4.突然の招き

窓のない部屋なので、日の移ろいは分からない。
ベッドサイドのテーブルに置いた時計が、午後一時に近いことを知らせている。

「こんなにゆっくりしたのは本当に久しぶりよ。私も飲食業に転職しようかな」
ダブルベッドの背に半身をもたせ、胸まで毛布を引き上げた格好で、Mとチーフは並んでコーヒーをすすっていた。
「これで結構身体はきついのよ。夜は遅いし、ゴミ出しの朝は早く起きなければならない。毎日昼過ぎまで寝てられるわけじゃないわ」
のんきなMの言葉に抗議するように、毛布からこぼれた小振りの乳房を震わせてチーフが言った。
「ごめんなさい。チーフの職業を軽んじたわけではないの。あなたのお陰でリラックスできたことがうれしかったの」
「私こそ生き返るようだったわ。あんなに優しくしてくれて、M、本当にありがとう」
チーフが鼻をすすりながら、泣き出しそうな声で答えた。

心地よくベッドに足を投げ出していたMの身体に、また疲労が戻ってくる。昨夜の親密すぎる官能が甦り、下半身が気だるい。やはり、チーフと比べ年齢を重ねすぎたせいだろうかと思い、Mは両肩を落とした。心なしか、豊かな乳房の張りも衰えてしまったような気がする。もうしばらくしたら、私は老いた肉体を恥じるようになるのだろうか。

無言の問いに答える者はなく、突然鳴りだした電話をチーフが取った。
「Mによ、チハルから」
チーフが一言も話さないまま、怪訝そうな顔でMに受話器を手渡す。
「こんにちは、M。それともまだ、おはようなのかな。どちらにしろ、私の予想通り、チーフと裸を見せ合っていたらしいね。受話器を通して、尻のにおいが漂ってくるよ」
「おはよう、チハル。連絡先を告げるのが遅れてごめんなさい。当面サロン・ペインを連絡先にするから、よろしくお願いします」
意地悪な言葉を無視して、Mが事務的に応えた。

「だから連絡している」
鼻で笑うような声でチハルが即答した。
「私はMと違って、もう仕事をしているんだ。理事長が、今日の午後会いたいと言っている。ご都合はいかがですか」
一瞬Mは言葉を失った。不意の仕事に対応できなければ、ビジネスをしているとは決して言えない。
「お任せします。私はいつでも出掛けられるわ」
「それでは、十分後にお迎えに上がります。理事長は待つことが嫌いですから、そのおつもりでどうぞ」
切られる寸前の受話器にクラクションの音が入った。チハルは携帯電話でかけてきたにちがいない。してやられたと思った。きっと、これから理事長に日程の変更を報告するに違いない。運良くMを捕まえたことで、勝手に理事長の予定を書き換えるのだ。チハルの意地悪も極まったと思う。しかし、これはビジネスなのだ。負けるわけにはいかなかった。

チーフに受話器を返そうとして、Mは夕べの酒盛りでスーツを派手に汚してしまったことを思い出した。染みだらけの服を着ていくわけにはいかない。一瞬思いあぐねたが、結局チーフに頼るしかない。
「チーフ、お願い。大きめのワンピースを貸してちょうだい。すぐ出掛けなければならないの」
ぽかんとした顔でマグカップを握っているチーフに大声で言って、Mはベッドから飛び出した。真っ直ぐバスルームに向かう。幸い張られたままの冷め切った湯に飛び込み、湯舟の中でボディーシャンプーを使った。

半分眠っていた身体全体に鳥肌が立ち、全身が覚醒する。熱いシャワーでシャンプーを洗い流し、バスローブで裸身を被って水気を取る。
ベッドサイドまで戻り、バックの中からゲランを出して全身に振りまく。チーフがスツールの上に用意したワンピースを横目で見た。光沢のある黒のシルクニットの生地だ。ゆったりとした作りだから、チーフのサイズでも着られないことはないと思った。時間は後五分しかない。

素っ裸のまま頭からワンピースを被ろうとすると、チーフが黒のストッキングを出してきた。会見の場所は聞いていないが、今日は土曜日だ。靴を脱ぐ場合もあり得た。チーフは良く気が回る。
急いで腰を下ろし、ストッキングを穿き、ガーターで止める。
黒のストッキングとガーターで裸身を被っただけの姿を見て、チーフが感に堪えた声を出す。

「MはS・Mショーのプリマがつとまるわ。ショッキングなほど色っぽい」
確かに鏡に映った姿は挑発的だと、Mも思う。黒のガーターに挟まれ、剥き出しの股間で燃え上がっている陰毛が卑猥にさえ見える。しかし、今さらショーツなど穿く気にもなれない。
ワンピースを着込み、ファスナーを上げると、体型にぴったりフィットしたシルエットになってしまっていた。裾の辺りは、今にも剥き出しの尻がのぞきそうなほど短い。

「M、素肌にニットを張り付けたみたいよ。構わないの」
チーフがまぶしい目をして、後ずさって見てから言った。
「似合わないと言うこと」
「いいえ、似合いすぎて衝撃的なの。身体のラインがそのまま出てしまって、セクシー過ぎるわ」
「それなら構わない。男と会うのだから。それにもう時間がないわ」

チーフが差し出した鮮やかな緑色のスカーフを首に巻き、ティファニーのリストウオッチを左手首に巻いた。ショルダーバックを肩に掛けると、もう約束の時刻だった。化粧している時間など残されてはいない。車の中でルージュぐらいは引けるはずだと思って我慢する。
急かせるように、かん高いクラクションの音が連続して響いた。
Mは大きく息を吸って、胸を張って階段を下りる。二階からチーフが黒いダウンジャケットを投げてくれた。
「ありがとう、行って来るわね」
振り扇いだ階段の上で、素っ裸のチーフが足を広げたまま手を振っている。股間の薄い陰毛が寒々しい。
「風邪を引くわよ」
笑いながら言ってサロンを横切る。
ドアを開けると、まぶしさで視界が途絶えた。バックからオレンジ色のレイバンのサングラスを出して掛ける。

「さすがに時間通りだね」
明かりが消えて汚れの目立つ看板灯の横で、チハルが唇を歪めて言った。黒いつなぎのライダースーツを着て、右手に同色のフルフェイスのヘルメットをぶら下げている。
「フェラーリが迎えに来るんじゃなかったのね」
「私は出先から来たんだ。Mのお陰で予定が狂った」
「私に意地悪をしたせいでしょう。それで、私もバイクの後ろに乗るの」
チハルの厳しい視線が、Mの全身を舐め回した。眉間が鋭く寄せられ、幼さの中から怖い表情が浮かび上がる。
「夜の勤めに行くような格好の奴を乗せはしない。MG・Fでついてくればいい。私が先導する」
お陰で、簡単なメイクはできるだろうと思い、Mの口元に笑みがこぼれた。

「会見はどこでするの」
「理事長の自宅」
吐き捨てるように言って、チハルはホンダの400ccに跨り、ヘルメットを被った。
Mは手に持ったダウンジャケットを着込み、MG・Fをオープンにした。
運転席に着き、エンジンをかけてからチハルに大声で尋ねる。
「場所はどこ」
「山地」
ヘルメットの中からチハルの声が響くと同時に、かん高いエンジン音を残してオートバイがスタートした。負けずにMもアクセルを踏み込む。
人気ない真昼の歓楽街に二台のエキゾーストノイズが轟き渡った。


山根川に沿ってくねくねと続く市道まで出ると、チハルのオートバイのスピードが上がった。見事に車体を寝かせて急カーブをクリアーしていく。MG・Fとは百メートル以上の差が付いてしまった。
Mは、見覚えのあるヘアピンカーブをギアを二速まで落として鋭角に曲がる。MG・Fのテールがさっとアウトに流れたが、さすがにミドシップエンジンの立ち上がりはよい。瞬く間にバランスを立て直してスピードを上げる。三十メートル先の横道の入り口に、オートバイを止めたチハルの姿が見える。Mを認めるやいなや、凄いスピードで横道へと発進した。

細い疎水沿いに広い道が続く。Mの記憶よりずいぶん幅員が広くなっていたが、ピアニストの蔵屋敷に続く道に違いなかった。
葉の落ちたケヤキの大木が見え、梅の梢越しに蔵屋敷の黒い屋根が見えた。通り過ぎるときに風向きが変わり、八年前の梅の香の記憶が鼻孔の底を流れていった。
山肌を削って広げた道は、山の中へと続いている。しばらく山に分け入った後、遥か前を走るオートバイが、切り通しの陰に消えた。

Mはアクセルを踏み込み、やっと平坦になった道を切り通しに向けて下った。
下りきった先に小高い丘が広がっている。
丘を回り込むようにして坂を登っていくと、異様な建築物がフロントガラス一杯に姿を現す。
コンクリートでできた方形の建物は、屋根の代わりに光り輝く巨大なドームを載せていた。まるで天体観測所が出現したようだ。壁面には鉄色のタイルが張られている。正面に大きな車寄せがあり、小さな玄関が見えた。
車寄せから手招きするチハルの指示通り、Mは玄関先にMG・Fを止めた。
「五分後にドーム館のドアを開けます。他に来客の予定がないので、車寄せに駐車してください」
秘書の口調に戻ったチハルがMに告げ、オートバイのエンジン音を轟かせて建物の裏へ走り去った。

改めて見上げるドームは、遠景で見たときの驚きが去った今では、それほど大きく見えなかった。かえって、十メートル程離れて建つ、巨大なガレージが目立つ。ドーム館と向かい合った細長いガレージのシャッターはすべて開かれ、十台ほどの車が見て取れた。手前にある、お馴染みの真紅のフェラーリを初めとして、全部がツーシーターのスポーツ車だ。ポルシェやジャガーなどの外国車ばかりでなく、国産車もある。どういうわけか、一番端のスペースの隅に、リアが潰れたホンダ・ビートが置いてあった。

Mが車を降りてガレージに向かおうと思ったとき、玄関が開かれた。昨日と同様、白いユニホームに着替えたチハルが深々と頭を下げる。
「私の車を見てきていいかしら」
Mが尋ねると、チハルが慇懃に断る。
「時間がありません。理事長がお待ちです。中にどうぞ」
Mはもう一度ガレージに目をやってから、ダウンジャケットを脱いで助手席に置き、ショルダーバックを右手に提げて玄関に通った。

吹き抜けになった広い玄関ホールの先に、立派な階段が続いている。
先に立つチハルをまねて、靴のまま黒の厚い絨毯を踏み締めていく。緩やかにカーブした広い階段を上り、二階のホールに出た。
突き当たりのドアの前でチハルが止まり、大きくドアを開いてMに道を空ける。
Mの前に円形の明るい空間が開けた。広さは二十畳ほどだが、まるで音楽ホールを小さくしたような造りだ。右手にスタインウェイのグランドピアノまで置いてあった。

部屋の壁は、幅一メートルの白木の板を巡らせて円形に造られていた。高さは六メートルはある。その円形の壁面が、天井の大きなドームを弱々しく支えているように見える。ドームを見上げるMを、不安定な感覚が襲う。
照明はすべて、ガラス張りのドームから入る自然光だった。ドームの北側だけシャッターが開き、フラットな光が優しく室内を満たしている。窓が一つもない部屋にも関わらず、照明に違和感はない。
床は毛足の長いアイボリーのカーペットで被われている。ピアノから二メートルほど離れたところにグリーンの布張りの椅子が二脚とソファーが置かれ、その前にシングルベッドほどの大きさがある、高さ五十センチメートルの立派な紫檀のテーブルが置いてある。ピアノの横に大きなJ・B・Lのモニター・スピカーが置かれ、さり気なくアキュフェーズのオーディオ機材が積んである。広い部屋の調度はそれだけだった。

Mが部屋に入ると、チハルが後ろ手にドアを閉めた。ドアにも白木の板が張られ、ノブを確認しない限り壁と区別することができない。異様な造りの部屋だ。
ピアノの横で立ち尽くすMを尻目に、チハルが入り口の左手に当たる壁の辺りをノックして、ドアを開けた。

「ご案内してきました」
チハルの声を待ちかねていたように、理事長が姿を現す。
百八十センチメートルはある長身を、紺のフランネルで作った足首まで届くローブのような服で被っている。まるで、カトリックの神父のようだ。
「こんな山奥まで来てくれて、ありがとう。遠慮せず座ってください」
ソファーの前に回ったMの側に、チハルを後ろに従えた理事長がゆったりとした身のこなしで近付いてくる。ドームから差し込むフラットな光が、白髪を銀のように輝かせる。
窓のない円形の室と聖職者のような服装が、Mに現実離れのした世界の開幕を告げる。幻想的なたたずまいに不思議な魅力を感じはしたが、理事長のペースに巻き込まれるわけにはいかないとMは思った。

「初めまして、月刊ウエルフェアーの編集者のMです。今日は、お忙しい中を、取材にご協力いただいて恐縮です」
用意した名刺を型どおりに差し出し、理事長の目を見つめた。
「Mさん、あんたに会うのは初めてではない。昨日会ったばかりだ。それなりの挨拶も交わしている。まあ、座ってください」
差し出された名刺にさっと視線を飛ばし、そのまま後ろに控えるチハルに名刺を渡してから、理事長は深々と椅子に座った。Mも勧められたソファーに浅く腰を掛ける。
紫檀のテーブルを挟んで座るMの全身を、理事長の視線が遠慮なく舐め回した。

「変わったご縁で昨日お会いしてしまいましたが、素敵な車を用意していただいて助かりました」
理事長の視線に耐えきれず、Mが口を開いた。シルクニットを通して、裸身を見つめられたような気がしたのだ。
「隣の部屋から見せてもらいましたよ。MG・Fはあなたのボデイ・ラインにぴったりの車だ。よく似合っていた。私のコレクションの一台なのだから、存分に乗りこなしてください」
出掛けにチーフの言った言葉がMの耳に甦る。身体の線がそのまま見える服を着てきたことに悔いはないが、一方的に踏み込んでくる理事長の対応は想像を超えていた。これまで経験したこともないインタビューになりそうだった。

「理事長さんのお姿は、パンフレットのお写真で知っていたはずなのですが、ずいぶんお変わりになっていたのでびっくりしました」
理事長はつまらなそうにMの言葉を聞き流す。

気詰まりな沈黙の後、天井のドームを見上げてから真っ直ぐMの目をのぞき込んで口を開く。
「癌の手術をしたのですよ。しかし、転移があり、今も増殖を続けている。私と癌の二人分のエネルギーを消費するのだから、以前の写真とは比べものにならない」
理事長の答えは衝撃的だった。Mは次の言葉に迷った。とっさに繋ぐ話題が見当たらなかった。

「あなたは慣れないことをしている。私はMについて、秘書のチハルから色々な情報を聞かされている。マイペースで話してくれた方が、私も時間が掛からなくていいのだが、違うかね」
対決を求めるような理事長の言葉に、Mは覚悟を決めてソファーに深く座った。長い足を高々と組んで、理事長の目を真っ直ぐ見つめる。短すぎるワンピースの裾から伸びた太股が、足の動きに連れて、怪しく開いて、閉じた。剥き出しの股間が一瞬、明るい部屋の空気を呼吸する。やはり、月並みなインタビューが通用する相手ではなかった。

理事長の目に、新鮮な輝きが戻ってきたのがMに分かった。
「やっとMらしくなったようだね。私は正直な人間が好きだ。きっと、自分が何物であるかイメージできているはずだからね。それから先は私が判断する。それが私の仕事だ。別に現実が、その人間の持つイメージ以上でも、以下でも構いはしない。私は判断に応じた対応をするだけだ」
楽しそうに話す理事長の口元には、自信に満ちた笑みさえこぼれている。後ろに控えるチハルが、面白くなさそうに口を一文字に結んだ。

「チハル。音楽を流しなさい」
命じられるままアンプに向かうチハルを目で追って、理事長が話を進める。
「チハルは使える奴だ。しかし、側近であることを利用して、私に流すMの情報に私情を交えた。その程度のことは、私の年になれば誰でも分かる。それがチハルには分からない。面白いことだ。だから私は、早くMに会いたいと思っていた」
「チハルは有能な秘書だと思います」
「それは私が決めることだよ。M、コスモスの取材はどうしてもしなくてはいけないことなのかね」
大きく見開かれた理事長の目が、Mの全身を覆い尽くしそうになった。
その時J・B・Lの巨大なスピーカーから、小さくピアノの音が流れ出した。バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻、プレリュード第一番の旋律だった。理事長は話をやめて目を閉じ、音に耳を澄ませる。

「バッハがお好きなのですか」
思わず尋ねたMの耳に、変わったテンポのプレリュードが響いていた。
「秩序が好きなのだよ」
また大きく見開いた目で、Mの瞳の底までのぞき込むようにして理事長が答えた。
「組み立てられた音の秩序のことですか」
「違う。音の躍動する原初の秩序だ」

ジャズ風に弾かれるバッハがMの耳をくすぐる。緊密に造形された音が、巨大なエネルギーを吸い込んで生々しく揺れている。
理事長の視線がMを通り越して、遠くに彷徨っていく。どう見ても音楽を楽しんでいる風情には見えない。茫洋とした視線の中で揺れ動く、迷いのようなものが、Mには見えた。
密かな誘いを受けたような気がして、下半身が疼く。しかし、何事もなかったように理事長の視線がMに戻り、陰気な声で話し始める。

「例えばMの専門とする福祉。躍動し、きらめいていくべき街に、死を待つばかりの老人が混在しているのは自然な状態だが、秩序とはほど遠いものなのだ。速やかに、新しい秩序を街に持ち込むべきだ。失われていくものは失われていくもので効率的にまとめ、創造するものは創造するもので効率よく一つにまとめ上げる。それが秩序というものだ。良くデザインされた秩序はそれ自体で文化になる。音楽のように美しい」
「具体的に言うと、特別養護老人ホームを組織的に建設して高齢者を収容し、巨大な病院で効率よく終末医療を提供する。残ってしまった者には訪問介護の手を差し伸べながら都市の再開発を進める。激変する環境に耐えられない者は逐次施設に収容していき、活力ある産業と創造的文化が花開く環境を整備する。そうすれば、超高齢化社会に続く疲れ切って混迷した社会を、いち早く効率的に乗り切ることができる、ということかしら」
「色気のない言い方だが、目に見える部分としては間違っていない。新しい秩序を作るべきなのだ。コスモス事業団には、その力がある」

「身勝手な独裁者の言い分と、どこが違うのですか」
「秩序とは美しいものなのだ」
「昔、ファシズムも美を賛美したと聞かされています」
「ことの渦中にあると全体が見えにくくなる。美を求めて、厳正なデザイン力を養うことは大切なことだ。何よりも、このままでは済まないことを認識さえすれば、現代人に残された手法は効率を求めることしかない。次世代に夢を託すようなお伽噺は、誰も信じはしまい」
理事長は時代の責任を一身に引き受けるかのように断言した。しかし、世界は覚醒した者のみで成り立っているわけではないと、Mは思う。

「でも、理事長は効率を信じ、秩序を求めている。現代のお伽噺のように」
「Mは何を信じているのだ」
理事長の視線が真っ直ぐMの視線を捕らえ、厳しい声で尋ねた。
Mの視線が足下に落ちる。
Mは信ずるに足りる何物も持っていない。対処療法と笑われそうな生き方しかしてこなかった。しかし、効率という有無をいわせぬ価値観を振りかざして、人をないがしろにしようとする驕りを許すわけにはいかないと思う。
「何も信じていません」
静かな声で答えた。
今度は理事長の視線が床に落ちた。

「よく生きていけるね」
つぶやくように言って、理事長が視線を上げた。Mは正面から理事長の視線を受け止める。
「Mは寂しくはないか。そして不安にならないか。この世界の者が、みんな見知らぬ世界に行ってしまい、ただ独り残されてしまう恐れを感じないか」
「感じるわ」
「それでも、信を持って生きる者を許さないのか。徒手空拳で生きられない者と言って嘲笑うのか」
「笑いはしない。ただ悲しいだけ。効率という呪文に追い立てられ、ありのままに生きられないことが悲しい」
「悲しみは何も産みはしないよ。子供さえ産めない。性の喜びの中から人が生まれることは、もう知っているはずだ」
言い古された俗説が理事長の口に上がった。いかにも説得力のありそうな言葉だ。しかし、官能は喜びだったろうかと、Mは惑う。あれほど求め続けた官能はすべて、滅びることを前提にしてあったようだ。官能自体が創造なのだから、生殖という創造のための手段になる道理がないと思う。それに理事長は、連綿と続く命の連鎖には夢を託さないと言ったのだ。

「単純なことなのだよ。Mの考え方自体が悲しいのだ。事実を見て、そして希望を持つことだ。例えばチハル」
理事長が言って、後ろに控えるチハルを振り返った。
「チハルはコスモスのユニホームを着ているが、事業団の職員ではない。いわば私の個人的な秘書だ。チハルは私を通じてコスモスのパワーを見た。混沌とした闇を抜け出し、秩序ある創造が行われると信じたのだ。彼女の将来に架ける夢を、私なら実現できると思ったからだ」
一瞬、チハルの目が輝くのがMに見えた。純粋で美しい瞳だった。

「チハル、ユニホームを脱いで裸になれ」
Mに視線を戻した理事長が、突然厳しい声で命じた。
「でも、」
口を濁して抗うチハルに理事長の叱責が飛ぶ。
「私情は許さない。信じたことに従えばいい。お前は美しい」
「はい」
短く答えたチハルが、その場で白いユニホームを脱ぎ、下着を取り去って全裸になった。少年のように美しい裸身が、フラットな照明の中に惜しげもなくさらけ出された。

「テーブルに上がって、横になりなさい」
理事長の命じるままに、チハルは紫檀のテーブルに上を向いて横たわった。
Mと理事長の間に、素っ裸のチハルが目をつむって横たわっている。チハルの自由意志は、光の射し込まぬ穴底に封殺されてしまった。

「何か意味があるのですか」
理事長の命令が演出した場面に居たたまれず、Mが尋ねた。
「美しさに、意味など要りはしない」
にべもなく言い切った理事長が立ち上がり、チハルの裸身とMを交互に見下ろす。自分自身に納得させるように、誰にともなく話し始める。

「もう死んでしまったが、チハルの父の薦めで、私はこの子を秘書にした。チハルの家は代々続いた古くからの機屋だ。私の父は機屋の織機を修理するのが仕事だった。その機械技術がコスモスの基礎となって、ハイテクゲーム機が生まれた。効率を追った新しい技術が、この街の産業を変えたのだ。しかし、チハルを見るがいい。滅びてしまった機業家の残した美しい肉体が、今度は新しい秩序のデザインに関わろうとしている。これを希望といわなければ、希望などは存在しなくていい」
理事長は、そっとテーブルの上に屈み込んだ。

剃り上げられた股間に手を伸ばし、小さく盛り上がった陰部を愛しそうに掌で撫でる。チハルの両頬が羞恥で赤く染まる。
しばらくチハルの股間を撫で回した後、再び理事長は立ち上がり、Mを見下ろして乾いた声を出す。
「Mに要望がある。今、この場で裸になって欲しい」
声に動じた風もなく、高く組んでいた足を解き、ゆっくり立ち上がったMが理事長の目を見つめた。意外なほど澄んだ瞳がMを見返す。
「理由を尋ねてもきっと、理由など要るのかと言うのでしょうね」
大きくうなずく理事長にうなずき返し、Mはワンピースのファスナーを下ろした。
両腕を袖から抜くと、服がそのまま肌を滑り落ち、黒いストッキングとガーターだけになった白い裸身が現れた。Mは落ち着いた仕草で首のスカーフを取り、ガーターを外した。片足ずつ上げてストッキングを脱ぐ。足下に落とした視線が、Mを見上げるチハルの目を捕らえた。憎悪に燃えた眼差しだった。

「チハル。Mと代わりなさい」
理事長の言葉に従い、Mはチハルに代わってテーブルに上がった。
赤黒い紫檀のテーブルの上に、白く輝く豊かな裸身が横たわった。黒々とした長い髪と豊かな陰毛が、ドームから射し込む光を浴びて漆黒に輝いている。
「成熟した美しい身体だ。Mはきっと、この肉体しか信じていないのだろう。美しすぎて、羨む気にもなれない。しかしM、これは稀有な例だと思った方がいい」
裸身を見下ろす理事長の口から、感嘆の声がこぼれ落ちた。
「そんなことはないわ。チハルも若々しくて美しい」
ドームから差し込む柔らかな光を浴びた理事長の顔を見上げ、はっきりとMが答えた。
「それがMの驕りなのだ。恥ずべき容姿など、Mには存在しない。しかし、自分自身に存在しないからといって、他人もそうだと断定することが驕りなのだ。容姿を恥じて生きねばならない者の気持ちなど、Mには理解できない。特異な美しさに気付くこともなく、自信だけを受け取って身を処している。だから、稀有な例だと言ったのだ」
言い聞かすように話す理事長の視線がMの裸身を這い、両眼が炯々と輝く。

「M。若々しくて美しいというチハルの股間は、ツルツルに剃り上げられている。自らの肉体に自信がある者は、決してそんなことはしないものだ。M、老いさらばえて醜くなった自分を想像したことがあるか。美しさは儚いものだ。だから悲しいのだよ。やはり、人は美しい秩序を作るべきなのだ。私を見れば分かる。見なさい」

突然襲い掛かってきた予期せぬ論理を、目をつむって聞いていたMが、命じられるまま目を開いた。
見上げた正面に、紺のローブを捲り上げた理事長の裸身があった。痩せた身体の中央を長い手術痕が十字に走っている。醜くひきつれた大きな傷跡だった。

「どこにも秩序のない、醜い肉体だ。この肉体に、とても信などおく気にはなれない。どうだろうM。しばらくここに居てもらえないだろうか。そしてコスモスについて、やはり記事にしたいと思えば書いたらいい。そうでないと、M自身が迷うだろう」
Mが自分の肉体だけを信じていると言い切った男が、一つの提案をした。即座に反論できないことを見透かしたような提案だった。

これまでの生き方に疑問を投げ掛けられたまま取材を済まし、勝手な記事を作るわけにいかないとMは思った。提案に異論はない。
「ホームステイさせていただきます」
横たわったまま静かに答えたMの視線の隅で、チハルの裸身が真っ赤に染まった。怒り心頭に達してしまったらしい。
楽しそうにアンプに近寄っていった理事長がボリュームを上げる。
フーガの二十一番がドーム館に響き渡った。


三日間見慣れたドームをMは見上げた。全部シャッターの開かれた丸い星空から、青い月の光が射し込んでいる。円形の室内は、まるで海の底のように静まり返っている。ガラス越しの夜空に、まだ月は見えない。青白い月光だけが空間に満ちていた。

室内にはMしかいない。耳を澄ますと規則正しい息遣いと、胸の鼓動が聞こえてくるようだ。思わず身じろぎすると、全身からギシッという縄の擦れる音が響いた。

紫檀のテーブルの上で、Mは正座している。素っ裸のまま、後ろ手に緊縛されていた。
高々と首筋近くまで掲げた両手首を、黒い麻縄が厳しく縛り上げている。手首から首の両側を回って胸に延びた縄は、両乳房を菱形に囲んで緊縛している。胸から下ろされた縄が細いウエストを二巻きし、臍の上で結び目を作り、余った二条の縄が股間に食い込んでいる。股間をくぐり、尻の割れ目を縦に走った縄尻は、手首の縄に繋がれていた。陰惨な美しさが、Mの裸身全体から滲み出ている。

また縄がきしみ、柔らかな素肌を縄目がさいなむ。
「ンー」
噛みしめた歯の間から、低い呻きが漏れた。
痛々しく緊縛されたまま、Mは三時間近く放置されていた。さすがに足が痺れ、身体の節々が痛む。

放置されてからずっと、Mは年老いていく自分を見つめていた。張りのある肌が萎び、縄目から高く突き出した乳房が垂れ下がる姿を思い描いた。股間を縦に割った縄の下では、乾燥しきった陰部と擦り切れた肛門が呻くはずだった。悲惨なほど醜い裸身が脳裏に浮かぶ。しかし、不思議と恥ずかしさはなかった。あるがままの悲惨を受容できるとさえ思った。たとえ肉体は反応しなくなっても、想像力の中で官能の極まりさえ得られると確信する。

「何を恐れる必要がある」
腹の底からMが叫んだ。二本の黒縄で猿轡を噛まされた口から、はっきり発音できぬ声が、ドームに響く。
叫ぶと同時にドアが開き、廊下から差し込む強い光がMの視力を奪う。
ドアはすぐ閉められ、毛足の長い絨毯を踏む靴音がゆっくりMの方に近付いてきた。

「どうかね、M。すべて望みどおりにしたが、成果はあっただろうか」
理事長の低い声が、月明かりの部屋に響いた。
「ありがとう、理事長。お陰で今までどおりに生きられそうよ」
猿轡の中からくぐもった声で答えた言葉は、ユーモラスなだけで、ほとんど意味をなさない。
「なんとも恥知らずで、情けない格好にしか見えないが、それでもMは美しい。やはり、美しさがMの自信の源なのだね」
「いいえ、私は自分の美しさなどに信はおかない。そんな儚いものは要りもしない。想像力だけが、その場その場で最善の道を選ばせてくれる」
「申し訳ないが、Mの言葉は聞き取ることができない。私の都合で、お気に入りのコスチュームを取らせてもらうよ」
月明かりに青々と輝くシルクのスーツを着た理事長が屈み込み、Mの首筋に両手を回して猿轡を外した。

「理事長、私が縛られることを好むからといって、自虐的に思考するとは思わないでください。美しいものをおとしめることで想像力を呼び出しているとは、決して言わないでください。逆に想像力が、縛られることを求めるのです。想像力の方向を、私の好みが決めているのだと理解してもらった方がいい」
「ハハハハ」
理事長の乾いた笑い声がドームに響いた。声の中にMは、はっきりとした苛立ちを聞いたと思った。

「そんな惨めな格好で難解な話をされては困る。Mは縛られたままで、体の自由も利かない。私がその気になれば、陵辱できるということを知ったがいい」
理事長の言葉で、Mの裸身がブルッと震えた。青い光の中で佇む理事長の顔をじっと、熱い視線で見据える。
「陵辱してください」
「何を馬鹿なことを」
凛とした声で誘うMの声に被せるように、理事長が叫んだ。
「性は馬鹿なことではないわ。理事長が見ようとしないことがきっと、人にとって一番大切なことなのだと思う」
菱形に緊縛された縄目から、こぼれ落ちそうなほど張りきった乳房を突き出し、中腰になってMが全身を震わせた。股間を割った縄が延びきって、陰部と肛門を激しく責めたが、歯を食いしばって痛みに耐える。

「私は老いることも、醜くなることも、決して恥ずかしいことと思わない。あるがままの自分を実現できればいいと思う」
「何を実現できると言うのだ」
「大それた事をするわけでないわ。私は、ごく自然な、毎日の暮らしを大切にしたい」
陵辱の問題が遠ざかって、一呼吸置いた理事長が先を促す。
「今の姿が自然とは思えないが、一体どうする気なのだ」
「今はオシッコがしたい。三時間も放って置かれれば当然でしょう」
Mの言葉を聞くやいなや、理事長の顔が真っ赤に染まった。怒りで震える全身の波動がMに伝わってくる。

「それだけの女だったのか。頼むにも頼む事柄がある。そんなことは勝手にすればいい」
「私は自由に動けない。部屋を汚しては申し訳ないと思っただけです」
澄ました声でMが答えた。
「大コスモスの理事長が、部屋の汚れごときで怖じ気ずくと思うか」
「その言葉で安心したわ」
Mが答えると同時に、股間を割った縄の間から四方に澪が流れ出した。鼻を突くアンモニア臭が部屋に満ちる。

「どこまで馬鹿にしたら気が済むんだ。もう容赦はしない」
理事長が叫び、怒りに震える両手でズボンのファスナーを下ろした。勃起しかかったペニスをMに向け、長々と放尿する。
素っ裸で後ろ手に緊縛され、テーブルの上に正座したMの頭から全身にかけて尿が降り懸かった。
「それ見たことか。尿にまみれた醜い裸身を恥ずかしいと思わないか。小賢しい想像力が何を生み出すというのだ」
理事長の掠れた声が頭上に落ちた。
裸身に飛び散った尿が月光を浴び、美しいまでに光り輝いている。Mは口の周りの尿を舐めてから、毅然とした声で答える。

「申し訳ありません。理事長、私の粗相を罰してください。チハルさんに買ってきてもらった品物の中に革鞭がありますから、尻の皮が剥けるまで鞭打ってください。お願いします」
理事長が無言でスーツを脱ぎ、裸になる様子が見て取れた。Mは、尿にまみれた姿勢を変え、尻を高く掲げて理事長の過酷な鞭打ちを待った。
汚れきったテーブルに横顔を着けたMの口元に、妖艶な笑みが浮かぶ。やはり身近なところで、官能の高まりは迎えられねばならない。

Mは、理事長の知らなかった地平を案内するパイロットの役割を、全身で勤めようと思った。それがこれまでMが選び取ってきた、責任と人格だけで人と交われる世界だった。個々の人間が選択する道に、何の変わりもありはしない。
「ヒッー」
長く尾を引いたMの悲鳴と、尻をしたたかに打つ鞭音が入り交じって、音響効果抜群の円形の部屋にこだました。


次項へ
BACK TOP



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.