9.河童神社

十二月の下旬に雪が積もった。昼前から粉雪が舞い続け、午後からは風を伴って激しく降った。雪は深々と積もり、夜になってやんだ。夜半には月が上がり、白々とした光が山地全体に満ちた。底冷えのする外気が室内にも忍び寄って来る。歯科医は母屋の二階からまばたきもせずに、異数の世界を見下ろしていた。この冬初めての雪景色だ。蔵屋敷の屋根の様子では、二十センチメートルほども積もっている。リビングの高窓に明かりが灯っていた。午前三時が近いというのに、Mと進太はまだ話し合っているようだ。あの凶々しい事件の後、進太は登校するようになっていた。そして、Mと二人で話し合う夜が続いている。傍目には家族の団欒が戻ってきたようにも見えるが、歯科医の気は重かった。Mと進太の間には、まるで真剣勝負をしているような緊張感が漂っている。ことにMは、名淵検事を安楽死させたという主張が通らなかったときから、悲壮感さえ漂わせて進太と対峙していた。

女教師と検事の殺人事件は、被疑者死亡のまま書類送検されて事件後三週間で完結した。自殺したチハルが一切の責任を背負って地獄に堕ちたのだ。だが、幾つかの疑問が残った。清美が追突され、拉致された晩のチハルのアリバイは完璧だった。祐子とチーフ、それに声を聞いたMの三人の証人がいる。チハルが清美の自転車に追突できなければ、拉致監禁の動機も、殺害する理由もない。ゲレンデヴァーゲンの荷物室にあった素っ裸で緊縛された射殺死体だけが事実として残った。また、肝心の凶器も発見されなかった。Mが名淵を安楽死させたと言って、警察に自首した後の現場から、レミントンM1100は忽然と無くなっていた。結局、名淵が死の寸前まで、愛用のライカM6で撮影した写真が、すべてを物語る証拠となった。そこには、築三百年の屋敷の廃墟で後ろ手に縛られたMの裸身があり、精悍な表情で銃を構えたチハルの最期の姿もあった。警察は検事とMの愚行に目をつむって捜査を終了させた。例え猟奇の匂いがする疑問が残っても、損失を負う者はいない。何よりも、名淵検事の名誉が優先された。殉職者を鞭打つことは許されなかった。その間、進太は貝のように口を閉じて沈黙を守った。築三百年の屋敷がある沢に無数に残されたモトクロス・バイクの轍の跡は、捜査員全員の目に入っていた。しかし、事件を単純に解決する必要のあった彼らは、中学校二年生への尋問を回避した。誰もが猟奇の匂いを忌避したのだ。

歯科医の目にも、進太は事件の重大な鍵を握っている様子に見えた。落ち着きの無くなった、荒んだ態度を危ぶみもした。だが、Mが接触を続けるうちに、進太の様子も変わってきた。いまは、毎晩のように二人で蔵屋敷のリビングにこもって話し合いを続けている。Mは初めて、自分の体験してきたことを進太に話し始めたらしかった。自らの身体で突き当たり、理解してきた事実を、語り部のように進太に伝えている。時としてそれは、今夜のように夜明け近くにまで及んだ。歯科医は微笑みを浮かべて蔵屋敷の高窓を見下ろした。幾ばくの淋しさを感じたが、何よりも雪景色がうれしかった。今夜はもう眠れそうにない。そっと窓辺を離れて納戸に向かった。

畳三畳の納戸の一番奥で、歯科医は棚に置いてある黒い行李を床に下ろした。無造作に蓋を開くと、寒々とした蛍光灯の明かりの中に埃が舞った。行李の中には古い登山道具が収納してある。見つめる歯科医の目が輝き出す。寒さに震える手でピッケルを握った。硬い樫材の感触が手に優しい。無骨な登山靴とアイゼンも取り出す。さすがにアイゼンの歯は赤錆びていた。どれもが懐かしい、医学生のころの大切な品だ。この装備を身に着けて何度も谷川岳に挑んだものだ。いずれは息子のピアニストと一緒に山に登りたいと思い、大切に行李に仕舞ったことを覚えている。だが、ピアニストは山に関心を示さなかった。息子と一緒に山に登る道もあったと思うと、目頭が熱くなる。だが、失ってしまった時間も、死んだピアニストも帰っては来ない。歯科医は黙々と登山の支度をして夜明けを待った。全身に悲しさが満ちる。


真っ青に晴れ渡った空に朝日が輝いていた。一面の雪景色が思う存分陽光を反射している。黒いゴーグルで目を守った歯科医は、固く凍り付いた木橋の上に、アイゼンを付けた登山靴を踏み出す。雪に食い込む歯の音が心地よい。標高八十メートルほどの浅間山でも、今朝は立派な雪山だった。歯科医は慎重にピッケルを突き立て、雪に覆われた山道を登っていった。
山頂から見下ろす雪晴れの山地は光の洪水だった。真っ白な雪原が峻険な山峡を美しく覆い隠している。この瞬間、雪は時間さえ掻き消したかに見える。累々と堆積した汚れきった歴史を、白一色の原初の色が塗りつぶしてくれているのだ。北側の蔵屋敷も、西のドーム館も、東の学校も、一面の銀世界で見分けることができない。恐らく、見渡すことのできない築三百年の屋敷の沢も、清浄な白が覆っているに違いない。

「ウッ」
思わず歯科医の口に声が溢れた。声は言葉にならず、ただの音として雪原に落ちた。堪らない懐かしさと優しさが腹の底から込み上げ、音となってこぼれ落ちたようだ。
「思い残すことはない」
今度は音が意味を持った。言葉を口にした瞬間、さも憎々しいことを口走ってしまったような悔恨が脳裏を掠めた。もう、言葉も思念も要らなかった。歯科医は口を真一文字につぐんで、河童神社の小さな祠の前に進んだ。背負ってきたリュックを下ろしてしゃがみ込む。リュックの中から二体の河童人形を取り出し、雪の上に並べた。これまで奉納したクレードールと違い、立派に焼き上げた大振りの磁器人形だった。相変わらず河童が寝そべった姿だが、ユーモラスな姿態が雪の中に映える。妖怪の河童に雌雄があるかどうか知れないが、二体の人形はちょうど素裸の男女に見えた。歯科医は思わず目を見張り、二体の河童人形を見た。笑い掛けられたような気がしたのだ。にこやかに微笑み掛ける河童の顔がMとピアニストの表情に見えた。続いて歯科医と妻の表情に変わる。じっと見つめると、進太の顔が浮かび上がった。せっかくのときめいた気分が暗くなってしまう。首を左右に振ってから、目を覆った黒いゴーグルを外した。途端に両眼を光の洪水が襲った。希望に満ちた黄金色の輝きだった。いつしか進太はMの真意を知り、自らが生きる道のしるべにできるかもしれない。そのちっぽけな真実が芽を吹き、育っていくことが残された希望だと思った。だが、失われた希望に比べると、それは遥かな将来に向けて夢を繋ぐことだ。決して見届けることはできない。長く生きすぎてしまった気がした。急に悲しさが込み上げてきたが、涙を押し止める。祠の扉に手を伸ばして大きく開け広げた。白い光が黒光りのするレミントンM1100を浮き上がらせた。背筋が寒くなったが、凶々しい凶器を両手で握った。あの日、ここから事件の一部始終を見てから山を下り、Mが犯した罪の証拠を持ち去ってきて本当に良かったと思う。そのお陰で、次の世代に夢を繋ぐことができたのだ。冷たい銃身が愛おしくてならない。ドーム館の前に転がっていた、二つの首のない死体が脳裏に甦った。もうじき清浄な雪の上にもう一つの首無し死体が横たわるのだ。そして、ちっぽけな希望だけが確実に残る。雪原は明日には溶け去る。だが、残された希望は地中に染み込み、ゆっくりとこの山地に染み込んでいくはずだった。

歯科医はにこやかに笑って立ち上がった。大きく胸を張って、白一色の山地をまぶしそうに見渡した。


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