4.看護人の手腕

「いらっしゃいませ」
Mの背中で、落ち着いた女の声が聞こえた。

会員制クラブ・ペインクリニックの赤いドアを開けて、スキンヘッドのママとグラマラスなナースが、にこやかな顔で鏡の中を近付いて来る。フロアのテーブルで、盛り上がらないクラス会をしている三人の青年に声を掛けてから、二人はカウンターに入った。

「ママ、今夜はピアニストの貸し切りですって。こちらは彼の家族のM。私は一緒に飲み始めちゃった」
ママは、丁寧にMに頭を下げてからチーフをたしなめた。
「貸し切りになるかも知れないと言ってあったはずよ。他のお客だったら困ってしまうところでしょう」
「ママは意外と口うるさいんだ。でも、今日は休みだから、私もMと飲んでいたいな」
「チーフ、今夜は休みじゃないわ。きっとクラブの仕事が入るわよ」
「えっ、まさか。あの子たちがクラブを使う気じゃないでしょう」
「ピアニストは使う気よ。だからナースと準備したんじゃない」
「私は気が進まないな。だって、過去の話を全部、Mにしたばかりなんだから」
二人の話を、グラス片手に聞いていたMが口を挟んだ。

「このクラブでもショーをしているの」
「ただの真似事よ。私はただの惰性」
拗ねた口調でチーフは言って、ママに見せ付けるように缶ビールを飲んだ。
「ピアニストの家族ならMと呼んでいいかしら。チーフは何をMに話したの」
少しも動じない顔で、ママがMに尋ねた。
大きくうなずいたMが、鏡に映ったチーフの顔に目をやった。小さくうなずき返すのを確かめてから、ママを見上げて口を開く。
「ママとチーフの職業のことと、素っ裸で縛られて首を吊り、死にそこなったチーフの体験話を聞かせてもらったわ」

隣で聞いていたチーフが、露骨なMの話し振りに頬を赤く染めた。
ママが小さくうなずく。剃り上げられた頭皮が、カウンターの中に吊り下げられた照明を浴びて白く光った。小振りで形の良い頭だった。
「はっきりした話し方がお好きなようね」
「推測したり、言葉のあやを窺ったりするのは得意でないわ。今知りたいのは、チーフが死ぬ思いまでしたS・Mショーが、まだ続けられているかどうかということよ」
ママが小首を傾げた。口元に笑みがこぼれる。

「あなたが知って、得になるとは思えない。会員制のクラブ内のことだし、営業にも関わることよ。Mの好奇心を満足させるためだけなら、私たちは嘘も言えるわ。チーフがMにした話しも、ただのリップサービスかも知れないってこと」
「そう。嘘かも知れないわね。でも、チーフの話の中で、真実と思うしかない事実もあった。彼女が死を迫られていた男に誘われ、肉体と精神のすべてで共感したということ。そして、一緒に死へ飛び立とうと決意した気持ちは、私にも十分実感できたわ」
「Mも、同じようにしたってことを言いたいの」
「いいえ。私はしない。認めることの出来る事実を感じた、ということよ。私なら多分、絶頂を極めた男だけを、脚立の下に突き落とす」
「うーん。チーフの代わりを、Mにしてもらいたくなったわ」
満足そうに喉の奥から溜息を洩らし、ママの笑顔が顔一杯に拡がる。顔と区別の付きかねる、つるつるの頭が一緒になって笑っている。

「チーフ、場所を代わりなさい。それから、Mにマティニをもう一杯つくって。店の驕りよ」
チーフに代わって、Mの隣のスツールに掛けたママが、鏡に映ったMの顔を見つめる。Mもママの姿全体を見る。Mより頭一つ高い、がっしりした長身が背筋を真っ直ぐ伸ばしている。どっしりとスツールに掛けた尻はきっと、クッションからはみ出しているに違いないとMは思った。

「ねえ、M、」ママが誘うような口調で話し始めた。太い喉元に掛けた、重そうな金のチェーンが微かに揺れる。
「素っ裸のまま後ろ手に縛られ、首を吊って死にかけたチーフと、死んでしまった宏志は病院に行けたのよ。その場に警察は入らなかった。クラブの客たちが事件が公になることを許さなかったの。幸いなことに、客の中にピアニストがいたのよ。彼がアルバイトをしていた潰れそうな病院に、クラブの車で二人を運び込んだの。ひどい病院もあったものだわ。医師免許も持たないピアニストが、看護婦と一緒に宿直をしているんだから、笑ってしまう。でも助かったわ」
シェーカーを振るチーフの前に立ったグラマラスなナースが、突然話に割り込んできた。

「ママはおかしそうに話すけど、病院の名誉のために一言いわせて」
黒の薄いシルクシャツに透け、同色のブラジャーで被った豊かな胸が揺れる。とても看護婦には見えないナースだった。
「年を取った夫婦だけでやっていた外科・内科病院なの。夫が外科医で妻が内科医。病院と同じ敷地の中に住まいがあって、夜間は帰ってしまうの。入院患者の世話をするだけのために、夜間の看護婦と医学生のアルバイトがいるだけ。医療行為が必要なときは、先生を呼びに行ったわ。チーフが担ぎ込まれたときもそうよ。ただ、宿直のアルバイトが患者と一緒に出勤して来た。それだけのことよ。一人は明らかに変死なんだから、ひどいのはむしろ患者の方よ」
「まあ、ナースの言うとおりね。夜間の看護婦がこのナースだったので助かったというのが本音よ。それに先生が年寄りで苦労人だったから、警察沙汰にならなくて済んだ。まあ、私の人格が信用されたってところね」
ママの大きな鼻が、自慢そうにぴくりと動いた。ナースがママに片目を瞑って見せてから、その夜の様子を話した。

「私だって本音はびっくりしたわ。まさか、素っ裸の若い女性が、後ろ手に縛られたまま来院するなんて信じられなかった。でも、アルバイトのピアニストが平気な顔で縄を切って、病院の寝間着を着せてしまうんだもの、仕方なく協力させられてしまった。それほど、ピアニストは手際が良かった。一人前の医師のように振る舞うんだもの、その気にさせられてしまう。死んだ男も同じように身繕いをして、顔に白布を掛けてから先生を呼びに行ったの」
「老外科医の診断では、チーフは脚立から落ちたとき右足を折っただけ。縄でひきつれた傷跡は消えないかも知れないが、命に別状はないって言われたわ。宏志の死亡診断書も、自殺で書いてくれた。もちろん変死だから、後で警察の事情聴取を受けたけど、その点はもう抜かりがないから大丈夫。本当に助かったわ」
Mは二人の話を聞きながら、その夜のピアニストの行動を想像して笑ってしまった。S・Mショーを見に行った医学生が、いつの間にかショーの終幕にキャステングされてしまったことが愉快だった。

「右足を折ったチーフは、そのまま一か月入院することになったわ。私も、する事がないので、付き添いとして付き合ったの。宏志のことも、正直言ってショックだったし、今後の身の振り方も考えなければならなかった。チーフはショックと喉の傷で、しばらく言葉が出なかったのよ」
ママは、真っ直ぐ伸ばした背筋の力を一瞬抜き、ナースが差し出したグラスに手を伸ばした。コニャックの甘い香りが、さっと広がる。

「チーフが入院して二週間ほどした夜のことよ。松葉杖を突いて歩けるようになったチーフと一緒に、院内を散歩したの。体は健康なのに、終日ベットに横になっていたから深夜になっても眠れないのね。三階の病室から階段を下りて、二階を散歩することにしたの。私たちはそこで、ナース独特の看護振りを見たのよ。凄まじいプロ意識だった」
静まり返った深夜の病院を、Mは思い描こうとした。しかし、これまで縁の無かった病棟をイメージすることはできない。


ママとチーフが降り立った病院の二階は、がらんとしていた。数少ない入院患者は皆、三階の病棟に収容されている。二階は、もう滅多に使われなくなった手術室が中心になっていた。かつて優秀な胸部外科を誇った病院も、今は専門医を招聘しての手術以外はしなくなっていたのだ。
冷え冷えとした空気が漂う広い廊下に、ママの足音とチーフの松葉杖の音が響く。閉じられた手術室の白いドアに、常夜灯の光が侘びしく反射している。寒々とした光景だった。
二人ともドアの前で肩をすくめた。襟元に冷たい風が飛び込んできたような気がしたのだ。しかし、背後からやってきたのは、くぐもった呻き声だった。

背筋を冷たい予感が掠め、振り返ると、廊下の奥の北側のドアから明かりが漏れている。その明かりと共に、なんとも捉えがたい呻き声が、はっきりと響いてくる。悲鳴のような、喘ぎのような、押し殺した声に誘われ、二人は廊下の奥へ歩いて行った。
廊下の北側で細く開いていたドアは、病室のドアらしかった。患者の名前を書いたラベルがはられ、ノブには面会謝絶の札が下がっている。
細く開いたドアの隙間から、しきりに呻き声が聞こえる。高く低く、打ち寄せる波のように続く規則的な音には、微かに官能を刺激する淫らさが混じっていた。しかし、時折耳を打つ押し殺した悲鳴は、明らかに苦痛を訴えている。
二人は恐る恐るドアに近付き、ママがそっと中を覗き込んだ。
「アッ」と、声を呑み込んだママの目が、大きく見開かれる。

ママの視線の先に見慣れた病院のベッドがあった。ベッドの両側には低い柵が上げられていた。
ベッドに横たわる、げっそりと痩せた男の両手は左右に広げられ、柵の金属パイプに白い包帯で縛り付けてある。
男は素っ裸だった。貧相な股間でペニスが勃起している。
肋骨の浮いた裸の胸に女の豊満な裸身が被さり、屹立したペニスを口に含んでいた。グラマラスな裸体で、頭に被ったナース帽が異様だった。
ペニスを口に含んだナースが、顔を上下する度に、男の口から喘ぎ声が漏れる。口にはやはり、白の包帯で猿轡が噛まされている。猿轡から洩れるくぐもった喘ぎが、呻き声のように押し殺されて、室内に溢れた。

「ヒッー」
突然、恐ろしい悲鳴が猿轡の中から飛び出し、男の痩せた裸身が跳ね上がった。
口でくわえたペニスを放し、ナースが跳ね上げる足を抱え込んだ。尻を落として痩せこけた上半身を押さえようとした瞬間、左手を柵に縛り付けた包帯が切れた。苦痛に泣き叫ぶ悲鳴を上げながら、凶暴に暴れ回る裸身が、自由になった左腕を反動に使って、一際大きくベットで跳ねた。痩せこけた身体からは信じられないほどの力で、男の上半身が不自然なほど真横に捻れ、ナースの太股を押し退けてベットの外に落ちた。

バキッという、耳障りな音が薄気味悪く室内に響き、かん高い悲鳴が男の猿轡を突いた。
縛られたままの左手首が捻れ、上半身すべての体重を支えたのだ。たとえ痩せ細った身体でも、手首だけで支えきることは出来ない。男の体重が、自分の左手首の骨をへし折ったのだ。
ナースが枕元の非常ベルを押した。あまりの凄まじさにドアを開け、室内になだれ込んでいたママとチーフが、目を丸くしてナースの裸身を見つめた。

上半身をベッドの外に投げ出したまま気絶した男の裸身を、床に降りたナースがそっとベッドに戻す。駆け寄ったママがナースに手を貸した。ベッドに真っ直ぐ横臥した裸身を優しくナースが撫でる。萎みきってしまったペニスを左手で握り、細い導尿管を亀頭の先から挿入した。

「この人も、やっと眠れる」
ナースの疲れ切った声が、凄惨な部屋の中で優しく耳に響いた。素っ裸の豊かな胸と腰が、患者を思いやるナースの気持ちを象徴しているようだ。

「びっくりしたでしょう。この患者さんはまだ三十五歳よ。肺ガンの末期なの。もう、全身にガンが転移してしまって治療の手だてがない。迫り来る死を、激烈な痛みの中で待つしかないの。あまりの苦痛に眠ることもできない。やっと、手首の骨を折った痛みが、ガンの苦痛に勝って失神することができた。残酷なことよね」

「大丈夫かい、ナース」
非常ベルで駆け付けて来たピアニストが、息を切らせながら声を掛けた。
「大丈夫よ。自分で手首の骨を折って、つかの間だけど楽になれたわ。手首に副木を当てておいてちょうだい。明日、先生に処置してもらいましょう」

松葉杖を突いたまま呆然としていたチーフが、掠れた声を出した。
「可哀想。楽にして上げた方がいいわ。私なら堪えられない。麻酔はないの」
入院してから始めて発せられる言葉だった。喉につかえたような、聞き取りにくい言葉だった。
「あなたの場合と違って、この患者さんは死にたくないのよ。ひたすら死が迫って来るだけ。彼は生きていたいの、だからセックスにも反応するの。見ていて分かったでしょう。生への執着が、あんなに激甚な苦痛にも勝って性を求めるの。苦痛の呻きが、喘ぎ声に変わって、ペニスが十分に勃起する。逞しいほどよ。もう三日間も寝ていないのに、すがるように私の身体を求めるわ。きっと性が苦痛を癒すのよ」
自信溢れるナースの口調に応じて、豊かな乳房が揺れた。

「僕は麻酔科医の卵だけど、誰でも思ったように麻酔が効くわけじゃあない。ましてや専門の医師のいない普通の病院で、麻酔に頼った終末医療が理想通り行われることはないんだよ。ここではやはり、麻酔より人と人の間で通い合える癒しの方が役に立つんだ」
枕元に屈み込んだピアニストが、男の口から猿轡を外した。ナースが萎びきった男の口から、涎まみれのガーゼを取り出す。

「自分自身で舌を噛みきりたくなるほどの苦痛なの。病院の方針で猿轡をしているけれど、私もピアニストも疑問に思っているわ。素っ裸になって患者のペニスをくわえる看護法も、もちろん違反よ。誰もしないわ。私とピアニストしかいない深夜だけの秘密。でも、これは大切な看護だって思っているの。官能の高ぶりは、確実に苦悩を癒すわ。苦しみのまっただ中にいる人を、見捨てたくないとさえ思えば、何でもできる。それが、都会に出て来た私が、やっと悟った看護法よ。今夜はたまたま腕を折って、眠ることができたけど、こんな安らかな顔付きは、私の口の中で射精するときしか見せたことがないのよ」

「凄いわ」
場違いな大声で、感に堪えたようにママが言った。
「迫り来る死の苦痛と恐怖を、たとえ一時的にしろ、癒すことができるなんて凄いことだわ。きっと、心の痛みだって癒すことができる。死んだ宏志と違って、生きたいという欲望さえあれば、それに伴う痛みは、性で癒すことができるかもしれない。ねえ、チーフ。性的な演技は、私たちのお手の物じゃあない」
つかの間、末期ガンの痛苦から開放されて眠る、痩せこけた三十五歳の男を前に、ママの野望が花開いた。

カウンターの鏡の中でMの目が光った。
「ママはユニークなことを考えつくのね。同じショーでも目的が変わったってことか」
「そう。一方的に見せるのではなく、必要な人に参加してもらうわけ。ナースもピアニストも協力してくれることになったわ。ピアニストはまだ医者の卵だけど、ナースは看護婦の異端だもの。病院にいるより、この店にいた方が理想を実現できる。それに、ナースはこの地方の出身なんだ」
「呆れるほど単純な論理ね、単純明快が好きな私も二の足を踏みたくなるわ」
「どう、Mも協力しない」
「考えて置くわ。それで三十五歳の患者さんはどうなったの」
「死んだわ。二日後の深夜、ナースの豊満な裸身に抱かれて全身を痙攣させて死んで行った」

Mは、男の痛みが伝わってきそうな気がした。
本当の痛みに、性が何ほどの力を持っているのか、Mには疑問だった。


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