5.初舞台に上がれ

赤と黒を斜めに染め分けたサロン・ペインの看板灯が消されてからも、祐子はしばらく路上に佇んでいた。
天田に押されたバイクの車椅子の後を、まるで探偵のように尾行してここまで来てしまった。始めての尾行にしては気付かれることもなく、歓楽街まで追って来れたが、先の手段が浮かばなかった。二人は、サロン・ペインのドアの中に消えてしまったのだ。

ドアを開けて入って行こうかとも思ったが、どうも気が進まない。
看板灯の横のスペースに駐車してある、オープンにしたMG・Fが気になってしまう。Mの車に違いなかった。
飲み屋にまで男を追って来たと、Mに思われるのが嫌だった。Mならば、そんな思惑など気にせず、自分のしたいようにするだろうと思うと、なおさら勇気が挫ける。しかし、このまま尻尾を巻いて帰りたくはなかった。

思案し続ける祐子の目に、オープンにしたMG・Fが車内に誘い掛けているように映った。誘われるままに、窓の上がったドアに手を掛ける。暗い車内で赤く点滅している、パイロットランプが目に付いた。ドアがロックされ、盗難防止のセキュリティー・スイッチが、オンになっているに違いなかった。

こんな場所で非常ベルを鳴らし、自動車泥棒の現行犯として酔客に取り囲まれるわけにはいかない。仕方なく車体の後ろに回り、ミドシップに置かれたエンジンカバーの上をよじ登って助手席に入る。
黒い幌を持ち上げて前に倒し、留め金を掛けた。
湿った外気が遮断され、身体の温もりが実感できる。狭い車内が祐子に、リラックスした落ち着きを取り戻させた。

なぜ、こんなにバイクのことが気に掛かるのだろうかと、ふと思った。
きっと、バイクは自分に似ているからだと答えが浮かぶ。
最近の自分自身の姿が目の前をよぎって行く。変わりたくとも変われない。それなのに、少しずつ変わって行ってしまう自分がいる。自分を取り囲む環境に強いられ、気付かぬ内に変わって行く自分が堪えられない。変わってしまった自分が腹立たしいまでに情けなく、苛立つ。そんな時間がもう、何年も続いているような気がする。まるで、蟻地獄に落ちた姿を見るようだった。

バイクも同じだと思う。いや、身体が変わってしまったバイクの方が、より一層やるせないと思う。やり切れないはずだった。望んだこともない変化を強いられ、抗ったまま、流れる時にじっと身を晒している。
なぜバイクも私も、自ら進んで変化を求められないのか。新しい自分に生まれ変わる機会は毎日のようにある。その機会をいつも後回しにして、苛立ちながら二人とも流されて行くのだ。しかし、もう懲り懲りだった。

漠然とした未来への不安を理由に、このまま腐っていくわけにはいかない。未来のことより明日のことだ。そして、明日のことは分からないのだから、今日という日を、今度こそ大切にしたかった。
祐子自身のためにも、バイクに変わって欲しいと願った。


「なあ、バイク。変わらなければ駄目だ」
ウイスキーのグラスを片手に、天田が大きな声を出した。
カウンターにいたMとママが振り返り、チーフとナースもフロアのテーブルに注目した。
盛り上がらないままのクラス会からは、ぼそぼそとした陰気な話し声しか聞こえてこなかったのだ。天田の大声は、場面の転換を予感させた。

「余計なお世話だ。俺は変わった。変わってしまったんだ。見れば分かるだろう。お前なんかに、変われと言われる道理はない」
酔いの回ったバイクの掠れ声が響き渡った。
ピアニストが静かな声で、諭すようにバイクに話し掛ける。
「いや、僕たちは気持ちのことを言ってるんだ。変化を認めない、変化を求めない、そんなバイクの気持ちが問題なんだ。友達として堪えられない」

「友達だって。そんなものいたのかな」
「いるからこうして酒を飲んでいる。俺は都会にいたときも、お前のことが気掛かりだった。だから、ケースワーカーになって帰って来たときから、お前の情報を集めた。今のままじゃ駄目だ。酒と小娘に溺れているだけじゃないか。いいか。映子はもう死んで、いないんだ」

大きく目を見開いた天田が、ピアニストの言葉に首を左右に振っているバイクに叫んだ。
「勝手なことを言うな。何が小娘だ。祐子の悪口は許さないぞ」
顔を真っ赤に染めてバイクが言った。しかし、怒りばかりではなく、気恥ずかしさの混ざった声が、天田の舌鋒に拍車を掛けた。
「なあ、バイク。お前はもう、憧れだけを食って生きていく歳じゃないぜ。いくら酒で燃え上がらせようとしても、過去の記憶に火がつくだけだ。現実を見ろよ。なあ、バイク。お前のペニスは、たまには勃起するのか。それとも、性感が戻らないままくすぶっているのか」
残酷な言葉だった。見る間にバイクの肩が小刻みに震えだした。

「クソッ」
唇を噛みしめた口から、憎しみに満ちた声が上がった。勢いを付けて両手で車輪を回し、車椅子をバックさせて出口へ向かおうとする。
「バイク。逃げるのか」
椅子から中腰になった天田が叫ぶ。
スツールから素早く立ち上がったママが、車椅子の取っ手を握ってバイクを引き留めた。
「友達は大事にした方がいいわ。性の話は重要なことよ。そんなに怒らないで話を聞きなさい」
「うるさい。赤の他人に恥を掻かされて座っていられるか」
止められた車椅子の中で全身を震わせ、バイクの怒声が高まる。
「友達に図星を指されたから怒るんでしょう。きっと欲望も強いのよね。性器のリハビリテーションはしているの」
「余計なお世話だ」
「そうかしら。若い人は、誰でも性欲が強いものよ。あなたも妄想だけでは勃起できないだけかも知れない。なぜ、努力しないの。性を求めることは、決して恥ずかしいことではないのよ。死より勝ることなの」

静かに話し掛けるママの言葉がバイクの耳を打った。死に勝るという意味を懸命に考える。
いつも繰り返し甦る、股間の記憶が浮かんだ。オートバイの後ろに乗った映子に握りしめられた、はち切れそうなほど勃起したペニスの感覚だった。そして、下半身が爆発したような感触に続く無惨な激突音と、静寂の中で確認した映子の死。確かにと、バイクは思う。死に勝る官能があってもいい。それが俺の再生に繋がるかも知れない。二つに分かれていた道を再び、選び直すことができるかも知れなかった。

祐子のマンションのリビングで、バイクの目の前に広げられた祐子の股間が、鮮烈に脳裏を横切る。剃り上げられた無毛の割れ目から覗く可愛らしい性器と、剃刀の刃の下で怪しく蠢いていた肛門。初めて見る裸身が与えた、言いようもない喜びと苛立ち。
もう一度、この肉体が官能の喜びに震えることができたなら、死もいとわなくなるかも知れない。いや、まだ残されたままの死を、官能で彩ることもできる。
バイクの両眼が怪しく光った。

小さな希望の火が欲望の渦中に点ったが、背を向けたままのバイクの、燃える瞳を見た者はいなかった。
「さあ、チーフ。やっと出番よ」
震えの収まったバイクの肩に目を落としてから、自信を持って振り返ったママがカウンターのチーフに声を掛けた。
「気が進まないわ」
つまらなそうに横を向いてチーフが応える。
「聞こえていたはずよ。この青年は苦痛から開放されたがっているの。できるだけのことをするのが私たちの仕事でしょう」
ママが冷たく言い放す。チーフが小さく肩をすくめた。
「ずいぶん甘いショータイムね」
カウンターの中のチーフを見つめて、Mが声を掛けた。チーフの細い首の傷跡が、同意して大きく頷く。鏡に映ったママのスキンヘッドが、偉そうに後ろに反った。

「M。仕事の邪魔はして欲しくないわ」
「邪魔はしないわ。どう見てもバイクは、身の振り方で迷い続けているだけよ。可哀想な青年をS・Mショーの舞台に上げて、友達だというピアニストたちが楽しむのは悪趣味だと言いたいだけよ」
Mは、鏡の中のピアニストに視線を移して低い声で言った。
席を離れ、車椅子の横に立ったピアニストが、バイクの肩にそっと右手を置いた。

「しばらく会わない内に、MはMらしく無くなってしまったね。たかが性を楽しむのに、難しい理屈は要らなかったんじゃないのかい」
「見て楽しむだけの、スケベ根性が嫌いなのよ。少なくとも、バイクに勝手な楽しみを強要することは、いただけないわ」
「バイクが苦悩していることは事実だね、M。その苦悩を取り除く道が開けるかも知れないことも、また事実だ。試してみることをなぜ、Mが嫌うのだろう」
「バイクの自由な選択とは思えないからよ。ピアニストは医者の卵だから、自分の僭越さに気付かないのかも知れないね。私はどのような選択も、人それぞれの責任と人格にしか頼れないと思う」
「見解の相違かも知れないね、M。でも、今日はゲストなんだから、僕たちの新しい方法を見てもらいたいんだ」
「いいわ」
苦いものを飲み下すように言って、Mはマティニを口に含んだ。

私の求める性と、まったく違った性が求められようとしていると、Mは思った。
視界の隅で、チーフの唇が諦めたように歪んだ。チーフは勢いよくカウンターを出て、真っ直ぐ赤いドアに進む。会員制クラブ・ペインクリニックと打たれたドアを、大きく開け放った。

「天田さん。車椅子の前を持ってちょうだい」
車椅子を押しながら、ママが気軽に呼び掛けた。
二階に続く階段に渡したレールに車椅子を乗せ、ママと天田が慎重にバイクを運んで行く。
「イヤダッ」
突然バイクの口から大声が漏れたが、二人は素知らぬ振りで車椅子ごと運び上げる。
「さあ、Mも付き合ってよ」
赤いドアの前でピアニストが声を掛けた。
ナースも促すように、カウンターのスツールの後ろに立って、鏡の中のMを見据える。
三杯のマティニの酔いが回った頭が、異様な事態を拒絶していたが、Mは立ち上がって赤いドアに向かった。

黒い絨毯を敷き詰めた緩やかな階段を上る。敵地に乗り込む兵士のような感覚が頭を掠めた。何処でボタンを掛け違えたのだろうか。Mは不快な酔いの中で自問してみた。
しかし、階上の黒いドアが開かれても、答えはなかった。


会員制クラブ・ペイン・クリニックは、畳二十畳ほどのこじんまりとした造りだった。
赤と黒で構成されたインテリアはサロン・ペインと同様だ。正方形に近い室の二面の壁には、大きな鏡がはめ込まれている。入り口のある壁面には、横にバーのカウンターが通っていて、様々な酒瓶が並んでいる。室の中央に高さ五十センチメートルほどの、黒く塗った大きな舞台があった。外車のショールーム用に使えるほどの広さがある。高い天井からは、照明灯の他、チェーンやスチールパイプなどの異様な装置が垂れ下がっている。

舞台を取り巻く形で、二十脚ほどの座りやすそうな椅子が配置してあった。室の明かりは間接照明で、豪奢な雰囲気を演出している。
車椅子に乗ったバイクが、ママと天田の手で持ち上げられて舞台に上げられた。
ピアニストが壁のスイッチを操作し、舞台の上を上品に照明する。舞台上の人物に嫌な影が差さないように工夫された、高度な照明だった。客席は、辛うじて本が読めるほどの照度だ。
Mは、二面の鏡に向かい合う一番外側の椅子に腰を掛けた。すかさずカウンターから出てきたチーフが、ハイネケンとグラスを乗せたトレーを持って来て、椅子の肘掛けの上に載せた。

「マティニはつくっていられそうにないわ。ビールで我慢して。それからM。下手な演技でも笑わないでね」
にっこりと笑い、片目を瞑って見せてから舞台の方に歩み去った。
「嫌だよ俺は、」
舞台の上から、バイクの力無い声が響いた。
Mの位置からは、車椅子の側面が見える。左の鏡に、正面を向いたバイクの固くなった顔が映っていた。ピアニストと天田が、バイクの前の床に立ったまま並んでいる。頭の位置がちょうど、舞台に上がった車椅子のバイクの顔と同じ高さにある。

「下ろせよ」
大声を上げたバイクの両手を、ママが背後から捉え、後ろ手にして銀色の手錠を掛けた。
予想もしない成り行きに、バイクが大きく身じろぎしたが、もう遅かった。大声で悪態をつくバイクを尻目に、ママが舞台を降り、ナースが代わって舞台に上がる。

右手に持った小さなナイフの刃が、照明を浴びてきらりと光った。
無造作にバイクに近付いたナースが、無表情な顔で屈み込み、グリーンのトレーナーの襟元にナイフを当てた。そのまま慣れた手つきで裾まで一気に切り裂く。
顔を真っ直ぐに上げて、固く目を瞑ったバイクの胸から腹が露出した。女のように白い肌が、照明を浴びて柔らかく光っている。

ナイフの刃先が複雑に光り、トレーナーが縦横に切り裂かれた。残った布きれがバイクの背から素早く取り去られる。
バイクの上半身を裸に剥いたナースは、休む間もなくバイクの腰からベルトを抜いた。今度は白の作業ズボンを切り裂く。
素っ裸にされて車椅子に座るバイクの上半身は、思ったよりしっかりとして立派だった。腰から下の筋肉の落ちた下半身がよけい無様に見えてならない。目を被いたくなるようなコントラストだった。貧相な股間で陰毛に埋まり、萎びきったままのペニスが無惨だった。

「目を開けなさい」
車椅子の上で悲惨な裸身を晒したバイクに、ナースが低い声で命じた。
全身を固く引き締めたバイクが、思い切って目を開いた。目の前の鏡を、大きく見開いた瞳で見つめる。
五年振りに見る、鏡に映った自分の裸身だった。思わず涙が頬を伝った。やり場のない怒りと悲しみが交互に全身を襲い、裸の肌が刺されたように、寒さで痛んだ。ついで、恥ずかしさが込み上げ、全身が熱く火照ってくる。目の前に立ったピアニストと天田の目に蔑みの色を見た。熱い。

「バイクだけが裸では可哀想ね。チーフ、裸になりなさい」
いつの間にか舞台の端に上っていたチーフに、ナースが冷たく声を掛けた。声に促されて、バイクの前に立ったチーフが、恥ずかしそうに白いシャツとパンツを脱ぐ。パンツを脱ぐときには艶めかしく腰がくねった。

「早く、素っ裸になるのよ」
白く透き通るスリムな身体を赤く染めたチーフが、ブラジャーを外し、ショーツを脱ぐ。裸身の胸と股間を隠した長い腕が小刻みに震え、固く合わせた両膝が、恥ずかしさに戦く。
演技とすれば、相当なものだった。横から見ていたMは、舌を巻いてしまう。

「チーフ。バイクの前で正座して、恥ずかしい願いを訴えなさい」
ナースに命じられたチーフが、乳房と股間を隠した両手を下ろし、バイクの足下に跪いた。ツンと上がった小振りの乳房の先で赤い乳首が震えている。剃り上げられた股間をくねらせると、小さく開いた割れ目から性器が顔を見せた。
正座に至るまでの動作がすべて、計算された羞恥心を発散させている。美しかった。

「ねえ、バイク。お願いだから素っ裸の私を、後ろ手に縛り上げてください。恥ずかしい姿で縛り上げた私を、思い切り責めて欲しいの、お願いします」
背筋を伸ばして正座したチーフが、艶めかしい声でバイクに訴え、官能の世界に誘い掛けた。
チーフの裸身にじっと見入るバイクを、取り巻いた五人が一斉に見つめた。
バイクの頬がうっすらと赤くなり、荒い呼吸に裸の胸が揺れた。反応を確かめたママが、すかさず背もたれの付いたスツールを舞台に上げる。ナースと一緒に二人でバイクの裸身を抱きかかえ、車椅子からスツールに移した。天田が素早く車椅子を舞台から降ろす。見事なチームプレーになっていた。

ママがバイクの後ろ手に掛けた手錠を外し、黒い縄の束を持たせた。
「ねえ、バイクお願い」
腰を上げて訴えたチーフが両手を床につき、頭を下げてバイクの股間に顔を埋めた。萎びきったペニスを一回、ゆっくりと口に含んでから姿勢を正し、後ろを向いて両腕を背中で重ね合わす。
バイクの股間はなんの反応も見せなかった。バイク自身、なんの感覚もない。しかし、脳裏を走り抜ける狂おしいばかりの性感の嵐が、感覚のない下半身にまで染み通っていく予感がした。バイクの全身が戦慄する。死の記憶と共に封じられた性感を取り戻せそうな気がした。

目の前で、白い背中の上に重ねられたチーフの細い腕が揺れている。バイクを誘うように、握られた手が開かれては閉じる。手の下には細く締まったウエストが続き、目を落とすと尻の割れ目が見えた。形良い小振りの尻がゆるゆるとうねり、淫らな行為を催促する。その度に、尻の割れ目が大きくなったり小さくなったりする。乱暴に裸身を押し倒し、尻を左右に押し開きたくなる衝動が湧いた。勃起するはずのないペニスが、イメージの中でチーフの肉襞を求める。

バイクは、握っていた黒い縄を二重にして、チーフの両腕に回した。我知らず手に力が入り、キリキリと両手を縛り上げる。
「ヒィー」と、チーフの口から悲鳴が漏れた。
「縄を首に回して結び目を作り、乳房の上下をきつく縛ってください」
後ろ手に縛られながら、裸の尻を振ってチーフが哀願する。
言われるままにバイクは、自由になる上半身全体を使ってチーフを縛り上げる。上手にバイクを誘導するチーフが姿勢を変え、バイクの正面を向いた。
両乳房の上を二巻きした黒い縄が、今度は、乳房の下を走る。縄目に突き出された乳房の谷間で、上下二条の縄をバイクが一つに結わえる。
「ヒッ」と、チーフが痛みに呻いた。

「ウエストを縛って腰縄にした後、余った縄を股間に通して、恥ずかしく縛り上げてください」
「そうじゃないでしょう、チーフ。もっと正直にお願いするのよ」
横に立ったナースが意地悪く言い放った。
「ごめんなさい、バイク。私の股間を縛る縄には固い結び目を二つ作って欲しいの。一つの結び目は肉襞の中に、もう一つの結び目はお尻の穴の中にしっかり入れてください」
裸身を火照らせて恥じ入ったチーフが、再び後ろを向いた。膝を屈めて両足を開き、バイクに裸の尻を高く掲げた。目の前に露になったチーフの尻の割れ目で、逆立ちをした性器と、ヒクヒクと蠢く肛門が誘う。
バイクは震える指先で肉襞と肛門を押し開き、縄の結び目を挿入した。
「ヒー」というチーフの切ない喘ぎ声が耳を打ち、スツールに掛けたバイクの裸身全体に汗が浮き立つ。
厳しく縄掛けされたチーフの裸身がバイクの前に立った。ツルツルの股間を無惨に割った黒縄が、すぐ目の前にある。

チーフがよろけるように少し後ろに下がった。裸身の向きを変え、緊縛されたまま舞台を歩き始める。股間を割った股縄が苦痛でヨチヨチと、淫らに尻を振って悩ましく歩く。全裸後ろ手縛りの姿態から、羞恥と官能の揺らめきが沸き立つ。バイクでなくとも、息を飲む光景だった。

なかば口を開いたままの天田の喉で、唾を呑み込む音が響いた。
羞恥に悶え、ヨチヨチ、ヨチヨチと尻を振り、腰をうねらせ、喘ぎ声を上げながら、チーフは舞台を歩いた。
黒縄が食い入った尻の割れ目を目掛け、ナースの振り上げた鞭が飛んだ。
皮膚を打つ鞭音と同時に「ヒィー」と長く延びたチーフの悲鳴が響いた。
鞭は何回もチーフの裸身を襲う。その度にチーフは悲鳴を上げ、股縄に戒められた尻を振ってヨチヨチと逃げ惑った。隠微なドラマが舞台を圧し、日常の感覚が消え失せていく。
赤いミミズ腫れを幾筋も尻に浮かせたチーフが、なよなよと裸身をくねらせてからバイクの足下に座り込んだ。

「ねえ、バイク。もう耐えられない。びっしょり濡れてしまった股間縄を外してください」
立ち上がって背中を見せ、鞭痕の残る尻をバイクの目の前に突き出し、悩ましく揺らせた。
顔中に脂汗を吹き出させたバイクが、股縄を解く。同時にナースがバイクを抱え、天田がスツールを取り去った。バイクの裸身が舞台の上に横臥した。曲がったままの痩せこけた膝頭が小刻みに震えている。そのバイクの顔の上に、緊縛されたチーフが跨り、静かに腰を下ろしていった。

「ねえ、バイク。私の恥ずかしく濡れたあそこを舐めて」
反射的にバイクの口が開き、待ちきれないように長い舌が伸びた。犬のようにチーフの股間を舐め回す。
バイクの顔を跨いで不自然な中腰になったチーフが、初めて顔を振り向けてMを見た。誰も見ていないことを確かめるように視線を泳がせてから、にっこりと笑い、片目を瞑った。迫真の演技に呑まれていたMも、やっとの思いで笑顔を返す。

鏡に映ったチーフの仕草を見たピアニストが、Mの方に歩いて来た。
「あまりの迫力に喉が渇いたの」と言ってMがグラスを差し出すと、立ち止まって首を振った。
「要りません。ただの茶番ですよ。喉が渇くはずもない。下のサロンで留守番をしてきます」
つまらなそうに言ったピアニストは、Mの返事も待たずにドアを開け、階段を下りて行った。


祐子の身体の中を長い時が流れた。MG・Fの中で夜明けを迎えるのだろうかと思ってしまい、ダッシュボードの白い時計を見る。
時計の針は十時三十分を指していた。まだ二時間しか経っていない。
「二時間も無駄にしたんだわ」
祐子は声に出して、消極的な考えを振り払おうとした。
「店に乗り込むぞっ」
大声で言ってから、そっと辺りを見回す。相変わらず人影は無い。
小心な優柔不断ぶりに嫌気が差し、とっさに幌の掛け金を外す。とにかく行動することが一番だと直感した。
素早く幌を後ろに畳み込む。オープンになった車内に冷たい外気が雪崩れ込んだ。反射的に全身が鋭く引き締まり、壮快な気分になる。とにかくやるんだ。
祐子は車内に入った時と同様、ミドシップのエンジンルームを乗り越えて地上に立った。考える時間を自分に与えぬよう、動き続ける。
急ぎ足でサロン・ペインと書かれているはずのドアの前まで行き、文字も読まずにドアを開けた。

後ろ手にドアを閉めると、目の前に白い電話が見えた。いい趣味だと思うと、妙に気持ちが落ち着いてきた。ガラスの自動ドア越に店内が見える。赤と黒だけのインテリアが、堂々とした雰囲気で威圧してくる。

耳にピアノの音が聞こえた。
軽快な乗りのジャズだ。父の好きな「ユード・ビ・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」の調べに、思わず口元が緩んだ。胸を張って自動ドアを通り、店内に入った。だが、誰の姿も見えない。Mもいない。

「いらっしゃい」
背後からの出迎えの声に、内心ぎょっとして振り返った。フロアの奥の黒いグランドピアノに向かった青年が、ピアノを弾きながら顔を上げて微笑み掛けている。
家族一緒の外出時に、訪問先の家庭でよく見掛けた屈託のない笑顔だった。この店にも、私と同じ環境で育った青年がいるのだと思った。精一杯気負い込んでいた気持ちが、もろくも挫けそうになる。決して好きになりたくはない家庭環境が、つい懐かしくなってしまう。
「今晩は。お上手ですね」
思わず、家の躾が顔を出してしまった。
「ありがとう。君にはこちらの曲がお似合いだ」
ヴェートーベンの「エリーゼのために」が、流麗に流れてきた。素晴らしい演奏だと思う。しかし、自分の幼さを見透かされたような気がして、姿勢を正し、胸を張って、あごを引いた。また、勇気が甦って来る。
「素敵なお嬢さんが、こんなところに何の用で来たの。酒を飲みに来たとは思えないし、ひょっとして、僕のピアノが外まで聞こえたのかな」
「ピアノは素敵だけど、強すぎる自尊心はあなたに似合わない。人を捜しに来たんです」
「参ったな。十年後に、絶対会ってください。きっと君もそっくりになっている」
「言っている意味が分かりません。二時間前に車椅子に乗った人が来ませんでしたか」
「ああ、君が祐子さんか。道理でMに似ている」
大きくうなずいたピアニストが、うれしそうな声で言った。
名前を呼ばれ、祐子はどきっとした。二時間の内にどれほどのことが、このサロンであったのだろうか。ピアニストは祐子のことを、Mと似ているとさえ言ったのだ。

また曲が変わった。ショパンのスケルツォの二番を弾き始めた。演奏するというより弾き流す感じだ。ずいぶん音を省いている。
「バイクもMも、二人とも二階にいますよ。横の赤いドアが階段に通じている」
「ありがとう」
頭を下げて、赤いドアに向かった。

「でも、行かない方がいいかも知れない。きっとMが怒るよ」
「私は、自分の行動は自分で決めます。Mに怒られても構わない」
ピアノの音が唐突に止んだ。立ち上がったピアニストがゆっくりと祐子の前に回って来る。
「何でも自分で確かめないと気が済まないのかい」
「いいえ、そんなことはないわ。重要だと思ったことだけ自分で確かめたいの」
「失礼だけど。ひょっとして毎日が苦痛なのかな」
「そうよ」
「そして、何とかしたいと思っている」
「そう」

ピアニストの太い眉が眉間に寄せられた。小さく溜息をついてから肩を落とす。この街で会う女性はみんな、正直すぎると思ってしまう。なぜ、装いきった自分を許せないのだろう。
「案内はしないけど、どうぞ二階に上がってください。僕はまたピアノを弾くよ。リクエストはあるかい」
「グレツキの悲歌のシンフォニー」
「弾けないな」
「さっきのジャズでいいわ」
言い捨てて、祐子は赤いドアを開けた。一瞬後ろを振り返ると、遠くを見る目でピアニストが祐子の目の奥を見た。祐子は黙ったまま赤いドアを通った。

階段を上がって行く背にまた「エリーゼのために」が聞こえて来た。クックックッと笑うピアニストの声も聞こえた。


ピアニストが階下に去ってから、三十分は経っただろうか。
Mの左側の鏡の中に、大きく広げられたチーフの股間が映っている。後ろ手に縛られたまま仰向けになったバイクが、無理に頭をもたげ、舌先で股間を追う。意地悪く股間が揺れて舌先を掠める。血走ったバイクの目が開かれた陰部を見据え、全身を震わせて苛立つ。
素っ裸で後ろ手に緊縛されたチーフは、両足を大きく開き、曲げた両膝を縛った縄と腰縄で、天井から吊されていた。ちょうど股間が、バイクのもたげた口に触れるほどの高さで、悩ましく裸身をくねらせている。
裸身の揺れに応じてバイクの舌が股間を這い、性器や肛門を舐める。その度にチーフの口から淫らな喘ぎが洩れ、裸身を吊り下げた縄がギシギシと鳴った。

ついさっき、黒い服を脱ぎ捨てたナースの豊満な裸身が、バイクの萎えた下半身に被さっていた。萎びきったペニスを両手でしごき、口でしゃぶる音が不気味に響く。
全身から汗を滴らせて、苦悶するように蠢き、チーフの股間を追うバイクの口から低い呻き声が洩れ、唇の端を涎が伝い落ちる。
凄惨な光景だった。これで勃起しなければ、バイクの性は甦らないだろうと、Mにさえ思われるほどの修羅場だった。

「頑張れバイク。もう少しだ」
興奮した天田の、格闘技を声援するような声が飛んだ。
Mは苦い笑いを呑み込んで、空になったグラスにハイネケンを注いだ。チーフとナースの迫真の演技を笑うのは不謹慎と思えるほどの熱狂が、クラブ・ペインクリニックの舞台を支配していた。

一人で舞台の下に立ったママは、醒めきったビジネスマンの目で舞台を見ている。そして立ち去ってしまったピアニスト。舞台鑑賞をチーフに勧められたM。それぞれの思惑を呑み込んで舞台は進行していく。


バイクは無我夢中だった。
自由になる上半身をナースに後ろ手に縛られ、舞台の上に仰向けに寝かされている。顔の上に吊されたチーフの股間が、舌を誘って揺れる。
素っ裸になって股間に被さったナースの豊かな裸身が時折、腹に密着する。頭の中は既に真っ白になり、スパークする青い光が滅茶苦茶に錯綜して行く。しかし、思念の深奥で渦巻くドロドロとした粘液質の感情の固まりが、じわじわと肥大し、感覚のない下半身に滲出していく予感があった。その予感に、バイクは全身全霊を賭けようと思った。もはやプライドも羞恥心もない。ただ、かつて死と隣り合わせに存在した、官能の極みだけを求めた。それが生き残った者の、死に対する抵抗でもあるかのように激しく悶えた。バイクは映子を、祐子を、そしてチーフとナース、あらゆる女の妄想を喚起し、この舞台に上げたいと欲した。

固く目を瞑ると、舌に触れる粘膜の感触が脳の一点に収束する。鼻を打つ性器と肛門の匂いが、さらなるステージに引き上げる。祐子とチーフの剃り上げられた股間の、手と舌の感触が統合されて一体となる。
その時、何の感触もない下半身の奥に一点、消え入りそうな熱を感じた。バイクは、その小さすぎる熱源を必死に追い、舌を突きだしたまま「エイコ、ユウコ」と、胸の奥で大きく叫んだ。

声にならぬ自分の叫びの代わりに、遠くではっきり、小さな声が聞こえた。
「バイクッ」

階段を上りきってそっとドアを開いた祐子の目に、明るい舞台が飛び込んで来た。舞台の上では、三人の裸体がもつれ合っている。後ろ手に縛られたまま天井から吊り降ろされた女の、無惨に押し開かれた股間を舌で追う裸の男は、一目でバイクと分かった。
あまりの驚愕に、叫びそうになったが、声を押し殺し、一心にバイクを見た。目を被いたくなる淫らな場面にも関わらず、バイクの真剣な気迫が伝わってくる。全身に吹き出した汗が、美しく照明に光っていた。

醜いほどに押し広げられた女の股間を、一心不乱にバイクの舌が追う。艶めかしい女の喘ぎと、狂おしいバイクの呻きが、まるで二重唱のように耳に響いた。ああ、バイクは今、変わろうとしているのだと思った。
思った瞬間、涙が頬を伝い、凄惨な情景に美しい靄が掛かった。その時、無意識にバイクを呼ぶ声が、口をついた。
固く瞑っていたバイクの目が、靄の掛かった視界で大きく開かれたのが分かった。「ユウコッ」と応える声も確かに聞こえた。


「祐子」
三メートル前に立ち尽くす祐子に呼び掛けて、Mはビールの載ったトレーを床に投げ捨てて立ち上がった。
大股で祐子の横まで行き、右手をつかんだ。
「祐子、何しに来たの。あなたの来るところではないわ」
「バイクを追って来たのよ。ほら、あんなに真剣なバイクは初めて見た。きっと、バイクは変わることができる」
Mは、興奮して言いつのる祐子の右手を強く振った。

「バイクとあなたがどんな関係にあるか知らないけど、他人のプライバシーにそんなに関わっては駄目。冷静になりなさい。あなたは中学生よ」
中学生の一言を聞いた祐子が、全身を固くしてMの顔を見上げた。
「Mに歳のことを言われるとは思わなかった」
とっさの言葉に詰まったMが、ゆっくりと続けた。
「祐子と議論をする気はないわ。私は大人のすることをするだけよ。さあ、帰りましょう。送っていくわ」
「私は帰らない。バイクを応援する」
祐子の言葉を最後まで聞かず、Mは平手で祐子の頬を打った。強引に祐子の右手を引いて、左手でドアを開けた。仕方なく従った祐子の背を「祐子待ってくれ。もう少しなんだ」という、バイクの悲壮な叫びが打った。
祐子の足が止まったが、Mは構わず強引に階段を下った。


祐子の声と姿がバイクの下半身に秩序を与えた。ペニスの存在がおぼろげに認識できた。後はこの道筋を一心に突き進めばいいとバイクは思った。死と道ずれになった性の開放も近い。歓喜の声を祐子に聞かせたいと思った。
しかし、視界の隅から祐子が去り、ドアが閉じられた。
少し遅れて、恥ずかしさがバイクの覚めた頭に宿った。無様な姿を祐子に見られたのだ。捨てたはずのプライドと羞恥心がブーメランのように戻って来た。

茶番だとさえ思う。
死も性も宙ぶらりんのまま、見えない振りをしておけば良かったと思った。
混乱していくバイクの思念の中で、ただ一つ、ぼんやりとしたペニスの感覚だけが、今夜の事実として残った。
今さら後戻りなど、できはしない。
大きく裂けた意識の中で、ぽつりと点った官能の火が、逃げて行くバイクに追いすがっていった。


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