7.稽古
先週に続いて、七月の第二週の日曜日もMは会社に出勤した。八月一日から始まる八木節祭りに向けて、毎日忙しい日々が続いている。例年市の職員が行ってきた祭りの進行と交通整理の仕事を、今年からMの勤める警備会社が請け負うことになったのだ。最近の行政改革ブームで、やっと市役所も人件費を計算に入れるようになった。たとえ手の空いている職員に交通整理を任せたり、時間外勤務で夜祭りの裏方をさせたりしても、すべて人件費の支出につながる。高給取りの多い市役所では、これが膨大な金額になる。どう計算しても、民間企業に業務委託したほうが効率もよく、安くついた。後は委託した仕事を指揮監督すればよい。それこそ役所本来の仕事ともいえた。お陰でMの会社はこの暑い時期に忙しく、繁盛することになってしまっていた。

せっかくの日曜日を朝から、商店街の代表や、八木節チームのリーダーたちとの打ち合わせに費やし、Mがアパートに帰ってきたのは暗くなってからだった。いくら日が落ちたと言っても、昼間閉め切っていた室内はうだるような暑さだ。Mは北向きの窓を大きく開け放ち、エアコンのスイッチを最強にした。汗を吸って重くなった市役所支給の紺の祭り半纏を脱ぎ捨てる。この半纏も祭りを盛り上げるために市があつらえたものだった。しかし、昨年までの市の担当者は照れくさがって、祭りの当日しか着なかったという話だ。委託を受けたMの会社では、祭りの二週間も前から宣伝のために、派手に着て歩くことにしていた。

黒いTシャツと紺のショートパンツになって、窓から半身を突き出す。生暖かい風が素肌を渡るだけで爽快感はない。闇夜の水道山の中腹で、動物園の明かりがぼんやりと滲んで見えた。進太と睦月の顔が浮かび上がる。沢田の主催する劇団・真球に参加して十日たった睦月にも、あの日コンビニに行くと言って走り去った進太にも、ずっと会っていない。気掛かりなことは確かだが、仕事の忙しさにかまけて後回しにしているのが本音だった。何となく腹立たしくなり、窓を閉めてショートパンツとTシャツを脱ぐ。素っ裸の身体にエアコンの風を浴びてから、シャワーを使いに風呂場に向かった。
無造作に出した冷水を頭から浴びて、Mの全身が冷たさに震える。慌てて三十度に水温を上げた。冷水に耐えられなくなった柔な素肌が憎らしくなる。

「M、お腹が減ったよ。何かつくってよ」
乱暴に玄関ドアが開く気配がし、シャワーの音にも負けない進太の声が響いた。心なし投げやりな声の響きを聞いて、Mは眉をひそめる。返事をしそびれていると、キッチンのほうから乱雑な音が聞こえてきた。

「チクショウ、ろくな物がない」
大きな舌打ちと共に、聞こえよがしに毒突く声が聞こえた。精一杯凄んでいる口調のボーイ・ソプラノが言葉に馴染まず、ユーモラスだ。Mはとっさに冷蔵庫の中を思い描いた。五百ミリリットルの缶ビールの他にある物と言ったら、プロセスチーズとサラミソーセージ、それからアンチョビの缶詰。野菜は葉のしおれたセロリだけだ。食パンはおろか牛乳さえない。子供の進太が失望するのも当然だった。Mは口元に苦笑を浮かべ、濡れた髪にバスタオルを掛けただけの格好で風呂場から出た。真っ直ぐキッチンに行くと、進太がテーブルの前に突っ立ったまま、左手に持ったサラミソーセージをかじっている。右手には栓を開けた缶ビールを握っていた。Mの顔が一瞬のうちに真っ赤になる。

「進太、何やってるの。ビールなんか飲んで、すぐやめなさい」
目にした光景に泡を食って狼狽したMの怒声に、進太は動じる気配もない。妙に悪びれた動作で振り返り、凶暴な目でMを見上げた。
「ウルセイナ、捨てればいいんだろう。裸なんか見せやがって、馬鹿みたいだ」
言うが早いか右手を振り上げ、流しの中に缶ビールを放り投げた。荒々しい動作と、あどけないボーイ・ソプラノに違和を感じ、Mは言葉もない。見上げる進太の視線をじっと見つめた。一呼吸おき、Mは独りでうなずく。右足で一歩を踏み出し、力いっぱい進太の頬を張った。皮膚を打つ大きな音が響き、進太の口からかん高い悲鳴が上がった。白い頬に真っ赤な手形が浮かび上がる。進太は顔をくしゃくしゃにして泣き叫び、Mの裸身に縋り付いてきた。

「ママが打たなくなったらMが打つ。僕はどうしたらいいんだ。もう、分からないよー」
小さな肩を震わせて泣きながら、鼻を啜って訴える。シャワーを浴びて汗を流したMの裸身に、また大粒の汗が噴き出す。蒸し暑さが全身を包み込み、頭全体が混乱した。
「進太、どうしたの。興奮することはないわ。小学校一年生がビールを飲んでるのでは、打たれて当たり前よ。今夜の進太は変よ。何を悪ぶってるの。テレビに出てくる不良のような言葉を使ってはだめ。睦月なら泣いたぐらいでは済まさないわよ」
いくらか落ち着いた声でMが諭したが、進太の返事はない。相変わらずMの裸身に小さな身体を埋めて泣きじゃくっている。

「ママは、ママは、もう僕を打ちはしないよ。何をしたって無視するだけさ。僕はつらい、つらいんだよー」
泣きながら切れ切れに訴える進太の言葉から推察すると、どうやら睦月は子育てに関心を無くすほど芝居に熱中しているらしかった。沢田の顔が急に目に浮かんだ。聞き慣れたバスが耳元を掠める。実際の沢田の声とは違って心地よいセクシーな響きだ。進太の胸が押し付けられた下半身の奥で、いきなり熱い小さな火が点ったのが分かる。

ひとしきり泣きじゃくってから、進太がようやく話し始めた。
「ママがいつも知らんぷりだから、今夜は僕、思い切ってテーブルをひっくり返してやったんだ。でも、ママは叱りもしない。そんなことをしたら、立ち上がれなくなるほど折檻されたはずだよ。それが、じろっと僕の目を見ただけで、黙って煉瓦蔵へ出掛けてしまったんだ。僕、どうしていいか分からなくなって、何も食べずにMの家へ来た。ママにしたのと同じようなことをしたら、そうしたら、Mが初めて僕の頬を打った。やはり僕は、Mにだって打たれるほど悪いことをしたんだ。僕が今までと違ったわけじゃない。ママが変わってしまったんだ。いつも知らんぷりをして邪魔にするんだ。ママは今日、鉱山の町のお祖父ちゃんと、お祖母ちゃんに会いに行こうって誘ったんだ。僕を鉱山の町にやるつもりなんだ。僕は嫌だと言って泣いて断った。僕はママの所がいい。裸にされて折檻されても、僕が悪いんだからいくらでも我慢できる。僕はママと、ずっと一緒に居たい、居たいんだよー」
思いの丈を話しきったのか、進太は途端に身体の緊張が解けてMの足元に座り込んだ。裸身に縋り付いていた小さな熱い身体が離れ、剥き出しの下半身をエアコンの冷気がなぶった。頭の中の混乱は一層深まるばかりだ。

睦月の虐待を見るに見かねて、Mが進太を鉱山の町の祖父母に預けることを決心したのは、つい二週間前のことだ。それが、今度は睦月のほうで進太を手放したがっている。あれほど母に虐められ、母を怖がっていた進太が、泣きながら母を慕っている。思えば理不尽だけが進太の小さな身体を翻弄しているのだ。胸の底から悲しみが込み上げ、Mも泣いた。家族とは理不尽以外の何物でもない。その理不尽と、これまで無縁で生きてきた我が身も悲しかった。

「きっと、あいつのせいだ。あいつが、僕からママを取った」
進太がMの足元で、ふと冷たい声でつぶやいた。不気味なボーイ・ソプラノだった。Mの脳裏をまた沢田の姿が掠めていった。


Mはブラックジーンズと黒のタンクトップを着て、思い出したように啜り上げる進太を外に連れ出した。進太は白いTシャツに白い半ズボンを着ている。夏らしい、こざっぱりとした格好がMを落ち着かせる。二人連れ立ってコンビニエンス・ストアに向かった。進太の好物のスパゲッティ・ミートソースの弁当とウーロン茶を買い与え、アパートの前まで送っていった。

玄関ドアの前で別れるときになって、進太がMの顔を見上げた。目尻にこぼれた涙の粒が街灯の明かりにキラリと光る。
「M、家に寄っていってよ」
「ありがとう。でも、睦月がいるときに寄るわ。進太の気持ちも、その時睦月に話す。もうすぐ祭りよ。泣いてばかりいたらだめ、強くなるの」
陽気な声で進太に答え、Mは真っ直ぐ自分のアパートに向かった。背中に張り付いてくる進太の視線が針で刺されるように痛い。堪えきれずに空を見上げると、真っ黒に垂れ込めた雲の中で青白く稲妻が走った。遅れてゴロゴロという低い雷鳴が腹の底まで響いてきた。今夜も一雨降りそうだった。蒸し暑さが足元から這い上がってくる。

重い足取りでアパートの前まで来た。一階の駐車場に停めたMG・Fの横で、Mを待っていたように銀色の自転車が稲妻の光を反射した。リサイクル・ショップの店長に頼み、つい昨日納品になった五段切り替えのスポーツ車だ。中古で九千円と値が張ったが、ステンレス製のフレームを持つ輸入品だった。銀色に輝く車体を見ていると急に初乗りがしてみたくなる。左手首の白いホイヤーの時刻はまだ八時前だった。とても寝られる時刻ではなく心境でもなかった。缶ビールよりサイクリングを選ぼうと思った。
今にも降り出しそうな夜空が気になったが、日中の熱が残るハンドルを握り、自転車にまたがる。織姫通りの方角に向けて力いっぱいペダルをこいだ。煉瓦蔵に行って、睦月の特別稽古を見ることに決めた。

「ダメダ、ダメッ、何度やったら分かるんだ。そこで身体をよろけさせるまでに十五秒も遅い。出になってまだ二分だよ。十五秒も遅れたら芝居が滅茶苦茶だ。やり直しだ」
激しくなってきた雷鳴を縫って厳しい叱声が飛んだ。重いバスの響きが睦月の背筋をむず痒くする。これでもう十回目のやり直しだった。睦月は振り返って暗闇の中に立つ沢田の黒い影を見上げた。沢田は大きく開け広げられた煉瓦蔵の側面の扉をバックに、両足を広げて仁王立ちしている。蔵の中から漏れる微かな明かりが、コンクリートの広場をぼんやりと灰色に照らし出している。煉瓦蔵の広い構内には沢田と睦月の他に人影はない。他の劇団員たちは七時半に引き上げ、すでにそれぞれの宿舎に帰ってしまっていた。睦月のための特別稽古が始まってから一時間になる。睦月の耳にも沢田のいらだちが伝わってきた。

枝葉を広げたクスノキの下で、地面に片膝をついた睦月は素っ裸だ。厳しく後ろ手に縛られている。それも両手を後ろに回して合掌した過酷なポーズだ。身体の柔軟さには自信がある睦月だったが、背面合掌縛りの強烈な責めが三十分も続いていては、さすがに痛みが両肩を襲う。だが、本番では延べ二時間の間、様々な縛りに耐えて演技をしなくてはならない。弱音を言っているときではなかった。沢田の芝居の中で、私は重要な役を担った役者なのだ。期待に応えなければ明日は開けないと思い、睦月は歯を食いしばる。

背中に突き上げてきたプライドに胸を張って、睦月は立ち上がった。ふっくらした乳房の上下を走る二条の縄が無惨だ。顔に流れる汗を拭うこともできず、目に入る汗を顔を振って飛ばした。
「いいよ、いい、その動作は自然だ。芝居が流れる時間に乗って、さり気なく演技を入れていくんだ。周りを見ながら演技しようという日和見が一番だめだ。いいね、芝居の時間は身体で覚えるんだ。僕が決めた時間の流れの中では、どんなアドリブをやってもいい」
ほめられた睦月の顔に他愛なく笑顔が浮かぶ。悪びれぬ態度で素早く沢田の所に戻った。背の高い沢田から半歩下がって睦月が並ぶ。後ろ手に緊縛された小さな裸身を引き連れ、沢田は薄暗い煉瓦蔵の中に入っていった。

「よし、もう一回やろう。何と言ったってクライマックスなんだ。できるようになるまで特訓する。いいね、中の舞台から外の舞台への出だ。二つの舞台では二分三十秒の間隔を置いて、縛られ女郎が馬子に救出される場が進行している。睦月はこれまでの出の中で一番過酷な、背面合掌縛りに緊縛されて二つの舞台を巡礼する。イメージとしての縛られ女郎が将来への夢も希望もなくし、悄然として折檻部屋に曳かれて行くんだ。いいかい睦月、これが最後の出だぞ。芝居も終わる。睦月は迫真の演技で、中の舞台を見ている客のすべてを外の舞台に誘導して来るんだ。つまり、屋内の舞台で演じている役者を完全に食わなくてはならない。凄惨な美しさで百人からの客の先頭に立ち、客と同じ地平を歩いて外の舞台に連れ出すんだ。外の舞台は中の舞台に二分三十秒遅れて芝居が進行している。連れ出された客には何の違和感もない。外にいた客と混じり合って全員がラストシーンに熱狂するんだ。ああ、本当の馬が使えないのが悔しくてならないよ。立ち稽古が始まれば、最終幕では織姫通りに面した正面の鉄扉を開け放す。本来はイメージとしての馬子が馬に乗って現れ、イメージとしての縛られ女郎を別世界に連れ出すんだ。だが芝居は映画と違う。馬に演技はさせられない。縄を解かれた睦月が鉄扉の外に駆け出して行くだけで終わりだ。同時に舞台も終わる。メルボルンの本番でも仕掛けはまったく同じだ。さあ睦月、本番の気持ちでやってみよう」

黒々とした煉瓦壁に囲まれた空間に、熱のこもったバスが反響した。睦月の背筋を今度は熱い快感が駆け抜ける。大きくうなずいて見上げた沢田の目はギラギラと熱く燃え上がっていた。
二人は並んで暗く細長い空間を歩く。照明は天井から落ちるピンスポットが一灯あるだけだ。閉じられた正面入口寄りのコンクリートの床に、屋内舞台の位置が白いチョークで印されている。睦月の興奮が否応もなく高まる。
「先生、今度は蝋燭も使わせて下さい。本番と同じ条件で、身体に時間を刻みつけたいんです」
睦月の真剣な声が蔵の中にこだました。微かに笑って沢田がうなずく。ほのかな明かりに映える白い歯が、睦月の目に新鮮に映った。今度こそ稽古を一発で決めようと思う。
沢田は正面入口の横に積み重ねた道具入れの中から、太い蝋燭を取り出して戻って来る。直径が五センチメートルもある真っ赤な蝋燭は、睦月がSMショーで愛用していたのと同じ品だ。後ろ手に合掌して緊縛された手に、沢田が赤い蝋燭を握らせる。床に這った腰縄の縄尻を拾い上げて、沢田が睦月の顔を見つめた。
「僕が曳き立ての主人役をしよう。縄を曳いて後ろからついていくが、腰縄は気にするな。メルボルンの本番では照明が輝き、八木節の音色も響く。当然、触れ合う距離に沢山の外国人客がいる。すべて気にせず、客を引きつける演技だけに集中するんだ。いいね」
声が終わると同時にライターの金属音が響き、裸の背中に熱い感触が走った。睦月は軽く目を閉じる。まぶたの裏に花道を行く自分が見える。馬子との密通が露見し、厳しい折檻の待つ部屋に素っ裸で曳かれていく、縛られ女郎の姿だ。背面合掌縛りの過酷な縄目を受け、我が身を責め苛む郭の主人の足元を照らすために、後ろ手に蝋燭まで持たされている屈辱の姿だった。一歩一歩絶望へと歩む凄惨な姿がすべての客を引き付け、外の舞台へ誘導するのだ。

「よし、スタート」
力強い沢田の声を聞いて睦月は歩き出した。心持ちうなじを下げ、重心を落として舞うように歩む。背中で灯された大きな蝋燭の明かりが白い肌を妖艶に照らし出す。ふっくらした尻の割れ目の陰影が歩みに連れて揺れる。汗の噴き出した素肌が怪しく光っている。上下を麻縄で緊縛されて高く盛り上がった乳房が震え、突き立った乳首が闇に戦く。睦月は何も思わず、何も考えず、ただ肉体だけになって一心に歩いた。裸身を緊縛した縄目と、背中で合掌した手で握った蝋燭のじりじり燃える音だけが、素肌を通り過ぎる時間を制御していた。
煉瓦蔵側面の扉の前まで歩むと、ひときわ白く稲妻が走った。間髪をおかず耳をつんざく雷鳴が轟く。しかし、睦月の裸身は動じようともしない。連続して闇を貫く稲妻に照らされ、一層妖艶な姿でクスノキの下の舞台を目指す。降り出した大粒の雨が白い裸身を叩き、ストロボライトのように稲妻の閃光が闇を切り裂く。蝋燭からこぼれ落ちた赤い蝋涙が白い背中に点々と落ちた。
睦月の足が雨水に滑り、緊縛された裸身が微妙に揺れる。揺れは足から膝、腰へと伝わり、裸身がよろよろと地面に倒れかかった。思わず片膝をつく。無惨に割り開かれた股間を青い稲妻が照らし、しとどに濡れた陰門の先で赤い性器が悩ましそうに尖っていた。

「ブラボー、ブラビッシモ、それでいい。睦月はハーメルンの笛吹きだ。すべての客が後を追ってくるよ。最高だ」
雷鳴に負けぬ叫びを上げて沢田が睦月に駆け寄る。地面に片膝を突いてうずくまる裸身を、背後から両手で強く抱き締めた。背中で合掌した睦月の手から、雨に打たれて火の消えた赤い蝋燭が落ちた。
「先生、先生」
二度名を叫び、絶句した睦月が首を捻って沢田を見上げる。視界いっぱいに沢田の濡れた顔が広がり、睦月は激しく口を吸われた。沢田の両手が激しく乳房をまさぐる。睦月は緊縛された両手をもどかしく動かし、後ろ手で沢田の股間を探った。一瞬沢田の身体が離れた後、背中で合掌した手の間に熱く燃えた肉の棒が握らされた。睦月はすべての感情を込め、合掌した手で拝むように固く突き立った沢田のペニスを愛おしんだ。


風雨に揺れるクスノキの葉陰の下で、滑稽なほど凄烈なシーンが展開されていた。Mは事務管理室の横で自転車にまたがったまま、しのぎを削る男女の姿を見ている。睦月も沢田も全身から異様な熱気を上げていた。夕立も最盛期を迎えている。十メートル離れた闇の中にたたずむMに、二人に気付かれる気遣いはない。連続して走る稲妻の光が足元までズボンを下ろした沢田の痩せた尻を照らし出す。沢田は中腰になって激しく腰を振っていた。股間からのぞく突き立ったペニスは、背中で合掌した睦月の手の中にある。睦月が両手でペニスをしごく度に、雷鳴に負けない獣のような叫びが沢田の口を突いた。その叫びに睦月の喘ぎが被さる。沢田の舌が睦月のうなじを這い、前に回した手が乳房をなぶり股間を責める。二人の動きがひときわ激しくなった。睦月は両膝を大きく開いて地面に着け、高く尻を掲げて後ろに突き出す。剥き出しの股間を豪雨が洗った。沢田が股間にひざまずき、顔を陰部に押し当てて舌で舐め回す。地面に横顔を押し当てた睦月の口から高いうめき声が流れる。堪えきれなくなった沢田が中腰になり、睦月の尻にペニスを押し当て力いっぱい挿入した。愛液にまみれた陰門を激しくペニスがスライドする。繋ぎ合った肉の間を雨水が絶え間なく洗って流れ去った。

ひときわ鋭く稲妻が闇に走り、轟音が続いた。Mの鼻孔に甘酸っぱいにおいが漂ってくる。近くに雷が落ちたらしい。Mは肩をすくめて空を見上げた。天からぶちまけたような雨で、まるで顔を洗っているようだ。男と女の生業もこのくらいにしてもらおうと、気掛かりだったクスノキの根元を見つめた。太い根元の陰でMに背を向け、白く小さい影が雨に煙っている。身体を固くしてうずくまり、母の痴態に見入る進太の後ろ姿だ。来たときから気付いていたが、ありのままを見ることが進太にとって最上の道だと、その時Mは判断したのだ。たとえ睦月と沢田から三メートルと離れていない場所であっても、見ようと決心したことは子供でも一切を見るべきだった。突然、白い影の手元で何かが稲妻に反射して鋭く光った。ナイフという言葉がMの口元まで突き上がってきた。光の加減から見てカッターナイフに違いない。万一人を刺したとて軽傷しか与えられない刃物だったが、Mは素早く自転車をこぎ出した。でも、Mのいる距離ではもう進太を止めることはできない。

睦月と沢田の営みも、ようやくクライマックスを迎えていた。二人が官能を極める叫びが、恥ずかしげもなく雷鳴と混ざり合う。後ろ手に合掌して縛られた睦月の手が激しく宙をつかんだ。進太の白い影がクスノキの根元から立ち上がる。大股に二歩、前に踏みだし、小さな身体を真っ直ぐ伸ばした。怒らせた肩先を非情な雨が打つ。

「バカヤロウ」
かん高い叫びと共に、進太はコンクリートの地面にカッターナイフを叩き付けた。足元で小さな水しぶきを上げ、貧相なナイフが跳ね上がった。睦月の裸身に被さっていた沢田が、はじかれたように立ち上がる。進太はすごい勢いで回れ右して一目散に駆け出した。Mの自転車と擦れ違っても何の反応もない。固く両目をつむって下を向き、一心に走る。痩せた身体に、濡れた服がべったりと張り付いていた。


「あっ、Mさん。来てくれたのか」
自転車で駆け付けたMを見て、沢田が間の抜けた声を上げた。萎びたペニスの先から雨水が流れ落ちている。今さら悪びれもせず、腰を屈めてズボンを上げた。睦月は後ろ手に緊縛されたままで自由が利かない。相変わらず地面に這いつくばったままだ。さすがに高く掲げていた尻を落としたので、雨の中のカエルのように見える。地面に押し付けた顔が屈辱と憎悪で歪んでいた。恥辱に赤く染まった肌で雨の滴が蒸発してしまいそうだ。何気ない素振りでMは自転車を降り、睦月の後ろに屈み込んだ。雨で濡れて固くなった縄目を苦労して解く。

「素晴らしい演技だったでしょう」
背中からとぼけたバスが聞こえた。Mが振り返ると、真剣な顔で沢田が答えを待っている。
「そうね、いいセックスだったと思うわ」
冷ややかな声で答え、睦月の裸身に手を添えて立ち上がらせる。
「セックスの話じゃない。僕は睦月の演技のことを聞いている」
「良かったんだと思うわ。睦月の息子が見つめ続けたあげく、セックスの落とし前も着けずに逃げ帰ったくらいの迫力はあった」

答えたとおり、凄まじい演技だったと思う。確かに進太は、睦月の迫真の演技に免じてナイフを捨てたのだと、改めてMは感じた。落とした視線の先で、刃の欠けたカッターナイフが小降りになった雨に打たれていた。
「睦月、進太に演技から見てもらえて幸いだったわね。もうすぐ雨も上がるわ。一緒に帰って進太の話を聞きましょうよ」
目に入った雨を片手で拭って、Mは睦月に優しく声を掛けた。

「M、誰に物を言ってるの。私は女優よ。Mに命令されるゆえんはない」
鋭く言い切った睦月は、ぐっしょり濡れた裸身をそびやかせて胸を張った。股間に張り付いた薄い陰毛がやけに惨めに見える。
Mは黙ってうなずいて自転車にまたがった。母と子の問題は母と子で解決するしかないのだ。たとえ奥深くまで介入したとしても、Mは一人の他人に過ぎなかった。ただ、行く場をなくして苦しむ進太の胸中を思うと、何もできぬ自分が悔しく悲しくてならなかった。


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