8.改めての招待

薄く開いた目を眩しい光が打った。

祐子は綿毛布を頭まで被り、寝返りを打ってベットにうつ伏せになった。全身が気だるかった。特に、股間に鈍い痛みを感じる。
昨夜の記憶がすべて、一瞬のうちに甦った。あれほど様々なことがあったのに、今頭に浮かんでいるのは、なぜか風呂に浸かっている画像だった。

バイクと二人、広い木の湯舟に浸かっている。不思議なことに画像は、湯舟を真上から見下ろした画だ。ちょうど祐子の両の乳首のところまで湯がある。微かに波打つ湯面が、赤く染まった乳首を洗う。バイクの右手が伸び、左の乳首を摘んだ。耐えきれない疼きが下半身を襲い、祐子の裸身が震えた。

「バイクッ」
大きく声を出して、祐子は綿毛布から顔を出した。眩しさを我慢して目を細く開ける。ずいぶん日が高くなっている様子だった。タイマーでエアコンも止まり、暑い。
寝過ごしてしまったと、まだ覚め切らぬ頭で悔やみ、裸のまま飛び起きた。ベッドサイドの時計を見ると、もう十時を回っている。

慌てて窓辺に駆け寄り、カーテンを開けた。八月の暑い光が全身を打つ。
目を細めたまま織姫通りを見下ろす。道行く人もいない日曜日の路上に、二台のパトカーと、ワゴン車が止まっている。白と黒に染め分けた車体が不吉だった。急いで煉瓦蔵の隣の路地に目をやる。狭い路地を制して、黄色のロープが張られていた。

バイクの家に警官が来たのだ。
裸の背筋が冷たく震え、剥き出しの股間がキュッと締まった。一晩で伸びた陰毛が太股をチクリと刺した。
祐子は眉を寄せて、日陰になった路地の入り口を見つめ続けた。十分も見続けただろうか、不安な気持ちが募り、尿意が襲ったとき、路地から出て来た制服警官が黄色いロープを外した。続いて、車椅子に乗ったバイクが見えた。
バイクは背筋を伸ばし、正面を見ている。顔が影になっていたが凛とした瞳が光った。スポーツシャツを着た屈強な男が、車椅子を押している。後から数人の男が続く。男たちの中にピアニストの顔があった。

路上に出たバイクは、二人の男に担がれて、大きく開いたワゴン車の後部ドアへと持ち上げられた。宙に浮いたバイクが顔を上げて祐子の窓を見た。一瞬だったが、悲しそうな視線を捉えることができた。きっとバイクが見た祐子の目も悲しそうだったはずだ。
バイクがワゴン車に消えると、ピアニストも同じ車に乗り込んだ。パトカーに先導されて、バイクの乗った車が去って行く。音の聞こえぬ路上の無言劇は、祐子の神経を痛め付けた。

フッと溜息をついて目を落とすと、真下の路上にオープンにしたMG・Fが止まっている。ぎょっとして煉瓦蔵を見る。路地からちょうど、紺のシャツに白いパンツ姿のMが出て来たところだった。立ち止まって祐子の窓を見上げる。反射的に身を反らせたが、多分Mに見られたと祐子は思った。全身が熱くなり、昨夜の官能の記憶が脳裏を走っていった。しかし、別に見られたからといって気にすることもない。Mは昨夜のことは何も知らない。

Mは記者なのだから、警察と一緒にいても不思議ではない。なにより、バイクのお婆さんは病死なのだ。警察が事情を理解してくれるのは時間の問題だと思った。
少し気持ちが楽になり、トイレに行こうとドアを開けてリビングに出る。突然脅迫するようにインターホンが鳴った。
バイクが連れて行かれてしまった今、訪ねて来る者はMしか思い当たらなかった。

予期したとおり、取り上げた受話器からMの声が響く。
「祐子、Mよ。ドアを開けて」
珍しく気ぜわしい声が、耳に飛び込んできた。窓越しに見られてしまったことを改めて後悔した。しかし、素知らぬ声で一応答えてみる。
「お早う、M。起きたばかりで、まだ着替えてないの」
「通りから見て知っているわ。裸のままでしょう。構わないから開けなさい。私しかいないから大丈夫」
何が大丈夫なのか分からないが、いつもの強引さに叶う術はない。裸のままドアの前まで行って、錠とドアチェーンを外した。

大きくドアを開けて、外の熱気と共にMが入って来る。颯爽とした態度に頭が下がるが、ほんの少しのデリカシーに欠けると祐子は思う。だって私は裸なのだから、ドアは細目に開けて欲しい。もう、小学生ではないのだ。
そんな祐子の気持ちにはお構いなく、Mは勝手にリビングに通り、広いテーブルの前のソファーに座った。

「祐子も座りなさい。ちょっと話があるの」
素っ裸のままソファーの横に立った祐子に、Mが前の椅子を勧める。ここは私の家だと思い、ちょっと臍が曲がった。
「こんな格好でMに失礼だから、服を着ます」
「いいの。そのままでいて。もし裸が恥ずかしいのなら、私も脱ぐわ」
もう、抗う術はなかった。Mの前に、股間に両手を置いて浅く座った祐子の裸身を、じっとMが見つめる。

「祐子、昨夜付けていた素敵なネックチェーンはどうしたの」
思わず右手を首にやった祐子の負けだった。いつ取れたのか記憶もない。初めて付けたチェーンだったので、無くなっても違和感がなかったのだ。
「これでしょう。変わったチェーンだと思ったから、すぐ祐子のだと分かったわ。ストッパーが外れやすいのね」
Mが差し出したチェーンは、確かに祐子の物だった。

「ありがとう。Mの会社で落としたのね」
「いいえ。バイクの家の庭の植え込みに引っかかっていたわ」
見る間に祐子の裸身が赤く染まった。失語症になったように言葉が出ない。バイクの前で裸身を晒したとき、胸元で揺れていたネックチェーンの感触を思い出した。抗弁できることは、無くなっていた。今更しらは切れない。目の前に証拠があるのだ。

「私がマンションの前まで送った後、祐子はバイクの家に行ったのね」
Mが静かに言葉を続けた。恐ろしかった。受け取ったチェーンを握って股間に置いた手が、微かに震えるのが分かる。
「まさか、庭まで行って帰って来たとは言わないでしょうね」
下を向いたまま祐子は小さく頷く。陰毛の剃り跡が惨めに見えた。
「そう、それじゃあ聞かせて。両手首と乳房に出来た縄の痕のことも聞かせて欲しいの」
見下ろした両手首に、確かに赤い縄目の跡が残っていた。バイクにあれほど厳しく緊縛されたのだ。見ることはできないが、乳房の上にも当然縄目の跡が残っているに違いない。

急に目から涙がこぼれた。警察官に曳かれて行ったバイクの、悲しそうな視線が頭をよぎる。祐子は号泣した。泣き続けながら途切れ途切れに、昨夜のことをすべて話した。
話し終わったとき、涙が止んだ。止むというより、涸れたといった方がよかった。洗いざらい話しきった後の爽快感が、鈍い痛みと共に下半身全体を被い、全身に伝わっていく。私は変わったはずなんだと、その時思った。バイクも一緒に変わった。下半身に残る痛みが二人の旅立ちの証だった。

祐子は股間に置いた手を上げ、金のネックチェーンを再び首に飾った。
両手を昨夜のように後ろ手にして胸を張った。突き出た乳首がキュッと固くなる。股間に力を込めると、陰毛の剃り跡が太股を鋭く刺した。小さな勇気が湧いてきた。勇気はバイクと祐子の二人のものだ。今更、有ったことを無かったことにはできない。
祐子は泣き腫らした赤い目で、正面からじっとMの目を見つめた。
Mの瞳の奥に、悲しみが宿ったと思った。

「私は後悔していない」
はっきりと、Mの瞳に言った。
Mの肩が落ちるのが分かった。
「そう。バイクは警察に調書を作りに行ったわ。警視官は犯罪は無かったと断定した。後は連絡が遅れたことを申し開きするだけ。バイクは身障者だし、ピアニストが付き添って行ったから問題はないわ」
Mは淡々と取材したことを話した。死後二週間の間、放置されていた老婆のことは記事に出来ない。地域の新聞は、猟奇を追う週刊誌とは違う。

「それでは、バイクはじき帰れるのね」
背後で組んだ手を戻して、祐子が明るい声で言った。
「帰れないわ。施設でショートステーすることになる。ケースワーカーの天田さんが、お婆さんの埋葬の手続きをするから、葬儀の日まで帰らないわ」
今度は祐子の肩が落ちた。

「お葬式はいつ」
「明日か、その次の日」
Mが答えた後、長い沈黙が部屋に流れた。居たたまれなくなった祐子が、トイレに行くと言って席を立った。
祐子が戻ったときにはもう、Mの姿はリビングになかった。窓辺によって通りを見下ろすと、オープンにしたMG・Fが凄い速度で走り去って行くのが見えた。
Mが去って行ったのだと、改めて祐子は思った。小さな悲しみが心の端に湧いた。しかし、後戻りはできない。


Mの涙に霞んだ目に、天満宮の大きな鳥居がぼやけて見えた。織姫通りが途切れるのだ。タイヤを鳴らして鋭く右に曲がった。ミドシップのエンジンが吼え、心地よいほどの切れ込みで車体がカーブを切る。強い横風が涙を吹き飛ばしていった。しかし涙は次から次にMの頬を伝った。

祐子が、バイクが、死んだバイクのお婆さんが、すべてが悲しかった。未熟な人たちが皆、思いも掛けぬ方向に流されていく。
死者の眠る家で、寒々とした裸身をからませ、意味のない官能を追う祐子とバイクの姿が脳裏に浮かぶ。悲惨だった。

「ウワー」
オープンのMG・FからMの叫びが、熱射に焼かれた古い町並みに流れた。
急ブレーキに車体が振動し、タイヤが泣く。道端でエンジンが切れたまま止まったMG・Fの小さなハンドルに突っ伏し、Mは号泣した。

何の用意もなく官能の世界に飛び出して行った祐子を、どうして引き留められなかったのかと、Mは悔やむ。祐子とバイクにセックスなど、初めから必要でなかったのだ。何故、二人の置かれた位置を、二人とも冷静に見つめることをしなかったのか。どう考えても、祐子とバイクは、プラトニックラブで十分だった。これからの苦しい数年間を、共に生き抜ける道標にはなったはずだ。腹立たしさと情けなさがMの全身を交錯し、こぼれた涙が白いパンツに数え切れない染みを作った。

あってはならない性の仕組みを作り、誘蛾灯のようにバイクと祐子を誘ったクラブ・ペインクリニックの情景が目に浮かんだ。人の持つ苦悩のすべてを、性に帰結させようとする邪悪な仕組みだと思う。蟻地獄の底で待ちかまえている悪霊たちが演出した舞台だった。決して許せるものでなかった。
高ぶりに任せたMの感情の底で、凄い速度で落下していくバイクと祐子の幻影が救いを求める。

しかし、二人を押し止めることができるだろうか。
自由落下を始めた無重力の状態を、いつまでも続く自由と勘違いした二人が、必ずやってくる激突の時を認識できるかどうか不安だった。時間の問題だとMは思わざるを得ない。
滅びの時は、以外に近いと確信した。そして恐らく、私は二人に何もしてやれないまま、その時と立ち会うだろう。
いつしか涙も涸れきり、頭を焦がす熱射を浴びて、Mはいつまでもハンドルに突っ伏していた。


制服でいいと言う母の言葉に逆らい、無理に買ってもらった黒のワンピースを着て祐子は狭い路地を歩いて行く。暑い風に乗って、香の香りが流れてきた。
二日振りに見るバイクの顔が、初めて見る玄関の内部に見えた。
玄関の中は日陰になっていたが、祭壇の他にはバイクと天田の姿しか見えない。寂しすぎる葬儀だった。目頭が熱くなってしまう。

「あれっ、後輩は制服じゃあないんだ」
場違いな天田の声が響いたが、無視して祭壇に一礼する。掲げられた写真はぼやけていたが、柔和な顔の老女が祐子に笑い掛けている。陰惨な屍の記憶が一散に消え去っていった。バイクが無理に会わせたくなった気持ちも分かった。
祐子は写真に微笑み返してから、香を焚いて手を合わせ、瞑目した。瞼の中でなお、老女は微笑み続けている。

「ありがとう、変な言い方だが喪服がよく似合う」
焼香の終わった祐子に、バイクが声を掛けて近付いて来た。
「バイクは制服が嫌いだから、この方がいいと思ったの」
「ありがとう」
バイクが同じことを言って、誘うように表に出た。
「バイク。喪主が動き回っては駄目だ」
天田が声を掛けたが、バイクは返事もしない。黙ったまま三メートル進んで、後ろに続いた祐子を振り返った。参列者のいない葬儀で諦めたのか、天田はそれ以上何も言わなかった。

「会えてうれしかったわ。施設にいるんですって」
黙ってバイクが頷いた。心なしか、表情が硬い。
「また会えるかしら」
言ってしまってから、不吉な言葉になったと後悔したが、返事はすぐ帰ってきた。
「いつものように週末に会えるさ。ちょうどその日は高等部のマラソン補習が始まる日なんだ。ぜひ、祐子に高等部を見て欲しい。午後六時半に高等部のキャンパスに来てくれ。一緒に学校を見よう」
「いいわ。バイクがあんなに好きだった高等部を案内してもらう。来年は私も進学するから、やっとバイクの後輩になれる」
明るいバイクの答えに心が浮き立ち、浮かれ声で答えた。
「きっとだよ」

路地を入って来た参列者を認めて、念を押したバイクが玄関に戻って行く。
内心のうれしさを喪服に隠して、祐子は初老の参列者と擦れ違った。
週末が待ち遠しかった。


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