4.憎悪

睦月のアパートの前にMG・Fを駐車するのももどかしく、車を飛び降りたMは玄関ドアを激しくノックした。人通りのない日曜日の住宅街の垂れ込めた雲の下に、慌ただしいノックの音だけが空しく響き渡った。返ってこない答えにいらだち、力いっぱいノブを回すとあっけなくドアが開いた。拍子抜けした手元から耳に静寂が伝わってくる。静けさの中に遠く、陽気なリズムが忍び寄る。鼓と鉦が織りなす八木節音頭の調べだ。そういえば、八月一日から始まる八木節祭りに備え、各町会の子供たちが練習を始めてもよい時期だった。多分、小学校一年生になった進太も、町内会の子供八木節のチームに誘われているはずだった。
チャカポコ、チャカポコ、遠く近く八木節のリズムが聞こえてくる。蒸し暑さが全身を被い、首筋に汗が噴き出してきた。Mは軽く頭を振って狭い玄関に入りドアを閉めた。八木節のリズムが消え去り、真っ暗な闇の先に地獄の火のような明かりが見えた。誘蛾灯に誘われる羽虫のように、Mは暗い廊下を渡ってリビングに向かう。待ち受けている試練の見当はつく。前に踏み出す足が重く、ともすれば回れ右をして逃げ帰りたくなる。

「七分の遅刻だ。言い訳は聞かない。謝罪して罰を願え」
Mがリビングに踏み入ると同時に睦月の叱声が襲い掛かった。睦月は食卓の前に座り、灯したスタンドの明かりを浴びた横顔をひきつらせている。テーブルの下の暗がりに進太の白い裸身が見えた。進太は大きなプラスチックのたらいの中に正座させられている。午後別れたときと同様、後ろ手に縛られたままだ。二の腕から薄い胸へと緊縛した二本の縄目が哀れでならない。部屋に踏み入ったMを認め、進太がうなだれていた顔を上げた。長時間泣き疲れた汚れた顔だが、大きく見開いた二つの目が光っている。

「約束どおり帰って来たわ。さあ早く進太の縄を解いて、服を着せてやってちょうだい」
落ち着いたMの声がリビングに響いた。声に反応して進太の目の輝きが増す。素っ裸で後ろ手に縛られた、悄然とした姿に不似合いな目の輝きがMの気に掛かった。Mは進太の視線を捕らえて一心に見入った。少しも希望を失わず、かといってMに縋り付くでもない、冷静な理性の輝きさえ感じさせる視線だった。疲れ切ったMの心の奥に一瞬、熱い感動が走った。約束どおり帰ってきて良かったと実感する。睦月の理不尽な折檻が繰り返される度に傷つき、その傷を梃子にして少しずつ成長していった少年の矜持を見る思いがした。Mの足元から徐々に勇気が立ち上がってくる。眉を吊り上げている睦月の顔を見据え、Mは毅然とした声を出した。

「睦月、あなたの子供は成長したわ。進太にはもう焦燥も恐怖もない。私が帰ってきたことを、事実の一つだと認める分別がついているわ。さあ、無駄な折檻はこれまでにしなさい」
Mの冷静な声を聞いた睦月がとっさに息を飲んだ。微かな動揺が見て取れた。だが睦月は椅子を鳴らしてすぐ正面を向き、背を反らしてMを見上げた。口元に冷たい笑いが浮かんでいる。
「よく帰って来たと、ほめてもらいたいのか。威張ってないで、早く素っ裸になって遅刻を詫びろ。何度も同じことを言わせるな。私は暇じゃない」
睦月が繰り返す理不尽な要求を、Mは苦笑を浮かべて聞いた。
「遅れたことは詫びるけど、裸になる必要はないわ」
「いや、必要はある。進太の身代わりになって帰ってくるとMは言った。進太と同じ扱いを受けなければ身代わりじゃない。今度も私たち母子をだますのか」
子供と変わらない無理を睦月は言い募る。それが睦月のやり方だ。素っ裸で縛られた進太を前にして、睦月に試されているのだとMは思う。議論にならない時間が惜しい。行き着く道は一つしかないのだ。睦月の思うつぼだと奥歯をきつく噛みしめたが、すでに大きく首を縦に振ってしまっていた。

「いいわ。裸になって身代わりになる。好きにしたらいいわ。でも、睦月に割ける時間は一時間きりよ。いいわね」
きっぱりと言い切ったMが睦月を睨み、スーツとシャツを脱いで裸になった。スタンドの明かりが四十五歳の裸身を残酷に照らし出す。股間に燃え上がる黒々とした陰毛が屈辱に震える。思わずうなだれた視界のすみに進太の輝く目が映った。その瞬間、Mの裸身がピクッと震えた。進太にも試されていると改めて思い定める。Mは真っ直ぐ背筋を伸ばした。睦月の視線を正面から捕らえ直し、穏やかな声で訴えた。
「さあ、裸になったわ。進太を許してやって」
Mの言葉を無視して睦月が椅子から立ち上がった。頭一つ小さい睦月がMの正面に立つ。赤いトレーナーの下で盛り上がった乳房が大きく揺れた。

「ふん、まだだめだね。床に正座して遅刻を詫びるんだ。その後、罰を受けるのよ。進太の代わりにMを縛る。気が済むまで折檻してやるわ」
憎々しい声で命じた睦月の言葉に従い、Mは両膝を床に突いて正座した。力強く首を反らして睦月の顔を真っ直ぐ見上げる。すでに常識を逸した世界が始まっていた。荒れ狂う感情だけがMの肉体の上を通過していく世界だ。その感情は憎悪と呼ぶべきものに違いなかった。Mは一切を見続け、堪え忍ぶことに自らの矜持を賭けるしかない。Mは再び進太に視線を巡らせ、小さく輝く両目を捕らえてしっかりとうなずいて見せた。進太が小さくうなずき返す。Mは素っ裸で正座したまま床に両手を突き頭を下げた。

「そんな、お上品な詫び方では済まないわ。もっと尻を上げて、ひたいを床に着けるのよ」
睦月の高ぶった声がMの頭上から落ちてきた。微かに語尾が震えている。言葉に従うMの耳には喜びに震えているように聞こえた。浮かせた尻がこそばゆくて仕方がない。
「よし、そのまま膝を大きく開き、股間に両手を通すんだ。そうそう、右手で右足首、左手で左足首を握るようにするの。もっと尻を突き出し、ほっぺたで床を支えるのよ」
睦月の口から次々に指示が飛んだ。Mは後方に裸の尻を突き出し、膝の間に両手を入れて身体を丸くした。ぴったり床に着けた頬が痛く、呼吸が苦しい。

「大きな尻が桃のように見えるよ。その格好で桃縛りにしてやる」
背後から睦月の声が響き、尻の後ろに屈み込む気配がした。羞恥心が全身を襲い、思わず尻の穴をすぼめる。睦月の目の前で、尻の割れ目の中心に開いた赤い肛門が可愛らしくすぼんだ。睦月はフンッと鼻で笑い、素早くMの右手をつかむ。二つ折りにした縄で右手首と右足首を素早く縛り合わせた。冷たい縄の感触にぎょっとして、Mは自由になる左手を引っ込めようとした。だが、見苦しい振る舞いは睦月を喜ばせるだけだと思い直し、息を潜めて目をつむった。じっと次の戒めを待つ。睦月は手慣れた縄さばきで、またたく間にMの両手首と両足首を縛り合わせた。素っ裸で尻を突き出したMは、もはや床に這いつくばったまま身動きもできない。さすがに恥ずかしさで全身が赤く染まる。

「ハハハハ、M、いい眺めだよ。大きな尻の真ん中で臭い肛門が丸見えだ。股間に顔を出した性器まで見える。まったく恥ずかしいことこの上ない」
睦月の笑い声が部屋中に響いた。剥き出しの尻が肌寒いが、全身の皮膚から汗が噴き出す。肺に吸い込む空気がやけに暑い。Mは横顔を床に着けたまま目だけ動かして睦月の姿を追った。だが、背後にいる睦月の姿は視界に入らず、見上げた位置に進太の顔が見えた。心配そうに震える進太の視線に苦労して微笑み掛けた。恐怖にひきつった口元で、無理に微笑み返す進太の顔が大きく揺れた。途端に尻に激痛が走る。ピシッーという鞭音が部屋に響いた。

「ヒッー」
不意をつかれたMの口から悲鳴が漏れた。いつの間にかMと進太の間に立った睦月が、乗馬鞭を握ってMを見下ろしている。
「どこまで私たち母子を馬鹿にしたら気が済むんだ。そんな恥ずかしい格好で進太に色目を使うなんて許せない。私を軽蔑している証拠だ。謝れ」
声を震わせて睦月が叫ぶと同時に、二発目の鞭が尻を襲った。

「睦月の誤解よ。私は誰も軽蔑はしないし、馬鹿にしてもいない。悲惨な目に遭っている進太を励ましただけよ」
「クソッ、悲惨な目に遭っているのはお前だろうが」
睦月の一喝と共に連続して三発、激しい鞭が剥き出しの尻を見舞った。真っ白な尻に五条の鞭痕が赤黒く残った。身体の芯まで届きそうな痛みが、ゆっくりと素肌から筋肉へと染み込んでくる。Mの目尻から涙がこぼれた。
「私はいい。我慢できる。でも、早く進太の縄を解いて、許してやって」
「また、おためごかしを言う。進太は私の子だ。Mにとやかく言われる筋合いはない。それを、ままごと気取りで母親めかし、甘えさせて喜んでいるのが許せないんだ。何が社会人だ、警備会社の主任様だ。独り者の泥棒猫が子供をくすね、仕事の気休めに遊んでるだけじゃないか。何が生活費だ。何が小遣いだ。ピアニストの遺産を独り占めにしたMが、私たち母子に金を出すのは当たり前の話だ。私だって、好きこのんで貧乏してるんじゃない。懸命に働いている。人前に裸だって晒す。今のお前より、よっぽど恥ずかしい格好だってするんだ。その私の舞台を、Mは一度でも見に来たことがあるか。Mが言うように職業に貴賤の差別がないのなら、ましてや、私たち母子の世話を焼きたいのなら、見に来るのがあたりまえ。私を軽蔑し、馬鹿にして、陰で進太に川原乞食だと吹聴しているのが関の山だろうが」
一気に言い終わった睦月が、ことさら激しく鞭を振るった。無惨に突き出た尻で鞭音が響き、陰惨な鞭痕から細く血が滲んだ。Mの目から堰を切ったように涙が流れ出した。堪らない悲しみが波のように襲ってくる。睦月の断定が悲しいのではなく、ねじ曲がってしまった心根が悲しかった。睦月の足の間に見え隠れする進太の顔も悲しい。

「睦月の言い分も少しは分かる。確かに私はペイン・クリニックの睦月のショーを見に行っていないわ。その点は反省する。SMショーについて、私とチーフの意見が合わないのよ。それが足を遠ざけていた理由。睦月には関係ないの。今週の土曜日には、きっと舞台を見に行く。約束するわ。でも進太のことは、すべて睦月の誤解よ。あなたが折檻をやめれば、私は進太に会う必要もない。進太はあなたの子よ。なぜ、自分の子を死ぬほど辛い目に遭わすの。今日からは、いつでも私が身代わりになる。進太を折檻することだけは許さない」
静かに訴えるMの声を睦月が再び鞭で遮った。Mの口から悲鳴が上がる。
「ショーを見に来るのはMの勝手だ。だが、進太は私の子だ。他人のMに家族への干渉はさせない。お高く止まった今までの言い振りを、たっぷり母子で矯正してやる。おまえの望みどおり進太は許す」
言い捨てた睦月が後ろを向いて屈み込み、進太を後ろ手に縛った縄目を解いた。進太は長時間縛られ続けて痺れてしまった両手を前に回す。たらいに溜まった尿で汚れた足をタオルで緩慢に拭いた。やにわに睦月が進太の頬を打つ。

「進太、のろのろしてるんじゃない。玄関のドアに鍵をかけてくるのよ。さあ、早く」
「はい」
震える声で答えた進太が玄関に向かって駆け出して行く。ふらつく足が伝える振動が、床に着けたMの横顔に悲しく伝わってくる。
「さあ、Mも上を向いて、私たちに顔を見せるのよ」
冷酷な声で言った睦月がMの両肩に手を掛け、全身を拘束された裸身を仰向けにころがした。続けて辛らつな批評が睦月の口を突く。
「ほう、すごいね。今度は乳房と股間が剥き出しだ。黒い陰門がぱっくり口を開けているよ。偉そうなことを言う上の口とは正反対で、下の口は行儀が悪い。大好きな進太に手酷く罰してもらうといい」
玄関から戻ってきた進太は、睦月の後ろに恐る恐る立っている。
「ほら、進太。もっと前に出ないと仰向けになったMには、お前が見えないよ。ママの前に来なさい」
命じられた進太が、うなだれたまま大きく開かれた股間の前に立った。睦月があざけった、ぱっくり開いた陰門が進太の目に晒されていると思うとMの顔は羞恥で赤く染まる。意識に関係なく陰部の奥が熱くなり、しとどに濡れそぼってきてしまいそうだ。Mはかたく目をとじ合わせて残酷な時間に耐えようとした。しかし、火の点った官能は暗闇の中で大きく燃え上がる。
「嫌だね。Mはスケベの神髄だよ。若い私だって子供の前では遠慮がある。それが、この女は四十五歳にもなって、恥ずかしげも無く股間を濡らす。よっぽど淫らな生活を送っているに相違ない。ピアニストがかわいそうだ。二人で死ぬほど懲らしめてやる」
乗馬鞭の代わりに長くしなやかな革鞭を手にした睦月が、進太の横に並んでMを見下ろす。大きく右手を振りかぶり、素早く股間に鞭を振り下ろした。鞭先は臍から陰唇に向け、真っ直ぐ陰部を縦に貫く。
「キィー」
股間から髪の先まで走り抜けた激痛に、人の声とも思えぬ悲鳴がMの口からほとばしった。

「大げさなんだよ。それとも、喜びの声かい」
あざけった睦月が無造作にまた鞭を振り下ろす。今度は鋭い痛みが乳房の谷間を走り抜けた。拘束された裸身がおこりにかかったように震える。
「さあ、進太。ママと一緒に私たちの敵を懲らしめよう」
ネコナデ声で呼び掛けた睦月が進太の手に鞭を握らせ、その上に自分の両手を添える。
「ママが手伝うから、力いっぱい鞭を振るんだ。さあ、いくよ」
睦月の声と同時に貧相な鞭音がMの股間で鳴った。
「ダメッ、もっと力を入れて真剣に打つの。進太は強い子でしょう。ママは弱虫は嫌い。何のためにママが、いつもお前を折檻しているか分かる。進太に強くなってもらいたいからなの。さあ、ママにしっかり合わせるのよ」
進太を励ます声と共に、今度は鋭い鞭が股間を襲った。Mの口から悲鳴が上がる。
「よし、その調子、進太は偉い」
睦月の掛け声と共に、続けて三発の鞭がMの裸身を縦に走った。三度の悲鳴が響き渡り、進太のかん高い泣き声が続いた。

「ママ、Mを許して。僕がMの代わりになるから。ねえ、Mを許して」
進太が泣きながら大声で訴える。睦月が進太の頬を二度打った。床に倒れた進太がなおも大声で叫ぶ。
「Mを許して、ママ、僕が代わりになるから、Mを許して」
「進太。どこまでママを馬鹿にしたら気が済むのよ。お前なんて、いつでも足手まといなだけだ」
部屋を突き破るほどの大音声で睦月が叫び、大きく肩を震わせて泣きだす。右手に持った鞭を振りかぶり、鋭く進太の裸身に振り下ろした。進太の細い胴に鞭痕が走り、真っ赤な血が滲みだした。泣きながら睦月はMを振り返る。狙いも定めず股間を打った。睦月は何回も何回もMの裸身を打った。股間が、ウエストが、豊かな乳房が、その度に戦き、白い肌に醜い鞭痕が残った。絶え間ない激痛に見舞われ、逃げるように意識が遠のく。Mの股間を温かい失禁が濡らした。

突然、庭に面したガラス戸が開け放たれ、人影が躍り込んで来る。
「睦月、気が違ったか」
鋭い叫びが轟き、鞭を奪った極月が泣きじゃくる睦月の頬を打った。鋭い平手打ちの音が三回鳴った後、奇妙な静寂が戻った。
「M、帰りましょう。キチガイに殺されるわけにはいかないわ」
早口で言って極月がMの股間にひざまづく。裸身を無様に緊縛した両手足の縄を解き、Mを解放した。
「外は暗いから、Mは裸のままでいい。進太を抱いて助手席に乗りなさい。私がMG・Fを運転する」
極月の毅然とした声を聞いて、Mがのろのろと立ち上がる。全身が火で焼かれたように痛い。立ち上がって一歩を踏み出すと飛び上がるほど股間が痛んだ。なりふり構わず床に倒れ伏した進太に両手を伸ばすと、子猫のように腕の中に飛び込んできた。思わずMは、涙に濡れた進太の顔に頬刷りした。

「進太は行かせない。連れていくなら、この場で死ぬ」
キッチンの前でぼう然と立ち尽くしていた睦月が、流しにあった包丁を胸に当てて叫んだ。鋭い刃先で、スタンドの光が陰惨に反射している。極月は少しの動揺も見せずに、睦月の目をじっと見据える。睦月の目はおどおどとした小動物の目だった。
「死ねばいいわ」
吐き捨てるように言った極月がMを促して玄関に向かう。背後で睦月の号泣する声が聞こえた。
MG・Fのコンソールにある時計は午後六時二十分を指していた。素っ裸の進太を抱いて初めてMG・Fの助手席に座ったMは、痛む身体を忘れて溜息をついた。
「また遅刻ね」
今日三回目の遅刻だった。それも二十分の遅刻では極月に迎えに来られても文句は言えないと、Mは心の中で強がってみた。進太の身体をきつく抱き締めると、鋭い出足でMG・Fが発進した。極月は無言のままだ。辛いディナーになりそうだった。

極月がたててくれた風呂に水をいっぱい足し、温くなった湯にMと進太はゆっくり浸かった。それでも湯は、白い肌に走る無数の鞭痕に飛び上がるほどしみた。風呂上がりにMは、無惨に爛れた鞭痕に化膿止めの軟膏を塗った。乳房も股間もウエストも、目を被いたくなる惨状だった。目に見えない尻の鞭痕には極月と進太が喜々として指を走らせた。断りの声は決して聞き届けられなかった。二人に命じられるまま床に這って高く掲げた尻に、極月の冷たい声が落ちる。
「これだけ痛め付けられれば、Mも身にしみて分かったでしょう。睦月は異常者よ。今後は付き合うことはないわ。進太の処遇は私も考える」
反論しようとすると、極月が尻の傷を乱暴に擦る。Mは悲鳴を上げてうなずくしかなかった。

極月が丹誠込めて作ったローストビーフを三人で食卓を囲んで食べた。進太は何事もなかったように、はしゃぎながら平らげる。こんなおいしいものは食べたことがないと喜ぶ、最上級のほめ言葉に極月の口元も緩んだ。進太はだぶだぶなパジャマの上着を着ていたが、Mは素っ裸だった。十分反省するまで裸でいなさいと言って、極月が着衣を許さなかったのだ。もっとも全身の傷が痛んで、とても服が着られる状態ではない。明日の出勤が思いやられる。塗り薬の効くことだけを祈り続けて食事を終わった。進太と違って本格的なローストビーフを味わう余裕もなかった。極月の視線が怖い。

食事が終わってすぐ、疲れ切った進太はテレビの前で眠ってしまった。待っていたように極月が口を開く。
「鉱山の町の祖父母には私が電話をするわ。進太を引き取ってもらうの。M、文句は言わせないわよ。それが睦月のためでもあるの」
Mはうなだれたまま極月の言葉を聞いた。股間に走る無数の鞭痕が極月の言葉を肯定する。しかし、傷つかない陰門の奥で、しとどに濡れた官能の記憶がMの返事をためらわせた。長い沈黙が狭い部屋を支配する。さすがに耐えきれなくなった極月が身じろぎした。

「いいわね、同意してもらうわ」
「来週まで待って」
極月の催促に、やっとMが答えた。即座に極月の表情が曇る。
「何を根拠に待てと言うの」
「私は土曜日に睦月のショーを見るわ。睦月が全身を賭けて勤める舞台よ。これまで見に行かなかったことが悔やまれてならない。進太のことは睦月の舞台を見てから決めたいのよ」
「舞台と進太は関係がないわ」
「お願い。私に決めさせて欲しいの」
「M特有の論理ね。とても理解できるものではないけど、そんなMが私は好き。Mが決めるという以上、私がとやかく言う筋合いはない。でも、それまで進太はどうするの」
「彼が決めることよ」
「このまま帰したら、睦月が殺すかも知れないのに。無責任すぎない」
「それこそ睦月たち母子の問題でしょう」
「いつでも、どこでも、Mは強すぎると私は思う。私に言えることはそれだけよ。久しぶりで今日は楽しかった。お休みなさい」
意味深長な言葉を残し、極月は当たり前のように帰っていった。Mは強いのは極月のほうだと、喉元まで込み上げた言葉を呑み込んだ。強い女が私を好きだと言うはずがないと一瞬思い、強すぎる矜持をたちまち恥じた。

進太の寝顔は平然として安らかだった。深夜に目覚め、勝手に睦月の元に帰っていっても不思議がない意志の強さが伝わってくる。Mの心の奥に、深い悲しみと微かな寂しさが、遠く近く、波のように打ち寄せてきた。
陽気な八木節のリズムを聞きたいと唐突に思った。


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