5.高まる期待

水曜日は朝から冷たい雨が降っていた。
陰鬱な雨音が、カーテン越しにベッドの中にまで聞こえてくる。僕は頭まで被っていた毛布を右手ではぎ、横になったまま大きく伸びをした。逞しくそそり立ったペニスの先が毛布に擦れ、寝ぼけ眼がしっかりと開く。思い切ってベッドから跳ね起き、冷たいカーペットの上に立つと温かい裸身に冷気が襲い掛かった。

冬の朝は、この身を切られるような冷気がたまらない。とてもパジャマなんか着て寝る気にはなれなかった。しばらく裸の身体を冷気に晒してから白いパンツを穿き、窓のカーテンを勢いよく開けた。
薄暗い朝の光の中に裸になったケヤキが高く聳え、無数に上へ伸びた枝の間を大きな雨粒が走っている。全体的に濃いグレーに見えるバックの中で降る雨は、場合によって、はっきりと白く見えた。氷雨だった。
僕は、身震いしてから壁に掛けたカレンダーを見た。しばらく、今日の数字を囲っている赤丸を見つめてから、パンツを脱いだ。クロゼットの引き出しを開けて黒いビキニパンツを出し、足を通す。
「きっと何か起こる」と確信し、彼女のあかんべーをした顔のあった窓ガラスをじっと怖い顔で見つめた。


市街地の公会堂で花を活ける母の車に便乗したが、水温の上がっていない車内は凍るようだ。
今朝の車は母専用のMRUだ。黒のミドシップ・ツーシーターのスポーツ車だが、ほとんど母は乗らなかった。いつもは父のベンツを借用している母がMRUを使うからには、父がベンツを使う予定があるって事だろうか。

「チチは今日、どこかに出掛けるの」
何気なさを気を付けて装いながら、母に聞いた。
「いえ、何も聞いていないわよ。今日は仕事の日のはずだけど」と、あっけない答えが返ってきた。仕事の日も変な表現だが、週七日のうち四日を休診にしている父では仕方のない言い回しだった。
「変わった車に乗って行くんだね」
「たまにはハハの車にも乗らないとね。それに、この間あなたの連れて来た女性がスポーツカーを運転していたでしょう。でも、この車の方が性能がいいのよ」
まさか母がまだ、Mを意識していたとは思わなかった僕は、言葉に詰まってしまった。黙り込んだ僕を気にするでもなく、やっとヒーターの効いてきた車を母は、へたくそに操っていく。とにかく悪い日に悪い車に同乗してしまったもんだと、びしょびしょとフロントガラスを叩く重い雨を恨んだ。
やはり乾燥しきった寒風の中を、チャリのペダルをこぐのが一番だと思い、その次はやはりオープンにしたスポーツカーかなと勝手に決め、思わず浮かんだMの笑顔に、母の非難が気になって、運転席の横顔をうかがってしまった。
まるで待っていたように、母が声を掛ける。

「あなた、こんな天気でしょう。学校は何時に終わるの。時間が合えば迎えに行けるかも知れない」
まずいタイミングに慌てふためき「いや、いいんだ。ちょっと寒気がするので早引きするかも知れないから」と、本当のことを言ってしまってから、しまったと思ったがもう遅い。
「それじゃあ余計に大変じゃない。この天気だもの、ハハが迎えに行くまで学校で待っていた方がいいわ。多分五時頃には帰れるはずだから」
何てドジなんだろうと僕は思った。何と答えていいのか、しばらく言葉が見つからない。さんざん迷った末「今日は休むから下ろしてくれる」と言ってしまった。
「何を言ってるのよ。こんな雨の中で下りるなんて。熱でもあるんじゃない。お医者さんに寄ってから学校へ行きましょう」
とんでもないことになってしまった。何のポリシーもなく、淫らな予感だけにのぼせ上がって隠し事をすると、ろくな事はない。


僕は、掛かり付けの医院に寄って診察を受けてから、学校へ行くことになってしまった。
もう三年近く掛かったことのない老主治医は、相変わらずの藪医者だった。どこも悪くない僕を風邪と決め付け、僕ほどの年齢にしか見えない看護婦に命じて、お尻に注射まで打たせたのだ。
ベッドにうつ伏せになった僕のズボンを、一気に膝の辺りまで引き下げてから、看護婦が一瞬、動きを止めたのが気に掛かった。その拍子に今朝穿き替えたばかりの黒いビキニパンツが目に浮かんだ。ただのファッションだから知ったことはないと思ってみても、不自然に手の動きを止めた看護婦の気持ちを推し量ると妙に気恥ずかしくなる。

「素敵なパンツね」とでも言ってくれればいいのに、変にぎこちない指先で、お尻の割れ目が見えるほどにパンツを下ろしたのだ。ビキニの構造上仕方がないが、ほとんど剥き出しにされたお尻全体に冷たい空気を感じ、敏感なペニスが場所柄もわきまえず、むくむくと勃起してくるのだった。
僕は神経をほかのことに集中しようと、ひたすら二次式の一般開放の公式を頭に浮かべ、ペニスが落ち着くのを待った。しかし、看護婦は待ってはくれない。
飛び上がるほど痛い注射を打ち終えると、素早くパンツを上げてしまった。僕も素早く、股間を見られないように身体をねじって起き上がり、後ろを向いてズボンを上げた。ヒーターも効いていない診察室だが、もう汗びっしょりだ。

服装を整えて医師にお礼を言いに行くと、引退間近な小児科医は「顔がずいぶん赤いな。思ったより熱があるのかも知れないから、学校は休んだ方がいい」とのたもうた。
待合室にいた母に診察結果を話すと、タクシー代をくれた。生け花の会が始まるまでに時間がなく、僕を家まで送っていけないのだという。
息子の処遇に満足したらしい母は、医師と看護婦に挨拶すると、僕を置いて一人で公会堂に向かった。

健康そのものの僕と若すぎる看護婦、それに、もう引退をした方がいい小児科医が医院に残った。ほかに患者は誰一人いない。またこれからも、こんな天気の中を、わざわざ診察に出掛けて来る子供もいないように思われた。
「タクシーは三十分ほど待ってください、ですって。雨のために車が出払っているって言ってました」
待合室の椅子にぽつんと一人座っていた僕に、診察室から出て来た看護婦が言って、隣に座った。満員電車の中みたいに、すぐ近くに座られた僕は、面食らって腰をずらした。くすっと、看護婦が笑ったような気がしたが、無視して低い声で「仕事はいいんですか」と言ってみた。
「ご覧の通り患者さんはいないのよね。先生もお茶を飲みに母屋の方へ行っちゃたわ。あなた、素敵なパンツを穿いているのね」
僕は正直言って、やっぱり女は不得手だ。
「看護婦は患者のパンツの批評もするのか」と切り返せばきっと「いけない事かしら。ペニスの批評だってするわ。良かったら見せてみて」なんて答えるんだ。そのうち右手が僕の股間に伸び、言葉でいたぶられて仕方なく勃起した僕のペニスをつかみ、可愛らしい口に含もうとするんだからやってられない。

「あなたの黒いビキニ、きっと私の彼に似合うと思うんだ。どこで買ったの、教えてくれない。もうすぐバレンタインデーじゃない」
やっぱり、付き合いきれないと僕は思った。この看護婦と後三十分過ごさなければならないと思うと情けなくなる。
「こんなパンツ、どこだって売ってますよ」
「冷たいのね。私の彼も素っ気なくて冷たいところがあるけれど、本当はとっても優しいのよ。きっとあなたも本心は優しいのよね。彼女はいるの」
「いませんよ」
「ほんとう。でも、彼女が出来るときっと優しくなるわ。きっとよ」
そんなもんだろうか、とは思ってみたのだが。僕は黙っていた。

「初対面のあなたにこんな話をする私を、変な子だと思う」
「思わない」と僕は言った。
初対面で、もっと変な話をした素敵な女性を知っていたからだ。そのお陰で僕は、病気でもないのに診療所で、看護婦と話す羽目になったとまでは言わない。
「そう、やっぱり君は優しいんじゃない」
いつの間にか、あなたが君になっていた。それに、見ず知らずの僕を優しいと言う。悪い気はしないが、特にときめきも感じなかった。Mと比べ、彼女は幼すぎるせいだろうか。

「僕は十八だけれど、失礼ながら、あなたは何歳ぐらいですか」
Mのようなスマートな聞き方は出来なかったが、思いきって年を聞いてみた。「ずいぶん礼儀正しい十八歳ね。私は二十七歳ぐらいよ」
ピーと口笛を吹くところだった。何と、彼女はMと同い年なのだ。僕はすっかり安心した。やはりMは特別なんだ。僕のプリマはやっぱり、こうでなきゃあ始まらない。

「何が始まらないの」と看護婦が聞く。
声に出さないことまで分かるのかと、目を丸くしたが、別にもう、どうって事はない。
「彼女がいなければ、始まらないって言ったんです」
答えた瞬間、外でクラクションが鳴った。やっとタクシーが来たと思ってコートに腕を通し、靴を履いて、看護婦を振り返ると、
「お注射のとき、君のあそこ、大きくなっていたでしょう」
真っ向から目が合ってしまい、満面に笑みを浮かべた看護婦が問い掛ける。
「ありがとう。あなたが、とても素敵だったから」
大きな声で彼女に応え、ドアを開けて冷たい雨の中に出た。身体がきゅっと引き締まり、また少し大人になったような気がした。


「どちらへ」と尋ねるタクシードライバーに、
「山地へ」と答えた。
「山地はもう雪になっているかも知れませんね」との答えに黙ってうなずき、フロントガラス越しに降る氷雨を見つめた。僕はもう、何だって受け入れることができる。
対向車もない街路をしばらく走り、見慣れた山に挟まれた渓谷沿いの道路まで行くと、運転手の予報通り、雨は雪に変わった。
うっすらと雪の積もった道で、家へと曲がる指示がちょっと遅れた。
急ハンドルを切ったタクシーのテールがすっと横に流れる。谷へと向かう車体を立て直そうと逆ハンドルを入れた車は、大きく左右に揺れ、そのまま反対車線まで一直線に滑り、山側の縁石に凄い衝撃で乗り上げてしまった。

エンジンが止まった静かな車内に、タクシードライバーの緊張しきった震え声が響いた。
「すみませんね。けがはなかったですか」
「いや、大丈夫です。車は動きますか」
僕の答えで、落ち着きを取り戻したタクシードライバーは、何回かセルモーターを泣かせてから、やっとエンジンを復活させた。しかし前輪を縁石の向こう側まで出してしまった車は、どのようにハンドルを切っても走り出せはしない。
しばらく虚しい努力を重ね、額の辺りに汗がにじみ出てきた運転手に声を掛けた。

「僕が降りて前から押しますよ」
「そんなのだめですよ。病院から乗せたお客さんにそんなことさせては、私がくびになっちゃいますよ。今、無線で代わりの車を呼びますから、ちょっと待っていてください」
「いや、僕は病気ではないし、家はすぐ近くですから心配要りません」
言い終わらないうちにドアを開け、車外に降り立つ。温まっていた身体全体を寒気が包み、やけにべと付く雪が頬に降り掛かって来た。
僕は車の前に回り、窓から顔を突き出しているタクシードライバーとタイミングを取り合いながら、力一杯タクシーを押した。五回目でやっと前輪が縁石の淵を噛み、大きくバウンドして凄い速さでバックしたタクシーは、久しぶりの路上で、ボンネットからうれしそうに大量の白い息を出した。

「ありがとうお客さん。早く乗ってください。風邪を引きますよ」
本当にうれしそうなタクシードライバーの言い方がなぜかおかしく、思わず、にこやかに笑ってしまった。そう、僕はお客さんなんだ。
客からボランティアに変身し、十分喜ばれたことに満足しきった僕は、晴れやかに大きな声で答えた。
「いいんです。びしょ濡れになってしまったから、歩いて帰ります。おいくらですか」
「そんなのだめですよ。料金なんか受け取れませんよ。無料ですから乗ってください。ぜひ、送らせてくださいよ」
「本当にいいんです。ただでここまで来れたと思えば、なんてことないですよ。気にしないでください」と言って歩き出した僕の隣に、タクシーが並ぶ。
運転席の窓から、雪でびしょびしょになった顔を突き出したタクシードライバーが恨めしそうに声を出す。

「ねー、乗ってってよ。意地悪しないで。このままでは、私の気が済まないですよ」
僕がいい気分なのだから、それでいい。今更、シートをびしょびしょにすることはなかった。
僕は谷側へと進み、車の通れない農道へ降りてしまった。
「ありがとう」と振り返って言うと、タクシーから降りたドライバーが深々と頭を下げた。僕の背中に大きな声の「ありがとう」
天気と同じように本当に変な日だと、僕は思った。しかし気分はいい。看護婦もタクシードライバーも、今朝出会った人は皆、僕の気分を浮き立たせてくれた。これで、メインイベントのMとの出会いがご機嫌なら、最高の気分になれると僕は踏んだ。
びっしょり濡れてしまった服も、気にならなかった。

しかし寒い。農道の上には白く、うっすらと雪が積もっている。僕の周りを濃密に、包み込むようにして降る雪もいつしか、軽く、舞うように、深々と降る。
少し前のびしょびしょと重い、身体を濡らすシャーベット状の雪ではなかった。身体に積もっても身震いすれば払い落とせそうな、固く締まった冷たい粉雪になっていた。
きっと、車を押していたときが最悪の状態だったのだ。やはり僕は、それほど付きまくっていたわけではないようだった。寒い。

今歩く農道は、一段高くなっている僕の家を回り込むようにして裏口へと続いていた。ちょうど母屋と蔵屋敷の、真ん中あたりに上って行く道だ。
雪に霞んで視界の効かない目に、ぼんやりと庭のケヤキが見えてきた。寒い。僕は早足になり、足元を何回となく雪に取られた。

農道から庭に上がって行くと視界が開け、白く雪化粧した風景の中に特異な原色が見えた。
Mの真っ赤なロードスターが、ケヤキの下にちんまりと止まっている。さすがに今日はオープンでなく、幌でもない。ご丁寧に真っ赤なハードトップに付け替えてあった。その姿はどことなくグラマラスで、雪の中の彼女に十分似合いそうな感じだった。

僕は、ふっと白い息を吐き、大きく深呼吸した。
あれほど凍えていた身体に、熱が回って行くのが分かる。まだペニスにまでは熱が行き渡らないが、もう秒単位の時間の問題だった。
雪原の散歩の果てで、Mの真っ赤な車を見たうれしさに「わー」と大声を出し、転びそうになりながら車へと走った。うっすらと白くなったロードスターの広いボンネットの上に大きく「M」と、指で描いた。白い雪の下から現れた真っ赤な文字は、まるで僕の気持ちのように、浮き浮きと鮮やかに踊っていた。

ところでMは、今どこにいるのだろうか。
雪の上に字を描いた凍える指先を舐めながら、しばし凍った頭で考えた。
この家には今まで、父と患者しかいなかったはずだから、やっぱり診療所にいるのだろうと、思い当たり。途端に拍子抜けしてしまった。
何だ彼女は、また歯の治療に来ただけなのかと思ってから、すぐその考えを打ち消す。何と言っても今日は、Mの招待で自分の家を尋ねて来たのだから、たかが歯の治療の立会人を頼まれたとは思いたくもなかった。

とにかく診療所を覗いてみることに決めたが、びしょびしょになった服を着替えようとは思ってもみなかった。それほど思いは熱かったし、今朝の武勇伝を早く、彼女に聞かせたくもあったのだ。
はやる心のままに、誰も見ていないことを幸い。まるで幼児のように小走りに、何回か転びながら雪の中を急ぎ、診療所の前に立つ。もう全身雪まみれだ。

息を切らせて着いた診療所の入り口には、父の漉いた紙に見慣れぬ文字で「本日臨時休診」と書いて張ってあった。
もちろんMの仕業に違いない。
そう思った途端、父と彼女が一緒にいる姿が「もちろんしたわよ」と言う言葉となって、目と耳に成り代わったペニスで響いた。僕は慌ててUターンして蔵屋敷へと走る。もう、寒さも雪も知った事じゃない。三回ほど転び、雪と泥にまみれきって自動ドアの前に立った。
しかし、ドアが開かない。センサーに認めてもらいたくて、創作バレーみたいにいろいろとポーズを取ってみたが、開かない。多分電源が切られているのだと思い、かじかんだ手でドアを押し開こうとしたが虚しく、中からロックされている事が分かった。
ただやみくもに、なりふり構わず固く閉ざされたドアを、凍えて感覚のなくなった両手で打ち叩く。口からは真っ白な息とともに、父を呼び続ける言葉があふれ出した。不思議に彼女の名前は口を突かない。
声が枯れきるかと思うほどに呼び掛けるが、降り積もる雪が音を吸い込み、中からの反応はない。
喉が痛くなってしまい、ドアを叩く手の動きだけを止めず、コンクリートの床に座り込んでしまったとき。すっとドアが開き、薄い絹のケープをまとったMが、目の前に立った。


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