13.通洞坑(3)

装甲車のような四輪駆動のトラックが元山渓谷に添って山を上っていく。
運転席には陶芸屋が座り、隣に素っ裸の修太がいた。後ろの座席には町医者の奥さんとチェロが仲良く白い髪を寄せて座っている。ちょうど奥さんの家に五重奏団のことで来合わせていたチェロが、祐子を心配して同行することになったのだ。

「奥さんは看護婦だから戦力になるけど、チェロは何しに行くんだい」
修太が憎まれ口を叩く。
「恩師は緑化屋の代理に決まっているだろう。祐子も待っているんだから、気持ちの通じる恩師がいなければ困るんだ」
陶芸屋がたしなめるが、修太は「祐子のお守りなんて要らないよ」と、頻りにチェロに食ってかかる。どうも、相性が悪いらしい。陶芸屋が苦笑するが、チェロはどこ吹く風といった風情で車窓を流れ去る渓谷を眺めている。鋭くカーブした細い道を抜ければ、赤錆びた鉄橋に続く坂道に出る。

カーブを曲がりきって開けた視界に、鉄橋の前に止めた白いベンツが大きく映った。
修太の背筋に冷たい汗が流れる。眉なし女が戻って来たに違いなかった。産廃屋もいるかも知れないと修太は思った。しかし、今更引き返すわけにはいかない。
アクセルを踏む陶芸屋の足に力がこもった。

ベンツのすぐ後ろに、バンパーが触れ合う距離でトラックを止める。
「恩師と奥さんは車内にいてください。俺が様子を見てきます」
陶芸屋がドアを開けると同時に、修太が反対のドアから飛び出た。
「お前も車で待っていろ」
怒鳴られても修太は動じる気配もない。勝手にトラックの荷台に上がって荷物箱を開ける。
怖い顔で睨み付ける陶芸屋に大振りのマグライトを渡し、自分は小さなライトを手にした。空いた片手に一メートルほどの鉄パイプを握る。
「そんな物は置いていけ。喧嘩に行くんじゃないぞ」
厳しい声で陶芸屋が言うと、修太が仕方なく鉄パイプを荷物箱に戻す。
「父ちゃんは甘いんだよ」
わざと聞こえるようにつぶやいて荷台から飛び降り、先に鉄橋を渡ろうとする。
「待て、様子を見るだけなんだぞ。暴力沙汰になりそうになったら携帯電話で警察を呼ぶんだ」
修太は返事もせず、黙々と鉄橋を渡った。少し遅れて陶芸屋が続く。修太を殴りつけてでも車内にいさせるべきだったと後悔する。嫌な予感が胸元を掠めた。

アーチ状の石積みで形作った通洞坑入り口の、不気味に細く開いた鉄の潜り戸の前に二人でうずくまり、坑道の中をうかがう。
「ズガーンッ」
突然、中から銃声が轟いた。
反射的に修太が立ち上がった。戸を開けて小さな裸身が飛び込んで行く。間髪を入れずに陶芸屋が続いた。もう二人とも頭の中が真っ白になっていた。


大小二つのランタンが照らし出す坑道の闇の中で、カンナの裸身が激しく痙攣している。
全身を襲う痛みに耐えようと、きつく食いしばった唇から一筋、血が流れていた。
「兄さん、殺して。早く楽にして。もう気が狂いそうだ」
開いた口から恐ろしい叫び声が出る。
下腹部に受けた銃弾で出血を続ける産廃屋が、大きく目を見開いた険しい表情で痛みに耐え、下腹部を押さえていた右手を池に伸ばした。池の水に銃創から流れ出た多量の血液が混じり、赤黒い澪が流れていく。
池を探ってトカレフを拾い上げた産廃屋が、左手を下腹部に当てたままヨロヨロと立ち上がり、カンナの横に立った。
カンナに向けて伸ばした右腕の先で、トカレフが激しく揺れる。
「早く撃って、兄さん早く。また痛みが襲って来た。もう耐えられない」
カンナの悲痛な声が響き、込み上げる嘔吐が次の声を奪う。全身の痙攣が激しくなり、痛みに任せて裸身が地面を叩く。
「カンナ、済まぬ。逝け」
短く言った産廃屋が、トカレフを握った右手に力を込めた。

「ヤメテッ」
Mの絶叫を銃声がかき消す。
銃弾は、のたうつカンナの右太股を貫いた。銃創から鮮血がほとばしる。傷の痛みで責め苛む病気の痛苦が薄れたのか、一瞬、カンナの悶え苦しむ裸身が静止した。
産廃屋が、動きを止めた裸身に再び銃口を向けた。

その時、
「Mっ」という叫び声とともに、二条の光線が産廃屋の姿を捉えた。
銃口が光の方を振り向く。

「修太っ、伏せなさい」
Mが叫ぶとすぐ、産廃屋が無造作に続けて二発発射した。
発射音と同時に、後ろ手に縛られたMの裸身が地面を蹴って産廃屋へと跳んだ。頭と肩が、したたかに産廃屋の腰を捉える。
産廃屋とともに倒れていく身体の下に小さな裸身が潜り込み、産廃屋の両足を抱え込んでいるのが見えた。

「祐子」と叫ぼうとしたときには、倒れた産廃屋の上を滑ったMの裸身が頭から側壁に追突した。
先に倒れた産廃屋の巨体がブレーキになり、頭部を襲った打撃はそれほどでもなかった。しかし無毛の頭皮が岩角に当たって裂け、眉間の間を生暖かい血が流れていった。

頭を左右に振り、厳しく緊縛された身体を揺すってみた。縄目が食い込んだ皮膚が痛むだけで異常はない。Mの下で横たわる産廃屋は、動く気配もなくなっていた。

「Mっ」と言って、修太の裸身が被さってきた。
修太の流す温かな涙が、冷え切った心を癒してくれる。
「さあ、Mが苦しいだろう」
続いて寄って来た陶芸屋が修太を押し退け、力強い手でMを立たせた。
傍らで産廃屋の足に抱き付いたまま横たわっている祐子を、修太が優しく抱き起こしている。
祐子のすぐ前には鈍く光るトカレフが落ちている。

「二人とも、怪我しなかったのね」
改めてMが尋ねると、祐子と並んでいた修太が立ち上がって自慢そうに言った。
「Mの声で地面に伏せたんだ。頭のすぐ上を銃弾が飛んでいったよ。凄く怖かった」
「もう一発はこいつに当たってくれた」
陶芸屋が、先の吹き飛んだマグライトを目の前に突き出した。

「危ないところだったのね。良かったわ」
明るい声で言って、さり気なく産廃屋の身体を見下ろす。
Mと祐子のタックルを受けて倒れ込んだ産廃屋の頭は、地面から突き出した坑木に手酷く激突していた。妙な形に首がねじれ、見ようによってはユーモラスな姿態にも見える。誰の目にも首の骨が折れているのは明らかだった。

産廃屋の死体を目の当たりにして沈黙した一同の中で、未だ興奮冷めやらぬ修太が、まじまじとMの姿を見て言った。
「それにしてもMは凄い格好になったね。てかてかの丸坊主だ。おまけに眉までない。下の毛も子供みたいに、てかてかにされてしまった。きっと、こいつがしたんだ」
話しているうちに、なおさら興奮した修太が、怒りに頬を赤く染めた。
「この眉なし女め、思い知れ」
大声で叫ぶと、苦痛に呻くカンナの腰を蹴った。カンナは蹴りに反応しようともしない。左の太股から血を流したまま、全身を小刻みに痙攣させている。流される多量の血で、池も一面朱に染まっている。

「修太。カンナに何をするの。あなたには、まだ人の痛みが分からないの」
これ以上はない怒声で唸り飛ばした。修太の裸身が真っ赤に染まり、急に小さくなった。


「殺して、もう耐えられない、早く殺して」
苦痛をこらえていたカンナが、また悲痛な声を上げた。
「次の痛みが襲ってきたら、もう生き地獄だ。ねえ、誰でもいいから、あたしを殺して」掠れた声で哀願する。
しゃがみ込んでいた祐子が目の前のトカレフに手を伸ばすのが見えた。
産廃屋を殺したと思っているに違いない祐子に、カンナまで殺させるわけにはいかなかった。
「修太と陶芸屋は呼ぶまで外に出なさい。早く。今すぐに」
毅然とした大声に撃たれたように、二人は背を向けて肩を落とし、入り口に向かって歩く。
「祐子は拳銃を地面に置いて、私を良く見ていなさい」
静かに言ってから、Mはカンナの顔の前に屈み込んだ。上を向いた苦痛に歪むカンナと目が合う。
「お願い」
カンナの力無い声が耳を打つ。次の痛みが襲い掛かって来るのが分かったのだろう。
Mは小さく頷いてからひざまずき、耳元でしっかりした声で告げた。
「カンナ、あなたは今でも十分美しい」
新たな痛苦がカンナを襲った。顔が歪み、全身が細かく痙攣する。
Mはカンナの顔を跨いで大きく股間を広げた。無毛の股間の下に、脂汗の浮いたカンナの額が見える。後ろ手に緊縛された胸を張り、無毛の頭をまっすぐに正し、できるだけカンナの口と鼻が柔らかな粘膜に触れるよう細心の注意を払って、Mは腰を下ろした。
嗚咽とともに、止めどなく涙が流れる。新たな苦痛の波に襲われたカンナが尻の下で全身を震わせる。

尻の下の顔が左右に振られ、ひときわ強く股間を吸われた。
カンナの最後の命が吸っているのだとMは思った。
「ウワッー」と言う絶叫がMの口を突いた。尻の下のカンナの全身が固く硬直し、そのまま動かなくなった。

カンナの呼吸を奪った姿勢を二分間続けた後、Mはよろよろと立ち上がった。
そっと見下ろしたカンナは、瞼を閉じた美しい顔をしている。肩から力が抜け、新しい涙が絶えることなく両の頬を伝った。

泣きながらMの腰に飛び付いてきた祐子が、憑かれたように股間を舐めた。
Mは祐子をそのままにさせておいた。祐子は意識の中で二人も人を殺したのだ。そしてMは、現実に二人を殺したのだと、改めて思った。


「分かったわ、修太さん。全員無事なのね。ほんとうに良かった。また経過を報告するのよ」
センセイは電話を切り、布団にうつ伏している助役に声をかけた。
「通洞坑へ行った教え子からの電話よ。産廃屋が死んだそうです。秘書役の女も死にかけているそうです。産廃屋の拳銃が暴発したと言っていました。後の全員は無事だそうです」
うつ伏したまま、センセイを見つめていた助役の目が鋭く光った。

「死んだか」
ぼっそりと言った助役の下半身は裸だった。大きな尻の左右に赤い手の痕が残っている。
「忙しくなるな。センセイ、もう一回お願いします」甘える語尾が、まるで今の状況と似合わない。
助役の剥き出しの尻の横に膝を突いて、中腰になったセンセイが右手を振り上げて怖い声で言った。
「助役さん。お仕置きです。両足を広げてお尻の穴まで見えるようにしなさい。選挙に負けたらこんなものでは済みませんからね」
ピシィ、ピシィと二回。両足を大きく開いた助役の尻が鳴った。歓喜に満ちた悲鳴が口を突く。

「センセイ。お仕置きありがとうございました」
真面目な声で言った助役が起き上がり、布団の上に胡座をかく。勃起したままのペニスが股間で屹立している。
しばし腕を組んで考えていたが、大きくうなずいてからセンセイに頼んだ。
「役場の観光課に電話を入れてください」
センセイの手から役場に繋がった電話を受け取ると、静かな声で命じた。

「助役だ。村木君を呼んでくれ」
威厳に満ちた声が甦っている。剥き出しの下半身がアンバランスすぎた。
「村木か。すぐこれから産廃屋の事務所に行け。関係帳簿を全部持ち出して来るんだ。産廃屋は死んだ。何をしてもかまわん。これは命令だ。急げ」
「すぐ出掛けます。助役さん」と緊張した声で答える村木の声も聞かずにセンセイに電話を返す。

助役は胡座をかいたまま両手を上げ、大きく伸びをした。
「産廃屋は死んだ。秘書役も死ぬという。県知事は産廃処分場の建設を認可しないんだ。仕事に失敗した産廃屋たちが失踪したとしても、誰も疑いはしない。そうだろう、センセイ」
恐ろしい男だとセンセイは思う。それに頼もしい男だ。男はこうでなければと思い、町長になるかもしれないと思った。

「村木の持ってくる帳簿の内容によっては、予定より早く町長を追い詰めることもできる」
「二人の死体はどうするんですか。通洞坑の奥に埋めるんですか。坑道に集まった人たちが納得するかしら」
「通洞坑は子々孫々まで、我が町の鉱山記念館の一環として残さねばならない大事な財産だ。死体など埋めるわけにはいかない。今、坑道にいる生きた人間は皆、町の住人だ。そして、住人の将来に渡る利益を守ることが私の仕事だ。私が通洞坑に行こう」

即座に決断した助役がセンセイの差し出すズボンを穿いた。上着を着て姿見の前に立った助役はもう、下半身を剥き出しにしていたときとは別人のように大きく見える。どんな格好をしていても、何をしても、いつも同じように素敵に見えるのが最高なのにとセンセイは寂しさを感じた。しかし、男たちの棲む世界は決して、そんなことは許さないのだろうと思い直した。

「ごめんください。センセイはおりますか」
教室に続く廊下から男の声が聞こえた。
センセイは慌てて白いバスローブを身に着け、ドアを開けた。
廊下の角に作業服を着た男が立っている。男はセンセイに一礼して近付いて来た。

「祐子の父です。お世話になっています」
「やあ、緑化屋さん。ご心配をおかけして申し訳ありません」
センセイの後から廊下に出てきた助役が、センセイの頭越しに声をかけた。
「助役さんまでいらっしていたのですか。恐縮です。お手数をおかけします」
「いやいや、町の人たちの心配は皆、私に責任があります」
町の幹部と技術官僚の長く続きそうな挨拶にセンセイが割って入る。
「祐子さんは無事、通洞坑で保護されました。さっき同級生の修太さんから電話がありました。もうご心配は要りません」
「ありがとうございました」
緑化屋が二人に深々と頭を下げた。
「いや、礼には及びません。私も事態を確認するため、これから通洞坑へ行くところです。仕事の都合が付くなら、ご一緒にいかがですか」
「えっ、助役さんが現地にお出掛けになるのですか。重ね重ね恐縮です。ぜひ同行させてください。仕事は早々に切り上げてきましたから、大丈夫です」
「では、早速参りましょう。センセイ、できるだけ多くバスタオルを用意してください」
部屋に戻ったセンセイが十枚ほどのバスタオルを抱えてきて、後に続いた。
「子供たちは、裸のまま保護されたそうなんです」
怪訝な顔の緑化屋に助役が歩きながら説明する。緑化屋の顔が曇った。

午後の炎天下に、スバル・サンバーの白い軽トラックが止めてある。
助役が運転席のドアを開け、窮屈そうに乗り込んだ。
「助役さん、私のワゴンがありますが、いかがですか」
「私の自家用車ですから遠慮せずに乗ってください。山地の足に使うには軽トラックの四輪駆動が一番便利なんです。なに、クーラーはちゃんと効きます。さあ、どうぞ」
センセイからバスタオルを受け取った緑化屋が、驚きを隠せぬ顔で助手席に座った。
「それでは、行って来ます」
センセイに声をかけると、白い排気ガスを立ち上らせて軽トラックが発進した。

二つの死体の前で、Mと祐子はぼう然と立ちつくしていた。冷え切った身体に張り着いた祐子の裸身が暖かく感じられる。人の肌は温かいのだ。
冷めたくなってしまったカンナの顔には、赤いタンクトップがかけられていた。祐子がかけた物だが、他にカンナの遺体を覆う物はなかった。Mも祐子も素っ裸だったのだ。Mは後ろ手に緊縛されたままだ。
気が付いた祐子がMの背後に回り、縄を解こうとするが、きつく戒められたカンナの執念は解けなかった。地面に落ちていた大型ナイフを祐子が拾い、やっとの思いで後ろ手の縄目を断ち切る。
自由になった両手を広げ、祐子の裸身をきつく抱き締めてやる。まだ残る胸縄に厳しく戒められた両の乳房に、祐子の熱い涙が滴り落ちた。

入り口の方から四人の姿が浮かび上がった。
修太と陶芸屋、奥さんとチェロの緊張した顔がランタンの明かりに浮かび上がる。ぼう然と立ち尽くす三人を尻目に、奥さんがカンナの裸身に歩み寄った。屈み込んで顔に載せたタンクトップを取り、検分する。プロの看護婦の手並みだった。小さく首を振ってタンクトップを元に戻して立ち上がった。続いて産廃屋の前に屈み込んで検分した。また小さく首を振って産廃屋の瞼を閉じさせ、ハンカチを取り出して顔にかけた。

「お二人とも死んでいます」
冷静な声で奥さんが告知した。
抱き締めた祐子の裸身が小刻みに震え、乳房の上にまた熱い涙が流れていった。
二人の死に彩られた沈黙が坑道に満ちた。

先ほどまでぼう然と立ち尽くしていたチェロが厳粛な表情で、背筋を正して歩み寄って来る。
驚いたことに、カンナの遺体に一礼して経を唱え始めた。なんとも言えぬ違和感を持ったが、それがチェロの本業なのだ。看護婦が死を告知し、僧侶が経を読む。極めて厳粛な儀式なのだが、Mには理解しきれない日常の侵入としか思えなかった。
カンナも産廃屋も、決して喜びはしまいとさえ思ってしまう。

いつの間にか祐子もMのそばを離れ、他の四人に合わせ、頭を垂れてじっとチェロの読経に耳を傾けている。
Mは急に込み上げてきた渇きを感じた。水が飲みたいのではなく、外の空気を胸一杯に吸いたくなった。

入り口の明かりに見入った目に、頭を垂れて神妙にたたずんでいる修太の裸身が映った。裸の胸に携帯電話がぶら下がっている。しばらく電話を見つめるうちに、Mは決心が付いた。警察を呼ばねばならない。二人も人を殺したのだ。
さり気なく歩き出したとき、読経を終えたチェロが振り返って、じっとMを見つめた。
「Mさん。お美しい。まるで観世音菩薩様のようだ」
感じ入った声で言って両手を合わせた。
「そう、私は美しいわ。カンナも美しかった。修太、私に電話を貸しなさい」
凛と響く声で言って右手を差し出す。
まぶしい目でMの瞳を見つめた修太が、ケースから抜いた携帯電話を手渡す。

「わー、みんないるんじゃないか。狡いよ、僕だけ置き去りにして」
狭い坑道から突然泣き声が響き、光男が姿を見せた。
「光男さんっ」と叫ぶ喜びの声が、奥さんの口を突いた。
これで全員揃ったのだ。

喧噪を背に、Mはぼつんと点る入り口の明かりに向けて歩いて行った。
鉄の潜り戸を出ると、まぶしい夏の光と熱気が裸身を包み込んだ。
日は山の端に隠れていたが、渓谷の先には真っ青な空が広がっていた。湿った熱気が冷えた肌に心地よく、思い切り吸い込む外気には木々の香りがした。
この美味しい大気を二度と吸うこともなく、暗い坑道の中で死に果てたカンナのことを思うとまた涙が出た。カンナが最期に吸った股間がしくしくと痛んだような気がした。

Mは警察の番号をダイヤルしようと、感度の良さそうな場所を捜した。
渓谷を見下ろす鉄橋の上に行こうとしたとき、カーブを曲がって姿を現した白いスバル・サンバーがベンツの前に止まった。ドアが開き、紺のスーツの助役と作業服の緑化屋が降り立つ。
どうやら、オールキャストが勢揃いするようだった。
赤錆びた鉄橋を身軽な動作で渡ってMの前に立った助役は、素っ裸で無毛の頭部を晒した異様な姿にも驚いた顔一つ見せない。後に続く緑化屋が、大きく口を開いて驚きの声を呑み込んだ。

「Mさん。今日は特別にお美しい。まるで仏様のようだ」
助役が感動した声で言った。
「ええ助役さん、きっと私が殺した人の美しさまで乗り移っているのでしょう」
「そうですか。そうかも知れませんね。ところで、どこに電話をしようというのです」
眉一つ動かさずに静かな声で尋ねた。
「人を殺したのですから、警察を呼ぶつもりです」
「Mさん。何をうろたえているのですか。うろたえる必要などない。私が来たのです」
「別にうろたえてなどいません。人を殺したのだから、当然するべきことをするのです」
「共に生きる人のために、人は人を殺すものです。昔からそうでした。驚くほどのことではない。電話を私に渡しなさい」
「いやです。私は私のしたいようにします」
「Mさん。勘違いをしてしまっては困ります。もう、あなたは独りで生きているのではない。私もあなたと共に生きることになったのです。だから、私はここにこうしているのです。渡しなさい」

強い口調で言った助役が、Mの手から携帯電話を奪った。Mは抵抗できなかった。
産廃屋の足にしがみつく祐子と、銃声の轟く坑内に飛び込んで来た修太の姿が、目まぐるしい速さで脳裏に浮かんで消えた。
助役の言ったように、もはやこの町では、独りで生きられないのかもしれないと思ってしまう。

助役がその場で携帯電話を発信した。
「助役だ。土木課長を呼びなさい。課長、元山沢に通じる道路を入り口ですぐ封鎖しなさい。落石事故の恐れがある。厳重に封鎖するのです。これは助役命令です」
きびきびとした助役の命令を耳にしながら、Mはどっと疲れが湧いて出るのを感じた。
どっしりとした足取りで助役が通洞坑に向かう。後に続く緑化屋がMにバスタオルを手渡した。まるで、助役の秘書のように見える。
何か得体の知れない大きなものが、元山渓谷一体をじわじわと被い込む気配が感じられた。

「やはり死んだ者は損なのだ」と、安らかだったカンナの死に顔を思い出して、Mはそっとつぶやいた。


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