4.渓谷

Mが陶芸屋のアトリエに住み着いてから一か月が経った。
会社には休職の届けをファックスで送ってあった。担当した観光パンフレットのことも気に掛けずに、陶芸屋と修太との楽しい官能の世界に浸り続けていた。この、日溜まりにいるような心地よさは、まるで家族との団らんのようだった。

陶芸屋に感じた熱い予感も、ただの揺らめきだったかも知れないと思えてしまう。刺激が足りないのだ。
アトリエの隅にビニールシートを敷き、思いを巡らせながら粘土をこねる作業を繰り返していたMに、ろくろを回す手を休めた陶芸屋が声をかける。

「随分暖かだし、風もないようだから散歩にでも行くか」
部屋の隅でゲームをしていた修太がすぐ立って来る。
「行こう、行こうよM。俺、飽きちゃっていたんだ」
「それじゃあ、連れていってもらうかな」
手を休めてMが答えると、陶芸屋が「修太、縄を持って来てくれ」と嬉しそうに言う。
「はい」と答えて壁に吊った棚に走り寄る修太を横目に「縛るの」とMが尋ねると「暖かいから当たり前だ」と陶芸屋が笑う。

確かに暖かいと思い、壁際の洗面所で粘土にまみれた手を洗った後、Mはアトリエの中央に立った。一週間前まで、大きな石油ストーブが置かれてあった場所だった。
黒いトレーナーを脱ぎ、ジーンズを脱ぐと、Mはもう素っ裸だった。このアトリエに住み着いてからずっと、下着を着けたことはない。

「裸になるのか」
びっくりした顔で陶芸屋が言った。
「暖かいから当たり前よ」
涼しい顔でMが答える。
「でも、昼日中にいいのかなあ」
「何言ってるのよ。裸になるのは私なのよ。それとも、あなたも裸になる。さあ、きつく縛って」
壁にもたれたまま修太が、二人のやり取りをニヤニヤしながら見ている。どうひいき目に見ても、父の分がいいときは一度もなかったと修太は思った。とにかく、Mは子供心にも凄く格好良かったのだ。

形良く盛り上がった尻の上で、後ろ手に高く交差した両手が縄を催促する。
思い切って立ち上がった陶芸屋が修太から黒い麻縄を受け取り、背中で交差させた両手首を厳しく緊縛した。手首を縛った縄を首筋近くまで引き上げ、左右に分けた縄尻を豊かな胸に回す。乳房の上下を二巻きした縄を二の腕に回し、背中で縄止めした。

「随分シンプルな縄目ね。腰縄も打ってちょうだい」
不満そうに言うMに「散歩に行くんだから。活動的な縄目の方がいいよ」と、陳腐なことを言う陶芸屋。Mに言われるままに、もう一本の黒縄でウエストを二巻きして、腰縄の端を持ち「さあ、行こう」と声をかけた。
小さくうなずいたMは、幾分うつむいて歩を進める。

先に立って引き戸を開けた修太に続いて戸外に出る。穏やかな春の日差しがまんべんなく裸身を包み込む。白い肌が光に包まれ、透き通ってしまいそうだ。陶芸屋も修太もまぶしそうに、後ろ手に緊縛された裸身に見入った。

「誉川の上流へ行ってみよう。上流なら人の来る心配がない」
陶芸屋の言葉に、またMが噛みつく。
「私は、いくら見られても構わないのだから。下流がいいな。修太の分校も見ておきたいし」
「そんな、恥ずかしいよ。分校はいつでも見られる」
「私の身体のどこが恥ずかしいの。別に自慢する気はないけれど、恥ずかしい所などありはしないわ」
Mの剣幕に身体を縮めた陶芸屋が即座に話題を変える。
「ごめん。悪かった。上流で通洞坑の入り口を見せたかったんだ。通洞坑というのは、鉱山の一番下に水平に掘られた坑道なんだ。この通洞坑を中心に、鉱脈に沿って縦横に坑道が走ることになる。いわば基本となる坑道だね。これから散歩に行く先に元山鉱の通洞坑があるんだ」

「そう、勉強になるわね。それから修太、小さな方のウインチを持っていってね。高い木から吊り下がってみたいの」
陶芸屋の解説を上の空で聞き流したMが、修太に何気なく命じる。
聞いていた陶芸屋の顔に、また驚きが走る。
驚きの表情を横目で見たMが、にっこり笑って機嫌を直す。

小型のウインチを入れたザックを背負った修太に先導されてMは歩み始めた。縄尻を持った陶芸屋が後に続く。黒のトレーナーとジーンズ姿の親子に挟まれた白い裸身が早春の日に輝いている。
荒れ地を横切って誉川の川岸へと向かう。Mの素足に石くれが痛い。歩を進めるごとに積み重なっていく微かな痛みの集積に、ゆっくりとした速度で官能が疼き出す。
全身に降り掛かる日差しが熱いくらいだった。

Mは背筋を伸ばし、心持ちうなじを垂れ、股間を隠すように内股で歩く。擦れ合う左右の内腿が、いやが上に性感を高める。胸元に目を落とすと、黒い縄で緊縛された乳房の上で固く尖っていく乳首が見えた。

いつの間にか後ろに回った修太が、手に持った竹の物差しの先で意地悪く裸の尻をつつく。切なそうに左右に振られる双臀に味をしめた修太は、今度は尻の割れ目を狙ってくる。物差しの先が肛門に当てられ、歩みに連れて粘膜を割り開く。小さな声でMが喘いだ。
濡れ始めた陰部を不器用に突いた後、竹の物差しが股間で固定された。持ち主が代わったのだ。

日差しを受けて火照った滑らかな肌と、悩ましく腰を振る歩みを見て、耐えきれなくなった陶芸屋が修太から竹の物差しを奪ったのだ。代わりに縄尻を持った修太が楽しそうに前に回り、緊縛された裸身に打った腰縄を曳いて歩く。

陶芸屋の持った竹の物差しが股間深く差し込まれた。見下ろしたMの視線に、燃え上がる陰毛を分けて前方に突き出した物差しが映った。物差しは絶えず陰部に向けて上げられている。性器と肛門を怪しくなぶられながら、Mは尻を左右に振って歩いた。股間を襲う悩ましい痛みが全身に伝わる。陶芸屋は物差しに加える力を微妙に加減したり、差し込む角度を変えたりして、切なく悶える裸身の反応を楽しんでいる。陵辱の待つ刑場に曳かれていく女囚のようだと、Mは思った。

限りなく肌が火照り、汗が滲み出す。じっとりと素肌から染み出した汗が裸身を濡らし、陶芸屋の目を楽しませた。これだけ美しい艶は陶磁器では出せないと、またもや陶芸屋は思い知ってしまうのだった。

いつしか道は、渓谷沿いに急勾配で上っていた。切り立った山が両側から迫り、日差しを遮っていた。眼下に誉川の急流が渦を巻いている。冷たくなった風も、今のMには心地よかった。
歩き始めて三十分も経ったころ、股間をなぶる物差しが急に引き抜かれた。

「着いたよ」と言う修太の声で前方を見ると、錆びて赤茶けた鉄橋が対岸の道路へと続いているのが見えた。長さは十メートルほどで、断ち切った両岸の岩壁を繋いでいる。
突き出した巨岩を回り込んで小道を行くと、高く断ち切られた岩盤の真ん中に、石をアーチ状に積み上げた坑道の入り口が穿たれていた。鉄扉の閉まった入り口の幅は約二メートル、高さは三メートルほどで、意外にこじんまりとしたものだった。アーチの上に、やっと読み取れる文字で通洞坑と標されてあった。

「対岸の道路はかつて、トロッコの線路だったんだよ」
自慢そうに話す陶芸屋の解説を聞き流して、Mは眼下に続く渓谷を見下ろした。
蒼く輝く渓流は、二十メートルほど下で美しく渦巻いている。この荒れ果てた土地に、再び恵みをもたらす命の水だ。
「美しい渓流だろう。元山沢の誇りなんだ。この渓谷を産業廃棄物で埋め尽くそうとするやつがいるんだからあきれる。俺は絶対に許さない」
陶芸屋の興奮した声がMの耳元を掠め、渓流を下っていった。

しばらくの間、吸い込まれてしまうほど熱心に渓流を見つめていたMが、表情を固くした陶芸屋を振り返った。上下を厳しく緊縛された乳房を前に押し出すようにして、毅然とした声を響かせる。
「お願い。私を渓谷に吊して。このままの姿で頭から渓流に向かって吊して欲し
いの」
「そんな、無茶な」
「無茶じゃないわ。修太がウインチを背負ってきたでしょう。それを鉄橋に据え付けて、私を吊り下げて欲しいの。きっと私は、美しいあなた達の渓谷と一体になれるわ。ねえ、お願い」
大声で訴えるMの言葉の中で「あなた達の渓谷と一体になれる」と言った声が、陶芸屋の胸を打った。

「えっ、産廃処分場反対のために、人柱にでもなるつもりか」
我ながら陳腐な言葉が口を突いた。
「そんな者にならないわよ。ちょっと想像力が過剰なんじゃない。いくら私が裸で縛られているからといって、ご都合主義に流れられたのでは、たまったもんじゃないわ。もっと現実的に、遊び心で考えてくれないかしら」
「すまん」

また謝った陶芸屋が修太を呼んだ。背中のザックからウインチを取り出し、赤錆びた鉄橋の一番太い鉄骨に据え付ける。
「修太は下に降りてMをサポート」
勝手知った遊び場の斜面を、飛ぶように修太は下って行った。
「足首を厳重に縛って」とMが訴える。
「タオルを巻かなくてもいいのだろうか」
「そんな物、持ってこないでしょう。あなたは、自分の渓谷に素っ裸で吊される陽子さんの姿でも思い描いてなさい」
Mの言葉で吹っ切れたように、大きくうなずいた陶芸屋が足元にうずくまる。用意した黒縄を四重にして足首を縛り上げた。その四本の縄を束ねてウインチのフックに繋ぎ止めた後、冷静な口調で鉄橋の端に腰掛けるように指示した。
冷たい鉄骨に座ったMの尻を冷気が舐める。まだ、引き返せると思ったがプライドが許しはしない。

「行きます」
短く陶芸屋に告げたMは、前のめりになって渓谷へ身を躍らせた。
一瞬ふわっと宙に舞った裸身が瞬く間に落下し、両足首を緊縛した四本の麻縄で空中に支えられた。
全身を衝撃が襲い、激痛が足首から脳へと駆け下りる。
激しいショックで失禁し、胸に伝い落ちる生温かい尿の感触で冷静さを取り戻した。

逆さまになった風景が馴染まず、首を起こして上を見ると、意外に近い所に鉄橋があった。心配そうに身を乗り出した陶芸屋の見開かれた目と、目が合った。無理して微笑みかけてやると、やっと安心した表情が戻った。かわいい人、とMは思う。

「大丈夫よ。ずっと下まで降ろして」
陶芸屋がうなずくのを見てから頭を下ろした。
世界は相変わらず逆立ちしている。山が、谷が、樹木が、渓流が、すべてが逆立ちしてMを迎えている。
感覚が慣れると眼下に遠く、渦を巻く清冽な渓流が流れ下っているのが見えた。その風景が不規則に揺れる。身体も頻りに、頼りなく揺れる。意志に関係なく前後左右に揺れ動く感触は、自分の肉体を自分で制御できない頼りなさと不安を、強烈にMに教えた。まるで日常の暮らしに隠された秘密を、まざまざと見せ付けられたみたいだ。

「ああ、やっぱり、何ほどのことはない」
声に出したとき、身体が下がっていくのが分かった。陶芸屋がウインチの操作を始めたのだ。
渓流のドウドウという岩を噛む音が、Mの間近で響いている。長く落ちた髪の先を急流が洗っていくのが分かる。時折岩にぶつかり、跳ね上がった飛沫が顔や乳房にまでかかった。
足首に痛みは感じなかったが、長く延びた銀色に光るワイヤーの先を支点にして身体全体が揺れ動いた。川岸の大きな岩の上に、修太が逆さまになって立っているのが見える。感動した眼差しでみつめる視線がくすぐったかった。

谷を渡る冷たい風が容赦なく裸身をなぶって川下に下っていく。風は剥き出しの股間で陰毛をなびかせ、長い髪を揺すっていった。ちょうど、渓谷のまっただ中に身体があり、その肉体はもう、渓谷の主要な一部になったと、ふっと身体を離れていく意志が肉体に告げていった。

ぼんやりと霞む視界に、鮮やかな光景が浮かび上がる。渓谷と一体となった逆立ちの裸身が、瞬く間に産業廃棄物で埋められていく。瓦礫の山に埋没した裸身が空気を求めて喘いでいる。息苦しさが身体全体を被ってしまい、渓谷が身悶えした。
真っ暗な視界の中で産業廃棄物に埋め尽くされるもう一人の裸身に、Mは必死で追いすがろうとした。鼻の奥でツンッと鋭い刺激臭がして、頭が痛んだ。


陶芸屋の目の下で、逆立ちした裸身が揺れている。
きつく揃えた足首を緊縛された二つの足裏が、ピンク色に見える。内に折られた足指が時折、そっと外に開く。かかとの後ろに丸い尻が見え、尻の割れ目が引き締められたり緩んだりして揺れる。風が立つと長い髪がなびき、渓流に踊っていた。陶芸屋は目を見開いたままじっと、飽かずに揺れ動く尻を見つめ続けた。

「何をしているんだ。お前の家に寄ってきた所なんだぞ」
不意に対岸から大声で呼び掛けられた。
ギョッとして声の方を振り向くと、ジャンパー姿の緑化屋と白髪の老婦人が、あっけにとられた顔で陶芸屋を見ている。白髪の老婦人は町医者の奥さんであることが知れた。

「いや、ちょっと取り込み中なんだ」
「困るじゃないか。産廃処分場が及ぼす悪影響についてのリポートを、県知事に出すことは言ってあったはずだ」
「俺は専門的なことは分からないよ」
「誘致反対の要望書も添えたいんだよ。あんたのサインと印がいるんだ」

「明日にしてくれないか、」
陶芸屋が答えきらないうち「アッ」という叫びが、町医者の奥さんの口から洩れた。
気付かれたと思ったとき、緑化屋の興奮した声が耳を打った。
「あの女は何だ。裸で吊り下げられているぞ。どうしたんだ、早く助けないと大変なことになるぞ」
「川沿いの岩の上にいるのは修太ちゃんよ」
俺の方が大変なことになったと、陶芸屋は頭を抱え込んでしまった。

「父ちゃん。大変だよ。Mがぐったりした」
修太のかん高い叫びが耳を打った。慌てて下を見ると、まるで人形になってしまったように、Mの裸身が無機的に揺れている。さっと頭から血が引いて行くのが分かった。震える手でウインチを操作するが、思うように動かない。
鉄骨伝いに鉄橋を渡って来た緑化屋が陶芸屋を押し退け、ウインチのストッパーを外した。レバーを動かし、ワイヤーをゆっくり引き上げ始める。

「そうだ、ストッパーだった」
力無くしゃがみ込んだ陶芸屋の口から、情けない声が洩れた。
緊縛された足首が手の届く所に上がってくる間、陶芸屋には永遠に近い時間が流れたように思われた。
てきぱきと事を運ぶ緑化屋を手伝い、引き上げた足首をしっかりと両手で支える。手に伝わる冷たい肌の感触が、陶芸屋の全身を凍らせる。

早く全身を引き上げようと、両手に力を入れると、Mの腰縄に手をかけた緑化屋の叱責を浴びる。
「だめだ。ゆっくり引き上げるんだ。鉄骨に当たって肌が破れてしまうぞ」
二人で裸身を抱え上げ、ようやく水平にした足首からウインチのフックを外す。脚を持った陶芸屋が急いで足首を縛った縄を解き、岸に運び込もうとすると、胸を抱えた緑化屋が押しとどめた。

「そっちはだめだ。俺の車に行こう。奥さんもいるから看てもらえる」
対岸の道路に止めた白いステーションワゴンを顎で指す。車の前に、心配そうにこちらをうかがう町医者の奥さんの顔が見える。看護婦の資格を持った奥さんがいれば安心なはずだった。
仕方なく従おうとすると突然、緑化屋が両腕で抱えた裸の胸に顔を寄せる。陶芸屋がギョッとしたときにはもう、上下を黒い麻縄で緊縛された左の乳房に耳を当てていた。

「大丈夫。鼓動はしっかりしている。さあ、行くぞ」
緑化屋の声に、ほっと胸をなで下ろしたが、すっかり仕切られてしまった陶芸屋は憮然とした表情になる。
ワゴンの後部ドアを開き、緑化屋が一歩車内に入った。

「私は大丈夫。頭に血が上ってしまっただけよ」
カラッとしたMの声が響き渡った。
「それから、私も産廃処分場に反対することに決めたわ。ここで暮らす人たちには、この沢が必要なのね。逆さまになって渓谷と一体になったとき、よく分かったわ」
宣言するように大声で言ったMは、脚を抱えた陶芸屋を蹴って遠ざけ、ワゴンの床に腰を下ろした。

慌てて手を離した緑化屋を、Mが振り返って見つめる。
「ありがとう」
明るい声で言ってから、大きく息を吸って立ち上がった。足を開いて大地を踏みしめ、後ろ手に緊縛された胸を張った。ゆっくりと周囲を見回す。

「逆さまの世界もいいけれど、普通の世界も、まんざら捨てたもんじゃないわ」
平然と言ってのけたMの顔を、全員の目が見つめた。

「Mっ」
対岸で修太の叫ぶ声が響いた。
さっと、ガードレールの前まで走ったMが、修太に向かって緊縛された裸身を左右に振る。
三人の目の前に、Mの後ろ姿が残された。
すらりと長く伸びた脚の上で、豊かに引き締まった尻が奔放に左右に打ち振られている。
とんでもない散歩になったと、陶芸屋は後悔した。


次の日曜日の朝、緑化屋と町医者の奥さんが連れ立って陶芸屋のアトリエを訪ねて来た。
先週はMの救出騒ぎで、産廃処分場の問題を片付けることができなかったのだ。
緑化屋はダークスーツで身を固めていた。白いシャツの襟元を飾った、紺地にシルバーのストライプタイがまぶしい。今からでも中央官庁に出勤できるような身支度だった。これまで作業服かジーンズといった、くだけた格好ばかり見慣れていた陶芸屋の目には、改めて緑化屋の置かれた地位を知らされるようだ。

「そんなに見つめるな」
一声かけてアトリエに上がって来た緑化屋は、陶芸屋の前にゆったりと座った。
部屋の隅でつまらなそうにテレビゲームをしていた修太が、二人に挨拶もせず立ち上がり、奥の部屋に消えた。

「歓迎されてないみたいね」
つぶやくように言った町医者の奥さんが緑化屋の隣に腰を下ろす。
「先週のことを気にしているのか」
緑化屋が尋ねた。

「いや、そんなことはない」
陶芸屋は即座に答えたが、二人を前にして気まずさがないと言えば嘘になった。
「あの女の人は大丈夫だったの」
緊張した雰囲気の中で、奥さんが直截に尋ねた。陶芸屋の顔がやっとなごむ。
「ええ、元気なものです。Mっていいます。今は市に行っている」
「そう、Mさんっていうの。今も一緒にいるというのなら、あなたが乱暴をしたわけではないのね。安心したわ」
「いくら奥さんでも、怒りますよ。俺が女に乱暴するわけがないでしょう」
言ってから陶芸屋の頬が、さっと赤くなった。乱暴したのでなければ一体、俺は何をしたのだろうと思ってしまう。Mなら「好きなことをしただけよ」と涼しい顔で答えるだろうと思い。はっきり答えられぬ自分が我ながら情けなくなる。

「Mは今、産廃処分場反対のビラを作るために、市へ調査に行ってるんです。町の人たちにビラを配るそうですよ。行動的なことが好きなんです」
話題を変えようとして言った言葉に、奥さんが「まー、良く気が付くわね」と感動した声で応じた。

「町の人に、俺たちの考えを知ってもらうのはよいことだ。しかし、もう知事の許可を待っている段階だからな。やはり知事に働きかけるのが一番いい」
冷静な口調で断言した緑化屋が、手元の書類鞄を開けて厚く綴じたテキストを取り出す。
「産業廃棄物処理施設が生態系に与える悪影響と、排出水が河川を汚染する蓋然性についてまとめたものだ。今日、個人的に知事と会って渡してくるから、地元住民の反対要望書にサインをして印をついて欲しいんだ」

陶芸屋は、難しい言葉に煙に巻かれた気持ちがしたが、差し出された一枚の紙に見入った。良く読みはしないが、文末に並ぶはずの氏名が空欄になっているのは分かった。
「誰もサインしてないじゃないか」
「お前の後に俺がサインする」
「やはり、年長者の奥さんが先がいいな」
「奥さんはサインできない」
「えっ、元山地区には分校のセンセイを除けば三世帯しか住んでいないんだぜ。全員サインしなければまずいよ」
驚いて言いつのる陶芸屋の声に、太いエンジン音が重なった。車のドアを閉める金属音に続いて、玄関の引き戸が開けられた。
「ただいま」と言う、明るい声とともにMが入って来る。
「まあ、皆さんお揃いで深刻な顔しちゃって、落城前の鳩首会議みたいね。まだ、戦は始まったばかりなんだから、もっとリラックスしなければだめよ」
Mの陽気な声を無視するように、町医者の奥さんが話し始める。

「陶芸屋が言うことはもっともだと思うわ。私と孫の光男はこの地区に住んでいるのだし、産廃処分場の建設にも反対なのだから、サインするべきなのね。でも、どうしてもできないのよ。これは、亡くなった夫の遺志なの」
「先生は、あんなにこの渓谷が好きだったのにどうしてですか」
陶芸屋が反射的に聞き返した。
「確かに、町の診療所を閉鎖して、ここに住み着いたときから、私たち夫婦はこの谷が好きになったわ。でも、ここに来る前に、町では色々なことがあったの。あなたも少しは覚えているでしょうけど、鉱毒を巡ってたくさん争いがあったわ。夫は医者だったから、様々な思惑で利用されそうになったの。総合病院の初代院長にならないかという誘いもあった。でも、夫は医業以外、何一つしようとしなかったわ。医者は病気を治すことだけ考えていればいい、というのがあの人の口癖だった。暮らしについては、住んでいる人が自分自身で決めればいい。医者が影響力を行使すべきでない、ということなのね。だから、私も夫の遺志に従うことにしたの。今だって奥さんって呼ばれるくらいだもの。夫と縁が切れないのよ」
元山沢を杖を突いて散策する、穏やかな表情の在りし日の老医師の姿が目に浮かび、陶芸屋は目を伏せて黙り込んだ。

「奥さんは医者ではないでしょう。今は、この地区の住民の一人なんでしょう。亡くなった人の思惑などに縛られていないで、自分の責任と人格で選択するべきだわ」
手に持った分厚いデザイン資料を床に置いて、Mが言い切った。
「Mさんというんですってね。まだ紹介もされていないのに失礼だけれど、あなたのように自由に決断できる女性はそれほどいないのよ」
奥さんも、はっきり言い切った。

「今からでも遅くないわ。奥さんも自由に決断できる女になればいい」
「随分乱暴な意見だと思うわ。人にはそれぞれが生きていく上で背負ってきた規範というものがある。そう簡単に手放すことができるものでないのよ」
「規範があろうと、法律があろうと、生きていくのは自分一人の仕事でしょう。独りでも生きるんだと決意すれば、どんな規範からも自由になれます。所詮、人が作ったものですから、決心さえすれば人が自由にできると思いますよ」

「自由にも色々あるわ。ひょっとして先週の事件も、あなたが自由に演出したことなのかしら。裸になるのは自由だけれど、びっくりさせるのは困り者よ」
奥さんが、興味深そうに尋ねた。
「ああ、逆さまになって渓谷と一体になったことね。あれは、陶芸屋と修太、そして私の共同作業よ」
「危険だとは思わなかったの」
「肉体の危険を冒さないで、自分の決心を検証することはできません」
「そう。私などが考えもつかなかった新しい女性が生まれてきているのね。楽しくなるわ。でも、だからといって、私はあなたのように自由に決断することはできない。私は私の規範を選ぶわ」
「そうでしょうね。別に強制はしない。私はサインするわ。今はこの谷の住民なんだから、真っ先にね」
Mは素早く陶芸屋のそばに行き、紙片を取って座り込む。ウエストバックからボールペンを取り出し、素早くサインし押印した。

「いいのか」
慌てて問い掛ける陶芸屋に「ま、いいだろう」と答える緑化屋。
「当たり前よ」と、Mの声が被さる。
奥さんを除く三人が署名捺印を済ませた。

県知事に会いに行く緑化屋と、奥さんを送ってMと陶芸屋も外に出た。
明るい光と、さわやかな風が全員を包み込む。奥さんと話す陶芸屋のそばから抜け出し、緑化屋がMと並んだ。

「Mさん。縛られるのがお好きなようだけど、」
言葉を詰まらせる緑化屋に頓着せず「好きよ」と短くMが答える。
「あの、縛ることは好きじゃないの」
ダークスーツに身を固めた頬を真っ赤に染め、小さな声で尋ねた。
「裸の男を縛り上げるのも大好き」

楽しそうに笑って答えるMの顔を、緑化屋がのぞき込む。朝の光を浴びた瞳の中に、ぽっと点る赤い火が見えた。縄で縛られる感触が緑化屋の全身に甦る。背筋を熱い予感が走り去った。Mに縛られてみたいと心の底から熱望した。

白いステーションワゴンの助手席のドアを大きく開けたまま、緑化屋とMを待っていた奥さんが浮き立つような声を出した。

「Mさん。今、陶芸屋と話していたんだけど、弦楽五重奏団の花見コンサートにご招待するわ。ぜひ、皆さんで来てください」
「あのモーツァルト。奥さんも演奏するんですか」
「ええ、私は、ゲストの第二ヴィオラなの。コンサートマスターのチェロには私から言っておくから、ぜひ来てくださいね。夜桜見物を兼ねた個人的なコンサートだから、何か新しい決心があれば、遠慮せずに検証してくださって結構よ」
「ええ、弦楽五重奏曲第四番ト短調と、爛漫の桜に相応しい自己検証をするわ」楽しそうなMの声が、山並みに流れていった。


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