5.ショー

土曜日の午後九時に、Mはサロン・ペインの自動ドアをくぐった。

程良く冷房の効いたフロアに客の姿はない。Mは店内を見回してから正面のカウンターに向かった。
「遅かったわね。ショーは今始まったところよ。すぐ案内するわ」
背後から声がかかり、カウンターの壁に張られた大鏡に、にこやかに笑うチーフの姿が映った。チーフはゆったりした黒いパンツに白のシルクシャツといった、お馴染みの服装をしている。細い首筋に巻いた緑のスカーフが鮮やかに見える。相変わらず短く切りつめた髪が、マニッシュでしなやかな姿態とよく似合っている。だが、何かしらふくよかな印象を与えるのは、十五年以上も店を続けてきた貫禄と言うより、三十八歳という年齢のせいに思われた。長すぎる時間が目まぐるしくMの脳裏を去来する。Mはチーフに背を向けたままスツールに座り、鏡の中を近寄ってくるチーフを待った。

「こんばんわ、チーフ。睦月のショーは十一時まででしょう。まず、マティニを飲ませてもらうわ」
背後に立ったチーフの顔を見上げてMが言った。
「まあ、夜の時間は長いわ。それに、しらふで鑑賞するほどのショーでもないか」
両手をMの肩に置いたチーフがMの目をのぞき込んで答えた。
「チーフ、誤解しないでね。私は睦月のショーを軽んじているのではないわ。でも、どうしてクラブ・ペインクリニックを再興し、SMショーを再開したのか聴かせて欲しいの」
鏡に映ったチーフの視線が落ち、肩に乗った手が優しく動いた。手は肩から二の腕を往復し、Mの首筋で止まる。大きく開いたVネックのサマー・セーターの襟へチーフの手が忍び込む。細いしなやかな手が豊かな乳房を包み込んだ。冷たい手の感触がMの素肌を這う。パープルのシルクニットで被った胸が鏡の中で怪しくうごめいている。
「時とともに、性への期待と関心が高まってきたの。理由はそれだけ」
Mの耳に唇を寄せてつぶやいたチーフが素早く乳首を摘んだ。絶妙のタイミングと力の入れ方だ。下半身に熱が込み上げ、Mの頬がうっすらと赤く染まった。

「すぐ、ドライ・マティニをつくるわ」
鏡の中で片目をつむったチーフが言い残し、素早く身を翻していく。上手に翻弄されたMだけがスツールに残った。カウンターの中に入り、てきぱきとグラスを出しシェーカーを用意するチーフの動作を目で追いながら、Mはチーフの言葉を反芻した。確かに、手持ち無沙汰の夜などに、独り身の性を焼く衝動を感じることはある。思えば、その衝動を正直に受容し、官能へ導いていくのがMのスタイルだった。いつの間にか歳を重ね、仕事を持ち、社会的に積み重ねていった暮らしがMの前に立ちはだかっている。抑圧という文字が目の前に浮かんだ。自らの意志で官能を追い求めてきた自分が、今や性の衝動を意志して抑圧するのか。消えずに残る下半身の微かな疼きがMを笑う。性への期待と関心は消え失せたのではない。チーフの言うように、時と共に高まってきたのが事実に相違なかった。Mのスタイルの方が変化してしまったのかも知れない。急に寒気が全身を襲い、Mは一瞬全身を震わせた。

「今夜は天田が進太を温水プールに連れていったの。金曜日と土曜日はショーのことで睦月は頭がいっぱいなのよ。進太が邪魔をすると鬼のように折檻をするわ。私たち夫婦も気を使ってるのよ」
シェーカーを振る前に、チーフが問わず語りに進太の行く先を話した。Mの頭の中では、温水プールで戯れる少年と中年男はイメージできない。チーフの話を無視するようにMは言葉を投げた。

「睦月はSMショーが本当に好きなの。性を演じるというのは官能を抑圧することでしょう」
チーフの答えは返らず、シェーカーで鳴る氷の音がリズミカルに響いた。目の前の美しいカクテルグラスに薄い黄金色の酒が注がれ、オリーブが添えられる。
「Mはおかしなことを聞くわ。私が答えれば釈迦に説法になってしまうでしょう。でも、ずっと前に話したとおり、私の三年間の経験では、SMショーで官能が燃え上がったのは心中を誘われた最後の舞台だけよ。私は無知で野心もなかったから、性を演じることはただのビジネスでしかなかった。でも、頭のいい睦月は違う。自分の肉体で官能そのものを表現するんだって言っているわ。客に見られることで燃え上がり、官能に昇華していく性を体現するんですって。難解すぎて理解できない。私の解釈では、公私混同したビジネスをしたいだけのような気がするわ」

難しい表情で苦しそうに説明したチーフに微笑み掛けて、Mはマティニを一口啜った。ジンの香りが顔の前に立ち上り、陶然とした気分になる。
「おいしい」
一言つぶやくと、チーフの表情が和んだ。
「チーフも睦月も家族があるからね。わたしの思う官能と、あなた方の言う官能は違ったものかも知れない」
「M、残酷なことを言わないでよ。私はMと一緒よ。大きな声では言えないけれど、亭主の天田より、Mが好き」

Mの思い付きに鋭くチーフが反応した。たちまち笑いが込み上げ、しばしの間Mは酒に咽せた。
「笑わないでよ。私の言ったことは真実。いつだって祐子に聞かせてやるわ。そうそう、今夜は祐子も二階に来てるのよ」
「えっ、どうして。チーフが誘ったの」
痴話話の最後に、思わぬ事実を聞いたMが鋭い声で問い返した。
「嫌だな。祐子と聞くと、Mはすぐ真剣になる。私の嫉妬が面白いの」
「違うわよ。テキスタイル・デザイナーの祐子が、自発的にSMショーに来るとは思えなかったの。だって、ショーの衣装は縄だけでしょう」
「ハハハハ、Mは面白いことを言うね。少し差別発言だけど許せるわ」
チーフの言葉でMの頬が赤く染まる。意識しているわけではないが、どうしてもSMショーに偏見を持ってしまうらしい。苦笑してチーフの目を見つめ、答えを促す。

「今度、祐子は有名なデザイナーに素材を提供するのよ。そのデザイナーが祐子の生地で国際演劇祭で使う舞台衣装をデザインするの。今夜は、その演劇の演出家が二人を誘って、地方都市の前衛ショーを見に来たってわけ。来月早々、祐子のマンションの前の煉瓦蔵で芝居の稽古が始まるって聞いたわ」
「そう、沢田さんが連れてきたの」
歯切れの悪いバスで、自分の思惑ばかり口にしていた長身の男がMの脳裏に浮かんだ。まさか、沢田の前衛劇の衣装に祐子の織物が使われるとは思いも寄らなかった。とにかく、国際演劇祭のグランプリを目指す演劇衣装の素材に選ばれたのだ。祐子にとっては名誉なことには違いなかった。
「すごいわ。Mは演出家と知り合いなのね。ちょっと渋くて、いい男に見えたわ。Mの好みなんじゃない」
「何言ってるのよ。沢田さんとは仕事で一か月付き合うだけよ。それより、有名なデザイナーは誰なの」
「大久保玲。若いけれど新進気鋭のデザイナーなんですって。評判になったパリ・コレクションの記事が写真入りで週刊誌に出ていたわ。有名人に囲まれて、今夜の睦月は燃えているわよ。Mも早く行ってやりなさいよ」
浮き立つ気分で話すチーフに引き替え、Mの気持ちは急速に冷え込んでいく。不吉な予感が忍び込み、身体を這い上がっていく気配がする。このまま帰ったほうがよいと、久しぶりに脳裏に現れたピアニストが告げていった。

「ショーではなく、ピアノを聴きたい気分だわ。チーフ、もう一杯マティニをちょうだい」
鏡の隅にピアニスト愛用のグランドピアノが映っている。Mが最後にここで聴いた曲はショパンでなく「エリーゼのために」だった。それも、ピアニストが祐子のために弾いたのだ。しかしもう、ピアノを弾く人はない。グラスに残っていた温いマティニを啜るとなぜか、涙の味がした。Mの瞼が涙で膨らむ。突然、フロアにピアノの音が鳴り響いた。それもショパンの調べだ。軽々と着実に「スケルツォ・第二番・変ロ短調」のパッセージをクリアしていく。Mの全身が戦慄し急速に弛緩した。チーフが目の前に新しいマティニを置く。
「チーフ、意地悪が過ぎるわよ。私に内緒で自動演奏装置を付けたのね。もう、ピアノは引き取らせてもらうわ」
「またすぐ怒る。ピアノが聴きたいって言ったのはMよ。いつまでも思い出にひたっていてはだめ。そんな様子ではピアノは渡せないわ。とにかく睦月の舞台を見てやってよ。私もずいぶんアドバイスしたショーなんだから、逡巡するのはMらしくないわ」
確かにチーフの言うとおりだった。Mはマティニを一息に飲み干して立ち上がった。

「ショーの料金はいくら」
「ドリンク込みで一万円ぽっきりよ」
「睦月の取り分はどのくらいなの」
「客がどんなに飲んでもフィフテーよ。五千円」
Mは大きくうなずいて、カルチェのセカンドバックから三万円を取り出す。
「今から三人分の客が入るわ。睦月には内緒よ」
「そうはいかない。ゲストのMは当然無料よ」
「いいえ、料金は払うわ。私と、ピアニストと、修太の三人分よ。初めて見に来たのだから、私の好きなようにさせてちょうだい」
「分かったわ。この三万円は睦月に渡す。でも、決して睦月のためにはならないと思うわ。案内は要らないわね」
Mは黙ってうなずき、チーフに背を向けてフロアの奥のクラブ・ペインクリニックに続く扉に向かった。少し酔った頭の隅に、怒ったようなチーフの表情が残り、気に掛かった。しかし、軽く頭を振って重いウオール・ナットの扉を力いっぱい開けた。


畳二十畳ほどの二階のスペースには、かつてのクラブ・ペインクリニックがすっかり再現されていた。赤と黒で構成されたインテリアの中で、向かい合った壁に張られた大鏡がひときわ目を引く。フロアの中心には高さ五十センチメートルの黒く塗った円形の舞台がある。舞台の上にはシングルの分厚いマットレスが敷かれているだけで誰もいない。照明を落としたマットレスの上に散らばる無数の縄や鞭、革製の拘束具だけが、ついさっきまで繰り広げられていたに違いない、淫らな舞台を物語っていた。Mは丁度、幕間に入場したようだ。

薄暗いフロアーの椅子に掛けた観客の何人かが、振り返ってMを見た。暗さに目の慣れないMには表情までは分からなかったが、曖昧にうなずき返す。ひそひそと交わされる会話だけが雑然と耳に響いた。Mは入口から横手に続くカウンターの前のスツールに座り、フロアー全体を見回す。舞台を取り囲むように巡らした椅子とテーブルは二十脚ほどで、その半数が客で埋まっていた。暗さに目が慣れると、客が二つのグループになっているのが分かった。舞台の左手に五人の客が固まり、右手に二人の客がいた。それぞれ勝手に会話を続けている。五人のグループは一人を除いてMの顔見知りだった。その中の極月がまた振り返り、Mを手招きした。祐子の恥ずかしそうな笑顔も見えた。祐子の隣りには見知らぬ若い男が座り、沢田と煉瓦蔵の支配人が前の椅子に座っている。若い男がデザイナーの大久保玲に違いなかったが、すぐ前を向いてしまった。極月にまた曖昧にうなずくと同時に、Mは込み上げてくる疲労を感じた。睦月の前衛ショーを見ると言うより、日常の暮らしが待ち構えていたような気分になる。少しうんざりしてフロアーに背を向け、カウンターに肘をつこうとした。

「やっと見に来たのね」
突然カウンターの中から呼び掛けられ、Mはぎょっとして腰を浮かせた。中をのぞき込むと、幅一メートルほどの空間に座り込んだ睦月が片手で缶ビールを突き出してきた。睦月は素っ裸だ。
「舞台裏をのぞかれては困る。Mも早く席に着いてよ。すぐ二幕目を始める」
睦月の言うようにクラブ・ペインクリニックには控室も楽屋もない。カウンターの中を使うしか方法はないのだ。狭い空間に座り込んだ裸身が哀れに見えてしまう。意に反しても席に着く以外に行く場がなかった。Mは睦月に手渡された缶ビールを持って二つのグループの間の後方の席に座った。少なくとも、Mのほかに七人の客が入っている。今晩の睦月の稼ぎは六万五千円になるはずだ。割の悪い仕事ではないと思い直し、Mはショーの再開を待った。

五百ミリリットルの缶ビールのプルトップを開き、一口飲むと異様な音響が流れてきた。音楽かと思われた音響が、木魚と鉦をバックに斉唱されたお経だと理解できたとき、目の前の舞台が明るく照らし出された。舞台右手の暗がりから回り込んだ睦月が正面を向いて舞台に上がる。
三年振りに見る睦月の裸身は若々しくて、輝くように美しかった。二十代後半の女性だけがかいま見せる一世一代の艶姿だ。背は小さいが完璧なプロポーションと肉好きの良さが妖艶な美を演出している。身にまとう衣装は黒い麻縄だけだ。細いウエストを二巻きした縄が臍の下で股間に延び、痛々しく陰部を割って食い込んでいる。薄い陰毛を透かして、二条の縄に挟み込まれた性器が見えた。バックに流れるお経に合わせ、睦月が悩ましく腰を動かす。黒い縄目が目の前できしみ、性器が戦き、陰毛が揺れた。薄く目を閉じた端正な顔が苦痛と官能の入り交じった表情に変わる。ウッと小さい喘ぎが口を突いた瞬間、睦月が観客に背を向けた。途端に客席から下品な笑いが漏れる。

「ムツキちゃん。こっちに来てヨーク見せて」
Mの右前に座った二人連れが、感極まった声を投げた。
二条の縄が尻の割れ目を走る、Tバックのようなスタイルを想像していたMは、しばしぼう然とし、あきれ返ってしまった。後ろを向いて直立した睦月の尻の割れ目には小さな菱形の縄目が開き、その中心に赤黒い肛門が露出しているのだ。普通に立てば尻に隠れる肛門を、無理に晒してしまう緊縛術が睦月のアイデアといえた。それは悲惨なほどユーモラスで淫らな眺めだった。Mの喉元に酸っぱいジンの味が込み上げてきた。見るに耐えなかった。

席を立とうとした瞬間、舞台の上の睦月が動いた。照明の加減で、滑らかな右肩に残る星形の弾痕が醜い影を見せた。完璧な肌に残る唯一の瑕疵だ。その醜い傷の責任の一端がMにはあると、見るに耐えかねた睦月の姿態が問い詰めてくる。ウッと喉元に上がってきたものを必死で耐えると、舞台を降り掛けた睦月の目が予期していたようにMを見た。右手に小さな竹籠を持った睦月は腰をくねらせながら近寄ってくる。Mの前まで来ると、顔をのぞき込んでじっと睨み付けた。大きく見開かれた闇の中で、燃え上がる憎悪がMの全身を射すくめる。

「肩の傷を見つめていたね。Mが修太を殺した恨みの傷だ」
他の客には聞こえぬ声で低く呼び掛けた顔が、妖艶に笑っている。

「ショーは面白いでしょう」
大きな声で甘えるように言い、睦月が尻を見せた。無惨に露出された肛門が淫らにうごめきMを笑う。
「イズミヤさんも、シマダヤさんも、おまちどうさま。さあ、ヨーク見て、よかったらこれをしてね」
Mの席を離れ、二人連れの客のテーブルに移っていった睦月が、尻を振りながら嬌声を上げた。
「もちろんしてやるよ。ムツキちゃんのお尻は色っぽいよ。はいこれでね」
客の一人がテーブルに置かれた竹籠から五本の洗濯ばさみを取り、代わりに五千円札を入れた。
「シーテ、シーテ」
舌足らずのネコナデ声で甘えながら、中腰になった睦月が腰をくねらす。二人の中年男も椅子から立ち上がり、睦月の乳房の皮膚を摘んでは洗濯ばさみで挟む。その度に睦月の顔が苦痛で歪み、淫らな呻きを漏らす。洗濯ばさみに吊り下げられた小さな鈴が、裸身のうごめきに連れて怪しく鳴り響く。ふっくらした乳房に五本の洗濯ばさみを吊した睦月が立ち去ろうとすると、二人の中年男が尻の後ろにひざまづいた。睦月が悩ましそうに尻を突き出す。中年男は交替で白い尻を抱え、縄目の間から露出した肛門を舐めた。睦月の口からまた嬌声が漏れる。

「大久保さん、これはアブストラクトですよ。いい女優です。使えますよ。ほんと、そう思いません」
左手から聞き慣れた歯切れの悪いバスが聞こえてきた。早口の興奮した声だ。演出家の沢田に違いないとMは思った。
「そうですかね」
幾分かん高い、聞き慣れぬ声がぶっきらぼうに答えた。
「まあ、SMショーでは衣装の出番はないからね。大久保さんが冷たいのは分かる。でも、祐子さんは違うでしょう。無粋な麻縄の代わりに、祐子さんが開発したステンレス・ファイバーの糸で撚った縄が使えますよ。ね、そうでしょう」
「ステンレス・ファイバー繊維は私が開発したものではありません。私は糸を織り上げるのが仕事です」
沢田のとんまな問いに、デザイナーの大久保も祐子もにべなく答える。聞いていたMは初めて痛快な気持ちになった。

「シーテ、シーテ」
また、睦月の嬌声が上がった。舞台左手に回った睦月が、興奮している沢田に狙いを付けたようだ。先ほど右手で繰り返された光景が沢田の手で再現される。しかし、さすがに沢田は睦月の尻は舐めなかった。洗濯ばさみとワンセットで五千円だとすると、沢田は二千五百円の損だ。馬鹿な話だと思い、Mは席を立った。

入口に向かって三歩歩いたとき、素早く追ってきた極月と祐子がMを挟んで並んだ。
「M、これで決心できたでしょう。修太の両親に電話するわ」
極月が平静な声で事務的に告げた。Mが小さくうなずく。
「電話はいいわ。私がする」
Mの答えに極月は反応を見せず、黙って席に帰っていった。残されたMと祐子は立ち止まって向き合う。離れた舞台のほうから、相変わらず鈴の音色と睦月の嬌声が聞こえてくる。
「祐子の生地が採用になったんだって、おめでとう。国際演劇祭の応募作品の衣装だもの、世界に発信する日が来たのね」
Mの賛辞に祐子は答えようともしない。暗く沈んだ目でMを見つめた。
「睦月から進太を引き離すつもりなの」
唐突に祐子が言った。祐子に相談したこともない話を持ち出されてMは戸惑う。
「睦月は進太の母親よ。睦月が何をしたって言うの。性を商品にした芝居を見せてお金を取るのが、そんなに悪いことなの。性に嫌悪感を持つなと教えてくれたのはMよ。寄り添って生きることの大切さも教えられた。なのにMは、実の母子を引き離そうとするの。家族って、簡単に引き離せるものじゃないと私は思う」
軽いめまいがMを襲った。確かに醜悪なショーは嫌いだし、売られる性を見るのも嫌だった。しかし、何にも増して、ズカズカとどこにでも踏み込んでくる祐子の態度が不快だった。
「ねえ、祐子。あなたが言っている意味が分からないけど、ここで議論をするつもりはないわ。大事なのは、このままでは進太が睦月に殺されるかも知れないっていうことだけ」
「Mが心配することではないと思う」
「どうして」
「母が子を殺すことは誰でも止めるべきよ。でも、殺すかも知れない母を子から引き離す権利が誰にあるというのかしら」
Mの顔が苦悩でゆがむ。進太のあどけない顔が脳裏に浮かび、ピアニストの悲痛な顔が瞼を掠めた。喉元まで込み上げてきた叫びを必死で押さえる。
「私が家族を持ったことがないから、何も分からないと祐子は言いたいのね」
「ちがうわ」
祐子の悲鳴がフロア全体に響いた。
「Mは何よりも大切な私の家族よ」
すがるように言った祐子は、そのまま床に泣き崩れてしまう。Mは黙って見下ろしていた。勝手に造り上げた理想はもろい。いつでも簡単に崩れ落ちてしまいMを頼るのだ。祐子のむせび泣く嗚咽が長く低くフロアに流れていく。Mは顔を上げ、背筋を伸ばしてドアに向かった。

「M、帰ろうたって、そうはさせないよ」
祐子の泣き声をかき消すように、舞台の上から睦月の怒声が飛んだ。
「私が客に見せていることはすべて、Mがこれまでしてきたことだ。しっかり見て、批評をしてくれなくては私の立場がない。それとも、素っ裸になって舞台に上がり、私と競演するかい。私は望むところだ。散々見せ付けてきた恥ずかしい姿を今さら隠そうたって無駄なことだ。さあ席に戻って、お前のやってきたことを最後まで見ろ」
怒り狂う睦月の声を背中で聞き、Mは階下に続くドアを開けた。無性に流れ落ちる涙で階段も見えない。熱い悲しみだけが全身を浸していた。

「卑怯者」
一際大きく叫ぶ睦月の声が響き渡り、背後でドアが閉まった。


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