2.神ながらの道

水瀬川に架かる大橋のたもとの信号が赤に変わった。Mは寝台車を停止させて左手首のタイメックスを見た。青く光る文字盤で黒い針が午前五時三十分を指している。明るくなるまでにまだ三十分以上あった。思いの外早く市に着いてしまったのだ。寝台車の周りは闇が覆っている。対向車もなく後続車もない。信号の赤い光を浴びてMと光男だけが市街地の手前に取り残されていた。大きいだけが取り柄の古い寝台車はヒーターの効きが悪く、川面を渡る冷気が車体の隙間から忍び寄ってくる。Mは運転席の窓を少し開いた。飛び込んできた一月の風は、さすがに頬を刺すほど寒い。風の中に微かな川の匂いを嗅いだ。大きく窓を開けて川面を見ようとしたが、橋の下は深い闇が覆いつくしていた。川は光男が育った鉱山の町から流れてくる。この川の下流の都会で生まれた光男は航空機事故で両親を亡くし、鉱山の町に住む祖母に引き取られていた。その町でMは小学生の光男たちと会い、一夏を過ごした。鉱山の町を出て八年後に市で再会した光男は、シンナー中毒の高校生だった。そして今、四年の時が流れた。生地の都会は光男にエイズを贈り、死を送り付けた。水瀬川を上っては下った光男の生涯は余りにも短く弱々しかった。冷たい川風に乗って「怖いよ、寒いよ、M、助けて」と、救いを求める光男の甘ったれた声がまた聞こえてきた。悲惨すぎた。

嫌な思い出しかないはずの市で、光男を待つ者はいない。たった一人の肉親である祖母は、寝たきりの痴呆症のまま特別養護老人ホームに収容されている。実際に遺体を引き取るのは医師であるピアニストを代表にした知人たちだった。専務に渡された書類に書かれていた名前が目に浮かぶ。そこには祐子の名があり、修太があり、チハルの名があった。おまけにケースワーカーの天田までが名を連ねている。責任の拡散か葬儀料金の支払いを担保するためか、目的は明らかでない。だが、すべて光男が嫌悪するはずの名前ばかりだった。市を捨てて都会にさまよい出た光男の繊細すぎる神経が、知人たちの勝手な友好を許さないとMは思う。このまま鉱山の町まで行ってしまいたい心境になる。幼い希望が溢れていた土地に、光男を葬ってやりたかった。

青に変わった信号をにらみ、Mは力強くアクセルを踏んだ。巨大な棺車が嫌々をするように車体を震わせながら発進した。遺体の運び先は山地のドーム館だったが、四年前に亡くなったコスモス事業団の理事長が住んだドーム館は今、理事長の個人的な遺産を相続した祐子とチハルが住んでいる。彼女たちが、少なくともチハルが遺体を歓迎するとは思えなかった。代表者のピアニストが自分の蔵屋敷を搬送先に指定しなかったくらいだから、ドーム館に運べという指示は光男の同級生だった祐子の好意としか思えない。だが最年少の祐子の地位が四年前に比べて向上したとは思えなかった。遺体を前にした騒動だけは何としても避けたかった。いくら何でも夜明け前に訪ねることはできない。

Mは山地に向かう織姫通りを選ばず、産業道路を西に向かった。途中で左折し、四年前に光男と再会した中央公園の横をゆっくり走る。ようやく白んできた空が木立に囲まれた公園を非現実的な景観に見せる。まるで市街地に出現した森のようだ。だが、おとぎの国の森は鉱山の町の元山沢を取り囲んでいた森林とは違う。見る間に明るくなっていく空が色とりどりのゴミが散らかる空間を暴露してしまう。やはり山に登ろうとMは思った。せっかくの日の出を、市街地が見渡せる高い場所で光男と一緒に迎えたかった。光男は市の風景など見たくはないと言うだろう。しかし、見つめることが生きていく上で必要だったことを、いまさらながらでも知って欲しかった。Mは市役所の構内で寝台車をUターンさせて水道山に向かった。寝台車は光男の祖母がいる特別養護老人ホームへの分かれ道を直進し、山に分け入る。石畳の急坂を二つ、ギアをローに落として越えると水道記念館前の広場に出た。スパニッシュ・コロニアル様式の明るい瓦屋根が東の空からの光でオレンジ色に染まっている。二階から張り出したベランダでは小鳥が遊んでいた。Mは記念館の前に寝台車を止めてドアを開け、凍り付いた地面を踏み締めた。全身を包み込む寒さの中を、光男の気持ちを抱いて展望台に向かう。

前方の桜の梢越しに市街地が大きく広がっている。市の東に連なる低い山並みの上のうっすらとたなびく雲が、まさに紫から赤に変わろうとしていた。血のような赤が瞬く間に豪奢な黄金色に変わると、市街全体に白い光が満ちた。顔を出した朝日に逆光となった建築物が黒々としたシルエットになる。南方には遠く、水瀬川が輝く帯となって平野へと広がる市街を遮断している。美しい眺めだった。この市に封じ込められた魔力が解き放たれ、いましも昇天していくようなほっとする光景だ。視線を北に巡らせて山地を見ようとしたが、猛々しくそびえ立った山並みが視界を遮っている。山地は市街地から遥かに遠い。見ることのできない山地に思いを馳せた時、後ろから足音が聞こえた。素早く振り返った目に奇妙な人物が映った。黒い柔道着姿の男が寝台車の後部へ近付いて行く。男と言うより老人といった方が当たっていた。癖のある白い髪を振り乱し、顔一面に白く長い髭を蓄えた男は、さり気なく寝台車の後部ドアに手を伸ばした。観音開きの扉には錠を下ろしてあったが、Mは急いで車へ駆け戻った。

「不幸せな死者に会いたい」
息を切らせているMに、老人が掠れた低い声で訴えた。身長はMとほとんど変わらない。背筋をまっすぐ伸ばし、白くなった髪と髭に覆われた顔でMを見つめている。確かに老人には違いなかったが、黒いウール地の襟元からのぞく肌は青年のように張りがあって朝日に輝いている。

「Mさん、私を死者に会わせなさい」
白い髭に覆われた口が微かに動き、威厳のこもった声で命じた。見知らぬ老人に名を呼ばれたMが動揺する。仕事を思い起こし、かろうじて事務的な声を装って答える。
「見も知らぬ方にお会わせする事はできません」
老人の柔和な目に疑問が浮かび、大きく見開いた目でMを見つめ直す。拒否されたことが信じられないといった風情だ。
「私はかわいそうな死者に呼ばれたから来た。Mさんの許可をもらいに来たわけではない」
「なぜ不幸せで、かわいそうな死者というのですか。気安く私の名を呼ぶあなたは何者です」
まぶしすぎる朝日を浴びた山上で繰り広げられる対話は、現実離れのした感覚をMに与えた。一方的に知られ過ぎていることに違和感が募る。

「その死者は、本当に不幸せではないのかね」
「亡くなった方は皆不幸せです」
混乱した頭で、また事務的に答えた。
「私は一般論など言っていない。ここにいる死者の生涯が不幸せで、かわいそうだと言っているのだ。Mさん、私は皆に師匠と呼ばれている者だ。勝手に会わせていただく」
宣言するように言って、老人が素早く観音開きの扉に両手を当てた。そのまま閉じた両手をゆっくり広げると、錠が下りているはずの重い扉が大きく開いた。信じがたい光景を目の当たりにしたMが一瞬たじろぐ。その隙を突いて黒い柔道着を着て登山靴を履いた老人が、光男の遺体を乗せた担送車を無造作に後部ドアから引き出す。脚が開いて地上に降り立った担送車の上の遺体を、光り輝く朝日が残酷に照らしだした。

「何をするのですか」
大声で叫んだ抗議を無視して、老人は遺体を覆った白布のファスナーを足元まで引き下ろした。痩せこけた光男の屍があらわになる。強烈な光を浴びた蒼白な顔で、乗りの悪い化粧が醜いほど目立った。歪んだ唇に塗った赤黒いルージュが毒々しい。
「おお、かわいそうな少年は都会にまで追われ、業病にとりつかれて死んだのだ。哀れだ。怒り高ぶる魂が見える」
嘆きの言葉を口にした老人が腰を屈め、素早く光男の唇に顔を寄せた。髭もじゃの口を唇に合わせ、そっと舌を伸ばして毒々しいルージュを舐め取る。
「Mさんのルージュを貸しなさい」
老人の所行にあっけにとられたMは、命じられるままショルダーバッグからゲランを出して手渡す。真紅のゲランを右手の薬指に塗った老人が光男の唇に器用に指先を這わせた。貧相だった死に顔が生き生きと輝き出す。

「死化粧は大切だ。不幸せな死者は、決して神々に受け入れられることはない。自ら立つより他はないのだ」
独り言をいった老人は、胸の前で合わせられた光男の両手に手を伸ばした。
「死者を縛ってはいけない。死者は自由な者なのだ。そうは思わないかね、Mさん」
Mに語りかけながら、老人は光男の両手首を結わえた包帯を取り去る。光男の右手を握り、力を入れて手を下ろさせる。固く硬直した手が嫌な音を立てた。非常識な行為だったが、決して遺体を冒涜しているようには見えない。Mは新鮮な感動を抱いて老人を見つめた。Mの名を知り、光男の来歴を知り、錠の下りた扉を簡単に開いた老人。朝日に照らしだされて行われた出来事が、まるで奇跡に立ち会っていたような荘厳さで思い起こされた。これまでずっと求め続けたものに、ようやく会えたような気持ちさえした。

「光男は生まれ変わるのですか」
陳腐な言葉がごく普通に口からこぼれ落ちた。
「死者は生まれ変わりはしない。死者のままだ。生きている者は、いずれすべて滅びる。それまでの間、不幸せな死者たちはずっと待っているだけだ。この世の神々は決して死者を受け入れようとしない。神々も含め、いっさいが滅び去るまで待つしかない」

「あなたは神々に君臨する神なのですか」
喘ぐようなMの言葉が寒々とした裸木の間を流れていった。
「私は神ではない。インチキ宗教と一緒にしてもらっては困る。私は神ながらの道を教え諭す者だ。死者と今生の者に光明をもたらすことが使命だ。だが、私のような者はこの世に二人とはいないだろう」
「まるでイエスのように」
「その者を知っているのかね」
老人の問いが宙に舞った。Mは黙したまま光男と老人に見入っている。

「ところで、どこまで行くつもりなのかね」
老人の問いが代わった。
「山地です」
短くMが答えた。
「死者は山地の者か」
「いいえ、強いて言えば鉱山の町にしか故人の居場所はありません」
老人はMから視線を外し、遠く南の方角を見つめた。しばらく間を置いてから再び口を開く。
「死者の遺灰は水瀬川に撒くがいい。死者の魂魄が川を通じて市と鉱山の町、そして都会を行き来するだろう。飽かずに待っていられる」
「何を待つのですか」
「エデン」

言い古された言葉にMは面食らった。葬儀社の社員が誇大妄想の老人に惑わされるわけにいかない。慌てて仕事に戻る気になった。遠く輝く水瀬川を見つめている老人に構わず、Mは光男を再び白布で覆い、担送車を寝台車の荷台に収納した。Mが立ち働く様子を、寝台車の傍らで老人がじっと見つめている。柔和な目が恐ろしいほど輝き、衣服を突き破った視線が素肌を舐め回しているような感じさえする。死者に神の道を説くという老人は、生きている者には粘り着くほどの執着を見せるようだ。

「さあ、行こうか」
仕事を終えたMに老人が呼び掛けて助手席に回った。勝手に寝台車のドアを開けて、済ました顔で先に乗り込む。老人の奇跡を一瞬とはいえ信じてしまった弱みがMをくすぐる。仕方なく老人を乗せたまま山地に向かう。布教への対応はピアニストたちに任せることに決めてしまった。

山裾にある美術館から命門学院中等部の裏門へと続く細道を慎重に運転して坂を下った。中等部の門の脇にパトカーが止まっているのが見える。警察官を認めた老人が背中を曲げてドアの陰に隠れた。老人の動作と先ほどの言動から、Mは詐欺師の匂いを嗅いだ。ことさらスピードを落としてパトカーの前を通り過ぎたが、制服警官の鋭い視線を浴びただけで停車は命じられなかった。そのまま直進して織姫通りへ左折する。後は山地まで、道はひとすじだった。

「先ほど、警官から身を隠しましたね」
山根川の渓谷に沿って続く山地の道に出たところで、Mは意地悪く老人に尋ねた。
「縁なき衆生と、ことを構えたくないからね」
「あなたは仏教にも造詣が深いのですね。神ながらの道とはどんな教えなのです」
問いを吟味するように沈黙した老人が、黒い柔道着から突き出た逞しい腕を胸の前で組んでから話し始める。
「私は人にオシショウと呼ばれている。教え諭すのが使命だからだ。だが決して教え導くのではない。人はすべて、自らの道は自らで決断すべきだからだ」
「当然のことだと思います」
Mが短く応え、先を促した。

「Mさんは、そういう仕事を続けて毎日が過ぎ去ることが苦痛ではないかね。過不足ない暮らしが退屈になることはないのか」
「私には結構面白い毎日です」
「それはMさんの意識が低いからだ。私に教えを請いに来る人たちは皆、世間的には羨ましい暮らしをし、その無意味さに気付いた人たちばかりだ。言ってみれば覚醒したのだ。この宇宙全体まで認識しようとする人間が、平々凡々たる日常に甘んじていることは、どう見ても不合理なのだ。たとえ気持ちを張り詰めた状態で仕事を続け、家族を愛し、友人と楽しく語り合おうとも、宇宙の果てから見たら空しいことだと思わないか。人として生きる意味がない。活力も想像力も貧困に過ぎる。決して真理など見えてはこない。どれほどの暮らしをしていようと、それが無意味なことであれば、その者は死者と同じだ。生きながらの死ほど耐えがたいものはない。だから私は神ながらの道を教えてやる。生ある物はいつしかすべてが滅ぶのだ。当たり前なことだ。これだけが否定できぬ真理だ。だから滅びの時に向けてこそ人は生きるべきなのだ。死者も同じだ。いっさいが滅びる時を待つしかない。私は、まず身体を鍛えることを勧める。鍛錬された美しい肉体もついには滅びる。惜しいことだ。この惜しくて惜しくてたまらない感情だけが滅びと等価になる。所詮滅びという物理的な作用に物理的な手段で対抗しても意味がない。創造も建設もすべて空しい。ひたすら滅びることを惜しみ、惜しまれる感情の集積だけが宇宙と等価になる。その状態がエデンに他ならない。Mさん、あなたは美しい。このまま滅びるのが惜しいほどに美しい。だが、あなたは惜しまれる努力をしていない。あなた自身惜しいとも思わないのだろう。愚かしいことだ。残念ながら生きながらの死を選び取っている」
長い説教が続いた。道を説く者はいつも空しいとMは思う。命は滅びても次の命が生まれてくる。その連綿と続く生の歴史を一代限りで退屈で無意味だという。やはり人の驕りだと確信した。

「私は毎日の暮らしに退屈もしていないし無意味だとも思わない。確かに行く末に不安もあるし不安定な生活だとも思う。でも、それだからといって四十歳になる身体を鍛え直してみようとは思わない。万が一、二十歳の肉体に戻れたとしても、それは化け物のようで、滅びることを惜しむどころか滅びてしまいたいと思うはずよ。私は宇宙と等価になるような世界の出現より、退屈に見える暮らしの再生を信じるわ」
オシショウの逞しい身体が小刻みに揺れた。もじゃもじゃした白い髭と髪が大きく膨れ上がる。

「Mさん、私は七十五歳になる。信じられるだろうか。化け物に見えるかね」
「お年の割に素敵な肉体だと思うわ。オシショウが私に言ってくれた言葉も同じ意味でうれしく聞かせてもらった」
「残念ながら意識が低すぎる。職を変わった方がいい。葬儀社はMさんには似合わない」
たとえ老人でも職業蔑視は許せないとMが身構えたとき、街道の先にドーム館へ続く横道の入り口が見えた。Mはブレーキを踏み、寝台車のタイヤをきしらせて街道を直角に曲がった。疎水沿いのピアニストの蔵屋敷を通り過ぎてから、ドーム館の建つ切り通しへ車を進める。タイメックスの文字盤は午前七時を告げていた。


新春の澄明な大気を斜めに切り裂いた朝日が、巨大なガラスのドームを光の固まりのように七色に輝かせている。オシショウの教えを聞いた直後のMには、まるで邪教の寺院のように見えた。四年振りに見るドーム館は以前と変わっていない。植栽された木々の成長だけが時の流れを感じさせる。車寄せから見える大きなガレージも十数台のスポーツカーの位置が変わっただけで変化がない。車体の後部が潰れ、ナンバー・プレートの取り去られたMのホンダビートが四年前と同じ位置に置き去りにされていた。代わりに使っていたMG・Fがすぐ横に駐車してある。すぐ乗り出せそうな磨き上げられた赤い車体が妙に懐かしい。

Mは寝台車を降りて玄関に歩み寄った。スーツの襟元を直してからインターホンのボタンを押す。三回目のコールで、やっと応答があった。
「どなたですか」
ぶっきらぼうなチハルの声がスピーカーから流れてきた。
「葬儀社の者です。故人をお連れしました」
Mが用件を告げたが、応える言葉に迷ったようにチハルが長い間を取った。午前七時では、まだ早すぎる訪問だったのかも知れない。

「玄関に通してください。今、ドアを開けます」
素っ気ない声と同時に錠の開く音が聞こえた。Mが大きくドアを開くと暗い玄関ホールに煌々と明かりが灯った。ドーム館ではすべてのスイッチがセキュリテーセットで操作できたことを思い出した。きびすを返して寝台車に向かった。先ほどまで助手席にいたオシショウの姿がない。辺りを見回したが姿が見えない。二分ほどの間にどこかへ行ってしまったらしかった。それとも、やはり幻覚だったかとMは思う。だが取り立てた影響はない。Mは仕事を続けるだけだ。観音開きの後部ドアを開いて担送車を地上に引き出す。光男の枕元に回り、玄関に向かってゆっくり押していった。吹き抜けになった玄関ホールの中央に担送車を止めて祐子とチハルを待つ。天井から吊り下がった豪奢なクリスタルのシャンデリア越しに、落ち着いた光が白布に包まれた光男を照らしだしている。いかにも居心地の悪そうな雰囲気だ。だが、死者にとって居心地の良い場所など人の世にはない。二階に通じる広い階段の上でドアの開く音が聞こえ、茶のツイードのスーツを着たチハルが顔を見せた。

「何だMじゃないか。不幸があると決まって顔を見せるね。まるで疫病神だ」
頭の上からチハルのぶっきらぼうな声が落ちてきた。まったくその通りだとMも思う。
「葬儀社のMです。故人をお連れしました」
階段を下りて担送車に近付いて来るチハルに丁重に挨拶した。
「参ったねえ。まさかMが来るとは思わなかった。まあ、ハイエナだかコンドルだかは知らないが、お似合いだとは思うよ」
「故人をどこに安置するか指示してください」
チハルの悪口には取り合わず、事務的に尋ねた。
「へえ、Mは葬儀社の主任なんだ。偉いもんだね。私もコスモス事業団の主任になった」
Mの左胸を見つめながら、問いを無視してチハルが言った。その一言でMの口元に笑みが浮かぶ。水道記念館でMの名を呼んだオシショウの謎が簡単に解けた。病院用の名札を外し忘れていたのだ。余裕を持ってチハルを見つめ返す。

「コスモス事業団は四年前に解散したはずよ。それより、早く安置する場所を教えてください」
「もちろん、コスモスの収益事業部のことさ」
「ゲーム機屋さんのことね」
Mが言い切ると、愉快そうだったチハルの表情が尖った。
「光男はホールの奥にそのまま置いておけばいいわ。どうせ今日中に灰にするんでしょう」
吐き捨てるように平然と言ったチハルの顔をMがにらみ付ける。
「チハルには常識っていうものはないの。それから死者を敬う気持ちも」
今度はチハルが驚いた顔でMを見た。

「縁もゆかりもない死者を引き取るだけでは不十分というのね。どちらかと言えば光男はMと縁が深い。Mが葬式を出せばいいんだ」
チハルの感情的な声が玄関ホールの高い天井に響いた。オシショウが言ったように、不幸せでかわいそうな死者は神々に受け入れられないどころか搬送先のチハルにさえ受け入れられない。しかし、チハルの言動にも一理があると認めないわけにはいかない。確かにチハルよりMの方が光男との縁は深いのだ。

「祐子を呼んでちょうだい。祐子がきっと、ドーム館を搬送先に指定したはずよ」
できるだけ冷静な声で、赤く上気したチハルの顔を見つめながら頼んだ。
「ここを指定したのはピアニストだ。祐子は下りてこないし、光男にも会わない。同じ屋根の下にいることさえ辛いってさ」
チハルの答えはMの全身を悲しみで満たした。何と甘ったれた子供ばかりなのだろうと思う。悲しみの底から怒りが湧く。全身がわなわなと震えだした。
「幼なじみの死に顔さえ見られないと言うのね。なら、光男と一緒に私が会う」
Mは無造作に光男を覆った白布のファスナーを引き下ろした。明るい玄関ホールの光を浴び、光男の口元でゲランのルージュが真っ赤に燃えている。大きく見開いたチハルの目が遺体に釘付けになる。Mはその場で服を脱ぎ去り全裸になった。豊かな裸身全体が薄くピンク色に上気している。死者に向けられていたチハルの視線がMに戻った。陰惨な表情が一瞬に和むのがMに分かった。

「素っ裸が好きな女だ」
そっと遺体を抱き上げたMにチハルが言った。
「そう、すべてのしがらみを取り去った女が光男に付き添い、祐子に会う」
大声でMが応えた。遺体を抱えた裸身が階段に向かって歩き出す。豊満な乳房の下に抱かれた光男の両足が揺れ、赤く染めた頭髪が生者のようになびいた。目の前で繰り広げられる性と死の乱舞は、チハルの目には滑稽なほどグロテスクに見える。思わず駆け寄って剥き出しの尻を蹴ろうとすると、裸身全体が震え、大きな叫びが玄関ホールに満ちた。

「祐子、私はM。光男に会いたくないのなら、無理にでも私が会わせる」
同時に玄関のドアが開いた。Mの怒声がドアの外まで流れ出る。
「死体と一緒に裸踊りかい。M、相変わらず元気なものだ」
背後から冷ややかな声を浴びせられたMが、遺体を抱いたまま振り返った。大きく開かれたドアを背にしてピアニストとオシショウが並んで立っている。オシショウが後ろ手にドアを閉めた。皮肉な声でMに話し掛ける。
「死体を抱いた裸身を拝めるとは思わなかったよ。実に美しい。Mさんの陰毛は黒々と豊かに天を突いている。もったいないことだ。やはり惜しまれる努力をすべきだ」
続けてピアニストが追い打ちを掛ける。

「M、みんな忙しいんだ。僕もチハルも勤めがある。オシショウから聞いたが、Mは葬儀社の社員なんだろう。裸踊りは結構だから、早く遺体を棺に納めて葬儀の準備をしてくれ」
意地悪な物言いだがピアニストの言うとおりだった。チハルの話を聞いて興奮したMの負けだった。Mは口を固く結んで言われるままに遺体をマットの上に戻した。四年振りに会うピアニストとオシショウの取り合わせが不可解だった。オシショウの教えを彷彿とさせるほど逞しく鍛え上げたピアニストの肉体が、何にも増してMを打ちのめした。流麗にピアノを弾く繊細な青年医師のイメージがすっかりぬぐい去られている。Mは唇を噛みしめ、背筋を正して素っ裸のまま玄関を出た。寝台車の後部ドアから棺を降ろして簡易祭壇を収納したコンテナを引き出す。山地の冷気が素肌を刺した。しかし、これが葬儀社の仕事なのだ。Mは裸で作業を済ますことを自らに課した。光男の遺体の前で私情にまかせて興奮した罰だと思った。用意してきた小さな台車に長い棺をバランスを取って乗せる。左手で棺を支え、右手で台車の取っ手を持ってゆっくりと玄関に向かった。腰を屈め、中腰になって台車を押す。後ろに突き出た尻を冷たい風がなぶっていく。下を向いた乳房が歩みに連れて情けなく揺れた。惨めな姿だった。ドアから玄関ホールに入ると暖かさが全身を覆った。ピアニストとオシショウ、チハルの三人が担送車を囲んでいる。少し離れて祐子の姿があった。祐子が素っ裸のMを見つめる。蒼白な顔が見る間に赤く染まった。黒いセーターにブラックジーンズの見慣れた服装だった。だが、かつて頼りなさそうに見えた長身は、今や見事に鍛え抜いた逞しさを感じさせる。裸のMだけが一人、ドーム館で柔な肉体を晒しているのだ。白い裸身が初めて羞恥に赤く染まった。

「ごめんなさい、M。取り乱していて迷惑を掛けたわ」
側に寄ってきた祐子が小さな声で詫び、Mの作業を手伝う。
「いいえ、取り乱したのは私だったみたい。この格好を見れば分かるでしょう」
返す言葉に困った祐子が下を向き、いっそう頬を赤らめた。
「でも、Mはいつも美しいわ」
祐子の賛辞を聞いた裸身が一段と赤く染まった。胸とウエスト、そして尻の回りの重さが心に痛い。裸でいることの恥ずかしさが今、ヒシヒシとMの全身を覆う。
「私はウエイト・オーバーよ」
頬を赤く染め、明るい声でMが応えた。
「惜しいわ」
何気なく祐子が口にした答えが耳に痛い。豊かに盛り上がった両の乳房の上で乳首がキュッと固くなった。陰毛に覆われた股間で下半身の重みを感じた性器が縮み上がる。すぐにでも裸身を服で覆ってしまいたくなる。皮膚にまといつく室温が暑い。七十五歳のオシショウを別にすれば、四十歳になるMはこの場では十分すぎる高齢者だった。肉体を美しく鍛え上げた若者に囲まれたMが、ただ一人素っ裸で無防備な肉体を晒している。自ら招いたこととはいえ残酷だった。

気を取り直して仕事に戻ろうと思い、目を上げて担送車を見た。大学病院のお仕着せの寝間着を剥がされた遺体が白いマットの上に横たわっている。骨と皮だけに見える貧相な裸身の股間に、アンバランスなほど大きいペニスがあった。

「オシショウご覧なさい。エイズ末期の兆候がすべて現れています。目を背けたくなるほどの悲惨さだ」
ピアニストの低い声が玄関ホールに響いた。
「不幸せでかわいそうな死者だ。この若さで肉体のすべてが蝕まれてしまった。惜しむべき何ほどもない。いっさいが滅ぶまで待ち続けるしかあるまい」
オシショウが答え、ピアニストが無言のまま固くなった遺体をうつ伏せにした。貧相な尻の割れ目に両手を当てて股間を押し開く。
「醜い肛門をご覧なさい。毎日のようにペニスで責められて窪んでしまっている。都会まで逃げ出したあげくの最後は哀れなものです」

「この死者が同性を愛し、どれほどの官能の高まりに打ち震えたか知る術もないが空しいことだ。所詮滅びるまでの儚い夢でしかない。最後のあがきだ。滅びの前には相応のあがきがあることは覚悟しているが、露ほども惜しまれぬ死はこれで最後にしたいものだな」
二人の会話を聞いていたMの裸身が、今度は怒りで赤く染まった。台車に積んだ棺を投げ出して担送車の前に走る。
「死んだ光男を蔑むことは許さない。早く遺体に服を着せなさい」
裸身を震わせて叫ぶMを二人が振り返った。

「無様な格好で興奮するのはやめなさい。僕たちは光男を蔑んではいない。光男の不幸を我が事として認識するために検分している。それが物言えなくなった光男のためだと思わないか」
ピアニストが冷静な声を浴びせた。オシショウが追い打ちを掛ける。
「Mさん。あなたの裸身は美しい。だが、それだけのものだ。ここに横たわる死者とそれほどの相違はない。惜しまれる努力をしない無様な肉体を晒して、本当に恥ずかしくないか。たるんできた肉の重みが羞恥心を呼び起こさないか。人は惜しまれる自信がなければ素っ裸になどなれはしない。そうでなければ死者と同じになってしまう。Mさん、もう一度訊く。すべてをさらけ出した裸身が恥ずかしくはないのか」

Mは答えを躊躇してしまった。恥ずかしくないと断言できる根拠を捜してしまったのだ。根拠などあるはずもなかった。個性に属する肉体を、人は恥じる必要はない。だが、無様な沈黙がMの肯定を告げていた。
「M、光男を棺に収めてくれ。遺体は裸のままでいい。Mと同じ姿を、光男が嫌がる道理はないよ」
ピアニストが事務的に命じ、続いてチハルたちに呼び掛ける。
「これからの予定を言うよ。法律では明日にでも火葬できるんだが、明日は友引で斎場が休みだ。だから火葬は明後日の日曜日になる。午前十時の窯を予約してある。明日はここで簡単な告別式をする。M、いいね、葬儀社の仕事だ。すべてよろしく頼む」
Mは唇を噛んでうなずいた。ピアニストが手伝って裸の遺体を棺に収め、棺ごと担送車に載せた。後は棺の前に祭壇を造るだけだ。剥き出しの遺体がなくなったことで室内に平安が戻った。Mは素っ裸のまま奴隷のように立ち働き、簡素な祭壇を組み立てた。作業中も常に、裸身に集まる視線を妙に意識してしまった。醜い姿を叱責する鞭が、いまにも背後から襲い掛かる気がした。

何の飾りもない白い祭壇の上に担送車に載った棺が重々しく横たわった。一応の格好が付いたところでピアニストとオシショウが帰り、チハルが出勤した。ドーム館の玄関ホールにMと祐子と遺体だけが残った。Mの背筋を冷気が掠める。惨めな気持ちで服を着たが、剥き出しの心が寒さに泣いた。
「私はドライアイスを買ってくるわ。いくら冬でも二日は持たない」
疲れ切った声で祐子に呼び掛けた。
「私も一緒にいくわ。ついでに花も買いましょうよ。何も飾っていない祭壇では光男がかわいそう」
二人は連れだって玄関を出た。Mが寝台車のドアを開けようとすると祐子が押し止めた。
「MG・Fで行きましょうよ。いまも鍵はつけっぱなしなの。Mの車よ」
声を掛けた祐子がガレージに向かって歩いて行く。後ろ姿の先で真っ赤なMG・Fの車体がMを誘った。オープンにして運転席に座ると、祐子がうれしそうに声を上げる。
「やっぱりMにぴったり似合うわ。年に一度は点検整備に出しておいたから安心して運転してね」

イグニッションに応えて軽快なエンジン音がこだまする。アクセルを踏み込むと鋭い加速感が背に響いた。積もり積もった疲労が嘘のように吹き飛ぶ。現金なものだとMは思う。一気にピアニストの蔵屋敷の近くまで走ってから口を開いた。
「祐子。修太の姿が見えなかったけど、どこかに行っているの」
Mの問いが風に流れた。祐子は答えない。不安な沈黙の後で聞き取れないほどの小声が耳に入る。
「修太は忙しいの。明日の告別式も、シュータを代表して弥生が来るはずよ」
「えっ、修太の代理で誰か来るの」
「違うわ。シュータを代表して弥生が来るの。素敵な女性よ。シュータの人には思えないぐらい」
「祐子、意味が分からないわ。シュータって何よ。修太と何の関係があるの」
「ごめんなさい。Mは知らなかったのね。シュータはオシショウの教えを実行するために修太が作った組織なの。弥生は組織の広報担当。同じ工学部の学生なのよ。一年浪人したから私たちより年は上」

「待って、初めから説明してちょうだい。祐子は工学部にいるのね」
「Mは私たちのことを何も知らないのね。そうよね。私だってMが葬儀社にいるなんて思いもよらなかったんだもの無理はないわ。私も修太も工学部の四年生よ。私はテキスタイルを勉強しているの。Mの知っている理事長の本部があった鋸屋根工場は、織機を入れて私のアトリエに使っているの。もう結構いい織物が作れるのよ。これも私の作品」
祐子は黒いセーターの襟元に巻いたスカーフを取ってMの前に広げた。草木染めで染めた淡い緑の濃淡が規則正しく織りなされた品の良い風合いだった。ハンドルから左手を離して手に持つと、絹と麻の混ざった肌触りがした。しなやかな絹と、ざらついた麻の感触が見事に融合して一枚の布になっている。まるで祐子とMを一枚の布に織り上げたようだった。ピアニストとMと言った方が近いかと思い直し、口元に笑みを浮かべる。今のピアニストは絹より麻が似合いそうだった。

「どう、気に入ってくれた。縦糸に麻を使い横糸に絹を使ってあるの。糸を草木染めで染め上げてから撚りを入れ、それから織り上げたのよ。よかったらMに使って欲しい」
「ありがたくいただくわ。うれしくて涙がでそうよ。祐子がいい仕事ができるようになって私も誇らしい」
Mはスカーフを首に掛けた。祐子の温もりが残る生地が首筋を優しく撫でる。つい目頭が熱くなってしまう。人はそれぞれに成長していき、一人だけ取り残されていくような寂しさを感じた。

「それでね、M。修太は都市工学の勉強を選んだの。ピアニストが面倒を見てきたわ。あれからずっと、修太は蔵屋敷に住んでいたの。二人とも新しい文化を創造したいという共通の目標があったからよ。コスモス事業団の思想を受け継ぐといって得意になっていたわ。ピアニストも子供から抜けきれないところがあるのね」
祐子の的確な批評を聞いて、Mは笑い出してしまった。

「何がそんなにおかしいの。でもピアニストは本気よ。怖いくらい。四年前にオシショウと会ってからは行動的になったわ。もうピアノも弾かない」
今朝嗅いだ詐欺師の匂いがまた鼻先に甦った。その詐欺師が、肉体への羞恥を初めてMにもたらしたのだ。贅肉のついた身体が重く、恥ずかしくてならない。

「あの老人は何者なの。ピアニストはすべてを信じ切っているみたいだったわ」
「ピアニストだけじゃないわ。修太も信じている。私もすべてではないけど信じているの。オシショウの言うことには真理があると思う。生きている者は必ず滅びるし、私は滅びることが惜しいもの。惜しむ気持ちを大切にしたいとも思う。M、私は身体を鍛えているのよ」
「分かっているわ。よく締まった健康的な身体になった。この場で全裸にしたいくらいよ。どうやって鍛えているの」
「チハルと一緒に週三回、スイミング・スクールに通っているの。もう二年になるわ。泳げなかった私が、今はバタフライで三百メートルも泳げる」
Mは目を丸くしてしまった。家に閉じこもっているとばかり思っていた祐子が水泳選手のように見える。いまのMでは二十五メートルを泳ぎ切るのがやっとだろうと思った。
「そう、オシショウの教えは健康的でいいじゃない。ピアニストと修太は布教を手伝っているの」
「始めは顔を出していた程度よ。でも今は違うわ。私がオシショウを信じたのも、自分の肉体が滅びることを惜しもうという一点だけ。だから身体も鍛えるし頭脳もセンスも鍛える。惜しむ気持ちの量が、やがて滅びることと等価になるという話は分かりやすいし魅力的だった。私の回りにいる若くて優秀な人は、ほとんどがオシショウの教えを信じたわ。でも教えはエスカレートしたのよ。個人の話が社会にまで広がっていった。オシショウの教えでは、社会も人が造っているのだから、いずれ滅びるというの。だから社会も滅びることを惜しまれるように、理想的に鍛え上げる努力をすべきだというのよ。そのころからピアニストと修太は積極的になったの。シュータは社会を鍛え上げるために、オシショウがピアニストに命じて作った組織。修太が実質的に取り仕切っているの。よく街で社会変革の宣伝をしていたわ。でも、過激になった行動が市民に疎んじられて、一年前に織姫通りに借りていた事務所から追い出されたの。それからシュータは人目に付かないところに閉じこもってしまった。いまは秘密組織。オシショウも市内を転々としているらしいわ。今朝姿を見せたのも珍しい事よ」

道は山根川の渓谷に沿ってくねくねと曲がって市街地へと続く。市街地の上に広がっていく暗雲が、Mには見えるような気がする。つかの間吹き飛んだ疲労が再び全身を覆った。
「話の概要は分かったわ。祐子、今度は時間を追って話してくれない」
「詳しいことは私も良く知らないの。関心がなかったし、Mには見捨てられたし、私も散々だった。ちょうどMが都会に去ってしまってすぐに話が始まるのよ。四年前にオシショウはMと入れ違いに都会から来たの。駅に着いたときはもう死にそうだったというわ。行き倒れ同然のオシショウをケースワーカーの天田さんが保護して市民病院に担ぎ込んだの。末期癌だと診断され、麻酔科のピアニストが主治医になって終末医療を行ったんですって。それが亡くなるどころか、一年のうちに見る間に癌細胞が消え失せてしまったというの。病院では奇跡だと言ったらしいわ。その実績があるからオシショウの言葉を人は信じる。教えも難しくない。ひたすら身体を鍛え、頭を鍛えることだけを教える。大勢の人が信じ、繁華街に道場もできた。若くて優秀な人が通ってきて、ボディービルやストレッチをして難しい話をしていたわ。一年ほど盛っていたけど、さっき話した社会変革が表面に出ると潮が引くように人がいなくなり、熱心な若い信者だけが残った。その信者の代表がピアニストと修太だったのよ」
「チハルは大丈夫だったの」
「あの人は大丈夫よ。社会的に著名なものしか信じないわ。でも、身体を鍛える話には乗った。自分が美しくなるのを嫌う人はいないわ。チハルはもうコスモスの中堅社員よ。最近は男性にも興味が出たみたい。安い石鹸の香りをさせて、明け方になってから帰ってくることもある。お金持ちだし、快活だから、周りが放っておかないのよ」
「祐子だってお金持ちでしょう」
「私は機を織るだけでいい。余分なお金はみんな寄付するつもりよ。どうせ理事長さんが衝動的に相続を決めたんだもの。全部チハルが受け取るべきだったと思うわ」
祐子の寂しそうな声がオープンにした車体の外に流れ去った。
「M、今夜は私の部屋に泊まってちょうだい」
唐突に祐子の声が耳元で響いた。


「M、聞いてる。まだ眠ってはいないんでしょう。シュータには十二人の幹部がいるの。ほとんどが工学部の学生。私は弥生にしか会ったことはないけれど、みんな優秀な人らしいわ」
Mの横で寝ている祐子の声が半円形の部屋に響いた。円形のドーム室を二つに割って中央に壁を造ったため、不思議な反響がする。祐子とチハルで一つの部屋を分けたためにせっかくのドーム室が無惨な姿になってしまっていた。見上げる天井のドームだけが円形の夜空を写し出している。
「それにしてもドーム室がもったいないわね」
中央の壁に寄せたダブルのローベッドから星の瞬く円形のドームを見上げてMが言った。問わず語りに起きていることを証明してしまった。即座に祐子がうれしそうに話し掛ける。

「ベルリンの壁は崩れたけど、ドーム室の壁は去年築いたばかりよ。今夜もまだチハルは帰らないでしょう。遅い帰りを同じ部屋で待つのは耐えられないと言ったら、チハルが壁を造ってしまったの。壁にはドアもない。あれほど一緒に寝たいと言っていたのに、チハルは勝手すぎると思う」
祐子に執着していたチハルが自立し、取り残された祐子が人恋しさに戸惑っているのがMには面白かった。巣立ちのチャンスは毎日のようにある。それはもう祐子が身を持って知っているはずだった。Mの口元に笑いが浮かんだ。

「何がおかしいの。パジャマを着て寝るMなんて想像もできなかったわ」
笑われたことを機敏に察した祐子が意地悪く毛布をまくった。祐子から借りたパジャマを窮屈そうに着たMの身体が、ドームから落ちる星明かりに白く光った。うつ伏せになった祐子の裸身が隣りに並んでいる。細く絞ったウエストの下に高く上がった美しい尻が続いている。水泳で鍛え上げた裸身は肌が張り切って無駄のない優美な曲線を見せていた。Mは風呂から上がったばかりのみずみずしい祐子の裸身を見た瞬間、パジャマを着ることを決心した。成人してからこれまで、パジャマを着て寝たことはなかった。長い間守ってきた習慣を、祐子の前で捨て去ることは悔しかった。だが、どう足掻いても何の手入れもしてこなかった四十歳の裸身は祐子に対抗する術はない。何よりもMは、愚かにも放って置いた肉体への無関心を恥じた。

「ねえ、M。シュータの話は飽きたの」
媚びるように裸身を寄せてきた祐子が耳元で囁く。
「だって、よく知らないんでしょう」
「知っていることだってあるわ。幹部の名前はみんな知っている。まず睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、そして極月。これで十二人でしょう。弥生は広報担当の幹部なの。だから顔を知られている」
「何だ、陰暦の月名じゃない」
「そうよ、暗号で呼び合っているの。本名なんて明かさないわ。それぞれの幹部が月曜日から日曜日までの七人の部下を持つ。全部揃えば九十六人になるわ。実際の仕事は部下がするから組織の全容は幹部にも分からない。知っているのは修太とピアニストだけよ」
「まるでテロ組織のようね」
何気なくつぶやくと、祐子の裸身がビクッと震えた。

「まさか、祐子。本当じゃないでしょうね」
Mが身を起こし、祐子の顔をのぞき込んだ。祐子の裸身が小刻みに震え、瞼が痙攣する。
「分からないわ。でも、シュータは市に過激な要求をしている。拒絶すると滅びが早まるって言っているわ。最近は山地にもパトカーが頻繁に回ってくる。ピアニストと修太が住んでいるからだと思うの。私は怖い」
急に話が現実味を帯びてきた。Mの表情が硬くなる。

「どんな要求を、いつ頃から、どんな手段でしているの」
話を詰めようとビジネスの口調になって問うと、祐子が震え声で話し出した。
「半年ほど前から、インターネットのホームページとEメールを使って要求している。内容は資産税の撤廃と義務教育の廃止よ」

聞いたMはあきれ返った。受け入れられるはずのない要求だった。第一市が裁量できる問題ではない。確かに資産税は市税だし、小・中学校の設置と管理も市の責任だった。だが国家が控えている。少しも現実味がなかった。
「理由はあるの」
「資産税は土地所有を公的に認めるシンボルだし、義務教育は公的に子供を人質に取る方便だと言っているわ。文化的な地域社会を造るにはどちらも撤廃すべきだというの」
資産税を撤廃し義務教育を廃止することが、滅びを惜しまれるべき社会の条件になるのかとMは思う。確かに極端な土地所有を改め、子供たちを家庭に返し、個性豊かな人材を育てなくては、これからの時代が社会を否定するだろうことは予想できる。だが、到底受け入れられるはずのない要求だった。単に組織の主張を誇示し、宣伝することだけが目的に違いなかった。それだけにエスカレートしていく戦術が怖い。

「ひどいことになっているのね。ピアニストは十八歳、修太は祐子と同じ十二歳のときに知り合い、私と一緒に半年ほど暮らしたのよ。その二人が揃いも揃っておかしくなったのでは、責任を感じてしまう」
「Mのせいじゃないわ」
大きく叫んだ祐子がMの身体に裸身をかぶせた。首筋に顔を埋め、喘ぎながら耳元に舌を這わす。

「いつまでも、じゃれてるんじゃない」
壁の向こうから、いつの間にか帰宅したチハルの怒声が飛んできた。祐子の裸身がすくみ上がる。Mは片手で祐子の肩を優しく抱いてやった。掌の中で乳房が弾み、乳首が固く尖ってくる感触がした。


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