11.祭り
ついに毒薬は手に入らなかった。
進太は浅い微睡みの中で歯を食いしばり、寝返りを打った。天井の巨大なガラスのドームから差し込む夏の光が一瞬目にまぶしい。朝の九時近くになっているに違いなかった。だが、昨日までのように暑苦しさを感じることもない。エアコンの風が素肌を優しく撫で回していく。エアコンのノイズに混じって、微かに音楽が聞こえる。軽やかな小太鼓の響きに乗ってオーボエが心地よく歌っている。耳を澄ますと同じメロディーが何度も繰り返されていた。音楽は壁一つ離れた隣の部屋から聞こえてくる。チハルがCDをかけたのだと、進太はぼんやりした頭で思う。三拍子のリズムは進太の微睡みの中に入り込み、徐々にクレッシェンドしながら気分を高揚させていく。ラヴェル作曲の管弦楽曲「ボレロ」が進太をもう一度夢に誘った。「ボレロ」の調べに乗って真っ青な空を白い天馬が舞っている。高く低く天馬は舞い、大空を駆けて進太を宙に誘う。だが進太は空に舞い上がることができず、天馬の背に乗ることもできない。たまらない焦りが込み上げてきて、進太は慌てた。

「サクタロウ待ってよ。ぼくを乗せてよ」
大声で叫んだ瞬間、進太は完全に目覚めた。足で綿毛布を蹴ってベッドの上に起き上がる。高まる「ボレロ」の調べが、全聴覚を満たした。そっと目をつむると、キリンのサクタロウの背に乗って疾走する自分の姿がありありと見えた。夢で見た天馬よりスリリングでさっそうとした姿だ。進太はベッドの上でリズムに合わせて全身を揺すった。足を投げ出し、まるで手綱を取るように両手を胸の前に突き出し「ボレロ」の調べと一体になる。ひときわ高くシンバルが鳴り響き、管と弦が吼えた。曲のエンディングと共に進太は立ち上がり、真っ直ぐ背を伸ばし大きく伸びをした。今日は八月一日、八木節祭りの初日だ。母の睦月が芝居に出演する日だ。
進太はサクタロウに乗って、煉瓦蔵から母を連れ去る自分の姿を思い描いた。あの巨大なサクタロウと一緒なら何だってできる気がする。

「よーし、やってやるぞ」
大声で言ってベッドから飛び降りた。途端にドアが開けられ、驚いた顔でチハルが部屋に入ってくる。
「どうしたの進太、大声が聞こえたよ。祐子のベッドで怖い夢でも見たのかい。それにしては元気そうだね。小さいくせに、今にも立ち上がりそうなオチンチンだよ」
面白そうに進太を構う言葉を無視し、進太は床に正座して深々とチハルに頭を下げた。

「お願いがあります。今日の夕方、僕を市の動物園へ連れていって下さい。頼みます」
素っ裸のまま神妙な顔で頭を下げる進太を見下ろし、チハルがまた面食らった顔になる。
「市は今日から祭りでしょう。何でわざわざ動物園なんかに行くの」
「僕はサクタロウに乗るんだ。サクタロウに乗って、ママをここに連れてくる。邪魔をする奴はみんな、蹴散らしてやる」
最後の言葉に鋭い殺気が籠もった。チハルの背筋を冷たいものが掠める。同時に面白いこと、この上なかった。最近にない痛快な気分になる。昨夜、進太の語るたどたどしい話を聞いて、ある程度の事情も理解できた。だが母の睦月は、進太が邪魔者を蹴散らしてまで連れ戻す価値があるとは思えない。六年前に山地の奥で見ているはずの睦月の顔を、どうしてもチハルは思い出せない。それなりの人物としか思えなかった。でも、母を慕う進太の気持ちはチハルにも分からなくはない。都会の兄の元に行ったチハルの母も三年前に死んだ。アメリカにいたチハルは死に顔も見ていない。急いで帰ってきたときはもう骨になっていたのだ。

「サクタロウって誰さ」
浮かび上がってきた母の面影を振り払うように、チハルが尋ねた。
「キリンだよ。背が四メートルもあるお父さんキリン。僕の友達。きっと背中に乗せてくれるよ」
喜々とした声で進太が答えた。即座にチハルが大声で笑い転げる。
「ハハハハハハ、最高だよ。進太は最高に面白い。いいよ、一緒に動物園に行ってやる。私もキリンに乗った進太が見たい。最高だよ。参ったね。本当に参った。ハッハハハ」
いつまでもチハルの笑いは続いた。八木節祭りなどより、よっぽど楽しいイベントになると思う。もしかしたら進太は、本当にキリンに乗れるかも知れないと思った。チハルの笑いが消え、真剣な表情が戻る。小さな夢に立ち会う喜びが、久しぶりにチハルの下半身を熱くさせた。


Mは午前11時に織姫通りを車で往復した。これが祭りの最終チェックになる。正午からは織姫通りが車両通行止めになり、3日間の八木節祭りがスタートするのだ。相変わらず空は良く晴れ、空気は灼け付くように熱い。コンクリートの電柱にとまったセミが頭上から暑苦しい鳴き声を落としている。通行止めを一時間後に控え、織姫通りを通行する車両は少ない。通りの両端の歩道から路上に、巨大な笹飾りが交互に垂れ下がっている。赤や黄、青、金や銀の原色を散りばめた吹き流しやくす玉の重みで、太い竹がたわわに曲がっている。オープンにしたMG・Fから手を伸ばせば七夕飾りを掴めそうだ。通りの左右に軒を連ねた露店では、様々な格好をした若い露店商が商売の支度に余念がない。各町会ごとに組まれた八木節の櫓は、道路の中央に押し出される時刻を今や遅しと待っている。日が落ちれば、この櫓を囲んで幾重にも八木節踊りの輪ができる。すでに街は祭り一色に染まっていた。

Mは織姫通りの準備に遺漏がないことを確かめてから、煉瓦蔵の前に車を止めた。閉められた鉄扉の間から広場の舞台が見える。舞台は青いビニールシートで覆われている。連日の雷雨に備え、公演が始まらなければセットは姿を現さない。芝居の幕は午後7時30分に上がる。思わず山地の方角を見上げると、もうすでに巨大な積乱雲が立ち上がっていた。この分では早い夕立が予想される。宵のうちの降り上がりを、Mは祭りの成功のために願った。

スニーカーの中に汗が溜まってしまうかと思えるほど、剥き出しの足を汗が流れる。Mは車をスタートさせ、天満宮の前で左折して山手通りに入る。MG・Fをアパートに駐車し、自転車に乗り換えるつもりだ。ついでにシャワーを浴び、Tシャツも着替えたかった。しかし何よりも、昨夜から食事もしようとしない陶芸屋のことが気になる。昨日、陶芸屋は病院で後頭部の手当をした後、睦月のアパートで進太の帰りを待った。出血に驚いた割には、幸い傷は軽傷だった。進太が帰らぬまま夜中になり、疲れ果ててMの部屋に戻って来た。その後も陶芸屋は、まんじりともしないで睦月の電話を待っていた様子だった。朝から憔悴していた顔が目に浮かぶ。

Mが部屋のドアを開けると、玄関の前に陶芸屋が立ちつくしている。真っ赤に充血した大きな目で力無くMを見つめた。
「進太が来るかと思って、じっとしていられないんだ。なあM。進太はどこで夜明かししたんだろう。俺は心配でならない。夏なのが唯一の救いだ。これが冬だったら、俺は一晩中進太を見付けて歩くよ」
進太を見付けて歩かないMを、なじるような声で陶芸屋が愚痴をこぼした。部屋の窓は開け放してあるが、クーラーは入れていない。蒸し暑さがMの気力を奪う。Mは返事も返さぬまま部屋に上がり、エアコンのスイッチを入れて窓を閉めた。その場で素っ裸になりバスルームに駆け込む。冷たい水を頭から浴びると、やっと人心地がついた。全身から滴をしたたらせたままキッチンに行き、冷蔵庫を開ける。朝用意して置いたソーメンを取り出し、2人分テーブルに並べた。

「さあ、陶芸屋も食べなければだめよ。夜になって芝居の公演が始まれば、進太は煉瓦蔵に来るわ。絶対に来る。それまでに体力を付けておかないと、また進太に逃げられるわ。後7時間しかない。さあ早く食べて、横になって昼寝しなさい」
Mが明るい声で呼び掛けると、陶芸屋が目を輝かせて食卓に着いた。

「そうか、今夜は睦月の芝居があった。そうだ、進太は必ず来る。M、ありがとう。やっと一安心できた。よーし、俺も食うぞ」
陶芸屋の元気な声が部屋に響いた。進太が今夜、煉瓦蔵に現れることだけは確実だと誰もが思う。ただし、その後の推移は誰にも予測はできない。だが、陶芸屋の希望は大きく羽ばたいていった。Mは味気なくのびてしまったソーメンを無理に喉に流し込む。陶芸屋はうまそうにソーメンを啜り、だし汁のお代わりまでした。憔悴しきっていた顔が嘘のようだ。食事が終われば、いびきをかいて眠るかも知れない。再び暑熱の街に出て行かねばならないMは、羨望のこもった目で陶芸屋を見つめた。


午後6時の山地の空は真っ黒だった。闇の中を鋭く稲妻が走り、雷鳴が山肌を震わせた。大粒の雨が、まるでバケツで水をぶちまけたように空から真っ直ぐに降る。チハルは幌をかけたMG・Fを土砂降りの雨の中に発進させた。助手席には緊張した顔で進太が座っている。進太はチハルの黒いTシャツを着ているが、大きすぎてワンピースのようだ。下半身は裸で、足に赤いサンダルを突っ掛けている。チハルが黒いショーツを穿くよう勧めたが、進太は頬を赤くして断ってしまった。

「ハッハハハ、恥ずかしがることはない。Tシャツは大きすぎるけど、私のショーツは小振りだから、小さな進太にぴったりだよ。スッポンポンでいるより、よっぽどましさ」
降りしきる雨を見つめる進太の耳に、チハルの笑い声が甦る。邪気のない飾らない態度は好きだが、どうにも無神経な言動が進太の気に障る。Mと違ってチハルはデリカシーがないと、また赤く染まった顔をチハルに向け、進太は無言の抗議をした。

「女にはもてそうだけど、進太は男で苦労するよ」
進太の視線を感じたのか、チハルが前を向いたままポツンと言った。激しい雷鳴が後に続く言葉をかき消す。青白い閃光が狭い車内を連続して貫いた。黒い幌と窓ガラスの合わせ目から染み込んだ雨水が、幾筋もガラスを流れ去る。雨水で歪んだ真っ黒な風景の中に、沢田と陶芸屋の顔が浮かび上がった。二人ともザリガニのように醜い表情をしている。進太はチハルの言葉を幼いなりに実感した。再び閃光が走ると沢田と陶芸屋の顔が消え去り、緊張にこわばった自分の顔が映った。やはり醜く歪み、目から涙のように雨水が流れている顔だった。
「水道山を越えて行くよ。いくら土砂降りでも、祭り期間の織姫通りは通行止めだろう。でも、参ったなあ。ほとんど前が見えない。雷雲に追い掛けられているみたいだ。ずっと土砂降りだぜ」
うんざりした声でチハルが言って、鋭く右折した。MG・Fのテールが大きく左に流れる。チハルが素早くハンドルにカウンターを当てて車体を立て直し、美術館に向かう急な坂道に向かった。ダッシュボードの白い時計は午後七時に近付いている。思いのほか時間がかかったが、水道山を越えればすぐ山手通りに出る。ここから動物園までは直距離なら2キロメートルもない。それにしても凄まじい降りだ。市街は今、雷雨のピークを迎えている。


睦月は煉瓦蔵の広場を激しく叩く鋭い雨脚を見ていた。巨大なクスノキの枝葉が風雨に身悶えしている。絶え間なく稲妻が走り、雷鳴が轟く。大粒の雨はコンクリートの地面で跳ね上がり飛び散る。風向きによって冷たい飛沫が足元を濡らした。もうじき午後7時になる。開演まで30分しかない。早く雷雲が通り過ぎ、雨が上がることを睦月は祈った。

細く開けた煉瓦蔵の扉を目掛け、強まった風雨が襲い掛かかる。肌寒くなるような風に全身を包まれ、睦月の肩が震えた。きれいに結い上げた日本髪の鬘も風に震えた。睦月は緋色の長襦袢を着て、細紐で前を結んでいる。まるで浮世絵から抜け出してきた遊女のように、あえかな姿だ。だが、せっかくの衣装も第一幕の見せ場で無惨に脱がされてしまう。薄紫の湯文字一つに剥かれた裸身を、厳しく後ろ手に緊縛されることになる。最終幕ではその湯文字すら許されない。背面合掌縛りに緊縛された手に赤い蝋燭を握らされ、素っ裸で折檻部屋に曳かれていくのだ。その時はきれいに結い上げた高島田も千々に乱れ、凄惨な姿になっているはずだ。ステンレス・ファイバーの縄と、ことさらに裸身を白く彩る全身に塗ったドーランだけが最終幕の睦月の衣装だった。

「ずいぶん緊張しているね。幕開きを待つ役者ほど美しい者はこの世にいない。睦月、すてきだよ」
背中からバスが響き、睦月の背筋を熱いものが駆け下りる。黙っていると背後から優しく抱かれた。
「ほら、乳首がこんなに固くなっている」
長襦袢の胸元に入り込んだ温かな手が尖った乳首を摘んだ。沢田のささやきが睦月の耳元をなぶる。
「先生」
万感の思いを込めて睦月が喘いだ。沢田の手が乳房から放れ、長襦袢の裾を割り開く。優しい手の感触が睦月の股間に広がる。
「大丈夫、芝居はうまくいく。明日から睦月はスターだ。この続きは打ち上げの後にしよう」
沢田の力強い声と共に、股間から手が離れた。睦月の下半身が熱く燃え上がる。将来のすべてが今夜の芝居にかかっていると思い定めた。心なしか、ぼんやりと目に映る雨脚が小降りになったような気がする。しばらくすると雷鳴が遠のき、風も弱くなってきた。睦月は一切を忘れ、ひたすら開演の時刻を待った。進太のことなど、まるで胸中にない。


チハルと進太を乗せたMG・Fは動物園の正門を迂回し、水道山の中腹にある裏門を目指した。動物園は山の形を生かして飼育舎がレイアウトされている。同じ中腹にあるキリン舎は裏門から300メートルと離れていなかった。雨に煙る闇の中に金網を張った門扉がそびえている。左右に開く観音開きの巨大な門扉だ。二つの鉄パイプをチェーンで巻いて南京錠が下ろしてあった。

「だめだ、僕がキリン舎に入れても、これではサクタロウと一緒に出られないよ。正門は鉄扉だし、どうにもならない」
ヘッドライトに照らし出された高さ3メートル、幅6メートルの金網の門扉を見上げ、進太が泣き声を上げた。
「へえ、弱虫め。見ただけで諦めるのかい」
チハルが馬鹿にした声で言ってMG・Fを路肩に止め、エンジンを切った。幌を打つ雨音と雷鳴だけが車中を満たす。
「だって僕は、夜の裏門に来たのは初めてなんだ。門扉がチェーンで縛られているなんて知らなかった。もう、だめだよ」
進太の絶望の声が響き渡った。チハルの口元に笑みが浮かぶ。
「錠が下ろしてあるということは、園内の警備がないということ。それと、この夕立では何をしても見咎められる恐れはないということ。この2つがここまで来て発見できた事実だ。さあ進太、どうする。もう帰って眠りたくなったかい。このまま帰っても私は一向に構わない」

歯をきつく食いしばって進太はチハルの言葉を聞いた。このまま帰ればただの負け犬になるだけだった。決して耐えられることではない。だが、この門扉からキリンを連れて出ることは到底無理だ。また絶望が全身を被う。進太はうなだれて黙り込んだ。遠く雷鳴が聞こえる。さしもの雷雲も遠のいていく気配がした。雷鳴に代わって急に、耳の奥で音楽が鳴った。今朝聴いたばかりの「ボレロ」の調べだ。シンバルの音が鳴り響き、進太を鼓舞する。助手席にうずくまった小さな肩が震えた。たとえキリンを連れ出せなくても、チハルにサクタロウを会わせる義務を感じた。それがチハルの好意に報いる進太の責任だと確信した。勇気が全身に満ち、背筋がしゃんと立った。
「濡れネズミになって無駄足になるかも知れないけど、ぜひサクタロウに会って欲しい。チハル、お願い。一緒に来てください」
進太が真剣な声で頼んだ。チハルが闇の中で進太の目をのぞき込む。白く冷ややかな炎が進太の目の中で燃えている。三千度の熱で輝く炎と同じ色だ。

「よし、行こう」
大きくうなずいて答え、チハルはドアを大きく開けて路上に出た。冷たい風と横殴りの雨が全身を襲う。MG・Fのトランクを開け、黒いデイバッグを引き出す。見る間に濡れネズミになったチハルの身体に、黒いパンツと黒い長袖のTシャツがへばりついた。精悍でマニッシュな、黒い裸身が突然出現した感じだ。形良く盛り上がった乳房と、位置の高いスマートな尻が進太の目にもまぶしい。ショートの髪がびっしょり濡れ、頭の輪郭が露になる。耳元のダイヤのピアスが稲妻に光った。黒いデイバッグを右肩にかけ、チハルは大股に門扉に向かう。慌てて進太が付き従う。歩きにくいサンダルを脱ぎ捨て素足になってチハルを追った。門扉の前にチハルがひざまづき、デイバッグから巨大なニッパーを取り出す。左右二つの門扉を縛ったチェーンを無造作にニッパーの歯で挟み、渾身の力を入れて断ち切る。鋭い金属音が二度響き、チェーンと南京錠がチハルの足元に落ちた。
「これで出口はできた。さあ、キリン舎に案内しな」
背後で切断作業を見つめていた進太を振り向き、チハルが大きな声で命じた。闇の中で白い歯が笑っている。進太は喜びを全身に現し、躍り上がって前に出た。錠を破戒された門扉を開き、周りを見回してから園内に入った。

裏門から山の上に向かって、アスファルトのだらだら坂が続いている。作業車両の専用道路なので結構広い。進太とチハルは雨に煙る園内灯の青い光の下を、足早に歩いていく。全身はもう、雨に濡れたというより服を着たままプールで泳いできたと言った方が適切な有様だった。寒ささえ感じた肌が上り坂で汗ばみだしたころ、高い石垣の切れ間にキリン舎が見えた。飼育広場のある正面からは裏手に当たる。屋根までの高さが五メートル以上ある鉄骨とコンクリートパネルで築いたキリン舎は、大きな鉄扉を固く閉ざしている。方形の飼育舎の横に小さな張り出しがあり、飼育員の出入りするドアがあった。

「ここから入るんだよ」
一声言って駆け出していった進太がドアの前でチハルを振り返り、泣きべそをかく。
「畜生。ここも鍵がかかっている。鉄のドアだから、こじ開けることもできないよ」
青い水銀灯の光を浴びた泣き顔を見ながら、チハルは平然とドアの前に立った。確かに鉄製の強固なドアだが、錠は玄関ドアと同じシリンダー錠だ。
「進太、管理棟はどの辺にあるんだい」
にっこり笑いながらチハルが尋ねた。進太の表情がまた明るくなる。
「あの小さな丘の向こうだよ。キリン舎は管理棟から一番遠くにあるんだ」
期待のこもった声で、即座に進太が答えた。チハルが黙ってドアの前にひざまづく。黒いデイバックから今度は重そうな工具を取り出した。金工用の充電式ドリル・ドライバーだった。十五・六ボルトの最強力な機種だ。チハルは空を仰ぎ、轟き続ける雷鳴を確かめてから、ドリルの先を無造作にノブの中央の鍵穴に当てた。引き金式のスイッチを握ると、途端にかん高い音が雷鳴に混じった。

進太はチハルの背中に立ちつくし、脅威の眼差しでしなやかな肩を見下ろした。チハルの精悍な姿態から、荒々しい暴力のにおいが立ち上がっている。何かしら懐かしい甘い香りが雨中に満ち、進太はむせ返る思いがした。金属を断ち切る騒音はすぐやみ、ノブの中央にポッカリと穴が通った。シリンダーを破戒された錠はもう役立ちはしない。
「ドアも開いたよ」
つまらなそうな声で言って、チハルが進太を振り向いた。
「凄いね。チハルは何でも壊してしまう。そのデイバッグは魔法のバッグだ」
感極まった声で進太が叫んだ。チハルは答えずに進太に場所を譲る。
「魔法のバッグではない。大人は子供と違い、考えられる限りの準備をして来るものだ。いずれ進太にも、きっと分かる」
チハルは心の中で言って立ち上がった。喜びに震える進太の顔を見つめる。これから先は進太が仕事をするのだ。チハルに見つめられ、緊張した表情に戻った進太がそっとドアを開けた。暑く湿った空気とすえたような獣のにおいがドアの奥から流れ出し、二人の全身を覆った。

ドアの先は広い飼料置き場だった。左手の通路の先がぼんやりと明るくなっている。進太は慣れた様子で真っ直ぐ通路を進む。チハルが遅れて後に従う。通路の先から濃厚な獣のにおいと、うごめく気配が漂ってくる。チハルは慎重に歩みを進めた。通路を抜けると、突然開けた五メートルもある天井の下に、3頭の巨大な生き物がたたずんでいた。常夜灯の鈍い光を浴びた黒と黄の網目模様が、ひときわ新鮮にチハルの目を打った。すぐ前にいる一番背の高いキリンが大きく鼻を鳴らし、蹄で鋭く床を蹴った。大きな音が飼育舎に響き渡る。サクタロウに違いないとチハルは思った。一瞬背筋を恐怖が走った。妻のキサラギと、息子のキリタロウを守るためにサクタロウがチハルを威嚇したのだ。

「サクタロウ怒らないで。この人はチハル。僕の友達だよ。怒らないで」
進太がはっきりした声で呼び掛けると、サクタロウが長い首を回して中央にいる進太を見た。チハルはその隙に、鉄扉の前まで音を立てないように注意して走った。扉の向こうは二人が歩いてきた車両専用道路だ。
「進太、キリンが警戒を解くまで、私は石になる」
短く進太に言ってから、チハルは三頭のキリンを改めて見上げた。サクタロウの身長はどう見ても4メートルはある。少し後ろで子キリンを庇うように立つキサラギも一回り小さいだけだ。2歳になったばかりのキリタロウさえ3メートル近い。チハルは首をすくめてからTシャツとパンツを脱いだ。素っ裸になると妙に落ち着いた気分になる。キリンと言ってもサクタロウは男だ。種が違っても雄が雌を嫌いな道理はない。たとえキリンでも、雄と接するときは裸に限ると思い、引き締まった肌に浮いた水滴を指先ではじいた。

つんと上を向いた二つの乳首の根元で、金色のリングが怪しく光った。リングはきれいに陰毛を剃り上げた股間でも揺れた。床に座り込んで目を閉じると、チハルの脳裏にボギーの姿態が浮かび上がる。ボギーの大きなペニスの先にもチハルと同じ金色のリングがぶら下がっている。二人で性器にピアッシングしたのは去年の夏だ。ボギーと離れ、日本に来てからまだ二日しか経っていない。ロサンゼルス郊外の広大な屋敷で毎週末、二人は誰憚ることなく素っ裸で戯れるのだ。燦々と日の照りつける広々とした芝生で、チハルは乳首のリングに繋いだ鎖をボギーに曳かれ、素っ裸で緑の芝生を走り回る。股間のリングを曳かれるときは本当につらい。ユーモラスに股間を突き出し、息を荒くして一心に走る。エネルギッシュなボギーの走りについていくのは並大抵のことでない。そして、ボギーのペニスのリングと、チハルの股間のリングを繋いで走るときの快感。ああ、なんてダイナミックな性なんだろうとチハルは思う。それに比べ、この国は常にせせこましすぎていると嘆きたくなる。しかし、進太のアイデアは違う。十分すぎるほど壮大なスケールだと確信し、目を開いた。間近に見上げたキリンの威容は、背筋が寒くなるほどチハルを威圧した。小さな進太がこの巨大な生き物の背に乗る姿を想像すると、涙が出るほどの楽しさが込み上げてきた。


「進太が来ない」
Mの耳元で陶芸屋が情けない声でつぶやく。もう何度聞いたか忘れてしまうほど聞いたつぶやきだ。お陰で目の前の芝居に集中できない。しかし、あれほどの風雨が嘘のように通り過ぎた後、定刻通り始められた芝居は大成功と言えた。200人の観衆は固唾を呑んで芝居を見つめ、今、最後の幕間の喧噪が煉瓦蔵を包んでいた。Mは広場の舞台の前にいる。空気は蒸し暑かったが、雨上がりの涼しい風が広場を通り抜ける。時折頭上のクスノキの枝葉から水滴が落ちた。観衆は約半数の百人が外の舞台を取り巻いている。最終幕が始まれば、煉瓦蔵の中から百人の観衆が外に移動してくるはずだ。それも、すべてが睦月の演技にかかっている。

煉瓦蔵の前の織姫通りからは、絶え間なく八木節のリズムが響いてくる。各町会の櫓を囲んだ八木節踊りも、今や最高潮を迎えようとしていた。
「M、進太は遅い。本当に来るだろうか」
不安に満ちた声で、横に立った陶芸屋がまたつぶやく。
「大丈夫ですよ。必ず来ます」
極月がMの代わりに確かな声で答えた。極月は紺地に朱の波頭をあしらった浴衣を着ている。帯は鮮やかな銀だ。初めて見る浴衣姿だが、しなやかな姿態によく似合う。優雅な手つきで団扇を使う様は、どこから見ても機屋のお嬢さんに見える。Mはふと、チハルのことが気に掛かった。この織物の街の祭りを伝えてきたのはチハルの先祖たちなのだ。アメリカにいるチハルが、祭りを見るために毎年帰省すると話していた祐子の言葉も思い出された。その祭りを今年はMがコーディネートしている。チハルが目を剥く様が目の前を掠めた。慌てて周囲に視線を巡らす。しかし、いなせに浴衣を着こなしたチハルの姿はなく、相変わらず着古したブルージーンズに白いTシャツ姿の祐子の背が見えた。横に立つ大久保玲の長身に、寄り添うようにして立っている。これで進太がいれば、最高に幸せな気分になれるとMは思う。

「ほらM。最終幕が始まるわよ。ぽかんとしていたら、睦月の熱演を見逃すわよ」
直ぐ前から声を掛けられ、ぎょっとして目の焦点を合わせる。涼しそうな白い麻のパンツルックに身を固めたチーフが笑っている。隣でチーフと手を繋いだ天田が意地悪そうに片目をつむった。他愛ない幸せがMの周りを取り巻く。
「進太は、きっと来るよな」
不幸せを一身に背負ったように、陶芸屋がまたつぶやく。
煉瓦蔵の中から八木節の音色が聞こえてきた。広場の舞台にも再び鮮やかな照明が輝きだす。劇団スタッフの手で織姫通りに面した鉄扉が大きく開かれ、街の賑わいが目に飛び込んできた。幕間も終わり、いよいよ沢田正二率いる劇団・真球の国際演劇祭応募作品「ヤギブシ」の最終幕が上がった。


動物園で生まれ育ったキリンは、やはり野生と違う。進太が時間をかけて話し掛け足を撫でた甲斐があって、やっと警戒心を解いた。だが、チハルが大きく開け放した扉から外の道路に出ようとはしない。

「さあ、サクタロウおいで。一緒に外に出よう。自由に街が走れるんだぞ」
いくら進太が呼び掛けても、長い首を外に突き出すだけで出ようとはしない。まるで天気をうかがっているようにも見える。しかし、時折遠雷が響くだけで、空はもう、すっかり晴れ上がっている。雨で洗われた夜空には星も瞬いている。暑くもなく寒くもない、素っ裸でいるのが似合いなほどすがすがしい夜だ。

「おいでよ、さあおいで」
肌にへばりつく濡れたTシャツを脱いで、素っ裸になった進太が疲れ果てた声を出した。
「餌で釣るしかないね。食べるかどうか分からないけど、冷蔵庫にはこれしかなかった」
開け放した鉄扉の横に立ったチハルが、黒いデイバッグからバナナを出して進太に投げた。進太は面食らった顔で、手にしたバナナを見る。猿ではあるまいし、キリンがバナナを食べるなんて飼育員の梅田さんからも聞いたことはない。だが、このままでは朝になってしまいそうな恐怖が湧く。進太はバナナの皮を剥いて高々と頭上に掲げた。甘いバナナの香りがにおい立つ。好奇心の強いサクタロウが長い首を伸ばし、巨大な顔をバナナに近付ける。進太が素早くバナナを背に隠すと、ザラザラした舌で進太の顔を舐めた。バナナが欲しくて甘えている様子がありありしている。進太は急いで五メートル離れ、またバナナを頭上にかざした。今度はサクタロウが躊躇無く歩みを進めた。蹄の音が響き、黒と黄の網目模様に覆われた巨体が、扉を通り抜けて戸外に出た。進太の顔がうれしさに歪む。泣き笑いをしながら、なおも先に進む。サクタロウはバナナを追ってアスファルトの道路を歩き、飼育舎から十メートル以上離れた。キサラギとキリタロウも後に続いている。高い石垣の横まで出てから、進太はサクタロウに三等分したバナナを与えた。サクタロウは太い涎を流し、おいしそうにバナナを噛む。進太は後からついてきたキサラギとキリタロウにも、同じようにバナナをやった。二頭ともおいしそうに食べた。進太の気分は最高度に高揚する。キリン使いになったような気がして大きく胸を張った。黒いデイバッグを提げて近寄ってきたチハルが、房になった四本のバナナと長いスカーフをバッグから取り出す。
「このスカーフは祐子の織った品だよ。柔らかいシルクだからキリンの首に巻いても興奮しないかも知れない。手綱替わりになる」
チハルが言って、バナナとスカーフを手渡す。進太にはチハルの裸身が輝くようにまぶしい。ぞんざいな口調も、天の声のように優雅に聞こえた。

「ありがとうチハル。本当にありがとう。チハルのお陰で、僕は夢がかなえられる。本当にありがとう」
涙声で何回も頭を下げる進太を、チハルは笑って見下ろす。
「礼はキリンに乗ってからいいな」
涙を拭って進太が大きくうなずく。まなじりを決して進太は石垣を見つめた。バナナの房をスカーフに結びつけて首に掛け、力いっぱい石垣を登る。石垣の天辺に立つと、ちょうどサクタロウの背の高さと同じになった。サクタロウは無邪気に路側帯に植えられた紅葉の葉を食べている。進太はバナナを一房取って皮を剥いた。サクタロウに向けてバナナを振ると、長い首だけを伸ばしてくる。

「だめ、サクタロウ、こっちに歩いてくるんだ」
厳しく言って背にバナナを隠すと、やっとのっそり近付いてくる。サクタロウが背に乗れるところまで来たとき、進太はちぎったバナナを前方に投げた。即座にサクタロウが向きを変え、素早く路上に落ちたバナナに首を伸ばす。進太の足先に無防備なサクタロウの背がある。進太は一瞬の躊躇もなく、サクタロウの背に飛び乗った。ブラシのように固い短毛が股間を刺す。ぱんぱんに張り切った肌が一瞬揺れた。だが、サクタロウは進太を振り落とすよりバナナを選んだ。巨大なキリンの背に乗った進太は、巨木に不安定にとまったセミのように見える。必死の思いで太い首にスカーフを回して手綱を確保する。少し抵抗の素振りを見せたサクタロウも、小さな荷物を諦めたように進太を背にして、また紅葉の葉を食べに行った。

「進太、すてきだよ。キリンに乗った人間を、私は初めて見た」
キリンを見上げて感動の声を上げたチハルが、進太にはやけに小さく見えた。
「ありがとう、本当にありがとう。チハルも一緒に煉瓦蔵に行こうよ。ママにもぜひ紹介したい。なんと言ってもチハルは僕の大恩人だ」
キリンの背で誇らかに言った進太はちっぽけだが、チハルの目にはとても大きく見える。これで良かったとチハルは思った。夢が実現することも、この世にはあった。その事実が無性にうれしかった。
「いいえ、進太。私は行かない。これでさよならだよ。進太のことはきっと忘れない」
「残念だな。でも僕は行く。きっとチハルも喜んでくれるね」
答えた進太にチハルが大きくうなずく。進太は坂の下を見つめ、ちぎったバナナを遠くに投げた。サクタロウがバナナを追ってゆっくり歩き出す。進太は手綱を握り、キリンの誘導を必死で覚えようと歯を食いしばる。

チハルの目の前を異様な一団が遠ざかっていく。三頭のキリンが街へ続く坂道を下りていくのだ。ひときわ大きいキリンの背で、ちっぽけな進太の裸身が不安定に揺れている。いつキリンが暴走を始め、進太が振り落とされても不思議はない眺めだった。振り落とされれば、多分進太は死ぬ。しかし、チハルはそれでも構わないと思った。これだけの手助けをした責任も特に感じなかった。少なくとも、絶望の淵にいた進太が夢を現実にしたのだ。夢の実現が死に繋がって悔いるのは、夢の実現を望まぬ人間の驕りに過ぎない。チハルの脳裏にMの顔が浮かんだ。どうやらMと同じようなことをしてしまったと一瞬思った。頬が赤くなる前に激しく頭を振り、Mの幻影を振り払う。明日は祐子を誘い、八木節祭りを案内させることに決めた。思えば、それが今回の帰省のただ一つの目的だった。
街へと続く家並みの向こうから、チャカポコ、チャカポコと陽気な八木節音頭のリズムが流れてくる。


カッカッカッカと蹄の音を響かせて、サクタロウは山手通りを歩む。
雨上がりの通りは閑散としている。八木節祭りの会場になった織姫通りに向かう人影も見えない。すでに市民全員が祭りに出掛けてしまったような気がする。もう午後9時に近いのかも知れなかった。
「芝居が終わってしまう」
焦りに咽せたつぶやきが進太の口に上った。しかし、キリンのサクタロウは平気な顔で、広い道路の真ん中をもの珍しそうに長い首を振りながら悠然と歩く。大きな歩みに連れて進太の裸身も微妙に揺れる。すぐ近くに赤信号を点滅させた織姫通りと合流する信号が見えているが、なかなか近付かない。

進太は首から下げた二本のバナナの房から一つを取って皮を剥いた。バナナの甘い香りが鼻孔を突く。サクタロウの背を左右の脚できつく挟むようにしてバランスを取り、力いっぱい腕を振り、思い切り遠くにバナナを投げた。途端にサクタロウがダッシュする。進太の背が後ろに引かれ、危うく振り落とされそうになる。すんでの所で前方に重心を移し、急な加速を必死で堪える。跨るキリンの背に慣れたせいか、不思議に恐怖はない。サクタロウの巨体も走る速さの割には安定している。左右への揺れは思ったほど無い。加速に伴う前後の重心移動さえ気を付ければ何とかなった。とにかく、長い道のりを振り落とされずにここまで来たのだ。煉瓦蔵までは、もう500メートルも無い。

3頭のキリンと進太は、織姫通りの信号のすぐ手前まできた。薄暗い交差点の右手からは、明るすぎるほどの照明が差し込んでいる。けたたましい八木節のリズムに混ざり、大勢の人から立ち上る喧噪が押し寄せてくる。イカを焼く生臭いにおいと、水飴やフルーツの甘いにおいが、腹の空いた進太の鼻を襲う。キサラギとキリタロウを従えたサクタロウの足が一瞬止まった。長い首を真っ直ぐ上げ、すべての音を聞き分け、においを嗅ぎ分けようと空を見上げた。

「サクタロウ、行くんだ」
背を真っ直ぐにして、進太が叫んだ。手綱にしたスカーフを力いっぱい手元に引く。おびただしい数の露店が上げる食品のにおいが、サクタロウの警戒心に勝った。サクタロウは早足で交差点を右折する。進太の小さな裸身が斜めになり、キリンの背から落ちそうになる。必死に掴んでいるスカーフが高い衣擦れの音をたてる。大きく見開いた進太の目に、織姫通りを埋めた八木節踊りの輪が飛び込んできた。道路中央に引き出された二層の櫓が大きく揺れる。サクタロウが風を切って走る。見る間に踊りの輪が乱れ、人々が散り散りになる。

ウッ、ウワッー

驚愕に満ちた女の叫び、男の呻き、足音、泣き声、身体のぶつかり合う音、露店の倒れる音。一切の音が渦巻き、一つの轟音になって3頭のキリンを興奮の極致に誘う。目まぐるしく風景が流れ、黒々とした煉瓦蔵のフォルムが急に大きくなる。赤黒い壁の横手に大きく開かれた鉄扉が見えた。進太は最後に残ったバナナを渾身の力で投げた。疾走するサクタロウが条件反射のように巨体を寝かせ、鋭く左に曲がる。蹄の音を高らかに夜空に響かせ、3頭のキリンは一散に煉瓦蔵の広場へ駆け込んで行った。


メルボルン国際演劇祭応募作品「ヤギブシ」の最終幕は今、最高潮を迎えようとしていた。照明を落とした煉瓦蔵側面の扉を、白いピン・スポットが照らし出している。広場のクスノキの下で約百人の観衆が静まり返り、スポットライトの先を見守る。
ひときわ高くお囃子の横笛が泣くと、煌々と輝くピン・スポットの照度が極端に落ちた。黒く開いた扉の中から薄闇の広場に、白々とした裸身がよろめき出る。全裸背面合掌縛りに緊縛された睦月が、うつむきがちに歩く。背中で縛られた両手で握る赤い蝋燭の炎が風に揺らめく。素肌を走るステンレス・ファイバーの縄が怪しく光った。きれいに結われていた高島田が千々に乱れ、裸身をなぶる。またたくまに悽愴な美が広場を占有した。睦月に続いて、縄尻を曳く主人に扮した黒子が現れる。大久保玲がデザインした黒子の衣装は、夜目にも鮮やかないぶし銀に輝いている。睦月の素肌の滑らかさと金属繊維の輝き、そして黒子のいぶし銀の衣装。闇にまたたく銀河のようなコントラストが、観衆を異形の世界に誘う。二人に従うように、煉瓦蔵の中からぞろぞろと観衆が出てくる。

睦月の裸身がクスノキの枝葉の下でよろめき、片膝をついた。割開いた股間を暑く湿った風が渡る。広場を取り囲んだ観衆の間から、一斉に溜息が漏れた。睦月の裸身を快感が貫く。全身が戦き、暑さの中で鳥肌が立ったとき、太股の間を温かな澪が流れた。止めようもなく失禁は続き、足元に広がる。取り囲む観衆に広がる感動の嵐が睦月の裸身を翻弄する。歯を食いしばって顔を上げ、虚空を睨み付けたとき、広場の照明が一斉に灯った。舞台セットの端から白いスモークが立ち上る。赤を主調にした照明を浴びてピンクに染まった煙がたなびく。睦月はじっと織姫通りから現れる馬子の出を待った。


Mの隣りに立つ陶芸屋が、また大きく溜息を洩らした。静けさの中で地面を打ったステッキの音が空しく響く。
「やはり来ない」
陶芸屋の悲痛な声が耳元で聞こえた。赤い煙が立ち上る舞台の先に織姫通りの明かりが見える。
「やはり来ない、か」
陶芸屋の嘆きをMが反芻したとき、見えていたはずの織姫通りの明かりが陰った。凄まじいエネルギーが前方から迫る。巨大な影が一瞬のうちに観衆を追い散らし、広場を疾走した。凍り付いた視線の隅を鮮やかな影が三つ横切っていった。錯綜する騒音の中に、かん高い蹄の音が響いた。強烈な獣のにおいが鼻孔を突く。慌てて振り返ると、煉瓦蔵の裏庭を走り回る3頭のキリンが目に飛び込んだ。黒と黄の華麗な網目模様が闇に浮かび上がって見える。信じがたい光景だが、現実のキリンは古ぼけた煉瓦蔵によく似合った。今、裏庭を一回りしたキリンがまた、広場に向かって疾走してくる。

「ママッ、ママ」
喧噪の中でひときわ高いボーイ・ソプラノが叫んだ。
Mは驚愕の目で疾走するキリンを見た。一番大きなキリンの背に、ちっぽけな人影を認めた。Mの顔が一瞬に歪む。

「危ないっ、進太」
陶芸屋が叫んだ。キリンの前に飛びだそうとしたMの足にステッキを投げ付け、身を投げるようにして前方に飛び出す。Mの足がもつれた。

「アッ」

声にならぬ悲鳴がMの口を突いた。疾走してくるキリンの直前に陶芸屋の身体があった。よろよろと左に傾いた痩せた身体を、サクタロウの蹄が音高く蹴り飛ばす。生き物の潰れる音を、確かにMは聞いたと思った。陶芸屋の身体が無様に跳ね上がった。スローモーション画面のように、ゆっくりとサクタロウの足並みが乱れる。大きく傾いだ巨大な背から小さな裸身が落ち、宙に舞った。二百人の悲鳴が広場を満たし、3頭のキリンが一団となって織姫通りに走り去っていく。

すべてが一分間もかからぬうちに終わった。陶芸屋はキリンの蹄で頭を割られて死んだ。即死だった。ぼろ切れのような死体の横に、キリンから落ちて失神した進太の裸身が転がっている。駆け寄って抱き締めたMの腕に、進太の確かな鼓動が伝わる。ほっとして空を仰ぐと、素っ裸で後ろ手に緊縛された睦月が進太を見下ろしている。睦月の目には相変わらず何の感情もない。ただ暗く深い闇だけがあった。
静寂の戻った煉瓦蔵に急にセミの鳴き声が響き渡る。夜になって狂い鳴くアブラゼミの音に、遠くから救急車のサイレンが共鳴した。芝居は終わった。



市民病院に収容された進太は、幸い全身の擦過傷だけで済んだ。二日後の退院と同時に、窃盗と過失致死で警察に補導され、児童相談所に送られた。いずれは教護院に措置されることになる。

睦月は予定通り8月の末にメルボルンに発った。行き掛けの駄賃のように、進太を養子にするようMに迫った。陶芸屋に先立たれたナースも、祐子も、チーフも、この養子縁組を薦めた。児童相談所にいる進太もMの養子になることを望んだ。親権の放棄を決意した睦月を責めても、今さらどうにもならない。母子二人の家族は、陶芸屋の死を契機に崩壊したのだ。

Mは進太と養子縁組をし、警備会社を辞めた。市に移り住んだ歯医者を誘って山地の蔵屋敷に住む決心をした。温かく受け入れる家庭ができなければ、進太は教護院を出ることができない。Mは戸籍上の祖父に当たる歯科医と一緒に、進太を育てようと思った。たとえ理不尽な家族が新たに生まれるとしても、擬制の家族を見続けてきたMには似合いの物と思えたのだ。ただ官能の行く末だけが寂しく下半身を被った。

夏は終わり、秋の気配が色濃かった。


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