10.断崖

ロードスターは市街地へ向かう道を外れ、山沿いの間道をインターチェンジへと急いだ。隣に座る彼は、車が走り始めてからずっと、一言も口を利かず眉間に太い皺を寄せたまま目を閉じている。

彼の沈黙の中に私は、先程来度々感じてきた新しい舞台の幕が開く予感がしたが、さっきの状況から考えるとまた、私が主人公にさせられてしまいそうな胸騒ぎがして、全身がむず痒くなってしまう。

オープンのままの車内は、さすがに寒い。
私はヒーターのスイッチを強にしてアクセルを踏み込み、曲がりくねった山道を素早くクリアーしていく。
眩しいばかりの日差しはまだ高い位置にあり、ひそめた眉の上の額を容赦なく焼く。

「日本海へ向かいますね」と言って彼の気を引いてみたが、彼は黙ったまま小さく頷き、車が描くトレースに身をまかせたままだ。しばらく走った後、呑気そうに一言「夕日が見られますね」と言った。

何処にいたって、晴れてさえいれば夕日は見られるとそのとき思ったが、彼の言う意味は、海に沈む夕日のことだと、幾つかのヘアピンカーブを抜けてから思い至った。トランクに屍を乗せた旅路に、海に沈む夕日もないものだと思い、ハンドルを過たないようにしながら彼の顔を伺う。

彼は相変わらず、くねくねと続く山道の先を見据えるような目をして、事もないように構えている。
憎らしくなった私が「高速に入る前に、検問でもあったらどうしましょうね」と意地悪く尋ねても、答えはない。
しかも、意地悪の仕返しのように、不安は全て私を中心に黒々と増殖していくのだった。

トイレを我慢してまで慎重に運転した私は、高速道路に乗り入れたことを祝って思いっきりアクセルを踏み続けた。後はただ海岸まで、時間との勝負だった。

私のロードスターは常に、高速道路上の車列の先頭を追って走り続けた。その甲斐あって私たちは、秋の短い日にも関わらず、日没までにいくらかの余裕を残して日本海を見た。

幾つかのインターチェンジを通り過ぎて、もう後僅かの時間で海に没しようとする夕日と、光り輝く海とが最も大きく見えた出口で、私たちは高速道路を降りた。後はただ、ひたすらに夕日を追い掛け、海に向かって地方道を急いだ。終いに車道が途切れ、散歩道のような登りの未舗装の細道を、朱に染まった空を目指して上り詰めた先に、その断崖はあった。

海へと落ち込みそうな道のどんずまりにロードスターを止めると、彼は待ちかねたかのように、車が停止しきらない内にドアを開け外へ飛び出した。フロントガラス越しに、地面から飛び上がるようにして断崖の端へ急ぐ、浮かれた幼児のような姿が見える。
オープンにしたままの車内に吹き込む、きつい潮の香りをのせた強風が北国の寒さを届ける。私は、走って行く彼の姿を逆光の中に眩しく見ながら、まずロードスターの幌をしっかりと下ろし、寒風から身を守った。

幌で密閉された車内に、じきヒーターが効きだし、漲った温気の中で人心地付いた私に、フロントガラス越しに見える彼の後ろ姿が、妙に現実離れをした幻のように小さく見えた。
限りなく小さく見える彼の黒いシルエットの向こうで、いましも水平線に没しようとする夕日が最後の煌めきを、天と海とを峻別するかのように輝かせた。小さな染みとなった彼の漆黒の影の深奥で、輝ける海はその瞬時に変わる波形に極まった落日を呑み込み、驕り高ぶった豪奢な黄金色を一身に纏いきったのだった。しかし、海にかすめ取られた最後の輝きを、吝嗇に惜しむかのように空は、瞬く間にその茜色の輝きを減じ、漆黒の闇へと向かって一散に走り去った。
残された海の輝きもまた儚く、瞬きする間もなく暮れきってしまい、おぼろな冥界の中に小さく、彼の黒々とした影を残すだけだった。

そのとき、影となった彼が、まるで祈りを捧げるように、暮れきった海に向かって突っ伏したように見えた。やがて轟々と吹き荒ぶ海風に混じって、呻くように啜り泣く声が聞こえて来たように思ったのだが、ヒーターのよく利いた車内の私には、幻聴であったのかも知れなかった。

断崖の突端と思われるところで、しゃがみ込んだまま戻って来ない彼を訝り、車外に出て薄明の空と海に向かって歩いて行った私の眼前で急に彼は、この寒さの中で服を脱ぎだしたのだった。

吹き荒ぶ季節風を真っ向から浴びて、海に向かって素裸で立った彼は、いつのまに用意していたのか、愛用の黒い麻縄を取り出し、自分の裸身を縛り始めた。凄い早さで的確に縄を操り、菱縄縛りに自分を縛り上げた彼は、尻を突き出した格好で屈み込むと、あの黒革の鞭を右手で握り、左手の指で押し広げた肛門に、えいっ、とばかりに鞭の柄を突き刺していた。鋭い痛みが見ている私にまで伝わり、私は自分の肛門をきゅっと引き締めてしまった。

にっこりと妖艶な笑みを浮かべて私を見た彼は「後ろ手に縛ってください」と静かなバリトンで言ったのだ。
言われるままに私は、彼の両腕をきつく背中に回し、高手小手に縛り上げてやった。
後ろ手に緊縛されたまま海を見ていた彼は、首だけを私に振り向け、さも愉快そうな顔で私の目を見つめ、聖書の一節を暗唱するみたいに風に負けぬ豊かなバリトンを響かせた。


「夢のような話をしようか」


朗々とした声が風にかき消される前に、彼は踊るような足取りで断崖から海へ身を躍らしてしまった。

私の視界から彼が消え去り、しばらくの間「ユメノヨウナハナシヲシヨウカ」と、こだまのように後を引く声だけが聴覚の底で響いていたが、それも虚しく、鳴り響く風と海鳴りの音に紛れて行ってしまった。


彼のカシミヤのセーターに吹き込む風は寒く、肌を突き刺す冷気から逃げるように走って車内へと戻った私は、大きく深呼吸した。

ヒーターの暖かさでやっと人心地着いたが、車のトランクには死体が一つある。多分、見つかることのない死体がもう一つ、輝きを失った海にある。そして私は確実に、生き残ったものとして取り残されてしまったのだった。

がらにもなく私は、背筋の中まで凍り付くような孤独を全身に感じ、暖かな車の中で身震いした。透き間風に乗って、するはずもない腐臭までが後ろのトランクの方から漂い出し、私を脅迫する。

きっともう、私は帰らなければいけないのだ。つい二か月前まで、どっぷりと首まで浸かっていた喧噪と懐疑に支配された日常へと、私は召還されるときなのかもしれなかった。
何が「夢のような話をしようか」だ。そんなもの誰が聞きたいものか。夢のような狂おしい体験を、二か月の間味わって来たのはこの私だ。夢のような話ができるのは私しかいないのだ。
彼は、私への当て付けで海に身を投げたのか。それとも何処か、遠い世界と呼んでいた場所へと旅立ちを気取って見せたのか。別に、どうって事はないと私は思ったが、ぽっかりと空いた空間がどうしようもないほどの広さで身体の中に広がって行く。
その空間の中に今、幻のように薄く、車のトランクにいる少女の姿が小さく浮かび上がった。広漠とした空間に浮遊する埃のように、哀れな少女の幻影は、ゆらゆらとあてどなく彷徨っている。

しかし私は、無明の闇にさすらうわけにはいかない。用意されるはずの新しい舞台の上に、私は情熱のプリマとして中央に立たなければならないのだ。それが、この二か月の間、私の官能が彼の官能との間に結んだ黙契のはずだった。

私は「よしっ」と声を掛け、ロードスターのギアをバックに入れた。バックミラーに映る漆黒の海と空とに呪詛の呟きを浴びせながらアクセルを踏み込み、視界の効かぬ細道で強引にスピンターンする。車体の底に打ち当たる小石にも、ふらつくハンドルにも構わず、私は無我夢中でロードスターを操り、凶々しい断崖を後にした。


舗装道路に出た私はスピードを上げ、ひたすら街の明かりを求めて疾走した。長い下り坂が終わって、危険なほど鋭いヘアピンカーブをクリアした直後、暗闇を引き裂いてきたヘッドライトの光が急に色あせた。
闇に慣れた目が眩しく思うほど唐突に現れた繁華街は、四車線の通りの両側にカクテルライトの街灯が並び、まばゆいばかりのショウウインドが続いていた。私は歩道寄りの路側帯にロードスターを停車させ、目をしばたいて街の様子を観察した。

映画のセットのように明るい街は、一キロメートルほどしか続いていないようだった。車の前方六百メートルの辺りはもう、明かりも見えず黒い暗がりが広がっている。なんて街だと、私は思った。こんな海沿いのへんぴな土地に、悪い冗談のように都会風な街路が開けている。それに、早い時刻にも関わらず人通りもなく車も通らない。
また、幻影を見るのかと思い窓を細く開けてみると、微かに潮の香と寒い風が吹き込んで来た。明かりのつきる辺りに赤色灯を認めた私は、ゆっくり車をスタートさせた。
瀟洒な飾りタイルを巡らせた壁面に、昔ながらの赤灯をぶら下げた警察署の前に車はすぐ着いてしまった。
恐らくこの光眩いだけが取り柄の街は、原子力発電所が作ったモデルタウンに違いないと私は一人納得し、車窓から古風な石段の先にある警察署のモダンな自動ドアを見上げた。

どうしようかと、体内時計できっちり一分迷った後、私はシートベルトを外し力一杯ロードスターのドアを開けた。
やはり私は、トランクにある少女の死体を何とかしなければ、新しい檜舞台に上がることは出来ないのだ。
三段ある警察署の石段を足早に登り切ると、自動ドアの前に制服姿の警官が杖を持って立っていた。神社の唐獅子と思い込み、ぞんざいに会釈をして通り過ぎようとしたら、自動ドアのセンサーに関知される前に「どうかしましたか」と声を掛けられてしまった。
仕方なく振り返った私の目に、好奇心たっぷりの若い制服警官の顔が映った。テレビでいつか見たことがあるような可愛い顔付きをした彼は、ブラウン管の中にでもいるように微笑んでいた。
「いえ別に、用と言うほどのことではないのですが」と、言葉を呑み込んでみたが、警官は先を促すように魅力的な微笑に更に磨きを掛けた。
この努力に応えなければ、人でなしになってしまいそうな気がして「実は私の車のトランクの中に、死体が入ったままなのでお寄りしてみたんです」と言ってみた。

「えっ」と、警官の微笑みが口の端でこわばってしまう。頭の中の混乱が目に見えるようだ。
でも当たり前のことだ。子猫を拾ったかのように死体の話をすれば、誰だって話し手の頭を疑う。私は作り笑いを浮かべながら右手に持ったキーを警官の目の前で振り、彼を石段の下のロードスターへと誘った。

若い警官の視線を背後に感じながらトランクにキーを差し入れた私は、もし少女の死体がなくなっていたらどうしようかと、急に不安がこみ上げキーを回し掛けた指の動きが止まってしまった。
「僕が開けましょう」と言って私に代わり、警官がキーを回しトランクを全開にした。
「んー」と警官が声にならぬ感情を露にしたとき、私はやっと胸をなで下ろしていた。
大きく開いたトランクの中に、相変わらず素裸で窮屈そうに身体を折り曲げた少女の屍があった。
「ブチョウ」と頓狂な声を上げ、警察署にあたふたと駆け戻る若い警官に見捨てられた格好の私は、トランクに横たわる少女の横顔をじっくりと見た。

数時間前まで、あれほど美しいと思った少女の死に顔は、街灯の光線の加減か、醜く歪み、人の顔とも思えないほどの悲惨さを呈していた。

「あんたが殺ったのかね」
背後から掛けられた濁った声音に振り向くと、背広姿の男が二人、先ほどの若い警官を従えて立っている。
「まあ、事情を聞こうじゃないの。あんたの顔も結構痛めつけられているようだし」
年かさに見える男が言い終わらない内に、若い方の背広が私の右腕をしっかりと捕まえた。逮捕される恐怖より私は、年かさの男が言った顔のことが気に掛かった。多分、今朝彼にさんざん頬を張られた痕と、鞭打たれた痕がミミズ腫れとなって残っているに違いなかった。

警察署の中に入り、迷路のような廊下と階段を連れられるままにたどった後、私は、あまり快適とは呼べない狭くて寒い取調室で、二人の刑事とともに数時間を過ごした。
せっかく決意して社会復帰をしたはずの私にとって、この数時間はやはり、ビジネスの現場と似た緊張感を私に強いた。疲れ切った頭と身体で私が話したこととは微妙に、しかし決定的に違う調書に仕方なくサインした私は、死体遺棄の現行犯として即刻逮捕されることになった。

これで、海に沈んだ彼も、私も、少女も、一応の身の振り方が決まったのだった。

「また明日、詳しく聞かせてもらいましょう」と言った年かさの刑事の言葉を合図に、私の両手首で冷たい手錠が音を立てた。
しばらくぶりで還ってきた社会は、やはり私に冷たかったと、訳の分からぬ、思えば彼一流の拗ねごとを口の中で呟きながら、私は留置場へと連行された。

まるで品物を受け取るように、私を連行して来た若い刑事の書類にサインした留置場の警官は手錠を外し、部屋の中央に私を立たせた後、奥に向かって声を掛けた。だらしない声が答え、グラマラスな婦人警官が姿を見せ、私の前に立った。
「服を脱ぎなさい」と、低い声で彼女が言う。
「えっ」と、絶句した私に「裸になるのよ」と続ける。
また私は、人前で裸にならなければいけないのか。しかも、官能のときめきを演じる舞台の幕が下り、彼が消え失せ、私を待つ新しい舞台も第二幕もまだ、予感の中にしかないと言うのに。また私が全裸のプリマを演じるのか。
ひょっとして、別の夢が始まるのかと血が上った頭で考え、答えの出ぬまま私は、命じられるままに、また素っ裸になった。何のためか膝を折った屈み込むような恥ずかしい姿態を取らされた後、婦人警官は手に紙コップを渡した。尿をコップに採れと言うのだ。弱々しく抗議した私に、婦人警官は規則だからと高圧的に答える。

何が変わったのだろうと私は思った。彼がいなくなっただけで、私のすることは何も変わっていない。彼女が望むならば浣腸なしでも、うんちを採ってやってもいいとさえ思った。
私は、追い立てられるようにドアのない便所で屈んだ。目の前のガラス越しには男の警官の姿さえ見える。下半身に力を入れ、おしっこを出そうとするが思うように出ない。
いつしか、全身が熱くなり涙がこぼれた。涙は、頬でミミズ腫れになった、彼の残した鞭痕を伝って全身の傷に滲みた。

そのとき、警官たちが詰めたガラス戸の中から、FMラジオでもあるのだろうか、聞き慣れた音楽が聞こえて来た。

「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ第一番」の調べに全身が耳になった。
「バッハがお好きなのですか」と言うバリトンが、また聞こえて来るような気がして。
私は白い便器を跨いだ丸出しの股間をなぶる、冷たい透き間風に性器を晒しながら、熱い予感を裂けた肛門に感じたのだった。

きっとまだ、あの夏の日から見始めた夢は覚めず、また新しい深みへと陥って行くのだろう。
私は、渾身の力を振り絞り、
「うわっー」と高らかな叫び声を、いつ果てるともなく留置場いっぱい、轟かせ続けた。



BACK TOP Version.2へ



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.