8.もう一つの再会

クリスマス・イブの朝になって、ドーム館の電話が初めて鳴った。

素っ裸のままソファーで微睡み、斜めにドームを貫く朝日を浴びていたMは、理事長の書斎から響くベルの音で飛び起きた。
急いで書斎に入り、デスクの上の受話器を取る。
「理事長、」
掠れた声で受話器に呼び掛けると、聞き覚えのある懐かしい声が、先を続けようとするMの言葉を遮る。

「違うよ、私が理事長さんに電話をかけている。あんたは、ひょっとするとMさんと違うか。鉱山の町を覚えているだろう」
落ち着き払った、自信に溢れる声がMの目元を思わず潤ませた。
「まさか、助役さん、」
「そう。今は町長だが、久しぶりだね。この市の市長室から電話をかけているんだ。同じ広域圏だから市との交流は深い。Mさんが来ていることも、さっき福祉部長さんに聞いた。コスモス事業団のことでインタビューをしたそうだね。この電話番号は市長さんに教えてもらった。鉱山の町に建設が予定されている特別養護老人ホームの件で、至急理事長さんに会いたい。居場所を知っていたら、ぜひ教えて欲しい」

Mが鉱山の町にいた六年前と少しも変わらない口振りで、話は直截に切り出された。Mの気持ちに余裕が戻る。久方ぶりの爽快感さえ感じられてきた。本来のペースに戻れそうな予感がする。
「助役さんはいつも、結論を急ぎすぎるわ。私はたまたま理事長の家に居合わせているだけ。いくら助役さんと面識があるからと言って、事情も聞かずに個人のプライバシーを明かすわけにはいかない。詳しく話してください」
受話器の向こうで、にこやかに町長が笑った。
「Mさんも変わっていないね。安心したよ。きっと鉱山の町にいたときと同様、理事長さんの家族の一員になっているのだろう。できたら市役所までご足労願えないだろうか。私が出掛けてもいいのだが、立場上、理事長の留守宅を訪ねるわけにいかない。どうだろうか」
「いいわ。私も事情が聞きたい。でも、私が月刊ウエルフェアーの編集者だということは忘れないでください」
「Mさんの仕事の妨害はしない。市役所三階の市長室で待っている」
「分かりました。三十分後にお邪魔します」

Mは電話を切り、素早くこれからの予定を立て、バスルームに走った。ビジネスはいつも程良い緊張感をもたらす。
しばらく忘れていた日常を取り戻したMは、熱いシャワーを全身に浴びながら面食らった顔になった。

チーフに借りたシルクニットのワンピースしか、着ていく服がなかった。
裸身にぴったりと張り付き、身体のラインが露骨に出たシルエットが瞼に浮かぶ。朝の市長室を訪ねるには不向きな服だと思った。裸のまま過ごしてきたことが異常に思えてくる。Mの他に誰もいない、ドーム館の異様な空間が異常な毎日を遮蔽していたようだ。しかも六日前、ピアニストはここでMを異常だと言ったのだ。

とにかく日常からのお招きは、隔離されて過ごしてきたMにとって好都合だった。何にしても、ニュートラルな環境に入っていくことを歓迎した。
裸のまま市長室を訪ねてもいいとさえ思い「やはり異常なのかな」とつぶやく。シャワーを止めて苦笑した。


冷たく引き締まった師走の朝の空気を切り裂き、オープンにした赤いMG・Fが織姫通りを下っていく。街路樹に飾られたクリスマスのイルミネーションが通りの両側からMを迎えている。消し忘れた豆電球が、真昼の蛍のように侘びしく見える。
中央公園の梢越しに、四階建ての市庁舎本館の古風な屋根が見えてきた。Mはアクセルを踏み込み、スピードを上げたまま市役所の構内に進入した。紺色の制服を着た警備員が車の勢いに驚き、大きく手を振って正面玄関前の駐車スペースを指示する。まるでVIP待遇のようだ。
オレンジ色のサングラスを掛け、長い髪を寒風になびかせたMの口元に笑いが込み上げる。

Mは大股に市役所の玄関に入っていった。ちょうど目の前のエレベーターが開き、役所の制服を着た数人の男が乗り込むところだった。Mは辺りを見回してからエレベーターに向かう。
「どちらへ」
扉の停止ボタンを押して、待っていてくれた若い職員が尋ねる。
「市長室へ」
短く答えると三階のボタンが押され、静かにドアが閉まった。
三階に着くまで、同乗した職員たちは押し殺したように無言だった。
Mは服装が気になったが、ダウンジャケットを着ているので、身体のラインに見入られているはずはなかった。市長室を訪ねる客の前では私語を慎むだけらしい。Mの知らない権力の素顔が、ちらっとのぞいたような気がする。

三階で開いたエレベーターのすぐ前が市長室だった。開け放たれた自動ドアの中で、三人の秘書課員が机を並べて執務している。室に入っていったMの姿を全員が一斉に目を上げて見た。訝しげな表情は誰も浮かべていない。良く教育が行き届いている。
「Mです。助役さんに呼ばれて来ました」
さっと椅子を立って来た美しい容姿の女性に短く言った。幼さの残る顔に、初めて怪訝そうな表情が浮かぶ。
「助役にご面会ですか」
当惑した表情を浮かべる秘書の背後から、年配の女性が声を掛ける。
「町長さんのことよ。お通しして」

女性秘書に案内されてMは市長室に入った。北と東に大きく窓を取った市長室は狭く感じられた。十畳ほどの広さにしか見えない。
南に向けられた執務机の前に、ゆったりとした応接セットが置かれ、二人の男が向かい合って座っている。Mの入って来た気配を察し、背を向けていた大柄な男が立ち上がって振り向く。

「Mさん、久しぶりだ。よく来てくれました。それにしても、相変わらずお美しい」
町長になっても助役の時と同様、紺色のスーツを着た町長が右手を伸ばした。そっと出したMの右手を温かく大きな手が握り締める。足の先まで懐かしさが伝わっていく。
「助役さんも変わらないわ。怖いくらい堂々としている」
「今は町長さんだよ」
ソファーにゆったり座った初老の男が、にこやかに声を掛けた。ライトグレーの見るからに仕立ての良いスーツに、小柄で健康そうな身体を包んでいる。

「市長さん、こちらはM。私が町長になるときにずいぶん世話になった」
町長の紹介の言葉を聞いたMの頬が赤く染まった。政治が支配する世界の、独特の物言いが恥ずかしくてならない。
「さあ、掛けてください。あまり時間もない。話を続けましょう」
市長が隣の席を勧めながら、政治家の声に戻って言った。
時間がないといった市長の言葉に助けられ、Mはダウンジャケットを着たままソファーに腰を下ろした。大きく足を組むと、短すぎるワンピースの裾に二人の男の視線が集まるような、くすぐったさを感じる。
町長がまぶしそうにMを見て、話し始める。

「市長さんにはもう聞いていただいたのだが、問題は鉱山の町にコスモス事業団が建設する三千人を収容する特別養護老人ホームのことなのだ。この巨大な老人ホームが国の認可を受けるに当たって、厚生事務次官が影で動いたという噂がある。その事務次官が、収賄容疑で今日中に逮捕される。昨夜遅く、親しくしている高級官僚から連絡があったのだ。もちろん贈賄側はコスモス事業団ではない。営利目的の老人ホーム建設を全国規模で展開しようともくろんだ、高齢者福祉では新興のシルバーグループの理事長の仕業だ。市長さんから聞いたコスモス事業団の、高邁な目的も分からないではない。確かにシルバーグループとは違い、コスモスは金儲けが目的ではないことははっきりしている。しかし、厚生事務次官の逮捕の影響は深甚なものになると思う。いったん政治の醜さが世間にこぼれ落ちれば、後は味噌も糞も一緒だ。目的が違うとほざいてみても、誰も聞く耳など持ちはしない」
じっと聞いていたMが口を挟む。
「私も福祉の雑誌に携わっているから、シルバーグループの黒い噂は聞いていたわ。また、独自の展開を見せるコスモス事業団にも興味があって取材にも来た。しかし、助役さんが何故、それを問題にするのか良く理解できない。鉱山の町は特別養護老人ホームの誘致を決定していたのでしょう。町の利益を考えて決定した事実を、検討し直そうとでもいうのかしら」

町長の顔に苦渋の表情が浮かんだ。市長がMの言葉に同意するように、大きく姿勢を変えた。町長が話を続ける。
「確かにコスモス事業団は市を始め、この地域の発展に欠かせない組織だ。正直に言えば、私の町も人口の四分の三もの人を受け入れることに魅力を感じた。国の補助金と一緒に、可処分所得に恵まれた老人が町に入ってくる。金の管理は、ホームの運営に参加する町が握れるだろう。新しい雇用の創出にもなる。確かに甘い夢を見させてもらった。しかし、私は政治家だ。泥まみれになるのが分かっているプロジェクトに町を関係させることはできない」

「しばらく下を向いていれば嵐も通り過ぎる。甘い夢が現実になるかも知れない。町長さんは過剰に反応しているのではないか」
鋭い口調で、市長が町長に翻意を促した。
「市長さんは、新しいプロジェクトを抱えていないからそう言える。しかし、町はその渦中にある。かつて、鉱毒事件という大スキャンダルと共に、私の町からは緑が消え失せてしまった。滅んでしまった自然がようやく甦り、営巣を始めたイヌワシの雛の誕生が、町民にやっと希望を与えてくれた。その町民が、醜いスキャンダルを許す道理がないのだ。私は、今日中に市役所の記者クラブで誘致撤回の記者会見を開くつもりだ。だが、その前に、ぜひとも理事長さんに会っておきたい。不義理をするからには、それなりの礼は尽くしたいと思う。Mさん、理事長さんの居場所を教えてくれ」

自分の決断を確認するように厳しく口を閉じた町長が、Mの目を見つめて頭を下げた。
まさに裏切りといえる町長の決断だが、Mはコスモスの人間ではない。冷静に考えれば、政治の醜さにまみれたような町長の決断が正しいと思う。長年積み重ねてきたコスモスの事業が軌道に乗っている市には、それほどの痛みはない。しかし、新しく巨大すぎるプロジェクトを抱えた鉱山の町は、全国的な非難の激浪にもみくちゃにされ、転覆は免れないと思う。誰が考えても、三千人を収容する老人ホームはうさんくさい。理事長が現実に目を向けるのに、ちょうど良い機会とさえ思えた。

悪化しているはずの理事長の様態が気に掛かったが、それだからこそ大切な機会なのだとMは思う。
「お話は分かりました。私も理事長にお会いになるべきだと思います。すぐご案内しましょう」
聞いていた町長の顔がエネルギッシュに輝き始め、市長の肩が落ちた。
「市長さん、お聞きの通りだ。私が戻ってきたら、市の記者クラブで特別養護老人ホーム誘致撤回の会見をさせていただきたい」
「配慮しましょう」
押し殺した声で市長が答えた。
立ち上がって深々と市長に一礼した町長は、Mと連れだって足早に市長室を後にした。


広々とした冷たい鋸屋根の空間に、低くブザーの音が響き渡る。
電動の自動ベッドに横たわる理事長の目が大きく見開かれた。デスクの前に座り、パソコンのキーボードを操っていた黒いスーツの男が、ベッドの横に立つチハルに目配せする。白いコートを脱ぎ、コスモスのユニホーム姿になったチハルがドアに進み、通路に出て行く。
室に静寂が戻り、理事長の荒い呼吸音だけが空間を満たした。

白いセーターの上に白衣を着たピアニストが、理事長の肩から延びた点滴の管の先で薬液量を調整するバルブを操作する。やせ細った理事長の黒い首筋がブルッと震えた。長大な天窓から入るフラットな光を浴びて、吐く息が白く輝く。理事長の代謝機能を下げるために、室温は極めて低く設定してある。癌細胞に浸食され切った肺をかばい、呼吸を楽にさせるためだ。
理事長の顔が左右に揺れ、鼻に当てた酸素の管が外れそうになる。ピアニストの脇に従った修太が、素早く手を伸ばして管の位置を正した。
通路に通じるドアが再び大きく開き、表情を固くしたチハルが足早に理事長の元に戻って来る。

「鉱山の町の町長が見えています。特別養護老人ホームのことで重大な話があるそうです。Mが町長を連れてきました」
チハルの言葉を黙って聞いていた理事長が、ピアニストに命じる。
「二人に会う。薬の量を増やし、酸素の管を取れ」
ピアニストは反論したそうに口元を歪めたが、理事長の厳しい声に従う。
「チハル、室温を上げて、二人をお通ししろ」
「はい」
しっかりした声で理事長の命令に答えたチハルが、再び通路へ向かった。


「理事長さんはこんな所にいたのか。かつてこの市の富を築いた織物工場の跡に閉じこもるなど、本当にあの人らしい」
広々とした通路の途中で、鋸屋根の高い天窓から入る穏やかな光を浴びた町長が、小さな声でMに言った。
「町長さん。理事長は加減が悪いので、お話は手短に願います」
二人を案内するチハルが、真っ直ぐ前を見たままきっぱりと言った。
「分かっています」
短く答えた町長の表情が引き締まる気配が、Mに伝わってくる。六日前と違い、厳しく冷え切っている空気がMを不安にする。

チハルが大きくドアを開けた。
広々とした空間にちっぽけな人の姿が散らばっている。一番奥にあるベッドから、半身を起こした理事長がしっかりした声を出す。
「町長さん、よく来てくださった。実に久しぶりです」
「お加減が悪いところに押し掛けて恐縮です。しかし、会わないわけにいかなかった。Mさんに無理を言って案内してもらったのです。本当におやつれになったご様子だ。お手間は取らせません」
ベッドの上で理事長は胸を張って応対した。しかし、見違えるように衰弱してしまった身体がMの胸を打つ。気力だけで肉体を支えているとしか見えなかった。見るからに呼吸が荒い。肺に巣くった癌細胞が、吐く息に混じっているかと疑いたくなるほど、暗く重い呼吸だ。
「特別養護老人ホームの起工式を待ちかねていらっしゃると思っていたが、突然いらっしゃった。何か重大な話があると聞きましたが、」
詰まった咳が理事長の言葉を奪った。町長の顔に哀れみが浮かぶ。たちまち見て取った理事長が姿勢を正す。
「ここにいる者は皆、私の分身です。本部秘書の飛鳥も詰めている。すべてここでまかなえる体制を取っている。率直に話して欲しい」
デスクの前に座っている飛鳥と呼ばれた男が立ち上がって会釈をする。身長が百八十センチメートルはある痩身を、黒いスーツで装っている。若かった頃の理事長を彷彿とさせる体躯だった。

飛鳥を見ようともせず、理事長を見つめたまま町長が口を開く。
「理事長さん。では、直截に言おう。私は特別養護老人ホームの誘致を撤回する」
「何と言った」
激しい怒声が鋸屋根に反響した。
「理事長、興奮しないで欲しい。私は政治家だ。今日中に厚生事務次官が逮捕される。シルバーグループから贈賄を受けたのだ。進行中の特別養護老人ホーム建設計画がすべて、国民の指弾を浴びるだろう。町に建設予定の、常識を越えた規模のホームは、普通なら認可になるはずがない。それが認可になったのだ。誰だって厚生事務次官との関連を疑う。私は、町民を疑惑の渦中に投げ入れることはできない」
「町長さん。何をうろたえている。次官の逮捕など先刻承知している。そんなことは、我々の計画に何の影響も与えはしない。コスモス事業団の財力を持ってすれば、国の補助金など当てにしなくていいのだ。すべて独力でできる。町に迷惑は掛けない。私は金儲けなどに興味はないのだ。新しい文化の創造のために、鉱山の町の協力が、ぜひとも必要なのだ」
ベッドの背に倒れかかりそうになる身体を立て直し、痩身を振り絞るようにして理事長が訴えた。鬼気迫る理事長の姿を目にしたチハルの両目から、涙が流れ落ちた。ピアニストが右手で目頭を擦り、修太が鼻をすすり上げた。リビングのドアの前で立ち尽くす祐子の身体が小刻みに震えた。

室内に満ちた共感の嵐に立ち向かうように、町長は心持ち両肩を上げ、大きく息を吸い込んでから、静かな声で答える。
「理事長さん、誤解してもらっては困る。コスモス事業団がどれほど金があろうが、高い理想を持とうが、鉱山の町には関係ないことだ。私は町の人口の四分の三もの高齢者を収容する老人ホームを、引き受ける気がないと言っているのだ。規模を三十分の一に縮小するのなら考え直す余地もある。それでも大きすぎるほどだ」
「百人を収容する規模に縮小しろだと。何を言うか。それでは意味がないのだ。町長は私の夢を信じていたのではないのか」
「私は人の夢を信じるほど愚かではない。私は政治家だ。特別養護老人ホームの建設はお断りする。強行するようなら私が先頭に立ち、町の総力を挙げて阻止する。ご療養中のところを邪魔をして申し訳なかった。失礼します」
町長は理事長に背を向けて歩き出し、ドアを開けた。

Mはじっと理事長の反応を待った。
「裏切り者、」
腹の底から振り絞る、悲痛な叫びが理事長の口を突き、町長の背を打った。
ドアのノブを握ったまま、町長が理事長を振り返る。
「理事長さん。何度も言うようだが、私は政治家だ。決して町民を裏切らない」
先に通路に出た町長が無言でMを促す。
ドアの前で振り返ったMの目に、理事長に近付いて行く飛鳥の姿が映った。飛鳥はMに視線を投げた後、冷たい声で理事長に進言する。
「もう、撤退の潮時です」
理事長の全身が痙攣し、口が大きく開いた。空気を求めて激しく咳き込みだす。ピアニストが素早くベッドの背を倒し、修太が口に酸素マスクを当てるのが見えた。
理事長の視線がMに返ってくることはなかった。

「Mさん、行きましょう。辛い役目を引き受けさせて済まなかった」
広々とした通路に差し込む正午の日射しが、やけにちっぽけに見える町長の全身を小悪魔のように浮き上がらせていた。


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