8.デザイナー

七月二十九日の金曜日は終日忙しく、Mは夜九時にアパートに帰り着いた。身体も神経も疲れ果てていたが気持ちは高揚している。先週末に、やっと祭りの仕事を軌道に乗せることができたのだ。後は八月一日から三日まで、三日間の八木節祭りの開幕を待つだけでよかった。スケジュールの詳細さえ決めてしまえば、後は現場で生じる微妙な手直しだけで済む。特にMでなくてはできない仕事はないはずだった。しかし、今週早々振って沸いたように浮き上がったイベント計画には難渋をさせられた。八木節祭りの運営をMの会社に委託して気が楽になった市長が、劇団・真球の稽古合宿の成果を公演してくれるよう沢田に頼んだのだ。沢田は即座に市長の依頼を受諾した。滞在予定を延ばし、八月一日の午後七時三十分から煉瓦蔵で、メルボルンの国際演劇祭と同様の公演をすると約束したのだ。市は即座に公演の冠に八木節祭り協賛と打った。これで、また一つMたちの仕事が増えた。自信家の沢田は、無料の公演では観客が多すぎて混雑すると言って、五千円の入場料を取ることに決めてしまった。チケットの製作・販売もMの仕事になった。

頭の痛い一週間だったが、多くの心配が杞憂に終わった。メルボルンに持っていく予定の舞台セットも衣装も、八月一日を待たずに完成した。疑問視されたチケット販売も、地域に密着した一か月の合宿稽古の反響があって、売り出しと同時に二百枚を完売した。チケットを買い損ねた市民から、再公演を望む声が上がるほど好評だった。お陰で今年の八木節祭りは例年と違い、初日からの盛り上がりが期待されるようになってしまった。もちろんMに異論はない。熱心に取り組んだ仕事の、当然の結果だと思っている。

気分良くシャワーを使い、素っ裸で冷えたビールの栓を抜いたところで電話のベルが鳴った。また仕事の話かと思い、眉をひそめて受話器を取ると、祐子の気忙しい声が聞こえてきた。
「お帰りなさい。Mに聞いてもらいたいことがあるの。今日の午後、修太のお父さんから電話があったわ」

どう話し出したらよいか迷ったように、祐子が口をつぐんだ。
Mの脳裏に記憶の不確かになった陶芸屋の顔が浮かんだ。まるで怒っているのか、泣いているのか分からない顔だ。胸の底が小さく痛み、酸っぱい物が口に込み上げてきた。
「陶芸屋が、何の用事だったの」
助け船に出したMの声も冷たく響いた。祐子がしばらく沈黙した後、乾いた声で話し始める。
「睦月に頼まれて、日曜日に進太を引き取りに来るんですって。その前に私から詳しい話を聞きたいというの。一日早く市に来て、明日の午後、私のマンションを訪ねたいって言ったわ」
「祐子はなんて答えたの」
「お待ちしてますって言ったわ。私が、修太のお父さんの頼みを断れると思う。三人しかいない幼なじみの中で、生き残っているのは私一人よ。私は自閉症だったから、修太のお父さんにも散々世話になった。でも、今はもう、みんな思い出したくない。修太も光男もいないんだから、私の記憶も消してしまいたいくらいよ。本当は陶芸屋さんなんかに会いたくはない。死んでしまった二人が悲しすぎる。でも、私はとても、そんなことは言えなかった」

受話器の中から祐子の啜り泣きが聞こえてきた。名前を聞いただけのMがつらくなったくらいだ。陶芸屋の肉声に接した祐子の胸は、張り裂けそうになったに違いなかった。
「祐子、電話では話しきれない内容よ。これから祐子の家に行くわ。いま、どっちにいるの、アトリエ」
一瞬、電話口の祐子が躊躇する雰囲気が伝わってきた。
「帰ったばかりでMはお疲れでしょう。明日の午前中でいいわ」
「明日の午前中は仕事なのよ。私は疲れていない。すぐ行けるわ」
また沈黙が流れ、祐子の投げやりな口調が帰ってくる。
「マンションのほうよ。でも、連れがいるの。デザイナーの大久保玲。軽蔑しないで欲しい」
祐子の戸惑った声に、またMの胸が痛む。鋸屋根工場のアトリエでデザイナーと一緒にいるのなら当たり前だが、自宅のマンションだという。恥ずかしそうに告げた祐子が哀れでならない。祐子も二十八歳になる。自由に恋を楽しんでも、後ろ指を差されるゆえんはない。だが、ついさっき話題になった修太も、光男も、恋を楽しむことなどできはしない。祐子の心情を思うと涙がこぼれ落ちそうになる。
「軽蔑する者などいない。祐子、二十分後に着くわ」

返事を待たずにMは電話を切った。急に疲れが全身を襲ったが、必死に耐えてドレッサーを開き服を探す。二人のデザイナーに見栄を張るような気がしたが、迷わずアイボリーのワンピースを選んだ。シルクと麻で織った、Mの体型にぴったり合った短い丈の服だ。素肌に着て姿見を見る。最近では珍しい装いに、妙に若返った気分になる。大きく開いた襟から乳房の谷間がのぞいている。何となく寂しそうな感じは歳のせいだと諦め、首筋に太めの金のチェーンを飾る。初めて使う装身具だった。

着替えに思わぬ時間をとり、慌てて外に飛び出す。素肌に張り付いてくるような蒸し暑さに眉をしかめる。オープンにしたMG・Fに乗り込んだ瞬間、キーを持ってこなかったことに気付いた。仕方なく車から降り、銀色の自転車を引き出す。祐子のマンションまでなら自動車と大差ない時間で行ける。プレスの効いた服につくに違いない、サドルの跡が気に掛かる。だが、今さらデートに出掛ける小娘のような気になるのも情けない。よっぽど見栄っ張りなんだと、心の中で笑ってからペダルをこぎ出す。相変わらずゴロゴロと響く遠雷の音が耳につく。織姫通りの方角からは、八木節の陽気なリズムが響いていた。


煉瓦蔵の前に建つマンションの六階でエレベーターを降り、Mは祐子のフラットに向かう。よっぽど煉瓦蔵に寄って、特別稽古をしているはずの睦月を引っ張って来ようかと思ったが、情緒が不安定な今の祐子を交えた会話では、話がどこへ飛んでいくか分からないと思い直して断念する。

玄関のブザーを押すと、待っていたように祐子がドアを開けた。左手首のホイヤーを見ると、約束したとおり二十分が経過していた。何となく気詰まりな空気を感じ、改めて祐子の顔を見る。明るい玄関灯の光を浴びて、祐子はじっとMの服装に見入っている。祐子は相変わらずブルージーンズにTシャツといった飾らない格好だ。祐子の顔に寂しい笑いが浮かぶ。

「M、いらっしゃい。夜分ご迷惑を掛けます。ごめんなさい。さあ、暑いから早く中に入って」
少々他人行儀な言い振りが気になったが、Mにとって祐子も他人には違いない。案内されるまま広いリビングに通った。寒いほどエアコンの効いた室内の白いソファーに痩せた青年が座っている。長く伸ばした髪を黒いサマーセーターの後ろで束ねている。Mの姿を見て優雅な仕草で立ち上がった。クラブ・ペインクリニックで見たはずだったが、記憶より端整な顔立ちだった。
「こんばんわ。大久保玲です。どうぞ、ゆっくりしていって下さい。僕はもうすぐ帰ります。祐子が、独りになるのは嫌だと言うものですから、Mさんが来るまで待っていたんです」
一言一言はっきり発音する、落ち着いた口振りだった。いつの間にか大久保の横に立った祐子の頬が赤く染まり、泣き出しそうな顔になった。
「玲の作った舞台衣装を見せてもらっていたの。生地はみんな、私の織った物よ。Mも見ていって」
取って付けたように祐子が言って、椅子を勧めた。卓球台ほどもあるテーブルの上にカラフルな衣装が広げられている。Mは祐子が勧めてくれた、ゆったりとした椅子に浅く座る。Mが座るのを待っていたように、向かいのソファーに祐子と大久保が並んで座った。三人の目の前に華麗な衣装が広げられている。

「沢田さんの芝居によく似合いそうな衣装ね。色の使い方が落ち着いている。でも、デザインは大胆ね。とても女郎や、馬子が着る服には見えない」
豪奢な衣装を目の前にして、Mが仕方なく感想を口にした。一瞬脳裏に、私は何をしに来たのだろうかと疑問が掠める。
「Mさんは、八木節の法被や和服のイメージが頭に染みついてるんですよ。まあ、一般的にはそうしたものなんですが、沢田さんも僕も、今度の公演では一切の既成概念を払拭することが狙いなんです。芝居の筋は思い切ってレトロにして、仕掛けで前衛を走るのです。面白いですよ。今から胸がときめきます。でも、これ、これならMさんもイメージできるでしょう。睦月さんが使う衣装です。SMショーで使うような、ただの縄じゃないんですよ。四色のステンレス・ファイバーの糸を祐子が縄に撚り上げたんです。照明の加減でシルバー、ブラウン、パープル、ゴールドの四色に光ります。それも金属の糸だから、重々しく沈んだ色で光を反射する。そりゃあもう凄惨な緊縛美が演出できます。睦月さんは芝居がうまいから今から楽しみですよ」
大久保が質感のある直径八ミリほどの金属の縄を手に持って、熱心に説明する。横に座った祐子の頬がまた赤く染まる。手製の縄で緊縛された睦月を想像したのかも知れない。ひょっとするとMをモデルにしたのかも知れなかった。これまで祐子は、あまりにもMの身近に居すぎたのだと、不当なことを承知でMは思った。

「金属の縄で縛られるなんて、睦月もかわいそうね。さぞ痛いでしょうね」
つい陳腐な感想がMの口に上った。縛られ慣れた身体が言わせたものだ。慌てて祐子の顔を見る。祐子はうつむいていた。
「いいえ、金属の縄と言っても麻縄と変わりませんよ。かえってしなやかかも知れない。触ってご覧なさい」
大久保が答えて中腰になり、長さ十メートルほどの縄の束をMに手渡す。手にした金属の縄は重く、素材が分からないほど無機質な触感がした。まるで、縛られる者の肌の一部となって、ねっとりと深部まで拘束してくるような感じだ。
「股間を縦に縛ったって大丈夫ですよ。陰部が傷つくこともない。Mさんも縛られることがお好きなんですってね。祐子に聞きましたよ」
Mはしばし、あ然としてMの目をのぞき込む青年の視線を受け止めた。黒い瞳の奥に見慣れた官能の炎が揺れている。祐子に求めきれないものをMに求める、男の理不尽な目だ。
「ええ、素っ裸で縛られるのが好きよ」
大きくうなずいて、平然と答えたMの声が部屋に響いた。居たたまれなくなって祐子が立ち上がった。大久保は背筋を伸ばし、Mを見つめたまま言葉を続ける。
「Mさん、ありがとう。今夜は最高に楽しかった。ぜひ、睦月さんと一緒に縛られ女郎の役で芝居に出て欲しいな。沢田さんも喜んで、また脚本を書き直しますよ。これで僕は帰ります。お邪魔しました」

Mの返事も聞かずに大久保が立ち上がり、深々と頭を下げてからドアに向かった。
「玲、待ってよ」
鋭い声で祐子が呼び掛け、大久保が振り返る。
「いいよ祐子、送らないでくれ。独りに耐え兼ねたら、いつでも僕を呼んでくれ。すぐに飛んでくる。でも、僕は祐子を誘わない。僕は孤独に強い」
大久保の鮮明な声が響き、ドアの閉まる音がした。突っ立っていた祐子の膝が崩れ、ソファーに腰が落ちる。静けさの満ちた部屋に遠雷の音が聞こえてきた。

「祐子の作った縄はいい縄だわ。私にも作ってくれるというの」
天井のライトを重々しく反射する金属の縄を見て、Mが優しく尋ねた。
「今夜のMは意地悪だわ。ちっとも私の気持ちを考えてくれない」
Mの問いに答えず、なじる調子で祐子が言った。
「どうして私が、祐子の気持ちを探らなくちゃいけないの。言葉なんて当てにならないものよ。明日でなく今夜訪ねてきたことを言ってるのなら、祐子も合意したことだわ」
「違うわ。そんなことは言ってない。今夜のMとは話が擦れ違う。きっと、玲にMの過去を漏らしたせいね」
「それこそ、祐子の邪推というものよ。祐子が何を話しても私は気にしない。祐子がイメージした私の姿がどう語られようが、私が責任を取ることはできないわ。すべてを祐子の人格が決め、責任を取ればいいことよ」
「M、突き放さないで。修太のお父さんの電話を受けた私の身になってみてよ。つらい、本当につらいの。みんな死んでしまい、残された私が全責任を負うのよ。残酷だわ。どうして私が、修太が残していった子供の話を小父さんにしなければならないのよ。自分の孫なんだから、黙って鉱山の町に連れていけばいい」

祐子が興奮して話す内容は、いつしか進太のことに移っていた。自分の感情が整理できない、相変わらずの祐子がMには悲しい。努めて冷静な目で取り乱す祐子の顔を見つめた。祐子の目尻から涙がこぼれ落ちた。
「祐子、まず自分の言ったことは、言ってからでもよく考えなさい。大変な間違いをするわ。二十日前の祐子は、睦月から進太を奪うことは誰にも許されないと言って泣いたのよ。それが今度は、黙って鉱山の町に連れて行けと言う。無責任に過ぎないかしら。何よりも、進太のことを考えていないわ」
「母である睦月が決めたことよ。仕方がないじゃない」
即座に、叫ぶような答えが返ってきた。Mの背筋を冷たいものが走りすぎる。
「それでは、進太への虐待も母が決めたことだから仕方ないと思ったのね。親子というのは親が決めればすべてで、子供は黙って従うべきなの。家族というのはそんなものじゃないわ。互いに歩み寄って、互いに寄り添うのが家族でしょう。祐子も小さかったころを思い出してみるがいいわ」

「私には、Mがいたわ」
Mの言葉が終わらないうちに祐子が叫んだ。涙がこぼれ落ちる顔を左右に振って、啜り上げながら祐子が話し始める。
「Mがいたから私は生きてこられた。Mがいなければとうに死んでいたはずよ。きっと自殺したわ。Mは自分の生き方を曲げてまで歩み寄り、私を支えてくれたわ。今Mが言ったようにして、幼かった私を家族の一員として迎えてくれた。何もできない私だけれど、そんなMに報いることだけを考えて生き続けた。もう二十年近くMに甘えてきて、やっと分かったわ。Mのような人は他にはいない。私は、そんな素晴らしい人と巡り会えた稀有な例だって。でも、Mの家族になれない人は大勢いる。Mの素晴らしさを認められない人もいる。例えば睦月。ずっと勝ち続けて生きてきた睦月には、初めての挫折で人に縋る勇気がなかった。すぐ側にMがいるのに、素直になれなかった。Mを憎むことで挫折に打ち勝とうと思ったのよ。それに睦月は進太の実の母よ。二人きりの家族だもの、いくら過酷な道でも二人で歩むべきだわ。睦月が家族を大切にしている限り、どんなことがあっても母子二人で生きるしかないと、あの時は思ったの。でも今は違う。睦月は子供より野心を取った。進太を捨てて夢を拾ったのよ。家族を解体した睦月にとって、進太はただの邪魔者だわ。進太はまだ幼すぎる。小学校一年生の子供が誰の家族にもならずに生きていくことはできない。少なくとも、鉱山の町に行けば家族がいるわ。Mの言うように、進太のことを一番に考えるなら家族を捜してやってから言うべきよ。幸い、私はMの家族になれたから生きてこれたわ」
勝手な論理が祐子の織りなす布のように流れ出た。自分の言葉に陶酔した祐子は泣くのも忘れ、ひたすらMを責め続けた。

「ひょっとして祐子は、私に進太を引き取れと言うの」
祐子の紡ぎ出す言葉が途切れたとき、静かな声でMが尋ねた。祐子は答えず、じっとMの目を見た。断固とした答えに出会い、Mは目を反らして窓の外を見た。暗い夜空に遠く稲妻が光った。
「Mが決心してくれれば、私はどんなことでもする。でも、Mが踏み切れないのなら、捨てられた進太をひろってくれる家族が鉱山の町にあるわ」
つぶやくように祐子が言って口をつぐんだ。Mは溜息を押し殺して立ち上がる。

「祐子の気持ちは分かったわ。陶芸屋には私が事情を説明する。私は、今の進太には睦月が必要だと確信しているわ。明日の午後、陶芸屋が訪ねてきたら、すぐ私に電話をちょうだい。もちろんナースも来るんでしょう」
「ナースは来ないわ。小父さんは陶芸をやめたって言ったわ。ナースが看護婦に復職して暮らしを支えているらしい。とても忙しくて、来られないと言っていたわ」
「そう」
Mは上の空で答えて玄関に向かう。陶芸をやめたという陶芸屋がイメージできなかった。

「大久保さんって、祐子にお似合いだったね」
靴を履きながら祐子を見上げ、さり気なく声を掛けた。大久保のことで生じた気詰まりを解いておこうと思ったのだ。
「ええ、私には大切な人よ。でも、彼にとって私は違う」
にべもなく答えた祐子の声に悲しさが溢れた。Mは自分のことも同時に言われたような気がして、背を向けてドアを開けた。


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