15.夏祭り

元山神社は誉鉾岳の山裾にあった。

分校から渓流沿いに一キロメートルほど上り、山側に入る道を五分ほど歩くと、かつて元山鉱の購買所や共同浴場があった広場に出る。共同浴場の横に、神社へと続く石段があった。未だに大小二つの浴槽が朽ちかけたまま、かつての残骸を晒している。男湯に残る青いタイルと女湯に残るピンクのタイルが、キョウチクトウの赤い花の下で悲しい。

緑陰の中、緩やかな勾配の石段を登っていくと、大きな黒い金属製の鳥居が迎える。鉱山から採れた鉱石を製錬し、鋳型に流し込んで作ったものだが、長い時を煙害に痛め付けられ、黒々と腐食が進んでいる。

狭い境内の奥に小さな社殿があった。社殿の前には二体の狛犬が左右に別れて見つめ合っている。
他には、何もない。
鬱蒼と茂る巨木もない。しめ縄の巻かれた巨岩もない。貧相な雑木だけが、剥き出しの神域の回りを囲んでいた。神域といっても、もうこの神社には祭るべき神体は残されていない。三十年も前にやっと、神体だけが町の神社に移されていたのだ。神社の跡と呼ぶべきかも知れなかった。
かつては、共同浴場で汗を流した人たちが浴衣姿で境内に集い、殷賑を極めたという鉱山祭りの日が来ても、訪れる人のない祭日がもう半世紀以上続いていた。


今朝、元山神社は、久方ぶりの賑わいの予感に戸惑っていた。
昔、購買所があった広場に数台の車のエンジン音が響いた。
子供たちの嬌声が聞こえ、長い石段を登り、黒い鳥居をくぐって来た修太と光男、祐子が両脇に抱えた折り畳み式のパイプ椅子を社殿前に置いた。
「もう一つ足りないぞ」
浮き立つ声で修太が叫ぶ。
「力自慢の修太が三つ運んでこないからいけないんだ」
光男が負けずに大声を出した。祐子は黙ったまま、乱雑に置かれた六脚のパイプ椅子を広げて整然と並べ始めた。
まだ日は山の端から顔を出していないが、八月にしては珍しい、青く澄み渡った空が頭上に広がっていた。
いつもはセミの声しかしない元山神社の境内に、絶えていた子供の声が戻っていた。

「ようし、俺がもう一つ運んでくる。椅子を並べ終わったら大うちわを取りに来いよ」
修太が叫んで下の広場に戻って行く。入れ違いに陶芸屋と緑化屋、そして村木が奇妙な御輿を運んで来た。

先頭から来るのは村木だ。御輿から突き出した先棒を一人で担いでいた。先棒の先から二本、両肩で担げるように支柱が出ている。二本の支柱に挟まれた首がユーモラスだった。
後棒は本体から二本長く伸び、それぞれを陶芸屋と緑化屋が担いでいる。
「ようし、静かに下ろしてくれ。せっかくの作品をまだ壊したくないからな」
陶芸屋が言って、三人は御輿を社殿の正面にそっと下ろした。

それにしても奇妙な御輿だった。先棒と後棒がY字形に突き出した御輿だ。中央には五十センチメートル角の板が置かれていた。その板の上に長さ二メートルの白木の横板が載せられ、左右に長く張り出している。横板の両端には錦の座布団が敷かれ、赤と黒、二枚の大皿が固定されていた。神体となる大皿の配置としては異様な扱い方だった。
どういうわけか、Y字の中心に高さ二メートルの柱が、ヨットのメインセールのように突き立っている。

「バランスが採れていて、思ったより担ぎやすい。いい設計だ。きっと、楽しい祭りになるよ」
興奮した声で陶芸屋が言った。
「そうだな、確かに担ぎやすい。重量バランスを考え抜いた甲斐があったよ」
うれしそうな声で緑化屋が答える。
「僕の持ち場が一番辛いみたいですよ」
村木が情けない声でぼやいた。
「若い者の仕事なんだから泣き言をいうな。ほら、もう一つのご神体の準備もある。日が射し込まないうちにしないと遅くなるぞ」
陶芸屋が素っ気ない声で村木に言って、鳥居の方へ戻ろうとした。

三人の男たちも、先ほどの子供たちも、皆普段着だ。誰一人、祭り半纏すら着ていない。服装からは、祭りの華やぎは伝わってこなかった。

そこに、鳥居をくぐって白ずくめの一団が入ってきた。
弦楽五重奏団を迎えて、急に境内が華やかになる。

「おはようございます。夏らしいユニホームですね」
大きな声で陶芸屋が五人に挨拶した。
「おはよう、御輿も置かれて、すっかり祭り気分だな」
先頭のチェロが陽気な声で言った。
ヴィオラのケースを抱えた町医者の奥さんは平気な顔をしていたが、他の三人は奇妙な御輿に戸惑った顔をする。しかし、あの花見コンサートで慣れたのか、異様な御輿のいわれを聞くこともなく、三人の男たちと挨拶を交わしながら演奏の準備を始める。
「恩師、日が山から上ったら演奏を始めてください。音楽が聞こえ次第、俺たちが登場します。つまらない挨拶は一切抜きですからね」
陶芸屋がチェロに言い、男たちは境内を後にした。


チェロを中心に弦楽五重奏団が配置に付いた。子供たちの用意したパイプ椅子に座り、各自が弦に弓を当て、音の調子を合わせ始める。
「皆さんおはようございます。暑くなりそうですね。ご苦労様です」
鳥居の下で大きな声が響き、にこやかな笑みを浮かべた助役とセンセイが入ってきた。
「助役さん、センセイ。おはようございます」
五人の高齢者が小学生のように声を揃えて挨拶する。
助役もセンセイも黒のサマースーツ姿だった。白の上下で揃えた五重奏団とは正反対の服装だ。

「助役さん、今日は町長選挙の告示日でしょう。立候補の手続きはいいんですか」
第一ヴァイオリンの白髪の女性が尋ねた。もっとも、どの女性の髪も皆真っ白だ。
「ご心配をかけます。祭りが終わり次第手続きに行きます。だから、まだ私は候補者ではない。一町民として祭りを楽しませてもらいますよ」
助役が答え終わったとき、山の端からまぶしい日の光が輝き、直射光が境内一面を白く染め上げた。

チェロが姿勢を整え、右手に持った弓を静かに弦に当てた。
モーツァルトの弦楽五重奏曲第四番ト短調、第一楽章の調べが、静まり返った元山神社の境内に響き渡った。歓喜と悲嘆を繰り返す主題がアレグロで駆け抜けて行く。

鳥居の向こうから子供たちの歓声が聞こえてきた。
「ワッショイ、ワッショイ、祭りだワッショイ」
囃し立てる嬌声とともに、それぞれに大うちわを手にした修太と祐子、光男の三人がうちわを打ち振りながら後ろ向きになって歩いて来る。三人のかわいい尻が日に輝いた。皆素っ裸だった。日に焼けた裸身に大粒の汗が噴き出している。子供たちの打ち振る大うちわに扇がれて、Mが姿を現す。やはり素っ裸だ。無毛の裸身の背筋を伸ばし、堂々と歩いて来る。
豊かな乳房の上下に黒い麻縄が二条、厳しく巻かれている。後ろ手に厳しく緊縛された真っ白な裸身が朝の日にまぶしく輝く。
縄尻を持って後に続く陶芸屋も緑化屋も、そして村木も素っ裸だった。村木は両手で股間を隠して歩いて来る。堂々と股間を見せて歩く四人の中で、ひときわ貧相に見えた。

「裸祭りが始まるのか」
狛犬の前に置かれたパイプ椅子にセンセイと並んで座った助役が、あきれた声で言った。
「でも、みんなうれしそう。開放的な祭りですよ」
「そうかな。開放的でないやつもいる。村木を見ろ。情けないやつだ」
助役が苦笑した。
モーツァルトの調べが一層高鳴る。


御輿の前まで来た一行がうずくまり、御輿に一礼した。
Mが陶芸屋に声をかける。
「やはり胸の中央で、上下の縄を一つに束ねて」
黙ってうなずいた陶芸屋が緑化屋から黒い縄を受け取り、乳房の上下を縛った四本の縄の下に二本の縄を通す。力を込めて縄を引き絞ると、胸の中央で上下二条の縄が一つになった。
「ヒッ」
押し殺した悲鳴がMの口を突いた。縄目の間から無理に、変形して突き出された乳房の先で二つの乳首が苦痛に震えた。
「これがいい」とMは思った。カンナにされたのと同じ、過酷な縄目を受けて祭りに臨みたかった。
小さくうなずいたMは、御輿の中央から延びた横板の上に置いた黒い大皿に左足を乗せた。緑化屋と村木が屈み込んで御輿を支える。

大きく足を開き、右足で赤い大皿を踏み締める。カンナの熱い思いが足の裏から全身に流れていった。Mは大きく開いた股間を心持ち引き、まっすぐに伸ばした背筋を後ろの柱に預けた。陶芸屋が柱と一体になるよう、厳重に裸身を麻縄で縛り付ける。

「ワァー」
素っ裸の男たちと子供たちが歓声を上げた。Mの裸身が二つのご神体を一つに繋ぎ、三位一体となった御輿が完成したのだ。

先棒を担ぐ村木を先頭に、陶芸屋と緑化屋が位置に付いた。
「エーイッ」
三人で声を揃えて御輿を担ぎ上げる。
「ワッショイ、ワッショイ、祭りだワッショイ」
囃し立てる子供たちの声がモーツァルトの調べと一体になり、元山神社の境内に轟く。Mの裸身が激しく、上下、左右に揺れる。
揺れ動く裸身が踏み締める赤と黒の大皿に、Mの汗が伝い落ちる。なんとも雄壮で、艶めいた御輿だった。後ろ手に緊縛され、歪んだ乳房を縄目から突き出した無毛の裸身が、熱い日差しを浴びて揺れ動く。

Mは大きく目を見開いて、一切を見る。今日を限りの元山沢のすべてを、記憶し続けようと思った。

助役が上気した顔で、隣に座るセンセイに話しかけているのが見えた。
「いい、実にいい祭りだ。しかし、この裸御輿は、町の観光資源にはできないだろうな」
「住む人が共に楽しむ祭りですよ。ほら、みんな楽しそう。子供たちのあんなに楽しそうな姿は、これまで見たことがありません。私も混ざりたくなってしまう」
センセイが御輿から目を離さずに答えた。
「センセイも混ざればいい。私も楽しみだ」
「助役さんも一緒に行きましょうよ」
「いや、センセイ一人がいい。私は裸になるわけにいかない」
「別に、裸でなくとも、」
「いや、裸でないと参加した意味がない。さあ、センセイどうぞ」
勧められるままにセンセイが靴を脱ぎ、黒のスーツを脱いだ。続いて黒のブラジャーとショーツを脱ぎ捨てた。素っ裸になって、恥ずかしそうに助役に笑い掛けてから、引き締まった小振りの尻を振って駆け出して行った。まぶしそうな目で助役が見送る。

「ワーイ、センセイも来た。ワーイ、祭りだ、祭りだ、ワッショイ、ワッショイ」
センセイの裸身を見て、修太と光男がうれしそうに駆け寄って来て囃し立てる。
じっと一切を見下ろすMの下腹部がツンと痛んだ。吹き出す汗に冷たい汗が混じった。生理の予定はもっと先だったはずと思ったが、大きく開いた股間に熱い感触を感じた。

先棒を取る村木がつまずき、御輿が大きく傾斜した。
Mの股間から、どろっとした赤黒い経血が太股を伝い、地面に落ちた。
見ていた子供たちと、後棒を担ぐ陶芸屋、緑化屋が戦慄した。
御輿が止まり、子供たちが静まり返った。
Mの裸身だけが頭上で直立している。

「バンザイ、Mバンザイ、バンザイ」

唐突に祐子のかん高い声が響き渡った。始めて聞く祐子の声だ。
「私はMが大好き。バンザイ、バンザイ、Mバンザイ」
続けて祐子が叫んだ。

「Mバンザイ、Mバンザイ、バンバンザイ」
修太と光男が祐子に和して叫んだ。子供たち全員が目を輝かせ、小さな裸身を震わせて唱和している。
それを見た男たちの裸身が感動に震えた。陶芸屋のペニスが熱く努張していく。
喉元に込み上げてきた雄叫びを全員が解放した。

「万歳、万歳、M万歳」
男たちの歓声と、子供たちの歓声が元山沢に流れていく。
静かに立ち上がった助役が、ゆっくりと御輿の前に進み出る。両手を一杯に空に伸ばした。

「万歳、万歳、M万歳、元山沢万歳」
モーツァルトの歓喜と悲嘆に乗って、助役の万歳がこだました。


大きく見開いたMの目に、にこやかに笑ってチェロを弾く老住職の顔と、ヴィオラを操る奥さんの顔が見えた。
素っ裸のセンセイが、興奮に震える祐子の裸身を抱き締めている。その回りを修太と光男がうれしそうに飛び跳ねている。

途絶えることのない歓声を耳にしながら、Mはそっと目を閉じた。
両足が踏み締める赤と黒の大皿から、歓喜と悲嘆が交差する確かな手応えを、はっきりと感じ取った。
全員が集い合っているのだと、Mは痛烈に確信した。



BACK TOP Version.4へ



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.