8.新しい提案

簡易水道の取水口をせき止めた土砂を取り除く作業が続いていた。九人の男女が砂礫で埋まった沢に一列になって並んでいる。手に持てる岩とバケツに入れた土砂を手渡しで運び出す単純な作業だ。工学部のエリート学生たちにも、さすがにそれ以外の方法は考えられなかった。土木機械を運び込むわけにはいかない。スコップとバケツだけに頼る手作業が延々と続いた。最後に残った大きな岩を得意の爆破技術で破砕することだけが楽しみの作業だった。二時間ごとの見張りの交替で、頻繁に二人がいなくなる。極月と文月が山を下りた午後は特に作業が停滞した。昼食を取らないため、寒さの中で気持ちも荒む。

「明日からはオシショウにも作業に出てもらおう」
吐き出すようにピアニストが言ってスコップを投げ出した。
「七十五歳では無理だよ」
修太が砂の入ったバケツを持ち上げ、ピアニストを見上げて応えた。
「無理なものか。毎日寝てばかりいるよりよっぽどいい」
「オシショウは瞑想して、神ながらの道のことを考えているんだ。ピアニストの言い方は師に対して失礼だと思う」
「行動しない思想などはゴミ箱に捨てればいい。僕たちに必要なのは行動だ。社会変革のための行動なんだ。もう一か月が過ぎた。各自の戦闘力も上がっている。土木工事の真似事で満足している場合ではない。何をなすべきか、決断するときが来ているんだ。資金も心許なくなっている。後一か月は持たないだろう」

苛立つピアニストを弥生が心配そうに見つめている。修太の横に並んでいた睦月が頬を膨らませて抗議の声を上げる。
「シュータはオシショウの教えを実行するための組織のはずよ。主席は修太だわ。たとえピアニストでも、オシショウをないがしろにはさせない。資金を提供しているからといって、組織を私することは許せないわ」
必死に言い募る睦月をピアニストが突き飛ばした。
「今日の作業は終わりだ。ログハウスに戻って今後の方針を協議しよう」
スコップを拾い上げたピアニストが肩を怒らせて工事現場を後にする。弥生が真っ先にピアニストを追った。鎖で繋がれたMも弥生に従って歩かざるを得ない。内部から組織が崩れていくにおいがした。追い詰められた者の定めだった。

「よしっ、決着をつけよう」
背後で修太の声が響き、土砂の入ったバケツを乱暴に地面に捨てた。全員がログハウスに向かって歩き出す。

松林から出た途端に甲高いヒヨドリの声が聞こえた。鳴き声は連続して三回、大きな音で響き渡った。不自然な鳴き声に全員の足が止まり、戦慄する。忘れていた警報音が耳に甦った。屋根裏部屋の見張りが初めて鳴らす警報だった。まだ松林にいた霜月が急いで肩に背負っていたザックを下ろす。五丁の拳銃を取り出して男たちに配った。それぞれが身近な松の幹に身体を寄せ、拳銃の撃鉄を起こす。Mと弥生はピアニストと一緒にログハウスの陰に走り込み、壁の隅から広場を見渡した。谷川の向こうから低いエンジン音が聞こえ、真っ黒なジープが姿を現す。ちょうど山の端に入ろうとする日の光を浴びて、ジープはひときわ獰猛に見えた。まるで冬枯れた草原に出現した黒豹のようだ。ジープはゆっくりと広場の斜面を登り、ログハウス正面のテラスから十メートルのところで停車した。時刻は午後三時を回ったところだ。街に向かった極月と文月の乗るパジェロの出発予定時刻は二時半だった。容易にすれ違いができない山道の記憶が全員に不安をもたらす。

松林の梢を渡る風に不気味なエンジン音が混ざる。直列六気筒4000ccのエンジンが野太い音を立て続け、息を潜めて見守る男女の不安を煽った。突然ジープの後部ドアが大きく開き、二つの裸身がもつれるように転げ落ちた。続いて白いコートを着た女が颯爽とドアから降り立ち、地面に転がった二人の尻を蹴った。よろける足で立ち上がった裸身に全員が目を見張った。毎朝見慣れた極月のしなやかな裸身と、文月の肉付きの悪い痩せた裸身が並んでいる。どちらも黒い縄で後ろ手に縛られていた。口に噛まされた木の枝の猿轡が凄惨な雰囲気を際だたせている。霜月が銃口を上げて白いコートの女に狙いを付けるが、二人の裸身が照準を妨げてしまう。制止する修太がいなくても、とても発砲できる状態ではなかった。静けさの中に、高い女の声が響き渡る。

「ピアニスト、出てらっしゃい。私はチハル。財産の横取りは許さないよ」
弥生の横にいたピアニストが苦笑した。ピアニストは大きく両手を広げ、ログハウスの陰から広場に踏み出す。
「ようこそチハル。まずジープの運転手に、エンジンを切るように命じてくれ」
チハルがにっこり笑い、高い運転席に手を上げて合図した。エンジン音がやみ、静寂が戻った。急速に不安感が薄れていく。逆光になった運転席のドアが開き、ダークスーツに身を固めた長身の男が地上に降り立つ。襟元の白いワイシャツと赤いネクタイがやけに目立った。山の中には似合わない服装だ。ジープにも似合いはしない。どう見てもベンツで市街地を走る格好だった。

「飛鳥か」
ピアニストがつぶやいてジープに近付いていく。思わずMと弥生もピアニストの後に続いた。コスモス事業団の本部秘書だった飛鳥が、理事長の個人秘書だったチハルとともに現れたのだ。コスモス事業団はゲーム機を作る収益部門だけを残して解散した。四年前のことだ。もはや本部は無いし理事長も亡い。過去の亡霊が現れたようにMには見えた。不吉な予感が喉元に込み上げてくる。

チハルが極月と文月の腰に繋いだ縄を乱暴に引いた。二人がヨチヨチと切なそうに尻を振って歩き出す。腰縄から股間に下りた縄目が痛々しい。二条の縄が性器を挟んで陰部に食い込んでいる。歩く度に陰部を激痛が襲う残酷な縛りだった。二人とも剥き出しの尻を後ろに突きだし、無様に歩くしかない。両の乳房も縦横に緊縛され、醜く歪んで縄目からはみ出していた。極月は必死に屈辱に耐えようとして、猿轡の代わりに噛まされた木の枝をきつく噛みしめている。文月の目からは涙がこぼれ落ちた。チハルの暴力志向は一向に変わっていない。鍛えられたシュータのメンバーを二人も、手もなく捻ってしまうパワーには舌を巻かざるを得ない。小走りに斜面を下りてきた修太たちが、拳銃をかざしてチハルと飛鳥を取り囲んだ。ピアニストの横に立った修太が緊張して掠れ声を出す。

「飛鳥もチハルもシュータのことは知っているはずだ。二人ともこのまま帰すわけにいかない。まず極月と文月を解放してもらう」
「ガキは黙ってな。私はピアニストに話があって来たんだ。五時までに私がドーム館に帰らなければ、県警のヘリコプターを呼ぶようにコンピューターに指示してある。そんな玩具で警察と銃撃戦をしたくなかったら、おとなしくしているんだね」
鋭い声で応えてから、チハルがピアニストの背後に目をやり、頓狂な声を出した。

「あれ、Mがいるじゃないか。いい年をしてテロリストの仲間になるとは思わなかったよ。どこにでも顔を出すんだね。光男の火葬の晩にいなくなってから一か月になる。Mに捨てられたと思って、祐子はイギリスに行ってしまったよ。本当にかわいそうだ」
「Mはゲストさ。お望みなら、君たちもゲストに迎えてやるよ」
ピアニストが、いつもの調子で馬鹿にしたように言った。
「こんな所でキャンプをするほど暇じゃない。私は明日アメリカに発つ。コスモス・アメリカで仕事をするんだ。理事長さんの隠し財産を確認するよう、飛鳥が無理に頼むから来たんだ。この臭い裸だって、お情けで連れ戻してやった。街に下りるときは風呂ぐらい使えよ。垢が溜まって臭くてならない。警察の検問にでも遭ったら、真っ先に目を付けられるぞ。人の親切も知らないでいっぱしの抵抗をするからこの始末だ。石鹸を使って臭い股を良く洗ったがいい」

大声でまくし立てるチハルに全員が一言もない。極月と文月の裸身が恥ずかしさで真っ赤に染まった。確かに水浴だけで済ましていた身体の異臭は、慣れてしまった者に分かるはずがなかった。医師でありながら臭気に気付かなかったピアニストの頬も赤く染まる。全員が手を上げて脇の下に鼻を当てた。チハルが大声で笑う。
「こんな寒い所にいたんじゃ分かりはしない。原始人が車に乗って、珍しがってヒーターを入れてみろ。暖まった狭い車内だ、すぐムンムンに臭い立つこと請け合いだぜ」
楽しそうにシュータの隙を説明したチハルが、寒そうに肩を震わせた。横に並んだ飛鳥を見上げて、さり気なく目配せをする。飛鳥が小さくうなずくのを見てからまたピアニストに話し掛ける。

「私はテロリストにも、こんな山の中のログハウスにも興味はない。でも、理事長さんの遺産は私と祐子が相続したんだ。無断で勝手にさせない。全権を委任して、飛鳥をここに残す。よく話し合うといい」
宣言したチハルが飛鳥を振り返った。わずかに肩をすくめてから、照れくさそうに顔を見上げる。

「これでいいかい。飛鳥、私はもういくよ。あんたのことはアメリカに行っても忘れない」
初めて聞く、しんみりとしたチハルの声だった。チハルが男にも関心を持ってきたと、祐子がドーム館で言った言葉をMは思い出した。初めての男と出会ったチハルが、整理し切れぬ思いを抱いて別れようとしているのだ。一切を振り捨てるように首を振って、チハルがピアニストに視線を戻した。これまでに見せたこともない、厳しい顔付きになって叫ぶ。
「最後に言っておくが、飛鳥には定期的にアメリカへ連絡させることにしている。連絡が途絶えたら警察が来ると思ってくれ」
嘘に違いないとMは思った。別れる男を気遣うチハルの自負心がかわいかった。男を振り捨てて新天地に向かう希望もまぶしかった。みんな大人になっていくのだ。

「こいつには待避所まで付き合ってもらうよ。そこからパジェロに乗せて帰す」
極月の腰に繋いだ縄を引いて、チハルが得意そうな声で言った。厳しく緊縛された極月の裸身が大きくよろめく。解放された文月が尻を振って睦月の方に向かった。極月を曳き立ててジープの助手席のドアを開けたチハルが飛鳥を振り返る。

「飛鳥、忘れ物だよ」
チハルの声を聞いた飛鳥が、一瞬迷うように正面のログハウスを見つめた。やがて肩を落としてジープに歩み寄り、高い車内から大型のアタッシュケースを二つ取り出す。
「さあ、車まで送ってやるよ」
極月に繋いだ縄を乱暴に引いたチハルが、裸身をジープのステップに追いやった。後ろ手に縛られた不安定な裸身は頭からシートに倒れ込んでしまう。素知らぬ顔でチハルがドアを閉めて運転席に回る。後ろ姿をMが追った。鎖で繋がれた弥生もMに続く。運転席のドアを開けたチハルに、背後から声を掛ける。

「祐子がイギリスに行ったのは、本当のことなの」
チハルが眉を寄せてMを振り向く。間近に見るチハルに女の匂いが漂う。
「しつこい女だね。本当のことさ。オックスフォードで二年間、毛織物の勉強をする。テロリストの仲間になったMとは、もう道は交差しない」
「私は仲間ではないわ」
大声に驚いたチハルが改めてMと弥生を見つめた。
「ふーん、仲間ではなく、切っても切れない仲か。相変わらず趣味が悪い」
言い捨てたチハルが高々と片足を上げ、二人を繋いで垂れ下がっている鎖の弧を思い切り踏みつけた。
「ヒッー」
肛門を激痛が襲い、Mと弥生の口から同時に悲鳴が上がった。二つの大柄な身体がしゃがみ込んでしまう。トレーナーの尻に空いた穴からは、銀色に光る肛門栓が三センチメートルも飛び出していた。
「まったく悪趣味だよ。Mは本当のマゾヒストかも知れない」
しゃがみ込んで涙を流すMを嘲笑ったチハルがジープに飛び乗る。野太いエンジン音が山間に満ち、力強くジープが発進した。

「あのままチハルを行かせていいのか。ピアニストの責任だぞ」
遠ざかるエンジン音を追って、修太の声が空しく響き渡った。ピアニストは答えようともせず、修太を無視して飛鳥の前に進んだ。
「飛鳥、理事長の遺産の管理で来たはずはないな。利口なあんたのことだ。何が目的だ」
直截に尋ねたピアニストの言葉に笑顔を浮かべ、初めて飛鳥が口を開く。
「久しぶりにピアニストと共同の事業がしたくなったのさ。アジトの中に入れてくれ。私はチハルと違って臭くても気にならない」
ピアニストの頬がぱっと赤く染まった。しかし、怒りをこらえて涼しい顔を装う。
「今夜は飛鳥のために風呂をたてよう。しばらく裸の付き合いをしていけばいい」
「それはいいな。一晩なら付き合おう。ピアニストはずいぶん逞しい身体になった。裸を見るのが楽しみだよ」
飛鳥が言い返し、二人で大声で笑った。並んでログハウスに向かって歩き出す。日が陰った広場に不吉な風が渡っていく。

「邪悪な者よ、去れっ」
突然広場に大声が轟いた。ログハウスのテラスに黒い柔道着を着たオシショウが仁王立ちしている。
「去れっ」
再び声が響いた。シュータのメンバーが騒然とする。修太がテラスの前に走り、オシショウを守るように飛鳥とピアニストの前に立ちふさがる。右手の拳銃を握り締めて二人を見据えた。
「オシショウの言葉が聞こえたはずだ。飛鳥をログハウスに入れるわけにいかない。帰ってくれ」
飛鳥は修太を見ようともせず、テラスのオシショウに声を掛ける。
「ただの商談ですよ。行商人が来たと思えばいい。あなたとピアニストに商売の話がある」
意表を突いた飛鳥の言葉にオシショウが戸惑ったようだ。真っ白な髪と口を覆った長い髭が日に輝いて揺れた。

「とても行商人には見えぬ立派な風体だが、何を売りに来たのだ」
一息おいてから発せられたオシショウの声が、広場に満ちた緊張を解きほぐす。飛鳥の口に微笑が浮かんだ。
「世界のトップ・ビジネスマンの格好はこんなものですよ。商っているのは希望です」
「ほう、苦いか甘いか、とても食えた代物でないかも知れぬ。だが希望という商品を見るのもおもしろい。見せてもらおう」
オシショウの声で動揺した修太が身体を固くする。ピアニストが右手で修太を押し退け、飛鳥と並んでログハウスへ向かう。二人の後ろに弥生が続いた。Mも黙って従う。新しい展開についていけぬ修太たちが広場に残されてしまった。寒風に吹きさらされてたたずむ七人を、弥生が振り返った。
「さあ、新しいステージが始まるのよ」
凛とした声が七人の耳を打った。一様に肩を落として、若者の群が歩き始める。確かな滅びの匂いがした。Mは弥生の高揚した気分が伝染しないように、鎖をいっぱいに延ばして歩み続ける。肛門をなぶる鈍い痛みが冷静さを保たせることを願った。確かに新しいステージが開始される予感がした。しかし、邪悪な思想が大きく羽を広げ、空高く舞い上がる準備を始めたに過ぎない気もする。オシショウの鋭敏な神経は、その事実を見抜いたうえで野合する事を選んだのだ。古いものに愛着を寄せる修太たちを、Mはふと愛おしく思った。

ピアニストと飛鳥は並んで食堂に入っていった。弥生はMを従えてまっすぐ広間の窓辺へ向かう。
「少し早いけど、反省の時間にするわ。M、裸になるのよ」
広間の鉄棒の下に立った弥生が、極月に渡された鍵で二人の肛門栓を繋いだ鎖を外した。素早くトレーナーの上下を脱いで素っ裸になった弥生が、アタッシュケースから出した二本の手錠を持って促すようにMを見た。まだトレーナーを着たままでいるMの表情が曇る。
「食堂でなく、ここで反省するわけにはいかないの」
「何を言っているの。反省の時間だから食堂に行けるんでしょう。飛鳥という人の提案をぜひ聞きたいの。私はシュータの広報担当よ」
Mは黙ってうなずいてトレーナーを脱いだ。飛鳥に尻を掲げた裸身を見られたくないとは言い出せなかった。拘束具の鍵を預けられてから弥生は変わったとMは思う。信仰への自信に加え、組織の一員としての責任感がより強くなった。それもピアニストに偏っている。もはやピアニストを補佐する者は修太ではなく自分だと自負しているようだ。かろうじて懲罰を受けている負い目が露骨な行動を控えさせているにすぎなかった。

Mの両手首で手錠が鳴った。もう一つの手錠を受け取って弥生の両手を拘束する。再び二つの肛門栓を鎖で繋ぎ、弥生を先頭に食堂に向かった。奥のストーブを囲んで、飛鳥を真ん中にしてピアニストと修太が座っている。三人から少し離れ、赤々と燃えるストーブを背にした席にオシショウが座っていた。Mが後ろ手にドアを閉めた。冷え切った裸身を温かな空気が心地よく包む。オシショウを除く三人が目を上げ、入ってきた二人を見つめた。飛鳥の視線がMの全身を舐める。

「すごいね、M。四年前より引き締まった魅力的な身体だ。横のお嬢さんにも負けていない。山の中まで来たかいがあったよ」
飛鳥の感動の声を無視して二人はドアの横の壁に向かって並んだ。背中に張り付く視線を痛いほど意識しながら、Mは足を上げて手錠をまたいだ。大きく拡がった尻の割れ目に飛鳥の視線が食い込んでくるようで切ない。尻の下に手錠で繋がれた両手を回して正座し、反省のポーズを取った。二つの裸の尻が男たちに向かって並んだ。飛鳥の口から声にならない溜息が洩れた。

「目の保養に来たようだよ。Mの尻は凄い。すべてが丸出しだ。股が開ききらないようにリングで止めてあるのがユニークだね」
横に並んだ弥生が震える尻にそっと素肌を擦りつける。怒りを耐えよと伝えてくる。Mは裸身を赤く染めて飛鳥の言葉に耐えた。
「二人は自主的に懲罰を受けているだけだ。僕たちの規律は性的に動揺するほど甘くない。商談に入ってくれ」
ピアニストの突き放した声が部屋に響いた。弥生の緊張が緩む。ピアニストの声の一つ一つに弥生の身体は反応するのだ。

「二十億円稼がないか」
飛鳥が無造作に言葉を落とした。部屋にいる全員が、一瞬意味が分からずあっけにとられた。日常生活に縁のない数字だった。金の単位に実感がわかない。オシショウだけがつむっていた目を大きく開いた。両眼が鋭く輝いている。大きく息を吸って飛鳥が言葉を続けた。
「個人の生活には縁のない金だが組織には必要な額だ。特に非常事態に見舞われた場合は何よりの武器になる。今後の希望に繋がるはずだ」
ピアニストがあきれきった顔で飛鳥の横顔を見た。しばらく間を置いてから失望の声が口を突く。

「二十億円が希望という商品なのか。話は分からないではない。だが、実現性のない夢を見ている暇などない。万一実現性があったとしても、二十億は金融機関のコンピューターのディスプレーに並んだ十桁の数字だ。実際には、どこにもそんな現金はない。非常事態にある組織が、画面の数字を食うわけにいかない」
「その現金があるんだ」

飛鳥の大声が食堂に満ちた。喉に渇きが込み上げてくるような、乾ききった沈黙が部屋を占めた。反応に満足した飛鳥が、声を落として再び話し始める。

「三月十日から五日間、市の競艇場で世界選手権レースが開催される。十年がかりで市が誘致したビッグレースだ。優勝戦の行われる最終日の売り上げは二十億円にもなる。全部現金だ。二十億の現金は確かにある。それもいわば泡銭だ。我々が有効に使って悪いことはない」

一瞬Mは耳を疑った。続いて怒りが全身に込み上げる。掲げた尻がブルブルと震えた。弥生のことを考える余裕もない。たちまち怒りが口に溢れる。
「テロリストに飽きたらず、強盗にまで落ちるつもり。最低な宗教があったもんだわ。社会変革が聞いてあきれる」
Mの怒声が部屋に満ちると同時に、ドアが開いた。冷たい風が吹き込み、白い裸身が食堂に入ってきた。ストーブの前に立った極月が怒りに全身を震わせる。チハルに緊縛された縄目の痕が痛々しい。

「この男の処罰を提議します。あの女に開放されて、やっと戻ってきたばかりなのに、まさか強盗の話を聞くとは思わなかった。この男と女が仲間にした仕打ちを、私と文月の身体に残る縄目の痕で思い出して欲しい」
怒りを抑えて弾劾する極月を、飛鳥が立ち上がって制した。百八十センチメートルを超える長身が全員を見下ろす。

「チハルが行った暴力は私が詫びる。彼女は忙しすぎたのだ。私だって相当の覚悟をして来ている。だがチハルが同行しなければ、私の提案を聞いてもらうことはできなかっただろう。私も手ぶらではない。事前に受け取ってもらいたい品がある」
胸を張って言った飛鳥が、床に置いてあった大型のアタッシュケースの一つをテーブルに上げた。無造作に錠をスライドさせてケースを開いた。型抜きしたスポンジに埋まった六丁の拳銃が黒く輝いている。ケースを見下ろしていた極月の目が大きく見開かれた。凶々しい暴力の予感に裸身が鳥肌立つ。飛鳥が拳銃を取り上げてピアニストと修太に手渡した。

「米軍制式のベレッタM92Fだ。9ミリ口径で装弾数は十五発。連続して発射できる。君たちの改造拳銃とは戦闘力が違う。もう一つのケースには弾丸千発とマガジン、フォルスターが入っている。すべてを進呈しよう。いわば結納金のようなものだ。これだけの武器を提供するんだ。私も一蓮托生であることを理解してもらいたい」
醜悪なプロポーズの様子を、Mは少し開いた股の間から見た。ピアニストが拳銃を握って重さを確かめている。ベレッタで狙いを付けている修太の目が輝いている。たたずんでいる極月の裸身の横に、じっと腕を組んで目をつむっているオシショウの姿が見えた。

「飛鳥、コスモスの本部秘書だったあんたが、なぜ武器商人になって強盗を勧めに来たんだ」
握った拳銃から目を離さずに、さり気なくピアニストが尋ねた。
「ご承知のとおり、社会を変革するはずだったコスモス事業団は解散した。ただのゲーム機屋になってしまったコスモスに私の能力を生かす場所はない。売り上げを伸ばすことだけに能力を使う毎日に耐えられなくなったのだ。私のプライドが許さない。有り余る能力とコンピューターを駆使して、不可能そのものに挑戦するシミュレーションを四年間考え続けた。今回の計画が一番スリリングで確実性がある。だが、残念ながら私には戦力がない。これも企画倒れで終わるかと諦めかけていたとき、追い詰められた組織が身近にいたというわけだ。私は金など要らない。一億円ももらえばいい。自分の能力が生きたことを実感できればそれでいいんだ。だから、あくまでも実行の責任はシュータに負ってもらう。私は陰に隠れた黒子だ。すでに指名手配の身になったシュータにとっては別に問題はないはずだ。すべてが終わったら私はアメリカにでも行くよ」

股間から様子をのぞき込むMは、きな臭いにおいを嗅いだ。飛鳥は責任のすべてをシュータに押し付け、一億円だけをもらうと言う。虫のいい話だった。六丁の凶悪な武器の存在だけが事実で、他はすべて作り話に思われた。しかし、チハルのいるアメリカに行きたいという話は、本音かも知れない。天窓から落ちる光が弱くなり、夕暮れが近付いていた。熱気の満ちた食堂に寒さが染み込んできた。
「飛鳥、今夜は泊まりだな。風呂でもたてよう」
黙ってベレッタをいじっていたピアニストが自分に言い聞かすように言った。修太と極月が顔を上げてオシショウを見つめる。二人の縋り付く視線を浴び、オシショウが目を開けて腕組みを解いた。
「確かに極月は臭う。風呂は必要だ」
素知らぬ顔で言ってオシショウが立ち上がった。ドアを開け放して廊下へ出る。極月の裸身が恥ずかしさで赤く染まった。


全員が一か月振りに風呂に入った。谷川から汲み上げてきた水を沸かした貴重な風呂だ。Mと弥生の入る順番は最後だった。小さなステンレスの湯舟の湯は膝のあたりまでに減り、濁ってもいた。窮屈な思いをして二人一緒に沈み込むと、やっと湯が胸まで上がった。それでも温い湯が全身をゆっくり暖めてくれ、生き返る心地がした。
「肛門栓を抜いてはだめかしら。せっかく、お湯で石鹸が使えるのだから清潔にしたいわ」
身体の芯まで温まったところで、Mが弥生に甘えた。
「そうね、違反だけれど、目をつむりましょう」
明るい声で答えた弥生が立ち上がる。洗い場で四つんばいになったMの尻から肛門栓が抜かれた。続いて弥生の栓をMが外した。開放感が全身に拡がり涙が出そうになる。十分に石鹸を泡立て、お互いの裸身を洗い合った。うれしいくすぐったさで二人とも笑う。懐かしい時が流れ、外は深々と冷えていった。

「弥生も強盗には反対でしょう」
再び湯舟に並んで浸かり、お互いの肛門に手を伸ばしてマッサージを続けながらMが尋ねた。答えが怖かったが尋ねないわけにいかなかった。Mの肛門を撫でる指先が止まった。沈黙が流れた。やがて力強く弥生の指が動き始め、リングで封鎖された陰門へと指が伸びた。静かな声が帰ってくる。
「分からないわ。私たちには滅びしか残されていない。どう滅びるかだけが問われているの。惜しまれるだけの滅びが迎えられればそれでいい。そのために資金がいるのなら、反対はしないと思う。まず私自身を鍛え上げる。そして組織を鍛え上げる。社会はその後になるわ。信じる道に必要とされれば、私はすべてを投げ出す」

また殉教者の声を聞いたとMは思った。耳を覆いたくなる。これほど近しく感じられる弥生がその一点で遠のいていく。だが、引き締まった裸身はMの素肌と触れ合い、指は陰部を這っているのだ。どちらが真実なのかとMは惑う。頬を涙が伝った。弥生の股間に伸ばした指が、すっと肛門に吸い込まれていった。終着駅だと思っていた山岳アジトから、もう少しだけ道が延長される予感がした。Mにとっても、弥生にとっても、踏み外したくないひとすじの道だった。


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