3.演技者の記憶

ドアまでバイクを見送った祐子は、裸のまま自室に戻った。
リフレーンにセットしたままのCDが、相変わらず「悲歌のシンフォニー」の第二楽章を繰り返している。

火照った肌が悲しい調べに反応する。剃りたての股間が、ピリッと疼いた。窓辺に寄ってカーテンを開け、窓を開いた。湿気を帯びた冷たい外気が裸身を包む。また、雨が上がったらしい。見下ろした街路が、外灯の光を浴びて紫色に光っている。まだ八時というのに行き交う車も疎らだ。歩道の端に置かれたままの天田のオートバイがヘッドライトに照らされ、一瞬銀色に光った。

マンションを出たバイクが車道に下り、織姫通りを横断しようとしている。ちょうど通りの中ほどまで進んだとき、バイクの後ろから近寄って来た天田が、車椅子の取っ手を両手で握った。そのまま車椅子を押して、歓楽街の方向に車道を下って行く。天田の全身に込められた強い意志が、見下ろしている祐子にまで伝わってきた。バイクは車椅子の中で力いっぱい身体を捻り、怒りを込めて後ろを振り返った。天田の姿を確認してから、諦めたように前を向き、肩を落として押されて行く。後ろ姿が悲しかった。

祐子は窓を閉め、クロゼットから黒いトレーナーを出して頭から被った。剥き出しの下半身にブラックジーンズを通す。洗いたての固いデニム地が、つるつるの股間に痛い。
ドアを出てから、演奏を続けるCDが気になったが、そのまま廊下に出た。悲しみの残った部屋を、悲しい調べが満たせばいいと思った。早く、バイクと天田を追わなければ、今夜もちょっぴり刺激のあった週末のままで終わってしまう。

身体の中を猛スピードで流れる時間と、止まってしまったような現実の時間との落差を急いで埋めなければ、Mの言うように身も心も腐ってしまうと、祐子は思った。


赤と黒を斜めに染め分けた看板灯の隣の駐車スペースに、MはオープンにしたMG・Fを止めた。
降ったり止んだりの気まぐれな天気のためか、夜になっても歓楽街に人は疎らだった。こんな夜は、どうしても一杯の酒が恋しい。
小さな金色の板に「サロン・ペイン」と、黒い文字の打たれた厚い木のドアを開けて、店内に入った。

カード専用の白い電話の置かれた狭いホールの先に、自動ドア越しに店内が開けている。客のいない黒いフロアの奥に、どっしりとしたカウンターが見える。並んだ赤いスツールも、手持ち無沙汰に客待ちをしているようだ。ガラスの自動ドアを通ってフロアに入る。横手に置かれた黒いグランドピアノの後ろに、二階へ続く赤いドアがある。ドアに張った黒い板の上に、金色の文字で「会員制クラブ・ペインクリニック」と書いてあった。
Mは真っ直ぐカウンターまで進み、中央のスツールに座った。

「いらっしゃいませ」
カウンターの中で、全面に張った大きな鏡を背にした若い女性が、丁寧に頭を下げた。
店でチーフと呼ばれている、目元の涼しいショートカットのバーテンと向かい合うのは三回目だった。開店して半年の店だが、どんな常連客とも一定の距離を置いている接客姿勢が好ましかった。
「ドライマティニをください」
「はい」と、はっきりした声で答えたチーフは、透き通った氷の浮いたシンプルなクリスタルグラスを目の前に出した。白いお絞りを横に添える。この店で白い色は、入り口のホールの電話と、お絞りだけだ。赤と黒だけを使ってインテリアした店内で、白は目に映える。
チーフの服装も、襟元の大きく開いた、ゆったりとした白い半袖シャツと、白のパンツだった。腰に締めた黒のベルトと、首に巻いた青いスカーフが、引き締まった姿態によく似合っていた。二十代後半の、眩しいほどの美しさが全身に溢れていた。余程スカーフが好きなのか、この前来たときも、色変わりのスカーフを巻いていたことをMは思い出した。

ぎこちない仕草でシェーカーを振るが、技術の拙さを美しさがカバーしてしまうところが憎い。若さの持つ特権を見せ付けられる思いだ。五つと年の違わないところが歯がゆかった。思えば、花の盛りは本当に短い。後は責任と人格で勝負するしかないのだ。
黒い革のコースターに置かれたグラスに、チーフがマティニを注ぐ。

「ママとナースは休みなの」
スキンヘッドの大柄なママと、ナースと呼ばれるグラマラスな中年のウエイトレスのことを尋ねた。この店は、三人の女が切り盛りしていたはずだった。しかし、それほど客が入っていたことはないので、チーフ一人でやっていけないこともなさそうだ。
「二人とも上のクラブの用意をしています」
酒にオリーブを添えながらチーフが答えた。
会員制クラブの赤いドアが目に浮かんだ。思わず目の前の鏡を見上げたが、赤いドアは映らないように配置してある。グランドピアノの端だけが、辛うじて目に入った。

突然ピアノの音色が響き渡る。
「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」の流麗なメロディーが、静かな店内に流れた。少しブルーに、気軽に弾き流す、軽いタッチのピアノだった。聴く者を舐めきった、嫌味な演奏だと思った。
せっかくのマティニが不味くなる気がしたが、チーフに苦情を言うほどのことではないと諦め、舌を刺す心地よい酒の刺激をゆっくり味わう。
嫌味なピアノが、思い切りシンコペーションを掛けてエンディングを突っ走った後、静かさが戻った。

「今晩はM、久しぶりだね」
狭いフロアに、若々しい男の声が響いた。Mが見上げた鏡に、ピアノの前まで歩み出た、白のシルクシャツと同色の麻のパンツを穿いた男の姿が映っている。
Mは鏡の中の男を見上げ、右手で軽くグラスを上げてから声を掛けた。
「今晩はピアニスト。ふやけたジャズをありがとう。あなたの後ろで、ショパンが泣いているわ」
「相変わらずだねM。僕はその泣き声を聞かせたかったんだ」
にこやかに笑いながらピアニストが近付いて来る。
そのピアニストとMの間に、自動ドアを開けて車椅子が割り込んで来た。車椅子を押す天田が、大きな声を出した。
「ずいぶん手間取らせたが、やっとバイクを連れて来たよ」
天田の声に頷いたピアニストがMから視線を外し、気取った声で挨拶をする。
「今晩はバイク。今晩は天田。バイクと会うのは五年振りだ。本当に良く来てくれたね。まあ掛けてくれよ」
ピアニストがフロアの赤いテーブルに、バイクと天田を案内する。
「チーフ。悪いけど看板の明かりを消してください。客も来ないようだから貸し切りにしよう。みんなゆっくりしていってくれ」
ピアニストが席に着いた二人に大きな声で言った。

「M、僕たちはこれから同窓会を開くんだ。Mは僕の保護者みたいなものだから、良かったらそこで付き合っていてください。いいでしょう」
「いいわよ。帰っても今夜は予定がないわ。ピアニストの成長振りをじっくり見せてもらおう。チーフ、マティニをもう一つちょうだい」
スツールを回して振り返ったMを見て、びっくりして天田が立ち上がった。
「あれっ。お姉さんじゃないですか。ピアニストと知り合いだったんですか」
「今晩はケースワーカー。私は昔、ピアニストの家にホームステーしたことがあるの。気にしないでいいわ」
今度は、ピアニストが呆気にとられた顔をした。

「なんだ、天田はもうMに目を付けたのか。帰ってきて半年も経たないうちに、忙しいことだ。でも、お前じゃとても太刀打ちできないよ」
「ピアニスト、私を怪物のように言うのはやめなさい。早く同窓会を始めなさいよ。私はゆっくり酒に浸らせてもらうから」
再び前に向き直ったMは、正面の鏡に映る三人の姿を見て、楽しそうにグラスに残ったマティニを口に含んだ。看板灯の明かりを落としたチーフが、二杯目のシェーカーを振る。


席に座り直した天田が、もの珍しそうに店内を見回す。ふくれっ面のバイクは黙ったまま正面を見据えている。
「凄いな。ピアニストがこの店のオーナーなのか」
「違うさ。ちゃんとママがいるよ。僕がこの街を紹介して、親父が少し資金を出しただけさ。僕はたまに、ピアノを弾きに来る」
「だって、お前は歯医者の勉強をしているんだろう」
「今は医科に替えた」
「お前の家は歯医者じゃないか」
「ピアニストが歯医者になる気になった。そして、今度は歯医者をやめて医者になることにしただけさ」
「勝手でいいな。婦人科か」
「天田ならな。僕は麻酔科を選んだ」
「ふーん。それが飲み屋と何の関係があるんだ」
「関係ないさ。バイトをしていた病院で、ママとチーフに知り合っただけさ。まあ、そんな話は後でいいよ。何か飲まないか。ここは飲み屋なんだ。ねえ、バイク。何で黙ったままなんだ。何が飲みたい」
「焼酎」
固い姿勢を崩さずにバイクが答えた。
「困ったな、置いてないよ。ウオッカでいいな。チーフ、ウオッカをボトルごとください。それから氷、」
「俺はウイスキー」
天田が大声でオーダーする。
言われるままの品を銀のトレーに乗せたチーフが、フロアのテーブルに運んで行って、戻って来た。


「あの子たちの話を聞いたんだけど、歯科医がこの店の資金を出したんですって」
カウンターに入ろうとしたチーフに小声で訊いた。
「ええ、そうです」
「シェーカーを振る手つきが気になっていたんだけど、ひょっとして三人とも、こういう仕事は初めてなの」
「ええ。ママは前からマネージャーだけど、私は役者。ナースは本物の看護婦をしていました」
チーフも小声で答えた。
やっとMは納得がいった。こうした店にしては、馴れ馴れしくない新鮮さが魅力だったが、全員が素人だったのだ。俄然、好奇心が湧いてきた。チーフに微笑み掛けてから、気楽な口調で訊ねてみる。

「どうして、こんな田舎に店を出したの」
「ママとピアニストの考えが一致したの。それから資金」
少しリラックスした口調でチーフが言った。
「Mさんって言いましたよね。何で、この店のことが気になるんですか」
「ピアニストと、その父親が関係しているからよ。とっても知りたいわ」
「Mさんは、お二人とどんな関係なんです」
「Mと呼び捨てにして。さっき聞いたと思うけど、私はピアニストの家に二か月ほど住んでいたことがあるの。家族全員と性的関係にあったわ」
チーフの目がきらりと光った。Mを通り越して遠くを見るような視線が、少し時間を置いて、また戻って来る。

「ごめんなさい。少し記憶を旅してしまった。こんな田舎で慣れない店を出した事情を、私の方からMに聞いてもらいたくなったわ。隣に掛けてもいい」
「もちろんいいわ」
にっこり笑って、チーフの目を見上げて答えた。
「その前に、これを見て」

チーフがシャツの襟元に両手を上げ、首に巻いた青いスカーフを解いた。
細い首筋の白い喉元に、赤黒いひきつれが走っている。
Mは目を見張って、その醜い一条の筋を見つめた。目を瞑ったら負けだと思い、冷静に肉のひきつれを見た。
白い肌に刻み込まれた痣は、縄痕に相違なかった。チーフの細い首がかつて、縄で吊されたのだ。
チーフの肉体と精神を蹂躙したはずの事件が、赤黒い肉のひきつれに浮かび上がるかのようだった。Mの胸の底から悲しみが込み上げ、次々に涙が溢れて頬を伝った。
涙で曇る視界の中でチーフの顔が微かに微笑み、カウンターから出るぼやけた背中が見えた。

「そんなに悲しまないで。もう、ずっと昔のことよ」
缶ビールを持ってMの隣に座ったチーフが、鏡に映ったMの顔を見て言った。
「それほど前のこととは思えないわ」
咽せる声で、Mが鏡の中のチーフに応える。
「でも、一年は経った。たまに傷跡が疼くだけよ」
「死にたくなるほどの、辛いことがあったの」
訊いてしまってからMは、間の抜けた問いに歯痒さを感じた。
疲労が溜まりすぎているのだろうかと思った。年を取ったということだろうかとも思う。言葉にデリカシーが無くなっていた。
「それがね。自殺を図ったわけではないの。誘われただけ。誘った方は見事に死んでしまったけど、私には傷跡だけが残った」
無造作に言ったチーフの言葉が、白々とした靄のように鏡面を曇らす。少し目を伏せた美しい顔の下で、喉に刻み込まれた赤黒い筋が揺れた。チーフが笑ったのだ。つられて笑うには、深刻すぎる話だった。
Mは、はっきりした事実を知りたいと思った。

「役者をしていたって言ったわね。新しい芝居の稽古を始めたんじゃないでしょうね」
「Mは意地悪ね。こんな傷跡を見せてまで、芝居をしようとは思わないわ。それに、本当の芝居をしていたのは、ずっと前のことよ。Mは、S・Mって知ってる」
「知っているわ」
「私はS・Mショーで、縛りの役者をしていたの。縛る方ではなくて、大抵縛られる方。素っ裸で縛られて、鞭打たれたり、吊されたりして、恥ずかしさと淫らさに責め苛まれる姿を客に見せるの。結構いいお金になったわ。役者のなれの果てと言ってもいい。相手役に犯される姿態さえ見せたんだもの」
話の先を促さなくとも、チーフは先を続けた。話すことによって、現在を確認しているような、真剣な気迫さえ漂って来る。

「相手役は私より七つ上の男だった。宏志といって、昔、芝居をしていたそうよ。本当のところは分からないけど、出会ったときはもう、S・Mショーの男優だった。背が高く、美形だったけれど、可哀想に、首が少し曲がっているの。追突事故の後遺症なんですって。それで芝居を断念したって言っていたわ。ママと組んでショーをしていたけれど、客に飽きられたので若い子を捜していたらしいの。ちっぽけな劇団で端役をしていた私に目を付けたのよ。ママはマネージャーの素質があったから、ビジネスライクに私を口説いたわ。私が二十歳の時よ、宏志は二十七。ママの年は知らないわ」
缶ビールを一口啜ったチーフが、鏡の中のMの目を捉えた。視線を替えて自身の目を見据えると、また話を続けた。

「それからの五年間は短いようで長かったわ。客が集まればマンションでもクラブでも、一流ホテルの客室にでも出掛けてショーを見せるの。決まって素っ裸に剥かれ、後ろ手に縛られ、鞭打たれ、犯されたわ。役者だから、精一杯恥ずかしがり、喘ぎ、這いずり、泣き啜った。最後は、責め抜かれた身体が淫らに燃え上がり、官能に悶え、絶頂を極める姿を、惨めな舞台で演じきったわ。それでも私は、役者だと思っていたの。でも、宏志は違っていた。出会った頃、快活で明るく、すべてをビジネスと割り切って、仕事を楽しもうとする雰囲気さえあった宏志が変わっていった。あれほど外に出て遊ぶことが好きだったのに、終日部屋に閉じこもるようになってしまった。頻りに小説を書いていたわ。仕事とは関係ない青春小説。笑ってしまうわね。よく雑誌に投稿していたわ。でも、全部ボツ。あのころの宏志が何で焦っていたのか、私にもやっと分かったような気がする。宏志はもう三十歳を過ぎていたのだから。たとえビジネスだといっても、舞台に素っ裸の身体を晒し、無理に勃起させたペニスで私を犯す仕事に、きっと嫌気が差していたのよ。五年間犯され続けても、一回も私の身体の中に射精したことが無かったわ。その宏志が、最後に私の中で射精した。そして終わりだった」
鏡に映る自分自身の目を見つめるチーフに、黒い瞳の中を走るスポットライトの光線が見えた。


場末のクラブの狭いフロアを、スポットライトの白い光が照らし出している。目に眩しかったが、チーフは目を瞑るわけにはいかない。闇の中で取り巻く客が喜ばないからだ。
チーフは眩しさに耐え、大きく開いた両足に力を入れた。素っ裸だった。これまで、さんざん宏志に鞭打たれた剥き出しの尻が、ヒリヒリ痛んだ。

後ろ手に緊縛された裸身を真っ直ぐに伸ばし、次の演技に備える。
今夜のショーは、ちんぴらに拉致された恋人同士がテーマだった。ちんぴらたちの前で、恋人を全裸に剥き、後ろ手に縛り上げて折檻することを強制された男が、最後は自分自身まで全裸で縛られ、お互いに緊縛されたままセックスするよう命じられるという、陳腐な台本だった。

ただし、二人とも縛られたまま絡みに入るという設定は、今回が初めてだった。
最近の宏志には珍しく、舞台に凝った。最後に二人が絡み合う場所を、二台の脚立に渡した板の上に決めたのだ。高さは二メートルもあった。それに、二人とも首を、犬のように括られることにした。マネジャーのママは危険性を指摘して反対したが、ちょっとやそっとの刺激では喜ばなくなっていた客の反応を言い立て、強引に宏志が舞台設定をしたのだった。
二メートルは、思ったよりずっと高い。二つの脚立に渡された板から十字型に張り出した、幅三十センチメートルの板の上で後ろ手に縛られたチーフの裸身が震えていた。大きく開いた股間が、緊張した両腿の筋肉の上で微かに揺れる。広げた両足の裏で踏み締めた板の感触が、ともすれば無くなってしまいそうな気さえした。恐ろしくなるほどの高さだ。

スポットライトを浴びた両の乳房が、怪しく光っている。小さな乳房を大きく見せようと、黒い縄で菱形に縛り上げられていた。細い首筋には、宏志が掛けた一条の縄が天井の梁へと続いている。首を括られる恐怖に身動きすらできない。
息を詰めた大勢の人の気配が、周りの闇の中から熱を帯びて立ち上って来る。
背後で人の気配がした。宏志とママが脚立を上って来たに違いなかった。気持ちの悪くなる感触で、足下の板が揺れた。大きく開いた股間が寒い。

素っ裸の宏志はママに後ろ手に縛られ、脚立の上に追い上げられて行った。ママの持つ鞭が、脚立を登る剥き出しの尻でピシッと鳴った。胴を二巻きした二本の縄が股間をくぐり、両側からペニスを挟んで胸と腕を縛った縄で止められている。脚立を一段上る度に、股間で揺れるペニスが不快だった。なぜ、今、俺はこんなことをしているのかと、宏志は思った。書き溜めてきた青春小説の主人公とは、比べるまでもない。米粒ほどのロマンもなかった。醜悪な姿だ。
天井から降りた首吊りの縄を、ママが広げて宏志の首に通し、喉元で輪を締めた。客の注意を引くべく、これ見よがしに作ったものだ。チーフの細い首縄と比べ、太い麻縄が凶々しい。縛り首に使うロープと同じ作りだった。

振りかぶった鞭で鋭く、急き立てるように宏志の尻を打ってから、ママが脚立を降りた。
足下の揺れが一段落するとすぐ、心持ち突き出したチーフの尻の割れ目に、宏志の股間が触れた。固い陰毛の感触が素肌を刺し、チーフの白い裸身が震える。
後ろから張り付いて来た宏志の口が、喘ぎながらうなじを這う。チーフの背中を、熱い刺激が股間へと下って行った。
宏志の仕草は、いつもとまるで違う。戸惑って震える尻に、萎びたペニスが擦り付けられた。
小さな喘ぎ声が、耳元で言葉になる。

「チーフ。もう俺は耐えられない。こんな猿芝居はもう懲り懲りだ。今夜は嘘は無しだ」
宏志の熱い息が耳朶に掛かり、少しずつ勃起してきたペニスが股間を責める。かつて感じたこともない高まりが、身体の奥から首をもたげてくる。めらめらと燃える官能の炎が、内側からチーフの股間を焼く。

「感じるかいチーフ。本当の官能はまだこんなものではない。絶頂で死にたくなるほどの極楽なんだ。さあ、もっと、もっと尻を振って悶えろ。ぐっしょりと濡れた肉で、俺のペニスをくわえ込むんだ」
宏志の喘ぎ声が激しくチーフを誘う。頭をもたげた官能の波に乗って、チーフの尻が怪しく揺れた。
後ろ手に縛られたチーフの全身から、熱い汗が噴き出し、妖艶な肌が光り輝く。既に目を固く瞑り、チーフは一心に官能の糸を織り始めていた。客のことも意識から消え去って行った。

「さあ、尻を高く突き出せ。猛り立って喜ぶ俺のペニスを全身でくわえ込め」
股間に押し入った巨大な存在が、チーフの身体の隙間を埋めた。今までにない大きな満足感が股間一杯に拡がる。
宏志が腰を引き、また押し入れる度に、チーフの口から押し殺した喘ぎが洩れる。
体内で暴れる巨大な存在を捉えようと、チーフの全身が蠕動する。肉が、魂が、すべてが混在したまま中天に向かい、また、沈み込んでいく。大きな波が押しては返し、切れ目無く全身を翻弄する。もう少し、もう少しで、私は羽ばたく。そのまま、一切が滅びてしまっても良いと思った。

「ああ、チーフ。素敵だ。最高の気分だ。もう嘘もない。真実もない。一体になったお前と俺がいるだけだ。死のう。二人一緒にこのまま死のう」
「殺して。宏志、私を殺して。このまま、このままがいい」
官能の高まりの中で、死に誘う宏志の喘ぎが、いや増して官能を高める。
何回目かの絶頂に泣くチーフの耳元で、ひときわ高く宏志の叫びが響いた。

「死ねっ」

叫びと共に、チーフの股間で爆発が起こり、宏志が力いっぱい両足で脚立を蹴った。
官能の爆発に宙に浮いた身体が、直ぐさま落下した。チーフの恍惚とした混沌を首の痛みが追い払おうとしたが、瞬時に息が詰まり、全身の筋肉が緊張したまま意識が混濁した。
見守る客たちの頭上で、スポットライトを浴びた二つの裸身が揺れていた。
女の裸体に痙攣が走り、失禁し脱糞した。首を吊ったロープが切れ、後ろ手に緊縛された裸身が音もなくフロアに落下する。
男の裸身だけが、同様に長い時間痙攣を続けたまま、縄の先でユーモラスに揺れ続けていた。

死を誘った宏志は死に、死に誘われたチーフは、喉元に消えない傷跡だけを残した。
去年の春のことだ。


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