2.事業団と医師

車は市役所の先の交差点を右折して産業道路に入った。市街地には珍しい四車線ある広い道路は、市の北西にある工業団地とバイパスを結ぶ目的があった。しかし区画整理が思うに任せないまま、産業道路はメインストリートの織姫通りと交差したところで絶えてしまう。
Mと光男を乗せたホンダ・ビートも、織姫通りの交差点のずいぶん手前で渋滞に巻き込まれた。

「M、もういいよ。ここで降りて僕は歩く」
助手席で腰を震わせながら、光男が情けない声を出した。オープンにした車で身体が冷え、尿意が襲ったに違いなかった。
「いいわ、降りなさい。光男なら、車内でオシッコをしかねないものね」
Mの声に光男の頬が赤く染まったが、すぐ顔全体に笑みを浮かべてMの顔をのぞき込んだ。
「麻酔科は病院の五階だからね。きっと、後から来てね」
うなずき返すMを確認してから光男はドアを開け、ズボンの前を両手で押さえて車道に降り立ち、歩道へ駆け出して行く。足下がもつれる度に振り返り、笑い掛ける。ひょうきんな光男の仕草に、Mも微笑み返すが、どうも居心地が悪い。光男はもう十八歳で、もはや小学生ではないのだ。光男の頼りなさに苛立ち、妙に保護者振りたくなってしまう。Mにとって危険な兆候だった。これで何度も、自分の位置を見失ってしまったことを思い出す。

「スロー・ダウン」
おまじないのようにつぶやいてみたが、止まったままの車が皮肉に思われ、大きく笑い声を上げてしまった。歩道を歩いて来た命門学院中等部のセーラー服を着た少女が二人、訝しそうにMをのぞき込む。
「おはよう」
大きな声でMが挨拶すると、二人とも頬を赤く染め、足早に去って行った。
「礼儀知らず」
Mが叫ぶと同時に、前の車が走り出した。

織姫通りの手前の信号で左折すると、百メートルほど先の右手に十階建ての市民病院の威容が望めた。鉱山の町まで含めた広域圏全体を射程に入れているといっても、立派すぎる病院だった。
広い入り口の脇に掲げられた看板には、大きな文字で市民総合病院と書かれ、小さく第三セクターと添えてある。地方公共団体と民間団体が資金を出し合って運営する病院だ。光男が言った、市が病院を借りているという意味も理解できた。恐らくコスモス事業団が所有する病院施設を、広域圏内の市町村とコスモス事業団とが一定の割合で出資した第三セクターの市民総合病院が借り上げて経営しているに違いなかった。賃貸料によっては、ずいぶんコスモス事業団に有利な形態だと思われる。黙ってリース業の収益まで上がるのだ。

野球場ほどもある広大な敷地の奥に巨大な病院がそびえ、その周りはすべて駐車場になっている。お決まりの花壇や樹木はどこにも見られない。空いているスペースをすべて駐車場にした、車社会が極まった地方都市にぴったりなレイアウトだった。病院の景観がこれでよいのかと思うが、まず効率を旨とするという、コスモス事業団の方針には合致している。しかし、さしもの広い構内も既に、駐車スペースが見当たらないほど混雑している。
Mは構わず病院の正面玄関に向けて車を進めた。
数台のタクシーが客待ちをしている大きな車寄せの横に、黄色のマーカーで区切られた一台分の駐車スペースを見付けた。一台分とはいえ、軽自動車ならゆうに二台は駐車できる。さすがに理事長専用の立て札に遠慮して、左端に寄せて素早く駐車した。

途端に、鋭い警笛を浴びせられる。見上げたバックミラーに、真紅のフェラーリが映っている。車体が大きすぎて小さなミラーに入りきらない。腹の底まで響く、十二気筒のエンジン音が轟く。
ガッシーンという嫌な音と共に、Mの身体が衝撃で揺れた。慌てて身体を捻って後ろを見ると、バックしたフェラーリがまた、凄い速度で前進してくる。
不快な衝撃が、また全身を襲った。
もう一度後退したフェラーリは、今度は十分にハンドルを切り、小さなホンダ・ビートの横にどっしりと駐車した。運転席のドアが大きく開き、音を立ててMの車体に当たる。
分厚いドアの陰から、身長が百八十センチメートルはありそうな男が、長い足を伸ばして地上に降り立つ。痩身をライトグレーのヘリンボーンのスーツが被っている。いかにも仕立てが良さそうなしなやかなスーツだ。真っ白になった頭髪の下で、三角形に見える目が炯々と光っている。

「済まなかったね。でも、私の駐車スペースを無断で使われては困る」
怒りで真っ赤になったMの顔を見下ろし、初老の男は尊大に言った。少しも謝罪する風ではない。怒りに油を注ぐようなものだ。
「二度も追突しておいて、よく言えたわね。それも、人が乗った車よ。私が怪我をしていれば立派な傷害罪だわ」
運転席に座ったまま、一メートルも上にある男の顔を見上げて、Mが大声を出した。
「理事長、お急ぎください。時間がありません」
フェラーリの助手席から降りて来た白いスーツを着た女が、男の背に礼儀正しく呼び掛けた。
「お聞きの通り時間がない。後は秘書と話してくれ。悪いようにはしない」
Mを見下ろしたまま言って、男は背を向けて玄関へ歩き出す。
「待ちなさい。当て逃げは許さないわ」
大声で叫んでドアを開け、Mは急いで男の後を追う。横目で見たホンダ・ビートの車体は後部が無惨に潰れ、リヤタイヤがねじ曲がっている。
男を庇って立ちふさがった女性秘書と揉み合っていると、玄関から二人の男が飛び出してきた。二人とも腰を深々と折って、男に最敬礼をする。年長に見えるダークスーツの男が、腰を屈め気味にして男を院内に案内して行く。

「待ちなさいよ」
去って行く二人の背に叫ぶと、残った男がニヤニヤしながら近付いて来る。
「やあ、Mじゃないか。久しぶりだね。でも、朝から大声を出さないでくれ」
顔中に下品な笑みを浮かべたケースワーカーの天田が、立ちふさがる秘書と並んで馴れ馴れしい声を出した。
追突事故の相手に去られてしまったのでは、取り残されて大声を出すMは、まるでピエロのようだ。おまけに、天田の出現では最悪の気分になる。たとえ三年前に、無様な裸身を天田の目に晒したからといって、身体を探るような下品な視線は許せなかった。

「おはよう、ケースワーカー。病院の看護士に転職したのなら白衣を着るべきね」
「相変わらず元気がいいね。俺は市のケースワーカーのままさ。福祉医療って言葉も覚えておいた方がいい。三年振りで現れたと思ったら、もう、うちの理事長に絡んでいるんだから頭が下がるよ」
「天田さんの知り合いだったの。助かったよ。理事長が車をぶつけてしまって困っていたところなんだ」
先ほどまでとは打って変わり、粗野な口調で秘書が天田に訴えた。目の前で秘書の長い髪が揺れ、左の耳でダイヤのピアスが光った。小柄だが、よく引き締まった少年のような肢体に、長い髪は似合わない。ひょっとして、営業用のヘアピースかもしれないとMは思った。

「よりによってMの車にぶつけるとは、理事長さんも間が悪い。どうせポンコツ車だろうが、高くつくよ。チハルちゃんも大変だ」
天田の言葉に我が意を得たとばかり、秘書が乱暴な口振りで訴え続ける。
「それが、この人は私を相手にしようともしないんだ。理事長に食い下がろうとしている。大コスモスの理事長さんが済まなかったと言ったんだから、それでいいじゃないか」
「天田さん。私をやくざのように言うことは許さないわ。それに、あの白髪の男がコスモス事業団の理事長とは初めて聞いたわ。写真とはずいぶん違うのね」
二人の子供じみた会話に、Mが釘を差した。

「へえ、Mは理事長の写真を見たことがあるのかい」
「見たことがあるかもないもんだわ。まだケースワーカーをやっているのなら、市長宛に出した取材依頼を知っているでしょう。私は月刊ウェルフェアーの編集者として来ているのよ」
「えっ、いつの間にそんなところに潜り込んだんだい。取材の話は聞いている。理事長にも市長を通して依頼してある。でも、まさかMが取材に来るなんて知らなかった。偉くなったもんだね」
「偉くなんか無いわ。でも、取材妨害はさせないわよ」
Mの厳しい声に、秘書の顔が引き締まる。得心がいったように小さくうなずき、さり気なく口調を改めて二人の間に入る。
「ウエルフェアーの方とは存じませんでした。取材の件は、私が理事長から申し遣っています。追突事故も何かのご縁でしょうから、ここで事前のお話を伺います。ご了承ください」
「ええ、いいわ。まず秘書の方を通すのが礼儀ですものね。でも、先に私の車の損害を見てからにしてくださいますか」
「それには及びません。理事長は、悪いようにはしないと申したはずです。その様にさせていただきます。天田さん。済みませんが、病院の応接室を借りてください。私たちは先に行きます。さあ、どうぞ」
手慣れた調子で先に立った秘書が、丁重にMを玄関に案内する。市職員の天田が足早に病院の事務所に向かった。コスモスの権威は絶大のようだ。

一般用のエレベーターの裏にある、立派なエレベーターに案内された。コールボタンを押すと、待ちかまえていたように扉が開いた。床には厚い黒の絨毯が敷かれている。秘書が十階のボタンを押した。
「このエレベーターも理事長専用なの」
静かに上がって行く方形の空間でMが尋ねた。
「幹部専用です」
秘書が短く答え、Mの顔をまじまじと見上げた。妙に思わせぶりな態度がMの気に障る。
「そう。病院というより会社みたいね。ところで理事長の今朝の予定は何なの」
「高齢者訪問看護事業の最終決定会議です」
今度は、そらんじるような機械的な声で秘書が答えた。悪意さえ感じさせる対応に、Mは戸惑う。もう一度確かめようと言葉を探したとき、エレベーターが止まった。速い。

「応接室へどうぞ」
腰を屈めて案内する秘書に促されて、廊下に出た。
クリーム色の絨毯が敷かれた広い通路の両側に白木の壁が続き、所々に重厚なドアがあった。案内されるまま突き当たりのドアの前に立つ。樫材の分厚いドアが開けられると、目の前に市街が広がっていた。大きな一枚ガラスの向こうに、朝日を浴びて輝く水瀬川までが見通せる。美しい眺めだった。
「どうぞ、ソファーにお掛けください」
ドアを閉めた秘書がMに席を勧める。部屋自体は十畳ほどの変哲のないものだった。
窓に向いた白いレザー張りのソファーにMが座ると、低いガラスのテーブルを挟んで秘書が席に着いた。

目の前で見る秘書の白いスーツはウール地だが、襟がスタンドカラーになっている。お揃いの白のパンツはゆったりとしていて、どことなく外科医が着る白衣のような雰囲気がある。Mの視線を平然と受け止め、対座したまま話し出そうともしない。
「ひょっとして、あなたのスーツは制服なの」
沈黙を嫌って、Mが先に口を開いた。当然とでもいうように秘書がうなずく。
「コスモス事業団のユニホームです。それから、規則でお茶はお出しできません。すぐビジネスの話に入りましょう。コスモスは効率を大切にするのがモットーですから、お気を悪くしないでください」
「構わないわ。私もその方がいい。早速仕事の話をしましょう」

Mが同意すると、アーモンド型をした目がいたずらっぽく笑った。少女の面影さえ残る初々しい笑顔だ。その笑顔から、急にぞんざいな言葉が飛び出してくる。
「Mは仕事もできるんだね。ただの肉体派でなくて気に入ったよ。私はチハル。祐子と一緒に三年前、素っ裸のMと会ったことがある」
「ウーン」
思わずMはうなり声を上げてしまった。世の中は狭すぎる。
三年前のクラブ・ペインクリニックでピアニストと祐子の横に並び、天井から吊り下げられたMとチーフの二つの裸身に見入っていた、見知らぬ少女の姿を思い出した。その場には天田もいたのだから、先ほどの二人の親密な関係にも納得がいった。

「あの時の女の子がチハルだったのね。じゃあ、私の外見はすべて知っているわけだ」
自分でも冷静に言えたとMは思った。ユーモアさえ交えられたことに満足し、素知らぬ顔でチハルを見た。
チハルは、忘れていたことを思い出すように目をつむった。しかし、すぐ開かれた瞳の奥に、意地悪な感情が揺れているのがMの神経に障る。
「知っているさ。剥き出しの尻の間からのぞいていた性器も、ひくひく動いていた肛門も、全部この目で見た」
「そう。だからどうしたというの。過去の記憶を持ち出して交渉するのがコスモスのやりかたなの。フェアではないわ」
チハルの瞳で揺れる悪意と対決するように、Mが応えた。
「さすがMね。祐子がなびきたくなるのも分かる。でも、私が言ったことはすべて、ビジネスとは関係ない。個人的にMを知っているということ。それだけのことさ」
声と共に悪意が消え去り、代わって嫉妬の炎が燃え上がった。
光男の次は祐子かと思って、Mはうんざりする。この街では、動きにくいまでに関係が入り組んでしまっていると、嘆きたくもなる。Mは、自分の責任と人格だけで生きていくことの困難さに当惑した。年齢を重ねるということは、こうした煩瑣な関係に耐えていくことなのだろうかと思い、我慢できなくなる。大声を出して席を立ったら、さぞかし気分がすっきりするだろうと思った。かつての自分に戻れるかもしれない。

「コスモスへの取材に応じる前に、今朝の事故について合意したいと思います」
手の裏を返すようにチハルが、また秘書の仮面を被った。
「いいわ。始めてください」
疲労感を気取られないよう、Mも事務的に答えた。
「これから私の話すことが、コスモスの最終提案だと思ってください。まず、事故車は責任を持って修理します。修理している間の代車は、ご希望のものをコスモスが用意します。もし修理が不能の場合は、提供した車を事故車の代わりに差し上げることになりますから、慎重に選んでください。また万一、あなたの身体に後遺症が出て、事故との因果関係が類推できるときは、一切をコスモスが保証します。これには仕事の休業補償金も含まれます。今回の慰謝料は、十万円。即金で支払います。なお、謝罪については、あなたの専用駐車場への認識不足を勘案して、今朝の理事長の謝罪の言葉で代えます。以上ですが、異議がございますか」
恐らく、チハルが裁量できる範囲内の処理には違いないが、出来過ぎの提案と思われた。何よりも、トラブルを未然に防ぎたい気持ちがありありと出ている。これだけの権限を与えられたチハルは、有能な秘書なのだろう。

今後の取材を考えると、謝罪にこだわるのは得策ではなかった。社会の中に出て行けば、どこにでもそれなりの仕組みが用意されているのだ。仕方がなかった。
「ずいぶん丁重な申し出ね。さすがに、大コスモスと言うだけはある。不満だけれど、合意するわ」
「代車を指定してください」
チハルは不満の内容は聞かない。合意させれば、それがチハルの仕事なのだとMは思った。
「今の車と同程度の、同じ車種」
意地悪くMが答えた。
「それでは同じ物を返せということと同じです。合意はできませんね」
「では、コスモスが用意する車でいいわ」
「それでは、私が決めさせていただきます」
「いいわ」
チハルは少し間を置いてから、片目をつむって口を開く。

「二時間後に、MG・Fを届けさせます。色は赤」
Mがこの市で、三年前に乗っていたのと同じ車だった。チハルにしてやられたような気がしたが、文句があろうはずもない。MG・Fは好きな車だった。
「お願いするわ。でも、できるだけ修理は早くしてね。それから、慰謝料は辞退させてもらいます」
「承知しました」
晴れ晴れとした顔で言ったチハルが立ち上がり、Mに右手を差し出す。二十歳を過ぎたばかりと思われる、幼さの残るチハルに不似合いな仕草だが、後ろに控えるコスモス事業団の影が自然に見せてしまう。Mも立ち上がって手を握った。痛いほど握手されたが、報復する気にもなれない。素知らぬ顔で外の風景に見入った。ふと、ホンダ・ビートは修理に出されないのではないかと思った。体よく、車を人質に取られたような気がした。

「ほら、水瀬川が光っている所の隣。あの工業団地にコスモスの収益事業団がある」
窓を見つめるMの視線に気付き、チハルが手を放して説明した。
「理事長に会わせる前に、私が簡単にコスモスについて話すよ。誤解されると困ることが多いからね」
ぞんざいな口調に戻ったチハルが、小さな胸を張って言った。
「コスモス事業団は、そんなに複雑な団体なの。私は、ゲーム機屋さんが福祉や医療にまで手を伸ばしただけかと思っていた」
「私もコスモスに勤める前はそう思っていた。でも違うんだ。コスモス事業団には、地域文化を創造するという目的がある」
「いわゆる、絵に描いた餅でしょう」
「違うよ。ここだけの話だけど、秘書の権限を越えて分かりやすく話す」
もったい付けて言うチハルの鼻先が、得意そうに動いた。
「いいわよ。分かりやすい方がいい」

「コスモス事業団は、四つの戦闘集団を束ねているんだ。一つが、工業団地にある収益事業団。国内のハイテクゲーム機のシェアを七十パーセント押さえている。海外販売も加えれば、今後も世界規模で突出した利益を上げるはずだ。二つ目が福祉事業団。この地域に五個所の特別養護老人ホームと九個所の在宅介護支援センターを展開している。そしてこの市民病院を核とした医療事業団。最後が建設中の市民ホールを拠点とする文化事業団。この四つの戦闘集団の頭脳がコスモス事業団理事長だと思ってくれていいよ。それぞれが独立しているのではなく、理事長の意志の元に一体となって機能していることが重要なんだ。だから、文化の創造もできる」
「それは、市役所の仕事じゃないの」
「市役所は戦えない。コスモスは戦える。独自の収益を上げられる、税収に頼らない市役所と思ってくれても間違いはない」
「ふーん、それで、収益部門以外は第三セクターにしているのね」
市民病院の形態から類推してMがかまを掛けると、チハルが大きくうなずき返す。
「そう、官民一体となって、この地域に新しい文化を創造する。それが、理事長の夢なんだ。そのために私たちも戦い続ける」
「この地域で成功したら全国へ、そして世界へって言うんじゃないでしょうね。まるで、混迷の今世紀をなぞるようで醜悪だわ」
「そんな先のことは知らない。でも、目的があるってことは毎日が浮き浮きするよ。少なくとも、妹みたいな少女に素っ裸の尻を鞭打たせるよりスリリングだ」
チハルがまた祐子のことを持ち出す。高邁な理想を述べたばかりの口から、嫌になるほど人間的な嫉妬が転び落ちる。自分を巡る関係に根があるだけに、Mには不快だった。

「チハルは相当S・Mショーに興味があるみたいね。職業を間違えたんじゃないかしら」
「私の仕事ぶりは分かったはずだ。薄汚い仲間に誘われるいわれはないよ。ところで、今日は金曜日だから、理事長には月曜の夜以降でないと会えはしない」
「そう、文書で頂いた回答では都合をつけてくれるはずだったけど、秘書のあなたが言うのでは仕方ないわね。待つわ。市の考え方も聞いておきたいし、そちらの予定に任せるわ」

「日程が決まったら、ご連絡します。電話番号をお知らせください」
連絡先が決まっていないのを見透かしたように、秘書の口調に戻してチハルが言った。
「まだ宿泊先を決めていないの。決まったら事業団に電話するわ。構わず話を進めてください」
答えているMにお構いなく、チハルは応接室のドアを開ける。
「予定がないなら、サロン・ペインを訪ねるといい。Mと一緒に吊り下げられていたチーフが、今は一人で店をやってる。二人で素っ裸になって、昔を懐かしめばいいんだ」
悪意に満ちた言葉に、Mの全身が固くなる。怒りを込めて右手を伸ばし、チハルの肩を掴もうとした。素早く手をかわし、廊下に逃れ出たチハルは深々と腰を折って最敬礼する。
「理事長になり代わりまして、本日の御礼を申し上げます。お気を付けてお帰りください」
チハルに隙をつかれたMが、反撃のチャンスもつかめず、体よくいなされてしまった格好だった。

廊下に送り出されたMは、改めてコートを着たままなのに気付いた。たとえ追突事故が絡んでいようと、ビジネスの席だった。コートを着て会談の席に臨んだ迂闊さが悔やまれる。最悪の出だしだった。
朝からの疲労感に、また疲労が重なる。左手に下げた大型のショルダーバックが重い。
背中に張り付くチハルの視線を意識して、Mは胸を張ってエレベーターに向かう。背後からチハルの笑い声が聞こえてくるようで不快だった。


エレベーターの扉が閉まると同時に、Mは肩の力を抜いた。思ったより落ちた肩を回して、五階のボタンを押す。
今さら光男にも、ピアニストにも会いたくなかった。一階まで直通で降り、都会まで舞い戻りたかったが、そうもいかない。チハルが約束した代車のMG・Fが来るまでに、まだ一時間以上ある。
瞬く間に高速エレベーターは五階に着いてしまった。

今までいた同じ病院とは思えない喧噪が、Mが降り立った五階のフロアーに満ちている。廊下の脇に雑然と置かれた点滴用スタンドなどの医療器具で、通路は狭まっている。病院案内のプレートを捜して歩くと、後ろから担送車に追い立てられた。仕方なく戻った一般用のエレベーターホールの壁に、やっと小さな案内図を見付けた。フロアーを囲む回廊の、ちょうど現在地と反対に当たるところが麻酔科の医局になっていることが知れた。
Mは重いバックを右肩に掛け直し、両手をコートのポケットに入れて回廊の端へ向かって歩き出した。通路の左右に続く開け放された病室のドア越しに、様々な様態の患者のベッドが見える。まるで病気の博覧会に行ったようで、背筋を冷たい風が掠める。健康なことを誇るより、恥じ入りたくなるような気分にすらなる。限られたスペースの中で、絶対的な病気の量がMを圧倒するのだ。思えばいつも、どこででも、Mは少数者だった。病院に紛れ込んだように、社会にも紛れ込んで暮らしてきたのかも知れないと思ってしまう。

「しかし、私は健康なんだ」
弱気を振り払うように心の中で宣言し、ポケットの中で両手を握りしめると、いくらか元気が出る。真っ直ぐ前を向いて大股で病棟を歩く。医師になったピアニストに会おうと思った。
廊下の突き当たりの壁に掲げられたプレートの指示に従って左に曲がると、また同じような病室が続いている。うんざりして長い道のりを歩ききり、また突き当たった左端の部屋が麻酔科の医局だった。

たいして広くないガラス張りの医局は、廊下から丸見えだった。開け放たれたドアの前に大きなテーブルがあり、その奥に事務机が五つずつ相向かいに並べられている。入口寄りの机に一人、看護婦が下を向いてノートに鉛筆を走らせている。他に誰もいない。
期待していたピアニストも、光男の姿もない。

「ピアニストはいませんか」
無造作に医局に入り、看護婦の横顔をのぞき込んで声を掛けた。
驚いて顔を上げた看護婦の視線が、さっとMの全身に流れた。場違いな黒のコートを着た長い髪の女を認め、看護婦の表情が困惑する。何の目的で医師を訪ねて来た客か、見当もつかない様子だ。しかし、観察結果を生かして詮索しようという関心もないように、事務的な声を出す。

「先生は手術中です」
「ここは外科なの」
「手術に麻酔は欠かせません」
素人の間の抜けた問いに対して、まっとうな答えが返ってきた。
「そう。生身の身体を切り刻むわけにはいかないわね。ところで、一時間ほど前に少年が訪ねて来なかったかしら」
「私は病室を回っていたから知りません」
皮肉な言い回しに動じる風もなく、若い看護婦はMの目を見つめて答えた。役に立てないことに、すまなさを感じているようにも見える。
幼さの残る白衣の看護婦に、チハルの姿をだぶらせてしまったことをMは恥じた。いつものペースにまだ戻れない。苛立ちが募る。

「待たせてもらっていいかしら」
誠意のこもった口調に変えて話し掛けた。
「みんな出払っていますから、テーブルの椅子に掛けてください」
「ありがとう」
Mはやっと正常な感覚が戻って来たと思い、脱いだコートとショルダーバックを大きなテーブルの上に置いた。ついでにグレーのスーツの上着も脱いだ。赤と黒のタッターソールのシャツ一枚になった上半身が、やっと軽々と感じられた。ゆったりとしたシャツの下で、下着を着けない乳房が開放感に揺れる。若い看護婦のまぶしい視線を意識して、首に巻いた赤いスカーフを緩めた。左の手首でティファニーのリストウォッチが光る。

「お陰で、やっとリラックスできたわ」
看護婦に礼を言うと「お疲れさまでした」と呼び掛けられた。しかし、視線はMを通り越している。
反射的に振り返ると、Tシャツの上に白衣を羽織ったピアニストが硬い表情で医局に入って来た。
「やあ、M。久しぶり。ずいぶんくつろいだ様子だね」
「おはよう、ピアニスト。あなたの格好には及ばないけれどね。手術は成功したの」
「朝の緊急手術は難しいんだ。患者は死んだよ」
あっさりしたピアニストの口調に、病院の日常が滲み出ている。Mの住む世界とはまったく別な世界が、病院という建物の中に広がっているのだ。
「そう。ストレスが溜まるわね」
「溢れ出しそうなほどだよ」
Mの付け入る余地を無くすように、ピアニストが即座に答えた。

「でも、どこから見ても、もう立派なお医者に見える。素敵よ」
「ありがとう。帰ってくる早々、光男を保護したんだってね」
ピアニストから本題に入ってきた。時間を無駄にしたくないのだろうとMは思う。
「ええ公園でね。手術の前に光男と会ったの」
「会ったよ」
「それで、光男はどうしたの。もう帰ってしまったの」
「いや、薬を飲んで眠っているよ。そこのカーテンの陰の簡易ベッドだ。きっと夕べは眠っていないな」
テーブルの前で立ち話をしている二人の横に、席を立って医薬品を整えていた看護婦が並んだ。手に様々な薬の入った箱を持っている。
「病室を回ってきます」
声を掛けて出て行く看護婦の背に「ご苦労さん」と呼び掛けてから、ピアニストはテーブルの椅子を引いた。医局には、簡易ベッドで寝入っているという光男の他は、二人だけになった。

「M、椅子に掛けてよ。コーヒーでも入れる」
「いいわ、忙しいんでしょう」
「いつだって忙しい。空いた時間は自分で作るしかないんだ」
素っ気なく言ったピアニストが戸棚の陰に消え、紙コップを両手に持って戻って来る。素早くMが引いた椅子に静かに座った。
「いつでもコーヒーは用意してあるんだ。カップに注ぐだけさ」
差し出された温いコーヒーをMは口に運んだ。消毒薬のにおいが満ちた医局の中に、ほっとする香りが流れる。

「光男はシンナー中毒なんでしょう。どうして麻酔科医のピアニストが診るの」
Mの直截な問いに、よどみなくピアニストが答える。
「しばらくピアノを教えてやったことがあるんだ。光男の家は山地にある。僕の家の近所なんだ。個人的な関係から診ているだけさ。放ってはおけない」
「ふーん。光男の家は山地なのか。でも、個人的な関係といっても、精神科医を紹介することはできるんでしょう」
「光男が嫌がっている」
「それでいいの。ピアニストは医者でしょう」
「心まで癒せる医者はいないさ」
投げやりなピアニストの言葉が、忘れていた疲労を思い出させる。
三年前のピアニストは、心の痛みだけでなく、現実の痛みさえ、性的な癒しと交換できると信じたのだ。そのための仕組みをサロン・ペインの二階につくり、Mと対立したのだった。Mの全身を、また深い疲労感が被う。この街は狂っているとさえ思いたくなる。

「どんな薬を光男に飲ませたの」
「抗不安薬と睡眠剤」
「それでいいの」
「いいと思っている。僕は医者になり立てだけど、医者には二つの型があると思っているんだ。一つはデーターとマニュアルだけを信じ、着実に職務を遂行するタイプ。病院の医者は大部分がこのタイプだと思う。そうでないと医療過誤の心配があるからね。もう一つは、自分の積んできた経験を上手に反映させていくタイプ。当然のことと思うだろうけど、意識して自分の経験に信を置くということなんだ。僕は経験が浅いけど、これまでの生活体験にまで遡って信を置き、医療行為をしようと思っている。この考えは、Mに教えられたことだ」
Mは頬が熱くなるのを感じた。ピアニストはどこかでボタンを掛け違えているのだと思う。Mは自分の体験を信じたことなど無い。あるがままの事実から、進むべき道を選び取ってきただけだった。その根底に自分の責任と人格があったとしても、決して信などという驕りは持たなかったつもりだ。

「ピアニストの驕りよ」
Mは、はっきり言いきった。
「そんなことはないさ。少なくともピアノを弾いているとき以外は、僕は謙虚なものさ」
全身を襲う疲労感で、Mの身体は今にも揺らぎだしそうだ。救いを求めた光男の表情が目の前に浮かび上がってくる。悲しかった。

「光男の寝顔を見ていくかい」
Mの気持ちを見透かしたように、ピアニストが尋ねた。
「やめておくわ。私は光男の保護者ではないもの」
「そう。いつになく冷たいんだね。取材を控えているせいかな。コスモスを取材するんだってね。立派な組織だよ。ぜひ、全国に知らせて欲しい」
席を立ちながらピアニストが言った。

もう面会時間は切れたのだろうとMは思った。立派な組織に立派な病院、立派な秘書に立派な医者。この市に帰り着いた早々から、うんざりする時間の連続だった。救いを求める光男の顔がまた、脳裏をよぎる。私は、その光男の顔さえ見ていこうとはしない。
Mは頭を左右に振って、光男のイメージを振り払ってから立ち上がった。

上着を着け終わると、ピアニストが背後からコートを着せ掛けてくれる。Mの耳元に口を寄せ、そっとささやき掛ける。
「時間があったらぜひ、サロン・ペインを訪ねてくれ。きっとチーフが喜ぶ」
「あの店を何故閉めないの」
「僕がピアノを弾けなくなるからさ」
Mの耳元にピアニストの笑う息が降り掛かった。久しぶりに下半身が怪しく疼く。
チハルとの会談に続いて、ピアニストまでが今、似たようなことを口にした。コスモス事業団とサロン・ペイン。何の関係もないはずの二つのキーワードが、何の根拠もないままに、消えかけていた官能の予感をくすぐる。


全身に疲労を浮かべてMが病院の玄関ホールに出ると、待ちかまえていた天田が近寄って来た。
「これが代車のキーだよ。理事長は帰ったから、専用駐車場に駐車してある。M、うまいことやったよな」
薄笑いを浮かべた天田の手から、Mは見慣れたキーを取った。
「天田さんは、コスモスに勤め替えしたの」
「俺は市役所にいるよ。でも、コスモスも今は市役所みたいなもんさ。良く書いてくれよな」

背に投げ掛けられた天田の声を無視して玄関を出る。
目の前に懐かしい真っ赤なMG・FがMを待っていた。ぴかぴかの新車だ。ドアを開け、黒い幌を巻き上げてオープンにする。ガソリンは満タンで、走行距離は五千キロだ。イグニッションを回すと、背中でミドシップのエンジンが低く応えた。素早くギアをリバースに入れ、アクセルを踏み込む。タイヤを鳴かせてバックした車体を即座に立て直し、鋭い加速で前進する。寒い風を切ってバックミラーの中で病院が遠ざかる。極めて爽快だった。

ピアニストと違い、信じられるものなど、どこにもないとMは思う。ただ事実だけを、きっちり見据えるだけだ。
とにかく、久しぶりに乗るMG・Fに文句はなかった。どんないわれの車にしろ、車に罪はない。
正午の太陽を正面に見て、Mは市役所へと向かう道にMG・Fを駆った。


次項へ
BACK TOP



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.