3.内職

Mが遊郭跡のアパート富士見荘に住み始めてから、もう五日が経った。腰高の小さな窓から入ってくる日射しが四畳半の部屋を明るく照らしだしている。Mは毛布の間で目を覚ました。天田の用意してくれた毛布のうち二枚を重ねて折って敷布にし、二枚を身体に掛ける。もう一枚は枕替わりに使っていた。右手を伸ばして畳に置いた腕時計をとる。ディオールのブラックムーンの黒い文字盤が午前九時を回っていることを教える。時計は祐子が置いていったものだ。貰い物だが、年齢的にMに似合うと言って無理に押し付けていった。相変わらず祐子は嘘がへただと思う。わざわざ買ってきたことぐらい百も承知だった。チーフはゲランのルージュを置いていったが、祐子とは違う。口紅も引かない女は、いくら美しくても許せないと説教をしていく余裕があった。祐子もチーフも五日間の間に入れ替わり、立ち替わりに訪ねてきた。決まって帰り際に出所祝いの話をする。だが、Mは首を縦に振らない。いくら誘われてもドーム館にもサロン・ペインにも行こうとはしなかった。三人で会っても話題は極めて少ない。Mは弥生や修太、光男、他の死者たちの話をしない。ピアニストを初めとした生き残った人たちのことも話題にしない。沈黙の時間ばかりが流れていった。祐子もチーフもMの態度をはかりかねて、おろおろするばかりだ。だが、Mは態度を変えようとはしない。じっと貝のように部屋に逼塞する日々を重ねていった。

「毎日、朝が遅くなる」
声に出してつぶやき、Mは毛布をはねのけて起き上がった。灰色のジャージを着ている。刑務所では裸で眠ることは許されない。服を着て寝る習慣が自分の部屋を持った今も続いていた。立ち上がって壁に掛けたタオルを取る。いくらか伸びた陰毛が内腿を鋭く刺激するが、取り立てて感動はない。陰毛を剃ってはみたが勇気は湧いてこなかった。全身のだるさが喉元まで溢れ、口からこぼれ出るのを待っているだけだ。起き抜けのまま玄関に向かう大階段を降りた。この重々しい階段を上り下りするときだけ富士見荘の前身に思いを馳せる。多くの女たちの血と汗と涙、そしてわずかばかりの官能の匂いを嗅ぐ。かつて、ここでは強いられた性だけが女の裸身を撫で回していたはずだった。残された建物と建物にまつわる性の伝説はすべて抽象に過ぎない。それぞれの女たちの過酷な性だけが遊郭にとっての真実なのだ。現在のMとピアニストと同様、つぐんでしまった口が真っ直ぐ暗い深淵に通じていたはずだった。

重いガラス戸を開いて広場に出ると暖かな日射しが全身を被った。吐く息は白く、厳しく素肌を刺す冷気も漂っていたが、着実に季節は流れている。冬は立ち去るのだ。Mは広場の隅で水道の前に屈み込んだ。洗面器を忘れたことを一瞬悔やむ。しかし、コンクリートの流しの隅に伏せてあるプラスチックの洗面器を拝借することにする。午前九時を過ぎて起き出してくる者は、富士見荘ではMの他にいるはずがなかった。水道の蛇口を捻って洗面器に水を満たす。しばらく水を出しっぱなしにしておくと、手に突き刺さる冷たさが消えて懐かしい温かみが水中に広がる。待っていたように両手で水を掬った。数回顔を洗った後、首筋や耳の裏まで丁寧に洗う。ショートの髪は本当に便利だと思う。刑務所の暮らしは合理的なのだ。顔一面に滴る水滴を首に掛けたタオルで拭き取っていると、背後から冷たい声を浴びせられた。

「あんたは刑務所帰りだったのかい」
突然の言葉に肩が緊張する。低く掠れた女の声だった。
「その洗面器は、わしのもんだ」
畳み掛けてきた声を聞いて、Mはしゃがんだまま振り返った。背後から朝日を浴びた黒い影がすぐ後ろにいた。声の感じから富士見荘に来た日に天田に話し掛けてきた菊という老婆だと知れた。だが、天田と話す時とは違い、腹に染み通る威厳のある声音だった。
「そのサンダルも、わしの物だ。ぬしはまだ刑務所ボケしているのか、刑務所のしつけが甘くなったのか、どっちなのか答えておくれ」
老婆が追い打ちを掛けた。完璧にMの負けだ。返す言葉がなかった。靴を履くのが面倒で一番古ぼけたサンダルを突っ掛けてきたのだが、他人の物には違いない。刑務所でなくても、どこの世界でも盗みに違いなかった。Mはその場でサンダルを脱いで地面の上に正座した。洗面器とサンダルを膝の前に置いて深々と頭を下げる。
「確かお菊さんでしたね。私はM。おっしゃるとおり五日前に刑務所を出所してきました。日用品を買いそろえることを怠り、お菊さんの洗面器とサンダルを無断でお借りしてしまいました。二度としません。許してください」
真剣な声で訴えた。老婆だろうが生活保護を受けていようが、見くびるわけにはいかなかった。無意識に盗みを働いたのはMなのだ。許しを乞うしかないと思った。

「ハッハハハハ」
神妙に土下座した頭上にお菊さんの笑い声が降ってきた。
「許すも許さぬもない。足りない物があれば融通し合うのが当たり前だ。だが、ぬしの答え振りを見て安心したよ。今でも刑務所のしつけは厳しいらしい。わしも刑務所では辛い思いをした。そのサンダルはぬしにやる。わしはやっと新しいのを買ってきたんだ」
邪気のない声に顔を上げると、お菊さんが手に持った白いレジ袋を子供のように振り回している。袋を透かして赤いサンダルが揺れていた。
「ありがとうございます。でも、サンダルはお返しします。早速私も買ってこようと思います」
ほっとした声で答えて洗面器とサンダルを差し出した。

「困ったときはお互い様だと言ったろう。そんなに緊張しなくていい。でも、それなりの披露目は必要だ。狭い世界のことだから筋だけは通さなければならない。ぬしが富士見荘に来たことは皆が知っている。だがな、ぬしの口からはっきり聞かぬ限り、わしらは噂するしかない。どこの世界でも挨拶は大事だ」
また図星を指されたと思った。人間関係の煩わしさを避けたいために、誰と擦れ違っても目礼だけで済ましてきたのだ。だがそれも、自分の暮らしを自分で守れなくては意味がない。他人の洗面器やサンダルを黙って借りるようでは人を疎んじる資格がなかった。
「ぬしのような若い女が刑務所のしつけどおりの洗面をしていれば、お節介でも声を掛けたくなるぞ。娑婆の人間は首筋や耳の裏まで洗いはしない。その代わり毎日風呂に入る。刑務所で暮らしたことを知られたくなかったら、つまらん習慣はやめた方がいい。ついでに言っておくが、娑婆に帰ったとて水道の水を出しっぱなしにしてはだめだ。水道料はやがて家賃に跳ね返ってくる。皆の首を絞めるようなことをしてはならない」
流しの横で正座したMの頬が恥ずかしさに赤く染まった。お菊さんの言葉が怠惰な心をしたたかに打った。Mと同様、刑務所の辛い生活を耐え抜いたというお菊さんに、もう一つの厳しさを見た。それは、暮らしの辛さを潜り抜けてきた者の持つ自負だった。Mはこれまで暮らしの辛さなど経験したことがない。水道を出しっぱなしにしても水道料を払うだけのことだった。だが、その金は労働の対価をもって充てるのだ。得た金の量がすべてだが、底を流れる論理は貧富の格差を拒絶する。貧困を笑うことはできない。暮らしに無知なだけの話だった。真っ直ぐ伸ばしていた背筋が崩れ、うなじが下がる。小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。

「若い女にしては、ずいぶん素直でいい子だ。さあ、わしのやったサンダルを履いて立ちなさい」
お菊さんが打って代わった優しい声で言ってMを立ち上がらせた。ちょうどMの肩までの背丈だ。
「お菊さん、私はそんなに若くない。もう四十歳を過ぎている」
照れくさそうにMが言った。
「何を言う。娘っ子のようなもんだ。わしは七十七歳になる。だが、歳は自慢にならない。やはり若い方がいい。ぬしは若くてきれいだ。羨ましいぞ」
小さな口の中で含み笑いをしたお菊さんが、まじまじとMの全身を見た。灰色に濁った目の奥に憎しみに似た羨望が浮かんでいる。Mは目のやり場に困った。そんなMの姿を舐めるように見つめていたお菊さんの目が、急に抜け目のない眼差しに変わり、さり気なく周囲を見回す。再びMの顔に視線が戻り、濁った目で正面からMの目を見つめた。
「惨めな服を脱いで、裸におなり」
さり気ない声でお菊さんが命じた。一瞬Mは自分の耳を疑う。突飛な指示で動揺した顔がお菊さんの瞳の中に映っていた。いつになく情けない姿を自認して頬が赤くなった。毅然とした自分に戻りたかった。

「はい」
短く答えてうなずく。素早く灰色のジャージの上下を脱ぎ捨てた。春の日射しを浴びた裸身が木造三階立ての遊郭跡のアパートを背景に浮かび上がる。足元にくたびれた灰色の生地が脱ぎ捨てられている。お菊さんの言ったように刑務所のレクリエーション用に購買で買ったジャージだった。惨めな服には違いない。脱ぎ去った裸身に爽快感が残った。
「思っていたとおり立派な身体だ。光り輝いている。薄汚い囚衣を脱がせてよかった。M、ここ一帯は遊郭の跡だ。美しい裸を誇らしく晒してもいいんだ。刑務所の暮らしを引きずっていることはない。わしらには目の保養になる。長生きがしたくなるぞ」
分厚く重ね着をした小さな老婆の前に大柄の裸身がたたずんでいる。異様な眺めだった。お菊さんが一歩後ろに下がって、じっと裸身に見入る。

「前を隠すことはない」
お菊さんの声にうなずいたMが、股間で重ねていた手を背中に回した。豊かに胸が張られ、形の良い乳房が前に押し出された。陰毛を剃り上げた隠しようのない陰部が初春の日射しをいっぱいに浴びた。切れ上がった深い割れ目から赤い性器がのぞいている。
「股間を剃り上げているのか。潔いことだ。かわいらしい下の顔が丸見えだぞ。上の顔も美しいが、下の顔も見事じゃ。女のわしが見てもほれぼれする。多くの男が泣き狂ったに違いない。だが、それもみな、ぬしのせいではないぞ。艶めかしく生まれただけのことだ。思いのまま悶えればいい。ぬしの特権だと思えばいいのだ。後ろを向いて尻の割れ目も見せろ」
お菊さんの感動の声が耳をくすぐる。Mは命じられたとおりに後ろを向いた。両足を広げて尻を突き出す。鋭い日射しを浴びた裸身が火照り、汗が噴き出しそうな気がする。お菊さんの言葉が身体の芯から素肌を熱しているのだ。尻の割れ目を風が通り抜け、お菊さんの言葉が落ちた。

「尻の穴もよく使い込んでいる。言うことはない。若いのに立派な女だ。M、おっ母さんはいるのか」
「いません」
股の間から答えた。お菊さんは少しの間下を向き、何事か考えている素振りだ。だが、すぐ顔を上げて素早く尻の横に立った。

ピシッ

突然、尻に強烈な平手打ちが見舞った。口に悲鳴が走り、痛みが尻全体に拡がる。
「M、気に入ったぞ。親子の盃替わりの平手打ちだ。ぬしのおっ母さんに代わってその身体、しっかり磨いてやるぞ」
お菊さんのにこやかな声が路地の出口まで響いていく。Mは尻を突き出したまま面食らって声も出ない。ありがた迷惑な話だが、行きがかり上逆らう術もない。苦笑を隠して股の間からお菊さんを見上げていた。お菊さんは大きく胸を張り、小さな口元にいっぱい皺を寄せて愉快そうに笑っている。
「もういいぞ、部屋に帰ろう」
お菊さんに促されて仕方なく素っ裸で後に従う。木造三階建ての遊郭の玄関に曳かれていく裸身は、やり手婆さんに連れ戻された逃亡女郎のように見えた。白い尻に浮かんだ平手打ちの痕が痛々しい。

「M、いつまでもぶらぶら遊んでいてはいけない。ちゃんと働いて稼げ。しのぎを削らねば、娑婆では尻の毛まで抜かれてしまうぞ」
先に立って大階段を上るMに、お菊さんがまた説教をした。Mがしおらしくうなずく。Mの態度に満足したお菊さんが尻に手を伸ばして割れ目をまさぐる。
「まあ、尻の毛まで剃り落としていては抜かれる気遣いもないか。潔くていいぞ」
楽しそうな声が吹き抜けの階段に溢れた。
「今日は昼の三時に内職の材料が来る。わしらの働く姿をよく見ろ。皆の衆にも紹介してやる。いいな、忘れるなよ」
二階の踊り場で言って、お菊さんがもう一度尻を軽く叩いた。どことなく懐かしさが漂う甘い痛みが尻に拡がる。憎めない婆さんだとMは思った。


午後になってすぐ、Mは三年と五日振りに商店街に買い物に出掛けた。これまでにサンダル一つ買わなかったことが情けなかったのだ。
春の商店街は明るい。街をいく人たちの顔も皆、一様に晴れやかに見えた。死者と生者のことを思い煩っていたことが無益な時間だったような気がする。真っ先に化粧品屋で大振りの鏡を買った。肌触りの良いタオルと高価な石鹸も買った。次にトラッドショップに行ってしばらく迷い、黒いロングスカートと煉瓦色のシングル・ジャケットを仕入れた。現在の流行が気になったが、あえて店員に尋ねることなく気に入った品だけを選んだ。インナーには白いスタンドカラーのシルクシャツをおごった。体のサイズが変わっていないこともうれしかった。買った品を全部試着室に持ち込み、その場で着てきた紺色のスーツと替えた。どの品もぴったりMに似合った。姿見の中の自分が一段と大きく見えた。少しの直しも要らぬ体型に店員が驚嘆の声を上げる。それもMにはうれしい。調子に乗って靴も欲しくなる。ショーウィンドウに飾ってあったワインレッドのプレーンなスリッポンを求めた。ヒールは三センチメートルしかないが、Mの身長はこれで百七十三センチメートルになる。気分が良かった。ついでにジーンズショップをのぞき、ブラックジーンズと黒のタートルネックのセーターも買った。買い物をする度に気持ちは高揚していったが、終わったときには十五万円がなくなっていた。有り金の半分を使い切ってしまったのだ。

「ようし、稼ぐぞ」
大きな紙袋を三つもぶら下げて、思わず歩道の端で声を出した。途端にお菊さんの顔が脳裏に甦った。恥ずかしさが込み上げてきて頬が赤く染まる。私の暮らしは高々このくらいの物かと思い知ってしまった。水道料金を節約するなど思いも及ばない。収入の当てはないが、無いはずはないと思ってしまう。一人暮らしの若さの驕りだった。もう四十歳を過ぎたなどと威張ることはできない。苦海に身を沈めた多くの女たちの怨嗟の声が聞こえた。

「あの、良かったらお茶でもご一緒できませんか」
横断歩道の赤信号を見つめていたMの耳に豊かなバリトンが響いた。思わず首筋が痒くなって、隣の男を見つめる。ほぼ同じ背丈の男の頬が赤く染まった。グレンチェックのスーツを着た繊細な感じの男だが、年齢は三十歳を出た程度にしか見えない。
「また、暇なときにね」
素直に答えると、また男の頬が赤く染まった。
「僕は銀行員で、怪しい者ではありません。ぜひ付き合ってください。何でもします」
温室育ちの匂いが鼻先を掠める。何よりも声が素晴らしかった。股間が熱くなるのが分かる。
「そう、怪しい者なんて、もうこの市にはいないわ。銀行員が何でもするというのは、十億円ぐらいは融資するってことかしら」
Mの言葉に青年がどぎまぎした。しかし引き下がろうとはしない。信号は赤のままだ。
「いえ、仕事を離れてプライベートな場所でお役に立ちたいんです」
「分かったわ。素っ裸にして、縛り上げてちょうだい」
「えっ」
絶句した青年の顔が戸惑い、信号が青に変わった。Mは足早に横断歩道を歩く。ついてくると思った青年は交差点を渡らず、そのまま歩道に立ちすくんでいる。振り返ったことを悔やむとピアニストの顔が目に浮かんだ。ちょうど青年と同じくらいの歳だが、ピアニストの顔は苦悩で年老いて見える。急に気分が沈み込んで悲しい痛みが全身を捕らえた。履き慣れないスリッポンが歩みを妨げ、尖った陰毛が内股を刺す。Mは激しく首を左右に振ってピアニストの幻影を追い払った。背筋を正し、あごを引いて正面を見据える。商店街の歩道を春の光が照らしている。まぶしい光の中をできるだけ快活に歩こうとした。擦れ違う度に振り向く男の視線だけを感じ続けようと思った。


富士見荘に続く路地に入ると途端に風景が暗く陰鬱になった。正面にそびえる木造三階建ての威容が周囲を圧し、毒気を振りまいているように見える。玄関の重いガラス戸を開けて大階段を上る。春の光を拒絶した暗い吹き抜けに寒い空気がよどんでいる。黒光りする中廊下を渡って自分の部屋のドアを開けた。腰高の小さい窓から入る斜光を浴びた方形の部屋が目に飛び込む。煤ぼけた畳があるだけの何もない部屋だ。心の底まで寒くなっていくような気がする。せっかく取りそろえた衣装も形無しだった。買ってきた鏡を取り出して壁に掛けた。吊った鎖が捻れて鏡面が斜めになる。鏡に映る横を向いた顔の回りを寒々とした部屋が取り巻いている。自分自身の横顔も表情が暗い。突然ドアが開けられ、お菊さんの着膨れた姿が鏡に映った。

「ほう、服を買ったのか。まぶしいくらいあでやかだ。Mによく似合うぞ。テレビの画面から抜け出てきた女優のようだ。きっと皆の衆も喜ぶ」
お菊さんの最大級の賛辞がMを元気づける。確かに私は美しいと、鏡の中の自分に心の中で呼び掛けてから振り返った。
「この服でよそよそしくないかしら」
「なんの、華やかなことはよいことだ。くすんでいるのは年寄りだけでいい。早く行こう」
お菊さんは忙しなく言って背中を見せた。小さな背中にMを早く仲間に見せたいという無邪気な興奮が溢れている。まるで道端で拾った子犬を友達に見せびらかす子供のようだ。Mは思い切り愛嬌を振りまかねばならない心境になる。老人との付き合いも辛い。廊下の端まで行き、三階に続く階段を上る。玄関の大階段と違って三階に上る階段は狭くて急だ。その代わり建物の両端に二つの階段がある。上り切ると、さすがに低過ぎる天井の下に中廊下が延びていた。廊下を挟んで左右に五つずつ十室のドアが向かい合っている。Mたちの住む二階に比べて一目で格が低いことが分かる。東西に小窓があるだけの廊下は暗くて侘びしい。今にも女の啜り泣きが聞こえてきそうだ。思わず全身が緊張し鳥肌が立った。

「南側の三室の壁をぶち抜いて、わしらの作業場に使っている。あとは無人だ。遠慮することはないぞ」
お菊さんが緊張を察して声を掛けた。
「さあ、中に入れ」
ノックもせずに右手のドアを開き、お菊さんが道を空けた。仕方なくMが先に部屋に入る。入った途端にきつい皮革の匂いが鼻を打った。四畳半の空間を三つ並べた細長い部屋に三つの腰高窓が等間隔で並んでいる。曇りガラスの入った窓から射し込む日射しを受けて、三人の老婆が座り机に向かって仕事をしていた。鳴り続けていたミシンの音がやみ、六つの目がMを見つめる。
「皆の衆、わしの部屋の前に越してきたMだ。よろしく頼みますぞ」
Mの後ろから、お菊さんが三人の老婆に声を掛けた。Mは慌ててささくれた古畳に正座して姿勢を正す。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。Mと言います。越して来たばかりで日が浅いため、不調法があろうかと思いますが、よろしくご指導ください」
深々と頭を下げて口上を述べると、窓際に座っていた老婆が大きな声を出した。
「耳が遠くなってよく聞こえん。もっと近くに来てくれ」
「年寄りは不便なもんだ。Mの声は小さくはないぞ」
大きな声でつぶやいたお菊さんがMを促し、並んで座る三人の前に導く。Mは座り直して、また頭を下げた。
「私は五日前、刑務所を出てきたばかりです。刑務所にいたことは今朝、見事にお菊さんに見破られてしまいました。別に隠そうと思って皆さんにご挨拶しなかったわけではありません。しばらく静かに暮らしたかっただけです。三年間、世間と交流がなかったので不安もありました。でもお菊さんが、富士見荘には昔ながらの暮らしが残っていると教えてくれました。お陰で私も、もう一度やり直す決心がつきました。働きたいとも思っています。今日は皆さんの仕事ぶりをたっぷり見せてください」

「若いのに素直で良い。何よりも見目がきれいだ」
耳が遠いと言っていた老婆が真っ先に口を開いた。相変わらず声が大きい。座り机の横に黒いなめし革が高く積んである。机の上には風呂敷ほどの大きさの黒皮が広げられている。はさみとカッターナイフで裁断作業をしていたらしい。手を休めたまま言葉を続ける。
「わしは米という。この地区に住み続けて八十四年になる。親子二代の女郎だ。この富士見荘はな、商売敵の郭じゃった。わしのいた郭はとうに潰れ、ずっと空き地のままだ。だが、そこの旦那は不思議なお人だったぞ。女郎ごときを厚生年金に入れてくれたのだからな。よその旦那衆はあきれておったという。郭が潰れた後も店を仕出し屋に替えて面倒を見てくれた。お陰で食うに困らぬ年金がもらえる。今では女郎も捨てたもんではないと思うぞ。当時であれば、お前はさぞかし高く売れただろうよ」
Mの年齢の二倍も生き抜いてきたお米さんは、値踏みするようにMを見つめてにっと笑った。一瞬背筋が寒くなったが、Mも負けずに微笑み返した。さすがのお菊さんが閉口したように溜息をつく。
「Mが刑務所の話なんか出すから、お米さんまで郭話を始める。他人が聞いていたら目を回すぞ。お梅さんは粋筋だから、次は品よく頼むよ」
色々な形に裁断した黒皮の縁を折り込んで電気鏝をかけていた老婆が手を休めて顔を上げた。

「あたしは梅。七十五歳になるが、品のある話などありようもない。隣町でずっと囲われ者の暮らしをしてきただけ。それは旦那にはかわいがられた。生前に十分過ぎるほどの資産も金ももらった。でも、旦那が死んで本妻さんの気持ちが変わった。家に乗り込んできて、毎日毎晩あたしを責めた。旦那にもらった物を全部返せというんだ。素っ裸で縛り上げられ、尻に焼き鏝まで当てられたのだ。仕方なく、泣く泣く隠しておいた土地の権利書を出した。今度は預金通帳も出せと言って、また責める。一週間の地獄の責め苦で殺される寸前まで行ったとき、本妻さんが隙を見せた。身一つで逃げ出してここに隠れ住んだ。三十年前の話だ。あたしには粋でもなんでもない。じっと隠れ住んできただけだった。風の便りで本妻さんが死んだことを知ってから、まだ十年も経たない」
溜息の出るような話ばかり続く。Mは正座した足のしびれを感じた。だが、まだ一人残っている。お菊さんが元気に紹介した。

「さあ、しんがりは桜さんだ。桜さんは女学校を出ている。わしらの中では一番のインテリだ」
一番若く見える老婆の机の上には二台の頑丈そうなミシンが置いてあった。皮紐や皮帯をミシンで複雑に縫い合わせているのだ。一台は手回しのミシンだった。長い皮帯を手に持って静かな声で話し始めた。

「私は桜。まだ七十二歳だから一番若い。他の姉さんたちと違って経験も浅いわ。機屋の一人娘でずっと育ってきたのだもの、確かに女学校にも行けた。でも、あんなに大きかった機屋もあっけなく潰れたわ。真面目で小心だった両親は負債の大きさに絶望して一緒に自殺してしまった。私が三十歳の時よ。すべての相続を放棄した私は、借金から免れて洋裁を教えて食べてきた。たった一人で爪に灯をともすようにしてお金も貯めた。その金も初めての男が競艇場の沼にみんな沈めてしまった。私が五十歳の時よ。男は四十歳だったわ。やけくそになった私はお酒に溺れ、病気になって生活保護を受けたわ。凄く屈辱を感じたことを覚えている。でも、お金がないことは事実だった。そして、ずっとお金には縁がない。今でも豪奢な振り袖を着た若いころの私が夢に出てくる。貧乏には慣れたけど、お金に不自由しなかったころの夢からは未だに逃れられない。姉さんたちがいなければ、きっと生きられないわ」

最後の話も切なくやり切れなかった。歳を取るということは汚濁にまみれ、暮らしに疲れ果てるということかも知れないと思ってしまう。
「Mのお陰で、みんな若かった時を思い出してしまった。うんざりするほどの思い出だが、それでも今よりはましなのかも知れぬ。若いMが羨ましいぞ」
お菊さんの言葉につられて全員が羨望の眼差しでMを見た。Mのうなじが下がり頬が赤く染まった。刑務所を出てきたばかりの女に、この先どんな未来が待つというのか。むごい憧れが全身を覆う。もう財布には十五万円しかないのだ。強奪し損なった十五億円のコンテナの山が目に浮かんだ。死者と生者の影がまた目の前を掠めた。急いで気分の転換を図る。

「三人に詳しく自己紹介をしてもらったお陰で、お菊さんのことが一番分からなくなってしまったわ。私は強盗の罪で刑を受けたのだけど、お菊さんは何をしたの」
何気なく尋ねた言葉で部屋中が静まり返った。沈黙の中からお菊さんの掠れた声が浮かび上がる。
「わしは殺しだよ。憎い男の腹を三回刺して殺した。お米さんの前では言いたくないが、大事な乳飲み子を取り上げて、わしを女郎に売り飛ばそうとした男だ。そんなものは人でない。人でないものを殺して殺人とは、ちゃんちゃらおかしい。今でも後悔はしていない。あんな奴は何度でも殺してやる」
お菊さんの憎悪に燃えた目が宙の一点を見据えた。西日を浴びた部屋が冷たく凍り付く。四人の老女がくぐり抜けてきた男女の愛憎の淵が遊郭跡のアパート富士見荘に漆黒の闇を創っているようだ。Mは目がくらみそうになった。

「まあ、顔見せも済んだことだし、Mさんよ。わしらの内職をゆっくり見ていくがいい」
お米さんが大きな声で取りなし、三人の老婆がそれぞれの机に向かった。素知らぬ顔で仕事を始める。いずれも老婆とは思えぬ手早さで、丁寧な仕事ぶりだ。Mの口から感嘆の溜息が出た。
「内職と言っても一貫した流れ作業になっているのね。まるで工場みたい。でも、桜さんの所まで行っても何ができるか分からないわ。ずいぶん柔らかそうな皮だけど全部黒ね。皮革工芸品を創っているの」
Mが首を傾げ、誰にともなく尋ねた。前に座った三人の老婆が一様に品のない顔で笑った。

「お菊さんの所まで行くと形になる。さあさ、お菊さん、いつまでも興奮してないで、かわいい娘に組立を見せてやりな。これでも立派な実用品なんだ」
お米さんがお菊さんに大声で呼び掛けた。やっとお菊さんの口に微笑が浮かぶ。自分の座り机の前に座って、桜さんがミシンをかけた皮帯を手に取る。机の上には小さい箱が五つ置いてあった。その一つから銀色のリングを摘み上げて長い皮帯と短い皮帯を複雑に繋ぎ止める。続いて大小のリングに二十本もの長短の皮帯を繋ぎ、折り返しに黒い鳩目を打って止める。最後に要所要所に尾錠を付け、差込の皮帯に小さな穴を空けて作業が完了した。組立作業は三十分ほどの工程だった。

「ほら、一挺上がりだ。使いやすそうだろう。羊皮を使っているからとても柔らかいぞ」
お菊さんが誇らかに言って、蜘蛛の巣のように入り組んだ黒い皮帯の寄せ集めをMに手渡す。確かにしなやかで柔らかい手触りだが、何に使う品かまだ分からない。
「何に使うと思う」
皮帯の複合品としか言えない製品を手にして首を捻っているMに、お菊さんが笑いながら問い掛けた。
「さあ、何かに被せて梱包するようだけど、よく分からないわ」
答えを聞いて、四人の老婆が一斉に笑った。

「半分は当たっている。これは女の身体を梱包するときに使う物だ。これを見れば分かるだろう」
お菊さんが楽しそうに言って、壁際に並んでいる段ボール箱から黒革の手枷を取り出す。製品の中央のベルトに手枷を通してから、またMに返した。まだMにはよくイメージできないが、手枷の印象から身体を拘束する器具であることは知れた。
「SMプレイで使う拘束具なのね。失礼だけど、まさかお婆さんたちが性具を作っているとは思わなかったわ。きっと高価なんでしょうね。どうやって使うのかしら」
「設計図には乳房強調拘束具と書いてあるぞ。都会で売るときは一本三万円だと聞いている。わしらには工賃として一万円入る。割のいい仕事だ。だが、こればかり作るわけにはいかない。高価すぎて量が出ないそうだ。その手枷もわしらが作った。猿轡も作るし、肛門調教具も作る。皮革を使うSM用品は一手に引き受けている。みんな天田さんが紹介してくれた業者からの注文だ。お陰で生活保護をもらわなくとも暮らしが立つ」
お菊さんの説明を聞いたMの脳裏にチーフの顔が浮かんだ。チーフは都会でSMショーの女優をしていたのだ。そのころの関係者を天田に紹介したに違いなかった。四人の老婆の暮らしと生き甲斐をSMが支えている。不思議な気がした。だが、この建物ですら遊郭の跡なのだ。余りにも濃厚に性の匂いが満ちあふれている。鋭敏になった神経が官能の予感を告げる。痺れきった足を崩すと短い陰毛が股間で疼いた。危険な兆候だった。

「富士見荘にはもう一人、お爺さんが住んでいるって聞いたわ。その人にも紹介してくれるんでしょう」
無理に話題を変えて、四人の老婆に尋ねてみた。
「ああ、先生のことか。お菊さん、連れてってやんなよ。あのすけべ爺はきっと、涎を流して喜ぶこと請け合いだ」
お米さんが毒々しい声で言って下品に鼻を鳴らした。
「退職教員なんですか」
Mが問い返すと、お米さんが即座に大声を出す。
「堕胎専門の医者だって噂だよ。でも、わしは堕ろしてもらったことはない。ただの噂さ。先生はもう九十歳になる。今じゃあ強突張りの金貸しさ。いっぱい貯め込んでるよ。わしはまだ、担保に取られた厚生年金証書を返してもらっていない。利息が残っているって言うんだ。足元を見て月一割も利子を取る。わしらは四人とも泣かされているんだ」
話はまた妙な方に進んでいく。お米さんの顔が醜く歪み、濃厚な暮らしの匂いが漂ってくる。

「まあまあ、お米さん、あんまり興奮せんで。先生のことはわしに考えがある。それよりM、拘束具の使い方が見当もつかないと言ったろう。わしたちも設計図しか知らん。使っている写真も絵も見たことがない。でも全員が使い方を知っているぞ。女の身体に使う品の見当がつかないのでは女とは言えん。M、勉強が足りんぞ。自分の身体で試してみるがいい。ここで裸になれ、わしらが使い方を教えてやる」
お菊さんが意地悪く話題を拘束具に戻して難題を持ち掛けた。他の三人も目つきが変わり、そろって腰を上げた。休憩時間にふさわしい刺激が久方ぶりにこの部屋に訪れたという雰囲気だった。

「M、裸になりなさいよ。あたしたちは使い方を知っていても実際に使ったことはない。萎びきった婆さんの乳房に乳房強調拘束具は皮肉すぎる。Mの身体なら言うことはない。ぜひ見てみたい」
お梅さんがMの前まで来て励ますように言った。
「そうよ。私たちの製品の出来映えをぜひ試して欲しい。きっとMなら、ほれぼれするほど似合うと思うわ」
桜さんがオートクチュールのドレスの試着を勧めるような口調で言った。四人の老婆に取り囲まれたMは小さく首を縦に振るしかなかった。母親以上の年齢の老婆たちがSMのモデルを欲しているのだ。凄まじいエネルギーが全身に覆い被さる。性の行く末に果てはないのだと、改めて思った。四人の老婆がMを立たせ、寄ってたかって全裸に剥いた。剃り上げた無毛の股間を見た老婆たちが一様に溜息をつく。均整のとれた裸身に羨望の眼差しが集まる。Mは背筋を伸ばし、胸を張って煤けた空間に直立した。

拘束具から取り外した手枷を持って、お菊さんがMの背後に回った。驚くほどの力で両手を背中にねじ上げ、黒革の手枷で厳重に拘束した。厚手の羊皮で作った手枷はしなやかだった。両手首が無理なく一つに繋がれてしまった。続いて桜さんが首に黒い皮帯を巻く。柔らかな羊皮の帯が身体の前後に何本も垂れた。裸身の様々な方向に革帯が伸びて要所要所が尾錠で固定される。最後に背中の皮帯が手枷のチェーンに通され、首筋に向かって後ろ手が厳しく引き上げられた。調節のきく尾錠が固定されると拘束が完成した。豊かな乳房は菱形の皮帯で持ち上げられて、高々と突き出されてしまった。つんと立った乳首が目の下で仲良く並んでいる。両方の二の腕も左右均等に皮帯で縛られてしまった。身動きできないほどの厳しい拘束だが、しなやかな羊皮が肌に優しい。麻縄で縛られ慣れた裸身が優しさに一息つく。何となく中高年向けの縛りのような気がした。改めて自分の年齢を感じさせる。暗然とした気分になった。

「きれいよ、M。全身から官能が溢れてくるようよ。素晴らしいわ。口枷もしてみましょうよ」
華やいだ声で言った桜さんが別の段ボールから大きな穴の開いた皮帯を持ってきた。
「お願い、M。大きく口を開けてみて。そう、歯が溝にかかるまで口を開くの」
桜さんが直径四センチメートルほどの金属の輪を口に噛ます。裏側は硬質ゴムが貼ってあり、上下に歯が入る溝が切ってあった。金属の輪は黒革の猿轡の中央に取り付けてある。輪を口にくわえ終わると、猿轡から鼻の両側を通って延びた皮帯で額と後頭部、あごが拘束されてしまった。大きく口を開けて拘束する口枷からは驚愕した大きな目と落ち着きなく蠢く赤い舌しか見えない。もちろん発語することなどできはしない。唾さえ呑み込むのに苦労する。口中に空しく涎がたまった。

「仕上げに肛門調教具を装着してやろう。桜さん、持ってきておくれ」
若かったころの自分の肉体を思い描くような目をして、お米さんが興奮した声で言った。
「でも、股帯に空ける穴のサイズ用に借りた調教具はLサイズしかないわ。一番太い所が四センチメートルもある。Mのお尻に入らないかも知れない」
のんきに答えた桜さんの言葉がMを驚かせた。反射的に尻の穴がきゅっとすぼまる。言葉にならぬ声を上げ、身を震わせて拒絶した。だが、お菊さんの素っ気ない声がMを打ちのめす。
「大丈夫だ。Mの尻の穴はよく使い込んであるぞ。わしがこの目で見たんだから間違いはない」
一方的な答えに桜さんが感心した顔でうなずく。足早に壁際の棚に行って、二つの品を手にしてきた。一つは真ん中が括れたヒョウタンのような黒いゴム製の筒だ。筒の底から二本の細いゴムパイプと、バルブのついた小さなゴム鞠が二つぶら下がっている。もう一つはしっかりした造りの革のT字帯だった。お米さんが凶々しい黒い筒を受け取り、Mの目の前で無邪気そうに振った。

「これはわしらの製品ではないが良くできている。肛門調教ポンプとも呼ぶそうだ。二つ付いたゴム鞠のポンプを使い、筒を膨らますこともできるし浣腸もできるという優れ物だ。この責め具をわしらが作ったT字帯で股間に装着するんだ。昔からそうだが、人は皆すけべなものだ。Mも心行くまで悶えていいぞ。さあ後ろを向いて足を開き、尻を突き出せ。糞が出るほど尻の穴を広げないと肛門が裂けるから心しろよ」
口枷を噛まされたMに返事はできない。正面に立ったお米さんに小突かれて後ろを向き、腰を曲げて尻を突き出す。突然、尻を激痛が襲った。お米さんが合図もせず、マッサージもせずにゴムの筒をグリグリと肛門に押し込む。Mは涙を流しながら強く息んだ。ほんの少し失禁した途端にゴムの筒先の前方のくびれが肛門に入った。

「本当によく使い込んだ尻の穴だ。若いのに隅に置けぬ。立派な心掛けだぞ。女郎屋がなくなったことが残念でならない。これなら天下一品の身体だ」
嘆息したお米さんが、肛門調教ポンプを装着したT字帯でキリキリとウエストと股間を締め上げた。
「ついでに足枷と膝枷も試そう」
お梅さんが言って、両足首と膝を頑丈な革の枷で拘束した。一仕事終えた四人の老婆は顔を見合わせ、Mの周りを巡って舐めるような目で拘束振りを点検する。やがて一様に満足して思い思いにMの回りに座り込んだ。すけべの行き先にも果てはないと、Mは思う。どの顔にも歓喜と性的な高ぶりが溢れていた。黒い皮帯で拘束されて直立するMだけが悲惨だった。心行くまで悶えても良いと、いくら言われても無理な話だ。衆人環視の中で官能に悶えられるほどの修業は積んではいない。それに、見ている者は老婆だけだ。失礼ながらグロテスクな思いが先に立ち、官能どころではないのが本音だった。ただじっと不当な慰みの時間が終わるのを待つだけだった。時間は悔しいほどゆったりとしか流れないが、ようやく薄闇が部屋に訪れてきた。暗く沈んだ荒涼とした空間に白い裸身が浮き上がっている。妖艶な眺めだった。しばらくの沈黙の後、お菊さんが口を開く。

「桜さん、下に行ってすけべな金貸しを連れておいで。富士見荘に越して来たばかりの娘が素っ裸で縛られ、挨拶をしたがっていると訴えるんだ。這ってでも上がってくること請け合いだよ」
四人の老婆が高らかに笑った。Mは気が気ではない。今度はお爺さんまで来るという。悲惨な姿で挨拶をさせられるのだ。
「すぐ連れてくるわ」
少女のような華やいだ声を残して、七十二歳の桜さんが軽い身のこなしでドアを開けて二階に下りていった。やがて階下からステッキを突く音が聞こえてきた。音はゆっくり階段を上がり、廊下の端で少し途切れた。九十歳になる元堕胎医の高利貸しが息を整えているに違いないとMは思った。ノックの音が響き渡る。

「先生がお見えになりました」
中の者に触れる桜さんの若やいだ声が聞こえた。
「どうぞ。お待ちしていました」
三人の老婆が立ち上がり、お菊さんが気取った声で言ってドアを開けた。桜さんを従えた先生は小柄な老人だった。左足を微かに引きずり、ステッキを突いていたが、とても九十歳には見えない。表情も知性的だ。強欲な金貸しのイメージも堕胎医の暗さも感じさせない。リタイアして久しい小児科医といった風貌だった。しかし、ツルツルに禿げ上がったまん丸な頭部と、ぞろりと着こなした茶系の大島紬がどことなく怪しい雰囲気を醸し出している。

「おお、悩ましい姿だ。二十年は寿命が延びそうですな」
薄暗い空間に浮かび上がる裸身を見た先生が大仰に感嘆の声を上げた。その声が合図のように、後から入ってきた桜さんがドアを閉めて蛍光灯の紐を引く。頭から明るい光を浴びた裸身が微かに震えた。拘束具で強調された両乳房で、突き立った乳首が固くなった。柔和だった先生の目が刺すように光る。
「M、正座して先生にご挨拶しなさい」
丁寧な言葉使いになったお菊さんがMに命じた。Mは足枷と膝枷で繋がれた足を無理に折って、ささくれた畳の上に正座した。先生もMの前に座る。四人の老婆が座るのを待って、Mは後ろ手に緊縛された不自由な身体で中腰になって頭を下げた。畳に額を着けて身体を支える。下に向けた口から情けないほど涎がこぼれて古畳を濡らした。背後に高く突き出した尻で、肛門調教ポンプから伸びた二本のゴムパイプとゴム鞠が尻尾のように揺れる。恥ずかしさで全身が赤くなった。お菊さんが立ち上がり、裸身に手を添えて再び正座させた。口枷で戒めたあごに手をかけ、無理に顔を上げさせてから先生に訴える。

「先生、このように口を開けて、この娘は先生をお待ちしていたのです。なにとぞ、お情けをかけてやってください」
「お願いします」
お菊さんの口上に続けて三人の老婆も口をそろえて艶めかしい声を出した。Mの背筋を冷たいものが走る。先生が大きくうなずいて腰を上げ、すぐ前に立った。やにわに大島紬の袷の裾を大きく開く。後ろに控えた桜さんが裾を摘み、素早く背中にたくし上げた。細い足を剥き出しにした先生の股間で萎びきったペニスが揺れている。目と鼻の先だ。顔を曲げてよけようとしたが、お菊さんが後ろから頭を支えてしまう。口枷で大きく開かれた口の中に先生がペニスを挿入した。なんとも言えぬ、ぶよぶよとした感触が舌先に触れた。一瞬全身がビクッと震えた。先生が腰を使う。縮めた舌を追ってぐにゃっとしたペニスの先が口の中を動き回る。喉元に吐き気が込み上げてきたとき、両の乳房が優しくもまれた。意外に張りのある先生の指先が繊細に乳房を這い、乳首をつまむ。T字帯で戒められた股間の奥で小さな火が点った。Mを求める先生の執念が痛いほど陰部を刺激する。縮めた舌を伸ばし、恐る恐る柔らかなペニスの先に舌を這わせた。小さな喘ぎが先生の口を突くと、萎びきったペニスがむっくりと頭をもたげた。なんとも言えない感動が下腹部から湧き出し、股間が濡れた。官能の行く末にも、きっと果てはないのだと痛切に思う。ピアニストの顔が脳裏を掠めた。死刑囚のピアニストには明らかな果てが実在する。きつくつむっていた両目から涙が湧きだし、頬を伝った。涙の滴は頭をもたげかけた先生のペニスの根元も濡らした。先生の腰の動きが止まり、勃起しかけたペニスがそっと引き抜かれた。

「この性具は気に入りました。一セット十万円で買いましょう。この娘を付けるなら百万円だ。文句はありませんね」
先生の陽気な声が部屋にこだました。思わぬ臨時収入の知らせに四人の老婆が浮き立つ。Mは涙に濡れた目を開いて先生を見つめた。

「どうせ返済金の遅れを見逃してもらいたくて、婆さんたちの仕組んだことに違いないのでしょうが、あんたの潔さが心底気に入りました。Mさん、これに懲りずにいつでも遊びに来てくだされ。買った性具を使わせてくれれば、その都度二万円を出しましょう。どうせ九十歳の爺の言うことだ、気軽に付き合ってくれればいいんですよ」
Mを見つめて言い切った先生が懐を探り、分厚い財布から十二万円を取り出す。二万円を別にして裸身の前の畳に置いた。

「これはこれ、あれはあれだ。皆さん、利息は寝ていても付くことを忘れずに、みっちり稼いで借金なしに励んでくだされ」
言い残して先生は立ち上がり、先ほどと同じ知性的な身のこなしでドアを開けて廊下に出た。階段を降りるステッキの音が響くと同時に、四人の婆さんははじかれたようにMの周りに寄ってきた。喜々とした六本の手が素早く淫らな拘束具を外して裸身を撫で回した。

「凄いわ。Mは金の卵ね。先生の言いなりになりさえすれば一か月で六十万円も稼げるわ。私も若かったら借金苦労をしなくて済んだのね。Mが羨ましい」
畳の上に置かれた十二万円を見つめて桜さんが陶酔した声で言った。
「何を言う。Mは女郎ではないぞ」
言ってしまってからお菊さんは、慌ててお米さんの横顔をうかがう。
「いいや、女郎だってそんなに稼げない。わしを見れば分かる。Mの身体はお宝じゃ」
興奮しきったお米さんは昔の自分に帰って話している。皆一様に若やいでいた。老婆たちの興奮がMの素肌に染み通っていく。

「私は、本当に求められたときは先生の所に行こうと思う。先生のような老人に身体を売っても売春のような気がしないわ。でも、ただではだめ。先生を馬鹿にしているような気がするの。強突張りの金貸しでも性には惜しみなく金を払う。具にも付かない男に身も心も捧げきる性もある。大先輩たちの前で言うのも気が引けるけど、皆さんを見ていると女の性は凄いと思う。奥が深すぎて、原初の仕事の売春さえ肯定したくなってしまう。自分の責任と人格で生きて行くなら、身体を金に換えることが罪悪とは思えないわ」
思いがけぬ言葉が口を突いて出た。Mは惑う。
「そうじゃ、そのとおりじゃ。女郎はみんな、好きこのんで身体を売ったのではないぞ。悲しい性が身体を売らせたのだ」
お米さんがまた大声を出した。Mの真意は伝わっていない。共有した興奮だけが世代を越えて性を謳っていた。ただ一人興奮を免れたように、お菊さんがMを拘束していた性具を袋に詰め、いつもの掠れ声で問い掛けた。

「M、この拘束具は十万円で金貸しに売れたものだ。悪いが、ぬしが持っていってくれ。奴も喜ぶだろう。この二万円はMのものだ。わしはMが身体を売ったと思わんし、たとえ売っても軽蔑はしない。だが、暮らしが立つのに身体を売ることを、きっとわしは認めないだろう。M、好いた男はいないのか」
「いるわ」
即座に答え、嘘をついた。ピアニストの顔が宙を掠めて消えた。やはり嘘かとMは思った。熱くなっていた気持ちが急激に冷え切っていく。疲れ果てた裸身を震えるほどの寒さが襲った。


先生の部屋は大階段の踊り場の東側にあった。ドアの横にはインターホンが取り付けてある。Mがインターホンに向かって来意を告げると電気的に錠の外れる音がした。別回線で部屋に電源を取って、セキュリテーシステムを導入しているらしい。ドアも他の部屋とは違い、別あつらえの厚い樫材でできていた。方形の部屋の広さだけが同じだった。古畳はなく、桜材の寄せ木で葺いたフローリングの上をふっくらとしたペルシャ絨毯が被っている。黒檀の一枚板でできた大きな座り机がドアに向かって置いてある。腰高の小さい窓は聖母マリアを表したルオーの模写のステンドグラスになっていた。狭い部屋に三灯も使った間接照明がステンドグラスを絵画のように浮き上がらせている。富士見荘ではなく都会のホテルに紛れ込んだような豪奢な部屋だった。空調の音だけが微かに響いてくる。室温は暖か過ぎるほどだ。拘束具を入れたレジ袋を持ってドアを背にして立ちつくすMの前で、二間続きの引き戸が音もなく開かれた。厚手のシルクのナイトガウンを着た先生がMを見てにこやかに笑う。

「早速届けに来てくれたのか。口枷をされた裸身も良かったが、服を着た素顔も捨てたものではないな。掃き溜めに鶴とはよく言ったものだ。きっと深い訳があるのだろう」
静かな口調だったが、先ほどと言葉遣いが変わっていた。若い性に対抗するような気負いを感じて、思わずMは笑ってしまう。
「そんなにおかしいか。若い女はよく笑う」
九十歳の老人から若いと言われても否定することはできない。Mは富士見荘にいる限り、小児化し退行して行くしかないような気がした。年相応のMの行為が、老人たちには背伸びをしているとしか見えないらしかった。老人たちが成長をやめてしまったとしか考えられなかった。思うにまかせぬ行動力が思考を停止させ、後から追う者を揶揄させるのだ。肉体の衰えが一切を規定している。歳を取ることが恐ろしくなった。

「二万円はありがたく頂きます。ありがとうございました」
誠意を込めたMの声に先生の目が鋭く輝く。口元に下品な笑いが浮かんだ。
「金に困っているなら、僕がいつでも貸してやる。利息は月十パーセント。Mの場合は物納も認めるよ」
「身体を売れということね。私は物でないわ」
挑戦的な答えに先生は特別の反応を見せない。ゆったりとした立ち姿で背の高いMの顔を見上げた。
「ほう、さっき二万円で買ったはずだが、他の売り方もするのかね」
「確かに、お金はいただいたわ。でも、不当に拘束された身体を陵辱されたのよ。謝罪金といった方が正解ね」

「受け取った金にMは礼を言った。身体を売ったことを認めたのだろう」
動じる気配もなく先生が言い募った。Mの全身に疲労がたまる。
「百歩譲って、身体を売ったと言ってもいいわ。でも、私が売ることを決めたのよ。決して買われることを認めたんじゃない。これは、私が先生を買う場合もあるということなの」
「言いたいことは理解できないでもない。僕は九十年も生きてきたすけべだ。春をひさぐ女との経験も豊富だ。身体を売る女は決して自分の官能を求めはしない。商品としての身体が持たなくなるからだ。Mはさっき、悲惨な姿態をさらけ出しながら九十歳の僕を相手に官能を追おうとしたね。僕はうれしかった。だから二万円払った。Mが僕に二万円払う場合もあるという意味は分かる。金の受け渡しがなければ自由恋愛ということだ。だがこの歳になって、そんな甘い夢など見たくはない。金を受け取ってくれたことに感謝している。Mはプライドが高すぎるのだ」
Mは黙って大きくうなずいた。先生の口元にまた薄笑いが浮かぶ。

「素直でいい娘だ。この部屋で今、Mの裸が見たい。素っ裸になってくれるだけで五千円出そう。脱いでくれないか」
「お断りします。私は身体ではなく労働が売りたい。でも、若い私がお婆さんたちの内職に参加するわけにいかないわ。仕事を紹介してください」
「身体が売れない者が労働を売るのだよ。なんで身近な物から売ろうとしないか分からないね」
「私は商人ではないわ。生産に携わっていたいの」
「どんな仕事がいいのかね」
「できれば単純労務がいい。特技のない前科持ちの女がすぐ働けるところなら、明日からでもいいわ」

先生の目がまた鋭く光った。しかし、口に出した言葉は言おうとしたものと違う言葉のようだった。熱意がない声だ。
「工事現場の交通誘導員をすればいい。ここの家主の大屋もしている。運転免許さえあれば誰にでもできる仕事だ。少しきついが月二十五万円にはなる」
「家主さんは雑貨の卸商だと聞きましたが、勤めているんですか」
天田の説明と違う家主のイメージに戸惑い、思わず尋ねてしまった。つまらなそうな顔で先生が答える。
「今時、ちり紙や歯磨きの卸がやっていける道理がない。売れ筋の雑貨はみんな、安売りスーパーの目玉商品だ。大屋の店も火の車だ。自分で稼ぐしかない。土地は全部抵当に取られ、こんなぼろアパートの権利書すら僕が預かっている始末だ。大屋と一緒に日に焼けて交通整理をするといい。色が黒くなっても僕は一向に構わない。いつでも拘束具を身に着けに来てくれ。約束の値段でMを買おう」
先生の目が、また好色そうに光った。富士見荘には性の匂いと暮らしの匂いだけが満ち溢れているとMは思う。今日一日の疲れが全身に込み上げてきた。そっと目を閉じると、広い戸外で自動車を誘導する制服姿が目に浮かんだ。爽快だった。老人のお守りはしていられないと思った。家主と一緒に交通整理で汗を流すことに決定した。


次項へ
BACK TOP



Copyright (c) 2010 AKAMARU All Rights Reserved.