9.祖父
盛夏の日射しが土曜日の駅前広場に降り注いでいる。高架になったプラットホームから見下ろす広場に人影はない、人影どころか、動くものもないコンクリートの広場は、影さえなくして静まり返っている。

陶芸屋は不自由な右足を引きずってプラットホームをゆっくり歩く。前を行く乗客の姿は階段に飲み込まれ、すでに見えない。振り返って見ても、後に続く者はいない。ちっぽけな二両編成のディーゼルカーが、まぶしい光を浴びて停まっているだけだ。茶色に煤ぼけたトロッコのような車両は、鉱山の町から終点の市まで一時間三十分をかけて陶芸屋を運んできた。

「車に乗れたらな」
思わずつぶやきが漏れ、その弱々しさに肩をすくめる。いつの間にか曲がっていた背筋を伸ばし、陶芸屋は目の前に広がる市街をもう一度見つめた。息子の修太の命をあっけないほど簡単に奪い去った憎々しい街だ。ありったけの憎悪を持って対峙しようと思うが、熱射に灼ける街はただひたすらだるく、眠っているように見える。大きく髪が後退した額から流れ落ちた汗が目に沁み、涙が滲む。ぼんやりと霞んだ市街が陽炎のように揺れた。

陶芸屋は左手に握ったステッキに力を入れ、自由にならない右足を踏み出す。固くなった右半身がわずかに弧を描き、地を這うように硬直した右足が一歩を踏み出す。曲がったままの右腕が胸の前で震える。全身から汗が滴り落ちる感触がつらい。しかし、独りで歩けるまでに回復した喜びもあった。もう少し頑張ってリハビリテーションを続ければきっと、身体障害者仕様の自動車が運転できるようになるに違いない。その思いだけが今の陶芸屋の生きる希望だ。果たされないかも知れない希望だった。脳梗塞は治癒したわけではない。いつまた勝手気ままな脳の血管が詰まるか分からない。かろうじて残った発語機能が奪われる恐れもあった。それどころか植物人間になる可能性もある。右片麻痺の後遺症が残った陶芸屋は別に死は怖れなかったが、全身の不自由を極度に怖れた。

階下の改札口に続く長い階段の入口が、やっと目の前に現れた。思ったより急な階段だ。天井の中程に宙づりにした横断幕が微かな風に揺れている。明後日から始まる八木節祭りを、真っ赤な文字で仰々しく宣伝した陳腐な幕だ。陶芸屋は祭りより、まず階段を下りることを考えねばならない。灰色の化粧タイルを張った階段の側壁に身障者用のリフトを格納した金属の箱が見えた。黄色の文字で、使用の際は駅員に連絡するように書かれている。白い送話器を入れた透明な箱が笑っているように見えた。陶芸屋は苦笑を浮かべ、大きな金属の箱に書かれた文字を三回読んだ。
「俺は、身体障害者か」
声に出して陶芸屋がつぶやいた。先ほどの弱々しいつぶやきを取り消すような、高くいらだたしい声だ。

「いや、俺は病気なだけだ」
頭の中で答えが響き、陶芸屋は不自由な身体を横にして、階段に硬直した足を下ろした。身体障害者仕様の自動車を運転したい気持ちとは別に、右片麻痺という障害を受容したくない思いが強い。特に他者の助けを借りる場合はなおさらだった。負け惜しみと言った方がよいほどのプライドが、急に頭をもたげる。二年前に襲った障害を受容できるのは、今でも妻陽子の前だけだった。今日は服も白い麻の作務衣を着てきた。作務衣なら何とか一人で脱ぎ着ができる。陽子以外には、誰にも弱みを見せたくないと思う。

陶芸屋は長い時間をかけて一段ずつ急な階段を下りる。見ている者は誰もいない。時折、はるか下方で直角に曲がった階段から風が吹き上げてくる。暑く湿った風だが、汗まみれになった肌に心地よい。歯を食いしばって踊り場まで下りると、左手の十段ほどの階段の先に改札口が見えた。駅員もいない改札口の向こうに人影がたたずんでいる。駅前広場から入る強烈な光を背中に浴びた人影は、真っ黒な影になって陶芸屋を見上げた。

「小父さんなの、修太の小父さん」
陶芸屋の姿を認めて、黒い影が大声を出した。
耳に飛び込んだ呼び声が陶芸屋の全身にこだました。左半身が戦き、感覚を無くした右半身が震える。胸の芯がキュッと痛んだ。

「祐子」
喉の奥で答えた瞬間、全身がふらつき、陶芸屋は階段を転げ落ちた。全身を激痛が襲う。コンクリートの地面に這いつくばって見上げた目に、走り寄ってくる祐子が見えた。驚くほどゆっくりブルージーンズを穿いた長い足が走る。白いタンクトップの胸がゆったりと揺れている。

「ああ、何もが遠く、ゆっくりしている」
無言でつぶやき、脳裏に懐かしさが込み上げ、悔恨と交差した後、陶芸屋の意識はフッと遠のいていった。


「小父さん、しっかりして。どこか痛む」
祐子の声がはっきり聞こえてきた。意識を失ったのは、ほんの一瞬だったようだ。陶芸屋は黙って大きくうなずき、左手で無意識にステッキを捜す。無惨に痩せてしまった脇の下に祐子が手を差し入れ、立ち上がるのを介助しようとする。一瞬手を払いのけようとしたが、思い直して身をまかせ、ふらつきながら陶芸屋は立ち上がった。

「もう大丈夫だよ。しばらくぶりに祐子を見て、きれいになっていたんで驚いてしまった。情けない姿をお見せして本当に済まない」
精一杯の強がりに祐子は答えようともしない。陶芸屋の脇から手を抜き、正面から無遠慮に全身を見つめた。大きな目に涙が溢れている。陶芸屋の胸がまた激しく痛んだ。
「小父さんは無茶よ。電話で身体のことを言ってくれていたら、鉱山の町まで迎えに行ったのに、本当に無茶よ。他人行儀だわ。あんまり遅いので到着時刻を間違えてしまったかと思った。踊り場に現れた小父さんを見たときも、始めは分からなかったわ。怪我がなくて本当によかった」
声を震わせて祐子がなじった。陶芸屋はまるで、娘に意見されているような気になる。確かに息子の幼なじみだった祐子は、あのころは娘のようだった。しかし、いやおうなしに歳月は流れ、息子は死んだ。もはや遠すぎる時間の彼方にあるお伽噺の世界のようだ。実際、美しい女に変わって目の前に立つ祐子に、陶芸屋は昔のように話し掛けられないのだ。何もかもがまぶしすぎた。

「俺だって、改札口にいる祐子が分からなかったよ。大きくなって、美しくなった。まるで他人のようだ」
陶芸屋の正直な感想を聞いた祐子の目に新しい涙が浮かんだ。
「いやよ。私も、修太も、光男も、鉱山の町ではみんな家族同然だったわ。今さら他人のようだなんて言われたくない。何よりもMが許さないわ」
祐子が何気なくMの名を口にした。忘れることのなかった名を聞いて陶芸屋の全身が緊張する。暑さの中で頬がさっと熱くなるのが分かる。赤く染まった顔を祐子に見られたような気がして、陶芸屋はまた少年のように頬が熱くなった。

「小父さんを迎えに来る前に、Mに電話したのよ。一時半に私のマンションに来てくれるわ。進太のことはMが話してくれる。私には、修太の息子の話なんて悲しすぎてとてもできない。さあ、早く行きましょう」
出会いの衝撃を吹っ切るように、明るい声で祐子が言って、陶芸屋の脇に力強く腕を回す。すでに抵抗する気力も無くした陶芸屋は、半身を祐子に預けたまま暑熱がこもる駅舎の外に歩き出した。他人のように成長した祐子の手が脇の下でくすぐったい。二人の間には時間の大きな断絶があった。たとえ、かつての祐子と同じ年代にある孫の進太を引き取ったにせよ、あのころに戻ることはできないと陶芸屋は思う。半身不随になり、年老いた自分が若返ることもないのだ。離散した家族は二度と帰って来ない。
陶芸屋はMと会うことに、ふと不安を感じた。


Mは織姫通りの歩道に沿ってMG・Fを駐車した。幸い、真夏の土曜日の昼下がりは極端に交通量が少ない。幌をかけて冷房を効かせた車内から路上に降り立つ。猛暑の夏はスポーツ車にとっては地獄だ。せっかくのオープンカーも形無しだった。急いでエレベーターホールに向かう。午前中いっぱい、四つの商店連盟の理事長の店を巡り歩いたMの服装は、白いショートパンツに紺の祭り半纏姿だった。傍目には涼しそうに見えるが、これが結構暑苦しい。半纏を脱いだTシャツ一枚の格好が、やはり真夏の定番だった。

玄関に出迎えた祐子に従ってリビングに通る。白いスニーカーを脱ぐとき横目にした、登山靴のような黒い革靴がMに違和感を与えた。いくら陶芸屋が山深い鉱山の町から下りて来たといっても、いささか大仰すぎる。
リビング正面の白いソファーに、針のように痩せた男が疲れ切った表情で座っていた。固く曲げた右手を胸の前で握り締め、男はまぶしそうな目でMを見上げている。前頭部の髪が大きく後退した広い額の下で、見覚えのある大きな目が苦しそうに笑った。

「M、久しぶりだね。相変わらずきれいだ」
語尾を震わせて挨拶の言葉を口にした陶芸屋が、硬直した右足を引きずって立ち上がろうとする。祐子が素早く駆け寄って肩を貸す。Mは小さく口を開いたまま声がでない。全身が冷気に触れたように寒い。熱い悲しみが徐々に胸に込み上げてくる。
「十六年振りに会ったんだ。M、何か言ってくれないか。あまりに無様な姿を見て声も出ないのかい。俺もまだ五十二歳だが、こんな様になってしまった。でも昔のよしみだ、何か言ってくれないと涙がでるよ」
すねた声で陶芸屋が答えを促した。Mの目に大粒の涙が溢れる。涙は頬を伝い、小さく開いた口に流れた。塩辛い海の味が舌を刺す。ピアニストの骨の味が甦り、遠くで陶芸屋の精液の味がした。Mの顔が泣き笑いにゆがむ。

「そうね。しおたれた格好に度肝を抜かれた。七十二歳には見えるわ。陶芸屋さん、お久しぶりね」
「相変わらずMは元気だ。憎まれ口を聞いて俺も安心したよ。だが、俺はもう陶芸屋じゃない。陶芸は二年前にやめたよ。そんなことより明後日から市は祭りだってな。Mの祭り半纏を見て、あの時の裸祭りを思い出したよ。懐かしいな」
相変わらず泣き出しそうな声で陶芸屋が言葉を続けた。十六年前の猛暑の鉱山の町の、廃社となった神社の境内で繰り広げられた裸祭り。素っ裸で後ろ手に緊縛されたMが御輿の上に直立していた。その御輿を担ぐ陶芸屋に緑化屋、村木の三人。大うちわを持って御輿の周りで囃し立てる修太、光男、祐子の三人の子供。全員が素っ裸だった。遠い夏の日を大勢の家族で祝った祭りが今、歳月を越えて三人の脳裏をそれぞれに横切っていく。今は亡い修太と光男の幼い顔が、部屋中に広がっていった。
祐子の啜り泣く声が流れ、陶芸屋の目から涙が滴り落ちた。Mの涙腺も堰を切って開く。大粒の涙で霞むMの視界で死者たちが嗤った。感傷に浸る生者の驕りを高らかに嗤う。Mの喉元にまた熱い悲しみが込み上げてきた。

「違うわ、みんな違う。陶芸屋は今でも陶芸屋よ。何が陶芸はやめたよ。聞いてあきれるわ。手足で作れなければ口で作ればいい。泣き言をいっている暇があったら長い時間をかけて土をこねたらいい」
うつむいていた顔を振り上げ、鋭い声でMが叫んだ。涙の滴が飛び散り陶芸屋の頬を打った。
「M、残念ながら俺は病気だ。こうしているうちに、いつ脳の血管が詰まっても不思議じゃないんだ」
陶芸屋の惨めな弁解の声がMの耳元を弱々しく掠めた。
「私だって毎日車を運転している。事故死する可能性は陶芸屋より、よっぽど高いわ。でも、そんなことは考えたこともない。陶芸屋も私も同じよ。過ぎ去ったことばかりしのんでいても未来は開けないわ。希望を持ってやり遂げるのよ。人は誰でもいつかは死ぬ。動けなくなるのが怖いのなら、その時は私が陶芸屋を殺してやる」
殺気をはらんだMの声が陶芸屋の耳を打った。

「俺にも希望はある。リハビリで努力をすれば、Mのように元気で美しくなれるだろうか」
独り言のように陶芸屋がつぶやいた。
「無理ね。それはただの夢よ。希望と夢は違うわ。現在の自分を受容するところから希望は広がるのよ。地に足が着かない夢とは違う。さあ私を見なさい。陶芸屋が五十二歳なら、私も、もう四十五歳よ。陶芸屋が美しいと言ってくれた身体も変わった。私の裸をしっかり見なさい」
陶芸屋の目を見つめて言ったMが、汗と涙で濡れた祭り半纏を脱ぎ白いTシャツとショートパンツを脱いだ。

陶芸屋の目の前に素っ裸のMが、無防備に両手を下げて立っている。確かに記憶の中の裸身とは違っていた。豊かに盛り上がっていた乳房は、いささか張りを無くし、弾力感がない。生意気そうに上を向いていた両乳首も、申し訳なさそうにうなだれている。脇の下から二の腕に着いた肉も重そうに見える。細く引き締まっていたウエストのラインも丸みを帯び、腰から腿にかけても余分な肉が目立った。以前と変わらぬ白い肌のそこかしこに、焦げ茶色の色素が染みのように沈着している。だが、見苦しいところなど一切ない。完璧な裸身に思える。何も構わなくなった陽子の裸身とは雲泥の差だった。目前にした生身の肉が陶芸屋の無くした性を責めつける。

二人の横に立ちつくす祐子は、繰り広げられる異様な光景に声も出ない。陶芸屋の熱い視線に、堂々と四十五歳の裸身を晒すMの真意を計りかねた。Mに命じられれば、いつでも惜しみなく裸身を晒す覚悟が祐子にはある。何よりも祐子の裸身は非の打ち所がないほど美しいはずだった。だが、陶芸屋の目に灯った怪しい揺らめきを見ると、見る者を性の高まりへと誘う裸身は美しさだけがすべてではないような気がする。妙に頭の中が混乱し目がくらみそうになった。突然、露骨な言葉が祐子の耳に飛び込んできた。

「後ろを向いて、尻を見せてくれ」
高ぶった震える声で、陶芸屋がMに頼んだ。
「いいわよ。陶芸屋はお尻が好きだったわね」
無造作に答えたMが後ろを向いた。豊かな丸い尻がゆったりと息づいているが、やはり陶芸屋の記憶より位置が低い。決して垂れ下がっているわけではないが、尻の割れ目の切れ込みも浅くなったように感じられた。
「中も見て」
背を見せたまま言ったMが両足を開き、腰を曲げて尻を突き出す。黒い色素の浮いた肛門が笑い、陰唇の間に赤黒い肉襞がのぞいた。黒々とした陰毛の根元に、小さく尖った性器が見える。全体に乾いた感じのする陰部だった。

「かわいそうに」
小さくつぶやいた陶芸屋が右足を引きずって進み出る。Mの股間に苦労して屈み込み、尻の割れ目に顔を埋めた。不器用な舌が止めどなく股間を這う。切羽詰まった陶芸屋の喘ぎがMの耳に聞こえてくる。いつしかMの股間は陶芸屋の唾液でしとどに濡れた。だが、官能の高まりはやってこない。熱い悲しみが胸の底から股間に下りてきただけだった。Mは背筋を正して振り返り、陶芸屋を見下ろした。

「陶芸屋の裸も見たい。脱ぎなさい」
Mの声に陶芸屋の顔が歪み、頬が赤くなった。
「俺はいいよ。とても見せられた裸じゃない。こうしていられるだけで勇気が湧く。それ以上は要らない」
「ひょっとして、ペニスが役に立たなくなったの」
Mの残酷な声が響いた。陶芸屋の顔が真っ赤に染まる。
「そうだ。勃起するどころか何も感じない。すべてを頭で感じるだけだ」
即座にふてくされた苦渋に満ちた声で陶芸屋が答えた。

「脱ぎなさい」
冷静な声で、またMが促した。
「M、おかしいわよ。さっきから見ていると、病気の小父さんに異常なことばかりするわ。小父さんがかわいそうで、私は見ていられない」
耐えきれずに祐子が叫んだ。全身が微かに震えている。
「祐子は子供に返っておとなしくしていなさい。これは、私たち大人の問題なの。今を盛りの祐子は後学のために、大人のすることをじっと見学しているがいい」
冷たい声で言いきったMが、祐子を睨み付ける。気圧されて引き下がった祐子は力無くソファーに座り、両手で頭を抱え込んでしまった。静まり返った部屋に祐子の啜り泣きが響く。やがて分かる日も来ると思い定め、悲しみのこもった目でMは祐子を見た。大人に訪れる機会は数少ない。陶芸屋はこの一瞬に希望の芽生えを賭けるしかない。今を逃がすことはできないのだ。喪失した機会は二度と来ないかも知れない。もうそれほどの歳月を生きてしまったのだ。

Mは視線を陶芸屋に戻し、裸になるよう無言で促す。陶芸屋が自由になる左手で作務衣の紐を解き始めた。痩せこけた醜い裸身がMの前に現れる。右半身は硬直し、筋肉も落ちてしまっていた。かろうじて生き残った左半身も目を被いたくなる惨状だ。股間に垂れ下がった萎びたペニスは見るに耐えなかった。Mは表情から驚愕を追い払い、毅然とした顔で陶芸屋の全身を見た。たとえ涙が溢れても、目を背けないことだけを強く決意する。すでに陶芸屋も泣いているのだ。涙はちょうどよい潤滑油になる。
「元気がないことは確かね。でも、ペニスはちゃんとぶら下がっているわ。私も舐めさせてもらうわね」
優しい声で言って、Mは陶芸屋の股間にひざまずいた。小さく萎みきって排泄の用しかできなくなったペニスを、両手で愛おしみ唇をつける。
「M、小父さんにはナースがいるのよ。忘れないで」
ソファーから祐子の最後の抗議の声が上がった。
「私はフェラチオが下手よ。でも、ナースは上手。嫉妬に狂ったナースがその気になれば、陶芸屋のペニスも高々と勃起すること請け合いよ」
大声でMが答え、萎びたペニスを口に含み舌の先で転がした。上目遣いに陶芸屋を見ると、落ちてきた涙が目に入り視界が霞んだ。

「ありがとうM。俺もまだ生きられそうだ」
官能に左右されぬ、生の喜びだけが響く声がMの頭上に落ちてきた。
「あたりまえよ」
ペニスをしゃぶりながら、Mは声にならぬ答えを胸の中で言った。家族はいいものだと心の底から思う。耳の底で、幼いころの修太、光男、祐子の笑い声が響き渡った。


窓の外は明るいが、もう午後五時を回っていた。
Mは祐子のリビングで、進太の置かれた状況と母の睦月の行動を陶芸屋に詳しく話した。積極的に不自由な身体を乗り出して、陶芸屋は熱心に耳を傾けた。話が睦月の虐待に及ぶと眉をしかめ、苦しそうな顔で遠くを見た。まるで孫の痛みに息子の痛みを重ね合わすような悲愴な表情だ。すぐ決心を固め、大きくうなずいて口を開く。

「考えるまでもないことだ。進太は鉱山の町に引き取る。俺たちだって進太のことを忘れていたわけじゃない。これまでだって、いくら頼んでも睦月が会わそうとしなかったんだ。俺たちは祖父母だ。引き取る権利があるし、義務もある」
興奮した陶芸屋は、すぐにでも進太を引き取りに行きそうな剣幕だ。しばらく間を置いてからMが口を開く。

「結論を急ぐ陶芸屋の気持ちは分かるけど、私はもう少し待って欲しいと思っているの」
Mの言葉を聞いて陶芸屋の顔が曇った。Mの真意を計りかねるように、鋭い視線でMを見つめた。
「はっきり言うと事情が変わったのよ。睦月が母子二人の生活を見失って、気まぐれとしか思えない虐待を続けていたときは、私も進太を陶芸屋に引き取ってもらおうと決心したの。でも今は違う。睦月にとって進太は、ただの邪魔者になってしまった。だから、陶芸屋に進太のことを頼み込んだのよ。頼んだのは睦月で、私でも祐子でもない。それが問題なの。進太は母に見捨てられたと思っているわ。すごく感情が不安定で怖いくらいよ。このまま陶芸屋が進太を引き取れば、小さな胸に仕舞いきれないほどの傷が残る。今初めて、進太に睦月が必要なのよ」

陶芸屋は訝しそうな顔でMの話を聞いた。たとえ心に傷が残っても、進太はまだ小学校の一年生だ。時間をかければ、母に捨てられた傷などきっと癒えると思った。
「子を虐待する母が母なら、子を捨てる母も母だ。どっちも許されることでない。事情は何も変わらないよ。俺たちが進太を引き取ればすべてが解決する。後は時間が進太を癒すだけだ」
「時間をかけても癒えない傷があるのよ。母を慕いだして、何とか関心を引こうとまでしている進太にとって、自分を引き取ろうとする陶芸屋はきっと敵に映るわ。無理をしたら二度と心を許すことはないと思う」

「では、どうしたらいいんだ」
「分からないわ」
力無く答えたMの声に悲しさが滲む。
「進太に会わずに帰れと言うのか」
陶芸屋の声に怒気が滲む。どうやら小さな進太に、大きな希望を見出したようだった。Mの悲しさが募る。
「いいえ、帰ることはないわ。明日は陶芸屋と一緒に、私も睦月と進太の母子に会う。睦月の前で進太が同意しない限り、決して鉱山の町へ引き取らないと言って欲しいの」
Mの頼みに陶芸屋は答えようとしない。長い沈黙の時間が流れた。


「明日までに決心してくれればいいわ。今夜は、狭いけれど私のアパートに泊まっていってね。さあ行きましょう」
Mの声にはじかれたように、祐子が立ち上がった。
「何で小父さんがMのアパートに泊まるの。私は、ここに泊まってもらう予定だった。私はアトリエに行けばいいんだから、それが普通でしょう。今日のMはおかしい。汚く見える」
「汚いものを見たと思うから祐子はそう言うのよ。確かに私たちは、祐子の目に汚い行為を見せた。性の高まりはなかったけれど、私が官能を望んだことも事実よ。陶芸屋は私の部屋に泊まるわ」
「私は何をしたらいいの」
祐子の悲痛な声がMの耳を打った。Mは厳しい眼差しで祐子を見上げる。
「ここに、大久保さんを呼ぶといいわ」
自分の耳にさえ冷たく響く言葉がMの口に上った。祐子がかん高い声を上げ、ソファーに泣き伏す。代わりにMが立ち上がった。いつまでも子供でいられるわけではない。まだ七つに過ぎない進太が、大人の世界の入口に立たされようとしているのだ。

Mは厳しい表情を崩さず、陶芸屋に介助の手を差し伸べた。無言で立ち上がった陶芸屋がMと一緒に泣き崩れている祐子を見下ろす。二人の大人の目から、また涙がこぼれた。いくら待っても、もう先ほど耳の底で聞こえた、修太と光男、そして祐子の三人の子供の笑い声は戻って来ない。


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