ。
だから、バイクの叫び声などに、今更驚いてはいられない。祐子は、心の底まで温まったと思えるまで湯に浸かってから上がった。

素肌に紺のバスローブを着て、リビングに戻る。
青ざめた顔を小刻みに震わせ、缶ビールを握りしめたバイクが、ドアを開けた祐子の目を見つめて口を開いた。唇を歪め、早口に言葉を紡ぎ出す。
「俺が映子を殺したと言った天田の言葉に嘘はないんだ。しかし、どうしても、あの時の事故の事情を祐子に知って欲しくて来てしまった。頼むから誤解のないように聞いてくれ」
「いいの、聞かなくてもいいの。かえって聞きたくないわ」
「どうして。俺は祐子に誤解されたくないんだ」
「誤解も間違いも、私はしない。だって、私は今のバイクしか知らないもの。バイクが昔の話をすれば、私は自由に歩き回っているバイクを想像しなければならない。でも、私の知っているバイクは車椅子に乗っているのよ。私の知らないバイクを想像することはできないの」
「しかし、俺は歩き回れたんだ」
「そう、昔ね。でも、今はもう変わってしまったわ。なぜ、変わってからのバイクを大切にしないの。歩けたときのバイクは私に関係ないもの」
静かに話す祐子の口調がバイクを冷静にした。

「妹に説教されている気がするよ。祐子はしっかりしているね」
「無駄なことは考えない横着者なのよ。私なんて変わりたくても、なかなか変われはしない。ちっぽけな過去が足を引っ張ってるの。勇気も足りない。その点バイクは、すべてが変わったんだと思う。せっかくのチャンスを大事にしてもらいたいの。変わることに自信を持って、私に勇気を与えて欲しい」
バイクの顔が苦悩に歪んだ。祐子の言うとおりだと思うが、頭の隅に張り付いた小さなプライドと重すぎる記憶が、休みなく過去から脅迫する。

「ねえバイク。翻訳とか、コンピューターのソフトの開発とか、あなたに相応しい仕事をしてみたいと思わない。何をやっても、バイクなら成功しそうな気がする」
バイクは、熱中する対象が祐子しかないことを、見透かされたような気がした。その祐子まで失うわけにいかなかった。それではもう、生きていけないとさえ思ってしまう。酒が欲しかった。
缶ビールを口に運んだが空だった。祐子に気付かれないよう、飲む振りをする。このまま帰りたくはなかった。何とか、別な話を考えようと焦った。

「話は変わるけど。祐子は幼いとき、お仕置きされたことがあるかい」
話が変わるもないものだった。五年前に天田が話した、映子の折檻のことが気になっていただけだった。声に出してから、頬が赤くなるのを感じた。
「ええ、されたわ」
呆気なく祐子が答えた。再び足下を見透かされたような答えに、なおも顔が赤くなった。しかし、聞かずにはいられない。
「へー、本当かい。どんなことをされたんだい」
「思い出したくないくらい酷いことよ。でも、忘れないために、いつも思い出すの。私が変わっていくには、記憶を乗り越えていくしかないもの。担任の先生に素っ裸のお尻を、死ぬほど笞で打たれたのよ。足を広げられて、お尻の穴が裂けるほど打たれた。六年生の夏のことよ。まだ三年しか経っていない」

嫌になるほど、天田のよた話と似ていた。しかし、祐子が嘘をつくはずがない。強烈な性感がスパークして、バイクの脳裏を走った。反応しない下半身を煽るように想像力が働く。
目を閉じてしまったバイクの前で、祐子がバスローブを脱いで後ろを向いた。
「見て、こんな格好で笞打たれたの」
祐子の声で目を開いたバイクの前に、両足を開いて突き出された真っ白な尻があった。尻の割れ目が大きく開かれ、桜色の肛門も、陰部も、すべて丸見えだった。不揃いに剃られた陰毛が微かに生えだしていた。

初めて見る女の裸身だった。しかも、一番恥ずかしい股間を押し開いてみせる祐子の気持ちが理解できなかった。頭の中だけで苦しい官能が渦巻く。残酷だった。
官能の高ぶりに、思い通りに反応できない感覚を失った下半身が、巨大な岩のように想像力の果てに聳えている。

「ねえ、分かった」
素っ裸の尻を掲げたまま、振り返った祐子の顔が笑っている。黙って頷くと、身を翻して正面を向いた。つるつるの股間から小さな性器が、悩ましそうに顔を出している。下半身のもどかしさに耐えかねて、バイクの顔が苦悩に歪む。

「ねえ、バイク。どうして毛を剃っているか分かる」
バイクが黙って首を横に振ると、涼しい声で答えた。
「勇気が出るように剃り落とすの。服を着ていても、内腿に触れる剃り跡の感触が、勇気を出せって私に告げてくれるの。そう、私は普通じゃないんだって、元気が出るのよ」
下半身が麻痺しているのを知っていて、俺を馬鹿にしているのだろうかと、バイクは思ってしまう。しかし、奔放な祐子の態度はいつもと変わったところがない。かえって他人の目が無い分、自然な振る舞いにさえ見える。

確かに普通ではなかった。俺もそうした新しい地平に向かうべきなのか。バイクは迷う。捨て去った過去が重すぎるような気がして苦しい。
「ねえ、バイク。せっかく来てくれたのだから、私の毛を奇麗に剃ってちょうだい。いつも週末に剃るんだけど、一人ではうまく剃れないのよ、お願い」
バイクの返事も待たず、素っ裸のまま洗面所に戻り、ジレットの剃刀とシェービングスプレーを持ってきてバイクに手渡す。
顔をこわばらせたバイクを尻目に、目の前で大きく足を開き、股間を突き出す。呼吸と共に息づく、剥き出しの性器が眩しい。

覚悟を決めたバイクは、祐子の陰部全体にシェービングスプレーを振りまいてから、慎重にジレットを使った。鋭い刃先でジョリジョリと短い陰毛が剃り落とされる。前を剃り終わると祐子は後ろを向き、再び尻を高く掲げた。
「肛門の周りの毛もよく剃ってちょうだい。私は毛深い方みたい」
バイクの頬がまた赤くなってしまう。
前と後ろから陰毛を剃り上げると、祐子は姿見の前に立ち、仕上がり具合を確認する。
「じょうず、バイクは何をしても最高ね」
うれしそうに戻って来て、バイクの手を取った。

「祐子、先生に折檻されたとき。鞭打ちの後、素っ裸にされて縛られなかったかい」
「先生には縛られなかったわ。でも、違う人に手錠を掛けられたの。今から考えると、怖いほど素敵な人だったみたい。でも死んでしまったわ。私も勇気を出さなくちゃ」
バイクには理解できなかったが、強烈な記憶が三年前の祐子に刷り込まれているらしいことは分かった。
俺も頑張るか。バイクは珍しく前向きに考え、新鮮な気持ちで祐子のマンションを後にした。


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