9.崩壊

テーブルのガラス板を踏みしめていた少女の足は、もうガラスの上になく、床から数センチ上のところにぶら下がっている。
黒い縄に首を吊られ、傾いた少女の口の端からは、目を射るほどに鮮やかな赤い血が一筋、滴り落ちていた。
恐らく少女は、尻にヴァイオリンが打ち下ろされる直前に楽器の崩壊を予期し、自らの音楽とともに死に向かって跳んだのだ。

一人相撲の末、取り残された心中者の片割れみたいに悄然とした彼は、やっと舞台の転換に気付いたみたいだった。
絞首されて縄からぶら下がった少女の足下に跪き、形の良い足の指に頬を擦り付けている。
瞬時に駆け抜けたシーンの余りの凄まじさに、私は涙も出ない。不謹慎にも、彼の愚かしい行動を見て、心の中で笑ってさえいたのだった。

ひとしきり少女の足に触れ、唇を這わせていた彼は突然、声を限りに号泣し始めた。高く低く延々と、いつ果てるとも知れずに泣き声は続いた。その間私は白痴のように口を開き、ぼんやりとした焦点の定まらぬ目で、その場の光景を見ていた。
ただ、彼の上げる泣き声だけがうるさく、耳に障った。


長い時が過ぎ、泣き疲れた彼はよろよろと立ち上がり、肩を落としきった姿勢で部屋の隅へ行き、はさみを持って戻って来た。
彼は、ついさっきまで少女を立たせていたテーブルに登り、左腕を黒縄で緊縛されたままの少女の細いウエストに回し、右手で握ったはさみで絞首した縄を切ろうとした。
少女の体重を残酷に支えていた縄が切れると、とても片腕だけでは、物体となってしまった少女を支えきることはできなかった。大理石の彫像が倒れるように少女の屍がくずおれ、引きずられるように彼の身体が床に落下した。

少女の屍を胸に載せたまま床に横たわった彼の目と私の目が、そのとき合った。一瞬奇妙なものを見るように、しかめられた彼の目が急に懐かしそうに潤む。胸の上に被さった屍を無造作にどけて立ち上がった彼は、素早く私の横まで来て屈み込み、右手に持ったはさみで私を緊縛した黒縄を切り始めたのだ。

「本当に、いいところへ来てくれましたね。弱っていたところなんですよ。ご迷惑をお掛けしますが、いつもあなたには助けてもらってばかりで感謝のしっぱなしですよね」
訳の分からぬ事を呟きながらも、彼は縛り上げていた縄を全部ずたずたに切って私を解放した。
「それにしてもあなたは凄い格好をしていますね。勝手に切らせてもらいましたが、特にいいご趣味とは言えないようです。それに、裸のままでは風邪を引いてしまいますよ。失礼だが、何か変な臭いもしますし、よろしかったら、私の家の浴室で湯をつかってきたらいかがですか」

私は、彼の顔をまじまじと見た。何を言っているのだろうか。彼は記憶を喪失してしまったのか、それとも彼一流の下手な芝居がまた始まったのか、判然としない不気味さを感じた。

なおも話し続ける彼をおいて、私は奇妙な形に捻れて横たわっている少女の屍のそばへ急いだ。まだ暖かさの残っている裸体に手を掛け、捻れた身体を整えたが、後ろ手に緊縛された縄目と、首筋に深く食い込んだ縄が無惨でならない。彼に振り返り、はさみを渡すように言ったが、そっぽを向いたままの彼は、そのままはさみを投げてよこした。全身に熱い怒りがこみ上げたが、少女の姿を整える方が先だ。

苦労して少女の肉体に食い入った縄を全て切り取ったが、透き通る肌の上には赤黒い縄痕が死斑のように、縛されたときのままに残った。
両手で壊れ物を触るように目を閉じさせた少女の顔は、眠るように穏やかだった。縊死したのにも関わらず、体液や排泄物の汚れもない清浄で美しい屍だった。
恐らく、テーブルの端を少女が蹴ったときには、彼女の繊細な心臓は既に停止してしまっていたに違いない。無惨すぎた状況の中でそれは、私にとって唯一の救いに思われた。

私は立ち上がって少女を見下ろした。白く透き通った美しい裸の死体を見ても、特に激しい感情は湧かず、こわばった頬の上を機械的に涙だけが流れた。自ら流す涙の暖かさだけがやけに優しく、この異常な状況の中から私を、部外者であるかのように区別してくれる。

私は、きっぱりとした足取りで部屋の隅に置かれた電話へと向かい、受話器を取り上げ、警察の番号をプッシュした。いつの間にかそばに来た彼が、強い力で通報を押し止める。
「電話はいけませんよ。少女を彼らに渡すわけにはいかないんです。私たちは旅立たなければならないのだから。お願いです」

「旅立ちですって。何を戯言を言っているんですか。一切が終わったんです」
「いや、何も終わってはいません。今、やっと始まったばかりなんです。しかし、それほど時間は残されていません。あなたも、せっかく手伝いに来てくれたのだから早く服を着てください。いつまでも裸でいてもらっては困りますよ」
「あなたは正気でそんなことを言っているの。それとも、これだけのことをしでかしておいて、警察が怖くなったって言うの。とにかく、きちんとした責任を取るのが、あなたに残された常識ってもんでしょう」
「いや、常識以前のことです。しなければならない義務の問題ですよ。せっかく来てくれたのだから、とりあえず車を借りますよ」
彼は私から取り上げていたロードスターのキーをポケットから出した。私は素早く彼の手からキーをひったくった。

何を勘違いしたのか「やっぱりあなたが運転してくれるんですね。これで安心です。またご迷惑を掛けてしまいますね。まるで展示会の初日と同じようです。もっとも、走る方向は逆ですがね」と歌うようなバリトンで言った。

相変わらずの戯言と決め付け、私は素裸の身体に威厳を付けるように豊かな胸を張って屋外へと急いだ。後ろから遅れないように付いて来る彼は、私に並ぶようにして落ち着いた口調で、またしても言葉を紡ぐ。しつこく誘い掛ける言葉の中にいつしか、以前と同じような胸ときめく、あやしいバリトンが甦っていた。

私は彼との出会いが再び場面を変え、新たに始まったかのような不気味な情緒が生まれるのを感じ、そんな情感に抗うため素裸の身体を見下ろした。
突き出した両の乳房には、鞭打たれた名残りのミミズ腫れが見える。歩みを進める脚の付け根のデルタには、彼に剃られた後の陰毛が、いがぐり頭のように滑稽に生え出して来ている。何より、歩く度にきりきりと痛む肛門の裂傷と、全身を覆う鈍い痛みが、彼との陰惨な出来事を忘れさせるはずもない。

しかし母屋の引き戸を開け、晩秋の凛とした日差しを全身に浴びると、一切の出来事がまるで、なかったことのように思われ、肌を刺す冷たい外気が私に、新しい舞台の到来をさえ予感させるのだった。

そこまで私は、彼に執着しているのか。

一人の少女の死にも関わらず私は、隣で発せられる彼のバリトンを、清々しい日差しの中で新鮮に、しかも心地よく聞いたのだった。

先ほど彼が「スケベ女」と何度も罵った言葉が再び、間近に見えるやけに澄明な山並みの奥から聞こえたようにも思えたのだが、それももう、古い芝居の台詞みたいに気にならなかった。
ロードスターの背後に回りトランクを開けた私は、紙袋に用意してあった下着とストッキングを取り出し、鮮烈な日差しの中で身に着けた。いずれも、何かのときのために用意して置いたシルク製のものだ。下半身にこびりついた排泄物がいくらか気になったが、なんと言ってもシルクの下着なのだ。たいがいのことは十分隠し通せると私は踏んだ。

たとえ下着姿でも、豪奢な気分になった私は、全く新しい舞台に立つ、選ばれたばかりのプリマのように誇らしい気分で、後ろにかしずく彼に言ってしまった。

「あの少女を、何処に乗せようと思っているの。この車は残念なことに二人乗りなのよ」
「もちろん、あなたの隣には私が座ります。置いていってもいいのだけれど、やはり可哀想かも知れませんね。私たちのために彼女は、精一杯の事をしてくれたのですから。できることなら、どうしても一緒に連れて行ってやりたいと、あなたも思いませんか。実に可哀想な少女でしたからね」

いつの間にか彼は、二人称を使いだしていた。意識しているのか、いないのか、落ち着いたバリトンからは推し量ることはできなかったが、矛盾した物言いの中に再び、大人の狂おしい時間が還って来たような感じがした。
そして、全てを打ち捨ててすぐ車に乗り込むこともできたのに、彼に話し掛けてしまった私自身、少女を殺したのは私たち二人の仕業ではなかったかとの思いが、脳裏にこびり付いていたのかも知れなかった。更に、ひょっとしたら私のために少女の死が用意されたとさえ自惚れる気持ちが、不気味に頭をもたげて来るのだった。
まさかそれほど、あんな変態男にいまさら惹かれるのかと、自分を罵って冷静になろうとすると、足元をすくうように彼が言葉を落とした。

「このトランクに入れてあげるわけにはいかないのだろうか。できることならやはり、彼女を連れて行ってあげたいのですがね」
「ご覧の通りトランクも狭いのですよ。何故、そんなに彼女に執着しなければいけないんですか」
彼女の屍と言えなかった事に舌打ちしたが、彼女を生身に扱ったことでもう勝負は付いていた。工具箱からレンチを出して、スペアタイヤを外しだしたのは私だった。

「これでご要望に応えられるかも知れませんよ」
「ありがとう。あなたは実に頼りになる。難問を解決してもらって本当に感謝しているのですよ。しかし、こんな狭いスペースに彼女を乗せることができるのだろうか。ちょっと心配になりませんか」
少女が乗れなかったら私が残るまでのことであり、むしろ、冷静に考えればその方がいいに決まっている。
「先ず、やってみることでしょう。あなたのお望みなのだから、あなたが責任を持って試してみなくては分からないことでしょう」
「別に私が強く望んだ訳ではないのです。あなたが解決方法を見付けてくれたのがありがたいだけなんですよ」
あいかわらず無責任な言葉だけを演出する彼をおいて、私は母屋へと向かった。当たり前のように彼は、私に付いて一緒に歩を進める。

スタジオに戻り、哀れな少女の屍を前にして「さあ、肩のところを持ってください。私が脚を持つから、一緒に車まで運んでいきましょう」と声を掛けるが、彼は身を堅くして直立するばかりだ。嫌気が差し、彼をおいて身に着ける服を見付けるために寝室に行こうとしたが、黙って彼も付いて来る。構わず彼を従えたまま寝室に入ってワードローブを開け、ゆったりとした丈の長い、細番手の黒いカシミヤで編んだセーターを見付けた。頭から被ってみると、ちょうどミニのワンピースの丈に収まり、私によく似合って見えた。
気分を良くした私は、再び彼を従えてスタジオに戻り、横たわった少女の屍を苦労して肩に背負った。傍らで見つめる彼が言った言葉は一言。万感の思いを込めたような低いバリトンの「ありがとう」だった。

少女の重い屍を背に私は、意外に足取りも軽く、従者を連れた奴隷のように彼を従え、ロードスターへと戻った。しかし、スポーツカーのトランクはさすがに狭く、少女の入り込む余地はないように思われた。素裸の屍の尻をトランクの底に着け、伺うように彼の目を覗き込むと「身体を折り曲げてしまえばいいんですよ」と平然と言った。
あんたがしてみればと、声に出さずに言ったが、行き掛かり上弱い立場に立ってしまった私は仕方なく、少女の屍を横に伸ばし、トランクからはみ出た下半身を両手で抱えるようにして全身の力を加え、まるで、油の切れた折り畳み式の自転車を収納するみたいに折り曲げてみた。その残酷な仕打ちを、脇から見ているもう一人の私が厳しく非難したが、実際に脇にいた彼は、賞賛の溜息を洩らしていた。

既に死体遺棄の当事者になってしまった私は、窮屈な姿勢でトランクに収まった少女に一瞥を与えただけでトランクを閉じ、彼を急かせるようにして助手席に追い込むや、シートベルトも締めないままロードスターを急発進させた。
ホイルスピンが巻き起こした土煙がバックミラーの中に広がり、さしもの大きさを主張する築三百年の彼の屋敷を包み込んだ。

「何処へ行きたいの」と私が尋ねると彼は、あらかじめ決めてあったように静かな落ち着いたバリトンで応えた。

「海へ」


次項へ
BACK TOP



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.