6.それぞれの思い

十一月の下旬になると、市街地の樹木も紅葉の度を深める。中央公園の噴水の上に大きく枝を広げたイロハモミジが、燃え立つような赤に染まっていた。園内を周回する散歩道の銀杏並木も、もうじき黄金色に変わるだろう。Mは産業道路と交わる交差点の前に立って公園の秋景色を望んだ。山地の紅葉とは比べ物にならないが、灰色に煤ぼけた市街では鮮やかな彩りがひときわ目に映える。頬を掠める乾いた風も心地よい。正午近くの日が目にまぶしかった。昼食にするマクドナルドの大きな紙包みを抱えた制服姿のOLが二人、声高に話し合いながらMの後ろに並んだ。目の前の歩行者用信号はまだ赤のままだ。

「ねえ、交番のポスターを見てよ。あのパジェロの子はセントラルパークのシェフの娘さんですって」
「そうよ、レストランにも張り紙が出ていたわ。一昨日ステーキ定食を食べに行ったとき見たわよ」
「えっ、誰と行ったのよ。あなたが窓口当番をすっぽかしたと言って、主任さんが怒っていたわ」
「へー、あんな婆さんなんか目じゃないわよ。更年期障害の気晴らしで怒ってるだけなんだから」
背中で響く騒々しい会話をやめさせようとして、さり気なく後ろを振り向く。途端に二人が口をつぐんだ。意識して顔は見ない。二つの顔の間に視線を投げた。交番の前の掲示板にはったB二判のポスターが目に入った。手作りらしい大きなポスターにはキャビネ大の写真が貼られ、「見た人はいませんか」という見出しが躍っている。Mは掲示板に近寄っていった。二人のOLが不審そうな顔をしたが気にしない。他愛ない会話を中断させた姑息な行為だけを悔いた。まるで二人の話題にされた主任の婆さんのようだと思った。OLたちにはポスターを見るために振り向いたと思わせたかった。ちょうど信号が青に変わり、背中で数人の足音が響いた。Mは大きく息を吸い込んでから肩を落とした。腹の底からいらだたしさが込み上げてくる。改めて孤独を感じた。感じた瞬間、口元に苦笑が浮かんだ。自分らしくないとは思ったが、その自分が最近はとても遠く感じられるのだ。それは、習い初めて二か月になるコンピューターの操作が上達しない焦りからではないし、しばらく縁の無かった市街に放り出されたせいでもない。何とも言えないじれったさを明確に意識した場所は山地だった。

三週間前の日曜日。全市共通の実力テストを受験するために、珍しく朝から登校した進太に弁当を届けに行ったときのことだ。実力テストは二年生だけが受験する。Mは深閑とした学校の雰囲気を予想していた。しかし、弁当の入った紙袋を下げて裏門から校内に入った途端、嬌声に迎えられた。狭い裏庭では、何とサッカー教室が開かれていた。進太が中学校に進学してから学校を訪れるのは入学式以来のことだったが、サッカーが盛んなことは知っていた。山地の学校で唯一残った部活動がサッカーだった。一学年が一クラスしかないため、中学生と小学生が混じり合って練習する。男女も一緒だ。Mの目の前にも十数人の背の揃わぬ子供たちが群れていた。教えているのは褐色の肌をした外国人の青年だ。見事なドリブルに子供たちが喝采する。少し離れた場所に止めた、白いパジェロの前にたたずんでいる若い女性も手を叩いている。実力テストの会場とは思えぬ雰囲気に目を見張り、Mは子供たちの動きを目で追った。青年が身振りでボールを蹴るように告げた。子供たちが先を競って褐色の肌の回りに集まる。笑い声が裏庭に満ちた。小学生の男の子が素早く走り込んできてボールを蹴った。蹴った瞬間にボールが曲がり、裏門の横に立つMの足元に転がってきた。またひときわ高く嬌声が上がった。ボールを拾いに三人の小学生が駆けてくる。Mは笑みを浮かべて足元のボールを拾い上げた。投げ返そうと右手を振り上げた途端に、走り寄ってきた子供たちの足が止まった。にこやかだった顔が硬くなり、怯えた目でMを見つめる。Mの手も一瞬止まった。敵視するような子供たちの視線に戸惑い、青年に向かってボールを投げた。ボールは青年の手前に落ちた。再び大きくバウンドしたボールの落下点を捕らえて、長い足がシュートを放った。凄いスピードで校舎に向かって飛んだボールが玄関ドアのガラスに突き刺さる。ガラスの割れる大きな音が響いた。子供たち全員が喚声を上げ、拍手する。高揚の絶頂でエンジン音が轟いた。パジェロの運転席に座った女が素早くパジェロをスタートさせた。褐色の肌をした青年が子供たちに手を振り、助手席に乗り込む。裏門から走り出るパジェロの背に、子供たちがしきりに手を振って声援で送った。ガラスの割れた玄関から二人の若い教員が走り出てきた。蜘蛛の子を散らすように子供たちが逃げ去る。裏庭に静寂が戻った。顔を真っ赤にした教員に近寄っていくと、二人は照れくさそうな目でMを見た。

「うちの子供たちは元気すぎて困るんですよ。お孫さんのお迎えですか」
邪気のない教員の声で、思わず周りを見回してしまった。だが、裏庭にはMしかいない。すぐ苦笑が浮かんだ。小学校の教員から見れば、若い祖母に見られるのも仕方ないと思い直した。自分自身で考え、意識している存在と、他者の見る存在がかけ離れているのは当たり前のことだ。その落差の大きさに、Mは今更ながら驚いただけだった。
「いいえ、実力テストの中学二年生に昼食を届けに来たんです」
答えた声は固く、掠れているような気がした。
「ああ、ご苦労様です。せっかくの日曜日に、ご熱心で恐れ入ります。山地では受験に関心のない家庭も多いんですが、ご理解があって助かりますよ。試験場は二階の隅の教室なんですが、せっかくですから僕が弁当をお預かりします」
もう一人の教員が世慣れた口振りで言って、仲間の失態をフォローした。

「すみません、進太に渡してください」
Mが答えると、二人の表情が曇った。
「進太君の家族の方ですか。大変ですね。でもあの子は勉強が一番だから、高校受験は心配ないですよ。市の有名高校に進学すれば、あの子も普通になります。心配要りませんよ。山地はレベルが低いですから、東大に行けるような子は周囲から浮き上がるんです」
取って付けたように答える教員に頭を下げて、Mは帰っていった。ほとんど訪れることの無かった学校とMの関係は希薄だ。その希薄さが相互に大きな誤解を生んでいた。Mは決して教育熱心ではないが、希薄な関係にある学校側から見れば、子供の進学しか考えない中年女に見えるに違いなかった。Mが考え、行動してきたことなど、誰の目にも見えない。そして、これからのMの生き方にも誰も関心を払わない。だが、将来の時間が圧倒的に残っている進太は、同時代に関心を持たれないわけにいかない。Mは限りなく透き通っていく存在としての自分を意識した。それは子供が気付くよりも、いち早く大人が認識すべき問題だった。濃密に思える関係にもたれ合っていては、決して見えてこない真実なのだ。


ポスターに貼られたキャビネ大の写真の中で、三週間前に山地の学校の裏庭で見た若い女性が白いパジェロの前で笑っていた。写真に添えられた文章によれば、その博子という女性は、Mが学校で見た日から行方不明になっているという。工学部に留学中のバングラディシュの青年が同行しているかも知れないと、文末に添えてあった。彼もその日以来、アパートに帰っていない。目撃者への通報先は、警察の家出人係とレストラン・セントラルパークになっていた。これから極月と待ち合わせて、昼食を取る予定になっている店だ。だが、Mはそのレストランに行ったことはない。Mの通うコンピューター学校の企画部長を勤める極月の指定だった。極月はMが人材派遣会社の主任をしていたときに紹介した水瀬システムズにまだ籍を置いている。コンピューター・システムの開発を主業務とする会社の事業拡大によって設立した学校には、役員として出向してきていた。いつも忙しい極月と食事をするのは本当に久しぶりだった。

通りを隔てて中央公園と向かい合った雑居ビルの一階にあるレストランは落ち着いた雰囲気だった。厚いガラスを入れた格子ドアの横に、先ほど交番の前で見たのと同じポスターがはってある。ドアを開けて明るい店内に入っていくと、一番奥の席から極月が立ち上がって手を振った。Mも手を振り返したが、それほど広い店ではないので頬が赤く染まる。妙に人目が気になる自分が歯がゆい。

「遅いわよ。人を待たせるなんてMらしくない。隠居暮らしが続いてボケが進んだのね。コンピューターの学習はいいリハビリになるでしょう」
Mの肩を片手で抱いて、極月が冗談めかした怖い声で言った。今日の極月はピン・ストライプのチャコールグレーのスーツを着ている。わざとゆったりさせた上着がしなやかな身体を一段と魅力的に見せている。どこから見てもエグゼクティブと分かる。
「遅れてごめんなさい。午前の授業が終わるとすぐ、企画部長室に行ったのよ。でも、極月はいなかった。本当に忙しいのね」
「だから、ここで待ち合わせましょうと言ったのよ。Mは物忘れもひどいわ。私は滅多に席にいない。今日も、土・日曜日の学校を企業の新人研修に使ってもらいたくて、事業所を飛び回っていたのよ。休日だからと言って設備を遊ばせておくのはもったいないでしょう」
間が抜けたMの答えに、極月がビジネスマンの口調で応えた。極月がまぶしく見えて仕方ない。促されるまま席に座り、うっとりとした目で顔を見つめた。

「嫌だな、そんなに見ないでよ。Mに誘われているようで、背筋がかゆくなってしまうわ。それから、メニューはオーダー済みよ。ステーキ定食。いいでしょう。この店は安くておいしいのよ」
極月の照れた声にMの口元がほころぶ。
「ふーん、キャリアウーマンにしては質素な食事ね。私はハウスワインの赤もいただくわ」
「だめよ、午後も授業があるはずだわ」
あきれたように極月が答えた。
「いいえ、コンピューターの練習なんて、しらふではできないことに気付いたのよ。極月に叱られても私は飲むわ」
断固とした口調に、極月が冷たく首を振って応えた。それでも席を立ってキッチンに向かい、ブルゴーニュのハーフボトルとグラスを二つ持ってきてくれた。

「仕方ないわ。とにかく、久しぶりの食事だから乾杯しましょう」
頑固な年寄りに辟易したといった顔で、極月が片目をつむった。二人でグラスを合わせてワインを飲んだ。Mはいつになく壮快な気分になる。濃密な関係が、安心できる地位を用意してくれるのだ。だが、だんだん居心地が悪くなってくる。たわいない話が続いたあげくに極月が問い掛けてきた。
「どう、パソコンのレッスンは進んでいるの。そろそろインターネットが始まるころよね」
「進んでいるもないもんだわ。あのマウスってやつが好きになれないのよ。私が使っていたころのコンピューターはキーボードの操作だけだったわ。今はキーボードから手を離してマウスを操作しなければならない。残念ながら私には手が二本しかないの。今のパソコンは手が三本ある人類が操作すべきよ。もう、やめたくなったわ」
日頃の不満がついMの口に上った。
「やはりMらしくない。今の時代では、パソコンに慣れていないと世捨て人になってしまうと言ったのはMでしょう。もう一度、市に出て社会復帰がしたいとも言ったわ。それを機械の操作が難しいから断念するなんて許せないわ。お金持ちのMはパソコン操作を就職の武器に使う必要はないのよ。即席の農婦を気取った隠居暮らしをやめて、時代の空気を感じ取れればいいの。そうすれば中学生の進太とも共通の話題ができる。ねえ、M。進太はチハルの好き放題に操られているんじゃない。もう一度進太を、健全な環境に取り戻すのが本当の狙いなんでしょう。情報化の時代に四輪駆動車を乗り回してハンティングの真似事をするなんて野蛮すぎる。進太には知的な好奇心が必要よ。これ以上チハルの影響力が強くなれば、本当に暴力志向に走ってしまうかも知れないわ。もっとしっかりしなくちゃ進太がかわいそうよ」
Mの言葉尻を捕らえて極月の説教が始まった。たとえ図星を指されても説教が好きな者はいない。毎日のようにキヨミ先生に説教をされているという進太の気持ちが分かるような気がした。

「分かったわ。午後の授業も始まっているから、私は帰る。ごちそうさま」
極月の気を逸らすようにMが言った。極月が慌てて左腕のカルチェの時計を見た。もう午後二時を回っている。思いの外早く時刻が過ぎたのだ。見回した店内には他に客はいない。極月が大きくうなずいて席を立った。Mも後に続いた。入口横のレジには誰もいない。アルバイトのウエートレスは遅い食事に行ったらしい。極月が声を掛けると、シェフの格好をした中年の男がキッチンから出てきた。博子の父に違いなかった。心持ち憔悴した目元が、山地の学校で見た博子の細い目とよく似ている。深々と頭を下げたシェフに送られて、極月がドアを開けた。Mがシェフを振り返る。

「あの、博子さんの事で、何か分かりましたか」
問い掛けたMを、驚いたようにシェフが見た。しかし、一瞬輝いた視線をすぐ床に落とした。空しい問い掛けに慣れきってしまった風情だ。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません。残念ながら、まだ何の情報も入ってきません。今後ともよろしくお願いします」
消え入りそうな声でシェフが答えた。痛々しさがMの胸を突く。とっさに博子を見たことを告げたくなった。
「M、何か知ってるの」
極月が振り返ってMに尋ねた。半分開いたドアを片手で支えている。
「いえ、外のポスターが気になっただけ。早く見付かるといいですね」
極月とシェフに同時に答えて口をつぐんだ。くーちゃんの死体を発見したときと同じ事を、またしてしまったと後悔する。たまらなく名淵検事に会いたくなった。


名淵は検察支部の二階にある自席から、開け放された窓の外をぼんやりと眺めていた。やっと午後三時を回ったところだが、秋の日は短い。すっかり斜めになった日射しが夕暮れが近いことを知らせていた。検察支部は水瀬川を挟んで市街の対岸にある。国や県の合同庁舎から少しはずれ、裁判所支部の隣りに建つちっぽけな二階建ての庁舎だ。公判部の同僚はいつも忙しくしていたが、支部に派遣された特捜検事にこれといった仕事はない。山地の少女殺人事件の調査も終わり、派遣期限の月末を待たなくてもいつでも帰任できる態勢だった。だが、名淵には帰任する気はない。この市が持つ魔力のような魅力を、任期切れになる日まで愛用のライカM6で写し取っておきたかった。そして、できることならばMに、もう一度会いたいと思った。夏の終わりの官能の一夜のことが忘れられない。もし機会があれば、官能に身悶えするMの姿を何としてもカメラに収めたいと思う。三か月の任期で検察支部を回り、特別捜査の仕事をアピールする職務も閑職でしかない。だが、このまま退職して「やめ検弁護士」になる気にはなれない。全身を賭けた仕事がしたいと痛切に思う。

「検事さん、ご面会ですよ」
ドアを開けて入ってきた事務官が慇懃に言った。客の氏名も告げない無礼な態度に腹が立ったが、この検察支部では名淵は招かれざる客なのだ。無言のまま部屋を出て階下に向かった。階段を鉤の手に曲がったところで踊り場に出ると玄関ホールが見渡せた。薄暗いホールの無人の受付の前に、長い髪の女が立っている。ガラスドアから長く射し込む日の光で顔は暗い。白っぽいマウンテンパーカーの裾から伸びた脚が驚くほど長い。階段を降りてきた名淵を見上げて、うれしそうな声を出した。
「検事さん、突然お邪魔して申し訳ありません」
「あっ、Mさん、いらっしゃい。わざわざ、こんな所まで来てくれたんですか」
反射的に答えた声が、我ながら上擦っていると名淵は思った。逆光になったMに見られていると分かっても、つい表情が緩むのを押さえきれない。いつもの習慣で辺りを見回す。人影はなかった。でも、立ち話はしたくなかった。招じ入れる部屋を思い描いたが、検察支部には気の利いた部屋はない。ただ一つある応接室も、取調室のようで味気なかった。実際、名淵がいる間に取り調べで使ったこともある。

「実は、検事さんにご相談があってきたんです。お忙しいなら、そう言ってください。日を改めます」
名淵の気持ちにお構いなく、Mが話し始めた。名淵は外に誘うことに決心する。自分の車の中が最高だと思った。Mの前まで歩を進めた。
「いいえ、構いません。いくらでも時間は割けます。でも、この役所には適当な場所がないんですよ。よかったら僕の車へ行きましょう。そこで話をお聞きします」
突飛な申し出に、Mがすぐ頷き返した。玄関ドアを開けて二人は駐車場に出た。さわやかな風が二人を包む。さすがに肌寒さが感じられた。日溜まりになった狭い駐車場に六台の車が止まっている。名淵は真っ直ぐ緑色のスポーツカーに案内する。ブリテッシュ・レーシンググリーンのMGFだ。ドアを開けてMを招くと、Mの表情がぱっと明るくなった。
「私も昔、真っ赤なMGFに乗っていたの。懐かしいわ」
助手席に座ったMが、狭い車内を見回しながらうれしそうにつぶやいた。
「そうでしたか。知っていたら運転席に座ってもらったのに。で、今は何にお乗りなんです」
名淵の問いにMが笑いで答えた。笑いながら指差すところに白い軽トラックが駐車してある。
「なるほど、MGFより実用的だ」
答えた名淵が続いて笑った。

「検事さんは、レストラン・セントラルパークの娘さんが行方不明なのを知っていますか」
唐突にMが問い掛けてきた。真剣な声だった。
「知ってますよ。外国人がからんでいるようなので、検察支部にも警察から通報が来ました」
「そう、褐色の肌をした逞しい青年のことね」
「見たんですか」
外国人の容貌を口にしたMに驚き、問いただした声が大きくなった。まだ公表していない情報だった。硬い表情でMがうなづく。
「なぜ黙っていたんです。三週間も前のことですよ。いつ、どこで見たんですか」
思わず非難する口調になって、矢継ぎ早に聞いてしまった。Mの横顔が苦悩で歪んだ。
「行方不明になっていることは今日のお昼に知ったの。二人を見たのは三週間前。山地の学校で、二人一緒にパジェロで去っていくのを見たのが最後よ。私は新聞を読まないし、テレビも見ないから、ポスターを見るまで知らなかった。セントラルパークで友達と食事して、帰り際に会ったシェフに娘さんの情報を伝えようとしたの。でも、できなかった。山地の事件が気になって、口に出せなくなったの。これからは事実を告げると検事さんに約束したのにできなかった。だから相談に来たのよ」

名淵は三週間前にMが見たことのすべてを聞いた。白いパジェロが山地で消え失せた予感がした。事故かも知れないが、確実に死の匂いがした。
「検事さんには話せたけど、やっぱり警察に出頭するのは気が重いの」
話し終えたMがしんみりした声で付け加えた。気持ちは分からないではない。それに、まだ事件になったわけではなかった。
「僕が警察に話しますよ。僕なりに調査もしてみましょう。とにかく事件の匂いがする。それも、山地が舞台になった予感がするんです。調べさせてもらいますよ。これでも特捜検事なんだから、手慣れたものです。よかったら、週末にまたお会いしたい。山地にも、Mさんにも、僕は惹かれるんだ」
思わず声が高まったが、Mは黙ってうなずき返してきた。名淵はせっかくのチャンスを逃がしたくなかった。
「金曜日の夜にサロン・ペインの会員ルームを予約しますよ。ぜひ付き合ってください」
「いいわよ、縄は私が用意するわ」
あっさり答えた声がやけに遠くで聞こえた。ペニスが硬くなっていく。名淵はMの手を引き寄せ、さり気なく股間に導いた。
「検事さんは若いわ。こんな時でも元気がいいのね」
Mの華やいだ声が全身に響き渡った。野心も官能も、一切が欲しいと名淵は痛切に願った。


午後六時を過ぎた山地は、もう闇に包まれていた。自転車のライトが弱々しく照らす街道から蔵屋敷に続く横道へと、清美は慎重にペダルを踏んで曲がっていった。やがて、疎水を渡る木橋の横に立つ外灯の明かりが目にはいる。清美はほっとしてペダルを踏む足の力を緩めた。明かりは見えたが、近付くまでには五分ほどかかる。闇の中の光はことさら近くに見えるのだ。この道を自転車で通い始めてから、もう一週間が経った。今夜こそ進太を説得し、女の子たちの勉強を見させようと思う。照れ性で意固地な進太を説得するには教師の誠意を理解させるしかないと、清美は確信していた。楽をしていては進太と意志の疎通ができるわけがない。車を使わないのもそのためだ。市からの通勤に使っているマーチは学校に駐車してあった。片道二十分の道のりをわざわざ自転車で往復する。夜道は寒かったが、真冬用のダッフルコートを着た清美には気にならない。かえって汗ばむくらいだ。これが教師の誠意と根性だと思うと、ペダルを踏む足にまた力が入る。秋山とのデートを断ったことにも悔いはなかった。ただ、数人の同僚が見ている前で演じた醜態が気になった。教育に理解がない秋山の不甲斐なさがしゃくにさわる。その口喧嘩は、つい十五分前に起きたことだった。

部活の指導も終わって午後六時になったとき、清美は職員通用口でブーツを履こうとしていた。
「清美さん、今夜も進太の説得に行くんですか」
背後から秋山の声が落ちた。どことなく苛ついた声だ。
「ええ、諦めないで毎日説得に行くと進太ちゃんに言ったんですから、約束どおり毎日通います」
答えた声が少し尖っていた。
「僕にはムキになっているとしか思えないな。どうして進太のことになると、他のことが目に入らなくなるんだろう。清美さんは小学校の教師ですよ」
「いいえ、ムキになってなんかいません。私は小学校の仕事を全部済ませてから、個人的に進太ちゃんの指導をしているんです。秋山先生もよくご存じのはずでしょう」
気に掛かっていたことを恋人の秋山に指摘されたので、清美は裏切られたような気がした。確かに清美の行動は越権行為だった。秋山の黙認と理解を前提にして、小学校の担任の時にやり遂げられなかった指導を再開したに過ぎない。それだけに、秋山の言葉が心外だった。思わずくってかかるように言葉を投げた。

「秋山先生は、ご自分の生徒に手を出すなって言いたいのかしら。そんな狭い了見では先が思いやられてしまいます。私たちの教育の理想をお忘れになってしまったのかしら」
「清美さんは誤解してるよ。僕は手を出すなとも、迷惑だとも言ってない。ただ、久しぶりにデートに誘おうと思って声を掛けただけですよ。やっぱり、清美さんはムキになっている」
秋山が対立を納めようとして、二人の関係に話題を振った。清美は土・日曜日も学校に出て、進太の家に通い続けていた。秋山との関係は結婚の話がでかかったままで中断していた。もちろんセックスまでは進んでいたが、それも儀式のように淡いものだった。

「ごめんなさい。私もデートはしたいけど、今は進太ちゃんの教育の方が大事なの。もう少し時間をください」
固い声で答えてしまった。笑い声でごまかし、今日の対立をあいまいなままにしておくのが大人の女だとは思うが、清美はもう後に引けなかった。
「凄く真剣だね。進太に嫉妬してしまうよ」
秋山が最後の助け船を出した。縋り付いて一緒に大笑いすべきだと、清美の中の女が告げる。だが、清美の顔に笑いは浮かばなかった。こわばった口元から冷たい声がこぼれ落ちた。
「自分の教え子に、なんてことを言うの。恥を知りなさいよ」
言った途端に秋山の顔が真っ赤になった。全身が怒りに震えている。
「清美さんは先輩として僕をやりこめたいんだろう。僕が担任している進太を更正させて優位に立ちたいんだ。いくら年上だと言っても陰険が過ぎるよ。子供たちに平等に接しようというのが僕たちの方針じゃないか。清美さんは私情に流されている。それも、結婚の話が出た途端に僕を押さえ込もうとする。フェアじゃないね。進太にとっても、僕にとっても、虐めと同じだ」

初めて秋山が清美に見せる激情だった。言い募る目に涙が滲んでいた。清美の目頭も熱くなった。ぼやけた視界に二人の口論をのぞき見している同僚の顔が映った。そのうちの一人は、小学校で清美のライバルの学年主任だった。反射的に右手を振り上げ、秋山の頬を張った。静まり返った職員通用口にかん高い音が響いた。
「もう、付きまとわないで」
大きな声で言い捨てて、駐輪場に駆け出した。追ってくるだろうと思った秋山はついてこない。暗がりの中に自転車を引き出し、泣きながらペダルを踏んで蔵屋敷に向かった。


木橋のたもとに立つ外灯の明かりが、自転車の横に立った清美を照らしている。疎水の向かいに見える蔵屋敷の窓には明かりが灯っているが、進太はいない。通い詰めて一週間も経てば雰囲気で分かる。何より進太が愛用するモトクロス・バイクがなかった。清美はもう二十分間も、進太の帰りを待っている。これまでの帰宅時間は六時三十分前後と、判で押したように決まっていた。待ち受けていて会えなかった日はなかった。説得はうまくいっていなかったが、逃げ隠れしない進太の態度には教育者としての手応えを感じていた。もう一息だと思っていた。
「私を避け始めたのね」
つぶやいてみると心細さが込み上げてきた。裏切られたような思いの底で、進太の姿が揺れ、秋山の顔に代わった。他愛ない口喧嘩のシーンが甦ってきた。初めて悔いを感じた。取り返しのつかないことをしたと思った。急に寒さを感じ、身震いして足踏みをする。何が何でも進太を説得する以外に、道は開けないと思い定めた。温かそうな明かりが灯った蔵屋敷の高窓を、清美は憎しみを込めて睨み付けた。


「ねえ、チハル。本当だよ。しつこいのを通り越して、もう異常の領域だよ。かわいい顔して鬼のようなことをするんだ。七日間も帰りを待ち受けられて説教される僕はたまったもんじゃない。今夜もきっと、キヨミ先生は自転車に乗って僕を待っているんだ。いい迷惑だよ。虐めより悪い。殺したくなる」
「くーちゃんのようにしたいんだ」
憎悪に満ちた進太の言葉に、チハルが顔も上げずに軽く答えた。チハルは半円形のドーム館の自室のベッドの上で、レミントンM1100の手入れをしている。機械オイルの匂いが部屋中に満ちていた。進太は部屋の中央に置いた革張りの椅子に所在なげに座っている。ドーム館の半分の権利を持つ祐子は、鋸屋根工場跡のアトリエと煉瓦蔵の前にあるマンションを拠点にしているため、半円形に区切った隣の部屋を使うことはなかった。元通りに壁を取り払ってもよかったのだが、チハルはあえて祐子と暮らしていたときのままにしていた。ベッドと椅子、それにパソコンしかない殺風景な部屋に不満もなかった。所在なげにしている進太にも不満はない。一時熱中したパソコンにも最近は触れることがない。やはり、アウトドアの活動が最高だと思う。住居の中は安心して休むだけの場所だった。チハルの暮らし振りがそれを証明している。進太は蔵屋敷より、チハルの部屋の方がよっぽど気が休まる。チハルも進太を疎んずることがない。今も、ベッドに胡座をかいて座ったチハルは素っ裸だった。進太の目を気にする素振りも見せない。だが、進太はチハルの前では、命じられない限り裸になれなかった。それは、わだかまりというより恥ずかしさが原因だった。劣等感といってもいい。進太の肉体が取り立てて醜いわけではなかったが、進太の目にはチハルの裸身が美しすぎた。チハルと均衡がとれない裸身を晒すのが耐えられなかったのだ。進太の気持ちが分かっているように、チハルは些細な干渉もしない。山地に帰ってきてからのチハルは進太の指針になっていた。七年前に動物園からキリンを強奪したときに見せてくれた力強さは一向に変わっていない。一層凄みを増した膂力が、毎日のように進太に目を見張らせてくれていた。

「くーちゃんとは少し違うんだ。あの子は黙って泣いていただけだから、耐えられなくなるまでに結構長い時間があった。でも、キヨミ先生は違う。怒ったり泣いたり、脅してはすかしたりで目まぐるしい。まるでチハルが嫌がらせを始めたみたいにエネルギッシュでパワフルなんだ。僕の力量では太刀打ちできないよ。もう限界だと思ったから、今夜はドーム館に避難してきたんだ。ねえ、どうしたらいいだろう。このままでは僕、本当に先生を殺してしまいそうだよ」
進太の泣き言がまた部屋に響いた。チハルは返事もせずに分解した銃を組み立てている。最後にスライドを引くと、かん高い金属音が響いてトリガーがセットされた。
「殺したければ殺してもいいのよ。ただし、自分が殺されることも受容することが条件。フェアな戦いなら、いつでも始末はしてあげる。後は進太が一人で決断するんだね」
突き放すようにチハルが言って、レミントンを頬付けにして構えた。真っ黒なドーム天井にまたたく星空に銃口を向ける。青白く輝く大犬座のシリウスを狙って引き金を引いた。カチッという乾いた音と共に、チハルの視界からシリウスが消えた。もう猟期は始まっている。まだ獲物はないが、明日はイノシシを狩りたいと痛烈に願った。


歯科医は母屋の二階の窓から疎水に架かった木橋を見下ろしていた。橋のたもとに立つ外灯が漆黒の闇をぼんやりと照らし出している。スタンドを立てた自転車の横に、若い女がずっとたたずんでいる。もう二十分は過ぎた。外気温が下がったためか、規則的に足踏みをして手を擦り会わせている。小柄な身体がやけに哀れに見えた。
「キヨミ先生にも困ったものだ」
声に出してつぶやいてから蔵屋敷に視線を巡らす。明かりの灯る高窓が見えた。Mは帰ってきているが、進太は先生が帰るまで戻らないだろうと思った。きっとドーム館のチハルのところで、清美が帰る時刻を見計らっているに違いなかった。歯科医には進太の気持ちが分からないではない。毎晩家の前で待ち構え、やりたくもない講師役を強要されるのでは、歯科医でもたまったものではない。若いころだったら、いい加減にしろと言って、教師を殴り倒したかも知れなかった。だが、進太には自信を持って決断し、実行する能力が欠けているように見える。清美の説教を毎晩聞き、申し出を断ることしかしない。断固とした態度を見せることができないのだ。Mが進太の代わりに清美に言ってやればいいと歯科医は思う。Mの態度はいつだって明確だ。人に誤解を与える余地を残さない。しかし、Mは故意に介入するのを避けているように見える。清美が毎晩進太の帰りを待ち受けていることは知っているはずなのに、話題にもしない。進太が相談してくるのを待っているのかも知れなかった。それほど、今の家族には対話がない。歯科医は大きな溜息をついて、再び清美を見下ろす。Mが外に出てくるとは思えないし、清美が蔵屋敷を訪ねるとも思えなかった。進太のバイクは定位置に見当たらないのだ。キヨミ先生はあくまで進太の帰りを待つつもりだろう。

「今夜は帰ってもらおう。事の是非はともかく、女性を夜の路上で待たせては申し分けなさすぎる」
独り言を言いながら、歯科医は母屋の急な階段を下っていった。久しく閉め切りにしてあった診療所の正面玄関に明かりを点けて、ドアを開けた。ドアの開く音と、急についた明かりが清美を驚かせたらしい。外に出てきた歯科医を怯えた顔で見つめた。
「驚かせて済まない。確か進太が小学校の時の担任の先生ですね。差し出がましいようだが、私の話を聞いて欲しい」
遠慮がちに声を掛けると緊張していた清美の表情が緩み、懐かしそうな顔になった。
「まあ、歯医者さん、お久しぶりです。私は先生がまだ校医さんをなさっていたころに山地に赴任してきたので、とてもお懐かしいです。お元気そうで安心しました」
うれしそうに話し掛けた清美の顔を、歯科医もよく覚えていた。新卒で小学校に赴任してきたばかりの清美を、歯科医は中学生と間違えた思い出もあった。少女のようだった清美が、今や美しい女に変わっている。相変わらず小柄だが、全身から漂ってくる雰囲気は十分に成熟した女の匂いがした。歯科医は目をしょぼつかせて相好を崩す。だが、今夜は懐旧に慕っている場合ではなかった。頬を引き締めて清美の顔を見つめ返した。

「先生が進太を心配してくれて、毎日家庭訪問をしてくれているのは私も知っています。ありがたいことだとも思っている。でも、今夜は私に免じてこのままお帰りください。進太は留守です。恐らく、先生が帰るまで戻りません。逃げ回らないようにするのは家庭の問題です。今夜はお帰りになって、日を改めてください」
「分かりました。私こそ夜分にご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。また明日の夕刻に参りますから、進太ちゃんにお伝えください」
深々と歯科医に頭を下げてから清美は帰っていった。自転車に跨って夜道を去っていく後ろ姿を見て、歯科医は大きく溜息をついた。清美は明日も来ると言ったのだ。熱心を通り越した執拗さに辟易してしまう。蔵屋敷に行ってMに事情を話し、交渉役を代わってもらうしかないと情けなく決断した。


日が落ちてから蔵屋敷を訪ねるのは久しぶりだった。最近は三人で夕食を食べることもなくなっていた。祐子が運んできた食品を、それぞれが好きな時間に調理して食べる事が多くなっていた。レトルト食品が得意でない歯科医は、もっぱら母屋で食事をした。身体が動けるうちはそれでいいと思う。もちろん三人で囲む食卓の味は忘れられないが、進太が成長してしまった今となっては高望みに過ぎるような気もする。これが時代なのだと思えば諦めもついた。良い悪いはその時の気分が決めることに過ぎない。

蔵屋敷の自動ドアを入ると、二階に続く階段の上でクロマルがうれしそうに吼えた。エプロンを掛けたような白いたてがみを揺すり、しきりに太い尾を振って愛嬌を振りまいている。歯科医にはかわいくてならないが、犬嫌いのMを気遣って、夕刻になると進太がクロマルを二階に上げるのだ。やはり、一度帰ってきた進太は、清美の訪問を嫌って外出したに違いなかった。歯科医は憂鬱な気分でリビングに使っているワンルームに入っていった。部屋の中央にある、三人がそれぞれの作業台として使っていたテーブルの上には何も載っていない。Mの姿も見えなかった。あっけに取られて周りを見回すと、バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。歯科医は部屋の隅に置いた安楽椅子に座ってMが風呂から上がるのを待つことにした。布張りの大きな椅子はMと歯科医のお気に入りの椅子だった。だが、歯科医が蔵屋敷にいるときは、さり気なくMが安楽椅子を譲った。老いた身には、些細な気配りさえうれしかった。じっと安楽椅子に身を任せて目を閉じていると、進太が小さかったころの団欒の思い出がまぶたに浮かんできた。他愛のない談笑が、とても貴重なものだったような気がする。

「あら、歯医者さん、蔵屋敷に来るなんて久しぶりね」
声を掛けられて目を開くと、裸身にバスタオルを巻いたMが洗い髪を拭きながら笑っている。一瞬目のやり場に困ったが、かつてのMは身体にバスタオルも巻かなかったと思い直して正面から見た。
「Mに話があってきたんだよ。じつは、ついさっき私はキヨミ先生と話した。外で進太の帰りを待っていたらしいんだが、見ていられなくて帰ってもらった。でも、今夜は帰るが明日の晩も来ると言うんだ。困ったことだ」
「歯医者さんが困ることはないわ。キヨミ先生は進太の担任ではないのよ。小学校の時の先生が教え子が気になって家庭訪問をするのは勝手だけど、それは先生の職務ではない。趣味のようなものよ。趣味で進太の帰りを待つのなら、いつまで待っていても文句は言えない。どちらかというと歯医者さんは、先生にも進太にも余計なことをしたのだと思う」
Mの意見はいつも明快だ。明快すぎてついていけない。人の暮らしはそんなものじゃないと歯科医は思う。

「Mの言うことはもっともだが、先生の訪問を嫌って逃げ出した進太はどうなんだ。私は家族で何とかすべき問題だと思うし、その事をキヨミ先生にも告げた。言いにくいことだが、最近のMは進太を放任しているように見えてならない。だから進太はチハルを慕うんだよ。私には決していいことだとは思えない。やはり、Mが進太を繋ぎ止めてやるべきだと思うよ」
断固として意見してからMの目を見つめた。あれほど自信に溢れていたMが、急に小さくなったように見えた。なんだか泣きそうな顔をしている。言い過ぎたかなと思って目を伏せると、静かな声が部屋に落ちた。

「歯医者さん、悔しいけれど、私はナイフの使い方を知らない。バイクの操縦も、四輪駆動車の運転も知らない。狩猟はおろか、キャンプの仕方すら知らないのよ。でも子供はみんな、それを教わりたいの。私にも覚えがある。自然の中で生きていく知恵や体験に憧れて、ガールスカウトに入ったことがあるの。でも、そこも学校みたいなところだった。一か月で退団したわ。それからの私は、お父さんが子供に教えてくれるようなことから目を背けるようになった。だって、私には父も母もいなかったから。でもね、私に父は要らなかっただなんて、誰にも言わせない。父が欲しかったのよ。今でも欲しがっているような気がする。歯医者さん、あなただって、二十五年前の私には父に見えたのかも知れないのよ。父性を求めだした進太に、私が何ができるというの。少なくともチハルは、私にできない役割を確実に担ってくれているわ。後は進太が、独自に判断力と実行力を磨くしかない。今の私には進太の可能性を信じることしかできないのよ」
最後の言葉が喉につかえていた。慌てて目を上げてMを見た。Mの目から涙が流れ落ちている。声も立てずに手放しで泣いていた。身体に巻いたバスタオルが床に落ち、裸身を細かく震わせて涙を流している。歯科医は黙って安楽椅子から立ち上がり、Mの前まで歩いていった。両手を大きく広げると大柄な裸身が腕の中に倒れ込んできた。冷たく濡れた髪をさすり続けた。気がつくと歯科医の目からも、止めどなく涙が溢れていた。先に逝ってしまった息子のピアニストがたまらなく恨めしかった。


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