2.ワサビ田

浅間山の北面の山陰にある湧水は、真夏でも手が切れるほど冷たい。その湧水からワサビ田に引き込んだ流水の中で、Mはもう一時間ほど作業を続けていた。長靴の厚いゴム底を通して足先に冷たさが染み込む。オフホワイトの長袖の作業服で覆った上半身は汗ばむくらいだが、オレンジ色のズボンを穿いた腰のあたりまで、冷たさが這い上がってくる。冷えを意識した途端に尿意が襲った。眉間を寄せて足元を見る。ワサビの鮮やかな緑の葉陰にのぞく澄明な水脈が、土で汚れた長靴を絶え間なく洗っていた。密生したワサビの枯れかかった葉を取り除く作業は、もう田を一枚残すだけだった。田といっても四畳半ほどの広さしかない。Mは靴下を穿かなかったことを悔やんだが、もう後の祭りだ。視線を巡らせて沢に渡した丸木橋の先の蔵屋敷を見つめた。尿意は我慢できそうにない。戻ってトイレを使ってから作業を続けるしかないと思った。決断した瞬間、カナカナゼミの声に混じってヴァイオリンの調べが聞こえてきた。畦道に置いたラジカセから響く曲は、バッハの無伴奏ソナタだった。Mの好きな曲だ。聞き逃したくはない。たった一枚の田を残して作業を中断するのもしゃくにさわる。反射的に辺りを見回す。背後は山が迫り、右手は沢だ。唯一開けている東側の正面は、三枚のワサビ田が段になって斜面を下っている。三メートルほどの勾配を下った先が農道だ。幅二メートルの未舗装の道が、急カーブを描いて浅間山に続く瘤山の間に消えている。人影はなかった。

Mは山側に向けて数歩を歩き、一段低くなった場所に進んだ。再び農道の方を見下ろしてからハンノキの林と向かい合う。腰に吊った黒いウエストバックを外して肩に掛け、素早く作業ズボンを膝まで降ろす。ショーツは穿いていない。濃い緑に染まる林とワサビ田をバックに、白い尻が剥き出しになった。冷たく湿った風が股間を渡り、漆黒の陰毛が揺れた。とても五十二歳とは思えない、きめ細かい肌だ。量感のある尻を突き出すようにして、ワサビ田にしゃがんだ。股間をワサビの葉がなぶる。尻の割れ目のすぐ下を水の流れる気配がした。妙にくすぐったい気分だ。ヴァイオリン・ソナタ第一番のパルテータを耳にしたとき、Mは放尿した。遠く聞こえるセミの声とヴァイオリンの調べ、水面で揺れるせせらぎと葉陰を渡る風音、交響する音の波を股間で上がる水音がかき乱す。思わずMの頬が赤く染まった。股間が熱くなり、長々と続く放尿に切なさが募った。

「バッハがお好きですか」
突然声が響いた。大きな声だが低い声だ。Mの背筋を衝撃が走り抜ける。視界が真っ白になり、続いて暗転した。言葉の意味を越えて、音質が全身を覆った。交響する音を乱すことなく発せられたソリストの声は、艶やかなバリトンだった。全身がかっと燃え上がり、素肌が赤くなった。まるで条件反射のように剥き出しの股間が戦く。性を意識した瞬間、尿も止まった。慌てて下げた尻を流水が洗っていったが、冷たさも気にならない。耳の底に残ったバリトンを夢中で反芻した。時間が消え失せ、突然二十五年前に逆戻りしたような、懐かしい官能が残った。この同じ山地の築三百年の屋敷で、同じ音質のバリトンを操る男が、二十七歳のMの肉体に残していった官能の炎。その炎がずっとMの生き方を律してきたのだ。だが、男がかき立てた炎はすべて、男の妄想から生まれ育ったに過ぎなかった。現在のMは五十二歳の女だ。もはや過去の妄想に捕らわれることはない。一切をこの目で見据えることができる。Mはしゃがんだままゆっくり向きを変え、なに食わぬ顔で声の主を見下ろす。農道からの視角では、Mの上半身しか見えないはずだった。

「お仕事中に、驚かせてすみません。こんな山の中でバッハが聞こえたので、うれしくなって声を掛けてしまいました」
Mを見上げた男が恐縮した声を出した。Mの表情がよっぽど険しく見えたようだ。良く澄んだ、耳に通る心地よいバリトンだった。首に下げた黒塗りのライカM6がMをぎょっとさせたが、もちろん男は二十五年前のカメラマンではない。ジーンズの上に紺のサマーブレザーを着ている。長身だががっしりした体つきで、端正な顔が幼く見えた。歳は四十代の中頃らしく、当時の築三百年の屋敷の男と大差なかった。だがMは、とうにその年齢を過ぎていた。先ほど感じた官能のときめきが愚かしくなる。つい、返事をしそびれてしまった。

「まだ怒ってるんですか。ごめんなさい。でも、美しい後ろ姿が本当にバッハに似合っていましたよ」
歯の浮くような台詞にMの口元が緩む。裸の尻を洗っていく水が急に冷たく感じられた。どう見ても滑稽な姿だ。
「振り向いたらお婆さんなので、がっかりしたってところかしら。私は怒っていないわ。でも、この道は行き止まりよ。丸木橋の先は私有地だから、Uターンしてお帰りなさい」
「いえ、お婆さんなんてとんでもない。十分お若くて美しいですよ。それに、ちょっと道を尋ねたいんです。お手間は取らせません」
笑顔を見て安心したように、男は世慣れた調子で話を続けた。いささか強引な性格をセクシーなバリトンがよく補っている。そのことを十分に知っているらしい自信が、妙にMの気を引いた。
「いいわ、山の中で迷ったのなら助けるわよ。でも、私が声を掛けるまで、ちょっとの間後ろを向いていてちょうだい」
返事を聞いた男は、訝しそうに小首を傾けたが、小さくうなずいてから広い背中を見せた。Mは急いでズボンを引き上げながら立ち上がる。緊張してしゃがんでいたため両足が痺れてしまい、ズボンがうまく尻を通らない。濡れた肌が驚くほど手に冷たかった。陰毛を伝った水滴がオレンジ色の生地に醜い染みを付ける。

「いいわよ。どちらに行きたいの」
ワサビ田の中で膝を屈伸させてから男に呼び掛けた。振り返った男がMを見つめて、一瞬口ごもってしまう。見上げる視線が感動で輝いていた。男の反応は、山地に住んでからの七年間で、何度もMが経験してきたものだ。身長百七十センチメートルのMのプロポーションは今も完璧だった。化粧をしない面差しも、自然の中ではことさら美しく引き立って見える。都会から来た男は、決まって同じような反応をするのだ。今朝の男も例外ではない。しかし、その仕草は初々しいくらい無防備だった。Mはたまらなくバリトンが聞きたくなる。
「さあ、何が聞きたいの」
促された男は右手の蔵屋敷に目をやってから、Mに視線を戻した。

「ピアニストの家を訪ねたいんですが、どの辺りでしょうか」
今度はMが目を見張って口ごもった。突然懐かしい名を告げたバリトンが、Mの耳の底で渦巻く。晩夏の光を浴びた風景が揺らめき立つように見えた。自然に視線が蔵屋敷の方を向く。
「やっぱりここなんですね」
念を押す男の声に黙ったままうなずく。
「僕もちょっと上がらせてください」
男の言う意味が分からず黙っているMの返事を待たずに、男は農道からワサビ田によじ上り、沢沿いの畦を足早に上って来た。仕方なくMもワサビ田の流水を長靴でかき分けて近寄っていく。男は一番上のワサビ田の端にたたずみ、取水口の先の水貯まりを見下ろしている。そこは流れてきた湧水を貯める、畳一畳ほどの広さの池になっている。深さは五十センチメートルほどしかないが、青く澄みきった水が底に敷き詰めた灰色の花崗岩の上を静かに流れ、狭まった取水口からワサビ田に流れ落ちている。

「ここで少女が死んでいたんですね。もうじき一年になる」
男の声が水貯まりに落ちた。悲しそうなバリトンだったが清冽な響きがした。Mは反射的に男の横顔を見た。口元を引き締めた厳しい表情をしている。確かに、一年前の夏の終わりに、この水貯まりの底に少女が沈んでいた。流れの下で揺らめいていた小さな死体が目に浮かぶようだ。第一発見者になったMには忘れようもない事実だった。

「あなたは誰なの」
問い返したMの声が微かに震えた。
「僕ですか。僕はピアニストと医大で同級生だった名淵と言います。もっとも、三浪して入った医大も二年で転んで、法科に転学してしまいました。ピアニストとは、たった二年の付き合いでしたが仲は良かったんです。僕を兄のように慕ってくれました」
目を瞬かせて聞き入るMにお構いなく、男は首から下げたライカで水貯まりや周囲の風景を何枚も撮った。挙げ句の果てにMの正面に立ち、じっと目をのぞき込んでから目を伏せた。

「あなたはMさんでしょう。獄中のピアニストから結婚を知らせる葉書をもらいましたよ。想像していたとおりの人で安心しました」
断定する口調で言葉を投げた。男は何度もMを驚かせる。名淵がもらったという葉書はMに届いた遺書と同様、自殺したピアニストの絶筆なのだ。ぜひ、内容が知りたいとMは念じた。
「その葉書には、何と書かれていたんですか」
「最高の人と結婚をした。その名はM。Mをよろしく頼みます」
そらんじたバリトンがMを悲しみの底に叩き伏せた。兄のように慕われたという名淵に出したピアニストの葉書は、余りにも悲惨だ。死を決したピアニストは、あろう事か残されるMを名淵に託したのだ。Mの喉元に嗚咽が込み上げてきた。かろうじて踏み留まり、じっと名淵の目を見つめた。名淵もMの視線を正面から受け止める。
「ピアニストの選んだ女性に間違いはないと思っていました。お会いしてみて僕の心証が証明できた。ピアニストは馬鹿な奴です。でも、結婚してくれて本当にありがとう。僕からもお礼を言います」
一息に言った名淵の目が潤んでいた。ピアニストの目に似て、まっすぐ前だけを見つめているような目だった。

「やみくもに礼を言われても困ります。家に寄って詳しい事情を聞かせてください」
掠れた声で訴えると、名淵は苦しそうに首を振った。
「今日はやめておきます。しばらくこの市にいますから、きっとまたお会いできますよ」
一方的に応えた名淵は、返事を待たずにワサビ田を下っていった。Mの足は凍り付いたように動かない。じっと後ろ姿を目で追ったが、すぐ瘤山の陰に入ってしまった。大きな驚きと小さな疑問がMに残った。疑問は、なぜ名淵が真っ先に少女の死体について尋ねたかということだった。Mは迂闊にも名淵の身分を聞き忘れたことに思い当たった。身分どころか名も住所も連絡先も聞いていない。年甲斐もなく動転してしまったことが恥ずかしくなる。きっと、警察か報道関係者に違いないと思ったが、名淵の持つ雰囲気は微妙に違っていた。きっとまた会えるという言葉を信じるしかなかった。ぼう然として視線を落とすと、水貯まりの石畳の底で黒い水藻が揺れていた。


Mが水底に沈む少女の死体を発見したのは、午前七時を過ぎたころだった。東の山の稜線から顔を出した朝日が、ちょうど水貯まりの辺りを照らし出していた。終日日陰になる取水口に日が射し込む、一年に数日とない稀有な季節だった。見慣れぬ風景に誘われたように、Mは真っ先に一番上にある田を目指して畦道を上った。もっとも流水を絶やすことができないワサビの栽培では、真っ先に取水口の様子を見るのが日課ではあった。だがその朝、きらきらと美しく朝日を反射する水面がMを誘っていたことも事実だった。

流れにつれて乱反射する光の粒に細めた目に、水底で揺らめく漆黒の水藻が飛び込んできた。目を凝らして水貯まりの底をのぞき込むと、水藻と見間違った長い髪が千々に乱れて光の中で揺らめいている。はっとした瞬間、眠っているような童女の表情が網膜に像を結んだ。まさかと思ってあごを引くと、広々とした視野に少女の全身が映った。水底の少女は全裸だった。成熟する前の青々とした果実を思わせる固く引き締まった裸身が、光の微粒子を散りばめている。まるで異国の辺境に住む少女が祝祭の日に装っているようだ。その豪奢な衣装に見とれるように、Mは言葉を失って立ちすくんだ。驚きが失せると、恐怖もなかった。ただ、ひたすら美しかった。見つめるうちに日が移ろい、輝ける黄金の服を脱がせた。豪奢な気分を悲惨な現実が打ち砕くのに長い時間は要らなかった。青々と透き通って揺れる水面の底に白々とした死体があった。ぎこちなく硬直した裸身が悲しい。裸の胸の上に乗せてある大きな丸石が、まるで墓石であるように陰惨に見えた。Mの目から涙がこぼれた。静寂が極まる。

突然、自転車のブレーキ音がかん高く響き渡り、犬の吠え声が被さる。一気に静けさを破った音の奔流の中に、低い女の声が落ちた。
「Mが殺ったのかい」
ぎょっとして声のした方を見ると、水貯まりの向こうから小柄な女が歩み寄って来た。ハンノキ林の濃緑を背にして、オリーブドラブの戦闘服が似合いすぎるくらいだ。目深に被った黒いキャップの下で白い歯が笑っている。チハルだった。一週間前にアメリカから帰り、ドーム館で暮らし始めたばかりのチハルが、こんな早朝に山中を歩いて現れるとは思わなかった。Mはとっさに答えが出ない。
「陰毛が生え始めたばかりの子供じゃないか。酷いことをする女だ」
再び低い声で言ったチハルが、足元の小石を蹴った。完全防水のジャングルブーツの爪先で蹴られた石が水貯まりに落ちた。幾重にもなって広がる波紋が少女の死体を無慈悲に震わす。
「冗談はよしてよ。私が殺すはずがない」
掠れた声で答えてから、腹の底から怒りが込み上げてきた。非常識な問いに非常識な答えだった。嫌な隣人ができたと思い、暗澹とした気分になる。水貯まりの底に沈む死体さえうっとうしい。何で私のワサビ田にいるのかと叱責したくなった。途端にやましさが込み上げ、頬が赤くなる。怒りの元凶のチハルを真っ直ぐ見据えて大声を出そうとした。途端に犬の吠え声が渦巻き、足元に白と黒の獣が飛び付いてきた。背筋を恐怖が走る。全身に鳥肌が立ち、顔がこわばる。

「ダメッ、クロマル。Mから離れるんだ。ダメッ」
進太の叱声が響くと、尻尾を振ってMにじゃれついていた中型犬が瞬時に飛び退く。クロマルはセッターとシェルテーの雑種の牡で五歳になる。山地に引き取られたばかりで、妙に沈み込んでいた進太が初めてMにねだって飼うことになった犬だった。地元の愛犬家が掛け合わせた子犬は、自慢したとおり性格がよく、巻き毛の長毛も美しい。進太に良くなつき、命令にも従う。最高の主従だと思い、Mも目を細めたくなるくらいだった。しかし、Mの犬嫌いは直らなかった。もう、生まれつき犬が怖いとしか言いようがない。クロマルに近寄られただけで、身体が固くなるのだ。そんなMをクロマルは見逃さない、親愛を込めてMを構うのがクロマルの娯楽になってしまったようだ。Mにだけ吼え掛かる。それも尻尾を振りながらなのだから、傍らで見ている者には滑稽だった。もちろんMはそれどころではない。

「ねえ、M、もうじき夏休みが終わるよ。早くバイクを買ってよ。約束だろう。バイクがないと、僕は虐めに耐えられない。クロマルがいてバイクがあれば勇気がわく、二学期から学校に行けるよ」
Mの背後で進太が甘える声で言った。変声期に特有な掠れた声だ。水貯まりに沈む少女の死体を目の前にしたMには不謹慎としか聞こえない。腹立たしさが募ってきた。黙ったまま進太の目を見る。
「やっぱりMは忘れてたんだ。でも、いいよ。チハルが一緒に市に行ってくれるってさ。昨日ドーム館へ遊びに行って約束したんだ。バイク屋で気に入った車があったら買っていいでしょう。チハルがお金を立て替えてくれるし、バイクを運べる車もあるんだ。ねえ、ベンツだよ。ベンツのジープなんだ。凄いだろう」
にらみ付けるMの気持ちにお構いなく、進太が陽気な声で言ってチハルを見た。チハルが大きくうなずき返す。
「アメリカから注文しておいた車が昨日納車になった。メルセデスのゲレンデヴァーゲンG320のAMG仕様だ。もちろんバイクも積める。初乗りのついでに私が進太を市に連れていく。百姓仕事しか興味のないMに文句はないだろう」
得意げに言ったチハルの声でMの怒りがはじけた。

「何を言っているの。あなたたちに哀れみはないの。死者を前にして話すことじゃないわ」
怒声が谷間に響き渡った。進太がぎょっとして水貯まりをのぞき込む。
「あっ、久美子だ。本当に死んでる。きっと首を絞められたんだよ。ほら、痣になってる」
見慣れたものを観察するように、水面をのぞき込んだ進太が感動した声で言った。反射的に死体を見下ろすと、確かに細い首の回りに青黒く鬱血した痕が目に入った。同時に脳裏を衝撃が満たした。目を閉じた穏やかな死に顔には、確かに見覚えがあった。


いつもは大きく見開かれ、好奇心に溢れていた目の持ち主は、クーちゃんと呼ばれる知恵遅れの少女だった。進太と一歳年が違う小学校六年生の久美子は、三年ほど前までは蔵屋敷にも良く遊びに来ていた。当時から早熟で、勉強の良くできた進太には友人は極めて少なかった。自分で創造した世界でクロマルと遊ぶ進太にとって、唯一の他者が知恵遅れの久美子だった。久美子にも友達がいなかったようだ。進太に命じられるままに、久美子はごっこ遊びの役割を懸命に演じていた。それは赤毛のアンであったり、家なき娘であったりした。Mの与えた世界名作全集を疑いもなく読み、進太がその世界に浸っていたころの話だ。だが、幼いほど素直で邪気のなかった空想の世界は二年と続かなかった。いつしか進太の創造した世界におぼろげな性が入り込んでしまったのだ。Mには突然のことのように思われてならない。それは進太が小学校四年生の晩秋のことだった。日溜まりになった蔵屋敷の裏庭へやってきた進太とクーちゃんが、いつものように遊び始めた。Mは丸木橋の前に止めたスバルサンバーの荷台から二人を見ていた。五メートルと離れていない。心地よい秋の日射しの中に現れた子供たちは郷愁を誘った。声を掛けそびれたMは、軽四輪トラックの荷台に隠れるようにして二人の遊びに見入った。学校遊びでもあるのだろうか、正座したクーちゃんの前に進太が立ち、右手に細い篠竹を持って蔵屋敷の白壁をしきりに指し示している。クーちゃんがうなずき、進太が首を振った。声までは聞こえないが、風に乗って二人の笑い声が流れてくる。微笑ましい光景にMの口元が緩んだ。その瞬間、進太が向きを変えてクーちゃんの横に立った。クーちゃんは正座したまま頭を下げ、尻を掲げてひざまずいた。素早く進太が赤いスカートを捲り上げ、両手で白いパンツを膝まで脱がした。明るすぎる日射しを浴びた小さな白い尻がMの目を打った。思わず息を飲み込んだ途端に、進太が篠竹の先を尻の割れ目の中心に差し込んだ。ヒッーというクーちゃんの悲鳴に進太の笑い声が被さった。Mの全身がこわばる。目と耳から入った刺激がMの下半身を貫く。口元の笑いが凍り付き、痛みの記憶が肛門を襲った。

「進太っ、クーちゃんに何をするの」
怒りに満ちた叫びが響き渡った。トラックの荷台で立ち上がったMを、二人の子供が驚愕した目で見た。進太の目に浮かんだ驚愕の色が憎しみに変わるのを認めたとき、二人の逃げ出す足音が聞こえた。青い半ズボンと白シャツを着た進太の後ろ姿が走り、赤いワンピースのクーちゃんが頼りない足取りで続く。目で追うMの胸に深い悔いが残った。とっさの叱声が幼い性を傷付けたことを実感した。だが取り返しはつかなかった。その日以来、クーちゃんは蔵屋敷に来ることはなかった。進太の創造するごっこ遊びもその日で終わった。


「へえ、進太はこの死体と知り合いなんだ。せっかく女の子が素っ裸で死んでくれたんだから、きれいな裸身を目に焼き付けておくんだね。いい供養になるよ」
チハルの非常識な言葉が耳を打った。
「うん、そうするよ」
声に出した進太が大きくうなずく。Mは開いた口が塞がらない。久美子の死体を前にしたチハルと進太には、いささかの感傷も感じられない。乾燥しきった冷気がMの全身を覆った。死者はただ、暮らしの中で戸惑っているように見える。後始末はMの仕事だった。その一点で死者はMにも見放された。

傷害致死罪で補導され、教護院に措置された前歴を持つ進太を、Mは表面に出したくなかった。進太がいない限り、チハルが出てくるのも辻褄が合わない。結局Mがただ一人の発見者として、事件を警察に通報することになってしまった。Mにも前科があるが、かえって警察の対応には慣れていると言えた。こうして事件の発端から些細な嘘が生まれ、Mと久美子の死体がワサビ田に残ることになった。

事件の後三か月ほどは、いつも静かな山地も捜査関係者や報道関係者の往来で騒がしかった。しかし、犯人が捕まるどころか見当さえもつかない有様だった。事件のあった日の前後は、市の高校のラグビー部が全国大会に向けた合宿を、蔵屋敷の上流にあるキャンプ場で行っていた。すでに卒業したOBや父母が終日行き来して人の出入りが激しかったことも捜査に災いした。殺害された少女が知恵遅れだったため、山地以外に住む変質者の犯行も疑われたのだ。一年が経とうとする今も、目立たないながら捜査は続けられているようだ。変質者の線を除いて、今もって疑われているのは第一発見者のMと、非行の前歴がある進太、そして久美子の父の三人だった。久美子は学校の西側に建つ、雇用促進住宅に住む父子家庭の一人娘だった。遺体の胸に乗せられた石が、肉親による供養を連想させるという記事が週刊誌に出ていた。一人娘を亡くした久美子の父も居たたまれなくなったのだろう。半年ほどして、身辺が落ち着くころに山地を出て、近くの市に転出してしまったらしかった。
すべてが無理に思い出してみなければならないほど、遠くなってしまった事件だった。忙しい日々の暮らしが殺人事件さえ風化させる。名淵に告げられなければMも、新聞の記事で読むまで、クーちゃんの一周忌のことを思い出さなかったはずだった。


Mがワサビ田の草取りを終えて蔵屋敷に帰ってきたときは、午前十一時を回っていた。名淵に会ったことが気に掛かり、最後の一枚の田に思いの外時間をとられてしまった。いつになく疲労も濃い。作業着のままソファーに腰を下ろした。まだ濡れているズボンの尻が不快感を募らせる。顔に浮いた汗を両手で拭い、ぼんやりと北向きの窓を見上げた。開け放たれた窓越しに、大きく枝葉を広げたケヤキが見える。濃緑の葉はそよとも動かず、部屋にこもった熱気が全身を包み込む。

「まずはシャワーね、クーラーも入れよう」
声に出してつぶやいてみたが腰が上がらない。乱雑な部屋の様子が妙に気に掛かる。蔵屋敷は、たかが二十畳ほどのワンルームだ。北隅にあるバスルームとトイレは歯科医がアトリエ用に設置したものだが、東向きに作ったキッチンはMと進太が住み始めてから設備した。独り暮らしの狭いキッチンに閉口していたMは、一度に大量の品が置けるように大型のキッチンセットを選んだ。そのセットの上も、周りの床もレジ袋に入れたままの食品や日用品で雑然としている。テキスタイルデザイナーをしている祐子が市街地のスーパーで買って、定期的に届けてくれる品だ。日常品の買い置きが嫌いなMにはありがたいことだが、なにぶん量が多い。かといって文句の言えないことがつらい。祐子は三人暮らしの最低量だと主張して憚らない。使い切れないMの方を、原始的だと言って責めるのだ。部屋の中央に置いた卓球台ほどもあるチークのテーブルの上も、読みかけの本や進太が食べ残した朝食の食器で溢れていた。目を細めて見ると、テーブルの表面に綿埃が浮いているのが見えた。この巨大なテーブルも、歯科医を含めた家族三人が揃って、それぞれの好みにあった作業ができるように設置したものだ。今でもアイデアは最高だと思うが、管理する者がいなかったのが致命的なミスだった。だが、Mが掃除をするのは毎週月曜日と決めてある。独りで暮らしだしてからずっと続けてきた三十年来の習慣だ。たまさか家族ができ、一緒に暮らすことになったからといって変えるつもりはない。もちろん当番制にするなら話は別だ。だが、個々の責任と人格が確立していない家族にあっては、共同生活は到底無理な話だった。もちろん祐子に掃除まで頼むわけにはいかなかった。

Mは溜息をついて立ち上がった。その場で無造作に作業服を脱ぎ捨てる。もう一度玄関前の控えの間に出て階段を上れば、蔵屋敷を改造して造った二階の寝室に行けた。北向きにM、東向きに進太のそれぞれ八畳の寝室がある。だが、その場で済ますことができることは済ますのがMのやり方だ。わざわざ二階の寝室までバスローブを取りに行く必要はないと思う。構わず作業ズボンを脱ぎ捨てて全裸になった。汗の匂いが鼻を突く。足元に散らばった衣服を拾おうと腰を屈めると、入口の横に置いた姿見に映った裸身が見えた。プロポーションがきれいな豊かな裸身だった。思わず横を向いて鏡に見入る。こんもり盛り上がった尻が少し下がったような気がする。乳房もやはり、と思ってみてから首を振った。とにかくもう五十二歳なのだ。自分で想像していたより美しい裸身ならそれでよい。小さくうなずいた拍子に股間を見ると、漆黒の陰毛の中で光るものがあった。右手で掻き分けると、白い毛が一本混じっている。股間を開き、尻を突き出して抜こうとしたが、視力が落ちてよく摘めない。焦ったあげく床に尻を落とし、胡座をかいて慎重に抜き取る。指先に残った銀色のちぢれ毛を見ると無性に笑いが込み上げてきた。滑稽な姿が情けなくなる。だが、これが当面のプライドを守ることなら、何回でも続けようと思い直す。決して老いを嫌悪するわけではない。自分のイメージした目標値を守りきることが、老いを受容することだ。Mはクーラーのスイッチを入れ、バスルームに向かった。ドアを閉めてから、脱ぎ捨てた作業服を持ってくるのを忘れたことを思い出した。蔵屋敷を乱雑にする元凶は自分かもしれないと、確かな疑いが浮かんだ。

熱めのシャワーを浴び終わり、冷水に代えた途端にインターホンのベルが鳴った。土曜日なので祐子が来たのかと思ったが、ベルは鳴り続けている。玄関の錠は開いているので祐子なら上がってくる。ベルの音もどことなく遠慮がちに聞こえる。だが、家人が出て来るまで続けるいう、断固とした意志が込められているかのように断続して鳴っている。Mは仕方なくシャワーを止め、洗濯場と兼用の洗面室に出てバスタオルを捜した。だが、どの引き戸を開けても見付からない。たった一枚残ったバスタオルが、水を張った全自動洗濯機の中に沈んでいた。洗濯をサボっているMへの当てつけに進太がやったに違いない。怒りが込み上げたが、子供に洗濯さえ命じてこなかった仕付けを恥じるしかない。自分が嫌いな仕事を進太にさせるわけにはいかないと、確信してきた愚かしさを呪うしかなかった。仕方なく洗面用のタオルで長い髪を拭きながらリビングに出て、インターホンの受話器を取った。

「お仕事中の所を申し訳ありません。小学校で進太ちゃんの担任をしていた臼田です。今年から中学校で担任をしている秋山先生と一緒に来ました。二学期からのことでMさんにご相談したいことがあるんですが」
抑制したソプラノが耳に飛び込んできた。臼田清美の姿が脳裏に浮かぶ。進太が小学校四年生の時に、新卒で担任になった教師だった。まだ少女のように新鮮で熱心だった姿が、Mに好感を残している。級友に同化できない進太の個性も認めてくれ、何かと庇ってくれた思い出もある。一方の秋山とは五月の二者面談で一度会ったきりだ。取り立てた印象のない二十代後半の青年だ。山地勤務になったことを悔いているような雰囲気が感じられて不快だった。しかし、会わないわけにはいかない。帰す理由もなかった。入ってくるように伝えようとして、すんでの所で口をつぐむ。まさか、素っ裸で会うわけにはいかない。足元に脱ぎ捨てた作業服を見たが、再び着る気にはなれない。惨めな気持ちで進太の担任に会いたくなかった。

「すみませんが、二分間ほど庭木をご覧になっていてください。すぐお迎えにいきます」
一方的に答えて受話器を置いた。一呼吸おいてから小さなタオルで身体を拭う。二階には控えの間を通らなければ行けない。玄関のガラス張りの自動ドアから、控えの間は丸見えだ。Mは慎重に間合いを取り、二人が庭へ歩き始めた頃合いを見計らってリビングを出た。素早く階段に向かう曲がり鼻で玄関を見る。大きなガラスドア越しに臼田の後ろ姿と、玄関をのぞき込んでいる秋山が見えた。秋山の目が大きく見開かれる。Mの頬が赤く染まる。急いで急な階段を駆け上った。左右に揺れる剥き出しの尻を見つめられているようで、全身が火照った。寝室に飛び込み、起き抜けのままになっているベッドからタオルケットを取って全身を拭く。髪を拭きながらクローゼットを開け、紺色のワンピースを出した。麻と絹を使って織り上げた、祐子手製の布地で造ったノースリーブだ。素早く頭からワンピースを被り、両手を背中に回してファスナーを上げた。まだ十分柔軟な身体がうれしくなる。ドレッサーの前に立ってゲランの口紅を引いた。青白かった顔が一瞬に引き立つ。もうこれで五分は過ぎてしまった。

所在なげに庭にいた二人の教師を蔵屋敷に招じ入れて、巨大なテーブルを挟んで向かい合って座った。臼田と秋山は並んで座っている、二人の間は狭すぎるほどだ。Mの口元に微笑みが浮かぶ。二人は学校を離れても寄り添っているに違いないと思った。臼田は二十八歳のはずだ。女が一番美しくきらめき、まぶしく見える年頃だった。大きな黒目がちの目がチャーミングだ。秋山は臼田よりいくらか年下のようで、どことなく頼りない感じだ。男と女の関係でも、臼田清美が主導権を握っているのだろう。二人ともぎこちなくもじもじしている。秋山が口を切れないでいるらしい。Mは黙って微笑んでいる。話を促そうとはしない。臼田の方がしびれを切らした。

「今朝は、進太ちゃんの不登校を何とかしようとご相談に上がったんです。私は小学校時代の担任として気掛かりなものですから、秋山先生に頼んで同行させていただきました。何と言っても山地の学校は、小学一年生からの九年間をずっと一つのクラスで過ごすのですから、みんな家族のようなものです。さあ、秋山先生、どうぞご説明ください」
臼田に促された秋山の頬が赤くなった。Mの裸身を見たことを意識しているのかも知れない。Mは秋山の顔を見つめた。
「困ったなあ、清美さんが説明してくれた方がいいのに、困ったなあ」
今度は、清美さんと呼ばれた臼田の頬が赤くなった。秋山は女の扱いがうまい。難しい年頃を相手にする中学教師には向いていそうになかった。
「だめですよ。先生が進太ちゃんの担任なんだから、よくご説明してください」
照れくさそうなソプラノで秋山を促した。背筋を正した秋山が息を吸ってから話し始める。

「進太君は勉強は問題ないんですよ。問題ないどころか、先月行った全市共通の実力テストでは一番です。もちろん山地だけじゃない。約二千人の中学生の中で全科目が一番です。いや、保健は除きます。性教育に関する問題が白紙回答だったんですよ。でも、そんなこと問題じゃない。凄い、本当に凄い。進太君は山地にはもったいないくらいですよ。まず、学力のことをよく知っていただきたいんです。Mさんは保護者としてどう思われますか」
興奮した口調で早口に言った秋山が、急にMに問い掛けた。問われたMが面食らう。臼田が進太ちゃんで、秋山が進太君なのも気に掛かった。等身大の進太を理解している者はいない。それはMも例外でない。性教育の問題に白紙で答えた進太の心情を考えると、また悔いが募る。幼い性を叱責した記憶が悲しい。

「勉強ができるのは私も知っています。でも、学校でみんなと協調できないことも知っている。進太は小学校二年生の時に山地に転校してきましたが、それからの六年間は登校しない日の方が多かったと思いますよ。いくら勉強ができても、保護者としては心配です。虐められていることも聞いています」
Mは秋山を見ずに答えた。臼田の顔が曇る。五年間で虐めを解決できなかった自分を悔いているようだ。膝を進めるようにして口を開く。
「確かに小学校のころから虐めはありました。でも、決して暴力行為ではありません。それは私が保証します。すべての虐めは進太ちゃんを仲間外れにするとか、無視するとか、情報を伝えないといった嫌がらせです。よく言われているハラスメントなんですが、大人でもこれが一番こたえます。進太ちゃんは勉強ができるから、みんなが一目置くんです。ですから虐めも陰湿になる。それが七年間続いているんです。進太ちゃんじゃなければ耐えられませんよ。ずっと孤立して学校生活を送るなんて残酷過ぎます。それが、進太ちゃん本人はこたえた様子がない。結構明るく陽気だし、私の前では甘えん坊のやんちゃ小僧なんですから分からないものです。確か、ご家庭でも同じでしたね」

臼田の話は、死んだ子の歳を数えるようなものだとMは思う。確かに進太は家ではよく喋り、はしゃぎ回り、Mや歯科医に甘える。クロマルを飼い始めたときから進太は心を開いたように見えた。それから少しも変わりはしない。しかし、小学校四年生のときの性の芽生えを契機に、見えないところで一切が変わった。幼い性を叱責したMに寄せた憎しみの色はその時限りのものだったが、Mと進太の間に見えない壁ができた。決して壊すことも、踏み越えることもできぬ幻の壁だ。きっと官能を共有することでしか交流を再開できない予感がある。だがMは進太の官能の手段にも目的にもなるわけにいかない。たとえ進太が求めたとしても、官能の極まりを与えることはできない。求められれば応じるのがMの生き方だが、Mは神ではない。自らの人格と責任を放棄した官能の悲劇は十分すぎるほど見てきた。後は進太が巣立つしかないのだ。

「確か四年生頃までは、仲のよい女の子がいましたよね。一年下で、よく進太ちゃんになついていた。不思議ですね、まるで振り捨てるように付き合わなくなりました。あれ以降進太ちゃんは孤高の人になってしまった」
臼田が嘆くように言葉を落としてから、慌てて口をつぐんだ。秋山が無神経に反応する。
「ああ、去年殺された六年生の少女ね。市でも高校のラグビー部が疑われて大変な騒ぎでしたよ。進太君も幼いころに補導歴があったから大変だったでしょう」
言葉の後に冷たい沈黙が落ちた。動揺した秋山が口を開き掛けて視線を泳がす。Mの脳裏に確信が浮かんだ。じっと秋山の目を見つめて口を開く。

「学校では、進太を犯人扱いして虐めているんでしょう。違いますか」
思いの外鋭い口調になった。秋山の両肩がすくみ、全身が緊張する。逃れられないと思ったのか、小さくうなずいてから首を左右に振った。
「陰に隠れて噂する者は確かにいます。でも、あくまでも進太君がいないときですよ」
「進太が気付かないわけがないでしょう。まるで登校するなと言っているようなものです。保護者としても行かせたくない」
断言すると、秋山の顔が蒼白になった。事件にまつわる卑猥な噂を、教え子の進太に絡めて、男同士で楽しむ姿がMには見えるようだ。性が介入したとき、聖人君子でいられる男はいない。

「Mさん、私たちは進太ちゃんに、どうしても前に出てきてもらいたいんです」
臼田がたまらず口を挟んだ。Mは視線を代え、臼田を見据えて先を促す。
「勉強ができすぎる子が妬まれるのは事実です。エスカレートすれば虐められます。でも、勉強ができるという事実はもっと重んじられるべきだと思います。本人も自信を持つべきでしょう。けれど進太ちゃんは、勉強ができることを恥じているように見えます。あれは照れてるんじゃないわ。できれば悪い成績を取りたいのだけれど、家族や自分自身のプライドに負けてそれもできない。だったら、勉強ができることが級友のためになるということを理解すればいい。秋山先生は進太ちゃんに補習の講師をお願いしたいそうです。始めは勉強の遅れている女の子を三人ほど指導してもらい、うまくいったら男の子も参加させる。進太ちゃんも自信を持ってクラスに溶け込めると思いますわ」

熱弁だったが、あまりの調子良さがMの気に障った。勉強の遅れた子供を引き上げるのは教師の仕事のはずだ。それを進太にやらせることでクラスに溶け込ませるという。一石二鳥を絵に描いたような姑息な手だてとしか思えない。しかし、Mに代案はなかった。思いに反して気弱な声が口を突く。
「どちらかというと、進太は女の子に好かれるんじゃないですか」
「それは好かれますよ。勉強ができて容姿がいい。性格も穏和だから、女の子はみんな憎からず思っている。男子生徒が虐めるから関わりを持ちたくないだけです。だからきっとうまくいきますよ」
即答した秋山が胸を張った。だが、Mの推論は秋山と逆だ。この上進太が女にもて始めれば、陰湿な虐めは暴力にエスカレートするだろう。Mは暗澹とした気持ちで目をつむった。

「あっ、進太ちゃんだわ」
うつむいていた臼田が陽気な声で言って、顔を上げた。閉め切った窓から小さくバイクのエンジン音が聞こえ、瞬く間に大きく響き渡る。進太が帰ってきたに違いなかった。人に目立たない蔵屋敷の周辺で、進太がナンバーの無い50ccのバイクを乗り回していることは誰もが知っていた。だが、みんな知らない振りをしている。目をしかめるのは歯科医だけだった。それも自損事故を心配しているに過ぎない。バイクを買い与えたMにさえ異常に思われる。目の前にいる二人の教師もバイクについては何も言わない。裏庭を走り回っているに過ぎないと判断しているようだ。自動車の車庫証明も要らない山地ならではの習俗だった。

「M、ただいま。でも、チハルと市に出掛けるから昼食は要らないよ」
叫びながら部屋に駆け込んできた進太が二人の教師を認めた。照れくさそうに歩みを変え、ゆっくりMの横に立った。
「先生、いらっしゃい。どうぞごゆっくり、僕は出掛けます」
先ほどと打って代わった、大人びた声で挨拶した。秋山の顔に苦笑が浮かび、馴れ馴れしい口調で呼び掛ける。
「進太、明後日の始業式には出るんだろう」
「はい」
「それから、先生からお願いがあるんだ。Mさんには話したんだけど、二学期から広子と明美、玲子の三人の勉強を見てやって欲しいんだ。三人とも了承している。なあ、頼むよ」
「お断りします。僕は忙しいし、毎日登校しないかも知れない。急ぐので失礼します」
にべもなく答えた進太は急ぎ足で玄関に向かった。
「進太ちゃん」
臼田が大声で呼び掛けて席を立った。足をもつれさせて玄関まで後を追ったが、いち早くエンジン音が響いた。いつも態度を鮮明にするよう仕付けてきたMに言えることはなかった。進太の態度は明確で水際立っていた。
「誠意を持って頼めばいつか分かってくれます。私は諦めません」
戻ってきた臼田が誰にともなく言った。秋山がまぶしそうな目で臼田を見つめる。

「Mさん、清美さんがサポートしてくれるので僕も心強いですよ。お互いに頑張りましょう」
立ち上がった秋山が陳腐なことを言った。惚れた男の強みだか弱みだか知らないが、大概にしてくれとMは答えたかった。しかし、黙ったまま立ち上がり、二人の教師を玄関まで送った。全身に疲れが込み上げてきた。
進太のいない昼食は歯科医と向かい合って二人で食べた。カップラーメンが味気なく喉につかえる。もう三日間続いているメニューだった。歯科医は別に文句を言わない。進太は夏休み中、チハルの所に入り浸っている。クレー射撃とゲレンデヴァーゲンの運転に夢中なのだ。マニッシュで暴力志向の強いチハルは、ギャングエージの男の子にぴったりなのだろうと思う。猟銃の扱い方や四輪駆動車の運転、ナイフの使い方など、スリリングな遊びを金に飽かせて教えている様を想像すると、嫉妬心がうずく。ごく普通の家庭を演出しようとした七年間を思い浮かべると涙が出そうだ。山地で働く姿を進太に見せようと、ワサビの栽培まで始めたのだ。決して好きで始めたわけではない。

「ずいぶん疲れているように見えるよ。M、今夜は独りで市に出掛けるといい。たまには息抜きも必要だよ。夕飯は私と進太で何とかする。ぜひ行って来なさい」
食べるでもなく、ぼんやりとカップラーメンを見つめていたMに歯科医が声を掛けた。歯科医の観察はいつも鋭い。確かに神経がすり減ってしまったような気がする。ワサビ田の世話も辟易していた。勧められるまま、今夜は市へ出掛けようと思った。とたんにチーフがつくってくれるマティニの味が舌に甦る。カップラーメンは食べ切れそうになかった。


酔いの回り始めた視界で、銀色のシェーカーを振るチーフが揺れている。相変わらず髪をショートにしたスリムな体型に、白いシャツとパンツがよく似合う。
「チーフはいつまでも変わらないわね。スリムでしなやかな身体がまぶしく見える。うらやましいわ」
他に客のいないことを承知で、Mは酔った口調を装ってチーフに甘えた。チーフはカウンターの前のスツールに座ったMにグラスを出し、黙ったままドライ・マティニを注いだ。紺のワンピースで装ったMの目をのぞき込んでから、いたずらっぽく笑う。
「Mらしくないわね。たかが二杯のマティニで酔った振りはやめてよ。私まで悲しくなる。そんなに農作業が嫌なのなら、さっさとやめて市で勤めたらいいわ。みんなが喜ぶ、もちろん進太も歯医者さんもそうよ。ついでに言っておくと、私ももう四十五歳よ。お腹のたるみ具合は誰よりも自分がよく知っているわ。久しぶりにベッドを共にしてくれるなら、恥ずかしいけど見せて上げるわ。どう、素っ裸になって私を抱いてくれる」
チーフの挑発がMの耳に心地よい。だらしなく笑みがこぼれてしまう。

「チーフと寝たら、天田さんに殺されるわ」
「何言ってるのよ。Mとの愛人関係は亭主公認よ。遠慮は要らないわ。二階の会員制ルームも今日は空いている。ベッドメイクをしましょうか」
冗談とは思えない熱い視線でチーフが見つめた。このチーフの情熱がMは好きだ。二十年前と少しも変わらない。エネルギッシュな言動が華やかに店を支えている。市役所勤めの天田の固定給があったから、サロン・ペインを続けて来れたわけではないのだ。Mはチーフを抱き締めたくなったが、かろうじて踏みとどまる。視線を外してマティニを飲んだ。
「おいしいわ。できるなら男がいいわね」
Mのつぶやきを聞いたチーフが大声で笑う。
「今時いい男なんて一人もいないわよ。だからみんな苦労しているの。チハルだって男にしくじってアメリカから逃げ帰ってきたという噂だし、Mの好きな祐子だって、男不信症で悩んでいるんでしょう」
チーフの言葉はいつも笑える。中でも男不信症は傑作だった。あまりに当たり過ぎていて笑うことさえはばかられる。

「じゃあ、私は何の病かしら」
慌てて話題を自分に戻すと、チーフはにべもなく言い切る。
「Mは欲求不満の田舎病よ。まったく、軽四輪のトラックでサロン・ペインに乗り付けるMなんて想像もできなかったわ。悪いことは言わないから、もう一度オープンのスポーツカーにしなさいよ。お金に困っているわけじゃないんだから、分相応の暮らしをしないと進太がぐれてしまうよ」
「ぐれるくらいならいいんだけれど、不良になりきれない優等生はピアニスト一人でたくさんなのよ」
「あれ、今夜はますますMらしくないわね。長い付き合いだけど、Mの愚痴は初めて聞いた」
チーフが茶化すように応じた。本当のことだ。ピアニストの名前まで出すなんて、我ながらあきれ返ってしまう。急に悲しみが込み上げ、目元が潤んだ。

「私はチーフが思っているほど強くないわ。心も身体も鋼鉄でできているわけじゃない」
「そうね、自分に正直なのが何よりMである証拠よ」
チーフがしんみりした声で答えた。Mの悲しみが募る。
「ピアノが聴きたいわね。できればショパン、チーフが弾けるといいのにね」
目の前の大鏡に映った、ピアニスト愛用のピアノを見つめてMがつぶやいた。
「いいわ、聴かせて上げる。とっておきのショパンよ」
鼻を啜り上げながらチーフが言って、オーディオ装置のスイッチを入れた。途端に背後のスピーカーが大きな音で鳴り出す。スケルツォ第二番変ロ短調が耳に飛び込んできた。一瞬凍り付きそうになった気持ちがすぐに和む。粒立ちのよいピアノの音色が優しさを運んできた。荒々しくはないが、決して媚びることのない、あるがままの美しい調べがMの胸を包み込む。今、ピアノに癒されているとMは思った。ピアニスト以外が弾くショパンでこんな思いをしたのは初めてだった。

「誰のピアノ」
最後の余韻に酔うような声でMが尋ねた。
「大城杏花、若い人よ。市の主催する新人コンサートで天田が聴いて夢中になってしまったの。職権を利用して頼み込み、自慢の機材でデジタル録音したのよ。でも、いつかMに聴かそうと言って、スケルツォを選ぶなんてかわいいでしょう。私も杏花のピアノが好き。音が胸に染み込むものね。Mが気に入ってくれてよかったわ」
チーフの言葉は遠くから聞こえるようだ。Mは万感の思いを込めて目を閉じた。一心にピアニストの顔を思い描く。閉じたまぶたから涙がこぼれた。

「ショパンもお好きなんですね」
低いバリトンが響き渡り、Mはスツールから落ちそうになった。慌てて正面の鏡を見る。紺のブレザーとジーンズの、今朝会ったときと同じ格好をした名淵が笑っている。相変わらず肩からカメラを下げていた。
「また驚かせてしまったようですね。エントランスの電話を使いながら聴いていたんです。失礼だけど泣いていましたね。ひょっとして、ピアニストを思い出してくれたんですか」
名淵の二の矢がMの涙腺を切って落とした。止めどなく頬を涙が伝った。熱い涙だった。
「せっかくだから隣りに座らせてください。チーフ、シェリーを一本開けておいてくれ」
一方的に言った名淵は、Mの横のカウンターにライカM6を置いてから手洗いに向かった。チーフは返事をすることも忘れ、名淵の後ろ姿とMを交互に見つめた。ドアの閉まる音を確認してから、啜り泣くMの肩にチーフが両手を当てた。

「M、さっきの言葉は撤回するわ。いい男は一人だけ残っていたわね。でも、Mが検事さんと知り合いとは思わなかった。職業は怖いけど、いい人よね。この二週間ほど毎晩来てくれるの。とても特捜検事には見えないわ。私も弁護士のお客さんに聞いたときはびっくりしたのよ。どうしてMは知り合ったの」
検事という言葉だけがMの耳に残った。特捜検事が殺人現場を聞きただして写真まで撮っていったのだ。誰かを疑っていることだけは間違いない。思わず鋭い目でチーフを睨んだ。

「ごめんなさい。Mが検事さんと付き合いが深かったことをつい忘れていた。それも、農作業ばかりしているMのせいよ。私に恥をかかせないでよ」
頬を膨らませて言ったチーフは、シェリーを取りにワインクーラーの方に向かった。二度も前科があるMの過去を、今更ながら思い出したような態度だった。Mの背筋に冷たさが走る。そのすべてを名淵が知らないはずがないと思った。素っ裸の姿を権力に観察されたような恥辱が襲い掛かった。確かにMは刑務所にいた三年間、権力に命じられるまま裸身を晒し続けたのだ。忘れていた屈辱が全身を覆い、素肌がかっと熱くなった。カクテルグラスを手に取り、残ったマティニを飲み干す。ジンのきつい香りが口に残った。じっと正面の鏡を見つめると名淵の姿が映り、確かな足取りで近寄ってくる。しなやかな仕草で隣のスツールに座った。

「今日中に再会できるとは思わなかった。でも、予感はしたんです。Mさんはこの店の家主でしたよね」
予想に反し、下世話な話題が名淵の口を突いた。セクシーなバリトンが台無しだ。Mの私生活のすべてを知っているように、投げ出された情報も不快だった。
「何でもご存じのようね。さすがに検事さんだわ。でも、真実ではない。この店の権利は歯科医のもので、生前のピアニストに贈与されなかった。従って私が相続するわけがないのよ。予断に基づいた類推はしないでください」
鏡に映る名淵の顔をにらみ付けるようにしてMが答えた。名淵の口元が引き締まり、沈黙が落ちた。二人の前にチーフがグラスを並べ、黒い瓶からシェリーを注いだ。ブドウの芳醇な香りがMの鼻孔を打つ。荒み掛けた気持ちが和む。どことなく落ち着かず、地に足の着いていない今の自分を、酒に見透かされたような気がした。
「今朝と同様、また怒らせてしまったようですね。まあ、シェリーを飲んでください。それとも、先に手洗いを使いますか」

何気ない顔で言った名淵の言葉で、Mの頬が真っ赤に染まる。剥き出しの尻を洗っていた冷たい流水の感触が甦った。何か言ってやらねばと、どうしようもない焦りが込み上げてくる。
「確かに僕は検事だが、Mさんに隠していたわけじゃない。チーフが先に話したかも知れないが、僕は山地の事件の捜査で二週間前から市に来てるんです。今朝ワサビ田にお邪魔したのも仕事です。でも、ピアニストのことは嘘じゃない。公私を混同させて話した僕が軽率でした。その点は謝ります」
また名淵が嘘を言ったと、全身を包み込むじれったさの中でMは思った。山地の事件の捜査で市に来たなどと、名淵がチーフに漏らすはずがなかった。その一言は作為をもってMに放たれたのだ。今すぐ席を立つべきだと、七年の生活歴を持つ即席農婦が命じる。しかし、もう一人の女が焦燥に駆られながら、次に発せられるバリトンを待っていた。Mはシェリーグラスに手を伸ばし、金色に輝く酒を口に含んだ。スペインのアンダルシア地方で醸造したブドウの酒は太陽と情熱の味がした。

「チーフ、Mさんと仕事の話がしたいんだ。今夜の客は僕たちだけだから、少しの間席を外して欲しい」
名淵がさり気なくチーフに呼び掛けた。カウンターの中のチーフが無表情な顔でMを見つめる。Mは何の反応も見せない。チーフの解釈に返事を委ねたような突き放した態度だ。即座にチーフがうなずく。
「今夜のMは、やはりMらしくないわ。私が判断する筋じゃないけど席を外すわ。それから検事さん、店でMを逮捕するのだけは勘弁してね。じゃあ、ごゆっくり」
少し怒った声でチーフが言ってカウンターを出た。フロアの隅のボックス席に向かう。投げ捨てた下手なジョークだけがシェリーに混ざった。

「特捜検事と言っても、僕のいる地検では一人きりです。時流に乗って聞こえはいいけど、窓際族のようなものです」
声を落として話し始めた名淵が、Mの横顔を見て反応をうかがう。Mは黙ったままシェリーを口に運んだ。再び前を向き、独り言のように話を続ける。
「犯罪に遭っても警察官や検事が事件にしてくれない時、市民が異議を訴えることができる機関があるんですよ。検察審議会というんですが、その審議会に山地で殺害された少女の父が訴えたんです。犯人が分かっているのに警察が検挙しないというんです。犯人も名指ししています。進太君だと言っている」

「嘘です。嘘に決まってる」
Mが大声で叫んだ。手に持ったグラスからシェリーがこぼれた。声にびっくりしたチーフがボックス席から立ち上がり掛ける。
「興奮しないでください。まず事実を知って欲しいんです。反応はその後でも遅くない」
名淵が右手を伸ばし、なだめるようにMの肩を抱いた。固く構えた剥き出しの肩に温かな手の感触が沁み入る。小さくうなずくと名淵が話を続けた。

「嘘かも知れないし、真実かも知れない。残酷なようだが、それを調べるのが僕の仕事です。役所ではよくあることなんだが、審議会の結論が出る前に秘密で事前調査をすることになった。その役が窓際族の僕に回ってきたというわけです。だから、役所の記録に残されたことはすべて調べた。進太君の補導の記録も、Mさんの過去の記録も読みました。でも興味本位じゃない。真実を確かめるのが僕の仕事です。そのための資料に過ぎません。そして今朝、遺体が発見された現場に行ってMさんと会った。説明が足りなかったことはお詫びします。でも、資料を読み、現場を見たことで疑問も持った。Mさんの証言に関わることです」

名淵の声が止まった。Mの全身が緊張する。肩に回された名淵の手を振り払いたかったが気力が失せた。そっと生唾を呑み込む。すぐさま名淵が切り込んできた。
「Mさん、一人で遺体を発見したというのは嘘ですね。進太君もいたのでしょう。鑑識が撮った写真を見ると遺体は目をつむっている。とくに水底に沈んでいる写真では、かろうじて少女と分かる程度です。あの年頃の子の成長は早い。死ぬ二年前に会ったきりのMさんが、一目で久美子と断定したのが僕は不思議だった。今朝初めて現場を見て、ずいぶん草深い寂しい所だと分かった。水の流れも速く水面が揺れていた。水底に沈んでいる顔を見ただけで、Mさんが遺体を特定できたはずがない。進太君もいたんですね」

Mの全身から力が抜けていった。このままスツールから滑り落ちると思ったとき、肩に回された腕が脇に入り身体を支えた。姑息な嘘がばれないはずはないのだ。あの朝、警察に通報した電話で、水貯まりで久美子が水死していると告げたのはMだった。動転していた頭が、進太に告げられた名前を秘匿することを忘れさせたのだ。しかし、Mはそのことを悔やむ気になれない。進太とチハルが一緒にいた事実を隠した浅知恵を恥じた。恥じた瞬間、晴れ晴れとした気持ちになった。萎えていた気力が甦ってくる。Mはこれまで、すべての真実を直視したところで生きてきたことに思い当たった。平穏な暮らしに慣れ、つい魔が差してしまったとしか思えなかった。今からでも取り返しがつくだろうかと、不安が首をもたげてきたが、背筋を伸ばして踏みとどまる。

「検事さんのおっしゃったとおりです。あの朝、確かに進太もいました。補導歴を心配して事実を伏せたのは私です。私を逮捕してください。偽証罪で刑務所に行くのでしょうね。覚悟はしています」
「ハッハハハ」
名淵が大声で笑った。Mの脇に回した手に力がこもる。
「裁判になっていない事件で偽証罪はありませんよ。でも、これからは真実を話してください。今回の嘘は、まるでMさん自身が進太君を疑っているようじゃないですか。もっとプライドを持ってください。チーフじゃないですが、Mさんらしくないですよ。少なくともピアニストが選んだ女性らしくない」
名淵の言葉がMを突き刺す。一言もなかった。頬が真っ赤になり全身が熱く火照った。曲がりくねっていた道が名淵の出現でまた、真っ直ぐに延びていく予感がした。さわやかな風が身体の中を吹く。バリトンが心地よく耳に残った。カウンターに置いたシェリーグラスに涙の滴が落ちた。

「とにかく、真実の究明は僕がします。予断は一切持ちません。Mさんも、あるがままの事実を認めてください」
名淵の言葉にMが大きくうなずく。ほっとした表情で名淵がMに回した手を戻した。
「これで仕事の話は終わりです。後は楽しく酒を飲みましょう。Mさん、ご一緒させてくれますね」
「ええ、馬鹿な女を続けずに済んだ記念に飲みましょう。検事さんには感謝します。危うく自分を見失うところでした」
二人は改めてグラスを合わせた。一変した雰囲気を悟ったチーフがカウンターに帰ってくる。相変わらず新しい客は来ない。静かな酒宴が続いた。話題は盛り上がらないが、決して気詰まりではない。通い合う心を実感できる酔いが回ってきた。Mは帰りたくなかった。

「Mさん、そろそろお開きにしましょうか」
ゆったりとした声で名淵が言った。
「いえ、もう少しだけ。検事さんはそんなに飲んでいないわ」
答えた声が甘えていた。はっとして鏡に映る自分を見た。いつになく輝いた顔が映っている。脇に垂らした右手の指先に名淵の手が触れた。触れた指先を力を込めて握り締めた。すぐ握り返してきた名淵の気持ちがうれしい。チーフの話す取り留めもない話題にうなずきながら、二人は指を絡め合った。指先に全神経を集中し、互いの思いを探り合う愛撫が続く。Mは下半身の火照りを意識した。名淵のペニスが勃起してくれることをMは願った。二人の手はチーフから見えない。名淵がMの首筋にもたれるようにして顔を寄せた。低い声でささやきかける。

「Mさんは、いい匂いがする」
「えっ、何も付けてないのよ。汗のにおいかしら、ごめんなさいね」
さり気なく答えたが、名淵は身を引かない。さらに言葉を続ける。
「いや、汗のにおいでも体臭でも構わない。Mさんの匂いが好きだ」
やはり、最後は言葉が必要だった。にこやかに聞いていたチーフの表情がこわばる。不審の色が浮かんだ。もう時間は残されていない。名淵はすでに散会を宣言してしまっている。せっかくのチャンスを逃がして悔やむのは嫌だった。Mは真っ直ぐチーフの目を見つめた。

「チーフ、二階のルームが空いていると言っていたわね。用意してくれないかしら、席を代えたいの」
依頼を聞いたチーフの目がまん丸になる。続いてあきれ返った顔でうなずいた。サロン・ペインの二階は、役者を志した進太の母の睦月がSM自縛ショーを演じるショー・パブとして使われてきたが、睦月が進太を捨てて演出家の沢田と去ってからは閉鎖されていた。プライベートな会合や宴席に利用できる会員制のルームに改造されたのは三年前だ。もっとも、ゆったりしたソファーがダブルベッドになるといった、いかがわしい作りだったが、チーフが使い方まで関与はしないと言うだけあって、人目を避けたいカップルによく利用されていた。

チーフはカウンターを出て二階に向かう。Mも立ち上がって後を追った。個室への誘いを聞いたはずの名淵に、決断の時間を与えたのだ。Mとの一夜を拒否するなら、名淵は帰るはずだ。立ち止まったチーフの横に並んでカウンターを振り返った。スツールに座った広い背中が見えた。Mの胸中を安堵と不安が交差した。素早くチーフの耳に口を寄せる。
「縄を用意してね」
一言ささやいてカウンターに向かうMの背に、チーフの明るい声が飛んだ。
「やっとMらしくなったわ。憎らしいけど今夜は譲る」
Mの口元に誇らしい笑いが浮かんだ。


ダブルのソファーベッドが断続的にきしんで、音を立てる。ほんのりと明るい間接照明が、絡み合う裸身を照らしている。名淵の逞しい膝がMの股間を割った。太股に押し当てられたペニスの感触が、陰部に熱い情感を沸き立たせる。右手を伸ばして屹立したペニスを握ると、身体の深奥から喜びが溢れた。膝でなぶられた性器が戦く。名淵の愛撫は濃厚だった。尻の割れ目に回った手が怪しくうごめき、乳房をもみ上げる指先から優しさが伝わる。Mの口から低くい呻きが漏れた。すかさず名淵が口を重ねる。開いた唇の間から舌先が侵入し、Mの舌を求める。絡み合う舌が官能を運び、陰部がしとどに濡れた。ひとしきり口を吸い合った後、名淵が器用に体位を代えた。Mの股間を押し開いて顔を突っ込み、狂おしく陰部を吸う。Mも負けずに反り返ったペニスを口に含んだ。お互いの尻に回した両手が執拗に肛門を愛おしむ。真っ白になった頭の中で、押しては返す波のように官能が高まっていく。やがて潮が満ち、巨大な波頭が打ち寄せてきたとき、名淵が身体を離した。Mは大きく股間を開き、身悶えして名淵を待つ。官能に研ぎ澄まされた粘膜に、熱くいきり立った亀頭が触れた瞬間、全身が電撃を浴びたように震えた。暗転した視界の底で真っ赤な炎が揺れた。身体の奥に呑み込んだ肉を、Mの全身が包み込む。官能の高まりに耐えきれず、二人の口から同時に喘ぎが漏れた。名淵がゆっくり腰を使う。Mの尻も淫らに震えた。

「Mさんっ、いく」
獣の声が響いた途端に、呑み込んだ肉がひときわ大きく膨らむ感触がした。だが、巨大な波頭はついに崩れなかった。春の波間に漂うような気怠さが、Mの全身を包んだ。官能に言葉は要らない。ぐっしょり濡れた股間で柔らかくなっていくペニスを意識しながら、Mは思った。小さく身じろぎした名淵がそっと身体を離す。軽くなった胸に外気が触れる。異様な寒さを感じてMの裸身が身震いした。

「Mさん、とてもよかったよ」
首筋に埋めた名淵の頭の後ろから声が聞こえた。どことなく自信のない声だ。Mは名淵の髪を撫でながら掠れた声でつぶやく。
「そう、ありがとう」
声に応えて名淵の左手が伸びる。そっとMの腰を抱いた。遠慮がちに手を広げて股間をまさぐる。春の波間を漂う官能が再びざわめきだしそうになった。

二人は一時間ほど抱き合ってベッドに寝そべっていた。まだ寝ていないことを示すように、名淵がMの素肌を撫でる。Mが寝入っていないことを、名淵も知っている。二人とも黙ったままだが、情事の後の静かな部屋に緊張が高まる。
「眠れないのかい」
我慢できずに名淵が聞いた。Mは答えずに身を起こし、部屋の隅に押し付けたテーブルを見た。小さなグッチのボストンバッグが目に入った。チーフが用意してくれたものだ。Mは黙ってベッドから起き上がり、テーブルへ近寄っていった。名淵の目の先で素っ裸の尻が左右に揺れる。待ち望んでいた何事かが始まるような、ときめいた予感がした。

Mはテーブルの前にひざまずいて、ボストンバッグを開けた。黒い麻縄の束と焦げ茶色の革鞭が見えた。懐かしい品々はMに、官能は待つものでなく追い求めるものだと告げている。Mはバッグを手に提げてベッドに戻った。上半身を起こして見ている名淵の上に、バッグの中の品を一気にばらまく。
「検事さん、お願いがあるの。この縄で私を後ろ手に縛り上げてください」
さりげなく言おうとしたが、Mの声は固くなっていた。名淵は面食らった顔でMを見上げる。苦悩の色が表情を掠めた。
「まさか、ピアニストへの贖罪ではないでしょうね。僕にも責任があるんだから、そんなことは耐えられない」
「とんでもない、大人が選んだセックスを悔やむわけがない。縛られるのが好きなだけよ。もっと官能を楽しみたいの」
苦しそうに発せられた名淵の言葉を打ち消すように、Mが断言した。言い終わると同時に名淵に背を向け、床の上に正座した。背中に両手を回して首筋の下で高々と組む。取り残された名淵は、仕方なく黒い麻縄を持って立ち上がった。ザラザラとした縄の感触が手に痛い。この縄で素肌を縛るのかと思うと、Mの苦しさを思いやって心が痛んだ。だが、目の前で正座したMは、真っ直ぐに背筋を伸ばし、凛とした姿勢で厳しい縄目を待っている。異様な美しさが名淵の目を打った。静謐な裸身に誘われるように、名淵はMの背後に屈み込んだ。細い両手首をつかんで黒縄で拘束する。後ろ手に縛り上げた縄尻を首筋に引き絞ると、Mの口から切ない喘ぎがが漏れた。ペニスが再び固くなり始める。名淵はMに指示されるとおりに縄を使った。後ろ手を緊縛した二本の縄尻を胸に回し、豊かな乳房の上下を厳重に縛り上げる。別の黒縄を取り上げ、後ろ手から首の両側を這わせて胸元に下ろした。その縄尻で乳房の上下を縛った二条の縄を一つに束ねる。ぎゅっと黒縄を絞り上げると、豊かな乳房が見る間に盛り上がる。縄目の間から突き出た乳房は、まるで洋梨のように無惨に変形している。Mの口からまた呻きが漏れた。眉をきつく寄せ、唇を噛みしめて痛みを耐える。凄惨な美しさが名淵の全身を打ちのめした。もう行くところまで行くしかない。

「さあ検事さん、肌に血が滲むまで鞭打ってください。遠慮せずに、私の全身が熱く燃え上がるまで打ちのめしてください」
透き通った声でMが願った。返事も待たずに後ろを向きでひざまずき、床に横顔を着けて裸身を支える。剥き出しの尻を高々と掲げた。尻の割れ目の中心に肛門が露出している。黒ずんだ括約筋が淫らに収縮して鞭を求める。名淵が革鞭を取り上げ、高々と振りかぶった。尻を目掛けて振り下ろす。素肌を打つ鋭い鞭音が部屋に響き、Mの口から悲鳴が漏れた。今度は名淵の頭が空白になる。力を込めて縦横に鞭を振るった。白い尻に幾筋も真っ赤なミミズ腫れが走った。過酷な鞭打ちから逃げようとして、尻が前後左右に振られる。見えない鞭を避ける尻が滑稽なほど哀れだ。逃げ回る尻を執拗に追い、狙い打つ喜びが名淵の全身を満たし始める。啜り泣くMの悲鳴が心地よい。黒々とした修羅の世界が責める裸身と、責められる裸身を覆いつくした。Mの視界はもはや真っ暗だった。打たれた瞬間だけ真っ赤な閃光が走った。股間から溢れた愛液が腿を伝う。全身が、粘り着く汗にまみれた。鞭打たれながら悶え、必死に上体を起こす。裸身を緊縛した縄がきしってギシギシと鳴る。飛び上がるほどの痛みをこらえて床に尻を着き、大きく股間を開いて胡座を組んだ。交差した両足首に名淵が麻縄を通し、素早く緊縛する。胡座縛りにしたMの後ろ手を取って前方に突き倒す。Mは両膝と横顔で苦しい姿勢を支えるしかない。座禅転がしにされた無防備な股間が名淵を誘う。丸出しになった陰部の奥に、固く突き立った性器が見えた。背後で膝立ちになった名淵が荒々しくペニスを突き立てる。激しく腰を使われると、Mにはもう抗う術がない。ひたすら、押し寄せる官能の波にもてあそばれるだけだ。真っ黒な視界に漆黒の炎が揺れる。官能の極まりが道標に灯した幻の炎だ。Mと名淵はその暗黒の炎に誘われるように、さらに先へと進む。巨大なペニスが肛門を突き刺し、執拗に陰部を責めた。数時間前の真っ赤な炎と異なり、暗い闇の炎が燃えている。無明の闇を照らす漆黒の炎だ。これが追い求める希望なのだと、Mは不意に思った。すでに官能と呼ぶには遅すぎる。人の暗部に棲む夢だけが希望となり、残された時間の上を羽ばたくのだ。


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