8.終焉

夢を見ているのは分かっていた。それも怖い夢だ。Mの身体が規則的に揺れている。不安定で心細い気持ちがますます募っていった。夢の中のMはやっと幼児になりかけたばかりで、まだおむつも取れていない。腰の回りが不自然に膨らみ、濡れた布が不快だった。尻の下はブランコの硬い木の板で、両手は太い鎖を硬く握り締めている。大きく、大きくブランコが揺れる。揺れに応じて幼いMの不安は高まる。小さな足の下に地面はない。宙に浮かんだブランコがM一人を乗せて揺れ続けている。早く降りたかったが、一人では降りることができない。ブランコに乗せてくれた大人を捜して辺りを見回す。まるで雑踏のように人たちが行き交っている。たたずんで見つめている顔もたくさん見えた。だが、捜している顔がないと思ったとき、突然戸惑いを感じた。頬が真っ赤になり、泣きべそになったのが分かった。捜している顔がなかったのではなく、捜す顔がなかったのだ。急いで母と父を呼ぼうとしたが、二人の顔も思い浮かばない。焦りが全身に込み上げ、背筋を恐怖が貫いていった。太い鎖を握った両手がブルブルと震え、涙が流れた。身体を震わせながら、声を立てずに泣きじゃくった。ブランコは揺れ続け、恐怖が全身を占める。冷たく濡れていた尻が急に温かくなった。心の底に温かさが伝わっていくような気がする。その小さな希望に縋り付くようにして、幼いMは長々と失禁した。

Mは慌てて股間に手を伸ばした。手に触れた陰毛は湿り気を帯びていたが、失禁はしていなかった。僅かに覚醒した意識が見た、嫌な夢が断片的に甦ってくる。性夢のようなときめきを感じた。これまでに何回となく見てきた夢だった。今もなお、私はブランコから降りられないでいるのだと、告げられたような気がする。孤絶した悲しみを感じた。下半身が寒い。夜明け前の寒さが室に忍び込み、毛布からはみ出た剥き出しの尻を撫で回している。大きく身震いして、狭いダブルベッドで裸身を縮めた。無性に温かさが欲しかった。縮めていた両手足をおずおずと伸ばす。名淵の裸身に手足が触れた。温かな素肌の感触が胸の奥まで沁み入ってくる。がっしりした裸身を全身で絡め取った。狂おしく素肌を擦り付けると、小さな声で名淵が呻いた。セクシーなバリトンの呻きだ。喉元まで懐かしさが込み上げてくる。前に回した手で股間を探った。量感のあるペニスを手の中に包んで撫でさする。

「もう少しだよ。まだ眠らせてくれ」
寝ぼけた声が聞こえた。手の中のペニスが硬くなってくる。Mは毛布の中に潜り込み、勃起しかけたペニスを口に含んだ。まだ弾力のある肉を舌でなぶる。口中一杯に膨らんでくるペニスが愛おしい。このまま射精させて精液を呑み込みたいと思った。ブランコから降りる必要はない。素っ裸の名淵を後ろ手に縛り上げ、絶頂を極めるまで鞭打ってやりたくなった。


進太は土蔵の厚い扉をそっと開いた。白い光が目にまぶしい。飛び込んできた外気が冷たく頬を刺した。思わず後ろを振り返る。清美の裸身がブルッと震えた。清美は素っ裸で後ろ手に縛られている。膝上で足を縛った縄と首縄の間を別の縄で短く連結されている。上体を前屈させて尻を突き出した惨めな格好だ。足首が縛られていないので、ヨチヨチ歩きで歩くことはできた。しかし、後ろ手から延びた縄が裸身を無情に天井から吊り下げている。かろうじて身体の向きを変えられるだけだ。うつむいていた顔を上げ、恨めしそうに進太を見上げた。縄の猿轡が哀れさを誘う。口中には黒いレースのTバックショーツが含ませてあった。あまりの口うるささに閉口した進太が、口封じのために噛ませたものだ。

「素っ裸では、やはり寒いか。キヨミ先生が風邪を引くと僕も困る。一晩でずいぶん素直になったから、立ち縛りは許してやろうか」
進太が独り言をいって清美の前に戻った。素肌に鳥肌が立ち、前屈した裸身が微かに震えている。猿轡を噛ました口が動き、見上げる目に哀願の色が見えた。寒さを訴えているに違いなかった。ドーム館にゲレンデヴァーゲンを返して、土蔵に戻ってくるまでの時間は四十分ぐらいだ。蔵屋敷に寄ってバイクや食料などを取りそろえても、一時間あれば戻れる。そのくらいの時間なら、清美を吊っておかなくても安全なような気がした。バケツを跨がせて放尿させてからは、さすがに清美もおとなしくなっていた。威嚇の鞭打ちも効果があったはずだ。

「監禁の原則には違反するけど、戻るまでおとなしくしていると先生が誓うなら、吊り縄を解いて座り縛りで柱に繋ぐことにしますよ。毛布も掛けて上げる。さあ、どうしますか。誓えますか」
進太の問いに、清美がうれしそうに首を振って応えた。
「よし、後ろを向きなさい」
命じられたとおりに、清美は膝上を縛られた不自由な身体で向きを変えた。進太の目の前に裸の尻が突き出された。白い双臀に五本の赤黒い鞭痕が残っている。そのうちの一つは尻の割れ目に食い込み、肛門の端を赤く腫れさせていた。昨夜の興奮が甦る。尻の後ろに屈み込み、伸ばした舌で肛門を舐めた。くぐもった悲鳴が上がり、白い尻が大きく揺れた。ジーンズの中でペニスが勃起してくる。進太は卑猥な笑いを浮かべて立ち上がり、清美を天井から吊り下げた縄を解いた。首と足を連結した縄も解き去る。前屈した裸身がうれしそうに伸び上がった。
「さあ、柱の前に座ってください」
進太が命じると、素直に清美が従う。縄尻を柱に結わえ付けてから、裸身を毛布で覆った。これで清美も暖かくしていられると思うと気が軽くなった。土蔵の扉を大きく開け放して外気を入れる。母屋の屋根に遮られて日は射し込まないが、霜に覆われた枯れ草さえ生き生きとして見えた。進太は慎重に扉を閉めてからゲレンデヴァーゲンの運転席に座った。時刻は午前七時だった。日の出から三十分が経過していた。

清美の耳に、遠ざかっていく低いエンジン音が聞こえた。肩の力を抜き、正座した背を太い柱に預けた。闇の中で何も見えないが、裸身を覆った毛布がうれしい。冷え切った身体が温かくなっていくのが分かる。一人で放置されたことで気持ちの落ち着きも戻ってきた。尻に走る鞭痕が痛い。昨夜の屈辱を思い出して裸身がカッと熱くなる。大きく身震いすると縄目が軋った。乳房の上下を縛った縄が素肌を擦る。後ろ手にされた手を握り締めた。恥辱の姿態が闇の中に浮かび上がるようだ。だが、ついに進太は隙を見せたのだ。前屈させて天井から吊り下げた裸身に情けを掛けた。その情けを掛けさせたのが教師としての自分の力量だと思うと、今度は全身が矜持に震えた。清美は中腰になり、縛られた両手で柱をなぞった。縄尻を縛り付けた結び目がすぐに見付かる。二重になった固い結び目に爪を立てた。指先に力を込めて懸命に解こうとする。縄で括られた手首が痛くなると位置を変えて左手を使った。何回か手を替えて結び目に挑んだ挙げ句に、右の親指と人差し指の爪が割れた。血の滲む感触で背筋が寒くなったとき、さしもの結び目も緩んだ。急いで柱から縄を解き、痛む腰を我慢して立ち上がった。裸体を覆った毛布が床に落ちた。途端に冷気が素肌を襲った。だが、繋がれた縄から解放された喜びに勝るものはない。膝の上を縛った縄が邪魔をするが自由に歩ける。猿轡の中で喚声を上げた。闇の中をヨチヨチ歩きで扉へ向かう。足がもつれて転びそうになった。思わず悲鳴を発したが、裸の肩が壁に当たって持ちこたえた。おまけに壁が動いた感触があった。清美は渾身の力を込めて壁を押した。低い軋り音とともに扉が外に向けて動いた。白い光が射し込み、冷たい外気が頬に触れた。闇に慣れた視界が真っ白になる。大きく目を見開くと涙が出た。

後ろ手に緊縛された裸身が土蔵から外に転がり落ちた。枯れ草に降りた霜が素肌を責める。清美は歯を食いしばって立ち上がろうとするが、膝上を縛った縄が動きを邪魔する。やっとの思いで立ち上がり、ヨチヨチと三歩ほど歩いたが、素足を襲う霜の寒さに耐えられそうにない。焦りが全身を追い立てたが、この一瞬に逃亡を賭けるしかないと思い定めて土蔵に戻る。室の隅に投げ捨てられていたスニーカーに苦労して両足を突っ込む。足元さえ決まれば、たとえヨチヨチ歩きでも、二時間あれば街道に出られる。後は、戻ってくる進太と遭遇しないように注意すればいい。どうせ、進太はバイクで帰ってくる。あのかん高いエンジン音が警報になると思った。進太が去ってから、もう三十分は経過している。何としても急ぐことだ。清美は思いにまかせぬ歩みに歯がみをしながら、霜の降りた白い地面を歩いていった。

崩れた母屋を回って庭に出たときには、膝の上の肌に血が滲んでいた。歩みに連れて縄目が擦れ、皮膚が裂けてしまったのだ。だが、お陰で縄目が緩み、足が抜けそうな気がする。清美は眉をしかめて前方の長屋門を見つめた。屋根の上には真っ青な空が広がり、淡い日射しが差し込んでいる。日陰になった土蔵の周辺とは違い、降りた霜も溶け去っていた。狭い歩幅で苦労して歩いてきたせいもあるが、うっすらと裸身が汗ばんでいる。久しぶりに天気も温かくなるような気がする。裸の身には好都合だった。恥ずかしさを思い起こさぬように歩を進める。股間を縛られなかったことが唯一の救いだった。進太は昨夜、清美の裸身を様々に縛り上げ、最後に股間縛りで歩くことを強いたのだ。にやにやと笑いを浮かべて見つめる進太の前で、一歩を踏み出した途端に陰部を激痛が襲った。あの屈辱は今も忘れることができない。女の性をなぶりきる責め苦だ。股間にめり込んだ縄が、情け容赦もなく性を蹂躙したのだ。だが今は、不自由な歩みでも普通に歩ける。股間を縛らなかった進太の落ち度を嘲笑ってやりたかった。庭の中央にある松の木の下まで来たところで、膝上を縛った縄がようやく抜け落ちた。もう歩行を妨げるものはない。後ろ手に緊縛された裸身を躍らせて長屋門に向けて走った。もう一時間近く経過した気がする。今にもバイクのエンジン音が轟いてくるような気がして恐ろしかった。

進太はドーム館の駐車場にゲレンデヴァーゲンを戻した。昨夜清美の自転車にぶつけたフロントバンパーを点検してみたが、大小無数の傷があって特定することができなかった。安心してリアゲートを開け、蔵屋敷に寄って積んできたバイクを下ろした。エンジンをかけると、かん高い轟音が心地よく谷間にこだました。四輪車よりバイクがいいと心底思う。玄関まで行ってインターホンを押してみたが、やはりチハルは帰っていない。ゲレンデヴァーゲンのキーを郵便受けに投げ入れてからカワサキKX60に跨った。土蔵に残してきた清美が急に心配になる。凄いスピードで山を下って築三百年の屋敷を目指した。往路と同様、街道を走るときは気を使った。しかし、今日は幸い土曜日なので学校が休みだ。通学する生徒たちの目を気遣うことはない。アパート暮らしをしている清美の失踪も、月曜日まで秘匿できるかも知れなかった。すがすがしい気持ちで横道に入り、全身に朝日を浴びてスピードを上げた。中腰にしたままハンドルを握り、荒れた路面から伝わるショックを膝の屈伸で吸い取る。面白いように路面の凸凹をクリアできた。額にうっすら汗が浮き出たころ、右手に遠く長屋門が見えた。まだ黄色い枯れ葉が残るクヌギの枝越しに見た長屋門は、どことなく不吉な様相をしていた。浮かび上がってきた不安を吹き飛ばすように、素っ裸で放置してきた清美に思いを馳せる。

「アッ」
小さく叫んで、進太は唇を噛んだ。出掛けに見た清美の裸身を急いで思い返す。尻の割れ目にのぞいていた肛門が目に浮かんだ。剥き出しの尻だった。股間を縛り忘れてしまったのだ。陰部に食い込む股縄がなければ、清美は自由に歩行できる。せめて足首を縛るべきだったと思った。自転車が転倒した時の擦り傷を哀れみ、膝上を縛っただけで済ませたことが悔やまれてならない。進太はバイクのスピードを緩めずに長屋門を潜り抜け、急いで母屋の裏に回った。大きく見開いた目に、開け広げられた扉が飛び込んできた。背筋が冷たくなりハンドルを握る両手が硬くなった。バイクから飛び降り、土蔵に駆け込む。寒々とした室には、清美の裸身に掛けた毛布が落ちているだけだ。目の前が真っ暗になったが、目まぐるしく頭を働かせて時間を計算した。時刻は午前八時を回ったところだ。最大限の時間を考えてみても、清美が逃亡してから一時間しか経っていない。築三百年の屋敷から街道まで、急いで歩いても一時間はかかる。それに清美は素っ裸で後ろ手に縛られているのだ。山に逃げ込む恐れはない。街道に出て助けを求める以外に、救出の望みはないはずだった。きっと、この土蔵と街道の間に潜み、バイクの音を聞いてすくんでいるに違いなかった。急いで街道に戻り、築三百年の屋敷へ向かって追っていけば捕らえることができる。捕らえなければ生涯が終わると思った。進太は再びバイクに跨り、怖い顔で街道を目指した。

清美は街道に向けて歩き出して十五分ほどのところでエンジン音を聞いた。歩き続けて火照った身体が冷水を浴びたように冷たくなった。無防備な裸身がわなわなと震える。思わず道端にしゃがみ込んでしまった。喉元に吐き気が込み上げてくる。ようやく緩くなった縄の猿轡の間から、唾液にまみれた布切れを舌で押し出す。黒いTバックのショーツが足元に落ちた。堪らない尿意が襲い、下腹がキリキリと痛んだ。背中で緊縛された両手を捩ってみたが、高手小手に縛り上げた縄目は緩みもしない。バイクの音がますます高まる。もうこれまでかと観念してうなだれると、足元に落ちた黒い布切れが目に入った。お気に入りだったショーツがぼろ切れみたいに転がっている。醜く汚らわしい眺めだった。途端に怒りが込み上げてきた。教え子ごときに負けてなるかと歯を食いしばる。

「私は教育者よ。負けるもんですか」
大声で叫んだ。久しぶりに耳を打った自分の声が、萎えかけた勇気を奮い起こしてくれる。両足に力を入れて立ち上がり、枯れた枝が行く手を阻む山の中へと踏み入っていった。シダと苔に覆われた窪地に下り、再び小高い雑木の茂みに上ったところでバイクの音が擦れ違っていった。全身を緊張させてしゃがみ込むと、遠ざかっていく進太の背が見下ろせた。だが、間もなく凄い勢いでバイクが戻ってきた。逃亡を発見した進太が追跡を開始したに違いなかった。バイクで追う進太に発見される恐れはなかったが、清美も身動きがとれそうにない。かん高いエンジンの音は遠く低く、街道の方角から響き続けた。清美は右手に続く細い獣道を通って、山越えで街道に出ることを決心する。枯れ枝の下を這うように進む、困難な道が待ち受けているはずだった。だが、不思議と恐怖は無かった。なだらかな山並みは、時間を費やせば必ず街道に出られると確信できるほどのスケールだ。枯れ草や枯れ枝に責められて、縛られた裸身が擦り傷だらけになるぐらいで済むに違いない。尻を鞭打たれる痛みと屈辱より、よっぽどましだと思う。清美は方向を変え、小さな沢に下りる獣道に分け入っていった。

進太は街道と築三百年の屋敷の間を、ずいぶん長い時間走り回った。しかし、清美を発見することはできなかった。熱い焦燥が全身を焼き尽くす。路肩にバイクを止めて肩で大きく息をついた。車体を揺するとフューエル・タンクの底で貧相な音が響いた。もうほとんどガソリンも残っていない。ぼう然と眺める山襞が真っ白になり、やがって真っ赤に染まった。もう破滅しか残されていないと覚悟した。全身が硬く緊張してくる。

「ウワー」
大声で叫ぶと、力強いこだまが帰ってきた。どことなくチハルの声に似ていた。懐かしさが込み上げてきて涙がこぼれた。進太はバイクをUターンさせて、ドーム館を目指した。もはやチハルに救いを頼む以外に道はなかった。何ともやり切れない気持ちだったが、もう子供の出る幕ではないような気がした。涙が止まらなくなる。やはり負け続けるのかと心の底で思い惑い、きつく歯を食いしばってハンドルを握り締めた。


インターホンから進太の切羽詰まった声が響き渡ったとき、チハルはまだ着替えもしていなかった。市からドーム館に帰ってきたのは二十分ほど前だったが、やり場のない鬱陶しさを持て余し、椅子に座ったまま目を閉じていた。時刻はもう、午前九時を回っている。
「チハル、助けて。僕はもう、どうしようもないよ」
スピーカーを通して聞こえてくる泣き声が、チハルを元気付かせる。Mが痴態を晒している部屋の壁に大声で毒突いた、昨夜の無様な記憶を振り払うのにちょうどいい来訪だった。すぐ上がってくるように受話器に答えてから、警報装置のスイッチを切った。程なくしてドアが叩かれると同時に、進太が部屋に飛び込んできた。

「キヨミ先生が逃げた。僕がミスったんだ。どうしよう、もう取り返しがつかないよ。ねえ、チハル、お願い、僕を助けて」
大声で頼む顔は泣きべそをかいていた。緊張して怒らせた肩は細かく震えている。だが、進太の言っている意味が分からない。ただ、真剣すぎる声の調子に不吉な匂いを嗅いだ。話は聞きたくなかったが、危機の予感が胸の底の琴線に触れた。清美を殺したくなると言っていた声が記憶に甦った。思わず椅子から身を乗り出す。

「先生を殺し損なったと言いたいの」
静かに尋ねた問いに、進太が大きく首を横に振って答える。
「違うよ。殺しはしない。車をぶつけて気を失わせてから土蔵に拉致したんだ。素っ裸で縛り上げて監禁していたのに、ゲレンデヴァーゲンを返しにいった隙に逃亡したんだ。チハルに言われたように、厳重に拘束しなかった僕が悪いんだ。ずいぶん捜したけど見付からない。ねえ、もう破滅だよ。どうすればいいか分からないよ」
一息に言った進太がまた泣き出してしまった。肩を震わせて豪快に泣く。見ているチハルが笑い出してしまいそうになるほど、手放しな泣きっぷりだ。だが、進太が昨夜実行した仕事の内容はよく分かった。チハルは進太の目を見つめて、また静かに口を開いた。

「それで、私に何をしてもらいたいの。警察に捕まらないように逃がして欲しいのか、逃亡したキヨミを捕らえて欲しいのか、はっきり言わないと分からない」
泣きながら聞いていた進太の顔が急に輝きだす。うれしそうに口元が歪んだ。
「キヨミ先生を捕まえてください。お願いします」
喜びの声で言って、進太はまぶしそうにチハルを見た。
「キヨミはどんな格好で、どのくらい前に逃亡したんだい」
「素っ裸で後ろ手に緊縛してある。猿轡を噛ませ、膝の上で足も縛ってあるよ。でも、股間を縛り忘れたから自由に歩ける。逃げた時刻は分からないけど、一人で放置した時からなら、もう二時間になる」
問いに答えた進太の様子は、もうすべてをチハルに任せきった風情だった。
「二時間は長いね。手遅れかも知れない。どちらにせよ時間との勝負だ。すぐ出掛けるよ。それから、犬、犬が必要だ。クロマルを連れていこう」
目をつむって考えていたチハルが、立ち上がって決断を下した。壁に備え付けたクロゼットを開けて黒革のガンケースを取り出す。その場でレミントンM1100に五発の実包を装填し、別の実包を二発、紫紺のスーツのポケットに入れた。横で見ていた進太の目が輝き出す。

「ねえ、チハル。クロマルはだめだよ。バカ犬だから役に立たない。それより、チハルは着替えた方がいい。戦闘服の方が追跡に似合う」
甘えた声を出して進太が擦り寄ってきた。
「進太、私が銃を用意したんだ。これからすることは遊びじゃない。時間もないし犬も要る。さあ、つべこべ言っている暇があったら車のエンジンをかけてきなさい」
一喝すると、すくみ上がった進太が真っ青になって飛び出していった。確かに戦闘服の方が活動的だ。だが、今は時間との勝負だった。チハルはスーツの足元をジャングルブーツで固めただけで、銃を手にして階下に下りた。

ゲレンデヴァーゲンの運転は進太に任せ、チハルは蔵屋敷の庭から連れてきたクロマルを膝に抱いた。クロマルはセッターとシェルテーの雑種で、体型はシェルテーに似ている。精悍な猟犬というより、白いたてがみを持った愛玩犬に見える。だが、犬の臭覚は決して軽んじられない。チハルは膝の上に載ったクロマルに最低限の仕付けを施そうとした。始めは運転席の進太に気を取られていたクロマルが、チハルの気迫に押されて従うような素振りを見せた。これまでも、何回かクロマルを猟の真似事に連れ出したことはある。いつも進太が一緒だったから、それほどの役には立たなかったが、確かに猟犬の素質は見せていた。今度の仕事は猟から見ればよっぽど楽だ。ひたすら清美の臭線を追い続けてくれればいい。それも、たかだか二時間前の人が通らない山の中の臭線だ。きっとうまくいくと信じて、クロマルの頭を撫でた。
「ワンッ」
うれしそうにクロマルが一鳴きして、チハルに答えた。チハルの口元に精悍な笑いが広がる。人を狩り立てるのは初めての経験だった。

清美が逃亡した後の土蔵には、クロマルに匂いを覚えさせる品が溢れていた。チハルは清美の着ていた衣服を床に広げ、クロマルを呼び寄せた。真剣な表情で衣服を指し示し、長い鼻先にあてがった。すぐクロマルが興味をあらわす。牡のクロマルは、たとえ人でも雌が好きなようだ。特に黒いレースのブラジャーが気に入ったようで、しきりに尻尾を振って匂いを嗅いだ。頃合いを見て、チハルがブラジャーをスーツのポケットに隠した。クロマルは服地の上から匂いを嗅ぐ。ポケットからブラジャーを出すとうれしそうに吼えた。一緒に転がり出た散弾の青いシェルには見向きもしない。ブラジャーを床に引きずって素早く外に飛び出す。布切れを胸ポケットにしまって素知らぬ顔をしていると、クロマルはあっけに取られたように首を傾げた。続いてしきりに地面を嗅いで歩く。すぐに臭線を探り当て高々と尾を上げた。空を仰いで高鼻を掲げる。

「ヨシッ、イケッ」
すかさず進太が命令を下した。逃亡した清美の臭線を追ってクロマルが進む。進太が小走りに後を追った。クロマルの足が速くなったところで、チハルはゲレンデヴァーゲンを発進させた。二十メートルほどの間合いを置いて、ゆっくりクロマルと進太を追尾した。街道に向けてしばらく下ったところでクロマルと進太が立ち止まった。クロマルの吼え声が連続して響いた。チハルも車を降りて近付いていく。
「ほら、大手柄だよ。この犬を見直してしまった」
進太が感動の声で叫んで、黒い布切れを両手で広げた。
「キヨミ先生のショーツだよ。色っぽいだろう」
呼び掛ける進太の声が弾んでいる。心持ち頬が赤く染まっていた。確かに大胆な下着だったが、それを穿く清美は油断できないとチハルは思った。だが、清美の運も尽きたと改めて確信する。山へ逃げ込んで、犬に追われたらひとたまりもない。それも、逃げ込んで一時間も経っていないのだ。せいぜい五百メートルも追えばエンドマークだった。
「ここから山に入ったんだね。馬鹿なことをするもんだ。進太、クロマルに首輪を付けなさい。ゆっくり狩り立ててやる」
命じる声にも余裕が溢れていた。クロマルを先頭に、二人の猟師が山の中に分け入って行った。


ブリテッシュ・レーシンググリーンに塗られたMGFが、築三百年の屋敷に続く道をゆっくり走っていく。ハンドルはMが握っていた。荒れた路面を避けながら慎重に運転する。オープンにした車内に晩秋の風が巻き込んでくる。いくら日射しが強いからといって、午前十時を回ったばかりの風は冷たい。助手席に座る名淵が寒そうにスーツの襟を立てた。Mの口元に笑いが浮かぶ。サロン・ペインの駐車場でMGFのハンドルを握るように言われた時に、Mは迷わず車体をオープンにした。オープンにして走ったことのない名淵は、目を丸くして幌を巻き上げる動作を見つめていた。そのときの間抜けた顔が目に浮かんだ。

「そんなに楽しいのかい」
笑いを見咎めた名淵が憮然とした声を出した。
「いいえ、楽しくはないわ。この道に入るのを二十六年間避けていたのよ。楽しいはずがない。悪いことが待ち受けているような気がして、不安になってくるのが正直な心境よ」
笑いを納めて真剣な声で答えた。名淵が、はなじらんだ様子で肩をすくめた。白いマウンテンパーカーを着込んだMにも風の寒さが伝染する。大きくくしゃみをすると、今度は名淵が笑った。他愛ないやり取りが楽しかったが、不安は去らない。緩いカーブを曲がりきった先の直線道路に駐車してある黒塗りの車が見えた。巨大なカラスがうずくまっているような凶々しさを感じる。チハルが愛用するゲレンデヴァーゲンに間違いなかった。ベンツの四輪駆動車に乗る者は市にもいない。昨夜の叱責の声が甦った。あのときチハルは、進太が死の迷路を彷徨っていると言って責めたのだ。死を連想させる黒塗りの車体が見る間に大きくなる。擦れ違う時に車内を見上げたが、誰もいない。言い知れぬ不安だけが肥大する。

「昨夜、隣室から怒鳴りつけたチハルの車よ」
耐えきれずに名淵に告げた。名淵が振り返って黒い車体を見つめた。
「凄い車に乗ってるね。誰も乗っていないようだが、どうしたんだろう」
視線を戻した名淵が、素っ気ない声で言った。
「チハルはクレー射撃が趣味なの。猟期に入ったから、きっと生き物を撃ちに来ているのよ」
答えた声が冷たかった。別にチハルに敵愾心を持っているわけではないが、マニッシュな態度と行動には、つい眉をひそめたくなる。暴力志向が露骨に現れているようで不快だった。そんなチハルに進太を委ねている自分が歯がゆくてならない。たとえ、ショック療法だと割り切ってみても、リアクションを考えると心が痛んだ。Mには暴力が発散する匂いが耐えられないが、それに惹きつけられる人の気持ちも分からないではなかった。恐らくMが追い求めてやまない、闇に溶け込む漆黒の炎と同様、悲しさに打ち勝つ希望を夢見させるのだろうと思う。それを死の迷路と呼ぶなら、彷徨っている進太自身が出口を見付け出すしかなかった。誰だって、いつも別れ道に立っているのだ。

Mは暗い気持ちを抱えたまま、築三百年の屋敷に続く私道に向けてハンドルを切った。崩れかけた長屋門を潜り抜けた途端、目に映った光景は往時とは比べものにならなかった。二十六年間の歳月だけが、荒廃しきった屋敷を代表していた。何の感傷も浮かびはしない。枯れきった庭の中央にあるモクセイと、松の巨木が胸を張り、成長の歴史を主張しているようだ。モクセイの下にMGFを止めた。エンジンを切ると辺りを静寂が包み込んだ。

「凄い、とにかく凄いね。一言で言えば栄華の跡だ。築三百年の屋敷とはよく言ったもんだよ。重層した歴史が風化する直前のきらめきがある」
名淵が興奮した声で言ってドアを開けた。胸にぶら下げたライカM6のファインダーをのぞいて、何回となくシャッターを切る。穏やかに晴れ渡った日射しが、廃墟を情け容赦もなく照らし出していた。
「あれ、こんなものが落ちていたよ」
松の根元に屈み込んで、崩壊した母屋の茅葺き屋根を写していた名淵が立ち上がって声を掛けた。三重になった麻縄の輪を摘んだ左手を掲げる。口元に卑猥な笑いが浮かんでいた。縄は清美の足を縛っていたものだ。

「ねえ、Mさん。せっかくだからモデルになってくださいよ。廃墟に浮かび上がる美しいヌードが撮りたい。短い縄だけど十分縛れますよ」
甘えるようなバリトンで懇願した。運転席に座ったMの眉が曇る。突飛な申し出が、さんざん縛られ責め苛まれた二十六年前の記憶を呼び覚ます。頼みを拒絶しようと思った。車から降り、三メートル先の名淵を睨み付けた。頭上に松の枝が張りだしている。素っ裸で後ろ手に縛られて、吊り下げられたことのある枝だ。軽いめまいが襲い、微かに銃声が聞こえた。チハルが発砲したのだと思った。この瞬間に無抵抗な生き物が殺されたのだと確信した。悲しみが全身に満ちる。銃声に促されたように、マウンテンパーカーを脱いだ。セーターとジーンズを脱いで全裸になる。いつの間にか、名淵が背後に立った気配がした。うなだれて両手を背中に回すと縄の感触がした。暗い意識が後ろ手に縛られたことを告げた。熱く燃え上がってきた股間が、過去を現在に引きずり込む。


清美はしゃがみ込んで沢を見下ろした。シダとササに覆われた細い流れが五メートルほど下った谷間に見える。沢沿いに下っていけば、必ず街道に突き当たるはずだった。だが、沢に降りる斜面は意外に急峻だ。後ろ手に縛られていてはバランスも取れない。清美はしゃがんだまま蟹のように這い降りることに決めた。そっと右足を伸ばして足場を探り、膝を屈伸させて重心を移動する。大きく開いた剥き出しの股間をササの葉がなぶる。背筋がぞっとするが、歯を食いしばって這い進んだ。二メートルほど降りたところで、犬の吠え声を聞いた。反射的に全身が緊張する。その拍子に、大きく踏み出した右足が赤土で滑った。尻餅をついた途端にスニーカーが脱げ落ち、沢筋に転がっていった。仕方ないので左足で足場を確保する。犬の吠え声に追い立てられるようにして這い進み、最終の岩棚までいって立ち上がった。わずか五十センチメートル下に沢水が流れている。気温も低く裸身が寒い。転がっているスニーカーを拾おうとして、岩棚から山沿いの地面に降りた。素足が冷たい地面を踏んだ瞬間、足首が千切れるほどの激痛が襲った。電撃に打たれたように身体が後ろ向きに倒れる。縛られた手に岩が当たると同時に高い音が響き、右足に激痛が走った。全身に痛みが走り回り、意識が遠のく。遠のいていく意識を繋ぎ止めようとして、仰向けになった身体の向きを変えた。再び全身に激痛が襲う。涙が溢れ、鼻水がこぼれた。霞む目で右足を見ると、大きく開いた股間の先で、不気味にねじ曲がっている。足首から吹き出している真っ赤な血が見えた。また意識が遠のいていく。犬の吠え声がすぐ側で響いた。

「ダメッ、クロマル、やめるんだ、ダメッ」
命じた進太の声が震えていた。小さな岩棚の上に上半身を預けて倒れている清美に、なおもクロマルが吼えかかった。きつく両目を閉じた清美のまぶたが痙攣している。裸身全体が激しく震えていた。

「トラバサミを踏んだ拍子に倒れたんだ。大腿骨も折れている」
チハルの冷たい声が落ちた。
「ねえ、キヨミ先生を助けてやってよ。痛そうで見てられない」
青ざめた頬を震わせて進太が叫んだ。チハルは黙ったまま首を横に振った。清美は沢水を飲みに来るイノシシを狙ったトラバサミの罠にかかった。重い金属の歯は、きっと足首を砕いてしまっただろう。突然襲い掛かったショックと激痛で仰向けに倒れた。だが、後ろ手に縛られた清美はバランスが取れない。トラバサミに繋いだ鎖も足首を放しはしない。全体重が右足にかかり、脚をねじ切るようにして大腿骨が折れたのだ。命を助けるには救急車を呼ぶしかなかった。トラバサミを外して運び上げ、再び土蔵に監禁したとしても、処置しようがない。

「進太ちゃん、お願い。救急車を呼んで。お願いだから、私を助けて」
思いがけない大きな声が響いた。チハルと進太が揃って清美を見下ろす。清美は蒼白になった唇を震わせながら進太を見つめている。無惨に開いた股間で陰毛が風に揺れていた。もはや寒さなど感じる余裕もなく、小刻みに裸身を震わせているだけだ。眉間に寄せた二本の筋と、素肌に浮き出た脂汗が痛みの激しさを訴えている。
「キヨミ先生が泣いて頼んでいるよ。ねえ、チハルの携帯電話で救急車を呼んでやろうよ。放っては置けないよ」
進太が哀願した。大きな目から涙が溢れている。もちろん放っては置けない。トラバサミの罠を確かめに、いつ猟師がやってくるか分からないのだ。チハルは射殺することを決意した。肩に吊ったレミントンを下ろし、頬付けにして構える。狙いを付けられた清美の顔が恐怖に歪んだ。

「殺さないで、お願い、殺さないでください。片足がなくなっても恨みません。命だけは助けてください。お願いです」
裸身を震わせて清美が命乞いをした。縄目から飛び出た乳房がわなないている。
「ダメッ、チハル。撃たないで。先生を殺さないで」
進太が絶叫した。チハルが進太の目を見つめた。冷たい声で問い掛ける。
「そんなに少年院に行きたいのか」
問い掛けられた進太が驚愕する。
「えっ、チハルはどうなるの」
答えを保留して問い返してきた。

「私は絞首刑だ」
素っ気なく答えた。進太の顔が泣き笑いのようになる。
「イヤダ、そんなのは嫌だ。先生を殺してください。先生、これは安楽死です」
進太の叫びが谷間にこだました。同時に清美の裸身がのたうち回る。
「ヤメテッ、タスケテッ、あんたたちは人殺しよ。イヤッ、殺さないで」
痛みを忘れて叫び、のたうち回る清美を見下ろして、チハルが銃口を下げた。スーツのポケットから青い実包を取り出し、改めて薬室に入れる。
「肉の砕け散る散弾は使わない。一発で殺してやるよ。美しい肉体への、私なりの情けだ。進太は人を殺す瞬間を目を開いてよく見なさい」
独り言のように呼び掛けてから、チハルが引き金を引いた。かん高い銃声が響き渡り、清美の胸に大きな穴が開いた。多量の血が流れ出し、白い裸身を真っ赤に染める。横にいる進太が口を押さえてしゃがみ込み、全身をひきつらせて嘔吐した。

「さあ、進太。仕事はまだ終わらないよ。死体を車に引き上げて砂防ダムに沈めるんだ」
冷たく言い残してチハルが車に向かった。見上げた進太の目に紫紺のスーツを着た後ろ姿が見えた。勝者を愛でるように、クロマルが尻尾を振り立てて後に続いている。進太の目から改めて涙がこぼれた。殺された清美ではなく、殺したチハルがたまらないほど悲しく見えた。


Mは松の木の下に素っ裸で直立している。後ろ手に縛った縄尻が頭上の松の枝に結びつけられていた。つま先立ちで吊り下げられた苦しい姿勢を、もう三十分近く強いられている。地に足を着けることもできなくはないが、後ろ手をねじ上げられる苦痛に耐えなければならなかった。そんなMの姿を名淵はライカで二十ショットも狙った。今はMGFの運転席に座って、ファインダーからのぞき込んでいる。立ったまま失禁する決定的瞬間を狙っているのだ。Mには愚かしい行為としか思えない。遠く響いた銃声に負けて、裸になった自負心が惨めだった。だが、求められた官能には応えねばならない。それがこの屋敷で二十六年前に学んだことのすべてだった。

「もう、耐えられそうにないわ」
悩ましそうに尻を振って訴えてみた。カメラを構えた名淵が身を乗り出す。うつむいたまま顔を左右に振った。長い髪が乳首を撫でる。股間を小さく開き、心持ち腰を前に出した。ウッと声に出して息むと、陰毛の間から一筋の水脈が飛んで地上に落ちた。放尿を続けながらうなじを上げ、名淵の構えるレンズを見つめた。見られることで、確かに黒い快感が下腹の底で燃えている。だが、新鮮味はない。使い古しのぼろ雑巾のような感じだ。このまま脱糞したい衝動を必死に耐える。変態女が何を我慢しているのかという、チハルの嘲笑が聞こえてくるようだ。もう、何を耐えているのかも、正確には分からない。ひたすら老いが怖いのかも知れなかった。
「凄い、Mさん、凄く美しい。最高のショットを納めさせてもらいました。ありがとう」
名淵の興奮したバリトンが響いた。何を見ても凄いとしか形容できない、いつか聞いた声と同じ調子だった。人はこうして狂気に染まっていくのかも知れない。悲しさが募る。

「さあ、一緒に裏の方を探検してみましょうよ」
ライカを胸に下げて近寄ってきた名淵が、松の枝に吊った縄尻を解きながら提案した。Mは黙ってうなだれている。濡れた股間が不快だった。
「返事をしなくても、縄を使えばついてくるしかないですよ」
答える様子のないMに名淵が妙な宣告をした。縛られた後ろ手から垂れた縄がいきなり股間を潜った。おどけた調子で名淵が前に回り、跨がせた縄の端を持って力いっぱい上に引いた。Mの口から悲鳴が漏れる。ざらつく縄が強烈に股間に食い込んだのだ。名淵が縄を曳いて歩き始める。縄の痛みをこらえ、Mも名淵についていかざるをえない。性を責めるアイデアは無限にあると感嘆するしかなかった。麻縄に擦られた肛門が痛がゆさに泣く。縄を噛んだ陰門がじっとりと濡れてきたのが分かった。新たな官能を高めるために、尻を突き出し、腿を閉じて内股で歩いた。淫らな縄が性を責め続ける。豊かな尻が艶めかしく揺れた。白い双臀に残る無数の鞭痕が赤黒い痣になっている。名淵に責められた昨夜の証だ。

「あれっ、土蔵の扉が開けっ放しだ。廃墟とはいえ不用心が過ぎる」
いかにも検事らしい言葉を残して、名淵が土蔵の前にMを曳き立てていった。土蔵の中で挑みかかる魂胆が透けて見えておかしい。ズボンの股間の部分が膨らんでいる。官能の予感が急激に高まっていく。
「中はずいぶんきれいだよ。当然、がらくたもある」
声に促されてMも土蔵に入った。中央の太い柱がまず目に飛び込む。柱の前に散乱した衣類が異様な雰囲気を伝えた。しゃがみ込んで衣類を点検していた名淵の肩に緊張が走った。すぐに立ち上がって室の隅に置かれた自転車に近寄り、無惨に曲がったリアタイヤを調べる。Mも肩越しにのぞき込んだ。リアフレームに書かれた清美の名前が衝撃を与えた。即座に名淵に事情を告げた。ひとしきり土蔵の中を調べ回してから、名淵が口を開いた。険しい表情をしている。

「状況から見て、進太君の担任の先生が事件に巻き込まれた確率は非情に高い。恐らく、自転車に乗っているところを車に追突されたようだ。加害者は事故を隠蔽しようとして先生を拉致した。下着は見付からないが、この土蔵で裸にして監禁したことは間違いない。自転車の横にあったバケツに、排尿した痕跡がある。麻縄の束とランタンも残っている。僅かだが、床に血痕も見付かった。きっと怪我をした者がいるんだ。先生は犯人の隙を突いて逃亡したと思われる。尿はまだ新しかった。昨日・今日に起こった事件だ。先生の救出は時間との勝負になる」
発見した事実に基づいて名淵が推論を下した。論旨に間違いはないとMも思った。進太の顔が脳裏に浮かび、説教している清美の顔に変わった。路肩に駐車していた黒いゲレンデヴァーゲンと銃声が清美の顔に覆い被さる。死のイメージが目の前に広がる。有り得ないことだが、有り得るかも知れなかった。

「参ったな、銃まで絡んでいるよ。これは散弾の実包だ。十二番口径の鉛玉がひとつ入った強力なやつだ。獣猟にしか使わない」
屈み込んで室の隅を捜していた名淵が、青い散弾のシェルを摘み上げてMに見せた。
「チハルだわ」
「さっき見たゲレンデヴァーゲンか。急ごう、手遅れになる」
思わず口走った言葉に、名淵が過激に反応した。真っ先に外に駆け出す。後ろ手に縛られたMも、よろけながら一心に走った。

「さあ早く、助手席に乗ってくれ。縄を解く暇も、服を着せる時間もない。とにかくゲレンデヴァーゲンを追うんだ」
MがMGFにたどり着くと同時に名淵が叫んだ。座席に追いやるようにしてドアを閉め、運転席に回った。素早くエンジンをかけ、凄いスピードで発進する。後ろ手に縛られた手がシートに押し付けられて痛い。ゲレンデヴァーゲンが駐車してあったところまで来たが、もう影も形もない。路上に降り立った名淵が、荒れ果てた路面の端を丹念に見て回る。Mがドアを開けようとして、後ろ手で苦闘していると、背後から声が飛んだ。
「やっぱりここで事件が起こったんだ。ほら、これは女性の下着だろう」

名淵の手が黒いレースのTバックショーツを広げている。見つめたMの頬が赤く染まった。確かに女性しか穿かない下着だ。
「チハルの家に直行する。どっちの方角に向かえばいいのか教えてくれ」
高ぶった声で名淵が問い掛けてきた。即座にMが答える。
「蔵屋敷の先のドーム館よ。ここから二十分の距離」
「さあ、いくぞ」
勇ましい声を残して、名淵がアクセルを踏んだ。往路とは逆に素っ裸のMには風が寒すぎるくらいだった。


「進太はバイクに乗って帰りなさい」
終始無言のままゲレンデヴァーゲンを運転してきたチハルが、ドーム館の玄関先に車を止めて口を開いた。助手席で硬くなっていた進太の緊張がやっとほぐれる。
「いや、僕もチハルを手伝う」
「足手まといだ」
消え入りそうな進太の声に、チハルがにべもなく答えて地上に降り立つ。車内に取り残された進太の喉元を、また強烈な吐き気が襲った。思わず口元を両手で覆うと、血まみれの死体がまぶたの裏に浮かび上がった。右足が不自然にねじ曲がった無惨な死体だ。足首にはトラバサミの罠が食い込んでいる。罠に繋がれた太い鉄の鎖が獲物を非情に拘束している。素っ裸で後ろ手に緊縛され、大きく股間を開いた死体をチハルが青いビニールシートで覆う。やっとの事で罠を外した足首を、今度はウインチのワイヤーで縛る。再び沢を上がっていったチハルが携帯ウインチを操作すると、しゃがみ込んだ進太の目の前で清美の死体が向きを変え、逆さまになって斜面を上がっていった。見つめる進太は、全身を震わしてしゃくり上げ、何度となく嘔吐した。吐くものが無くなり、苦い胃液だけになっても、吐き続けた。とうに涙は涸れ果てていたが、目は熱くキリキリと痛んだ。死ぬほどの不甲斐なさを恥じたが、どうしても腰が上がらない。真っ白になった視界を後悔が真っ黒に塗り込めていく。昨日の朝に時間を戻したいと、痛切に願った。


「僕はどうしたらいい」
チハルの後ろ姿に縋り付くように問い掛けた。ついさっきの生々しい光景が消え失せ、玄関ドアのノブを握ったチハルが振り返った。紫紺のスーツが泥と血で汚れている。
「帰れと言ったはずだ」
短い答えが返ってきた。進太が泣きべそをかく。
「チハルはどうするのさ」
再び進太が問い返した。チハルが睨み返す。
「死体に重りを付けてから、砂防ダムに沈める」
事務的に答えてドアを開けた。背後で進太が車を降りる気配がした。チハルは真っ直ぐ玄関ホールに入っていった。問い掛けてきた進太の真意は痛いほどよく分かる。今後の生き方について尋ねたのだ。寄る辺無い不安な気持ちを、チハルと分け合っていたい気持ちも分かる。だから、死体遺棄を一緒に手伝いたいと言ったのだ。しかし進太はもう、チハルと同様、たった一人で判断し、決断していくべきだった。それなりの修羅場は潜り抜けたはずだ。さらなる修羅に向かうのか、修羅を希望に変えるのかは、進太が選ぶ問題だった。そしてチハルには、着実に修羅の道を進んでいる自分の後ろ姿が目に見えるようだ。突然、バイクのエンジン音が轟き、すぐ遠ざかっていった。進太が自分の道を歩み始めたらしかった。チハルは静かな足取りで二階に続く階段を上った。

重りになる石が沢山入るメッシュのトートバッグを持って戻ってきたときには、もう進太の姿はなかった。微かな寂しさがチハルの背筋を這う。胸を張って空を見上げた。正午の太陽が視力を奪う。目尻に涙が滲み、鼻孔がツンッと痛んだ。助手席にバッグを置いて、無造作にゲレンデヴァーゲンを発進させた。荷物室の死体が揺れ、小さく音を立てた。フロントガラスの隅に、坂を上り詰めてきた緑色のオープンカーが飛び込んできた。目の前でタイヤを鳴らし、急停車する。山土が赤い埃になって舞い上がった。ハンドルを握ったダークスーツの男に見覚えはなかったが、Mの裸身が助手席に見えた。チハルの口に苦笑が浮かぶ。昨夜サロン・ペインで痴態を晒していた二人が、そのまま殴り込んできた風情だった。スーツ姿の男が意外に敏捷な身ごなしで運転席から降り立つ。首から提げたカメラがユーモラスだ。

「特捜検事の名淵です。司法警察権に基づいて車を捜索します。荷物室を開けて中を見せてください」
よく響く低い声がチハルの耳を打った。理由は分からなかったが、捜査の手が伸びてきたことは事実だった。背後の荷物室には清美の死体がある。素っ裸で射殺された無惨な死体だ。どう足掻いても言い逃れはできない。顔が蒼白になっていくのが分かった。ハンドルを握った手に力が入る。何とか平静を保とうと、MGFの助手席にいるMを見つめた。中腰になった裸身がドアのノブを後ろ手で探っている。背中で縛られた両手が見えた。滑稽な姿だった。チハルの胸に余裕が生まれた。

「素っ裸の変態女を連れた検事さんが、何の容疑で捜索するのかしら。土・日曜日の連休を変態ごっこで楽しんだほうがお似合いだわ」
ドアを半開きにして問い掛けながら、左手を伸ばしてレミントンM1100を引き寄せた。
「清美さんへの当て逃げと、拉致監禁の容疑です。車を降りて、荷物室を開けなさい」
名淵があごを引き締め、毅然とした声で告げた。
「そんなに日曜日が迎えたくないのなら、ずっと土曜日のままにしてあげるよ。ただし、変態女と名残を惜しむ時間はない」
楽しそうに答えたチハルが、ゲレンデヴァーゲンから飛び降りる。左手に握ったレミントンの銃口を名淵に向け、頬付けして構えた。
「ヤメテッ、やめなさい。キヨミ先生を解放すれば、罪もまだ軽いわ」
Mの怒り声が響き渡った。シートの上に立ち上がってチハルを睨みすえる。後ろ手に縛られた腕を無念そうに振ると、豊かな乳房が震えた。銃を構えたチハルが僅かに顔を横に向けてMを睨む。
「出しゃばり女が、もっともらしいことを言うんじゃない。清美は素っ裸で後ろ手に縛られて荷物室に転がっている。もっとも、射殺したから、Mのような無駄口を叩く心配はない」
チハルの一言がMと名淵の身体を凍り付かせた。風が立ち、Mの裸身を冷たさがなぶる。
「とにかく、銃を捨てて投降しなさい。例え今言ったことが事実でも、私を殺して罪を重ねる必要はない。法にも情けはある」

名淵が掠れた声で叫び、首に下げたライカを構えた。透き通るレンズが巨大な目のようにチハルを見つめる。チハルは慎重に照準をのぞいた。銃口を下げ腹部を狙う。二人の距離は三メートルと離れていない。
「私に情けは要らない。これまでに四人も射殺したんだ。人を殺すのは本当に疲れる。だから、もう少しで完璧に疲れ切ることができる。罪を重ねる必要はあるんだ」
ファインダーに映るチハルが、うんざりした声で言った。名淵は白く浮き上がったブライトフレームの中心にあるチハルの像を一心にのぞき込む。少し下がった銃口の先に端正な顔があり、紫紺のスーツを着た均整の取れた身体がある。その後ろに枯れきった山塊が見えた。一切が静まり返り、鮮明な像を結んでいる。名淵は冷静にシャッターを切った。続いてチハルの指先が微かに動き、銃口から真っ赤な炎がほとばしった。

「ウワッー」
絶叫を上げて走り寄ったMの前に、腹を押さえた名淵が倒れかかる。脚に温かい血しぶきが飛んだ。構わず全身を躍らせてチハルにぶつかっていく。体当たりされる寸前でチハルが身をかわし、脚を飛ばしてMの足を払った。もんどり打って裸身が倒れる。
「憎らしい女だ。だが、お前までは殺しはしない。私は疲れた。変態らしく寝ているがいい」
無様に倒れたMの縄尻を掴んで、チハルがつぶやき続ける。荒々しい手つきで倒れた身体をうつ伏せにして、後ろ手の縄尻を足首に縛り付けた。逆海老の姿勢で縛られた裸身が屈辱に震える。無理をして頭をもたげ、チハルを見上げた。背後に倒れ伏した名淵が絶え間なくうめき声を上げている。

「Mに看取られて死ぬのは悔しいが、こうして責め上げてやれば諦めもつく。さあもっと、淫らな尻を振って悶えて見せてよ」
チハルの静かな声が頭上から落ちた。見上げる顔の前に汚れきったジャングルブーツが飛んできた。チハルが銃を持ってMの前に座った。銃口を口に含み、足を投げ出して引き金に足指をかけた。
「チハル、やめなさい。死んではダメッ」
声を振り絞ってMが叫んだ。チハルがMの顔を見下ろす。逆海老に縛られた裸身が全身を身悶えさせて叫んでいる。生のエネルギーが目にまぶしい。まるで官能の極みで打ち震えているように見える。Mの陰門はきっと、愛液で濡れそぼっているに違いないと思った。ひそかな羨ましさが込み上げ、チハルの口元に微笑が浮かんだ。足指に力を入れて引き金を引いた。


ズガーン


銃声が響き渡り、チハルの頭が砕け飛んだ。紫紺のスーツに身を包んだ首の無い身体が目の前に倒れている。Mの裸身が戦慄し、激しく嘔吐した。大きくしゃくり上げた瞬間に、逆海老に縛られた後ろ手の縄が抜けた。痺れきった両手を伸ばし、倒れたチハルの足をさすった。素肌の温かさが指先に伝わる。不思議に涙は湧いてこない。がらんどうになった身体を悲しみが満たした。

「Mさん、早く救急車を呼んでください。苦しくて、もう死にそうだよ。早く、早く救急車を呼んでくれ」
背後で哀れな声が聞こえた。思えば声は、ずっとMに呼び掛けていたような気がする。空しい煩わしさが押し寄せてきたが、気力を振り絞って足首の縄を解き、よろよろと立ち上がった。無気力に振り返ると、乾ききった地面を大量の血で黒く染め上げた中心に名淵が横たわっている。裂けた腹からはみ出た内蔵を手で押さえて、泣き声で訴え続けている。
「救急車を呼んでください。さあ、早く。明日は日曜日だ、Mさんも病院に付き添ってください。お願いします。まだ死にたくない」
確実に死が迫った名淵が必死に訴える。官能のかけらも感じられない貧相な声だ。情けなかった。情けなさに身を震わした瞬間、坂の下からバイクのエンジン音が響いてきた。Mはチハルの首のない死体に近寄り、握っていたレミントンM1100を奪った。名淵の前に戻って、苦痛に歪んだ顔を見下ろす。薄目を開いた名淵が縋るようにMを見上げた。
「検事さん、チハルと同じように、あなたにも日曜日は要らない。私が楽にして上げるわ」

落ち着いた声を聞いた名淵の目に恐怖が浮かんだ。Mは大きく目を見開いて真っ赤に膨れ上がった恐怖を見た。無造作に引き金を引く。手に持った重い銃が跳ね上がり、銃声が轟く。名淵の頭が砕け散って、首のない死体が残った。進太のバイクが目の前でUターンしていく。

「バカヤロー」
低い叫び声がエンジンの音に混じって遠ざかっていった。一切を見届けた進太がどのような感情を抱いたか、Mには分からない。だが、もうチハルに頼ることはできないのだ。たまさかの父権は潰えた。後は進太が自分の足で立ち上がるしかない。いくら儚くとも、希望はちっぽけな個人の身体の中にしかないのだ。

また風が立って、冷たい空気が裸身をなぶった。気圧配置が換わり、木枯らしが吹き荒ぶような予感がした。


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