4.面会

Mが工事現場の交通誘導員を始めてから三週間が経った。思っていたより仕事はきつい。朝八時から夕方の五時まで路上に立ちつくす。雨の日もあれば風の日もあった。毎朝の起床は午前六時。六時半にはきちんと朝食を食べる。食堂は富士見荘一階の暗い台所の板敷きの広間だ。四人の婆さんたちと一緒に食べる。午後七時の夕食も同様だった。一か月五万円を拠出して婆さんたちの共同生活に混ぜてもらったのだ。毎日二度の食事と風呂に入る権利が獲得できて洗濯もしてもらえた。金貸しの先生も月八万円で加入している。先生の料金には膳の上げ下ろしと身の回りの世話も含まれていた。先生だけは二回の食事を自室で食べる。だが、本当は金を払っていないらしい。料金は四人の婆さんの借金返済に充てられているという。一人当たり月二万円の返済だ。婆さんたちが実際に切り盛りする金は月二十五万円しかない。食事はお梅さんが作る。囲われていた旦那に愛でられたというお梅さんの料理はうまい。Mは一万円を余計に払って昼の弁当も作ってもらっていた。婆さんたちはMが加入したことで使える金が増え、食事の質が上がったと言って喜んでいる。全員が五万円ずつ拠出しているかどうかも怪しいものだ。その上、内職の荷物運びや買い物、掃除などで力の要る仕事はMが受け持つことにされてしまった。会費を払って役務も提供する。原始的な共同生活といえないこともない。非力な婆さんたちが編み出した暮らしの知恵だった。息苦しささえ我慢すれば理想的なシステムだ。しかし、何もしない先生が混じっているため、どう格好を付けてもコンミューンとは呼べなかった。

食事はいつも台所の板の間に五人で輪になって座り、床に直接置いた食器を使う。今朝は暖かになった風が真冬には底冷えのする台所をさわやかに渡っていく。富士見荘は夏向きに作られた典型的な日本家屋だ。すでにMは灰色のガードマンの制服に身を固めていた。
「今日も、同じ現場なのか」
中央に置かれた山菜のお浸しに箸をのばした途端に、お菊さんの声が飛んだ。
「いいえ、今日から現場が変わるわ。運動公園の横の水道工事よ。また大屋さんと一緒。お陰でバイクに乗せていってもらえる」
答えてから、さり気なく鉢に箸を入れた。しばらく前までは箸を躊躇していたところだ。Mがおかずを食べ過ぎると必ず誰かが何かしら声を掛ける。やはり婆さんとは食べる量が違うのだ。だが、嫌がらせをされても食べる一手だった。知らない振りをしていれば済むことに、やっとMは気付いた。四人の婆さんが無料の福祉バスで山地に行って摘んできた山菜はおいしい。あれこれ言っても結局老人は暇なのだ。味噌汁と漬け物、丼飯の他に、たまに生卵が食卓に出る。決まってスーパーで卵の安売りをしているときだ。使う醤油の量にまで婆さんの目が光った。けちと言うより確固とした暮らしの重みを感じてしまう。お陰で六万円を払っただけで安心して一か月の生活ができる。ガードマンの賃金も割のいい月給制を選ぶことができた。日給制にない皆勤賞の二万円が余計に支給されるのだ。給料が出るまで外食やコンビニエンス・ストアの弁当を利用していたとしたら、Mの残金と金銭感覚では食べられなくなっていたはずだ。婆さんたちの長年の個人的生活の失敗から編み出された共同生活は、煩わしさを差し引いてもお釣りの来るものだった。

「お先にごちそうさま」
四人の婆さんに声を掛けて立ち上がり、流しに行って自分の食器を洗う。婆さんたちは当番制だが、勤めに出るMは当番に参加できない。かといって余計な金を払う気はない。婆さんたちはしっかりしている。暮らしのキャリアが違うのだ。そもそもMに家計の切り盛りという感覚は初めからなかった。天涯孤独の付けが変なところで回ってきたと思う。婆さんたちに毎日厳しく仕付けられ、これまでの付けを払わされていた。とても太刀打ちできる相手ではない。食器を洗っている間にお米さんが入れてくれた温い茶を啜ってから、誘導灯やトランシーバーなどの七つ道具を入れたリュックサックに弁当を詰める。白いヘルメットを被ると全身が引き締まった。

「行って来ます」
全員に挨拶した。
「行ってらっしゃい」
声をそろえて四人の母がMを送り出した。このときばかりは温かいものが胸を満たす。たとえ紛い物でも家族はいいなと思ってしまう。黒い編み上げの安全靴を履いて玄関から外に飛び出す。鋭い日射しが全身を被った。春とはいえ、今日も結構暑くなりそうだった。足早に路地の出口に向かった。

家主の大屋の家は市道沿いの大きな店舗だ。広い間口にはシャッターが下ろされていた。本業の雑貨の卸はずっと停滞している様子だ。一枚だけ半分上げられたシャッターの前に90ccの黒いバイクが止められている。Mはいつものようにシャッターをくぐって暗い店舗に入った。住居は店舗の二階にある。大屋は五年前に妻を亡くし、今は一人暮らしだという。一人息子は都会の有名大学に進学していると自慢そうに話していた。四十七歳の男だ。

「なにっ、息子の学費を取り上げるだって。そんなことはさせない、許さないぞ」
突然興奮した声が耳に飛び込んできた。大屋の声だ。事務所に使っている小部屋の奥から声は聞こえた。
「たかが百万円じゃないか。すぐに返すよ。三日、後三日待ってくれ。なあ頼むよ。長い付き合いだろう。息子の学費を押さえるのだけは勘弁してくれ。後二年で卒業なんだ。頼みますよ」
初めと違った気弱な声が後に続いた。借金の返済を迫られているようだ。どこに行っても金のない話しか聞こえてこない。うんざりする。もちろんMにも金はない。就職の支度や寝具の購入に出費がかさみ、有り金はもう五万円を切ってしまった。給料日まで一週間もある。百万円など夢の世界の話だった。

「おはよう、M。恥ずかしい話を聞かれてしまった。本当に所帯苦労はやり切れないよ。一人暮らしのMが羨ましくなる。大学生の息子を持つと本当に辛い。たかが百万の金で泡を食ってしまう。本当に情けない」
神経質そうな顔で大屋が愚痴をこぼした。いつもの悠揚迫らぬ、若旦那然とした顔の方がMは好きだ。
「なるようになるわ。行きましょう」
できるだけ明るい声でMが促した。大屋の長身がやっと胸を張る。黒く日に焼けた顔で白い歯が笑った。
「まったくだ。Mの言うとおりだ。元気に稼ごう」
明るさの戻った声で大屋が答えて外に向かう。Mが後ろに続いた。


90ccのバイクが朝の織姫通りを駆け抜けていく。ガードマンの服装をした二人乗りは目立った。渋滞した車の列から悪意に満ちた視線が突き刺さってくる。それでもバイクはミズスマシのように車の列の間を縫って走る。四車線の産業道路に出ると、やっと一直線の安定した走りになった。小さなバイクの後部座席に跨ったMは窮屈そうに大屋のウエストを抱いている。しきりに祐子がMG・Fを使うように勧めに来るが、工事現場にスポーツカーで乗り付けるのは嫌味だった。もちろん富士見荘に駐車場はない。今はバイクの後ろがいいとMは思う。大屋の背中にぴったり張り付き、ウエストを抱いているのが楽しかった。このスタイルで三週間通勤したが、Mに抱かれた大屋のペニスが勃起したのは一回きりだった。それもMが意地悪をしたからだ。三日前、Mを女として意識していないような態度を試したくて、さり気なく大屋の背中に乳房を押し当てた。ウエストに回した両手をできるだけ下で組み、荒れた路面でバイクがバウンドする度に股間をなぶってやった。ペニスが勃起したのはその時の一回きりだ。大屋は意地悪をしたくなるほど無防備な男だとMは思う。とても卸業の経営者には見えない。工事現場の休憩時間も、昼休みにも、大屋は美術と芸術の話しかしない。Mの知らない画家の名前をたくさんあげる。画集も色々集めているそうで、様々な画風を知っている。ずっと画家になりたいと思っていると、無邪気に打ち明けたことさえあった。口を開けば芸術の話だ。Mはそれが特に嫌いではないが、子供のまま大人になったような男をつい構いたくなってしまうのだ。だが、今朝のMはなにもしない。所帯苦労と言った大屋の言葉と芸術との関連について考えることにした。大屋が大人と子供のどっちを取るか楽しみでもあった。やはり意地悪をしたくなってしまう人物には違いない。

産業道路を工業団地の手前で右折してしばらく行くと、右手に野球場の高いスタンドが見えてきた。スタンドの回りに巡らせて植えた満開の桜が薄いピンクの靄がかかったようで美しい。思わず心が浮き立ってくる。現場は運動公園の中を横切る二車線の市道だった。ちょうど球場のスタンドに面した部分だ。一日に五十メートルを掘り進め、古い石綿管に替えて鋳鉄製の新しい水道管を埋設している。公園を横断する道路でも交通量は多かった。花見気分ではできない仕事だ。Mと大屋は現場の両端に別れて配置に付いた。工事で一車線となった道路を交互交通で車両を誘導するのが仕事だ。まずMの方から車を流す。赤い誘導灯を振って遅滞なく車を流していく。ほど良いところで後続車を止め、大屋に誘導灯を振って合図する。今度は大屋の方から車が流れてくる。お互いの姿が視認できる今回の現場は比較的楽だった。相手が見えないときはトランシーバーで合図し合う。二人の息が合わないと大変なことになる。車の速度が遅いので事故の心配はないが、渋滞になる恐れはいつでもあった。今日の現場は近くに信号のないことも幸いした。車の流れだけに気を配れば済む。だが気は抜けない。鋭い春の日射しがじりじりと二人の肌を焼いた。

しばらく大屋からの車の流れが続いた。Mの前には一台しか停車していないが、若い女のドライバーはいらだちを隠さない。短くクラクションを鳴らした。Mは深く頭を下げて、すまなそうにドライバーに微笑み掛ける。運転者の気持ちを和ませるのも誘導員の仕事だ。大屋の合図を確認し、道路の安全を実際に目で点検してから、また深くお辞儀をして大きく誘導灯を振る。大きな動作が必要なのだ。若い女はMとすれ違いざま、開け放した窓から「ご苦労様」と声を掛けた。若い女にしては珍しいことだ。途端に疲労が吹き飛ぶ。単純な作業を一時間も続けると喉が渇き全身がだるくなる。作業を初めてすぐの、身体が慣れるまでのストレスだった。これを上手に乗り切ると一日が持つ。正午が近付くころには全身が汗にまみれた。目に流れ込む汗を片手で拭い、誘導灯を水平にして進入しようとする車を止める。誘導灯は工事現場では指揮棒のようだ。すべての車が指揮に従う。気分によっては壮快な気もしたが、何といっても身体がきつい。単純な作業の繰り返しが頭を空白にする。しかしそれも、今のMにはありがたかった。物を考える気はない。とにかく身体を使い、金を稼ぐことが先決だった。

「誘導組も昼休みにしようや。道路を何とか広げてやるよ」
若い現場監督がMに声を掛けた。気配りが身に滲みる。昼休みでも車の誘導は休めない。交替で食事をするか警備会社が要員を派遣するしかなかった。五分間で昼食を済ます日さえあったくらいだ。今日の現場は比較的路面が広いので、機材を整理すれば乗用車程度の対面通行が可能だった。
「大屋さん、監督さんが道を広げてくれるわ。交通量も少ないから一緒にお昼にしましょう」
二十メートル先の大屋に大声で呼び掛けて、Mは日陰に置いたリュックサックを取りに走った。二人は運動公園の水飲み場で手と顔を洗い、現場を見通せる日陰を探した。ちょうどスタンドのコンクリートの壁際が日陰だった。五メートル前には満開の桜の木がある。最高の場所だった。リュックから弁当とビニールシートを出してコンクリートの壁際に並んで座った。

「大屋さんも月一万円出せば、お梅さんにお弁当を頼んで上げるわ。量は少ないけどおいしいのよ」
いつものようにコンビニエンス・ストアで買ったパンを不味そうに食べている大屋に話し掛けた。
「いいよ。本当は俺、飯は食べたくないんだ。時間に追われているようで食事の時間が好きになれない。好きなだけ絵を描いて、好きなときに少しだけ食べるのが俺の理想だな。一生食べないで済むなら最高だ」
スケッチ帳を大事そうに膝に載せた大屋が、にべもなく答えた。Mは眉をしかめてわずかな量の弁当を食べ、温いウーロン茶に口をつけた。大屋もスケッチ帳を広げたまま、じっと前の風景を見て缶コーヒーを啜っている。Mは壁にもたれてそっと目を閉じた。スケッチ帳に走り出した大屋の鉛筆の音が懐かしく聞こえる。絵を描くための筆記具を最後に持ったのはいつだったろうかと記憶を辿った。小学校のころまで遡らねばならないような気がした。無邪気に絵など描いていたのはそのころまでだったと思う。寂しさが込み上げてきて、急に大屋の絵が見たくなった。目を開き、身体を曲げてスケッチ帳をのぞき込んだ。目の前の風景とまったく違った絵が描かれている。桜の花びらだけが、かろうじて現実を写していた。花びらは画面隅に描かれた小さな子供の上を流れていた。一面の草原を渡る風に、なぜか桜の花が舞っている。広い草原と子供、そして舞う花びらしか描かれていない。だが、大屋はしきりに目の前の風景を見つめて鉛筆を走らせている。

「大屋さんの描く風景は、現実と全然似ていないのね」
絵を見つめて、Mが冷やかすような声で言った。
「俺の目にはね、風景がこう見えるんだよ。桜の花は、ただひたすら草原の風に舞うんだ。この絵が嫌いかい」
「いえ、好きよ。でも、どうしたらそう見えるんだろう」
「Mの思うとおりでいいんだ。所詮アートなんて好きか嫌いかだよ。好きな風景を見ようとすれば嫌いな物は消えてしまうさ」
目を輝かせて大屋が答えた。Mははぐらかされたような気がした。重ねて問い掛けたくなる。
「大屋さんの絵には色がないのね。寂しいわ」
「色は俺の頭の中にあるのさ。描く絵にふさわしい、すてきな色合いがみんな頭の中に塗られている。でも、実際に色を塗ったら、それはもう俺の色ではない。俺は画家になると決心しない限り色は塗らない。せっかくのスケッチを情けない絵にしたくないんだ。だが、俺は画家になれない。だから色は塗らない」
「大屋さんは子供みたいに勝手なことばかり言うわ」
「何かを表現しようとしている者はみんなそうだよ。例えば音楽家。ピアニストだって、頭の中に最高の音色を隠しているはずだ」

唐突にピアニストという言葉が爛漫の桜の下にこぼれ落ちた。途端にMの心臓が凍り付く。遠くのグラウンドから風に乗って聞こえていたマーチがやんだ。やんだ瞬間、音楽が鳴っていたことに気付いた。思わず耳を澄ますと、行き過ぎる車の騒音を縫ってピアノの音色が聞こえてきた。音は少々潰れているがショパンの「別れの曲」だ。春の運動会が昼に食い込んで終わり「別れの曲」が流されたらしかった。全身に衝撃が走り、目の前が真っ白になった。確かにピアニストは音楽家の卵だったのだ。十五年前の春の宵に、演奏家になる道を捨てたピアニストはMに「別れの曲」を弾いてくれた。コンクリートの壁にもたれたMの身体がむせび泣いた。果てしない涙が堰を切ったように両目から溢れ出す。ああ、大屋の言ったことは皆真実なのだと確信した。色を音に置き換えれば、ピアニストが悶えるように悩み、投げ捨てていった道に一切が通じる。その道のしるべに、Mは確かに求められたのだった。完成されることのなかったピアノの音色は今もピアニストの頭の中で鳴っているのだろうか。しかし、もう二度とピアニストはピアノを弾くことはできない。アートは完成されることもなく一切が闇に葬り去られるのだ。ピアニストが聴いていた音のすべてを聴きたいと痛切に願った。未完の音色の悲しさがMを責め苛む。

どれほどの時が流れただろうか。涙も涸れ果て、声にならぬ嗚咽を繰り返すMに大屋が声を掛けた。
「もう仕事に戻る時間だ。横顔をスケッチしたよ」
差し出されたスケッチ帳にはMとまるっきり違う女の横顔が描かれていた。女は泣いておらず、涙の中に沈んだ横顔があった。
「俺はこれほど激しく悲しい泣き顔は見たことがない。Mが泣くのではなく、涙の中にMがいた。お節介のようだが、自分を隠し続けるのは良くないよ。ストレスが溜まってしまう。俺みたいに、頭の中で生きるようになったらおしまいだ」
大屋の言葉が空っぽになった頭に突き刺さった。すぐにでもピアニストに会いたいと思った。


待っていた日曜日がやっと来た。交通誘導の仕事もさすがに休みだ。Mはこの四日間を悶々として暮らした。飛んでいってピアニストに会いたい衝動と必死に戦ってきた。たとえ自ら求めたとしても、ピアニストに求められたとしても、閉塞された場で悩むピアニストを煽るような真似だけはしたくなかった。今の暮らしの中で許された道だけが未来を切り開くことに通じると、自分に言い聞かせて過ごした。もう夢は見たくなかった。だが、今日こそピアニストに会おうと思う。せっかくの休日を有効に使うだけの話だった。

Mは封筒の裏書きにある刑務所の住所を何度も読んだ。そこは市から電車を乗り継いで二時間の日本海に面した地方都市だ。給料日を明日に控えた手元には三万円しか残っていない。刑務所までの交通費は往復で約二万円だ。電車賃を節約して、祐子にMG・Fを借りようかと思ったが思いとどまる。一緒に住む婆さんたちの真摯な生き様を踏みにじるような気がしたのだ。身一つでまず足掻いてみない限り他人事になってしまう恐れがあった。
午前六時に富士見荘の大階段を下りた。服は一張羅の煉瓦色のジャッケットに黒のロングスカートを選んだ。日に焼けた黒い顔が少し気になったが、かえって煉瓦色の服がよく似合うと思い直す。唇には真紅のゲランを思い切って引いた。玄関のガラス戸を開けると運悪く井戸端にお菊さんとお梅さんの姿が見えた。老人は日曜日でも朝が早い。大きな声で朝の挨拶をすると、二人そろって挨拶を返した後、訝しそうにMを見つめた。

「早いね。せっかくの日曜日なのに、お出掛けかい」
当然のようにお菊さんが尋ねてきた。
「ええ、日本海まで行って来るわ。お梅さん、朝御飯が食べられなくてごめんなさい」
「なに、気にすることはない。そのぶん食費が助かる」
お梅さんに代わって、お菊さんが婆さんらしい答えを口にした。お梅さんはじっとMを見つめている。刺すような視線が痛い。

「M、男に会いに行くんだろう」
お梅さんが唐突に口を開いた。勘の鋭さにMがたじろぐ。
「そう、でも刑務所にいるのよ。ただの面会」
話を早く切り上げたくて、無愛想に答えた。今度はお菊さんの目が鋭く光る。
「その男は、いつ出て来るんだ」
静かな声で尋ねてきた。立ち話では済まない迫力がある。Mは戸惑う。刑務所の話はやはりまずかったと悔やんだ。
「彼は出て来れない。死刑囚よ」
薄く曇った春の天気がMの一言で凍り付く。だが、お菊さんの迫力は衰えはしない。

「行くのはよせ」
鋭い声で言った。
「いいえ、私は行く。行かなければ生きていく自信が持てない」
冷静な声で答えられたことにMは満足した。お菊さんの硬い表情が潮が引くように解けていく。哀れみのこもった声が小さな口にこぼれた。
「やはりやめておけ。死刑囚には身内しか面会できん。行っても無駄だ」
「でも行くわ。夕方には帰る。夕食はご一緒します」
お菊さんの情けを振り切ってMが答えた。婆さんは二人とも黙ったままだ。Mが頭を下げて歩き出すと、背中に「行っておいで」とそろった声で呼び掛けた。今にも降り出しそうな空が三人の頭上を被っていた。


Mはこの市で初めて電車に乗った。午前六時二十分発の上り普通電車だ。二両編成の電車はゴトン、ゴトンと少しの間を走っては小さな駅に停まる。乗降客のいない駅もあり、乗客も少なかった。交通の要衝の都市に着くまで九つの駅に停まりながら一時間をかけて電車は走る。有識者の言うとおり、確かに市は陸の孤島だった。やっと交通の要地についても、都会から走ってくる特急電車との連絡に三十分間待つ。乗ってしまえば早い。一時間ちょっとで日本海に面した都市に行けるのだ。やっとホームに着いた特急電車も思ったより空いていた。Mは先頭車両の窓際の席に座った。県境の長いトンネルを抜けると車窓を雨が濡らした。高い山脈を隔てて両側の天気がこんなにも違うのだ。多分、人の気持ちも違う。異境の地で確実に訪れる死を待つピアニストの心境を思ってしまう。その死はひょっとすると今日かも知れないし、昨日であったのかも知れないのだ。密室同然に隔離された刑務所で襲う死は、外の人間に知る術がない。死刑廃絶に関心のある一部の新聞が刑の執行を小さく紙面に載せるだけだ。死刑囚の死は法務大臣の気まぐれで決まる。在任中に死刑執行の署名を一度もしない大臣もいるとのことだ。死刑とは、すべてが人の恣意に委ねられた最も不自然な死だった。

終着駅には心なしか日本海の潮の香りが流れているようだった。Mは重い腰を上げて地方鉄道の連絡通路へ向かった。たった一両きりの茶色の電車が古ぼけたコンクリート造りの駅舎の隅でMを待っていた。Mは座席に座らず、ドアの横に立った。たった一駅のために乗る電車だったが、見ず知らずの土地では歩くにしても見当がつかない。刑務所にタクシーで乗り付けるのは何となく気が引けた。一か月前まで刑務所にいたMにとって、今も刑務所は威圧的に映る。一切の自由と人格を奪い去られた屈辱の暮らしが思い出されてしまうのだ。貧相な電車は定刻通りに走り出した。電車は新しい建築物で混雑した市街地の中を走る。都市化の波が日本海沿いの地方都市にも確実に襲い掛かっているのだ。車窓から見える市街はすべてショーウィンドウの眺めだ。だが、少し目を凝らすと、切ないほどの暮らしの匂いが雨にくすんだ街から漂ってくる。富士見荘で嗅ぐのと同じ、お金に追われる切ない匂いだ。

電車は五分ほどで刑務所のある駅に着いた。時刻は午前九時を回ったところだった。まだ雨は降りやまない。ちっぽけな駅前広場には商店街があり、スナックやバーの看板も出されていた。夕刻になれば雑然とした活気が溢れるはずだが、この時間ではコンビニエンス・ストアと刑務所の差し入れ屋以外はシャッターが下りたままだ。差し入れ屋は囚人に面会に来た者が所内に持ち込みを許された弁当や雑貨を買う店だった。どこの刑務所の前にも必ずある陰気な店舗だ。締まったガラス戸に貼ってある地図で刑務所への道順を確かめる。駅前の道と交差する広い国道を渡り、大河にかかる橋を渡りきった先の左手に刑務所はあった。地図で見る限り寂しそうな場所だ。都市化が進む地方都市だが、大河の向こうには刑務所と埠頭しかない。地図を見上げるMの頬を冷たい雨が濡らした。潮の混ざったような、ねっとりとした雨だ。髪も肩先もじっとりと濡れる。コンビニエンス・ストアに入って四百円で傘を買った。透明のビニールでできた小さな傘だ。背筋を正し、うなじを上げて歩き出す。透明な傘の上を涙のように雨の滴が流れていく。

大河にかかる長大な橋をMが一人で渡っていく。歩道に吹き上げる風に乗った雨の滴がワインレッドの靴と黒いスカートを冷たく濡らす。眼下に見える広大な川筋はどんよりした鉛色に染まっている。まるで流れることをやめてしまったようだ。川筋の果ては雨足に溶け込み、垂れ込めた雲と海の境目すら定かでない。全身が雨と潮で濡れそぼってしまう気がする。時たま通り過ぎる車が徐行してクラクションを鳴らす。乗っていけという合図だ。Mは合図を無視して真っ直ぐ前を見て歩く。ようやく橋を渡りきると、左手に刑務所の望楼が見えた。広大な方形の敷地の四隅に赤煉瓦を積んで築いたどっしりとした望楼が周囲を威圧している。望楼は同じ赤煉瓦で築いた高い塀に根を張り、雨空に向けて直立していた。雨は赤い煉瓦の表面を叩いて内部に浸み込む。煉瓦の鮮やかな赤は黒へと彩りを変え、塀際を歩くMの気分をなお一層暗く打ちのめした。T字路になった交差点の左が正門だった。傘をすぼめて潜り戸を入る。短い渡り廊下の先に面会者専用の自動ドアがあった。ドアの両側には粗末なベンチが二つ置いてあるが座っている者はいない。Mは歩調を変えずにドアを通った。

室は思ったより狭い。すぐ前が受付の窓口だった。パソコンのディスプレーを前にして紺の制服を着た職員が座っている。職員は先着の老婆の話を聞き、キーボードを叩いている。他に人影はない。右手に待合室と銘板の打たれた部屋があり、開け放されたドアから四人の男女が見えた。室は明るく照明されているが全体に疲れ切った重い雰囲気が漂っている。Mはドアの横に立って、しばらく老婆の様子を見ていた。刑務所に来るまで考えてきた筋書きを頭の中でおさらいする。誰にともなくうなずき、室の中央に用意された記載台の前に行った。面会申請書に備え付けのボールペンを走らせる。文字をなぞる音がうるさい。続柄に姉と記入し、備考欄に五日前に認知された腹違いの姉と書き添えた。後は受付の対応を待つばかりだ。老婆の後ろに並んで待つ。胸の鼓動が高まっていくのが分かる。職員から面会許可証をもらって老婆が退くと、すぐ窓口に申請書を出した。差し出した紙片を職員が手に取って見て、黙ったままキーボードを叩く。待つ間もなく現れたデータを横目で読んで職員がMの顔を見上げた。

「家族票には父と母しか記載されていません。姉の名前はありませんね。残念ですが面会はできません」
「嘘よ。五日前に父に認知されたって書いておいたでしょう。データが間違ってるんじゃないの。見せてください。納得できないわ」
困惑と哀願の調子が強く出るようにして抗議し、これ以上ないほどの熱い視線を若い職員に浴びせた。職員が困惑して視線を落とす。
「嘘じゃないですよ。ほら見てください」
職員がディスプレーをMの方に回した。Mはとっさに目を走らせ、ピアニストの囚人番号だけを見つめ、必死で記憶に焼き付けた。ディスプレーの向きはすぐもとに戻される。Mは大きくうなずいて囚人番号を頭の中で復唱した。

「改めて、また来てください。本籍地からのデータが遅れているのかも知れませんよ」
首を縦に振ったMの仕草を誤解して、職員が申し訳なさそうな声で言った。
「そんなのだめよ、今さら帰れないわ。やっと認知したと、父から連絡があったので札幌から飛んできたのよ。弟はいつ死刑になるか分からないんでしょう。お願い、市に問い合わせてください」
職員の目をじっと見つめて哀願した。今にも泣き出しそうな目を見て、職員の困惑が深まる。
「いいでしょう。今日は日曜日だけど、市役所には日直がいるかも知れない。事務所に連絡して、そこから市に問い合わせてもらいますよ。しばらく待っていてください。時間がかかるかも知れないけど、それでだめなら次の機会ですよ。いいですね」
思いの外親切な応対が返ってきた。背後で人の気配がした。Mは黙ってうなずいて道を空ける。黒い背広を着た三人連れが代わって窓口に向かった。Mは室の隅に立って目まぐるしく頭脳を働かせた。爪先から髪の先へと焦りが行き来する。時間はそれほど残されていなかった。嘘の筋書きは市に問い合わせればすぐにばれる。それまでに次の作戦を考えねばならない。せいぜい一時間が勝負だった。Mはいらだちに身体を震わせて待合室に入っていった。方形の部屋の中はひっそりしている。壁にもたれて見るともなく室内を見回す。黒いビニールレザーを張ったベンチに、ひっそりと座っている老婆が目に入った。先ほどMの前に受付を済ませて面会許可証をもらった老婆だ。窓口で盗み見た書類では内縁の夫と面会する様子だった。嫉妬心が頭をもたげる。老婆の横顔にお菊さんの顔が重なる。その瞬間、頭の中で形をなさないアイデアがひらめいた。Mは老婆の前にゆっくり歩み寄り、足下にひざまずいて両手を握った。老婆の顔が驚愕に震える。優しく手をさすって祈るような目で視線を捕らえた。

「お婆さんは、よくここに来るのですか」
静かな声で尋ねると、老婆が首を横に振った。
「私はM。お婆さんにお願いがあります。ここもすぐ面会人で一杯になってしまいます。一緒に外に出て、ぜひ私の話を聞いてください。頼みます」
縋り付く声にありったけの誠意を込めて、老婆の手を取って立ち上がった。老婆は一言も口を利かずに黙ったままMに従う。混雑してきた受け付け室の自動ドアから外に出てベンチに並んで座った。
「お婆さん。あなたの会う人に私を会わせてください。お願いします。私はM。愛しい人に会いたくてここまで来ました。その人は死刑囚です。身内の者しか面会できない。でも、どうしても私は会いたい。殺される前に会って、愛を、憎しみを確かめたい。お願い、あなたの代わりに私を面会室に入れてください」
老婆に訴える目に涙が浮かんだ。涙は降りやまぬ雨のように次から次へと両目に溢れ、冷たい頬を濡らした。

「わしの代わりに爺さんに会っても、あんたの思いは遂げられはしない」
黙って聞いていた老婆が初めて口を開いた。Mの目に希望の火が灯る。
「面会室に入れるだけでいいのです。その後は私が全力で切り開きます。入れ替わりが発覚したときは、愛想のいい女に面会許可証を預けてしまったと言ってください。すべての責任は悪者になった私が負います。お婆さんに罪はないのです。少し時間がかかるでしょうが、お婆さんも今日中に面会できる。私に騙されて下さい。お願いします」
老婆はMの訴えを黙って聞き、遠くを見つめる目で降り続く雨を見つめた。

「わしの会う男は若いころに添い遂げられなかった男だ。金がなくて一緒になれなかった。わしは仕方なく親の薦めで嫁に行き、四人の子を育てた。四人とも成人して独立したと思ったら夫を亡くした。あの男は自堕落な生活を続け、小さな罪を犯し続けていた。わしのせいだったかも知れない。わしは反対する子供たちと親子の縁を切って男の元に帰った。そう、帰ったんだ。だが、男はまた罪を重ねて刑務所にいる。でも、ありがたいことに生きている。Mの男とは違う。また娑婆に出れば、わしに当てつけるように罪を重ねるだろう。M、こんな紙は好きに使ったらいい。愛しい男が死ぬ前にぜひとも会え」
静かな語り口の底で愛憎の残り火が熱く燃え上がった。Mの頬が上気する。くたびれた巾着から面会許可証を出して老婆がMに差し出す。Mは拝むようにして小さな手から許可証を押し頂いた。
「少し寒いけど、しばらくここにいてください。すぐ騒ぎになって迎えが来ます。その間これを着ていてください。お願いします」
Mは煉瓦色のジャケットを脱いで老婆の肩に着せかけた。深々と礼をしてから自動ドアに戻っていった。


待合室も面会人で混雑していた。賑やかに私語が飛び交っている。Mがベンチに座るとすぐ、スピーカーが老婆の名を呼んだ。素知らぬ顔で立ち上がって奥のドアに向かう。背中に刺さる視線を意識して背筋を伸ばしてドアを開け、面会室に続く廊下に出た。三メートル先の突き当たりに置いた机の向こうに係官が座っている。面会許可証を差し出すと、刺すような目でMを見上げた。背筋を冷や汗が流れる。許可証の年齢と照合されれば万事休すだった。だが、係官は事務的に許可証を箱に入れ、右手に延びた廊下に視線を向けた。

「一番奥の、ドアの開いている六番の部屋に行ってください。中に係官がいるから指示に従ってください。面会時間は十分間です」
事務的に答える声を上の空で聞いて、Mは面会室に向かう。五つ並んだドアが歪んで見えた。最後の勝負が待っているのだ。開いたドアの中は三畳ほどの狭い空間だった。目の前の透明な間仕切りの前に粗末な椅子が置いてある。
「椅子にかけて待ちなさい。すぐに来るよ」
横柄な声がした。しおらしくうなずいて椅子に向かいながら声の主をうかがう。かっぷくの良い初老の男がつまらなそうな顔でドアの横に立っていた。一目で人手不足で駆り出された事務管理職と分かった。幸先のいいスタートにMは思わずほくそ笑む。最後の舞台は現場職員の覚めた目だけが脅威なのだ。プラスチックの間仕切りの向こうには小さな丸椅子と、看守が座る椅子と書き物机が置いてある。その狭い空間に連なるドアが外に開いた。若い看守に腰縄を曳かれて老人が入ってくる。灰色の囚衣から伸びた両手は前手錠で繋がれていた。疲れた顔をした痩せた老人は、鋭い目でMを見た後、とぼけたような声を出した。
「やあ、やっと昔の彼女が面会に来てくれたな」
正体不明のMを見咎めることもない、徹底した反権力の姿勢に感謝したが、芝居は続けねばならない。Mは声を張り上げて若い看守に抗議した。

「馬鹿にしないでよ。人違いじゃない。死刑囚に面会するからといって、いいかげんにしたら許さないわ。新聞に大きく書いてもらうわよ」
Mの剣幕に若い看守がどぎまぎする。ドアの横に立っていたかっぷくの良い男が歩み寄って来た。即座にMがピアニストの囚人番号を大声で告げた。見知らぬ女が口にした、聞き慣れた囚人番号が二人の職員の耳を貫く。二人の脳裏に単純ミスという言葉がよぎっていった。
「お願い、札幌に帰る飛行機の時間まで一時間しかないの。早く連れてきてください」
横に並んだ管理職員の目を捕らえて、Mは熱っぽく哀願した。
「次長。僕が間違えるはずはありません。この人が面会室を間違えたんだ」
次長と呼ばれた男は、まぶしい目でMを見た後、若い看守に目をやる。看守のだらしなく曲がったネクタイを厳しい目で見つめてから冷ややかな声を出した。
「コンピューターの端末で呼び出した面会データのコピーは持ってきたのか」
「いえ、忙しくて画面を確かめるのが精一杯でした」
頬を赤く染めた若い看守が下を向いて答えた。
「囚人番号まで指摘されては抗弁できないだろう。早く連れてこい。飛行機が間に合わなくなると言っているぞ。それから、ネクタイはきちんと締めろ」
次長が権限を傘に若い看守を叱り飛ばした。看守は青い顔で老人の腰縄を曳いてドアの外に消える。外に出る瞬間、老人の鋭い視線がMを捕らえた。Mは小さくあごを引いて目礼した。老人の目が優しく笑った。
「大丈夫、すぐ連れてくるよ。四月に人事異動があったばかりで慣れない奴もいる。新聞には書かないでくれ」
なにを勘違いしたのか、次長はMを新聞記者と思ったらしい。好都合だったが全身がむず痒くなった。ピアニストと再会できる希望が膨らむ。


若い看守は腹を立てて獄舎に戻った。雑居房の看守に老人を引き渡してから走って管理センターに向かった。同僚の看守たちは面会の立ち会いに出払っているらしく、センターには誰もいない。日曜日は本当に忙しすぎると看守は嘆いた。大きく舌打ちをしてコンピューターの端末に面会データーを呼び出す。ディスプレーに浮かび上がった番号に間違いはなかった。しかし、もう老人は雑居房に戻してしまった。艶めかしい女と一緒に待っている次長の怒った顔が瞼に浮かんだ。
「受付の入力ミスさ」
低くつぶやいてキーボードを叩き、囚人番号を打ち直した。番号さえ分かっていれば簡単なことだった。昼日中に脱走の恐れがあるはずもない。面会人とのトラブルだけが日曜日の不祥事になる。有能に事務をこなすことが最優先だと思った。思った途端、受付の怠慢に腹が立った。ちらっと見た面会人の続柄と年齢が看守を嘲笑う。
「内妻、七十五歳だって。まったくあきれる」
若い看守は叩き付けるように実行キーを押してから独房棟に向かった。


ピアニストは狭い独房の床に正座して雨音に聞き入っている。昨夜から雨は降り続いていた。雨音はコンクリートの壁の手も届かぬ高みに空けられた窓から流れてくる。ショパンのプレリュード「雨だれ」の調べが聴覚を満たした。ピアニストにはもう風景の中に降る雨をイメージすることができない。雨はすべて耳の中で抽象化された音になって降る。心の中で、かつて存在していた風景が消えてからもう久しい。今は方形のコンクリートの壁がその日の気分によって伸縮するだけだった。目をつむるとMの姿が浮かぶ。目を開くとぽっかりと開いた漆黒の深淵だけが見えた。じっと目をつむり、Mの姿の中に降る雨音に耳を澄ませた。雨音に靴音が混じり、ピアニストの房に向かって来る。目を開くと鉄格子の前に黒い靴の先があった。見上げると新任の看守が一人で立っている。いつもは主任看守に従うだけの脇役しかできない男だった。

「面会だ。立て」
新任看守は主任の口調をまねてピアニストに呼び掛けた。見上げたピアニストの目に浮かんだ訝しさが見習い中の職業倫理に引っかかった。主任看守からはいつも、死刑囚の処遇には細心の注意を払えと言い聞かされていたのだ。だが、この忙しいのに主任は二時間の遅刻をすると言う。知ったことではないと新任看守は思う。規則に外れさえしなかったら判断に迷うことはないと思った。大きくうなずいてから胸を張り、鉄格子の錠を外した。
ピアニストは黙ったまま両手を前に差し出す。手錠をはめられ、腰縄を打たれて房外に連れ出されてから面会人に思いを馳せた。誰とも知れぬ面会人が恐ろしかった。看守に名を尋ねることもできない。小さな希望の火が灯ってしまった。係累の少ないピアニストに面会できるのは両親だけのはずだった。両親の面会はずっと拒絶してきた。だが、三年の刑期を終えたMは、もう出所して三週間になるはずだった。出所したら面会に来てくれと、一方的な手紙も出してあった。もちろん返事はない。刑務所にいるMに勝手に三十通の手紙を送り続けたが、一度も返事はなかった。それに、Mには面会の資格がない。しかし、心の底に灯った小さな希望の火は獄舎の廊下を歩むごとに大きくなった。エレベーターの中では炎となって燃え上がるほどに膨れ上がった。胸の動悸が早鐘のように高まる。手錠をかけられた両手で何度も顔の汗を拭った。身体は寒く、心の底だけが熱い。面会室のドアが開く前に目をつむってしまった。Mの姿が脳裏に浮かぶ。目をつむったまま看守に腰縄を曳かれて室内に踏み入る。

「ピアニスト」
恋い焦がれた声が耳を打った。ピアニストは大きく目を見開く。透明の間仕切りの向こうに現実のMがいた。椅子から腰を浮かせ、じっとピアニストを見つめている。いとおしく美しかった。灰色の囚衣の下でペニスが大きくいきり立ってくる。Mが欲しい。

Mを見つめるピアニストの目は、まるで子犬のようだ。繊細すぎる神経が剥き出しになったような、縋り付いてくる視線がまぶしかった。たまらずに目を伏せ、浮かしかけた腰を椅子に下ろした。ピアニストが目の前の丸椅子に座る。二人の間を透明なプラスチックの間仕切りが隔てている。
「会えてうれしい。M、来てくれて本当にありがとう。未だに信じられない。目の前でMが消えてしまうようで怖い。僕はこの瞬間だけを三年間待っていたんだ。ほら、僕はずっとピアノの練習をしている」
椅子に座った途端、ピアニストは機関銃のように言葉を打ち出した。手錠のかけられた両手を前にそろえ、懸命に見えない鍵盤を叩く。指先が美しく舞うと聴き慣れたショパンの響きがMの耳に甦った。
「ほら、ショパンのスケルッツォだよ。これからはMのためだけに弾く。僕にはピアノとMしか要らなかったと、ようやく気付いたんだ。どう、僕のピアノが、ショパンの調べが聞こえるかい」
「聞こえるわ。十分聞こえる」
掠れた声で答えたMの頬を涙が伝った。
「泣くことはないよ。僕にはMとピアノだけで十分だ。Mにやっと会えた。もう言うことはない」

ピアニストの激した声が面会室に響き渡ったとき、新任看守の背後のドアが大きく開いた。
「主任、どうしたんですか」
慌てて立ち上がった新任看守が、息をはずませて飛び込んできた主任看守を面食らった顔で振り返った。
「面会は中止だ。この女は身内ではない。騙されたんだ」
主任看守は乱暴にピアニストの肩をつかみ、椅子から立ち上がらせようとする。ピアニストは全身で抵抗した。つかまれた囚衣が音を立てて破れ、細く白い両肩が露出した。Mも驚いて立ち上がる。Mの肩を次長が強い力で押さえ付けた。
「M、Mが欲しい、僕はMのものだ。ずっと会っていたい」
立ち上がらされたピアニストが大声で叫んだ。あまりの勢いに二人の看守が息を呑んだ。その隙に全身を激しく揺すって二人の看守を振り払う。手錠をかけられた不自由な手で囚衣を膝まで下ろした。突き立ったペニスを誇らかにMに向け、再び吼えるように絶叫する。

「Mが欲しい。M、結婚してくれ。僕は死にたくない」
二人の看守がピアニストを突き倒した。囚衣をつかみ、床に引きずってドアに向かう。またもや囚衣が破れた。丸裸になったピアニストが看守の手を放れ、開かれたドアの前に仁王立ちになった。
「M、M、結婚してくれ」
プロポーズの熱い言葉がMの耳に突き刺さる。肩を押さえた次長の手をはねのけて前に踏み出す。両足を左右に広げて黒いスカートを捲り上げた。剥き出しになった股間をピアニストに突き出す。
「この身体は全部ピアニストのものよ。きっとピアノを聴きに来る」
静かに抑えた声で言い放つと、ピアニストの肩が安心したように下がった。新任看守がピアニストを羽交い締めにした。主任看守が強引に腰縄を曳いて裸身をドアの外に引きずり出す。逞しく勃起したペニスの上で、腰縄を打たれた細いウエストが無惨に歪んだ。

エレベーターの中でも、獄舎の廊下でも、ピアニストは素っ裸で引きずられながら全身をのけ反らせて暴れ回った。
「Mに会わせろ、もっとMに会っていたい」
掠れきった怒声が静まり返った獄舎にこだました。
「仕方ない、このまま反省房に入れよう。口枷を用意しろ」
主任看守が反省房のドアを開けて新任看守に命じた。房内は一畳ほどの広さしかない。空っぽの室だ。コンクリートの壁面と鉄のドアには身体をぶつけても傷つかないように厚いゴムが張ってある。自殺の恐れがある囚人を懲罰するための特別の独房だ。

「後ろ手錠にしろ」
戻ってきた新任看守に主任看守が命じてピアニストを床に押し倒した。片手の手錠を外して両手を背中にねじ曲げて後ろ手に手錠をかけ直す。喘ぐ鼻を摘み上げて口を開かせ、両端に革紐の付いたゴムの棒を口にくわえさせた。もうピアニストの出す声は言葉にならない。舌を噛む恐れもない。二人の看守に再び立ち上がらされた股間でペニスだけが逞しく屹立していた。散々手こずらせたあげくに今もって支配を拒んでいるようなペニスが看守を嘲笑っているように見える。
「この生意気なペニスにも反省させましょう」
新任看守のいらだった声が響いた。ピアニストの股間を冷え冷えとした手錠が襲う。猛々しく勃起したペニスの根元を鉄の輪が緊縛した。金輪の先に突き出された二個の睾丸が滑稽に見える。短い鎖が股間を通り、もう一方の金輪が後ろ手の手錠と繋ぎ合わされた。直立したペニスが背後から根元を曳かれ、仕方なく亀頭を垂れる。無惨な光景だが本当に反省しているようだからおかしい。二人の看守が大笑いして溜飲を下げた。
「勃起している限り手錠は外れんぞ。反省して、熱を冷ませ」
憎々しい声で新任看守が言い放った。ピアニストを房に入れ、ドアを閉めて錠を下ろした。
天井から落ちるランプの光が直立した裸身を照らし出す。ピアニストは言葉にならぬ声を絶え間なく上げ続けた。腰を狂おしく振って激しく足踏みを繰り返す。勃起したまま下を向いた亀頭を太股が妖しく撫でる。Mを思う官能の炎が股間を焦がした。頭の中が空白になると、背筋を官能が貫いていった。ペニスの先が痙攣し、ゴム張りのドアに白い精液が飛んだ。根元を手錠に繋がれたペニスはまるで少年のように長々と射精を続けた。空白になった頭に大きくMの姿が甦ってくる。涙が溢れて頬を伝った。後ろ手に縛られた裸身が力無くゴム張りの床にひざまずいてしまう。慟哭の声が殷々と獄舎に響き渡った。


Mは刑務所が呼んだ警察官に連れ出され、パトカーに乗せられて市街地の警察署に連行された。四階にある取調室で二人の刑事からたっぷり一時間の間、厳しく説諭された。だが、耳には何も聞こえない。言葉は聞こえても意味をなさなかった。しおらしく下を向いていただけだ。ピアニストの過激すぎる反応だけを反芻していた。協力してもらっただけで、礼も言えずに別れてきた老婆の言葉が甦って耳を掠めた。老婆は尾羽打ち枯らした男の元へ、一切を投げ捨てて帰ったと言ったのだ。だがMは帰るわけにいかない。帰る所もない。ひたすら前に進むしかないのだ。
「まあ、好いた男が死刑囚で、どうしても会いたいという気持ちは分かるよ。でも無茶したらいかん。無茶はだめだ。みんなが迷惑する。分かったかい」
年配の刑事が最後に言った。Mは黙ってうなずく。威嚇のためか、十本の指の指紋を採られた後、身分を証明した運転免許証と煉瓦色のジャケットが返された。指紋を採っても無駄なことだとMは思う。二度の前科と共に、指紋は大切に警察に保管されているはずだった。二人の刑事に送られて警察署の玄関に立つ。遺失物の傘をさして行けと言う刑事の声に首を振り、しのつく雨の中を濡れながら駅に向かった。雨には潮の香りが混ざっていた。まだここは日本海に面した街なのだと、改めて思い知らされたような気分になった。


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