8.海辺の情景

今朝見たときと、海はまるで変わっていました。
連続して沖から押し寄せる波で、狭い入り江はラッシュアワーのようです。斜光を浴びた波頭が海面の至るところで重なり合い、黄金色にきらめいています。次々に波が砕け、潮の飛沫が虹色に染まりました。桟橋の先にもやった霜月のイカ釣り船が、激しく上下動を繰り返しています。
浜に立つと、絶対的な潮の圧力が怒濤となって打ち寄せて来るようで、めまいがしそうになります。汀から沖に向かって続いている杭の列は、既に半数が水没してしまっていました。

日の光が乱反射する波間に、小さい人影が見えます。死を求めて海に入っていった祐子の姿です。人影といっても、かろうじて肩から先が海面から露出しているだけです。大波が押し寄せる度に、逆光になった頭が波間に沈みます。砂浜に立つ僕たちから、三十メートルほど沖に出た地点でした。

「本当に死ぬ気みたいだ。入水自殺の方が彼女にはぴったりだ」
横に並んだ晋介が感動の声を上げました。まぶしさに眉をひそめてライカを構えます。剥き出しの夕日を浴びた全身が、オレンジ色に輝いています。
「死ねやしないさ。僕にも経験がある」
思わずつぶやいてしまいました。意識したわけではないのですが、晋介の感動に水を浴びせるのに十分なほど、乾ききった声になっていました。横顔に張り付いてくる視線を妙に意識してしまいます。でも、今は恥ずかしい体験を話すシーンではありません。死のうと決意したときは、だれでも真剣なのです。たとえ知っていても、結果を告げるのは祐子への冒涜のような気がしました。僕は沈黙に耐えます。

「なぜ、死ねないのさ」
晋介が大きな声で問い掛けてきました。答えざるを得ません。
「生への本能だよ。いくら海中に潜っても、息苦しさのあまり浮かび上がってしまうんだ。何回試みても同じさ。やがて心も身体もぼろぼろに疲れ切って、虚しく水から上がってくる。その後が勝負だ。僕は改めてチャレンジできなかった。人間には、死へ向かう本能なんかないんだよ。見ていれば分かるさ」
突き放した声で答えましたが、晋介の返事はありません。神妙な顔をして打ち寄せる大波の先を見つめています。祐子の全身が水中に没しました。僕たちは息を呑んで海原を注視します。しばらく経つと、波間に裸の尻が浮き上がりました。激しい潮の流れが、破れた衣服も剥ぎ取ってしまったようです。苦しそうに身悶えした尻が再び海中に没します。すぐさま肩まで浮上して、大きく息を吸い込みました。後は、何度試みても、無惨な事実を繰り返すだけでした。残酷な眺めです。

「かわいそうだね。生きている方がよっぽど楽だ。滑稽だよ」
吐き出すように晋介が言って、視線を沖に移しました。盛り上がった水平線のすぐ上に大きな夕日が燃えています。
「でっかい夕日だ。負けたね。俺の街の夕日よりスケールが大きい。でも、一色だけだよ。変化したって、赤以外は、オレンジとパープルくらいしかないんだよ。海辺は単純なんだ。俺の夕日は違うぜ。ねえ、進太さん、違うんだよ」
賞賛の声が侮蔑に変わり、協賛を求めてきました。目の前で、必死に死に至る道を模索している祐子が聞いたら、目を丸くするでしょう。しかし、人の生き死になど、こんなものなのかも知れません。だれもが一つのことに関心を持っているわけではないのです。すぐ側で繰り広げられている生死の格闘を、簡単に相対化してしまう晋介の想像力は強靱なものです。

「あれ、もう上がってきたよ」
晋介の視線は目まぐるしく変わるようです。僕も巨大な夕日から目を落としました。オレンジ一色に染め上げられた海をバックに、黒い人影が歩いてきます。虹色の潮の泡を蹴って海から上がってきた祐子は、まるで疲れ果てたビーナスのようです。よろよろとした歩みが均整のとれた裸身に似合いません。逆光になった黒い顔の中で、見開かれた目だけが妖しく燃えています。
僕は引き寄せられるように汀に進みました。輝く後光を背負った裸身が目の前で悽愴な美を放射しています。轟々と鳴り響く波の音に混じってライカのシャッター音が連続しました。晋介の貪欲な目が一瞬のきらめきをフィルムに焼き付けたのです。

「お願い。殺して。死にたいのよ」
耳に飛び込んできた祐子の声は、たどたどしく聞こえました。でも、甘えは感じられません。言葉を選んで発声した理性の裏側に、絶望がかいま見えます。得られなかった死を乞う、執念が悲惨でした。
「進太、お願い」
もう一度訴えた裸身が、汀にうずくまりました。
「帰ろう。辛くても、生きろっていうことだよ」
陳腐なせりふが口を突きましたが、他に言葉を思い付きませんでした。三歩前に進んで、うずくまった肩に手を置きました。氷のような素肌の冷たさが掌から胸の底に伝わってきます。打ち寄せる波が足を濡らしました。祐子の脇に手を差し込んで立ち上がらせます。豊かな乳房が手の中で弾みました。突然、胸がきゅんとなりました。祐子の肉体に無関心だったことに気が付きました。とたんに頬が熱くなります。視線を落とすと、剃り上げた股間で可愛らしい性器が光っていました。死など必要ない肉体です。抑圧した性を解放しろと怒鳴りたくなります。
僕の手の温もりが、冷え切った祐子の心に伝わることを念じて抱き締めました。

「いやっ、死にたいの」
一声叫んだ祐子が手をふりほどき、身を翻しました。驚くほどの感覚の鋭さです。僕を一瞥した目の底に黒い炎が揺れていました。
ふらつく足で波を蹴って、祐子は晋介に迫ります。後ずさる晋介を追って砂浜に身を投げ出し、足元に縋り付きました。なりふり構わぬ取り乱しようです。砂にまみれた裸身が醜く見えます。
「お願い。殺して。死にたいのよ」
同じ言葉で訴えました。玩具をねだって泣きわめく幼児にだって、それなりの自制があります。素っ裸で子供にねだる祐子は論外です。最悪の展開でした。ずぶ濡れの裸身に縋り付かれた晋介の顔に当惑の色が浮かび、瞬時に怒りの色に変わりました。

「よせよ、汚いな。スニーカーもパンツも潮でべとべとだよ。迷惑かけずに一人で死んでくれ。殺したくなるぜ」
叱声が飛びました。尊厳を無くした祐子を完璧に見下した言い振りです。
「殺してよ」
即座に祐子が答えました。売り言葉に買い言葉です。夕日を浴びた晋介の赤い顔が、怒りでなお一層赤く染まりました。
「大層な騒ぎはみっともねえよ。茶番は終わりだ。すぐ望みどおりにしてやる。でも、死ぬってことは苦しいことだ。後悔の声は聞かないよ」
最後通牒のように、ゆっくり言った晋介の顔を祐子が見上げました。見開いた目が、挑戦的に輝いています。
「いつだって、私は苦しいのよ。心の苦しさに比べれば、肉体の苦痛なんて何ほどのことはない。死の希望さえかなえられれば、私はいい」
「上等だよ。売れるほどの希望を俺が背負わせてやる。進太さん、カメラを頼むよ」
やけに明るい声で言って、晋介が祐子を蹴りつけました。白い裸身が濡れた砂浜にうつ伏せに倒れました。砂まみれの丸い尻が、淫らにうごめいています。目を反らせた僕にライカM2を預け、晋介はゴミの山に歩いていきます。黒く汚れた太い麻縄の束を拾い上げ、片手にぶら下げて戻ってきました。

「さあ、過酷な死を楽しませてやるよ」
横たわった祐子に声をかけて両腕を掴みました。そのまま裸身を引きずって、満ち潮が打ち寄せる汀へ入っていきます。
二メートルの間隔で横に並んだ杭の前で晋介が足を止めました。打ち寄せる波が絶え間なく杭の根元を洗っています。晋介が祐子の前に屈み込みました。左右の手首を二本の麻縄で厳重に縛り上げます。両手を横に広げさせ、それぞれの縄尻を左右の杭の根元に縛り付けてしまいました。祐子はもはや、どう足掻いても砂浜から身体を起こすことはできません。汀にうつ伏せになった顔を、寄せては返す波が洗っていきます。

「さあ、どうだ。これで満足だろう。もう、逃げられないぜ。確実に死ねる」
陽気な声で、晋介が捨てぜりふを投げ掛けました。
「満足よ。私の死をよく見ているがいいわ」
大きな声で答えた祐子の語尾が、寄せる波に打ち消されました。恐ろしい光景を前にして、僕の足は小刻みに震え続けています。ボタンを掛け違えてしまったような、ちぐはぐな思いが頭の中を交錯していきます。美しい夕日の中で始まった残虐な事態が、まるで幻のように思えてしまいます。けれど、わずか五メートル前方に、縛られた裸身がうつ伏せになっているのです。祐子の両手を縛った杭の高さは一メートル以上あります。その半分の高さまで無数の貝がへばりついているのです。満ち潮の位置です。祐子の全身はいずれ、確実に海中に没してしまいます。逃れようもない死が襲い掛かってくるのです。これは殺人でしょうか、それとも自殺幇助なのでしょうか。僕にはよく分かりません。残虐な死を受容しようとする、祐子の確固とした意志だけが波の中に屹立しています。

「息が止まるまでの時間は、思いの外早いよ。頭まで潮が満ちればいいんだ」
砂浜に戻ってきた晋介がつぶやきました。さすがに緊張した声です。僕は答えることができません。預かっていたライカを黙ったまま手渡しました。
「死にたいくらいだから、恐怖もない。意外に楽な死に方かも知れないね」
また晋介が声を掛けてきました。僕の答えを待っているのが痛い程よく分かります。暴力的な行為への評価を求めているのです。

「進太さんは、縄を解くこともできる」
沈黙している僕に、言葉の矢が打ち込まれました。晋介の言うとおりです。祐子を縛り付けたのは晋介ですが、僕には縄を解くことができます。瞬時に様々な感情が脳裏に渦巻きます。最後に祐子のことを考えました。一瞬の苦痛の先に平安が待つなら、死も希望の一つに違いないと信じたくなります。
目を大きく見開き、うつ伏せに横たわる祐子を見つめました。波が引くと両手を広げた裸身があらわになります。続けて、次の波が打ち寄せます。白い裸身を波飛沫が覆いつくします。僕は立ち尽くしたまま、祈祷のように晋介の言葉を繰り返しました。
「楽な死を、楽な死を、楽な死を」


海面も空も真っ赤に染まっていきます。
晋介が軽蔑したように、赤一色に染め上げられた血のような夕焼けです。打ち寄せる潮の響きが高まります。身動き一つしなかった祐子の裸身が苦しそうに動きました。だいぶ潮が満ちたのでしょう。波が退いた後でも、呼吸がしにくくなったようです。また波が打ち寄せました。波間から突き出た尻が苦悶に打ち振られます。生への本能は、やはり残酷でした。呼吸の苦しさに耐えかねた祐子が、自由になる下半身で悶えたあげく、立て膝になって腰を持ち上げました。僕たちの目に、大きく開いた尻の割れ目を晒したのです。

海中から突き出た豊かな尻は、残酷なほど滑稽に見えます。寄せる波が尻を越えて浜辺に打ち寄せてきます。呼吸ができない苦悶の時間を、祐子は尻を打ち振って耐え続けます。引いていく波が股間を流れ去る瞬間、縛られた両手を振り絞って鋭く息を吸い込みます。まるで波の動きが肉体を弄んでいるような、卑猥な眺めです。海が祐子を犯し、死へ誘っているのです。しかも、苦悶の時間は着実に長く、呼吸できる瞬間は確実に短くなっていきます。
再び大波が襲い掛かりました。一瞬こわばった尻が苦悶にうごめきます。大きく開いた股間で収縮する陰部が、快楽を追っているようにさえ見えます。波が引き始めると陰部が弛緩して、次の緊張に備えます。じっと見つめている僕の股間が熱くなってきました。波のリズムは祐子の官能のリズムです。他愛なく勃起してしまいました。

「進太さん、今生の名残だ。波だけに犯させているいわれはない。やってやりなよ」
晋介が声を掛けてきました。慌てて横を見るとライカを構えたままです。膨らんだ股間を見られたわけではありませんでした。でも、図星を突かれた僕は全身が真っ赤になってしまいました。黙ってジーンズを脱ぎ捨てます。この海岸には男は二人しかいないのです。そのうちの一人がセックスを勧めたのです。断るには理由が要りますが、僕に理由はありません。何よりも、ぼう然と祐子の死を観察するより、僕のペニスで、はなむけを捧げる方が、よっぽど情にかなっています。黒いビキニパンツを脱ぎ捨てると、上を向いたペニスが夕日を浴びて真っ赤に染まりました。
僕は、悶える尻に向かって一散に駆け出しました。

「進太さん、見直したよ」
朗らかな声が背に響きました。不覚の涙が目からこぼれ落ちます。祐子の肉体だけを求め、波を蹴立てて走りました。


僕を待っていたように、突き出された尻に抱き付きました。中腰になって股間にペニスを押し当てます。熱く燃え立ったペニスが冷え切った粘膜に包まれていきます。苦しさに打ち振られる尻が、呑み込んだペニスを振り切ろうとしているようです。

両手で冷え切った尻を抱え、燃えたぎった熱のすべてを祐子に放出しようと、全神経を股間に集中しました。とたんにペニスの先端に熱い感触が伝わってきました。僕の全身が喜びに震えます。死に直面した祐子が、官能を求め始めた予感がしました。打ち寄せた高波が顔を掠めていきます。呼吸を断たれた祐子が、僕の肉の下で苦悶します。陰部が収縮し、すごい力でペニスが圧迫されました。もう、僕の頭の中は真っ白です。祐子は全身を硬くして苦痛に耐えます。まるで、死を踏み越える官能を待っているかのようです。

ゆっくりと波が引いていきますが、全身で踏ん張っても、祐子の口は水の外に出ません。たまらず海中で咳き込むと同時に脱糞したようです。波が洗うペニスの根元が熱い物体に覆われました。僕はもう射精の一歩手前にいます。

ピュー

長く尾を引いた、かん高い音響が耳元を掠めていきます。ぎょっとして下を見ました。僅かに潮の引いた瞬間を捉えて、祐子が鋭く息を吸い込んだ音でした。あまりに凄惨な姿に僕の全身が戦きます。急にペニスが萎えて、抜けそうになってしまいました。

「何をするか」
突然、大音声が響き渡ると同時に、強い力で突き飛ばされました。尻餅をついた僕の目の前に、霜月の巨体がありました。真っ赤な鬼のような形相です。殺されるのかと思いました。でも、霜月は波間にしゃがみ込んで大きく息を吸い込みます。そのまま祐子の顔がある辺りに首を突っ込みました。海中で、祐子に口移しで空気を送っているのです。続けて三回、同じ行為を繰り返してから、まだ波に浸かっている僕を怒鳴りつけました。

「進太、縄を解け。急げ、ポケッとしていると殴り殺すぞ」
オシッコをちびりそうなほど恐ろしい剣幕でしたが、僕はなぜかホッとしました。縮み上がっていたペニスが再び勃起してきます。
「急げっ」
もう一度霜月が怒鳴り、大きく息を吸い込んで海中に潜りました。急に霜月が主役になってしまいましたが、仕方ありません。僕は左右の杭を回って手首を縛った縄を解きました。


霜月が祐子を抱き上げて海岸に向かいます。二人の向こうにライカを構えた晋介が見えました。祐子を犯している僕の姿を、カメラに収めたに違いありません。なんのことはない、僕はモデルに使われてしまったようです。
「あっ、まずい、祐子は水を飲んでる。呼吸も弱いし、身体が冷え切ってしまっているぞ。すぐに温める用意をするんだ。このままでは死んでしまうぞ」
砂浜に上がった霜月が、晋介を怒鳴りつけました。晋介は平然とシャッターを切り続けています。
「そりゃあ、死ぬ気でいたんだから、当然だよ。ゴミの山の向こうにマットレスがあった。勝手に温めればいいさ。でも、あいにくシーツはなかったようだよ」
ライカを構えた晋介が大声で答えました。相当人を食った態度です。祐子を抱いた霜月は、一瞬向きを変えましたが、結局、砂を蹴り飛ばしてゴミの山に向かって歩き出しました。

僕は、股間から海水を滴らせて砂浜に上がっていきます。まじまじと僕を見た晋介が大笑いしました。
「あれ、進太さんは、まだ勃起している。せっかく男らしく海に飛び込んだのに、中途半端じゃ、その男もすたるよ」
晋介が言い捨てて、元気に霜月と祐子の後を追っていきます。僕には気の利いた答えを返す気力もありません。うつむいて、砂の上に脱ぎ捨てたビキニショーツとジーンズを拾い、濡れた肌の上から穿きました。情けなさで最悪の気分です。このまま回れ右をして帰りたくなる気持ちを抑え、ゴミの山を見下ろす砂丘の中段に陣取った晋介を追っていきました。スニーカーに入った砂粒が不快で、歩みが乱れます。砂に足を取られて二回も転んでしまいました。お陰で濡れたラガーシャツも砂まみれです。
「大きな身体に似ず、霜月は意外に小心だね。冷え切った祐子を、濡れた服を着たまま温めようとしても無駄だよ。逆に熱を奪ってしまうと思うよ」
晋介の横に座ると同時に、霜月の行動を解説されてしまいました。三メートル下の砂浜の隅に黒いマットレスが投棄されています。祐子の白い裸身を横たえた霜月が、太い両手で祐子の素肌をマッサージしています。時折、濡れた服が祐子の裸身に絡みつきます。夕日の残光を浴びた祐子の裸身は、ここからでも蒼白に見えます。手足が微かに動くので、命に別状はなかったようです。幾分ホッとした気持ちと、妙な虚脱感が胸の奥を吹き抜けました。空しさが込み上げてきたとき、霜月が立ち上がりました。

見下ろしている僕たちに気付いた霜月は、怖い顔で睨み付けてから濡れた作業服を脱ぎ捨てました。十年間を潮風に吹かれた逞しい裸身があらわれました。堂々とした体躯が再び横たわります。潮焼けした黒い肌が、祐子の白い肌の上を力強く全身でマッサージします。躍動する尻の筋肉が見事でした。シャッターの音が連続して響きます。張り詰めた呼吸を通して、晋介の緊張が伝わってきます。
「結構暗いから、絞り開放で八分の一秒のシャッターなんだ。手持ちに強いライカならではの芸当だよ」
得意そうな声が響きました。自分の表現に熱中できる晋介が、つい羨ましくなってしまいます。何もせずに座っている自分が情けなくなりますが、無理をして見ることに専念します。

「バイク、私を抱いて」
突然、女の声が聞こえました。祐子の声です。それも、心の底に圧殺してきたバイクを求めたのです。僕は耳を疑ってしまいました。全身を緊張させてマットレスを見下ろします。
「さあバイク、さっきのように、私の中に入ってきてちょうだい。いつかみたいに、私の身体を官能の喜びで震えさせて欲しいの。ねえバイク、お願い」
はっきりした言葉が聞き取れました。間違いありません。祐子は官能を求めているのです。僕が波間で感じた予感に間違いはなかったのです。頬が熱く燃え上がり、ペニスがまた勃起してきました。
「俺は、バイクじゃないよ。霜月だ。祐子は、死にかけて混乱しているだけだ」
霜月が答えました。馬鹿な男です。言葉だけに反応して、祐子の気持ちを推し量ろうともしません。
「いいえ、バイクでなくていいの。私も弥生じゃない。でも、一緒に官能を追うことはできるはずよ。私たちには肉体がある」
凛とした声が響き、横たわっていた祐子が霜月に抱き付いていきます。身を硬くした霜月の首にむしゃぶりついて、うなじに舌を這わせました。両足を大きく開き、霜月の太い両足を股間に絡め取ります。

「スゲーヤ」
晋介が感嘆の声を上げて、ライカを構え直しました。断続してシャッター音が響きます。スロー・シャッターの余韻に乗って、祐子と霜月の裸身が絡み合います。
仰向けになった霜月の股間で大きなペニスが勃起しました。裸身を跨いでうずくまった祐子が、一息にペニスを口にくわえます。喉の奥深く迎え入れたペニスを数回しごき上げた後、舌で亀頭を愛おしむように舐め回します。たまらず喘ぐ霜月の口許に、祐子が尻を下ろしました。首をもたげた霜月が両手で尻の割れ目を押し開きます。剥き出しになった股間で陰門の襞がうごめいています。霜月が太い指先で股間を責めました。陰門と肛門にそれぞれ指を挿入された祐子の口から、歓喜の呻き声が溢れます。霜月の豪快な喘ぎと、祐子のあられもない呻きが波の音に交じり合いました。

「もう、やってられないや」
横から声が響き、晋介が立ち上がりました。さすがに辺りは暗くなっています。ほのかに白い水平線の上に、真ん丸な月が上がっています。大潮の絶頂なのでしょう。相変わらず波の音が轟き、男女の睦み合う声が混じってきます。月の光を浴びた二人は、重なり合って腰を使っています。もう三回も絶頂を極めたのに、その度に体位を変えて挑み合っています。僕も晋介の言葉に同感でした。
「まったく、大層な騒ぎで恐れ入ったよ。死にたかった連中が打って代わって乱痴気騒ぎだ。もう俺は、コンテストの会場に行くよ。進太さんはどうする」
晋介の嫌みな言葉にも、もう笑って答えられます。今日一日で一切が変わったのです。最高の宵でした。

「僕は、最後まで見届けてから祐子と帰る。服も着替えなきゃならない。明日の朝一番に会場で会おう。僕も晋介の作品が見たい。約束するよ」
明るい声で答えました。晋介の苦笑が帰ってきます。コンテストの会場は午後八時まで開いていますが、この調子では、祐子と霜月のセックスは閉会近くまで続きそうです。焼け死んだ校長さんの始末もありました。僕は残るしかありません。
「じゃあね、進太さん、明日はきっとだよ。会場は、午前十時に開くからね」
念を押した晋介が、ライカを揺すりながら砂丘を登っていきます。白い月の光がスリムな身体を大きく見せていました。


闇が海岸を覆い、白々とした月の光が波に反射しています。
濡れた服から、さすがに肌寒さが伝わってきました。眼下のマットレスに寝そべっていた二つの裸身が、ようやく起き上がります。二人とも足を投げ出して寄り添って座り、霜月が左手で祐子の肩を抱きます。祐子の細い首が霜月の逞しい肩にもたれ掛かりました。二人とも無言のままです。素っ裸でいても、寒さを感じない様子です。見下ろしている僕は、風景に溶け込んでしまったような気がしました。いい加減で審判の役回りを演じようと思います。寒さに身体を揺すってから、小さく咳払いをしました。

「祐子、風邪を引くよ。もう帰ろう」
月並みな言葉で呼び掛けてみました。二つの裸身が一斉に振り返り、僕を見上げました。二人とも満ち足りて、落ち着いた顔をしています。セックスが痴呆を誘発する症例を見る思いがしてしまいました。

「あら、進太。まだいたのね。私は帰らないわ」
祐子が答えました。波の音に乗った、歌うような響きでした。しかし、内容は衝撃的です。真意を問いたださなければなりません。
「だって、ホテルをリザーブしたままだよ」
「いいえ、ホテルに帰らないだけじゃなくて、市にも帰らないのよ。私は霜月と一緒に、海炭市に住む」
ゆるぎない答えが返ってきました。祐子の横で霜月の裸身がビクッと震えました。すかさず僕は切り込みます。
「よしなよ。霜月は弥生を忘れられない。今だってきっと、弥生を思い浮かべながら、祐子を抱いたんだ」
口を突いた言葉は残酷でした。霜月が祐子の肩から腕を外しました。どうやら図星だったようです。沈黙が落ちます。月の光が二つの裸身を照らしています。巨大な体躯の横にある祐子の裸身が、やけに小さく見えました。目頭が熱くなってきました。
首を振って立ち上がった祐子が、僕を睨み付けます。
「それが、なんだって言うの。私の身体の中で、霜月は四回も絶頂を極めたのよ。進太も一部始終を、そこで見ていたでしょう。だいじょうぶ、私がきっと、弥生を忘れさせてみせるわ」

断言した祐子は、もう死を求めていた祐子ではありません。大きく開いた股間から精液が滲み出ています。月光に光る粘液は太股を伝い、ふくらはぎへと回っていきます。性のエネルギーを充填した肉体が、更なる官能を求めているように見えます。死への願望を断ち切らせた程のエネルギーなのです。僕は思わずたじろいでしまいました。霜月が、祐子の裸身を見上げて立ち上がりました。

「祐子の言うとおりかも知れない。妄想を追うのは校長一人でたくさんだ。焼死した校長の遺体を、屋敷の庭で見付けたよ。俺はびっくりして、足跡を追ってきたんだ。済んだことは仕方がない。後始末は俺がするよ。この辺は人気もないから、まだ間に合う。祐子はひとまずホテルに戻っていた方がいい。後で必ず迎えに行く」
しっかりした声で呼び掛けました。常識が甦りました。
「そうだよ。ホテルに帰って風呂に入ろう。服を着るんだ」
素早く僕が口を挟みました。祐子が大きく首を左右に振ります。
「いいえ、私は、生まれたままの姿で霜月の所へ行きたいのよ。持ってきた荷物はすべて要らない。さあ、霜月、行きましょう」
霜月の大きな手を握った祐子がマットレスを下ります。さすがの霜月も現実の官能に未練があるのでしょう。逞しい裸身が従っていきます。
僕は慌てて砂丘を駆け下りました。遠ざかっていく二つの裸身に大きな声で呼び掛けます。

「色キチガイ、セックスするのが、そんなにいいのか」
悲痛な声を出したつもりでしたが、耳に届いた叫びはごく軽い響きでした。歩みに連れて揺れていた悩ましい尻の動きが止まり、祐子が振り返ります。
「ええ、とってもいいわ。Mの気持ちがやっと分かった。ねえ、進太、Mがいなくても生きていけそうだわ」
明るい声が戻ってきました。僕の口許に苦笑が浮かびます。死んでしまうより、官能を求める方がいいに決まっています。でも、Mの気持ちが分かったなどと言って欲しくありません。抑圧してきた性を解放したくらいで舞い上がってしまった祐子に、はっきり言ってやることにしました。
僕は、大きく一歩を踏み出しました。
「祐子が官能を求めるのは勝手だ。でも、Mは、希望のために官能を追ったんだ。死ねないから官能を求めたんじゃない」
聞いていた祐子の顔が、見る間に泣き顔に変わりました。けれど、すんでの所で踏みとどまります。奥歯を噛みしめて僕を睨みました。どうやら、泣き虫の祐子は消え失せてしまったようです。

「そんなことは、百も承知よ。私は今、過去から一歩を踏み出したところなの。Mに代わって自分を祝福したくらいで、目くじらをたてる進太が子供なのよ。私は、進太の方が心配よ。あなた一人で、Mを捜し出せるの。ねえ、自分の戸籍を見たことがあるの」
静かに答えた祐子が、最後に突飛なことを口にしました。僕は反射的に首を左右に振ります。
「海炭市に来る前に、Mの戸籍を取ってみたのよ。当然進太の戸籍でもあるわ。Mの両親も分かったし、生まれ故郷も分かった。Mは晋介が住む、夕日のきれいな街で生まれたのよ。私の代わりに、晋介に連れていってもらいなさい。Mを捜す手掛かりが掴めるかも知れないわ」
耳の底で祐子の声が反響しました。僕はぼう然と砂浜に立ち尽くしたまま、手を振って去っていく二つの裸身を見送りました。

未来に一歩を踏み出したという祐子が、いつもの説教の代わりに、奇妙な事実を告げたのです。まるで波間で揺れていた祐子のように、あやふやな置きみやげでした。


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