6.八木節

煉瓦蔵の裏口に回る横町をトラックが曲がった。急に道幅が狭くなり、左右に立ち並ぶ塗りの剥げた土壁が息苦しさを増幅する。建物の短い影が、かろうじて助手席に射し込む日を遮ってくれた。Mは待っていたとばかり車窓を開け放ち、冷房の効きの悪い車内に外気を入れる。だが、飛び込んできたのは肌に粘り着く熱風だった。蒸し暑さが全身を被い一気に汗が噴き出してきた。

「参ったわね。たとえリサイクル・ショップでも、運搬用のトラックぐらい新しいのにしてよ」
うんざりしたMの声が狭い車内に響いた。
「そう言わないで下さいよ。僕は毎日これに乗ってるんですから」
運転している汗みずくの男が、これもうんざりした声で応じた。途端にトラックの前輪が煉瓦蔵の裏庭に続く門扉のレールに乗り上げ、大きく車体が揺れてエンジンが止まった。後ろの荷台で大きな金属音が響く。

「あああ、全部倒れちゃった。アルバイトに積ませるとすぐこれだ」
リサイクル・ショップの店長が運転席から身を乗り出し、荷台を振り返って情けない声を出した。スタンドを立てて整然と積んであった十台の自転車が荷台の上で将棋倒しになっている。すべての自転車がきれいに整備してあったが、どことなく全体にみすぼらしく見える。一台五千円のリサイクル品を三千円に値切って買ったものだから仕方ない。それも、一か月後に返品すれば、一台千円で引き取ることを条件に付けてある。リース会社で借りるより、よっぽど割得だった。Mの口元に微笑が浮かぶ。とにかく裏庭は、コンクリートの照り返しで焼け付くように暑い。

「このままでいいから、煉瓦蔵の向かいの管理事務所に行ってちょうだい」
Mの指示どおりトラックは裏庭を突っ切り、建坪二百坪の細長い煉瓦蔵の横にある広場に向かう。寄せ棟造りの管理事務所兼休憩室は煉瓦蔵側面の大きく開け放れた扉の向かいにあった。広場の中央には樹齢百五十年といわれる高さ十メートルもある巨大なクスノキが枝葉を広げ、涼しい木陰をつくっている。管理事務所の出入口は木造に似せて作ったアルミサッシだ。幕末から昭和二十年の終戦までの間、日本の近代化に貢献した建造物として、近代化遺産に指定された煉瓦蔵には似合わない。しかし、盛夏の暑熱と厳冬の寒冷に耐えられなくなった現代人にはうれしい建具だ。都市ガスを使ったエア・コンデショナーの効率もいい。素通しのガラス越に、涼しそうな顔で白い応接セットに座った沢田と、煉瓦蔵支配人の姿が見えた。
荷台の自転車を管理事務所の横に降ろすように店長に頼んでから、Mはトラックを降り、アルミサッシの引き戸を大きく開けた。汗の浮いた頬に、よく冷えた部屋の空気が心地よい。

「ご注文どおり、自転車を運んできました。新品ではないけれど、かえって気兼ねなく使えます」
二人に声を掛けると、素早く支配人が立ち上がる。
「暑いのにご苦労さまでした。まあ、座って下さい」
Mは言われるままソファーに座り、正面の沢田の顔を見た。沢田は一瞬、何事が起こったのかという怪訝な表情をしたが、すぐMの目を見つめて頬を緩めた。
「ああ、自転車ね。助かります。参ってたんですよ。地方都市では自転車が足なんだね。これで役者たちも好きなところに自由に行けます」
「済みませんでした。当然、私のほうで気付くべきでした。地方都市の住人は車に頼った生活がすっかり身に着いてしまって、近所を出歩くこともなくなっていたようです」
Mは沢田の言葉にうなづき、軽く頭を下げて詫びた。確かに、劇団員の毎日の暮らしの足を確保することも、合宿稽古のコーディネイトを請け負ったMの仕事だった。車を持たない暮らしに、思いが及ばなかったことが恥ずかしかった。
「Mさん、この街は車で通り過ぎるのはもったいないよ。商店街で買い物したり、銭湯に行ったりして、暮らしを楽しむようにできてるんだ。地元の人が街の価値を知らないなんて、本当にもったいない」
言い募る沢田の言葉にMは一言も無い。つい三年前、遊郭跡の富士見荘に住み、車を運転しない生活を体験したことが懐かしく思い出された。

「まあ、ミスと言うほどのことはない。Mさんはよくしてくれている。十二人に増えてしまった劇団員の宿舎の手配や家具の運搬、調理器具の準備まで、よく目が行き届いていますよ。お陰で快適な気分で稽古に専念できます。まさか、自転車が必需品だったなんて、私も二日暮らすまで気付きもしなかったよ」
もう一度頭を下げたMに、沢田はよく通る美しいバスで言葉を続けた。だが今日も、せっかくのバスが台無しになるほど早口で歯切れが悪い。Mは尻のあたりが妙にむず痒くなってきてしまう。この街に根ざしていない暮らしを指摘されたようで居心地も悪い。まだ汗は引ききっていないが、忙しい素振りを見せて席を立った。

「他に必要なものがあったら、いつでも言って下さい。何でもご用意します」
「Mさん。せっかくだから冷たいものを飲んでいって下さいよ」
市立図書館長を昨年退職して煉瓦蔵に再就職した支配人が、麦茶の入ったグラスを差し出す。思わずMの渇いた喉が鳴った。
「そうだ。せっかくだからMさんにも芝居の見直し案を聞いてもらおう。さっき支配人に資料を見せられて、僕は脚本を直そうと思うんだ」
また自動的に早口のバスが繰り出された。深々と椅子に座ったまま、沢田がMの顔を見上げた。このまま帰るか、座り直すかを決め兼ねているMに構わず、沢田が話を続ける。仕方なくMはまたソファーに腰を下ろした。

「今度の芝居の主調音は八木節です。題名もヤギブシと付けたくらいだ。この市でも来月早々八木節祭りが行われる。この土地には八木節がよく似合うんです。だから、ここで合宿稽古をすることにしたんだ。Mさんもご承知のとおり、八木節は新保広大寺節から派生した口説き節と言われている。越後の農民たちの戯れ唄を、瞽女や物売り、門付け芸人たちが各地に伝えたものだ。八木節もその一つで、越後と江戸を結ぶ三国街道から例幣使街道に伝わり、下野八木宿でアレンジされたものらしい。僕が調べた限りでは、その八木宿の女郎が唄っていた節を、街道を往来する美声の馬子が広めたとされている。僕の芝居はそこからヒントを得た。ストーリーは簡単なものだ。宿場女郎が若旦那に身請けされる寸前に、唄のうまい馬子がその女郎をさらって逃げるというものだ。ダスティン・ホフマンが主演した卒業という映画みたいなものだ。だが僕の芝居では、舞台を二つ作る。まったく同じ芝居が、違う配役で、一定の時間差を持って二つの舞台で進行するんだ。客は席に着くことなく、二つの舞台を巡りながら一つの芝居を見る。役者も双方の舞台を自由に行き来して演じる。二つの芝居の絶妙な時間のずれが、新たな時間の流れと空間を創造するんだ。ねえM、面白いだろう。でも、支配人から八木節の由来を見せられて、ただの女郎がヒロインでは物足りなくなってしまったんだ。何よりも衝撃力がない。せっかく凝縮した時間が拡散してしまうよ。そこで僕は、縛られ女郎を創作しようと思う。SMショーの睦月ちゃんに、ぜひ芝居に出てもらいたいんだ。どう思う」
長い話の最後に睦月の名が出て、どう思うかと尋ねられたMのほうが面食らってしまった。八木節の講義の後に難しい演劇論、挙げ句の果てに睦月を芝居に出演させたいと言う。面食らわないほうがおかしい。手に持ったままの麦茶のグラスに口を付け、一口飲んだ。まだ十分冷えていて最高においしかった。長い時間がたったわけではなかったのだ。

「Mさん、自転車は降ろしました。もう、帰っていいですか」
突然戸が開き、外の熱気と共にリサイクル・ショップの店長が顔をのぞかせた。絶妙のタイミングにMは喜び、ソファーから立ち上がろうとしたが、支配人に先を越されてしまった。
「ご苦労さん、帰ってください。ほら、これが沢田さんにお見せした八木節発祥の口説き節ですよ」
支配人はMの横に腰を下ろしながら紙切れを差し出した。店長が黙って頭を下げ、戸を閉めて出ていく。Mこそ、芝居小屋に監禁されたヒロインのようだ。仕方なく目の前の紙片の文字を目で追う。題辞には「八木節由来くどき」と書いてあった。

一、ころは幕末安政時代
越後在なる農家の茂作
続く不作に涙をのんで
一人娘のお雪を身売り
お雪流れて八木宿郭
つらい務めに故郷が恋し
赤城曇ればまぶたに浮かぶ

二、雪の越後のあの空模様
今日も荒ぶるお雪の心
茶碗片手に冷酒あふり
昔恋しい越後の「くどき」
今日も唄うよ郭の窓で
暗い苦しい郭の暮らし
越後恋しやかかさん恋し

三、心まぎらすあの「くどき節」
節もおかしく唄ってあれば
街道筋なる八木宿中に
宿場宿場に広がりまして
いつか明るい盆唄音頭
土に根をはる暮らしの歌で
老いも若きも手に手を取りて

端正な万年筆書きの歌詞は五番まで書かれていた。Mが三番まで読み進んだとき、Mがあらわれるまでの続きのように支配人が沢田に話し掛けた。

「この由来のとおり、沢田さんの芝居は史実にものっとってますよ。お雪という女郎も、いわゆる飯盛り女郎だったに違いない。しかしですよ、沢田さん。縛られ女郎というのは初耳です。私には突拍子もないとしか言えません。それに、あの睦月さんという人は素人じゃないですか。いやいや、それより何よりヒロインが縛られ女郎では、八木節の情緒が損なわれてしまいますよ。もう一度考え直してくれませんか」
昨年まで図書館長をしていた支配人は、まるで故郷の歴史が汚されてしまうといった表情をしている。
「いや、違いますよ。由来くどきを支配人に見せてもらったお陰で、想像していた以上に時間の凝縮が必要だと理解できたのです。郭で泣き暮らす悲運の女郎が、若くて力強い馬子に、自由の世界に連れ出されるだけではいかにも冗漫です。由来にあるとおり、いつか明るい盆歌音頭になってしまった八木節が、芝居のバックに流れ続けるのですよ。長い時間の流れが凍り付くような舞台を創造するには、縛られ女郎に限ります。それに、あのアブストラクトな自縛ショーに私を誘ってくれたのは支配人じゃないですか。煉瓦蔵の中に作る舞台と、外の広場に作る舞台の間を、素っ裸で後ろ手に縛られた女郎のイメージが巡り歩くのです。間違いなく異数の世界が開かれるでしょう。最高のイメージですよ。いくら支配人が初耳でも、郭の客に縛られ弄ばれることを業とした女郎も、きっといたはずです。やはり脚本は直しますよ。Mさん、どうだろう」

話が突然、またMに振られた。どちらでも大差がないと答えたかったが、睦月がからんでいては話しは別だった。温くなった麦茶を一息に飲み干し、じっと手元の紙片を見つめた。古ぼけた八木節由来くどきの文字の影から、高島田に結い上げた髪が崩れ、伏し目がちに内股で歩む睦月の裸身が浮かび上がった。妖艶だが、みずみずしいほど新鮮な白い裸身だ。先日クラブ・ペインクリニックで見た猥雑なイメージはなく、楚々として哀れな美しい姿だった。

荒廃してしまった睦月の心が変わるかも知れない、と急に思った。何よりも睦月は芸術に憧れているのだ。そして、M自身の評価はともかく、沢田の演劇が国際コンクールのグランプリを狙える水準にあることも事実だった。そして今、一つのチャンスが足元に落ちてきたのだ。睦月が変わって欲しいとMは願った。虐待に耐えている進太のためにも絶好の機会だと思った。

「睦月のショーに目が止まるなんて、さすがは沢田さんね。磨き上げれば、睦月は十二分に輝くわ」
心にもないことを言って、Mは沢田の目を見つめた。沢田の目が無邪気に輝き出す。早口のバスが興奮に震えた。
「Mさん、すぐ睦月ちゃんの家に案内してくれ。僕が直接出演を依頼する。きっと、すごい芝居になるよ」
まだ何か言いたそうな支配人に目もくれず、立ち上がった沢田がいち早く管理事務所の戸を開け放った。暑い外気が室内に押し寄せ、引いたばかりの汗がまたMの首筋に滲み出した。煉瓦蔵の扉の奥からチャカポコ、チャカポコと、八木節のリズムが聞こえてくる。沢田に続いてMも外の広場に出た。全身が焼け付くように暑い。
「まだ稽古を初めて三日目だからね、役者には好きに踊ってもらっている。キャストを決め、脚本読みを済ませてから、ここに乗り込んできたからね。八木節の風土の中にどっぷり浸かり、土俗の雰囲気を身に染み込ませることが大切だと、全員がわきまえている。時間差を付けて同じ芝居が二つの舞台で進行するんだ。すべては肉体でリズムを刻めるようになってからだよ。立ち稽古は来週からでいいんだ」
沢田が薄暗い蔵の中に目をやって、問わず語りに稽古のスケジュールを説明した。正午の日射しを浴びて精悍な目が輝き続けている。一緒に外に出てきた支配人が目をしょぼつかせ、肩をすくめてから管理事務所に戻っていった。脚本の行方はすでに決まってしまったのだ。

Mは腕の時計に目を走らせる。やっと睦月が起きだした時刻に思われたが、寝入っているはずはない。
「睦月の家は、ここから歩いて二十分の距離です。どうします。この暑さであの車だけど、私の車で行きましょうか」
裏口の駐車場で直射日光を浴びている、オープンにしたMG・Fに目をやりながら、Mがうんざりした声で尋ねた。
「Mさん、せっかく自転車を持ってきてもらったんだ。自転車で行きましょうよ。女性と一緒のサイクリングなんて何年振りだろう。この街は本当に楽しい」
沢田がはしゃぎ回って青い自転車にまたがった。オフホワイトのパンツも紺の綿シャツも、すでに汗が滲んでいる。Mも諦めて緑色の自転車にまたがる。黒いジーンズのウエストに巻いたバックから、レイバンのサングラスを取り出す。自転車に乗るのは恐らく二十年振りのことだ。今さら乗れるだろうかといぶかり、不安が掠める。まぶしい空を仰ぐと、オレンジ色のサングラス越しに巨大な積乱雲が見えた。雲は赤黒い煉瓦壁の上の黒い瓦屋根の上に、覆い被さるように膨れ上がっている。八木節のリズムに隠れて小さく遠雷が聞こえた。短かった梅雨が明け、熱い夏が始まったのだ。
「さあ、行こう」
元気な声が響き、方向も分からないまま沢田が自転車をこぎ出す。猛暑の街は一面の蝉時雨だ。


二人は織姫通りを北に上り、天満宮の手前の交差点まで一気に自転車をこいだ。全身から気持ち悪いほど汗が吹き出し、無帽の頭が日射しに灼ける。あいにく信号は赤だ。止まった途端、道路から熱射が襲い掛かり、全身を被う。右手の機屋横町から微かに山根川の川風が漂ってくる。横を見ると、先ほどまでの元気もなくし顔を火照らせた沢田が、川風に誘われるように機屋横町の方を見ている。

「逆に曲がるの」
Mは意地悪く声を掛け、青に変わった信号を山手通りに左折した。命門学院高等部を過ぎ、動物園への上り口を通り越すと、やっと左手に睦月のアパートが見えた。玄関前のちっぽけな日陰にうずくまっている進太の姿があった。
「Mっ、やっと会えたね。ずっと会っていなかったから、僕、お腹が空いちゃった。昼飯を買うお金をおくれよ」
Mが自転車から降りないうちに進太が立ち上がり、うれしそうな声で金をせがんだ。進太と会うのは、ほぼ一週間振りだった。Mと会っていなかったから、お腹が空いたという進太の言葉が胸に痛い。

「以前のように、いつでも私のアパートに来ればいいのよ。私こそ進太が来ないので心配していたわ」
答えてからMは、出任せな言葉を反省する。この一週間は仕事が忙しく、進太のことを思いやったことはなかった。しかし、頓着もなく進太が答えを返す。
「Mの家に行ってはだめだと、ママが言うんだ。約束を守らないと、またMを折檻すると言ったよ。だから、僕はMの家に行かない。でも今日は別だ。Mが来た。ねえ、お金をちょうだい」
泣きそうな声で訴える進太に、Mの背後から回り込んだ沢田が千円札を差し出す。
「これで好きなものを食えよ。僕たちはママに話があるんだ」
顔の前に差し出された千円札を無視して、進太は沢田の顔を睨み付けた。人見知りをしない進太を見慣れたMには奇妙な光景だった。
「進太。お金はとっておきなさい。後で私が返しておくわ」
Mが取りなしても進太は表情を固くして、沢田を睨み付けている。沢田が苦笑して後ろに下がり、Mはウエストバックから千円札を出して進太に与えた。
「ありがとう、M。ゆっくりしていってね。コンビニでご飯を食べたら僕もすぐ帰ってくるよ」
打って代わった和やかな顔でMに微笑み掛け、進太は高等部の隣にあるコンビニエンス・ストアの方角に駆け出していく。釈然としない気持ちを抱えたまま、Mは沢田と連れ立って玄関に入った。

「こんにちわ睦月、Mよ。上げてもらうわね」
短い廊下の奥に声を掛けると、睦月の怒声が帰ってきた。
「性懲りもなく、あの泥棒猫に金をやっただろう。どこまで私を馬鹿にするんだ」
憎悪のこもった睦月の怒声を聞いて沢田が肩をすくめた。
「睦月さん。先週ショーを見せてもらった沢田です。ぜひ、お願いがあってきたんですよ。Mさんに案内を頼んだのも僕です」
沢田が大声で呼び掛けた。奥のリビングで睦月が緊張する雰囲気が玄関まで伝わってくる。しばらくの沈黙の後、異様に目を輝かせた睦月が廊下に出てきた。裸身に大振りの男物のシャツを羽織っただけの姿だ。かろうじて下に赤いショーツを穿いている。

「演出家の沢田さんが、私にどんな用事でしょう」
わざわざ職業まで添えた睦月の声は、先ほどの怒声に比べようもない。媚びを含ませるテクニックなのか、語尾が震えていた。
「はっきり言いますが、ぜひ、僕の芝居に出て欲しいんだ」
「えっ、何ですって、もう一度言ってくれますか」
聞き返す睦月の声が本当に震えた。沢田が苦笑して同じ依頼を繰り返す。
「合宿稽古を始めたばかりの今度の芝居に、ぜひ出演して欲しいんだ。もちろんギャラも出します。僕は睦月ちゃんのショーを見て、インスピレーションが湧いたんだ。あなたのために脚本を書き直します」
睦月の顔がまたたくまに輝き出す。

「あの舞台を、先生が認めてくれたんですか」
感に堪えた声で尋ねる呼称は、すでに先生に代わっていた。
「いいショーだったと僕は言った。あのままでいいんですよ。演技は僕が付ける。そして、出演してもらう以上、メルボルンで行われる国際演劇祭にも行ってもらう。予定どおりグランプリが取れれば、全国を回って凱旋公演をします。海外公演もするようでしょう。長い期間、付き合ってもらうことになる。そのことを理解した上で、ぜひ承諾して欲しい」
「出ます。ぜひ出演させて下さい。先生、出演させていただければギャラなんて要りません。ここにいるMに劇団の費用だって負担させます。ぜひ、出させて下さい」

とんだところで名前を出され、Mは辟易とする。沢田の顔にも当惑の表情が浮かんだ。だが、そんなことが眼中に入る睦月ではない。
「ねえ、M、聞いたでしょう。私が認められ、世界に羽ばたけるかも知れないのよ。資金は絶対出してもらうからね。用意するのよ」
先を続けようとする睦月を、沢田が怖い声で遮る。
「ギャラを出すと僕は言ったはずだ。睦月の役は重要な役だ。それなりの金額は当然支払う。Mさんには、劇団・真球は十分お世話になっているんだ。劇団の費用だなんてとんでもない。こちらが礼を言う立場だ」

沢田にたしなめられて睦月の態度ががらっと変わる。
「先生、済みません。Mには貸しがいっぱいあるものだから、つい私の替わりに先生の劇団に返させようとしてしまいました。お怒りにならずに、よろしくお願いします」
裸身同然の身体を喜びに震わせ、睦月が何度も何度も頭を下げた。沢田はおうようにうなずき、今夜の特別稽古から参加するように告げた。コンテスト出場までの丸一か月のギャラも二十万円に決まった。無名の新人にしては破格の額だ。今度の芝居に賭ける沢田の意気込みがMにも十分伝わってきた。

喜びにも慣れ、早くも鼻高々とした自負心を顔にのぞかせてきた睦月に送られ、Mと沢田は表に出た。発達した積乱雲が頭上を被っていて、外は夕方のように暗い。
「降りますね」
ポツンとつぶやいて自転車にまたがった沢田が、Mには急に大きく見えた。あれほど気に掛かっていた歯切れの悪いバスも心地よい。自分の表現に一切を賭ける、強引な男の匂いが鼻先を掠める。

ゴロゴロッ、ドッカーン

鋭い雷の音が耳の底に響いた。
「よく知りもしない睦月を入れてしまって、芝居も変えるという。沢田さんに不安はないんですか」
返ってくる答えを予期した上でMが尋ねた。
「不安はない。芝居は大きく羽ばたきますよ。僕が毎日、睦月に特別稽古をつけるんです。役は決まってるんだ。五日もあれば、Mさんの言ったように睦月は輝きだします。立ち稽古が始まる前に、Mさんもぜひ見に来て下さい」
自信に溢れたバスが響き、鋭い雷の音が消していった。
降り始めた大粒の雨が頬を叩く。進太はまだ帰ってこない。確かな力で沢田が自転車のペダルをこいだ。先を行く大きな沢田の姿をMの自転車が追った。


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