3.商談

バイパス沿いにある警備会社の構内には、パトロール車両が二台待機していた。日曜日にも関わらず、普段と変わらない緊張した雰囲気がMの気持ちを落ち着かせる。鉄筋コンクリート造り四階建ての社屋は貸しビルだが、現在は全体を警備会社が使用している。警備業務に加え、手広く人材派遣業に業態を拡張した社の業績は順調だった。Mが工事現場の交通誘導要員として働きだした三年前は、一階のオープンスペースしか借りていなかった。たかが三年が経過しただけだが、社業の発展には誇らしささえ感じられた。Mは社屋裏の職員駐車場に向かう。

正面玄関前の来客用の駐車スペースには紺色のシーマが駐車してあった。これから人材派遣の仕事で会うことになっている、水瀬産業社長の愛車に違いなかった。新興の中小企業の経営者にふさわしい車だ。ベンツやBMWとは人に与える信頼度が違う。地道な商売を続けていく意気込みを、問わず語りに取引先に伝えることができる。Mは約束の時刻に遅れたことを恥じた。ダッシュボードの時計は午後二時を七分回っている。十分間の遅刻になりそうだった。職員駐車場に回るのをやめ、Uターンしてシーマの横にMG・Fを止めた。急いで玄関をくぐり、Mに敬礼する当直の警備員に目礼を返しながら正面階段を上った。二階の応接室のドアの前で、Mは大きく息を吸って呼吸を整える。軽くノックしてから勢いよくドアを開いた。

「いらっしゃいませ。お世話になります」
はっきりした節度ある声が室内に響いた。Mは約束の時刻に遅れたわびは言わない。まだ商談の内容がはっきりしないのだ。始めから下手に出る必要はなかった。Mの声で、ソファーに並んで座っていた三人の男女が一斉に立ち上がった。次々に挨拶の言葉を述べる。水瀬社長と極月の間にいる、今日初めて会う長身の男は沢田と名乗った。三人にそれぞれ挨拶を返してから、Mは改めて席を勧めた。テーブルを挟んで全員が席に着くと同時に、水瀬社長が口を開く。

「早速だがMさん。今日は二つのことで相談に乗ってもらいたい。私は人事案件は日曜日に済ますのがモットーなので、ご迷惑だろうがご協力願いたい」
早口で用件を切り出した水瀬社長は、薄くなった髪をきちんとなでつけ地味なグレーのスーツを着た目立たない男だ。社長というより銀行の支店次長といったタイプに見える。太い眉の下で丸い目が忙しなく動く。頭の回転も速いに違いない。人事案件という言葉で、用件の一つはMに予想できた。極月の処遇に相違なかった。優秀すぎる人材を派遣すると、往々にして派遣先に引き抜かれることがある。人材を評価されたうれしさはあるが、今後の営業を考えると頭が痛くなる話だ。人を商品として売り込むビジネス特有の悩みでもあった。

「まず、一点目は言い出しにくい。率直に言えば、極月を我が社に譲り受けたい。もう一点は、マネジメントのできる人材を三人、一か月ほど派遣して欲しい。この二点で相談がしたい」
水瀬社長が短く言って口をつぐんだ。意見の撤回はしないという強烈な意志が口元に溢れている。答えを促すように丸い目でMを見つめた。Mは黙ったまま水瀬社長の隣りに座る極月に目を移した。モスグリーンのスーツを着た極月の頬がほんのりと赤くなっている。襟元にのぞくベージュのシャツが、窓から入る日を浴びてまぶしい。しなやかな身体を真っ直ぐに伸ばし、Mの視線を捕らえて口を開いた。
「Mにも警備会社にも、仕事の機会を与えてくれたことを感謝しています。でも、自分の能力を認められ、求められることは恥ずかしいほど誇らしい」
至極当然の言葉だった。自らの価値を認められて喜ばない者はいない。Mは小さくうなずき、水瀬社長に視線を戻した。
「派遣した人材が喜ばれてこその仕事です。本人も移籍を望んでいる。私の一存では即答できませんが、恐らく問題はないでしょう。移籍に当たっては能力に見合った処遇をお願いします」
「ありがたい、助かります。もちろん最高の処遇で迎えますよ」
満面に笑みを浮かべ、弾む声で水瀬社長が答えた。
「M、ありがとう。そう言ってくれると思っていたわ。二つ目の案件については水瀬産業の社員として、私が説明します」
水瀬社長の言葉を引き取るように極月が言い、Mの前に名刺を置いた。水瀬産業の社用の名刺だ。氏名の前に「社長室システム開発課長」と誇らしく肩書きが印刷されている。何のことはない、すでに処遇は決められ、事後承諾を求められただけのことだった。Mは憮然とした表情で極月の目を見つめた。極月は口元で小さく微笑み掛けてくる。まるで、小さないたずらをとがめられた少女が見せる仕草のように邪気がない。はじめからMの寛容を信じ切っている風情だ。Mの表情に動じる気配も見せずに仕事の話を始める。

「これからお願いすることは、弊社とは直接関係がありません。広域チケットサービスのコンピューター・ネットワーク開発事業に付随して依頼されたものです。七月一日から三十一日までの一か月間、こちらの沢田さんが率いる劇団が稽古のため煉瓦蔵に合宿します。この合宿のマネジメントができる人材を三人派遣して欲しいのです」
極月が簡潔に用件だけを切り出して、隣りに座る沢田に目を向けた。極月の後を引き取って沢田が話し始める。
「劇団・真球は国際演劇祭に向け、この市で稽古に専念したいのです。いわゆる裏方の業務の一切を、御社が派遣する人たちにこなしていただきたい。煉瓦蔵はアーティストのイメージを駆り立ててやまないロケーションです。せっかくのイマジネーションを雑事で惑わされたくないのですよ」
沢田の声は歯切れのよいバスだ。腰のまわりに鳥肌が立ちそうなほどセクシーな音質だった。しかし、早口で神経質なところがMの気に障った。自分の声の美しさを武器にできない者に、どれほどの芝居ができるのだろうかと思ってしまう。言っている内容も空疎で自分勝手な要望だけだ。Mを見つめる大きな目も、違和感を感じるほど熱く燃え上がっているように見えた。

「何名様が、どこで合宿なさるのですか」
努めて冷静な声でMが尋ねた。
「十五人。いや、今回は九人。だから、余計なスタッフ業務はさせられない。僕は今回の出し物に、芝居生命を賭けているんだ。すべての役者に、肉体表現の限界まで演じさせてみせる」
宙を見つめた沢田の口から素晴らしいバスがこぼれた途端、またMの耳の底で言葉が空疎な呪文に変わる。Mの気持ちを察した極月が、沢田の話を急いで引き取った。
「沢田さんのイメージでは、煉瓦蔵の周辺のアパートや民家などに分散して宿泊したいそうです。一か月間を煉瓦蔵を中心にした地域の中で暮らすことによって、演劇のインパクトを高めたいのだそうです。しかし、この暮らしはあくまでも擬似的なもので、人為的に創作して欲しいとのことです」
沢田の希望を代弁する極月の口元がまた笑っている。地に足の着いていない話はもう懲り懲りだった。極月と沢田のどちらへともなくMがつぶやく。
「具体的に言って欲しいですね」
「私見では、煉瓦蔵を中心にした地域をホテルのような感覚でアレンジして欲しいと言うことでしょう。ビジネスホテルに泊まるより、臨場感があります」
さり気なく極月が答えた。
「そうそう、ようは離れた旅館でなく、煉瓦蔵の近くにいたいってことですよ」
うんざりした顔で三人の会話を聞いていた水瀬社長が、ぶっきらぼうな声で間に入った。

「いや、劇団員には積極的に暮らして欲しい。周辺の人と打ち解けた生活をさせたい。近くの銭湯に行かせ、商店街で買い物もさせたい。稽古の期間中は、もちろん自炊をさせる。僕が劇団員に求めるのは、表現力としての肉体なんです」
強い口調で沢田が水瀬社長の言葉を遮った。あくまでも自分独自のイメージに固執するつもりのようだ。夢想を実現できる人材などいるはずがない。派遣した人材と劇団とのトラブルが目に見えるようだ。傷がつくのが分かっていて大事な商品を派遣することはできない。だが、水瀬社長の顔をつぶすわけにもいかなかった。即座にMは、自分自身で処理することに決定した。

「お申し出の件は、ただ人材を派遣して済むこととは思えません。どちらかというと環境をコーディネートする仕事です。費用はいくらか割高になりますが、劇団合宿の環境づくりとしてお引き受けしたいですね。よろしければ私が直接担当します。ただし、人材の派遣ではないので、いつも現場に人がいるというわけにはいきません。あくまでも、九人の劇団員で一か月の稽古合宿ができる環境の整備と管理をお引き受けします。いかがですか」
「僕は賛成です。かえって自然な暮らしが楽しめそうだ。何よりもMさんが担当してくれるなら安心できる」
沢田が身を乗り出して賛意を表明した。Mに向けられた大きな目が一段と燃え上がっている。白いものが混じった長めの髪が慌ただしく揺れた。早口のバスの語尾も甘く震えていた。沢田が納得したことで、水瀬産業には何の異議もない。かえって、やっかい払いができて、ほっとしたという雰囲気さえ社長のまわりに漂っている。今日の案件はすべて終了した。和やかな表情で席を立った三人をMは玄関へと見送る。

シーマの横で水瀬社長と短く言葉を交わしていた極月が戻ってきて、Mの横に立った。
「今日の仕事は終わったわ。社長の許可をもらったから、私はMと一緒に帰る。いいでしょう」
Mの都合も聞かずに極月が一方的に言って、走り出したシーマに頭を下げた。Mも慌てて頭を下げる。後部座席に座った沢田が無遠慮にMの全身を見つめていた。

「沢田って男、変わっているでしょう」
バイパスをしばらく走ってから、助手席の極月がMに声を掛けた。ずっと黙っているMの態度に、さすがの極月も気詰まりになったらしかった。
「あなたたちが連れてきたお客よ。私に押し付けておいて、変わっているもないもんだわ」
「Mに叱られるゆえんはないと思うわ。少なくとも、一か月で延べ九十三人の人材を派遣できる客を紹介したのだし、客の中には変わった人がいても不思議はない。私は、私の印象を確かめたかっただけよ」
Mのなじる言葉に極月が冷静に答えた。相変わらず明快な性格が今のMには新鮮に映る。ねちねちと絡みついてくる睦月とは正反対だ。この後待ち構えている睦月との対決の前に、極月に会えてよかったと心から思った。話し掛けられるまで黙っていたことが悔やまれてしまう。Mは素直に兜を脱いだ。

「そうね、私にも変わった人に見えたわ。沢田さんのことを、詳しく教えてちょうだい」
普段どおりのMの声を聞いて、固くなっていた極月の体がほぐれる。リラックスした答えがオープンにした車窓から流れていく。
「沢田正二、五十歳。劇団・真球の主宰者で演出家。旧財閥の御曹司の外孫で資産に恵まれているわ。これまでに国際演劇祭で五回の入選歴があり、今回は満を持してグランプリを狙う。実際はこんなことしか知らないの。ごめんね、無責任かな」
「どんなジャンルの演劇なの」
「アヴァンギャルドよ」
「なに、それ」
「知らないわよ。本人がそう言ったわ。前衛かなんかじゃないの。ヌードも出るそうだから。詳しいことはMが直接聞いてよ。きっと、うんざりするほど解説してくれるわ」
極月の無責任な声が、暮れかかったような暗鬱な空に消えていった。まだ四時を回ったばかりなのに、スモールランプを点灯した対向車も目立って増えてきた。季節が冬に戻ったような天気だが、気温だけがやけに蒸し暑い。水瀬川に架かる大橋を渡りきって市街地に入り、織姫通りに合流する信号でお定まりの渋滞に巻き込まれた。

「極月の課長昇進を祝ってディナーをおごりたいわね。今夜の予定はあるの」
真っ直ぐ前を向いた極月の横顔にMが呼び掛けた。途端に極月の頬が赤く染まる。
「やはり、移籍の件で腹を立てたのね。Mは気短になったわ。歳のせいとは言わないけれど、良くない傾向よ。中小企業の名刺の肩書きなんか、全員が課長か部長だわ。水瀬産業に派遣されて持たされた名刺があれなの。ちょっとMをおどろかせてみたかっただけよ。やきが回ったんじゃないの」
気短なのは極月のほうだとMは思う。有能なビジネスマンとして評価されるようになっても、Mの前では悪振りたいのだ。昇進して移籍することを指摘されて照れているだけだった。即座に筋書きを作ってしまう頭の回転の良さには舌を巻いてしまう。しかし、水瀬産業では派遣社員に名刺を持たせた前例はない。Mはことさら冷たい声で尋ね返した。
「そう、一緒に食事をしたくないのね」
「私はそんなことは言ってないわ。でも、ディナーをおごられるのはいや。Mの部屋で手作りの料理をごちそうになる」
ことさらに首を曲げてMを見た極月の口が、意地悪そうに笑っていた。Mは心底怒りたくなる。
「極月の嫌味は年期ものだわ。私がレトルトパックの料理しかできないことを、とうに知っているでしょうに。当てつけとしか思えない」
「ハハハハ、またすぐ怒る。まだ宵の口にもなってないわ。料理は私が作る。Mは私の料理でもレトルトパックでも、お好きな方を選べばいい。とにかく、レストランでなくMの部屋で食べましょうよ」
極月の笑い声が響き、前の車が発進した。いつもの生意気な物言いに閉口しながらも、アクセルを踏み込むMの気持ちは爽快だった。

最高のローストビーフを作るという極月に付き合い、Mは肉屋とスーパーと酒屋に寄り道した。MG・Fの狭いトランクに、大きな牛肉のブロックと様々な香味野菜の入った袋と、ブルゴーニュのルージュと冷凍のフライドポテトを入れた袋が仲良く並んだ。Mは自分の食生活の貧しさを思い知らされるようで情けなかった。でも、誰が作るにせよ本格的なローストビーフは大歓迎だ。メインデッシュの横に添えるフライドポテトを、できるだけ慎重に揚げようと思った。足取りも軽くアパートの階段を上がり、Mと極月はキッチンのテーブルに向かい合って座った。Mの肩越しに流しを見た極月の眉が上がる。

「いくら忙しくても、食事の後片付けは出掛ける前にしておいたほうがいいわ。帰って来てからしようとしても、うんざりしてしまって、次の料理がしたくなくなるでしょう。この悪循環は、必ず繰り返すわ」
Mは返す言葉もなくうつむいてしまった。すべてもっともな話で、いつも悔恨にとらわれてしまう事実だった。よりによって進太と食べ散らかしたスパゲッティの残骸を極月に発見されるとは思いも寄らなかった。日頃の悪しき習慣を呪うしかない。上目遣いに見た時計は五時十分前を指している。睦月と約束の時刻まで十分しかない。知っていて極月を食事に誘ったことを恥じた。しかし、睦月との過酷な時間に耐えるには、楽しい食事が待っているに越したことはなかった。Mは小さな声で極月に約束を告げた。

「最大限に反省するわ。このとおり顔も上げられない。ついでに、もう一つ謝らなきゃならない。私はこれから睦月と約束があるの。一時間ほどで戻るけど、流しの後片付けも料理の手伝いもできないわ。ローストビーフはどのくらいでできるの。食事だけは、ぜひ一緒にしたい」
Mの言葉で極月の頬がぷっと膨れた。突き出した口から機関銃のように言葉が打ち出される。
「食事を誘ったのはMよ。おしゃべりしながら一緒に料理を作るのも食事のうちでしょう。だから私は手作り料理がいいと言ったのよ。おしゃべりなしで、私が一人で料理をすれば、確かに効率がいいから一時間ほどで出来上がるわ。でも味気ないでしょう。私はコックじゃないわ。何が睦月と約束よ。子供を虐待するのが趣味の女と会う必要がどこにあるの」
下を向いたMの頭上を非難の声が駆け抜けていく。余りにも正当な非難に、Mは顔を上げることができない。すべての感情を声にこめて極月に投げ掛けるしかなかった。

「極月、私も行きたくない。でも、今は進太のために行かなくてはならないの。睦月の虐待を止めに行くのよ。お願い、私のために最高のローストビーフを作って待っていて。あなたと一緒に夕食を食べる楽しみが、きっと嫌な時間を耐えさせてくれる。ねえ、たった一時間よ。六時までには必ず戻る」
言い終わって恐る恐る顔を上げ、極月の顔を見た。目が合うとまた極月が意地悪そうに笑った。並びのよい白い歯が蛍光灯の光を美しく反射した。今日、何回笑われたか数え切れないくらいだった。白い歯が消え、代わりにしっかりした言葉が落ちてきた。

「端的に言うと、睦月には子供を育てる資格がない。ほかにすがるもののない女が一人、子供にすがりついて猫かわいがりしている。もう一人の女は、大きく開けていくかも知れない将来に対する野心を抱え、足手まといになった子供を憎み続けている。つまり睦月の人格は二つに分裂している。病気なのよ。病人に育児は任せられないわ。鉱山の町に住む修太の両親が子供を引き取るべきよ。Mがやりにくければ私が連絡してもいい。Mは決断すべきよ。そのきっかけになるのなら、私は一人で料理を作ってMを待つ。まず、睦月と会わなければならない理由を聞かせて欲しい」
極月の言うことはすべて、真実の一面を言い当てていた。Mは折檻の身代わりになるという一点をのぞいて、今朝からの出来事のすべてを極月に話した。
「いいわ。行ってらっしゃい。帰って来たら、進太のために最上の道を考えましょう。とびっきりのローストビーフを作っておくわ」
極月の了承する言葉を聞いて、Mは椅子から立ち上がった。見上げた時計の針はまさに五時丁度を指していた。間違いなくまた遅刻だった。
「待つ時間は、きっちり一時間よ」
極月の告げる制限時間を背中で聞きながら、Mはドアを開けて外に飛び出して行った。


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