5.演奏会

うららかな季節が、またやって来た。

四月も半ばになって、やっとこの山間の町にも桜前線が上がって来ていた。この週末が満開で、一番の見頃になると町の人たちはうわさし合っている。
年度始めの事務が立て込み、残業が続いていた村木も、浮き立つ気分になっていた。
半分開けたアパートの窓から心地よい夜風が流れてくる。
村木はカメラケースから、買ったばかりのコンタックスAXを取り出す。まだ一度も月賦を払っていない借り物のようなカメラだった。28ー85ミリのツァイス製バリオゾナーを装着してシャッターを押す。カシャッ、心地よい音に酔いしれて、村木の頬が上気する。
明日の休みは、満開の桜を撮りに行くつもりだった。


その時、風に揺れるカーテンの陰から音楽が響いてきた。
チェロの音色だった。
寺の先生が練習を始めたのかと思ったが、方角が違う。そのうちヴァイオリンの音色が割り込み、ヴィオラが和した。もう完璧にストリングスのアンサンブルになっている。

笑うように、泣き啜るように、チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの三種の楽器が、歓喜と悲嘆を交互に様々な音色と味わいで統合していく。
村木は窓辺に立って行ってカーテンを開けた。真っ暗なはずの精錬所の構内に明かりが点っている。モーツァルトの調べも、その方角から聞こえてくる。
目を凝らしてじっと明かりを見つめたが、白い光の中で人が動いている様子が見て取れただけだ。

村木は部屋の中央に戻り、カメラケースの中から十五倍の双眼鏡を取り出した。ついでに時計を見る。午後九時を少し回ったところだった。
急いで窓辺に駆け戻り、双眼鏡のピントリングを回した。揺れる画像をできるだけ静止させようと、肩の力を抜いて双眼鏡を構え直す。
丸く切り抜かれた十五倍の画面の両隅に、爛漫と花を付けた桜の老木が二本立っている。左右から延びた枝の下で、弦楽五重奏団のメンバーが椅子に座って楽器を操っている。しなやかに動く弓に応じて、モーツァルトの歓喜と悲嘆に彩られた調べが舞う花のように流れてくる。

その五重奏団の頭上に、村木は奇妙なものを見た。

「女だ。裸の女が宙に浮いている」

興奮して大声を出し、その声に慌ててまた画像を大きく揺らした。姿勢を正し、静かに、できるだけ興奮を抑えて双眼鏡を操る。

裸の女は宙に浮いているのではなかった。二本の桜の木に渡した太い竹竿から縄で吊り下げられているのだ。
素っ裸の女は正面を向き、両膝を立てた姿勢で股間を大きく広げている。左右の膝頭を縄で無惨に縛られて吊された姿が、まるで宙に浮いているように見える。
見つめ続ける目が双眼鏡に慣れ、女の表情まで見えるような気がしてきた。しかし、下を向いた女の顔には長い髪が垂れかかり、顔を隠している。時折、全身を襲う苦痛に耐えかねるように裸身をよじった。大きく髪が揺れた瞬間を逃さず、村木は表情を追う。レンズが捉えた黒い瞳に見覚えがあった。

「まさか、M」
声に出した瞬間、双眼鏡を通した村木の視線に気付いたかのように、もだえ動く女の動きが止まった。間違いなく早春の日に、この場所まで案内してきたMに違いなかった。
あの自信に溢れ、自分の美しさを良く知った理知的なMが今、素っ裸のまま満開の花の下に吊り下げられているのだ。

双眼鏡を通して視線を交わし合ったと思った瞬間、画像が揺れ、苦しそうに身体をよじったMの裸身も揺れた。緊縛された裸身の上に、はらはらと白い花びらが散った。花びらは風に乗って、長い黒髪や、滑らかな肩先、大きく開いた股間の上を、意地悪くなぶっていくかのように果てしなく舞った。
村木は全身がかっと熱くなり、何がなんだか分からなくなってしまった。小刻みに頭を振ってカメラケースの前に戻り、習慣的にハイスピードのフィルムをコンタックスに装填した。カメラを首に掛けるやいなや、明かりも消さずに外へ飛び出して行く。


首に掛けたカメラを両手で握ったまま、村木は一心に駆けた。
心地よい春の宵に関わらず、全身から汗が滴り落ちる。五分間ほど走り続けて、水瀬川に架かる鉄橋まで来た。ドウドウと渓谷にこだまする水音と、弦楽五重奏の華麗な音色が混然と混ざり合う。川風に乗って、微かに甘い花の香りがした。

鉄橋を渡りきった右手に、精錬所の門が聳えている。巨大な鉄扉は細く開かれたままだった。村木は身体を斜めにして門を通り抜け、構内に駆け込む。

五十メートルほど先に演奏会場の明かりが見えた。
モーツァルトの歓喜と悲嘆のアンサンブルは高く、低く、絶えることがないように音色を変え、執拗に繰り返されている。

ほっとして辺りを見回すと、月明かりに照らされた得体の知れぬ建屋や鉄骨の櫓が、闇の中に数知れず続いている。小さな家ほどもあるガスタンクの傾いた支柱の影に回り込み、ねじ曲がった太いパイプの横に身を寄せた。照明に浮かび上がる二本の桜からは五メートルの距離だ。
誰にも悟られる事はなかったが、目の前の演奏会は村木に背を向けていた。

半円を描くように座った弦楽五重奏団の中央に恩師の背中が見える。背筋をまっすぐに伸ばし、一心にチェロを操っている。
チェロの回りに居並ぶヴァイオリンもヴィオラも皆、髪の白くなった女性たちだ。
そのうちの三人は村木の恩師だった。第二ヴィオラを操る品の良い老婦人は町医者の奥さんだ。五人の白髪に桜の花びらが舞い懸かる。

花びらは、二本の老木の間に全裸で吊されたMが悶える度に、梢から散った。
村木の目に剥き出しの背中が見える。長い髪が首の右側から胸へ垂れ下がり、白くのぞいている細いうなじが苦しそうに揺れる。そのうなじに届きそうなほど高く、後ろ手にされた両手が交差され、黒い麻縄で痛々しく縛られている。時折固く握られた手が開き、細い指先が震えた。

村木は握りしめていたカメラを構え、ファインダーをのぞいた。ファインダーの中に広がる異様な美しさに負けないように、何回となくシャッターを切った。
アングルを変え、左側の桜の幹まで視野に入れたとき、急にカメラを持つ手の力が抜けた。
老木の幹の影に陶芸屋がたたずんでいたのだ。

「あっ、先輩。どうして先輩がいるんだ。やはりMと何かあったんだ」と声に出して一枚、シャッターを切り終わったとき、陶芸屋の背後から信じられないものが現れた。

素っ裸で後ろ手に縛られた緑化屋が、照明の中に歩み出てきたのだ。
弦楽五重奏曲第四番ト短調の第一楽章のエンディングが近付き、歓喜と悲嘆を交互に繰り返す主題が短く繰り返される中で、陶芸屋に腰縄の端を曳かれた緑化屋が、吊されたMに向かって胸を張って歩いて行く。

Mの前に立った緑化屋が、大きく開いた股間にすっと顔を埋める。
しばらくして「ウー、アー」という艶めかしい呻きが、小さくなった楽曲の音色を縫ってMの口から洩れた。
その異様な情景に向かって数回、白いストロボの閃光が走った。楽章最後の音を、ヴァイオリンがそっとおくのと同時だった。

静寂が戻った廃墟に、思わず駆け出した村木の靴音がこだまする。
カメラを握ったまま桜の下に走り出た村木の顔に、陶芸屋の右ストレートがきれいに決まった。カウンターパンチを浴びて地面に尻餅を付いてしまった村木が「俺じゃあないよ、俺じゃあないよ。俺はストロボなんて持ってないよ」と泣き声になって叫ぶ。
急に村木が主役となり、学校の文化祭で上演する喜劇のような場違いな情景が繰り広げられた。


「S・Mショーの次は、お笑いが始まるのかい」
落ち着いた低い声が響き渡り、片手にストロボを着けたニコンを持った産廃屋が、照明の光の輪の中に大きな体を現した。

「俺の仕事を邪魔するやつが、二人揃ってお楽しみってわけかい。たっぷり目の保養をさせてもらったぜ。それに、傑作写真も撮れたようだ。できあがったら一枚と言わず、何枚でも町中に配ってやるから楽しみにしていろ。嫌だったら、つまらない反対運動はやめることだな」
楽しそうに大声を上げる産廃屋に、チェロが静かな口調で話しかけた。

「産廃屋さん。今夜は個人的な演奏会なんだ。騒いでもらっては困るね。最低のマナーは心得てもらわないとね」
「こんなすけべショーには、ちょうどいいマナーと思うがね」
澄ました顔で産廃屋が応じる。

「やくざにお似合いのマナーってことね。品性の卑しさが滲み出ているわ。花見コンサートの意味も知らないで、すけべショーとはよく言ってくれたものよ。開いた口が塞がらないわ」
宙に吊されたMが、怒りに満ちた声を頭上から落とした。
産廃屋が初めて気が付いたかのように、とぼけた顔でMを見上げる。
「いや参ったねえ。素っ裸で吊り下げられた姐さんが一番威勢がいいね。せっかくのお言葉だが、大股を開ききってご開帳をしているんでは、口が塞がらないのは仕方がないってもんよ。上の口は知らないが、下の口はぱっくりと開きっぱなしだからな。すけべが過ぎるというもんだぜ」
吊り下げられたMの裸身が怒りで真っ赤に染まる。

「性を笑う者はきっと性に泣くわ。覚えておくがいい。今夜のコンサートはあなたのような恥知らずと、元山沢が一切縁を切るという画期的な儀式よ。元山沢を楽しむ人たちが集い合って、この精錬所の過去の罪業を、桜とモーツァルト、そして性の営みで、今宵限りきれいさっぱり洗い流したわ。明日からは二度と過ちは繰り返さないという決意の儀式よ。あなたなどの出る幕はないわ」
「ハハハハハ、盗人にも三分の理とは、よく言ったもんだ。素っ裸で股を広げきって、お楽しみの姐さんにお似合いの言葉だ。こう大っぴらにすけべショーをやられたんじゃストリッパーだって恥ずかしくなる。聞いた風な口を叩く前に、相方の行方でも捜したがいい」

憎々しく笑う産廃屋を睨み付けていたMの視線が、緑化屋と陶芸屋を捜した。二度周囲を見回した目がやっと、桜の陰に立ちすくんでいる陶芸屋の姿を捕らえた。陶芸屋の背後に、素っ裸で後ろ手に緊縛された緑化屋が小さくなって隠れている。Mは唇をきつく噛みしめた。情けなさで涙が出てくる。緊縛された両手を思わず握り締めた。

「ヤイッ緑化屋に陶芸屋、こそこそと隠れやがって。色キチガイの姐さんが一人で恥ずかしがっているぞ。何が反対運動だ、笑わすんじゃない。縮み上がったペニスをちょんぎられないように、せいぜい大事にすることだな」
凄みのきいた声で言って全員を睨み付けてから、産廃屋はゆっくりと背を向けて門の方へ立ち去っていく。
勝ち誇った様子が後ろ姿に溢れ、怒らせた大きな肩先で花が舞った。


二本の桜の間に吊り下げられたMの裸身が、産廃屋を見送って激しく揺れる。
揺れることのない決心が腹の底から改めて沸き上がってくる。
「産廃処分場の建設など、決して私が許さない」
血が出るほどきつく唇を噛みしめ、去っていく産廃屋の背に無言の怒りを浴びせかける。
股間に燃え上がる黒々とした陰毛の上に、白い花びらが積もっていた。


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