2.母子

Mと進太はアパートの南側にある鉄の階段を並んで降りた。Mはサマーウールのアイボリーのスーツを着ている。胸元からのぞくブルーのシャツが、厚く垂れ込めている雲に明るく映えた。二人は北側の市道に回る。アパートの部屋は二階にしかなく、一階は道路に面してガレージになっていた。人が階段を上り下りして暮らし、一階には自動車が収まる。車なしでは暮らしにくい地方都市らしいレイアウトだった。

一番端の駐車スペースに真っ赤なMG・Fが止まっている。祐子から無理やりプレゼントされた車だったが、年式が古くなった割に走行距離は短かった。コスモス事業団の理事長の遺産の中でも、しょせんMしか使わなかった車なのだ。ありがたく使うことにしていた。黒い幌を巻き上げ、MG・Fをオープンにしてエンジンをかける。バックで右に曲がって路上に出たところで助手席に座る進太を見た。不審そうな目をしている進太のアパートは逆方向だった。胸の中で大きく溜息をつく。再びガレージに鼻先を突っ込み、逆にバックする。会社と反対方向に向かうことがおっくうでならない。嫌な予感がまた心をよぎる。思い切りアクセルを踏み込むとエンジンが吼え、鋭い加速感に全身が震えた。やっと平静な気分に戻れそうなところで進太のアパートに着いてしまう。道路の右端に駐車して、仕方なく路上に降り立つ。すぐ目の前がコンクリート造りの平屋のアパートだった。道路に面した壁面にドアが五つ並んでいる。古ぼけているがMの部屋より間取りは広い。2LDKのゆったりした造りだ。

「ただいま」
進太がドアを開き、小さな声で呼び掛けた。先ほどまでの元気がどこへ行ってしまったかと、いぶかりたくなるような陰鬱な態度だ。玄関の奥から返ってくる声はない。開いたドアに手を掛けたまま、進太が首を回してMを見上げる。今にも泣き出しそうな怯えた目だ。消え入りそうな声でMに訴える。
「お願いM、一緒に入って」
そのまま回れ右をして帰りたい気持ちを押し殺して、Mは進太の開けたドアから玄関に入った。

「こんにちは。睦月、お邪魔するわね」
ことさら明るく声を掛けた。
玄関から延びた短い廊下を渡って奥のリビングに向かう。Mの後に続く進太は、他人の家に忍び込んだように足音を殺している。藍染めの大きな暖簾を開けてリビングに踏み込むと、西側にキッチンを配した十畳の部屋が一目で見て取れた。南向きの掃き出し窓を背にして、睦月が食卓の椅子に座っている。テーブルの上にはコンビニエンス・ストアーの弁当が二つ並んで置いてあった。眉を吊り上げた睦月の視線がMの身体を突き抜け、背後の進太を見据えている。険悪な雰囲気が部屋中に満ちた。

「進太。朝から無断で出歩いて、人の背に隠れて帰ってくるのか」
鋭い怒声が部屋に響いた。Mの背に張り付いた小さな身体が震える。
「ママ、遅くなってごめんなさい」
観念したように身体を固くした進太がMの前に回って、うつむいたまま小さな声で謝った。
「さあ、早く手を洗ってらっしゃい。ママと一緒にお昼にしよう」
進太の姿を見た睦月の顔が急にほころび、明るい声で言った。
上目遣いに、食卓に載った弁当を見た進太の表情が歪む。Mの目の下で小さな肩先が震えた。二つ並んだ弁当はスパゲッティ・ミートソースだった。
「一人暮らしのMの家にいたんじゃ、お腹が空いたでしょう。早く食べよう」
うつむいたまま立ちつくす進太を訝しそうに見つめ、再び睦月が優しい母を演じる。Mに縁のない家庭の雰囲気を誇っているのだ。

「ママ、僕、お腹が空いてない」
消え入りそうな声で進太が答えた。緊張して怒らせた両肩がブルブルと震えている。一緒に立ちつくすMも居たたまれなくなる。
「睦月ごめんなさい。私がお昼をつくって食べさせてしまったの。進太は満腹で、とても食べられないはずよ」
進太に代わって答えたMの顔を睦月は見ようとしない。優しさを装った顔が途端に険悪になった。
「進太、自分で答えなさい。ママは進太のために無理をしてお弁当を買いに行ったのよ。あなたの好きなスパゲッティを選んだわ。ママの気持ちがこもっているんだから、少しでも食べなさい」
無理強いされた進太の全身が硬直し、うつむけた首を横に振った。
「何を食べたのよ」
再び睦月の怒声が部屋に響いた。
「スパゲティ・ミートソース」
進太の掠れた声が終わらないうちに睦月が立ち上がった。食卓のスパゲッティのパックをやにわにつかみ、進太に向かって力いっぱい投げ付ける。透明のセロファンでラップされたスパゲッティのパックが進太の薄い胸にあたり、貧相な音を立てて床に落ちた。

「進太、そんな身勝手はないでしょう。ママの愛情をないがしろにするなんて許せないわ。懲りるまで罰します。こっちに来て裸になりなさい」
意外に冷静な睦月の低い声が響いた。固く唇を噛んだ進太の身体から急に緊張が解ける。罰が決まれば後は耐えるしかない。肉体を襲う痛苦を耐えることに慣れきった進太の態度がMには悲しい。母と子の異常に緊密な時間がMの目の前で始まるのだ。この場を引き上げるきっかけをMは必死で探すが、隙を見せる睦月ではない。うつむいたまま一歩前に進んだ進太の頬に、睦月が強烈な平手打ちを見舞う。頬で鳴るかん高い音と同時に、小さな進太の身体が一メートルほど飛んで床に倒れた。

「素っ裸になって正座するのよ」
左頬を真っ赤に腫らせ、唇の端から血を流した進太に睦月が冷たく命じた。進太は返事もしないで立ち上がり、白い半ズボンとパンツを一緒に脱ぎ、Tシャツを脱いだ。南向きの窓から差し込む梅雨空の薄暗い光が、素っ裸で床に正座した痩せた身体を陰惨に彩る。
睦月は進太の裸身を憎々しい目で見た。我が子ながら苛立たしさがつのってくる。特に、貧相な股間で自己主張をするようにぶら下がるペニスが憎らしくてならない。まだ勃起することもない、皮を被ったままの排泄の役にしか立たないペニスだが、やがてこのペニスが成長し、女を喜ばすかと思うと醜悪でしかない。なぜ二十八歳の私が、自分のためにならない醜悪な性の面倒を見続けなければならないのかと思ってしまう。自分の命を刻むようにして乳を与え、下の世話をし、しつけをしてきたのに、思うような応えが返ってきた試しはない。日毎夜毎、空しい苛立ちだけがつのっていく。私の可能性と希望はどこに行ったのかと思い悩み、ただひたすら進太を責める。悪い母だと思うが、道は閉ざされたままだ。進太ではなく修太に逢いたいと、睦月は今、心の中で叫んだ。大きく息を吸って睦月は小さな裸身から目を反らす。食卓の下に置いた箱からSM自縛ショーで使う乗馬鞭を取り出し、正座した進太の正面に座った。

「あやまれ」
低い声が響き、乗馬鞭が進太の太股を打つ。小さな膝を合わせて正座した太股には、昨夜鞭打たれたばかりの赤黒い痣が浮かんでいる。その痣の上にまた鞭が飛んだ。
「ヒィー、ごめんなさい」
哀れな悲鳴と謝罪の言葉が進太の口を突くが、睦月は容赦しない。何度も何度も乗馬鞭が幼い素肌を責める。鞭打たれる度に進太は小さな尻を窄め、腰を振って悶える。股間に見え隠れする小さなペニスが淫らに蠢く。やがて太股を襲う逃れがたい苦痛が、幼い股間に快楽の小さな火を灯す。進太は全身に脂汗を吹き出させ、腰を振り続けるうちにペニスの芯が熱くなってくるのを感じた。リビングの隅に立ちつくしたまま、陰惨な光景に釘付けにされたMの目にも、股間で膨らみ掛けたペニスが見えた。
「ママを馬鹿にするの」
一声大きく叫んだ睦月が鋭くペニスの先を打った。
「ムゥー」
切ない悲鳴を残して進太の身体が前に崩れる。
「ちゃんと正座しなさい。ママはまだ許していないわ」
睦月が残酷に告げる。もうMには耐えきれなかった。

「やめなさい睦月。お願い、許してやって」
Mの悲痛な声に睦月が振り返った。今日初めて、二人が視線を交わし合う。Mが大きくうなずいて口を開いた。
「進太に、お昼を食べさせたのは私よ。私にも責任がある。いくらあなたの家庭のしつけだと言っても居たたまれないわ。度を過ぎた虐待にしか見えない」
乗馬鞭を握ったまま睦月が腕組みをして、じっとMの顔を見上げた。
「M、余計なお世話よ。進太は修太と私の子供よ。あなたに修太を殺された私には進太を一人で育て上げる責任がある。子無し女のMには、その責任がないんだから気楽なものよ。それとも進太に代わってMが罰を受けるつもり」
意地悪く言った睦月が胸を張ってMを挑発した。とんだ矛先が向かってきたものだと思って、Mは内心辟易とする。睦月の苛立ちが哀れでならない。子供が子供を産んで育てているとしか言いようがなかった。だが、睦月は進太の母に違いないのだ。その進太を守る義務がMには確かにあると思い定めるしか、この場を納める道はなかった。

「いいわ、私が代わる。睦月、私を責めなさい。あなたの折檻はただの気晴らしで、しつけとは何の関係もない。いくらあなたの子供でも、進太を病的な世界に巻き込む権利はないわ」
「M、よく言ってくれたわね。私は好きこのんで進太を育てているわけじゃない。文句があれば修太を返せ。これまでも散々子育ての邪魔をして、進太を無責任に甘やかせてきたのはMだ。隠そうとしても私はみんな知っている。二度と子育ての邪魔ができないように、懲りるまでお前を折檻してやる。進太と同様素っ裸になれ」
憎々しく言い切った睦月の目の奥で、暗い炎が燃えている。満たされぬ性と、出口の見えない絶望感が、卑屈な炎になって燃え上がろうとしているのだ。Mの全身を深い悲しみが満たす。
「いいわ。好きなようにしてみるがいい。でも、私はこれから会社で仕事がある。午後5時まで待って。絶対戻って来るから、もう進太は許してやって」
しっかりした声で答えたMを遮り、睦月が憎々しい声で応じる。
「Mは狡い。本気じゃないんだ。いつでも私を軽んじている。仕事と子供とどっちが大事だ。Mが戻るまで進太は許さない」
睦月は右手の乗馬鞭を投げ捨て、食卓の下から青いロープを取り出す。SM自縛ショーで使う柔らかで弾力のある太めの縄だ。正座した進太の後ろに睦月が屈み込み、細い両手を裸の背中にねじ上げ、進太を厳しく縛り上げてしまった。

「Mが戻るまで、進太はこうして縛っておく。トイレも使わせない。みんなMのせいだ。子供がかわいそうなら早く戻ってくるんだね」
口元に薄笑いを浮かべ、Mを見上げて声を高めた睦月の顔は、とても母の顔には見えない。敵対者に哀れな人質を見せつける卑怯者と変わりがなかった。あ然としたMの口元に力無い苦笑が浮かぶ。
「睦月、正気とは思えないわ。進太はあなたの子よ。まるで敵の子供のように責め苛んでいるわ」
静かな声で抗議するが、睦月は動じようとしない。相変わらず薄笑いを浮かべ、進太の剥き出しの二の腕をつねった。
「ヒィー、M、お願い、早く帰ってきて」
進太の悲鳴と睦月の高笑いが重なり、十畳のリビングに陰惨な臭気が満ちる。
「きっとMは、急いで帰るでしょうよ」
悲惨な光景に背を向けたMに、睦月の声が追い打ちを掛けた。
Mは歯を食いしばって短い廊下を渡り、玄関に出る。これ以上、異常な母子に翻弄されてたまるものかと決心して靴を履く。足を通した黒いパンプスの隣に、汚れきって穴の開いた進太の運動靴が並んでいた。こわばったMの頬を涙が伝う。悲しすぎる母子が、Mを底なしの沼に引き込むのだ。


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