10.告別

素っ裸のMが無人の街路を北に走った。白々とした街灯の光を浴びた裸身が全身で慟哭している。真っ直ぐ歓楽街に向かい、サロン・ペインのドアを開けた。

「チーフ、お願い。祐子を呼んで。車が欲しいの」
フロアに飛び込んだMが大声で叫んだ。カウンターの中で片づけを始めていたチーフの顔が驚愕する。
「どうしたの、M。何があったの」
かすむ視界でカウンターから飛び出して来るチーフの顔が揺れた。聞き慣れた声がほっとさせる。一気に全身の緊張が解け、足元から床に崩れた。

「ピアニストが死んだわ」
小さくつぶやいた声がM自身の耳を打った。確かにピアニストは死んだに違いないと改めて断定した。危篤という曖昧な言葉の裏に隠されているはずの真実がフロアに裸身を投げ出させた。激しい慟哭の声が広いフロアに満ちる。

「Mは、はだか。また、ないてる」
カウンターの前のスツールに座っていた進太が、唄でも歌うように口ずさんだ。途端に甲高い怒声が幼い声を遮る。
「何がピアニストだ。何が結婚だ。醜い、Mは醜すぎる。当てつけがましく修太を殺したときと同じ格好で現れる。ピアニストの遺産が転がり込んで、うれし泣きって所が本音だろうよ」
「睦月、Mに何を言うの。許さないわ」
ホールの奥から響いてきた毒々しい声にチーフが叱声で答えた。
「あっ、ままも、はだかだ」
進太の声に迎えられた睦月も素っ裸だった。以前と変わらないぽっちゃりした裸身に赤い縄が菱形に食い込んでいる。薄い陰毛を分けて股間を割った二条の縄が白い肌に怪しく映えた。裸身は緊縛されていたが両手は自由だ。右肩下の、銃弾が貫通した痕が無惨なひきつれになっていた。

「M、私の姿を見れば思い出すだろう。素っ裸で後ろ手に縛られたMがオシショウを突き飛ばし、拳銃を暴発させた。Mが修太を殺したんだ。そのお前がピアニストの遺産を相続するんだって。進太を抱えて生きていく私はクラブ・ペインクリニックでSMの自縛ショーを始めるんだ。チーフが許さなくても構わない。こんな不条理なことは私も許せない」
憎々しい声でいきまきながら近寄ってきた睦月が進太の横に立った。赤い縄で緊縛された裸身がぶるぶると震え、怒りにひきつった頬を涙が濡らした。

「Mとおなじ、ままも、ないた」
うれしそうにはしゃいだ進太の頬を睦月が張った。幼い頬で鳴る平手打ちの音がホール中に響き渡った。泣きじゃくる進太の声が全員の耳を打つ。電撃に打たれたようにMの裸身が震え、足に力を込めて立ち上がった。

「睦月、進太に罪はないでしょう」
怒りのこもったチーフの声を聞いた睦月が、泣きじゃくる進太を抱き上げた。睦月の口から嗚咽が漏れる。母と子の泣き声がホールを満たした。Mは何も言わない。何も答えようとしない。心を閉ざしたままじっと母と子を見つめていた。

「M、祐子は五分で来るわ。でも、その格好では刑務所に行けない。私の服を着ていってちょうだい。まだ少し二階に荷物が残っているの」
顔をしかめたチーフが気分を変えるようにMに勧めた。クラブに改造予定の二階の部屋で、Mは黒いシルクニットのワンピースを着た。八年前の大晦日の雪の朝に、鋸屋根工場でピアニストに脱がしてもらったワンピースだ。裸身を包む布が心に重い。外で大きくクラクションの音が響き、Mとチーフは階下に降りた。真っ青な顔で、ものも言えずに立ちすくむ祐子の手からMG・Fの鍵を受け取り、真っ直ぐドアに向かった。

「M、覚えておくがいい」
背中に襲い掛かる睦月の叫びにMが振り向く。
「お前は立派に刑期を勤めたと思っているだろうが、私の両親も、極月の両親も、霜月の母も、死刑の判決を受けたピアニストの両親ですら莫大な損害賠償金を市と競艇場に払ったんだ。生き延びた者の刑期をいくらかでも酌量してもらいたいと、爆発で破損した施設の示談に親たちは努めた。そのお陰でピアニストの他は判決が甘かったんだ。私の両親は土地を失い、返しきれない借財を背負った。着の身着のままで仮釈放になった私も進太を抱えて所帯苦労だ。来月からは自分の裸身を縛り上げて金を稼ぐ。M、お前の相続するピアニストの財産は私たち親子にも使う権利がある。決してMだけにいい思いはさせない」
進太を抱いて叫ぶ睦月の裸身が急に大きくなったように見えた。Mは睦月の目を見据えて初めて大きくうなずいた。


ピアニストは囚衣をほぐして作った紐で首を吊って死んだ。五月五日の未明のことだ。ちょうどMが、殺された金貸しの先生の執念の折檻に呻吟している時刻だった。祝日だったため、妻であるMと両親への通報がほぼ一日遅れたのだ。狭い独房の便器の下に寂しく吊り下がったというピアニストの首を絞めた紐は、確かに糸のようなものだったとMは思った。

日本海に面した町の人気ない火葬場にピアニストの両親と並んで座り、焼き上がる骨を待ちながらMは惑う。二人を繋いでいた糸も切れそうなほど細かったが、寄り添い求め合うほど強靱でもあった。ピアニストはMにとって他者としてあったのではない。互いの分身のように反発し、求め合ってきただけだ。そう思えば涙も出ない。ピアニストは死んで、Mの体内に戻ってきた。後は分身を無くしたMがピアニストの分まで生き延びるだけのことに思えてくる。

焼き上がった骨を胸に抱き、ピアニストの両親を従えて火葬場を後にした。この海辺の町で骨にすることを主張したのもMだった。歯科医の妻は息子がかわいそうだと言って泣いた。だが、ピアニストを骸のまま市に帰すことだけは、無惨すぎてMにはできない。生々しい思い出がピアニストの亡骸を冒涜するように思われた。やはり、無機質の清澄な骨にして連れ帰りたかったのだ。

北の海沿いの町からオープンにしたMG・Fを飛ばして市に帰り着いた。水瀬川に掛かる大橋を渡れば市街なのだ。赤信号を見つめて大きく溜息を付く。暮れていく空が情けないほど美しい。つい人恋しくなってカーラジオのスイッチを入れた。地元のFM局が臨時ニュースを流し始める。

「五月四日の金貸し殺人事件が急転直下、解決しました。つい一時間前、被害者のアパートの家主と同アパートに住む老婆が容疑者として逮捕されました。逮捕された家主は今日午前、長男の在学する都会の大学に授業料八十万円を納入しました。この札束の耳の部分には幅五ミリメートルの赤い線がインクで引いてありました。この印を不審に思った大学事務員が金融機関に問い合わせたところ、警察の手配と一致する事が判明しました。警察当局は金庫に残されていた札に同様の印がされていたことから、被害者が札に塗っていたものと推定して極秘に金融機関に手配していたものです。札に残した被害者の執念が見事に犯人を追い詰めたと言えるでしょう」

Mは手を伸ばしてラジオのスイッチを消した。信号が青に変わる。お菊さんの顔も大屋の顔も思い出せない。暗く悲しい思いだけが、深く、深く、心の底に沈んでいった。産業道路から織姫通りに合流する信号で、MG・Fを先導するように走ってきた歯科医の運転するポルシェが左折の信号を出した。二人は山地に帰っていくのだ。Mは構わず右折の信号を出し、歯科医と反対に歓楽街の方向に向けてカーブを切った。いつも道は二手に分かれている。カーブを曲がりきった瞬間、助手席に置いた骨壺の中でピアニストの骨が小さく鳴った。Mは蓋を開けた骨壺に左手を伸ばし、指先で小さな骨を摘んだ。真っ直ぐ前を見つめたまま骨を口に含む。微かな塩の味のする骨をゆっくり噛んだ。明日の晩は通夜にしようと思う。


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