6.祐子の見聞録

無為な時が二か月もの間、祐子のカレンダーの上を撫でていった。
埃の溜まった時を洗い流すように、今日も驟雨が襲う。
窓ガラスに絶え間なく風雨が吹きつけ、断続的に閃光が煌めく。時折、落雷する轟音が耳をつんざいていった。

祐子はベッドから立って行って、アンプのボリュームを上げた。グレツキの悲歌のシンフォニーが、やっと悲しい調べを主張しだした。ついでにディスプレーの時計に目をやる。まだ六時三十分だ。雷雲で真っ暗になった窓の外が、時間の感覚まで奪っていく。

特に感慨もないまま、中途半端に九回目の夏休みが終わる予感がした。
両親に無理やり誘われて行った、初めてのヨーロッパ旅行も、空しかった。
ベルリン、ケルン、ブリュッセル、パリ、ミラノ、ローマ、そして足を伸ばしたバルセロナも、もはや夢の中だ。
行く先々のホテルで、両親は祐子に気を使いながらも、浮き浮きして夫婦の部屋へ引き上げて行った。異国の独りぼっちの部屋で祐子は、久しぶりに両親の官能が燃え上がるのだろうと思った。

まだ幼い頃、寝室の戸の隙間から見た、素っ裸の両親が絡み合う姿態が脳裏に浮かんだ。後ろ手に縛られたまま大きく股間を広げ、猛々しいペニスを突き出していた父。その股間に蹲ってペニスをくわえ込んだまま、大きな尻を淫らに振っていた母。覗き込む祐子の視線を捉えた父の、恐怖に満ちた目。叫び声を押し止めた黒い革の猿轡。
未だ忘れることのない場面が与えた衝撃で、幼かった祐子は自らの心を閉ざしてしまったのだった。しかし、その後の事件で、空っぽの隙間を埋めるために性を追い求める人の気持ちが、なんとなく受容できるようになった。

でも、初めて着いたベルリンの街で、祐子に内緒で乗馬鞭を買って来た両親の行為は、露骨すぎて許せなかった。
買い物袋の底に隠されていた、あのしなやかな皮鞭が、旅先で素っ裸に剥かれた父の尻を夜毎打つのかと思うとやり切れなかった。
真剣な表情で性を追い求めたバイクの姿を、間近に見たにもかかわらず、両親の官能に戸惑う自分が、妙に情けなくもあった。
「待ってくれ。もう少しなんだ」と、Mに連れ去られる祐子の背に呼び掛けたバイクの声が何度も耳に甦った。

前後左右に揺れる、天井から吊り下げられた剥き出しの女の尻の下で首を曲げ、祐子を見上げたバイクの目は、何を訴えようとしていたのだろう。
確かにバイクはあの夜、大きく変わろうとしていたと確信できる。そのために祐子を求め、引き留めようとしたに違いなかった。
Mに頬を張られたくらいで、抗いもせず連れ去られた自分が悔しくてならない。悔やむ気持ちを引きずったまま、気に染まぬ海外旅行で夏休みのほとんどを過ごしてしまった。
来年度予算の概算要求で忙しくなると言って、父は都会に戻って行った。その父を追って母は、毎週末をまた、都会で過ごしている。
やりきれなさだけが、この街に帰って来た祐子を押し包む。

あの夜から八回、週末があったのに、バイクは散歩に誘いに来なかった。
別に、祐子がバイクを訪ねて行けば済むことなのだ。訪ねる機会は毎日のようにあるのに、裸で悶えていたバイクを見捨てたようなわだかまりを、乗り越えることができない。あの夜、サロン・ペインに行ったことが悔やまれたりもする。じっとしたまま、腐ったような時の流れに身をまかしていることが、情けなく、悔しかった。


一際大きく雷鳴を轟かせた後、速い速度で雷雲は遠ざかっていった。
明るさの戻った窓辺に、急に温気が満ちる。
祐子は長い髪を振って、黒のショートパンツとタンクトップを脱いだ。スリムな裸身が、明るさを取り戻した窓からの光に揺れる。

突然、リビングの電話が鳴った。
裸のままエアコンの効きが良いリビングに入り、受話器を取る。汗ばんだ肌が冷気に反応し、全身の肌が緊張する。バイクに剃ってもらったきりの陰毛が、いがぐりのように太股を突いた。

「サロン・ペインですが、バイクはいます」
女性の落ち着いた声が受話器に流れた。背筋が思わず緊張する。
「掛け間違いではないですか。ここにバイクはいません」
どぎまぎしながら、月並みな対応をしてしまった。
「いいえ。掛け間違いではないわ。この間、二階のクラブに見えたお嬢さんでしょう。確か祐子さん」
「はい、」
返事をしたまま、祐子は様子を窺った。
「あれからずっと、バイクは予約通り毎週末、店に来ていたのよ。それが前回から連絡もなく休んでいるの。今日も、時間になっても来ない。あなたなら何か事情を知っていると思って電話したの。迷惑だったかしら」
「申し訳ないけど。言っている意味が分かりません。予約って、何の予約なんですか。テーブルの予約ですか」

官能を追い求めるバイクの切羽詰まった姿が瞼に浮かんだが、口を突いた答えは素っ気なく、嫌味なものだった。少しでもバイクのことが知りたいのに、まったく嫌になってしまう。
「ごめんなさい。バイクが祐子さんのことばかり気にしていたから電話したの。何も知らないとは思わなかった。忘れてください」
電話が切られる気配に、祐子がうろたえた。まったく根性無しだと、我ながら思う。

「待ってください。ずっと旅行中だったので、戸惑ってしまって。こちらこそ誠意が無くて、ごめんなさい」
祐子の縋り付くような声に応えて、受話器の向こうでフッと息を吐く音がした。
「ご迷惑でなかったら、お話を伺いたいの。これからお店に行っていいですか」
返事のない受話器に、痛いほど耳を付けて待った。
「いいわ。今、次の人が入っているから、一時間後に来て」
事務的に応え、電話が切られた。病院の受付で嗅いだ消毒薬の匂いが、記憶の底からわき上がってくる。
祐子はそのままバスルームに向かった。約束の時間までに、汗を流す時間は十分にある。久しぶりに、伸びた陰毛を自分で剃ろうと思った。
気合いを入れて、後ろ髪を引かれる思いで後にしたサロン・ペインを、再訪しようと思ったのだ。


雷雨の上がった歓楽街の端で、赤と黒を斜めに染め分けたサロン・ペインの看板灯は、今夜も灯が入っていなかった。祐子は構わずドアを開き、電話室から店内に通った。
胸を張ってカウンターの前に立つ。
プレスの効いた白の半袖シャツを着たチーフが、カウンターの中から訝しそうな目で祐子を見た。

「いらっしゃい、お嬢さん。喫茶店と間違えてしまったのかしら」
「さっき電話で、伺う約束をしてあります」
着替えてきたばかりの白のタンクトップの胸を張って答えた。父にミラノで買ってもらった金のネックチェーンが、首で揺れた。
「そう、ママのお客なのね。ママはもうすぐ降りてくるはずだから、スツールに掛けて待ってね。ミルクでもお出しするわ」
意地悪い笑みを浮かべたチーフが、目でスツールを示した。
「飲み物は要りません」
ミルクという言葉に赤くなった頬を意識して、顔を伏せたまま長い足を折ってスツールに座った。白い麻のパンツが、気持ちの良い衣擦れの音を立てた。剃り上げたばかりの股間にヒリッと刺激を感じた。

祐子はチーフの客あしらいに負けまいと、背筋を伸ばし、真っ直ぐ顔を上げた。チーフの首筋の赤いスカーフが目に入った。思い切って視線を上げ、冷たい視線をしっかりと受け止める。

「私はどうも、お嬢さんというものが好きになれないのよ。あなたも、場違いな感じがするでしょう」
「お嬢さん育ちは私の責任ではないし、場違いな感じもしません」
チーフの目を見つめたまま、股間に力を入れて答えた。ショーツを穿いていない股間がまた、太股に触れてヒリヒリとする。しっかり応じられたと思った。
「元気なお嬢さんね。そんなに片意地張っていると、喉が渇くし、股の間も乾ききってしまうわ」
チーフの目が光った。怪しい目の輝きが、素っ裸で天井から吊されていた若い女の目を思い出させた。

あの夜、感に堪えて「バイクッ」と呼び掛けたとき、後ろ手に縛られて股間を大きく広げられていた女が、顔を上げて祐子を見た。その時の、場違いに覚めた視線が目の前のチーフの目と重なる。祐子はハッとして目を伏せてから直ぐ、視線を戻した。
目の前のチーフの美しい顔が大きくうなずく。吊り下げられた照明を浴びて、赤いゲランのルージュが短い軌跡を描いた。
「バイクが来た日に飛び込んで来たお嬢さんね。Mに、お仕置きされて改心したんじゃなかったの。子供の来るところではないわ」
祐子が顔を真っ赤にして下を向いてしまったとき、後ろから掠れた声が聞こえてきた。

「待たせてごめんなさいね。チーフの悪口は気にしないで。彼女は生理中なの」「チッ」と、チーフが小さく舌打ちする。
目の前の鏡の中で、スキンヘッドの頭を輝かせた大柄な女性が近付いて来る。電話の女性と同じ声だった。

「いらっしゃいお嬢さん。バイクの友達だから、祐子と呼ばせてもらっていいわね」
大きな尻で隣のスツールに座ったママが椅子を回し、祐子の横顔に言った。慌ててスツールを回した祐子が、うなずきながら「初めまして」と答える。
「いいえ、この店の者は皆、祐子に会うのは二回目よ。もっとも、あなたはバイクの姿しか覚えていないかも知れないけれど」
素っ裸で横たわったバイクの姿が目に浮かび、祐子の頬がまた赤く染まった。
「この店に来て赤くならなくていいのよ。祐子が赤くなってしまったら、素っ裸のまま股を開いて吊り下げられていたチーフが、穴に入りたくなってしまうわ」
横を向いたチーフの頬にさっと朱がさして、消えた。黙ったままママにコニャックのグラスを差し出す。

「祐子にも飲み物を出しなさい」
「ミルクしかないわ」
「意地悪は止しなさいチーフ。ジンジャエールを出して。いいわね」
チーフをたしなめてから、祐子の目を見て言った。
祐子が小さくうなずくと、ゆっくり話し始める。

「祐子にどれだけ理解できるか分からないけど、大人の話し方で話すわね。いい。性の話よ、聞きたくなかったら帰ったほうがいいわ。この前はMに助けられたようだけど、今夜は自分で決めるしかないわ」
「聞かせてください。あの時も、私は残りたかったんです。ショックは受けたけど、バイクの真剣な態度に感激したんです」
はっきり祐子が答えるとママは前を向き、鏡に映った祐子の目を見てにっこりと笑い、先を続けた。
「バイクは五年前のオートバイ事故で、性的不能になってしまったの。思いを寄せていた少女はその時死んでしまった。死から見放されたバイクは、性の不能を抱いて生き残ってしまった。その時から、死への希望と官能を求める欲望の、失われてしまった二つの道がバイクを責め苛むことになったの」
「でも、生きていくバイクは、変わっていけたはずよ」
救いのないバイクの姿に耐えかねて、祐子が口を挟んだ。
「そう、生きていこうと決意すれば変われたかも知れない。現実に、変わろうとして苛立ち、苦悩したかも知れない。でもね、失われた道を求めるバイクに、一切を諦めきれるはずがないの。だから祐子と出会い、祐子の中に自分の過去のすべてを投影して、記憶の中に閉じこもったまま過ごすことを選んだのよ」
「いいえ、私といるときは現実を見ていたように思う」
「祐子は何が現実だと思うの。あなたとバイクが二人きりでいるときのこと。それはやはり、お話の中の出来事よ。だからあの夜、バイクは性能力の回復にあれほどの努力をした。あの夜のバイクは、初めて現実と向かい合ったの。きっと、祐子が来たときには、ペニスが勃起しそうな感触を味わっていたはずよ」
無様に広げた股間を晒し、萎びきったペニスをナースの口にくわえさせていた陰惨な光景が瞼に浮かぶ。

「なぜ、勃起できなければ変われないのかしら」
口に出してから、祐子の頬が真っ赤に染まる。
「決まってるじゃあないの。勃起した物を、祐子の股間に突っ込めるからよ。ただの茶番だとは思うけどね」
カウンターの中から、冷たくチーフが口を挟んだ。
「黙りなさいチーフ、だから何だというの、自分の仕事でしょう。ねえ、祐子。バイクは性を取り戻すことで、祐子と対等になれると思っているの。今でも対等だと、あなたがどう言いつくろおうと駄目。これは、バイクの心の中の出来事なの。そして、勃起できそうになったことは事実よ」
祐子は下を向いたまま、あれこれと考えを巡らせようとした。しかし、明るい舞台の上で繰り広げられていた陰惨な光景と「待ってくれ。もう少しなんだ」という、バイクの悲痛な呼び掛けしか浮かんでこなかった。

「分かったわ。それでバイクはどうなったの」
「とんだ根性無しよ」
またチーフが口を挟んだ。今度はママも止めようとしない。構わず話を続けた。
「ピアニストと天田さんが、毎週末にクラブ・ペインクリニックに通えるように手配したの。もう少しで勃起できるかも知れないと確信したからよ。二階のクラブは性の治療室と思ってくれていいわ」
言葉を切って、ママはグラスのコニャックを舐めた。祐子もジンジャエールのグラスに口を付けた。

「結論から言うと、治療の効果が思ったように表れてこない。祐子に見られたことが、負担になってしまっているらしいの。きっと、大好きなあなたに見られたことが、恥ずかしくてたまらなくなったのよ。人一倍欲望が強いし、希望も見えかかっていたから暫く通って来たわ。でも、いつも、もう少しというところで、」
「私の肛門を舐めながら泣き出すのよ。祐子許してくれ、なんて言って泣くんだから呆れる。最低な奴ね。生き残ったのも無理ないかも知れないわ」
チーフが吐き捨てるように言った。

「今日で二週間も来ないわ。天田さんが捜しに行っても居留守を使っているらしい。何とかしたいと思って、祐子に電話をしたわけ。あなたの協力がないと、バイクは元に戻ってしまうわ。せっかく生きる気力が湧いてきたのに、残念でならないのよ」
「協力します」
頬を伝う涙に霞む目でママの目を見て、反射的に祐子が言った。
「ヘー、お嬢さんが素っ裸になって、バイクに股間を縛らせてやるのかしら。あんなに縄が好きな奴も珍しいのよ」
何ほどのことがあると思い、祐子は顔を上げてチーフの目を見据えた。
「怖い顔で私を見ないでよ。バイクが欲望が強いのは事実だけれど、勝手にそれに乗って遊ぶ必要はないってことが言いたいの。もっと自分を大切にした方がいいわ。お嬢さんは処女なんでしょう」
処女という不毛な言葉が、祐子の耳に突き刺さった。


「やあ、今晩は。また会いましたね。十年待たなくて済んでしまった」
背中から声を掛けられ、チーフの横に視線を移すと、鏡の中で笑っているピアニストと天田の姿があった。
「やあ、後輩。中等部の制服姿も素敵だけど、私服だとずいぶん色っぽいね。バイクが悶え苦しむ気持ちがよく分かるよ」
「その、制服姿が素敵なお嬢さんが、バイクのために素っ裸で縛られる決心をしたところよ。天田さん、早くバイクを連れて来て」
チーフが、根に持ったように祐子をいびった。
「チーフは、Mのことで祐子に焼き餅を焼いているだけよ」
ママの声が大きく響いた。両手で磨いていたクリスタルのグラスが、チーフの手から落ち、砕け散る音が後に続いた。
祐子は視線をずらしてチーフを見た。憎しみのこもった視線がじっと、祐子の瞳に注がれている。初めて見たと思う、嫉妬の視線だった。しかし、不思議に恐ろしさは感じなかった。祐子は股間に力を込め、激しい視線をそのまま跳ね返した。力無くチーフの視線が外れる。決して愉快ではなかった。心の隅に、澱のようなわだかまりだけが残った。

「ナースはいないの」
何気ない風にピアニストが聞いた。同様にママが答える。
「今日は休みを取って、鉱山の町に出掛けたの。もう帰った頃だと思うわ。向こうに子供がいるのよ」
「ふーん、ナースも苦労人だね」
「何言ってるのよ。ピアニスト以外はみんな苦労人よ」
一緒になって笑う声を耳に、祐子は鉱山の町が気に掛かった。
「子供の名を知ってますか」
「修太って言っていたわ。あんなに母性的なナースだから、子供を置いてきたことをひどく気に病んでいるのよ。祐子は、その子を知っているの」
祐子は答えなかった。離婚して都会に出たという修太の母が、この街に帰って来ていたのだ。間違いないはずだった。職業も、修太が自慢していたとおり、看護婦で一致していた。
急に喉元が苦しくなる。鉱山の町に一人残った修太はどうしているだろうと思った。
「修太はどうしているだろうね」と、二か月前に水道山でつぶやいたMの声が耳元を掠めた。

やるせないほどの懐かしさが喉元に込み上げて来る。
鏡に映った祐子が大きく首を振った。
バイクのために裸になり、後ろ手に縛られて股間を広げてもいいと、改めて思った。私は、成長したんだ。
ピアニストと天田が、カウンターのスツールに掛けた。
祐子を抜きにして、ひとしきり他愛のない話が続いた。
「せっかく後輩が協力してくれるんじゃあ、今日は無理にでもバイクを連れ出せば良かったな」
ウイスキーのグラスを右手に持って、天田が脈絡もなく言った。話はバイクの話題に戻ってきた。
「ねえ、後輩は知っているだろう。バイクは古い大きな家で、お婆さんと一緒に暮らしているんだ」
「知らなかったわ」
「へー、ほんと。後輩のマンションの直ぐ前、煉瓦蔵の路地を抜けたところだよ。まあ、普通、通ることもない路地だから知らなくても仕方がないか。知らない程度の付き合いだと思えば、俺も安心だしな」
確かに祐子は、バイクの家を知らなかった。いつもバイクは織姫通りに出ていたから、訪ねる必要を感じなかったのだ。

「ママ。そのお婆さんも最近見えないんだよ。ひょっとして病気で、入院でもしたのかな。バイクの世話はみんなお婆さんがしていたのだから、バイクも一緒に病院にいるのかもしれない。ナースみたいな優しい看護婦に、二人とも面倒を見てもらっているのだとしたら辻褄が合う」
「そんな旨いわけにはいかないわよ」
ママが冷たく答えた。
「そうだよな。でも、このところお婆さんの姿は見ないって、近所の人が言うんだ。少し心配だよな。なあ、ピアニスト」
酔いの回ってきた天田が、話を周り中に振る。呼び掛けられたピアニストの顔が曇った。
祐子は鏡の隅に映ったピアニストの、眉間に寄った暗い皺を見逃さなかった。嫌な胸騒ぎがした。

「ピアノを弾いてくるよ」
天田に答えず、誰にともなく言って、ピアニストは立ち上がった。
ピアノの前に座ると、「お婆さんは見えない」と言った天田の声が、耳に甦って来た。
突然襲い掛かったに違いない死の匂いが、ピアニストの鼻先を掠める。
自然に指先が動き、ショパンの「葬送」が殷々と響いた。到底耳に馴染まず、ワンフレーズでやめる。
変わって、明るいタッチで「エリーゼのために」を弾き始める。祐子のための調べだった。
いい潮だと思い、祐子も立ち上がった。
隣に座ったママに丁寧に礼を言って、頭を下げる。
「何だ後輩、もう帰るのか。俺が送っていこう」
天田が立ち上がると、ピアノの音が止んだ。
「よせよ。オートバイに乗せようというんだろう。五年前の悪夢が繰り返されるようだ。たいがいにしてくれ」
「弱虫。オートバイにも乗れないようじゃあバイクが泣くわ」
背中に投げ掛けられるチーフの声を後に、祐子を追ってピアニストが自動ドアの前まで回って来た。
祐子に近寄り、さり気なく耳元に口を寄せる。
「風呂場の横の潜り戸が開いたままなんだ」
はっきりした声で小さく囁き掛けた後、歩みを止めて背を正した。
祐子の前で自動ドアが開く。
「お休みなさい」
三人の声を背に「お休みなさい」と応えたまま、振り返らずに祐子は店の外に出た。


雨上がりの湿った熱い外気が、全身を包み込んだ。
服を通して直接肌に、ねばねばとした感触が張り付いてくるようだ。別れ際にピアニストが耳元で囁いた言葉が気に掛かる。祐子には何のことか分からなかった。今夜も歓楽街に人影はまばらだ。
あれこれと考えながら歩く内に、織姫通りに合流する信号が見えてきた。所々に水溜まりの残る歩道を、何も考えないようにして足早に歩く。
信号の二軒手前の四階建てのビルは、Mが勤める夕刊ポスト紙の社屋だった。
祐子の歩調が急に落ちた。
ママの話を聞いて、バイクが置かれた状況を、自分なりに理解したと思い、協力することさえ申し出たにも関わらず、Mのことを考えると、また気持ちが動揺する。
動揺した気持ちにつり込まれ、社屋の横に開いた、夜間受付の小さなドアをくぐってしまった。

小さな窓口から覗く初老の警備員にMの名を告げると、ちょうど残業をしていると言う。「他に誰もいないから、二階の編集局に行ってみれば」と言う好意を、断る理由はなかった。
警備員に会釈をして、暗い階段を上って行く。また妹に見られたのかしらと思うと、わけもなく口元に笑みが戻った。

雑然とした広いフロアに、所狭しと置かれた机の島が浮かぶ編集局の一番奥、通りに面したデスクに火が点っている。カタカタとパソコンのキーボードを叩く音が、静まり返った部屋に響く。恐る恐る近付いて行くが、Mは足音に気付いた風もなく、顔も上げずに指先を動かしている。仕事をしているときのMの集中力に、改めて感心してしまった。
椅子の後ろに立って、「今晩は、M」と呼び掛けるとやっと、パソコンのディスプレーから目を離して祐子の顔を見た。

「何だ、祐子じゃない。また夜遊びなの、いけない子ね」
いつもと違った、疲れた声を出して椅子を回した。
「迷惑だったかしら。ふらっと寄ってみたら、警備のおじさんが上にどうぞって言うから、上がって来ちゃったの」
「迷惑ではないのよ。ちょっとびっくりしただけ。後二行で記事が終わるから、隣の椅子に座って待っていて」
後二行という言葉で椅子に掛けた祐子は、たっぷり三十分は待たされた。原稿を書くときのMは、どうやら時間の感覚がなくなっているらしい。夕刊紙の締め切りは明日なのだから、とりあえず時間に追われることはないのだろうと、祐子は諦めて待った。

「お待たせ、祐子。終わったわ」
晴れやかなMの声がフロアに響き、大きく伸びをした椅子がキシッと鳴った。
「ヨーロッパに行ってたんだって。ひょっとしてベンツかポルシェを土産に持ってきてくれたの」
思わず祐子は声を出して笑ってしまった。
「ごめんなさい、そんなんじゃあないの。お土産も買ってない」
「いいわ。期待はしていなかったから。旅行の前の続きで来たのね」
いつもMの直感は鋭い。嘘はつけないと祐子は思う。
「そう、サロン・ペインからの帰りなの。このところバイクに会えないから、心配で行ってしまった」
「つまらないところに行ったね。下手をすると祐子も巻き込まれてしまうよ。あの人たちは、バイクを利用して勝手に楽しんでいるのだから。どんなことを言われても、本気にしては駄目」
Mの強い口調に、次の言葉が続かなくなってしまう。

「分かった」と念を押すMに促されて、祐子は細い首を左右に振った。金のネックチェーンがデスクスタンドの光に輝いた。
「素敵なネックレスね。向こうで買ってもらったの」
今度は首を縦に振った。
「よく似合うわ。もうすっかり大人の女に見える。身体は十分大人だものね。大人がすることを、してみたい気持ちも分かるわ。例えば性。バイクのことを巡る問題も、あの夜見たとおり、セックスが関係しているわ。この世界には、男と女しかいないのだから、性的な問題が世界の半分を占めることに不思議はないし、私も十分関心があるわ。でもそれは、皆個人的なことなの。今の祐子はまだ、個人的な性関係に入って行く準備ができていないのよ。ただ、身体の準備が終わったってこと。バイクの問題は、個人的であるはずの性を、あの人たちが寄ってたかって友情とか、怪しい治療行為とかの、仕組みの中に取り入れようとしていることよ。きっと多くの役者を募ることになるわ。祐子も誘われるかも知れない。しかし、仕組みの中で経験した性は、個人的な性とは異質のものなの」
「でも、私が体験したとすれば、それは私個人のものよ」
「その性を求める、個人的な用意ができていないと言っているの。遊びやゲームに参加するようにセックスに参加しても、自分を見失うだけで終わるわ。回復するにはとても長い時間が掛かる。いい、祐子。セックスは社会奉仕ではないわ。自分の責任と人格が、自分自身を高めたいがために官能の極みを追うのよ。安っぽい同情や自己満足で済ましてはいけない。焦っては駄目よ。もうすぐ祐子の心の中で、高く高く燃え上がろうとする情熱が、炎になる。待つしかないわ」

祐子の身体が狂おしく震えた。剃り上げた股間に熱いものが込み上げて来る。
「もう待ちきれないほど待ったわ。毎日高ぶりを感じている。何よりもバイクが私を求めている」
「冷静になりなさい祐子。あなたは、あなた自身がくだらないと思いきっている毎日の繰り返しに苛立っているだけよ。バイクもきっと、祐子と同じ。誰だって同じ毎日を耐えていることに気付かないだけなの。そんな日常感覚を解決できるものは、この世に存在しないわ。セックスだろうが死だろうが、決して救ってはくれない。これだけは確信して言える」
「でもまだ、私は確認していない」

張りつめていたMの肩が落ちた。祐子はもう、決めてしまったに違いない。
長い回り道をする苦しさも知らないのにと思うと、切なさで目頭が熱くなる。残酷だった。
「祐子。はっきり言っておくわ。私は自分の目で見てしまった以上、バイクを玩具にしようとするあの人たちを許さない。ただ一点、バイクが初めての経験に、今後の自分の生き方の判断を委ねるかも知れない、という期待だけで私は黙って見ていた。しかし、バイクが易々とあの人たちの言質に丸め込まれ、祐子まで誘い込まれるとしたら、私は決して許さない。なぜなら、判断力がまだ幼すぎる子供が、やくざに騙されるのと同じだからよ。プロにはプロの対応をするわ」

祐子は、Mが敵になるかも知れないと思った。全身が凍り付いたように寒く、奥の歯がガチガチ鳴るのが分かる。巨大なMの姿が、編集局全体にまで膨れ上がり、自分を押しつぶすかも知れなかった。恐怖心が下半身に集まり、僅かの小水が股間を伝った。

「送っていくわ、帰りましょう。明日は気分が変わるかも知れない」
Mがポツンと言ってスタンドの明かりを消した。
常夜灯の中を先に立って歩くMの姿が、ともすれば闇に紛れそうに見えた。祐子には、ヒリヒリとする股間の感触だけが確かなものに感じられた。


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