5.遠すぎる少年時代

Mは一週間振りに、街へ続く渓谷沿いの道を下った。午後の日はすでに山陰に落ち、強い山風が路上を渡っていく。
オープンにしたMG・Fの後部から冷たい風が巻き込んでくるが、強力なヒーターのお陰で足下は熱いほどだ。冷気を十分に浴びた頭が、これからの予定の検証を迫る。
この市での予定滞在期間はもう終わろうとしていた。だがMに、都会に帰る気持ちはない。身を切り裂かれるようにして迷う、理事長を置いて帰る気にはなれなかった。

初めて理事長を訪問した日以来ずっと、Mは山地のドーム館で過ごしてきた。
忙しい理事長はそれでも夜毎、Mとの官能の時を過ごしていた。その理事長が、全身に押し寄せる激しい痛みを訴えたのは、二日前のことだった。
「こんな紛い物の部屋は、もううんざりだ。近々チハルの生家の鋸屋根工場に移る予定だ。一世を風靡した機屋の工場で、私はコスモスの指揮を執る。無駄に思える寄り道と、冷徹な効率とのせめぎ合いの謎も解明しておかねばならない。新しい文化の創造には効率が不可欠だ。だが、Mと過ごした官能の時間が、無駄であったとは思えない。しかし、効率的な官能などといえば、Mに笑われるだろう。見極めは難しい。私があやふやなままでは、効率を優先させた計画の発動など、とてもできはしない。自動的に走り出してしまった組織の恐ろしさは、私が一番よく知っている。無駄と思えたものはすべて、惜しげもなく圧殺してしまうだろう。困ったことだ。それにしても全身、痛みがひどすぎる。Mと居るときだけが安らぎだった。最期まで見届けて欲しい」

何物かに追い立てられる口調で、理事長は訴えたのだ。転移した癌が暴威を振るいだしたのだとMは思う。しかし、理事長はMとの官能の体験から、社会改造の計画を変えるかも知れないのだ。それは当然コスモス事業団の方向を左右する。Mは、個人として迷う理事長を見放すわけにはいかなかった。

人の苦痛を官能が癒すと言い切った、ピアニストとナースの言葉が脳裏を掠めた。しかし、Mは大きく首を振って否定する。Mがしていることは、組織的に計画された仕組みの中でのことではない。効率などは求める余地もなかった。理事長という個人とMという個人が、それぞれの責任と人格で歩み寄って官能を求め合っただけだ。決して癒しを求めたわけではなかった。

様々な思惑がMの周りから押し寄せてきそうな予感がする。そして今、Mは歓楽街へ向けてMG・Fを駆っている。
あの修太が鉱山の町を離れ、昨日からチーフの部屋に泊まっているのだ。修太がMに会いたがっているというチーフからの連絡を受けて、サロン・ペインを訪ねないわけにいかなかった。
理事長との密度の高い時間だけを生きるには、もうMを巡る関係は煩雑に過ぎていた。三十五年間の歴史が、Mをがんじがらめにしようとしているのだ。


「今晩は」
元気良く声を掛け、Mはサロン・ペインの自動ドアを通った。
「いらっしゃい、M」
カウンターの中から笑顔で応えたチーフは、相変わらず白い半袖シャツを着ている。今夜は赤いスカーフを首に巻いていた。時間が早いせいか、カウンターに座った小柄な男以外に客の姿はない。男というより、壁に張った大鏡に映った顔は少年のようだ。髪を短く刈った頭の下で、端正な顔立ちが目立つ。ドングリ眼と呼びたいほど大きな目と、小さく通った生意気な鼻筋に、微かな見覚えがあった。

「修太、」
小さく呼び掛けると、少年がスツールを回してMの方を向いた。涼しい目元が寂しそうに揺れる。
「今晩は、M。大きくなっていないのでびっくりしたろう。俺は身長が百五十九センチメートルしかないんだ。Mの背はどのくらいあったっけ」
探るような目をした修太のコンプレックスが、痛いほどMの胸に響く。あんなに陽気で腕白だった修太が、思春期のまっただ中にいるのだ。思わず目頭が熱くなってしまう。

「大きくなったじゃない。見違えてしまった。人の大きさは身長で計るものじゃないわ」
「Mの身長はいくつ」
苛立ちを込めた声で、修太が再び訊き返した。
「私は百七十センチメートル」
「いいよな。Mは国際サイズだもんな」
吐き捨てるように言った修太はスツールを回し、また背を向けてしまった。修太の苛立ちがMに移ってくる。六年振りに会った修太は、身長の話しかしない。たとえ、難しい年頃だとしても聞き流せることではなかった。

「修太、こっちを向きなさい」
怒りを含んだ声で背に呼び掛けると、チーフが慌てて間に入ってきた。
「M、修太は起きたばかりで頭が回らないのよ。早く隣に座って。すぐマティニを作るわ」
大人げないと思い直したMは、鏡に映る修太の顔を優しく見下ろしながらスツールに座った。しかし、ビールの入ったグラスに手を伸ばす仕草と、今起きたばかりというチーフの言葉が妙に気になってしまう。鉱山の町の子供たちは皆、Mに保護者の役割を強いるようだ。

Mは小さく溜息をついた。視線を鏡の中の修太から、シェーカーを振るチーフに移す。
しなやかに振られるチーフの両手首に、鮮やかな縄目の痕を見付けた。半袖シャツを着ているため隠しようもない。Mの脳裏を不安がよぎる。
見過ごすわけにいかなかった。

「チーフ。手首の縄痕はどうしたの。またS・Mショーに出演したの。まさか、修太が相手じゃないでしょうね」
厳しく問い詰めるMの声に、シェーカーを振る手が一瞬止まった。白い頬が見る間に赤く染まる。しかし、答えは隣に座る修太の口から出る。
「俺がチーフを縛ったんだ。素っ裸にして後ろ手に縛り上げ、一晩中責めてやった。お陰で、今やっと起きたところさ」
唖然として言葉を失ったMの前に、チーフがおずおずとグラスを出し、マティニを注いだ。オリーブを添えてから、とんでも無いことを口にする。
「修太の話では、鉱山の町にいたときのMも、毎晩縛られていたそうよ。代わりになってくれとせがむから、Mの代わりなら喜んですると答えたの」
「チーフ。修太はまだ子供でしょう。話を真に受けてもらっては困るわ」
疲れ果てた声がMの口を突いて出た。容赦なく修太が追い打ちを掛ける。
「俺はもう子供じゃない。六年前の子供の時だって、素っ裸で後ろ手に縛られたMの尻が、喜んで震えているのを見た。今さら格好付けても遅いよ。ひくひく動いている肛門を、物差しの先で突っついたことだってあったんだ。だから、チーフの尻も責めた。Mも喜んだと言ってやったさ」

顔全体を羞恥で赤く染めたチーフが、修太の露骨な言葉に続けて恥ずかしげも無く解説を始める。
「修太はお尻が大好きなの。全体が腫れ上がるまで、まんべんなく鞭で打たれたわ。それから舌で飽きるほど舐め回すの。挙げ句の果てに、柔らかくなった肛門をペニスで犯されたわ。私だって初めてのことよ。M、素っ裸で後ろ手に縛られ、お尻を高く掲げさせられた恥ずかしい格好で、肛門を犯されたことってある。修太はお尻の穴の中で射精したのよ。可愛いほど小さなペニスだったから耐えられたけど、普通の大きさだったら肛門が裂けてしまったかも知れないわ」

興奮して訴えるチーフの言葉で、修太の顔が真っ赤になった。怒りに満ちた顔が、やがて蒼白になる。小さなペニスと言われたことが耐えられないのだ。敏感に修太の気持ちを感じ取ったチーフが、狼狽して言葉を続ける。
「修太は小さいけど、身体もペニスもバランスがいいの。美しいほどのプロポーションよ。全体に小振りなだけで、日本人向きよね」
たちまち修太の顔が憎悪に歪む。コンプレックスを大きく増幅させているのだ。有り余るエネルギーが性をねじ曲げ、憎悪となって噴出していく。修太の能力の高さを知っているだけに、Mには悲惨だった。

「M、祐子の家に案内してくれないか。チーフは嫌だと言うんだ」
目をつむったまま、疲労感だけが募る話に耳を傾けていたMに、怒った声で修太が言った。目を開いて見た鏡の中で、修太の真剣な顔が訴えかけてくる。
「まさか祐子にも、チーフのようにしたいと言うんじゃないでしょうね」
「俺は祐子が好きだった」
Mの問いにポツンと修太が答え、また口をつぐんだ。目の前のビールを一口すすってから、決断するようにうなずいて話し始める。

「俺は独りぼっちで鉱山の町の中学校へ通った。好きだった祐子も、光男もいない。Mも一足先に去ってしまった。張り合いもなく通う中学校は、俺に冷たかった。俺は背が伸びなかったし、分校から来たから、たちまちのうちに虐められた。小さな学校だったから、虐めは陰湿で性的になる。一年生の三学期が一番ひどかった。真冬の便所掃除の時間に、俺は女生徒たちに女便所で裸にされた。俺の服が汚いという理由だ。コンクリートの床に素っ裸で土下座させられ、汚いことを詫びさせられた。四つん這いのまま便器の前まで連れていかれ、便器を舐めさせられた。無様に突き出た尻を、数人が土足で蹴った。俺は泣きながら詫び、許しを願った。しかし、パニックになってしまった集団は許そうとしない。男子生徒までやって来て、俺を後ろ手に縛り上げた。汚いから見せしめにするというんだ。両足を左右に広げさせられ、縮みきったペニスの根元を細紐で縛られた。包茎の小さいペニスを愚弄する声が、回り中から聞こえた。やがて誰かが、やかん一杯の温い湯を持ってきた。紐で引っ張られたペニスの先に、少しずつ湯を垂らしだした。吹き曝しの便所は凍り付くような寒さだ。凍えきった裸身の、ペニスの先にだけ、少しずつ湯がかけられる。俺の身体は勝手に反応し、ペニスが勃起してきた。俺はすすり泣きながら、死んでしまいたいと思った。驚くことに、十人近い同級生の視線を浴びながら、俺は射精したんだ。皆の罵声を浴びて独り、素っ裸で縛られたまま便所に取り残された俺は、死のうと思った。辛うじて踏み止まったのは、剥き出しの尻を笞打たれながら耐えていた祐子の姿と、全身の毛を剃られてまで毅然とした態度を失わなかったMの姿を思い出したからだ。その後、俺は居直って生きた。ナイフをいつもポケットに入れ、誰かが虐めに来ると自分の手首を切った。流れ出す真っ赤な血を見て、皆後ずさっていった。その都度俺は、祐子とMを思い出した。悲惨な状況に耐える勇気が欲しかったからだ。飛んで行って二人に会いたいと思った。しかし、逃げ出すこともできず高校生になった。学力だけがすべての世界が俺を虐めから救ったんだ。そして、涙が涸れきった今になって、Mに会えた。別に礼が言いたいわけではないが、祐子にも会いたい」

長い話の終わりに、修太はまたビールをすすった。Mもマティニに口を付けた。Mの両頬を途切れなく涙が流れていった。幼い性が、何故これほどまでに痛め付けられなくてはならないかと思い、無性に腹が立った。修太は理解できないまま、ねじ曲がってしまった性を持て余して、Mの真似をしている。悲惨すぎた。

「いいわ。これから祐子の家に行きましょう」
流れる涙を拭ってMが言った。鏡の中の修太の顔が一瞬輝いたように見えた。


マンションの六階にある祐子の家のリビングから、チハルは織姫通りを見下ろしていた。目の下で、生家の鋸屋根工場と同様、古色蒼然とした煉瓦蔵の屋根が黒々とした闇に融け込んでいる。それほど遅い時間ではないが、織姫通りを行き交う車も疎らになっていた。
外の闇と一体になったガラス窓に、ツンと上を向いたチハルの両乳房が映っている。横のソファーでは、チハル同様素っ裸の祐子がうつ伏せに横になっている。丸い尻が呼吸と共に息づいているのが、チハルにはまぶしかった。チハルより二つも年若い祐子の裸身だったが、柔らかで温かな女の肉感を十分に漂わせている。

「Mごときには負けない」
小さくつぶやいたチハルは窓を離れ、祐子が横たわるソファーの前にひざまづいた。目の前のうっすらと汗の浮いた肌に、愛しそうに手を伸ばす。手のひらに張り付くきめ細やかな肌を、滑らかな曲線に沿ってそっとなぞる。尻の割れ目に手を滑り込ませ、股間をそっと開かせた。曲げた指先が陰部に触れると、祐子の口から「ウッ」と、小さな喘ぎが洩れた。Mの裸身に勝るとも、劣ることはないほど美しいと思う。均整のとれたチハルの股間がじっとりと濡れてきた。

祐子の美しい裸身を理事長に披露したくなる気持ちを、チハルは必死の思いで押さえてきた。ただ、テキスタイルデザイナーになるという、祐子の志望だけは告げてあった。世界に向かって発信したいという、祐子の夢をかなえたかった。織物から夢を引き継いだコスモス事業団の理事長の応援は、きっと得られるだろうとチハルは確信する。理事長の夢は新しい文化の創造なのだ。そしてチハルも、祐子と共に新しい創造の道を進むつもりだった。

全身に込み上げてきた夢の高まりを両手に込めて、チハルは祐子の両腿を押し開いた。しっとりと濡れて息づく股間に顔を埋める。舌先を丸めて祐子の陰部から肛門にかけて、丹念に責めた。祐子の息遣いが高まり、チハルの顔を挟んだ太股と尻が微妙に収縮する。チハルは両手を祐子の胸に伸ばし、指先で乳首をなぶった。祐子の喘ぎが部屋中に満ちる。

このごろの祐子は人形のようだと、無防備な裸身を責めながらチハルは思った。これといった意志を持たず、チハルにすべてを任せている。それがチハルにはうれしかった。いつまでもこうしていたいと思う。Mなどに邪魔されてたまるかと痛烈に思った。
祐子ばかりではなく、理事長にまで取り入ったMが益々憎くなる。チハルは一切の感情を込めて、鋭敏に反応する祐子の裸身を責めに責めた。
祐子の喘ぎが呻きに変わり、長く尾を引くようになった時、突然インターホンのチャイムが鳴った。

反射的に祐子の両足が固く閉じられ、呻きがやむ。
三回目のチャイムの音を確かめてからチハルが立ち上がり、受話器を取った。
スピーカー越しに高い調子のMの声が響く。

「祐子、Mよ。開けてくれる」
「祐子はいない」
チハルが反射的に答えて受話器を置いた。
Mの声を聞いて立ち上がった祐子が、受話器に飛び付く。横に立ったチハルの裸身が怒りに震える。

「あなたはチハルでしょう。祐子と代わって」
スピーカーから、またMの声が響いた。
「代わったわ、祐子よ。M、ちょっと待って、着替えてからドアを開ける」
返事を待たずに受話器を置いた祐子が、チハルを振り返って声を震わせて訴える。
「お願い、服を着させて。Mが来たのよ。チハルも早く服を着て」
そのまま自分の部屋に入ろうとする祐子の前に、祐子より背は低いが、精悍な裸身が仁王立ちになる。
「ダメッ、Mを入れるなら、二人ともこの姿で迎える」
「Mがびっくりするわ」
「そんな女じゃない。さあ行くよ」
チハルは祐子の右手を掴み、裸身を引きずるようにして玄関に向かう。壁面のスイッチに素早く手を伸ばし、部屋中の照明を点灯させた。すかさず左手を祐子の脇の下に潜らせ、乳房の下をきつく抱え込んだ。もう祐子はチハルの強烈な意志から逃げることはできない。そのまま玄関口まで引き出されてしまった。

「うるさい女め、今開けてやるよ」
大声で叫んだチハルが錠とドアチェーンを外し、大きくドアを手前に引いた。
ドアから二歩退いてMを待つ二人の裸身を、外から侵入した冷気がしたたかに打った。剥き出しの素肌に鳥肌が立つ。
「寒いから、早く入りな」
チハルが言うと同時に、ジーンズの上にツイードのジャケットを着た小柄な男が玄関に立った。

「祐子、」
予期せぬ男の出現に凍り付いた二人の裸身に、修太が確認するように呼び掛けた。
「修太ね、」
チハルに胸を抱かれた祐子の口から、懐かしさと戸惑いに満ちた声が漏れた。
「団欒を邪魔したようね」
修太の後ろから玄関に入ってきたMが、冷ややかな声で言った。
「どうする、修太。帰る」
Mの声に答えもせず、修太はじっと祐子の裸身に見入っている。

「何て奴だ。男まで連れてきて。もう許さない」
逆上した叫びを残し、チハルが全身を震わせてリビングに駆け込んでいった。支えを無くした祐子の姿勢が崩れ、横座りに尻が床に落ちる。真上から照らしだす玄関灯の光を浴び、残った粘液と唾液で光る無毛の股間が寒そうに震えている。
間近に見た祐子の様子に、Mの膝も一瞬崩れそうになる。祐子はまた、自らを閉ざしてしまったのだと思う。悲しすぎる子供たちがMの前を、いつも横切っていく。

「Mッ、思い知れ、」
大声が響き渡り、リビングから駆け出してくるチハルの引き締まった裸身が見えた。前に突き出した両手の先で、白々とした包丁の刃先が明かりを浴びて大きく上下に揺れた。
全身で刃先を受け止めようと身構えたMの前に、素早く修太の身体が滑り込む。
肉と肉のぶつかり合う音が響き、金属音を立てて包丁が玄関に落ちた。

足がもつれ、床に倒れ込んだチハルの後ろから、太股を押さえて苦悶する修太の姿が浮かび上がる。溢れ出る真っ赤な血が、見る間に色の褪せたジーンズに広がる。

「祐子、紐かベルトを持ってきなさい」
大きく目を見開いてうずくまっている祐子に、Mが叫んだ。反射的に飛び起きた祐子がリビングに駆け込み、柔らかそうなカーフのベルトを持って走って来る。そのまま足を止めず、立ち尽くす修太に全身で抱き付く。小柄な修太の身体を祐子の裸身が被った。
「祐子、離れなさい」
静かな声でMが言って祐子を退け、修太の足元に屈み込む。
「止血をするわ。足を大きく広げなさい」
Mに命じられるまま、修太が左右に足を開いた。左腿の、ちょうどペニスと並行した辺りのジーンズが、三センチメートルほど裂けている。傷の深さは精々二センチメートルと思われる。幸い重要な血管は切れていないようだ。重傷ではない。

Mは止血の処置をしながら、玄関にうずくまっているチハルに声を掛ける。
「またチハルの出番よ。すぐ市民病院に電話して、急患が行くと言いなさい。転んだ拍子に、友達の足を包丁で刺してしまったと言うの。分かった」
力無くうなずいて立ち上がるチハルに目もくれず、Mは修太の手を取った。

「さあ修太、私の肩に掴まりなさい。軽傷だけど、念のために病院に行くわ」
修太のよろめく足取りに合わせ、Mが片手でドアを押さえた。
素っ裸で玄関の隅に立ち尽くす祐子を、修太が振り返る。
「祐子、お前は腐っている」
修太の押さえ付けた声が玄関中に響いた。
Mが背後で閉めたドアの向こうから、祐子の号泣する声が聞こえた。修太の足が止まり、肩がブルッと震える。Mは構わず歩を進め、エレベーターのボタンを押した。


まだ午後九時を回ろうかという時刻にも関わらず、市民病院は静まり返っていた。この病院は完全な基準看護病院だったことを、Mは思い出した。見舞客も午後七時で、半ば強制的に帰す。後は、病院が支配する効率的な空間が朝まで残されるのだ。

夜の病院は、コスモスの思想が全体に行き渡っているのを誇示しているようで、神経を圧迫する。しかしMは、迷うことなくMG・Fを救急救命センターの正面に着けた。
待っていたように二人の看護婦が駆け寄り、そっと修太を抱え上げて担送車に載せる。大きく開いた自動ドアを通り、Mも修太の後について処置室に入って行った。
がらんとした部屋の中心にベッドがあり、看護婦が修太を寝かせるとすぐ、マスクをした医師が入ってきた。機敏に傷口を点検し、Mが巻いた止血帯を外した。

大きなマスク越しにピアニストの声が響く。
「M、大変だったね。チハルから電話で聞いた。懸命な処置だと思うよ。後は僕がする。理事長ではないが、悪いようにはしない」
看護婦に修太のズボンを切り裂くように命じたピアニストが、またMのそばに寄った。
「ちょうど今夜は、僕が救急の当直医なんだ。見た限りでは、化膿さえしなければ大したことにはならない。まあ、直りが早いように三針ほど縫うことになるが、心配は要らない。一時間は掛からないから、待合室で待っていて欲しい」
麻酔科医のピアニストでも、医師の言葉は頼りになる。Mは、ほっとした気持ちで待合室で待った。

三十分も経たないうちにピアニストが入って来た。促されるまま肩を並べ、待合室を出る。
「最初の見込み通り問題はない。しかし包丁の傷なので油断ができない。雑菌が多いからね。外科の当直医の手が空いたので、完璧な処置をしてもらったよ。もう帰っていいのだけれど、病院で一晩過ごさせようと思う。鉱山の町には、もう遅くて帰れないものね。本人も納得したよ」
「ありがとう。でも、修太は今、チーフのところに泊まっているの」
「それでも同じさ。チーフだと無理をしかねないからね。いろいろとね。ところで、Mはどこにいるの」
「私は理事長の家にホームステイ」
Mの答えに、ピアニストの反応はない。口をつぐんだまま廊下を進み、待機室と書かれたドアを開けた。当直医の部屋らしい狭い空間には、ぼんやりと常夜灯が点り、ベッドと机しかない。暖房だけはよく効いていた。

「M、迷惑をかけてごめん。でもありがとう。ピアニストとも知り合いなんだってね。俺も心強いよ」
厚手のシーツを掛けてベッドに横になった修太が、わりと元気な声を出した。
「でも、ここではピアニストが困るでしょう。やはり私と帰った方がいいわ」
「いや、僕は修太の隣でも寝られるよ。眠れる暇さえあればね。男同士もいいものさ」
明るい声で言ったピアニストが、無造作に修太のシーツを捲り上げた。
薄明かりの中で、修太の剥き出しの股間が露になる。白いガーゼを当ててテープを張った患部の横に、陰毛の中に埋もれそうなほど小さなペニスがあった。さっと修太の頬が赤くなるのが分かる。

「さあ行こう。Mは理事長の家に帰るんだろう」
修太のシーツを直しもせず、ピアニストはMを促して外に出た。プライドの強い修太を考え、Mもシーツをそのままにして外に出る。
「明日チーフに、修太のズボンを届けるように言ってよ。それからM、くれぐれも理事長の仕事の邪魔はしないで欲しい。僕たち全員の将来がかかっているんだからね。それじゃあお休み」
素っ気ない口調で言って、ピアニストは検査室と書かれたドアの中に消えた。廊下に取り残されたMは、渦を巻いて押し寄せてくるような、自分に関係した人たちの勝手な思惑に戸惑いを感じた。


ピアニストは時間が空く度に待機室の修太を見舞った。
決まって三十分程度、修太に話し掛ける。Mのことや、祐子のこと、そして修太の母であるナースのことなど、昔のエピソードを交えて面白そうに話していく。そして、救急センターに戻るときは、決まって修太の足元からシーツを捲り上げ、裸の下半身を剥き出しにしていった。
ピアニストの見舞いのため修太は眠れない夜を過ごした。しかし、局部麻酔が切れて鈍く痛む傷口がきっと、今夜は眠らさなかったろうとも思う。

しばらく時間が経ってから、またピアニストが現れた。白衣の前がぞっとするほど血で汚れている。
「何だ修太、まだ眠らないのかい。もう朝の四時半だよ。やっと僕も一時間半の仮眠が取れる。一緒に寝よう」
「ピアニストの白衣、凄い色だよ」
「交通事故の急患が来たのさ。でも、白衣を汚しただけで死んでしまった。脱いでしまおう」
修太の顔をのぞき込んでから、ピアニストは上下になった白衣を脱ぎ捨てた。白衣の下は素っ裸だった。均整のとれた痩身だが、修太にも医師に必要なだけの筋肉は備わっているように見える。美しい裸身だと思った。

「ピアニストの身長はどのくらい」
「百七十三センチメートル。のっぽじゃないよ」
すぐ答えが返ってきた。
「いいな、俺より十四センチ背が高い。Mよりも三センチ高いんだね」
ピアニストの裸身が、ベッドの横に屈み込んだ。慣れた手つきで修太の足元からシーツを捲り上げ、裸の下半身を露にさせる。修太の頬がまた赤く染まる。

「恥ずかしがらなくてもいいよ。僕なんか素っ裸なんだ。それから、僕が初めてMに会ったときは、Mの方が背が高かった。修太と同じように、Mの裸がまぶしく見えたものさ。さあ、修太も裸になれよ、僕が手伝う」
修太の上半身から、ピアニストが上手に服を脱がせる。
「小さいけれど、修太は理想的な体型をしているよ。たとえば、模型ファンがいたとしたら涎を流しそうだ。スケールは九十パーセントだよ。最高だ」
素っ裸にさせられた修太の美しい裸身が、恥ずかしさで真っ赤に染まる。

「きっと小さなペニスを恥じてるんだね。僕が見てやるよ」
机の引き出しからアルコールに浸したコットンを手に取ったピアニストが、小さく萎びきったペニスを指先で摘んだ。亀頭を剥き出しにしてまんべんなくコットンで拭う。修太のペニスはアルコールの冷たい刺激を受け、ゆっくりと勃起し始めた。そのペニスの先を、ピアニストが優しく口に含む。
舌先で亀頭をなぶられる刺激に耐えきれず、修太のペニスはピアニストの口の中で猛々しく勃起する。そっとペニスを口から放したピアニストが、賞賛の声を上げる。

「思ったとおりだ。修太のペニスは美しいよ。立派なものだ。小振りだからといって、恥じてはいけない。もう一度、口に含ませてもらうよ」
修太の目から限りなく涙が溢れ出した。これまで同性に小ささを馬鹿にされ続けてきた包茎のペニスを、ピアニストは賛美してくれた。Mや、チーフとの性では決して与えられない自信を、ピアニストが今吹き込んでくれていると修太は確信する。

ピアニストの滑らかな舌が、敬意のこもった動きでペニスをまんべんなく包み込む。強く、弱く、何回も飽くこともなく亀頭をなぶる舌の刺激が、修太を官能の極まりへと誘う。射精する直前、ピアニストに叱られるのではないかという恐怖が修太の脳裏を走った。
激しく腰を震わせ「ダメ、ピアニスト、いってしまうよ」と叫んでみたが、ピアニストの舌の動きは、一層激しくなるばかりだった。
修太は初めての官能の極まりを迎え、長々とピアニストの口の中で射精した。

「よかったかい」
唇の端から精液を垂らして問い掛けるピアニストに、修太は傷の痛みも忘れて飛び付き、涙を流しながら自らの精液で汚れた口を舐めた。再び勃起する感覚が、喜びに満ちて修太の下半身を満たした。
ピアニストについて行こう、そう修太は決心し、望んだ。

「僕は鉱山の町の分校の、最後の卒業生三人のすべてと会った」
独り言のようにピアニストが言った。
「えっ、光男のことも知っているの」
問い返す修太の問いに答えもせず、ピアニストは勝手に先を続ける。
「祐子を巡る二人の少年と言っていいかも知れないね。一人は祐子をまぶしいと言った。もう一人は腐っていると言う。面白いね。僕は修太の見解に同意するよ。きっと祐子にはMの影が重すぎるんだ。でも、修太は違う。独りぼっちで生きてきた歴史が、自分自身の道を切り開いている。僕と同じだ」
自信に満ちたピアニストの言葉が、大きく勃起した修太のペニスに響き渡った。

「それで、光男はどうなの」
修太は喜びの中で、軽んじていた同級生の位置を計った。
「光男は弱い男だ。虐められれるべきは修太ではなく光男だと思う」
ピアニストの答えを聞いた修太の頭脳は目まぐるしく動き、幼かった頃の記憶を辿った。光男と一緒に鉱山の町の中学校に進学したとしたら、虐められるべきなのは自分ではなく、光男に違いなかったと思う。有るべきはずであり、有り得なかった事実に修太は憎しみを感じた。理不尽な虐めはすべて、光男がもたらしたものなのだ。

「光男にはきっと、罪の償いをさせる」
修太が思っていたことを、素っ気なくピアニストが口にした。
「いつになるの」
思わず高揚した気分で修太が尋ねると、ピアニストは顔中をほころばせて恐ろしいほど澄んだ声で言いきった。
「もうすぐのことさ」


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