10.現金強奪

山を下りる日の朝、空は穏やかに晴れ上がっていた。春の匂いが山々に立ちこめている。木々は芽吹きを迎え、白梅の香りが漂ってくる。ハコヤナギの花が天を突いて燃え上がっていた。

午前十一時にログハウスの玄関ドアが開いた。Mと弥生、ピアニスト、修太、睦月、卯月の六人が白いパジェロに乗り込む。十分間の間隔を開け、二台のパジェロに分乗して全員が山を下る。車両後部の荷台には今朝摘んだばかりの山菜が山積みにしてある。早春の山菜採りの帰りを装って市街に乗り込むのだ。全員が入浴を済ませ、さっぱりした目立たない服装をしている。外見からは日曜日の朝を山菜採りで過ごしてきた仲良しグループとしか見えはしない。白いパジェロのハンドルはMが握った。Mを除いた全員が指名手配されている。危険すぎる人員構成だったが、出撃のグループごとに行動するためにはやむを得ない配車だった。何事もなく県境を越えて林道に入る。行き交う車もないまま市道へ出た。後は山地を通り抜けて市街に入るだけだ。全員が黙り込み、車内に緊張がみなぎる。助手席の卯月が黒いバッグを握り締めた。工学部に残る支持者たちが作った閃光弾を入れた大事なバッグだ。

左手に工学部の校舎が見えた。車両の数が増え、天満宮の前の信号が混雑している。水道工事で車両を誘導するガードマンの服装が警官に見え、ハンドルを握るMの手が汗ばむ。コートの下に吊ったショルダー・フォルスターのベレッタがやけに重い。機屋通りへ左折してしばらく走ると、見慣れた鋸屋根工場が見えた。社会変革を夢見たコスモス事業団の理事長がハイテクを駆使して作戦本部に改造した工場だった。チハルの生家で、現在は祐子のアトリエだ。二人が渡航してしまった今、工場を使う者はいない。それを承知で飛鳥が出撃の集結場所に選んだのだ。時刻はとうに正午を回っていた。決行時刻の六時まで、もう六時間を切っている。枯れた蔦の絡まった鋸屋根工場の前の広い車寄せにパジェロを止めた。ここから競艇場まで、車で三十分の距離だ。世界選手権の優勝戦に大勢のファンが詰めかけ、今ごろ場内は喚声で沸き返っているはずだった。

六人が車を降りるのと同時に鋸屋根工場のシャッターが上がった。ガラスの自動ドア越しに、ダークスーツを着た飛鳥の顔が見えた。幾分緊張した表情で一行に笑い掛ける。亡くなった理事長の自慢だったセキュリティー装置も、飛鳥のパソコン操作の前には無力だった。かえって古めかしい南京錠の方が役立ったかも知れない。飛鳥に案内されて、六人は奥のアトリエに向かった。アトリエは大小の織機とコンピューターだけを置いた殺風景な景観だった。この質素な部屋で祐子が機を織るのかと思うとMの目頭が熱くなる。思わず首に巻いたスカーフに手を伸ばして艶やかな質感を確かめた。

「さあ早く着替えてくれ。後続が着きしだい、最後のチェックをしよう」
ピアニストの合図で、飛鳥が用意した衣装を床に広げた。先にアジトを出ていた極月と文月、市庁舎爆破以来ずっと市と都会で攪乱工作を続けた葉月と長月の四人がシナリオに合わせて買い揃えた品だ。全員が裸になり、名前の貼ってある服に着替える。何回となく繰り返した練習の成果が、もうじき問われるのだ。Mと弥生、ピアニスト、卯月の強奪班四人は競艇場のガードマンと同じ制服に着替えた。修太と睦月の収容班は電気工事の技師の服装になった。遅れて到着した突入班の水無月と霜月、サポートの如月と神無月、皐月の五人もガードマンの服に着替える。全員が着替え終わって集合するとキッチンのドアが開いた。簡単な食事を載せたワゴンを押して極月と文月がアトリエに入って来る。二人は消防本部の救急隊員の格好をしていた。救急車を使った離脱班が役回りだ。しばらくぶりの再会にメンバーの表情がなごむ。ワゴンの後から入ってきたオシショウが右手に持ったワイングラスを掲げる。

「さあ滅びの時は近い。赤い血潮を、惜しまれるほどに沸き立たせるのだ」
酔いの回った声で言って、なみなみと注いだ赤ワインを一気に飲み干した。シュータのメンバーが喜んで拍手する。ピアニストが眉間に皺を寄せて飛鳥をにらみ付けた。足早にオシショウに駆け寄った飛鳥が、首を左右に振るオシショウの肩を抱いて無理やりキッチンに連れ戻す。

「最後のチェックをしよう。葉月と長月の遊撃班は、もう現場で待機している。残された時間は少ない。食べながら役割を再確認してくれ」
ピアニストが周りを見回して緊張した声で言った。手元のパソコンのキーを叩くと、何回となく見慣れた強奪計画のシミュレーションが画面に現れた。リラックスした声を装ってピアニストが配置を確認する。
「十二番目に行われる最終レースの優勝戦は、午後四時半にスタートする。突入班と強奪班の九人は、四時十五分を目標に二人ずつに別れて西側ゲートから場内に入ってくれ。場外の警備が終わり、帰り客の誘導に備えて戻ってきた振りをするんだ。専従の警備員は五十人だが、今日は臨時の警備員が百人もいる。優勝戦直前の興奮で怪しまれはしない。さり気なく場内を観察してくれ。客が帰り終わる五時半までに配置につけ。収容班の高所作業車は優勝戦の出走直前に正面ゲートから入れ。飛鳥が前もって門衛に電話を入れておく。まず怪しまれることはない。競艇ビルの北の照明灯は実際に四本も故障しているんだ。そうだな飛鳥」
呼び掛けられた飛鳥が前に出る。

「照明灯は四本とも昨夜故障させた。修理を頼まれた電気会社も確認済みだ。ただし修理予定は明日の月曜日。いつもの慣例なんだ。だが、一日早くなる修理に困る者はいない。電気工事とそっくりな大型クレーン車を用意して、鋸屋根工場の裏に止めてある」
ピアニストがうなずいて話しを続ける。
「離脱班の侵入は爆発の五分後だ。実際に駆け付けるパトカー、消防車、救急車の車列に紛れればいい。競艇場は隣町にある。巨大施設の競艇場で事故のあったときは、三市町の緊急車両が同時に駆け付けるんだ。互いに干渉している暇はないはずだ。疑われる恐れはない」
「救急車も白いワゴンを偽装して裏に用意してある。車体カバーを外せば出動できるようになっているよ。機材の調達はすべて、行き掛けの駄賃にコスモスの信用を使わせてもらった。日曜日の今日はコスモスも休みだ。問い合わせが来る心配はない。ついでにここで、全員に報告したいことがある。海外脱出用のクルーザーの手配が終わった。明日中に五億円を振り込めば、船員込みでいつでも出航できる。集結地点への到着は、夜中の零時までにしてくれ」
飛鳥が口を挟んで時計を見た。いつの間にか二時近くなっている。ピアニストが急いで先を続けた。最終チェックが終えた三時半にピアニストの携帯電話が鳴った。全員が耳を澄まして電話に注目する。

「オール、クリーン」
短いが、確かな女性の声が流れただけで電話は切れた。
「葉月からの最終報告だ。オール、クリーン、異常はない。二十億円が僕たちを待っている。出撃しよう」
ガードマンの制服に身を固めたピアニストが興奮を抑え切れずに高い声で言い切った。全員の目が輝き、室内に熱気が満ちる。携帯電話から流れる時報サービスに合わせて全員が腕時計を調整した。まず突入班の五人が出発する。後発の者たちと握手を交わし合い、全員で再会を誓う。

「生きて、またMに会いたいな」
霜月が大きな手でMの右手を握り締め、似つかわしくない真剣な声を出した。
「きっと会えるわ」
Mがうなずいて手を握り返す。
「うん、素っ裸でウサギ飛びをするMを、海外でもう一度見てやる」
「それは無理ね。今の私は足が速い」
苦笑して答えると、やっと霜月が笑った。緊張しきった巨体がやっと落ち着きを取り戻して出ていく。二十分後に、Mたち強奪班の四人も出発した。


Mは慎重にパジェロを運転した。四人もガードマンの乗った車が不審に思われないかと不安だったが、日曜日の街路は渋滞もない。あっという間に水瀬川を渡ってバイパスに入った。十五分ほど走ると、西に下った平地の真ん中に午後の日を浴びて輝く湖面が見えた。不死熊沼の湖面だった。かつて熊が落ちても死なないほど小さかったか、水深が浅いためかは知れないが、不可解な名の沼の半分を競艇場が使用していた。今や湖面面積は約二十万平方メートルとも豪語している。水深は最長で十メートルしかない。沼の中心部を幅八十メートルのコンクリートで直線に埋め立て、一部七階建ての巨大な競艇ビルが建っていた。床面積一万平方メートルの三階建ての観覧席は長さ四百メートルに渡って沼に面している。なんとも巨大で威圧的な建造物だった。

Mは正面ゲートの前でパジェロを止めた。ここまで来る間に満車の駐車場を五つも通り越した。どこにも駐車できるスペースはなかった。仕方なくピアニストと弥生をゲート前で降ろす。現場での再会を約して更に先に進んだ。さしもの巨大施設が小さく見える所まで来てから、満車を承知で無料の駐車場に進入した。広大な駐車場は車で埋まっているが人の気配はない。黒塗りのベンツの前に堂々とパジェロを停めて地上に降り立つ。黒いバッグを肩から下げた卯月が横に並んだ。日は大きく西に傾いている。夕暮れ間近な赤い空が二人しかいない人間を照らしだした。Mはベレッタで膨らんだ胸ポケットからレイバンのサングラスを出してかけた。

競艇場の方角から風に乗って喚声が聞こえてくる。今日十一番目のレースが始まり、六艇のボートが出走したらしかった。一周六百メートルのコースを左回りに三周するのが競艇のルールだ。一分五十秒前後で勝敗が決まる。時速八十キロメートルの水上の勝負だった。何億円という金が、もうじき水底に消える。次は最終レースの優勝戦が待っているのだ。いやが上にも興奮が募るのだろう。四万五千人の大観衆がどよめき、怒濤のような喚声が轟く。続いて、ひときわ高い声で場内アナウンスがレースの着順を告げた。声に煽られるようにMと卯月の足も早まる。優勝戦の発券を締め切る時刻を告げるアナウンスのバックに、急にオーケストラの調べが重なる。ワグナーの楽劇、ニーベルングの指環の第一夜、第三幕の前奏曲「ワルキューレの騎行」が遠く近く響き渡った。荘重で重々しく、それでいて全身を高揚させる生き生きとしたリズムと旋律を兼ね備えた楽曲が人々の心を煽る。血沸き肉躍るレースの前に相応しい音楽だった。いましも茜色の雲の浮いた西の空から八人の軍神の乙女が天馬を駆って舞い降りてきそうだ。そして今、Mは戦場に向かっている。敗者に選別されるわけにはいかなかった。

西側ゲートの巨大なアーチが二人の目の前に迫った。ゲートの向こうからざわついた雰囲気と興奮した熱気が伝わってくる。行き交う人の数が急に増えた。二人の横を数人の男がゲートに向かって走っていく。場内アナウンスが発券締め切り十分前を告げ「ワルキューレの騎行」がフォルテッシモで鳴り響いた。Mと卯月はゲートの横の通用口から、門衛に敬礼しながら場内に入った。門衛は二人を見ようともしない。

ゆっくりした歩みで二人は競艇ビルに向かった。都会の高層ビルが横たわったような巨大な建造物の一番奥に七階建ての本部ビルがそびえている。ごった返す観覧席を避けて建物の裏へ回った。途端に深閑とした風景が拡がる。随所に設けられた監視カメラを意識して、二人は任務を帯びて部署に急ぐかのように足早に歩く。巨大な建物の向こうからまた歓声が上がった。優勝戦を戦う六艇のボートが湖面に姿を見せたらしかった。目前の本部ビルの非常階段の下に人影が見えた。二人が近付くと人影は頭上を指差してからビルの陰に消えた。仕草からピアニストと知れたが、素知らぬ顔で非常階段と四階の踊り場を確認する。ついでに水銀灯が打ち砕かれた四本の照明塔も確認した。ビルの東側から低いエンジン音が聞こえ、修太が運転する高所作業車が姿を見せた。すべて計画どおり、時間どおりに運んでいた。

Mと卯月は本部ビルの前に回った。巨大な観覧席に人が鈴なりになり、熱い眼差しでスタートの瞬間を見守っている。圧倒的な興奮が頂点まで上り詰め、六艇が発進すると同時に悲鳴と怒号、歓喜と悲哀、一切の感情が混じり合った喚声が場内を圧した。二分間にも満たない手に汗握る時間は瞬く間に消え失せ、場内が一瞬静まり返る。勝敗が決してレースは終わったのだ。紙吹雪のように外れ舟券が宙に舞う。先ほどまでとは打って変わり、冷たいくらい落ち着いた声で着順のアナウンスが流れた。だが聴く者は誰もいない。潮が引くように興奮した人の波が出口へと向かう。賭事に名残を惜しむ者などいるはずもない。今日一日で二十億円が水底に消えていったのだ。


三十分間ほど目の前を人並みが行き過ぎると、場内の人混みはもう疎らになっていた。五時半になると薄闇が辺りを包み始めた。行き交う者も制服姿のガードマンが多くなった。Mは卯月と連れだって非常階段の下に向かった。ピアニストと弥生はすでに到着していた。ピアニストが時計を見てから卯月にうなずく。Mと卯月は胸を張って非常階段を上っていく。同じ歩調で四階の踊り場まで上り、卯月がドアの前にうずくまって錠に鍵を差し込む。機械工学科の支持者が技術の粋を集めて作った万能のマスターキーだ。時間さえかければどんなドアでも開けることができるのは実験済みだった。しかし今日、卯月には錠のサイズしかデーターがない。十五秒ほどたってから錠が反応し、やっとドアが開いた。奥に長い廊下が見える。予想していたとおり、鍵を使っての侵入では警報は鳴らない。地上のピアニストと弥生に合図をしてから中に入り、ドアを細く開けて手で支えた。ドアが閉まると自動的に錠がロックされてしまうのだ。ピアニストと弥生が滑り込んでドアを閉めると、卯月がバッグから爆薬を出して錠の回りにセットする。素早く三人が背で卯月の作業を隠した。

本部の四階はシミュレーションの画面のとおり、廊下を挟んで大小の会議室が並んでいる。数個の非常灯だけが灯され、フロアは薄暗く、ひっそりと静まり返っていた。十年に一度有るか無いかのビックレースの最終日に開かれる会議などある道理がない。八十メートル続く長い廊下の果てに目的のエレベーターがある。ピアニストを先頭に、四人は堂々と廊下の中央を歩いて奥に向かった。大型の業務用エレベーターと小型の乗務用エレベーターの扉が並んでいる。見上げた表示では、二台とも一階で止まっている。時計を見ると五時四十五分だった。地階のエレベーターから銀行員が七階の会計室に上って来るまで、まだ十五分もある。四人はエレベーターの横の階段を上がって、踊り場で待機することにした。同じように地階で待つ突入班のことを思うと、強い連帯感が沸いてくる。


明るく照明された地階中央の身障者用トイレの中で、突入班の霜月と水無月、サポートの如月と神無月、皐月の五人が待機していた。客がいなくなり人影も途絶えた広い地階では、身を隠す場所はトイレしかない。五人の潜んだトイレは本部ビルへ続く通路のドアの前に位置していた。身障者用トイレは広いが、大人五人では身動きもままならない。四人は立っていたが、霜月一人が尻を剥き出しにして便器に座っている。しくしくとした痛みが下腹部を襲い、醜い音を立てて下痢便を排泄する。異臭が狭い個室を覆った。苦しさに眉をしかめた霜月が神無月を見上げ、か細い声を出す。

「このままでは、俺が足を引っ張りそうだ。分担を代わってくれ。作業は水無月ができる。ただ走ればいいんだ。頼む」
便器に座り込んだ巨体が、消え入ってしまいそうなほど縮んで見えた。
「もちろん俺が代わる。サポートだけは糞を垂れ流してもやれよ」
神無月が冷たく言って、霜月が抱えていた爆弾を乱暴な手つきで取り上げる。
「丁寧に扱え。爆発したらどうする」
霜月が苦痛を堪えて叱責した。
「この爆弾はピアニストが爆破スイッチを押さない限り破裂しないさ。俺の運命はあいつに握られるんだ。霜月は運がいいよ」
皮肉に答えた声が震えていた。霜月の背筋を冷たい汗が伝う。確かに神無月の言うとおりだった。

「六時ジャストだ」
気分を変えるように、爆弾を抱えた神無月が言ってドアを開けた。廊下の向かいに本部ビルに繋がる地下通路の鉄のドアが見える。突入をサポートする如月が上着の下からベレッタを抜き、ドアから半身を出して左右を見渡す。そのまま一気に地下通路のドアの前まで走り、壁に背を向けて屈み込んで拳銃を構えた。皐月が後に続いた。水無月と神無月もドアへ走り、用意してきたマスターキーを水無月が錠に差し込む。

「遅い、まだか」
遅れてきた霜月が片手を下腹に当てて苦しそうな声を出した。水無月の胸ポケットで携帯電話が一回振動してやんだ。急いで時計を見る。
「葉月からサインがあった。銀行員が到着した。二分遅れだ。次のサインでゴーだ」
水無月が低い声で言ってマスターキーを回す。確かな手応えがして、錠が外れた。後は四階にいるピアニストのサインがありしだい、百三十メートルを疾走するだけだ。

携帯電話で葉月のサインを受信した強奪班もエレベーターの前に急いだ。見上げる表示板が点灯し、一階で止まっていた業務用エレベーターが地階に下りる。正面ゲートから入ってきた現金輸送車が地下ゲートに到着したに違いない。シミュレーションどおりだった。ゲートで車を降りた銀行員が地階の警備員と合流し、二十億円を運ぶリヤカーほどもある台車を押してエレベーターに乗り込み、七階の会計室に向かうのだ。エレベーターの赤い表示ランプが地階に点いたことを四人が確認した。

「来るぞ」
ピアニストが低い声で言ってエレベーターの正面に立った。弥生が卯月とともに扉の左端に退く。Mは右端に寄り、卯月から渡された閃光弾を握り締めた。携帯電話を握ったピアニストが一心に表示ランプを見つめる。電話は地階の水無月と繋がれている。赤い表示ランプが三階に灯る。低いモーターの音が扉越しに聞こえ、七階までノンストップの直通にしたエレベーターが四人の目の前を上がっていった。すかさず、ピアニストが携帯電話のコールボタンを押した。

地階の通路ドアの前で待機した水無月の胸ポケットで、携帯電話が振動した。本部ビルへと続くドアが開かれ、無人の通路を二人が疾走する。通路を七十メートル走り、直角に曲がる。また三十メートル走った左手に二つのエレベーターがある。小型の乗務用エレベーターの扉の両側にリモートコントロールで作動する爆薬を三十秒でセットする。後は爆風が届かないように祈りながら全力で走り、角を曲がりきるのだ。

「速い」
四階の廊下にピアニストの驚愕した声が響いた。全員が表示ランプを見上げて戦慄した。七階に着いたばかりなのに、もうエレベーターが下り始めている。二十億円の現金はすでに台車に乗せて、会計室に用意されていたに違いなかった。計画は狂った。もはや突入班が時間どおりに脱出できることを祈るだけだ。生還の可能性はある。リハーサルは最短時間で何回となくこなしてきたのだ。きっとできるとピアニストは思い定めた。胸ポケットからリモートコントロールの起爆装置を取り出してから、ゆっくり床に伏せた。青ざめた表情の三人がピアニストに倣う。

表示ランプが五階に点灯した。容赦なくピアニストが爆破スイッチを押した。床に伏せた四人の身体を衝撃が突き上げる。低い爆発音が腹に響いた。四人とも目を大きく見開き、表示ランプを見上げて耳を澄ます。ビル中にけたたましく鳴り響く警報音に混じって低いモーターの音が響き、目の前の扉の向こうでエレベーターが止まった。爆発の衝撃を関知したセンサーが作動して直通エレベーターを最寄りの四階で止めたのだ。地震を想定した震災マニュアル対応のエレベーターはありがたいものだった。爆発の衝撃を地震と勘違いして、この階で止まってしまう。もうすぐ扉が開く。

開き始めた扉の隙間から、Mと弥生が閃光弾を投げ込む。爆発の轟音とともに白い閃光が薄暗い廊下にきらめいた。四人は床に寝ころんで両手で目を覆う。狭いエレベーターの中ではひとたまりもない。薄く目を開くとエレベーターの扉が大きく開き、四人の男がよろばい出てきた。Mと弥生が立ち上がり、瞬間的に盲目になってしまった男たちの背後に回った。用意した手錠を男たちの後ろ手にかける。抵抗できる者は一人もいなかった。エレベーターの中に飛び込んだピアニストと卯月は、畳ほどの大きさがある台車を廊下に運び出した。大きなジュラルミンのコンテナが山になってぎっしり積んである。Mと弥生が銀行員とガードマンをエレベーターの中に追い立て、扉の閉鎖ボタンを押した。振り返ると、台車はもう長い廊下の中程を進んでいた。二人は走って台車を追い越す。非常階段のドアまで行き、仕掛けた爆弾の安全ピンを抜いて爆破させた。大きな爆発音の割に衝撃も爆風もない。錠のあった部分にだけ穴が開いた。ドアを大きく開け放つと暗闇の中に睦月の顔が浮かんでいた。踊り場の手すりがすっかり切り取られ、睦月の乗った作業用のゴンドラが床と並行して接していた。コンテナを満載した台車を突き出し。五人掛かりでゴンドラにコンテナを積み込む。計画と違って作業ははかどらない。予定よりコンテナが多すぎて、ゴンドラに積みきれないのだ。金種別に別れたコンテナを、額面の高い順に表示を選んで乗せるしかなかった。台車のバランスを考えて、重い小銭が下に積んであったことだけがうれしかった。

広大な場内に鳴り響く警報音が季節外れの蝉時雨のように耳に障る。遠くからもサイレンの音が響いてきた。緊急車両が競艇場に殺到してくる。最初の爆発からもう五分が経過していた。正面ゲートの方角から前照灯と赤色灯を闇に輝かせ、救急車が飛び込んで来た。高所作業車の前に急停止し、すぐ明かりとサイレンを消す。極月と文月の離脱班が到着したのだ。二人が救急車を降りて後部ドアを大きく開けた。

「よし、離脱だ。残りは放棄する」
台車に残った十個のコンテナを見下ろしてピアニストが決断した。卯月が睦月の横に飛び乗ると同時に、ゴンドラが大きく揺れて宙に浮いた。修太が高所作業車のヘッドライトを灯して慎重にクレーンを操る。やっとゴンドラが救急車の床に並んだ。素早くコンテナの積み込みが始まる。四階に残った三人はベレッタを抜いて、背後の廊下と眼下の闇に身構える。

「犯人がいたぞっ。おとなしく投降しろ」
廊下の奥から怒声が響き、数人の警官が走ってきた。ピアニストが天井の非常灯に向けて発砲した。十五発の銃弾が連続して手前から奥に向かって非常灯を撃ち壊していく。警官は床にぴったり伏せ、銃声が途絶えると同時に階段の陰に逃げ帰った。階段の陰から拳銃を抜いて応射してくる。積み残したコンテナで銃弾が跳ねた。ピアニストの横で弥生がベレッタで撃ち返す。廊下の奥からの発砲も増えてきた。パトカーが裏に回って来るのも、もう時間の問題だ。

「援護するから、非常階段を下りて救急車に乗り込め」
マガジンを入れ替えたベレッタを構えて、ピアニストがコンテナの陰から叫んだ。Mは躊躇する弥生の手を取って、一緒に階段を駆け下りる。目の下の闇で、ようやくコンテナの積み込みが終わった救急車が赤色灯を回転させている。高所作業車から飛び降りた修太が救急車の後部ドアに走った。飛び乗りざまドアを閉める。途端に救急車が発進した。

「待ってっ」
やっと非常階段を下りきったMと弥生の叫びをサイレンがかき消す。救急車は西側ゲートに向けて疾走して行った。取り残された二人の頭上で連続して銃声が響いた。全弾を撃ち尽くしたピアニストにマガジンの予備はもうない。スライドが開ききったベレッタを握って、転げるように二階の踊り場まで下りて来た。四階の踊り場から警官が身体を乗り出して発砲した。二階で釘付けになってしまったピアニストを援護して、Mと弥生が交互に射撃する。正面ゲートの方角から無数のサイレン音が聞こえる。通報を受けたパトカーが非常階段に向かって来るに違いなかった。

「ピアニスト、飛び降りるのよ」
Mが上を向いて叫び、ベレッタを連続して発射した。警官がドアの陰に隠れた隙を突いてピアニストが二階の踊り場から身を躍らす。コンクリートの地上に着地した足がよろけて、地面に倒れた。Mと弥生が走り寄って抱き起こし、三人で闇の中へ向かった。ピアニストが左足を引きずる。飛び降りたときに捻挫したようだ。背中で銃声が響き、三人の後ろの路上で銃弾が跳ねた。弥生が振り返ってベレッタを構え、四階の踊り場に向けて残った全弾を発射した。物陰に伏せた警官が再び発砲するまで、しばらく間があるはずだ。三人はフェンスを乗り越え、沼の畔にしゃがみ込んだ。飛鳥が壊した照明塔が望外の闇を提供していた。Mと弥生がベレッタに予備のマガジンを装填する。競艇ビルを回り込んで三台のパトカーが非常階段の下に止まった。三人から五十メートルと離れていない。

「出口無しね。沼に入るしかないわ。運がよければ対岸に上がれる。まさかこの寒さの中を水に入るとは思わないでしょう」
Mが提案すると、弥生もピアニストもそろってうなずく。ベレッタをフォルスターに入れて三人でコンクリートの護岸にうずくまった。沼に背を向け、音を立てないように足から水に入った。冷たい水に首まで浸かったが、足は底に着かない。できるだけ静かに立ち泳ぎを続ける。二百メートル先の対岸に行き交う車のライトが見えた。護岸に手を掛けて立ち泳ぎを続けながら非常階段から遠ざかる。服が泳ぎの邪魔をし、水の冷たさが全身を覆った。

「時間がかかりすぎる。沼を疑われて湖面を照らされる前に対岸に泳ぎ着くしかない。靴も服も脱いで裸になろう。泳げば身体も火照ってくる」
ピアニストが押し殺した声で提案した。三人は水の中で服を脱ぎ、靴を脱ぎ捨てた。脱いだ物を両手で持って大きく息を吸って水中に潜る。服と靴が浮き上がって来ないように護岸の底の隙間に厳重に押し込む。湖面の浮遊物を目撃されれば、警官が沼に集まってくるに違いなかった。再び浮き上がった三人は対岸を目指して泳ぎ始めた。できるだけ水を攪乱しないように細心の注意を払って泳ぐ。水面から競艇ビルを振り返ると、非常階段付近が投光車に照らし出されて昼のように輝いていた。場内の明かりも全部灯っている。三人のあぶり出しが始まったようだった。

ようやく岸に泳ぎ着いた三人は、急いでアシ原に踏み込んでいく。腰を曲げ、膝を折った低い姿勢で低いアシをかき分けて奥に進んだ。競艇ビルから差し込む明かりが三つの裸の尻を照らし出す。全身が寒さに震えた。踏み出す素足が泥田にはまり込んで沈み込む。底なし沼に呑み込まれるような恐怖が掠めた。やっと丈高いアシの間に入り込み、乾いた草地を見付けてしゃがみ込んだ。ピアニストを中心にして三人で抱き合い、素肌を擦り合って暖をとる。Mの左手首でタイメックスの燐光時計が光った。ピアニストが時計をのぞき込む。時刻は午後七時だった。

「参ったな。ここから市街地まで歩くと二時間はかかる。おまけに三人とも素っ裸だ。夜が更けるまで待って車を奪うべきかな。武器はあるんだ」
震える声でピアニストがつぶやいた。
「私はすぐ行動すべきだと思う。歩けば直距離で行ける。車だと夜は検問が厳しいわ。非常線が張られていると思った方がいい。まさか素っ裸で、てくてく歩いて市街に入るとは警察も思わないわ。足をくじいたピアニストにはかわいそうだけど、警察の裏をかける」
外していたフォルスターを左肩に吊りながら弥生が言った。白い乳房の横に並んだ黒い銃把が凶々しい。

「弥生の説が正論みたいね。脱出地域を限定できない警察が、畑や路地裏にまで目を光らせる余裕はないわ。歩きが一番安全で行動の自由が得られる。車を奪うのは発見されてからでも遅くない」
Mが弥生の説に賛同した。ピアニストがしばらく目をつむり、じっと考えてから口を開く。

「二人に迷惑をかけるかも知れないが、歩こう。一人は僕に肩を貸してくれ、もう一人が十メートル先を進む。最短距離で集結地を目指そう」
ピアニストの声で三人は行動を開始する。Mが白い尻を振ってアシ原を上り、一車線の路上をうかがう。道の向かいは低くなった畑が二十メートルほど続き、小さな林が遮っている。左右を見回し、車の途絶えたことを確認したMが道路を横断した。弥生に肩を預けたピアニストも後に続く。三つの裸身が畑を横切って林の中に消えた。一時間前の大事件が嘘のように、林の中は静まり返っている。時たま渡る冷たい風が、頭上で裸の梢を鳴らすだけだ。Mは急に首筋に寒さを感じた。手でうなじを探ると愛用のスカーフが無くなっていた。靴や衣服と一緒に沼底に沈めたことに思い当たる。途端に悔いが募った。連れ添ってきた祐子がいなくなり、一人で取り残された気がした。だが、同じ道を歩く者はいない。幾つかの交わらぬ道が並行して、ひとすじに続いているだけだと思い直す。


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