10.修太

修太は後ろ手錠のまま正座した姿勢で半身をひねり、懸命に歯を使った。
センセイの首を巻き、教卓の脚へと引き延ばされて括り付けられた縄を、歯で噛み切ろうとしていた。
口の中に縄の繊維が残り、唾とともに喉を通っていく。もう少しで噛み切れそうだった。細くなった縄の感触に喜び、首を突きだして曲げ、犬歯できつく縄を噛みしめる。
頭を左右に大きく振ると、ギシギシと音を立てた後ぷつんと縄が切れた。同時に喉を絞められ
たセンセイの「ウー」という呻きが頭上で聞こえた。

「センセイ、縄が切れたよ」
大きな声で言って立ち上がり、教卓にうつ伏したセンセイの白い裸身を見下ろす。
「ありがとう。ちょっと後ろを向いていて」
うつ伏したまま修太を見上げたセンセイが、しっかりした声で言った。
裸身に見入った頬を赤く染め、修太がさっと後ろを向く。
センセイは、教卓の脚に手錠で縛られたまま大きく左右に開かされた両足に力を入れて立ち上がった。

疲れ切った顔の下のほっそりした首に、黒い縄が二重に巻かれていた。形の良い小振りの乳房が荒い呼吸に応じて震えている。キュッと締まったウエストから腰が広がり、開かれた股間で豊かな陰毛が黒々と燃え立っていた。

鼻の先までずり落ちていた眼鏡を顔を左右に振って払い落とす。
床に落ちた眼鏡が鋭い音を立てて割れた。
振り返る修太に「見ないで」と厳しい声で言って、左右に開いた両足を動かそうとした。しかし、足首を噛んだ手錠はビクともしない。

急に暑さが気になる。素っ裸にされた身体全体から、粘った汗が噴き出しているようだった。汗に含まれた塩分が沁みるためか、火照った尻と疼く肛門が悲鳴を上げている。

「つむじ風のようだった」
声には出さず、疲れ果てた心の中でぽつんと言った。
終業式の教室を瞬時に襲った暴力の嵐を思い返す。長い長い屈辱の時間が終わったことを、汗にまみれた裸身の痛みでやっと実感できた。
やはり、何かが狂ったとしか考えられなかった。

産廃処分場の建設反対の運動が盛り上がり、県知事が建設の認可を与えない腹を固めたことは、今朝の助役の電話で知っていた。しかし、産廃屋がこうも早く、それも反対派の子供たちを拉致することで局面の打開を計るなど、今でも考えられなかった。例え破れかぶれで反対派を拉致したとしても、警察が介入する刑事事件として処理され、産廃処分場建設の認可など雲散霧消してしまうに違いなかった。
計画的な事件ではないとセンセイは思った。あの秘書役といっていた女が、独断で動いたものと確信した。

「軽率には動けないな」とセンセイは思った。
確かに教室から子供が拉致されたのだから、本来ならすぐ警察に通報すべきだった。しかし今は、産廃処分場を巡って事態が入り組みすぎていた。とりあえず産廃屋からの反応を待つべきだと思う。特にこの格好では警察は呼べない。センセイは惨めな裸身を見下ろし、身体全体を赤く染めた。

白いワンピースの残骸が敷かれた教卓の上にまた、うつ伏してしまう。そのままの格好で修太に声をかけた。
「修太さん。お父さんを呼んできて」
「うん。警察も呼んでもらおうか」
「いいえ、警察はまだいいわ。とにかく、すぐ来てもらって。お父さんには、その時センセイがよく話すから。急いで」
「うん」と、元気良く返事をした修太が、後ろ手の手錠を鳴らしながら駆け出していく。
陶芸屋に縛られた恥ずかしい裸身を見られるのは仕方がない。センセイは覚悟を決めた。その後の対応が難しいのだ。祐子や光男のことより、そのことが優先されると、当然のようにセンセイは思った。十分威信を保たねばならない。
久しぶりに教師の矜持を感じ始めていた。


修太は後ろ手のまま休まず駆けた。全身から汗が噴き出し、大量の熱気を吸い込む喉が痛んだ。
ログハウスのある対岸に渡る橋の袂で転んでしまった。顔から地面に倒れ、額と頬を擦りむく。構わず立ち上がって走り始める。
開け放たれたアトリエの戸から土間に飛び込み、喘ぐ声に力を込めた。

「父ちゃん、大変だよ。祐子と光男が眉なし女に誘拐されたんだ」
ろくろの前に鉢巻き姿で座り、大振りの皿と取り組んでいた陶芸屋が顔も上げずに答える。
「今日は終業式だったな。よっぽど成績が悪かったんだろう。悪い冗談はやめて食事の支度でもしろ。Mは留守だからな」
「冗談じゃないよ、本当だよ。ほら、俺も縛られているんだ」と言って後ろを向き、後ろ手の手錠を突き出した。
やっと顔を上げた陶芸屋が、修太の後ろ手を見て笑った。
「やっぱり玩具の手錠じゃないか。悪ふざけもたいがいにしろ」
「玩具じゃないよ。金属製だよ。どうやっても抜けないんだ」
「子供のくせに玩具の使い方も知らないのか。指で鍵穴の辺りを探って見ろ。小さなレバーがあるから、指先で上げるんだ。すぐ外れてしまう」

修太は言われたとおり、右手の人差し指で左手首を拘束した手錠の鍵穴の部分を探った。平らな金属の上の鍵穴の縁に、小さなレバーの感触があった。指先に力を入れてスライドすると、簡単に手錠が外れた。
あまりのあっけなさにしばし、ぽかんと口を開けて右手にぶら下がった手錠に見入った。金属でできてはいたが、修太の目にも精巧な造りには見えない。一目で玩具と分かった。だから眉なし女は、みんなを後ろ手にして手錠をかけたんだ、と得心がいった。あの恐ろしい状況の中で、後ろ手に手錠をかけられれば、それを玩具と疑う者など一人もいない。
あの眉なし女は頭がいいんだと、修太は感心してしまった。

「ほら見ろ、玩具だろう。早く昼飯の支度をしろ」
「確かに玩具だけど。祐子と光男が連れて行かれたのは本当のことなんだ」
誘拐という言葉が、出しにくくなっていた。
いつになく冷静すぎる父の態度が意外だった。この一か月間、秋の展示会に出す作品造りに真剣に取り組んではいたが、それにしても父の対応は素っ気なさ過ぎた。
「本当なんだよ。とにかく学校へ行ってくれよ。センセイが縛られたままだから、助けを呼ぶように言われたんだ」
「もう、お前だって手錠を外ずせるんだから、縛られているのが本当でも俺が行くことはない」
食い違う話に苛立った修太は、やはりMでなければ話にならないと思った。
「Mはどこにいるんだ。Mに頼むからいい」
「Mは会社の仕事で、元山渓谷の写真を撮りに行った。今ごろは、通洞坑の下の渓谷にいるはずだ」
「分かった。俺、行って来る」
「昼飯はどうした」
下を向いたまま、ろくろを回す陶芸屋が厳しい声を出した。
「飯なんか食うな」
大声で怒鳴り、左手から外した手錠を陶芸屋に向けて投げ付けた。
手錠は、ろくろの上で回っている制作中の大皿の中に落ちた。
「コラッ」
叱りつける声にも動ぜず、じっと陶芸屋の目を見つめる。
「父ちゃん。学校には必ず行ってください。センセイが父ちゃんの来るのを待っているんだ」
冷静な声で言えたことに内心喜び、修太は外に向かって一散に走り出した。

修太は元山渓谷へと続く山道を駆ける。
もう、服は汗でぐっしょりと濡れてしまっている。走る身体に布地がべったりと張り付く。修太は立ち止まってシャツを脱ぎ捨て、ズボンも脱いだ。パンツ一枚になったが、そのパンツも汗と精液にまみれている。
思い切ってパンツも脱ぐ。剥き出しの股間に緑陰を渡る風が心地よかった。生え始めた陰毛が風に揺れる。
修太は素っ裸で、また走り始めた。

渓谷の底が見通せる所まで出ると走るのをやめ、渦巻いて流れる渓流に突き出た岩の上を一つ一つ良く見てMを捜した。
しかし、Mの姿はない。見付けることができないまま通洞坑の入り口まで来てしまった。
どこに行ったのだろうと思いあぐね、坑口が見える岩影にしゃがみ込んだ。
目の前にアーチ状の坑道入り口が見える。錆びた鉄扉が入り口を塞ぎ、潜り戸には錠が下ろされている。

力無くうつむいた視界の端で、何か光ったと思った。顔を上げて通洞坑をじっと見つめる。潜り戸に下りた錠が真新しくなっていた。
潜り戸の前に走り、錠を手に取って見た。ずっしりと重い厳重な錠だが、材質がステンレスだ。以前の、黒く錆びた大型の錠とはまるで違う。

慌てて潜り戸の回りを探る。
地面と接する所に、五センチメートルほどの隙間があった。ちょうどそこだけ固い岩盤が傾斜して窪んでいる。
修太は地面に寝そべって隙間に右目を寄せて坑内をうかがった。闇の中に、戸の隙間からぼんやりと入る光が遠慮がちに場を占めている。よほど闇に目が慣れないと、物の形など見えそうにない。横たわったまま目を瞑り、しばらく待った。
そっと目を開けて見ると、やっと見渡せる視界の果てに反射して光る物が見えた。目を細めて

良く見ると、それはカメラのレンズだった。
Mのカメラに違いないと思った。
しかし錠が下りている。不思議だった。立ち上がって戸の前に屈み込み、戸口に口を寄せてそっとMの名を呼んでみた。数回呼び掛けて大声を出そうとしたとき、なぜか眉なし女の顔が浮かんだ。尻を剥き出しにしたまま後ろ手錠で曳き立てられる、祐子と光男の姿も浮かんできた。
ひょっとしてMが閉じ込められたのかも知れない。修太の空想は悪い方へ、悪い方へと進んでいった。

もういても立ってもいられなくなった。坑内に入って確かめるんだ。
修太はニヤッと笑って立ち上がり、凄い速さでもと来た道を走り始めた。通洞坑のある巨大な崖の裏へ回れば、山肌に空いた抜け穴があることを修太は知っていた。
二十分も走れば、崖の反対に出られるはずだった。わずか百メートルの坑道を、二十分かけて迂回するのだ。急げ。

渓谷沿いの道を二百メートルほど下り、道に突きだした巨大な岩を回り込んで木々の立ち並ぶ鬱蒼とした山林に分け入る。周囲の禿げ山が嘘のように、鬱蒼とした雑木の枝が行く手を塞ぐ。
剥き出しの裸身が枝に打たれ、傷つく。構わずに全身に力を入れ、汗を滴らせて山肌を駆ける。
元山沢はみな、俺の裏庭だと修太は思った。


足が痛み、喉元まで喘ぎが込み上げてきたころ、やっと視界が開けた。目の前に見えるなだらかな稜線の下部に、巨大な岩場があった。
大きく息をついてから、修太は岩場に向けて下って行く。
見上げるほどの一枚岩に被さった小振りの岩の影へと回り込み、開いた割れ目に足から裸身を滑り込ませた。すっと身体が落ち、剥き出しの尻にひんやりとした岩肌が触れる。
足が岩盤を踏んだことを全身で確かめてから、ゆっくりとしゃがみ込んだ。硬い岩盤に囲まれた洞窟の下部に、屈んだ背丈ほどの横穴が空いている。屈んだまま天井の岩に手を当てて横穴の中を数歩歩く。手が冷たい岩を離れると、漆黒の空間が広がっていた。

狭い坑道に出たはずだった。右手を側壁に当てたままゆっくりと歩を進める。ライトを持ってくれば良かったと思うが後の祭りだ。闇が怖い。
数メートル歩けば本坑に出るはずだった。側壁に当てた右手に力を入れる。ゆっくりとした歩みだが、規則的に触れる濡れた坑木の列が確実な距離を教えてくれる。こんな無鉄砲な秘密の坑道探検遊びに精出したのも、三年ほど前までだった。今は、成長したにも関わらず、ただひたすらに闇が怖かった。

踏み出す先に底なしの穴が待っているような気がして、上げた足が地面に着く度にほっと溜息が出る。寒い。
踏み出した足が急に水中に入った。
「ヒィー」と、思わず悲鳴が口を突いた。しかし、水の深さは十五センチメートルほどしかない。

池の中を歩く途中で右手に触れる側壁が直角に曲がり、本坑に出た。百メートルほど先に、ぼんやりとした明かりが見える。
入り口から射す明かりではなく人工の灯りだ。Mに違いない。修太は勝手に確信して涙を流した。
恐ろしい思いをして、ここまで来た甲斐があったと思った。叫びだしたくなるのをこらえ、物音を立てないようにしながらそっと近付く。
ひょっとしたら、眉無し女も一緒かも知れないと思ってしまう。しかし、Mが負けるはずがないと思い直し、踏み出す足に力を込めた。


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