日射しは消えていたが、西の空は十分明るい。 
            町並みが続く果て、水瀬川の向こうに落ちた夏の日の名残を正面から浴びて、校舎の屋上にいるバイクの全身が赤く染まっている。 
            蒼白な顔に反射する赤い光が、玉の汗を美しく彩る。両腕に力を込め、肩の筋肉を盛り上がらせて、バイクはフェンスの金網をよじ上る。 
             
            腕を交互に持ち上げる度に、曲がったままの両膝が揺れた。指に食い込む金網が痛い。フェンスの高さは二メートルはあった。 
            やっとの事でてっぺんに渡した鉄パイプにぶら下がり、力を込めて懸垂した。全身から汗が噴き出す。 
             
            ようやく屋上に巡らせたフェンスから上半身を乗り出したが、反対側に下りる術がない。足で跨ごうとしても、不自由な下半身が冷たく無視する。 
            仕方なく、乗り出した胸元の下に両手を伸ばし、きつく金網を握りしめた。歯を食いしばり、上体にすべての力を集中し、鉄棒の逆上がりの要領で回転した。身体は上手く回ったが、金網を握りしめたまま返せない手首が、全体重を受けて激痛に泣く。とっさに両手を放し、落下する直前に体を捻って金網に縋り付いた。 
             
            背筋を恐怖が突き抜け、冷や汗が流れた。気持ち悪く揺れる下半身をフェンスに押し付けて揺れを防ぐ。首を曲げて地上を見ると、二十メートル下のキャンパスが静まり返っている。ちょうど真下に、置いて来た焼酎の瓶が小さく見えた。まだ落ちるわけにはいかない。 
             
            やっとの思いで屋上の端に腰掛け、背をフェンスに預けて一息つく。しかしゆっくり休んではいられない。右手に巻いた腕時計は六時二十分を指している。後十分しかないのだ。 
            バイクは、紫色に染まった西の空を見つめた。 
             
            地上近くにたなびいた雲が茜色に染まっている。豪奢な黄金色に包まれたいと思ったが、日を変えることなどできない。 
            一切を受容するのだと思いを固め、じっと瞑目する。 
            身体に張り付いた小さすぎる上着が暑苦しかったが、すぐに気にならなくなった。バイクが入学した年一杯で廃止になった、高等部の制服だった。制服嫌いだと思っている祐子に、ぜひ一度、制服姿を見せたいと思ったのだ。 
             
            身体をゆったりとフェンスに預け、大きく息を吸った。静かな呼吸に合わせ、大空に飛び立って行く自分の姿が脳裏に浮かぶ。これがいい。 
            バイクは焦点を絞り、瞼の裏にイメージを投射させる。 
             
            今の姿のままのバイクが、薄暮の空間を紫に輝く西の空目指して、飛び立って行くのが見えた。飛翔する姿は車椅子の上になく、ポッカリと宙に浮かんでいた。曲がったままの膝と貧相な下半身が、回復しない歩行を思い出させる。しかし、その全身は自由を謳歌している。軽くなった心が、思い通りにならない肉体と悩みを、そっと宙に持ち上げてくれたのだ。ただ、有り余る夢の過剰が、下半身に重く垂れ下がっている。ああ、もっと自由になりたい。もっと、もっと。 
             
            こみ上げる願いがペニスの先に集まる。既に分かり切っている官能の回路を伝い、一切の欲求が解き放たれ、奔流となって一点に集中する。 
            萎びきったペニスの奥で、素っ裸のまま後ろ手に縛られ、大きく股間を広げた祐子の顔が笑っている。剃り上げられた陰部で性器が震え、肛門が喘いだ。 
             
            「ありがとう」と万感の思いを込めてつぶやくと、ペニスの内部が沸き立ち、見る間に膨張する。 
            猛々しく勃起したペニスにたまらない満足を感じ、バイクは目を開き股間を開けた。 
            黒々とした陰毛の間から屹立したペニスが、頼もしいまでに反り返って輝いている。バイクの全身がうれしさに戦く。もう、すべてが許されたと思った。 
             
            西の空にはもう、ほんのりとした明るさしか残っていない。一日の終わりが訪れようとしていた。バイクは上着のポケットから細いスチール線を取り出す。楽器店で買ったばかりのギターのA線だった。 
            細く強靱な弦を延ばし、慎重に勃起したペニスの根元を縛り上げる。晴れ晴れとした痛みが股間を突き破りそうだ。 
            余った弦を延ばして、背後のフェンスに結わえつけた。 
            上着の内ポケットから四つに折り畳んだ、白い画用紙を取り出し、胸ポケットに入れる。 
            準備は終わった。 
             
            根元を縛られたペニスが狂おしい存在感を主張し、赤黒く変色していく。しかし、開放することはできない。晴れがましい顔で、下を見下ろす。 
            高等部のキャンパスには誰もいない。 
            さあ、祐子。早く来てくれ、卒業式の準備は終わった。 
             
             
            祐子は、織姫通りから命門学院高等部に向かう道路の信号が青になるのを待った。 
            交差点を渡って、十分も歩けばキャンパスに着く。 
            祐子はイライラしながら、赤信号を見つめる。胸元の赤いリボンに無意識に手を掛け、形を整える。遅れそうだった。私服で来れば良かったと思う。 
            わざわざバイクの嫌いな中等部の制服に着替えたために、時間を失ったことが悔やまれてならない。 
             
            高等部とはいっても命門学院だった。中等部に在学している祐子が、私服で登校するわけにはいかないと思った。高等部の教師が何人も、講師として中等部で教えていたのだ。 
            ただの日常に負けて、祐子は制服を着た。情けなさが込み上げて来る。わざわざバイクの家の玄関先まで行って、バイクがいないかと確かめたことさえ今は愚かしい。高等部で待ち合わせを約束した車椅子のバイクが、誰もいない家にいるはずもなかった。 
             
            織姫通りの車両が止まると同時に、祐子は信号も確かめずに通りを横断した。すかさずクラクションを鳴らされ、ぎょっとして右手を見る。タイヤを鳴らして右折してきたオープンのMG・Fが祐子の前を掠め、三メートル先の歩道沿いに止まった。 
            運転席から振り返ったMが、怪訝そうな顔で祐子を見つめている。 
            とにかく、遅刻しないことが先決だった。 
             
            MG・Fに駆け寄って、助手席に滑り込んだ。 
            「お願いM、命門学院の高等部まで乗せて行って」 
            「いいわよ。でも、何をそんなに急いでいるの。信号の変わり鼻は右折車に注意しなさい」 
            もう、説教はたくさんだった。祐子は直截に事情を話す。 
            「バイクが高等部を案内してくれるの。でも約束の時間に遅れそうなの。早く車を出して」 
            いつも素早いMが、車を発進させない。意地悪をされているような気がしてくる。 
            「急ぐことはないわ。車なら二分よ。確か高等部は今日、マラソン補習の初日でしょう。気が向いたら夕食時間を取材しようと思っていたところよ。そんな日に、バイクが学校を案内するって言ったの」 
            「そう。約束したの。六時半にキャンパスで会うのよ。早く行って欲しいの、遅れたくない」 
            Mは黙ったままハンドルを握っている。苛立つ祐子を無視して、ぽつりと不吉なことを言う。 
            「行かない方がいいと思う。嫌な予感がするわ。今日は校内を案内できるはずがないのよ」 
            怒りに顔を赤く染めた祐子が、ドアに手を掛けた。 
            首を左右に振ったMが、思い切りアクセルを踏み込む。 
            「バカッ」 
            Mの声がエンジンの轟音に混じった。祐子の捻ったままの身体がシートに張り付く。凄まじい加速でMG・Fは、車両の途切れた道を疾走した。頭上を駆け抜ける風が、二人の長い髪をなびかせていく。 
            やはり、私が付き添って行った方がいい。また嫌な予感が胸を掠め、Mはアクセルを踏む右足に力を入れた。 
             
             
            真っ赤なMG・Fがタイヤを鳴らして校門に飛び込んで行った。 
            人気ない正面キャンパスの中央で急停車する。 
            目の前の四階建ての校舎の屋上に座り込んだ男の姿が、Mの視界の端に映ったのだ。 
            エンジンが止まり、静けさの戻ったキャンパスに、頭上から大声が響いた。 
             
            「ユウコッ、高等部にようこそ。来てくれて本当にありがとう」 
            バイクの声で頭上を見上げた祐子が、素早くキャンパスに降り立って叫んだ。「バイクッ。降りてきて」 
            「祐子、今日は僕の卒業式だ。保護者同伴で来てくれてありがとう。コングラッチュレーション。グラジュエーション」 
             
            自分で「卒業おめでとう」と叫んだバイクの身体が、ふわりと宙に浮いた。 
             
            祐子の口に、声にならない叫びが溢れた。 
             
            Mの口が苦渋に歪む。 
             
            「ウオッー」 
            猛り立つ獣の唸りがバイクの口を突き、激しく落下した身体が一瞬止まった後、音もなく墜落した。 
            祐子とMの足下に衝撃が伝わる。足を絡ませながら祐子が、十メートル先のコンクリートの地面に急ぐ。 
             
            屍を視野の中央に据え、Mが大声で祐子の背に呼び掛けた。 
            「行っちゃ駄目」 
             
            呼び掛けながら、Mも走る。 
            祐子は、ぐったりとしたバイクを抱え起こそうとする。頭の半分が砕けた死体に縋り付いた真っ白なセーラーの胸が、見る間に血で赤く染まる。その頭上に、ちっぽけな肉片が落下してきた。 
             
            金網のフェンスに繋ぎ止められたギターの弦から、ちぎり取られたペニスが落ちてきたのだ。 
            肉片と化した血染めのペニスは、バイクが置き去りにした焼酎の瓶の隣に落ちた。萎びきった肉片の横で、青い瓶だけが勃起している。 
             
            一瞬、わけが分からず呆然とした祐子が、ペニスを認めて「ヒー」と悲鳴を上げた。 
            バイクの屍を離して、よろよろと立ち上がる。 
             
            手と胸を赤く血で染めた祐子が、屍の傍らで全身を戦かせている。 
            祐子の手から離されたバイクは、残った顔の半分で空を見ていた。何物をも訴えることのない、無となった目が大きく宙を睨んでいる。Mは屍の前に跪き、右手でバイクの瞼を下ろした。 
             
            上着の胸ポケットから飛び出している、白い画用紙を引き抜く。 
            背後から、事件を知って駆け付けて来るらしい、大勢の足音が聞こえる。 
             
            Mは画用紙を広げて目を通した。 
            読み終わると同時に、怒りが全身を突き抜けていった。 
            胸を張って祐子に近付き、画用紙を突き付ける。 
            祐子の震える手が紙を掴むと、Mはそのまま屈み込んで焼酎の瓶を握った。死に行くバイクが、今生の思いを込めて呑んだに違いない酒だった。バイクも祐子も悲しすぎた。 
             
            周囲を取り囲む高校生たちにお構いなく、瓶に口を付けて焼酎を煽った。喉を焼く悲しい酒が胃に収まったとき、Mはきびすを返して群衆を手で押し分けた。 
            「Mっ。何処に行くの」 
            立ち尽くしている祐子の、震える声にも振り返らず、はっきりと大きな声で言った。 
            「もう、あいつらを許さない」 
            黒のパンツとタンクトップのMが、喪服姿で斎場を後にする修羅のように、背筋を正してMG・Fに向かう。右手に下げた酒瓶が異様だった。 
            二、三歩Mを追った祐子が、手に持った画用紙に気が付きその場で広げた。黒のサインペンで書いた大きな文字が、画用紙一杯に躍っている。 
             
             
             卒業 
             俺の決心はついた。 
             桜の花は咲かない、梅の香もない 
             キョウチクトウとヒマワリに彩られた卒業式だ。 
             五年遅れて俺は、 
             高等部を卒業する。 
             ありがとう祐子、 
             お前の入学まで待てなかった俺を許してくれ。 
             そして、なお許し続けてくれるなら、 
             祐子が甦らせてくれた性を、 
             あの世で迷っているに違いない映子と、 
             共に楽しむことを許せ。 
             俺は祐子を利用したのではない。 
             祐子のお陰で生まれ変わって、今旅立つ。 
             今生の誠意の証に、 
             俺のペニスをもらってくれ。 
             
            身勝手だった。根性無しにもほどがある。あっけらかんとした涙が、初めて祐子の頬を伝った。 
             
            涙に気付いても、取り立てて悲しみも浮かんでこない。バイクはバイクなりに、やっと自分の道を見付けたのだと思った。 
            バイクは死に、私は生きる。一緒に生き方が変わった者同士、道が二手に分かれただけだと思う。ただ、二度と交差することのない道を行くだけだった。祐子は、決して、自ら死を選ぶことはないだろうと確信した。 
            誰しも、自分の死を自由に演出する権利はあるのだ。 
            自由に生まれ、自由に生きることが許されない人が、その死を自由に演出することは、素直に認めようと思った。バイクはあんなに気に掛けていた映子と、同じ姿で死ぬことができたのだ。まずは上々だと思わなければ可哀想だった。祝福して上げたいとさえ思う。 
             
            バイクの卒業は、決して早過ぎもせず、遅すぎもしない。彼自身が選択した結果だった。その道筋をクラブ・ペインクリニックが見出してくれたに過ぎない。 
            血相を変えて、クラブ・ペインクリニックに抗議に行ったに違いないMを、早く止めようと思った。 
             
             
            「後輩、何処に行くんだい」 
            Mを追おうと歩みだした祐子の腕を、小柄な少女が掴んだ。 
            バイクの遺書を読む祐子の背から、少女が熱心に覗き込んでいたことを祐子は知っていた。少女といっても命門学院高等部の三年生だ。祐子よりよっぽど大人の雰囲気を漂わせている。鮮やかな紫のスポーツシャツの下にホワイトジーンズを穿き、黒のバスケットシューズを履いていた。祐子に手を伸ばしたときに揺れたボブカット下で、耳朶の金のピアスが光っていた。 
            「歓楽街に行くんです」 
             
            「遠いから送っていくよ」 
            祐子の血で濡れた腕を平気で掴んだ少女が、平然と言った。 
            「だって、あなたは補習があるんでしょう」 
            「後輩のためにサボることにしたよ。私はチハル、呼び捨てにしていいよ。悪いけど、後ろから読ませてもらったんだ、祐子。さあ、行こう」 
            学校を振り返りもせず、取り囲む同級生たちを無視して、チハルは祐子の手を取って校門へと歩いて行く。お陰で祐子は、高校生たちの好奇な目を気にせずに学校を出られる。 
             
            校門を出たところで、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。二日後には、バイクも灰になるのだ。 
            祐子の腕を掴んだまま横に並んで歩くチハルが、突然話し掛けた。 
            「祐子は、かっこいいところを見せ付けたね。あの男のチンチンをほんとにもらったんだね。羨ましいよ」 
            突飛なことを言って、構わずキャンパスの裏の方に歩いて行く。 
            「何処まで行くんですか」 
            街と反対の方角に、不安になった祐子が訊ねる。 
            「心配しなくていいよ。学校の裏に私のオートバイが置いてあるんだ。歓楽街なんて直ぐに行けるさ。歩けば四十分、バイクで五分」 
            笑って言って祐子の手を離した。 
             
            「血を洗ってから行った方がいいね。セーラーはどうしようもない。赤い模様だと思えばいいさ」 
            十分ほど歩いてから、小さなビルの地下にある、喫茶店の駐車場に止めてある250ccのホンダを指さす。 
            「私の愛車」 
            「すごい」 
            オートバイを見つめて祐子が言った。バイクがついに、二度と乗ることのなかったオートバイだ。 
            「クオターの嘘っぱちさ。でも速いよ。さあ、乗り出す前に、店で手を洗っていこう」 
            チハルの行きつけの喫茶店で手を洗わせてもらった祐子は、オートバイの後ろに跨った。生まれて初めてのオートバイだった。 
             
            不安定な姿勢に不安を抱いたが、その不安を消し去るように、鋭い加速が全身を襲った。下半身がピリッと痛んだ。 
             
            さようならバイク。私はあなたが乗れなくなったオートバイに乗って、自分の道をどこまでも行きます。 |